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2008.10.31

「我思う故に我有り」は微妙に誤訳なんじゃないか

 このエントリを書こうか書くまいかためらっているうるに、なんとなく書かなくなりそうな感じがして、それはそれでいいかなと思うものの、まあ少し気楽に書いてみるかな。おそくらほとんどの人にとってそれほど関心のないことだろうし、そういう話題を扱うのがこのブログだしな、と。さて、結論からいうと、「我思う故に我有り」は誤訳だとは断言しづらい。また、「思う」じゃなくて「考える」だとかそいうレベルの話でもない。
 このことが気掛かりになっていたのは、先日の「極東ブログ: ウォーレン・バフェットのありがたいご託宣」(参照)で取り上げたコラムの標題"Buy American. I Am."をどう訳すかということだった。コメント欄でいろいろご示唆をいただいたけど、正直なところあまりピンと来なかった。来ない理由は、なんとなくこの英語の意味を、ちょっと変な言い方だけど、自分の英語処理脳でなんとなくわかっている部分があり、そこがどうももどかしかった。とりあえず該当エントリでは、あえてぎこちなく「アメリカ製を買え。私あり」とした。理由は、これ、「我思う故に我有り」、英語だと、"I think, therefore I am"と構文ないし語用的な関係があるのではないかと思っていたからだ。あと、もう一つ気になることがあった。それはあとで触れる予定。
 この疑問がアレと解けたように思えたのは、先日、ブログのネタにこれはいいかなとチャールズ・クラウトハマーのコラム”McCain for President”(参照)を読んで物思いにふけっていたときのことだ。クラウトハマーのコラムのネタ性は標題を見ればわかるように、「おいらはマケイン支持」ということで、この期に及んで何をフカすのかだが、まあ、内容を読むとわかるがたいしたことはない。クラウトハマーですらオバマを決定的に下すことはできないのかと落胆したのだが、その冒頭がこうだ。


Contrarian that I am, I'm voting for John McCain.

 しいて訳すと、「天の邪鬼、それが私だ、私はマケインに1票を投じる」ということか。「逆張り男、それはオイラさ」という感じだろうか。どうでもいいけど、私はこのユダヤ人爺さんが嫌いではないが。
 で、この"Contrarian that I am"という構文なのだが、ようするに、「なんとかなのが、それが私だ」というのに使う。
 そう、バフェットのあれ、"Buy American. I Am."もこれの一種なんじゃないかなと思った。"I buy American, that I Am."というか、「アメリカ製を買う、それが私だ」、と。
 厳密に文法的に見ると、クラウトハマーの言い方はOKだが、バフェットはくだけていてるかな。それで、この英文なのだが、こういう仕組みがあるはず。クラウトハマーだと。

   Contrarian that I am
       ↑
   I am that
       ↑
      that is Contrarian

 バフェットでは。

   Buy American. I Am.
       ↑
   I buy American, that I Am.
       ↑
   I am that
       ↑
      that is that I buy American

 厳密には文法議論というわけではないけど、欧米語のCopulaというのは、" A verb, such as a form of be or seem, that identifies the predicate of a sentence with the subject. Also called linking verb."つまり、the subjectに対してpredicateということになっている。
 ちょっと飛躍になるのだけど、欧米哲学の存在論、たとえばハイデガーの「存在と時間」の冒頭にソクラテスの「オン」の議論が出てくるが、あれは、オン=存在というより、Copulaとして、存在=the subjectが、predicateとして開示されるということ、つまり、存在論とは、本質がどのように開示されるかという議論、ではないのか。まあ、私はそう考えているのだけど。
 ついでに言うと、デリダの差延というのも、存在論が問われるとき、the subjectに対してpredicateが開示されるのだが、その問われ方と開示が、ズレたものとして問われるから、だからそこに差延がある、ということなんだろうと自分は理解している。だからデリダが西洋の存在論の総体への根源的な批判者ということなのではないか。まあ、違っているかもしれないが。
 で、ようやく標題の「我思う故に我有り」の話題だが。これは、"cogito, ergo sum"つまり、「コギト・エルゴ・スム」とラテン語命題にされるのだが、これってデカルト自身はラテン語で言ってなくて、ヴァルガーに"Je pense, donc je suis."としか言っていない。ほいで、これの英訳が"I think, therefore I am."なのだが、この直訳は英語的には、"I am thinking therefore I am." のように思えるし、フランス語の語感でもそうではないのか。そこはよくわからないが、この命題では、thereforeが使われていて、先のクラウトハマーやバフェットの言い方とは違う。
 が、意味としては同じなのではないか。つまり。

   I am thinking therefore I am.
       ↑
   therefore I am that
       ↑
      that is that I am thinking

 あるいはもっと単純に。

   cogito, ergo sum
          ↑
         sum 'cogito'

 そう考えると、「私は思念している、だからそれが私だ」なのではないか。

cover
方法序説
谷川多佳子訳
 もうちょっとこなれた言い方をすると、「私とは、思考している状態・機能なのだ」であり、「私という存在の本質は、考えていることだ」、ということではないか。
 くどいけど、"cogito, ergo sum"は「我思う故に我有り」というように私の存在を問うているというより、「我思う故に我は思念活動で有る」というように、「私(我)」の本質を命題としているのではないか。
 つまり、デカルトは、「私は存在するのか?」ではなくて、「私とは如何なる存在か?」を考えていたのではないか。
 このスジで原典に当たって読むと、正直に言うと微妙。ああ、私のこの解釈が正解だとはすっきりとはいかない。ただ、このスジで読むとわかりやすい部分は多い。谷川多佳子訳「方法序説」(参照)では、あらゆることを懐疑してもという文脈で。

すなわち、このようにすべてを偽と考えようとする間も、そう考えているこのわたしは必然的に何ものかでなければならない、と。

 つまり、デカルトは、「私」は「何ものか」という、the subject-predicateで、「私」という存在を問うている。
 そして。

そして「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する〔ワレ惟ウ、故ニワレ在リ〕」というこの真理は、……

 と訳されるのだが、ここは私の理解で次のように前後で続けるとわかりやすいはずだ。

すなわち、このようにすべてを義と考えようとする間も、そう考えているこのわたしは必然的に何ものかでなければならない、と。そして、「私は思念している、ゆえにそれが私だ」というこの真理は、……

 谷川の訳はチョムスキーのヘンテコなデカルト解釈まできちんと参照している労作なのだが、このあたりの訳文を読んでいると、どうもすっきりとは理解していないというか、Copulaをそのまま「存在」として訳しているか、「存在」をthe subject-predicateの構図ではうまく訳出してないような印象を受ける。
 しかしそれでも、デカルトはこう敷衍する。

わたしは一つの実体であり、その本質ないし本性は考えるということだけにあって……

 ここでいう実体は、the subjectであり、その存在は、「本性は考えるということだけ」というpredicateの構図に納まっている。
 同部分について三宅徳嘉・小池健男訳「方法叙説」(参照)も基本的に谷川訳と同じだが、参考までに。

何でもにせものだと私がそんなふうに考えたがっているあいだにも、どうしても、私、つまりそう考えているものは、何かでなければならない、ということです。

 やはり、「私」とは何かというthe subject-predicateで「私」という存在を問うている。
 しかし、急所の訳には谷川訳同様うまく反映されていない。

そして気がついてみると、この「私は考えている、だから私は有る」という真理はいかにもしっかりしていて……

 ここも、「私は考えている、だから私とはその考えているということだ」とするほうが文脈が通じる。
 また。

私は一つの実体であり、その本質または本性はただ考えることだけであり……

 ここも谷川訳と変わらない。ようするに、私の読みスジを裏付けている。
cover
方法叙説
三宅徳嘉・小池健男訳
 あまり大それたことは言いたくないが、どうも、「我思う故に我有り」というのは微妙に誤訳であり、ゆえに、どうもデカルトの方法序説の命題、さらにはその存在論はうまく日本人に理解されてこなかったのではないだろうか。
 しかも、この「私という存在の本質は、考えていることだ」という私の理解だと、デカルトがこの命題以降にその思念を、「私」から分離し、いわば思念のエンジンそれ自体を抜き出し、最後にそれを実質的に神に流し込むような理路もすっきする。
 以前「極東ブログ: [書評]反哲学入門 (木田元)」(参照)で触れたが、コモンセンス=良識=理性と呼ばれているのは、実はこの思念のエンジンを指している。
 つまり、デカルトが方法序説で見つけたことは、「私」というのは「思考状態」を本質とする実体であり、その「思考状態」を支える「思考エンジン」がコモンセンス=良識=理性であり、それは神に由来する、ということではないのか。
 ここで先に後で触れるとした部分に移るのだが、西洋において「神」は"I am that I am"(参照)と理解されることがある。元来は旧約聖書・出エジプト記3:14「わたしは、有って有る者」(口語訳)を、過剰に哲学的に理解していったものだが、この"I am that I am"は、一見循環的に見える。

   I am that I am
       ↑
   I am that
       ↑
      that is that I am

 the subject-predicateの構図でも循環のように見える。しかし、話は逆で、諸存在が、存在論的問われるということは、その存在の本性をthe subject-predicateの構図で開示することだから、それは、差延というより、依存の関係を持つため、諸存在のほうが常に、その本質定義において循環を形成してしまう。
 とすれば、その循環の最終的な停止位置、エンドポイントは論理的に"I am that I am"とならざるをえない。"It is that it is"でもよさそうだが、神の人格性でそうなるのだろう。だが、この構図で西洋哲学史、存在論および神学を見ていくと、結局のところ、神というのは、それ自体を本性の開示として存在する存在の基底として捉えられていたことがわかるし、デカルトも結局その同じ構図のなかにいる(たぶん、ライプニッツのモナドも似た構図なのではないか)。ただ、デカルトの「功績」はそこから思考エンジン=コモンセンス=良識=理性を取り出したことにあるだろう。
 ちょっと説明が飛躍するのだけど、デカルトによる思考エンジン=コモンセンス=良識=理性は、「私」の本性開示を支えるものとして定義されているがゆえに、「私」と「思念」が分離されている。「私」から離れた思念というものが抽出されたとき、それが近代科学の基礎になったのではないだろうか。
 通説の哲学史では、あるいはフッサール的な理解というか、デリダもその部類ではないかと思うが、デカルトによる二元論が近代科学を導いたように描かれているが、これはそうではなく、「私」と「思念」が分離から「思念」の非人格性へ、そしてそれが「真理」に連結されるという構図ではないだろうか。
 だとすれば、この構図のすべてのなかに、最終的なエンドポイントとしての「神」が存在するのであり、近代科学が神学と酷似するのは必然的なのかもしれない。むしろ、「考えること」が人格性のなかにあるとし、それをPersonal Knowingに捉え直したマイケル・ポランニのほうが、西洋哲学・科学の根底を転倒させた哲学者なのではないか。


追記
 もうちょっと補足したほうがいいかな。早速にいくつかコメントをいただき、みなさんご自由にお考えになればいいのではないかと思うのだけど、ちょっと気になったのは、自分の解釈もそう見られてしかたがない面はあるのだけど、「我思う故に我有り」を単独にお考えになる人は多いかな。「方法序説」(参照)くらいは聖書と同じく書架に置いといていいくらいの古典なので、まず文脈に当たってみて、たとえば私の珍解がどう文脈に対応しているのか参照されたらいいのではないかなとはちょっと思った。同書は重訳などがネットのリソースにあるけどざっと見た感じだが、方法序説はそう高価な書籍でもないので、どうせ読むならある程度評価の定まった定訳を求められたほうがよいだろう。
 「自分の解釈もそう見られてしかたがない面」というのは、いかにも文法的に解釈したかのようだけど、"Je pense, donc je suis."を文法的に解釈したというのではなく、欧米語に特有のCopulaというものを考察したかったということだったので、なのでわざわざ、Copulaに潜む「the subjectに対してpredicate」が欧米特有の存在論思考との関係にありそうだと展開した。というか、そこがわからないとたぶんハイデガーもデリダも読めないし、ちょっと言い過ぎかなと思うけど、デカルトがきちんと読めないとハイデガーやデリダとかある意味で、逆説的であれ、その派生の思索を読んでも仕方ないのではないか、とも思う。
 話をもとに戻して、「我思う故に我有り」だが、通解のように「私は考えている、だから私は存在する」というふうにして、誤訳だとは言い難い。たぶん、現代英米人でもそう考えるし、英語のウィキペディアを見るとそれは織り込まれている(参照)。


The simple meaning of the phrase is that if someone is wondering whether or not he exists, that is in and of itself proof that he does exist (because, at the very least, there is an "I" who is doing the thinking).[2]
(この句の単純な意味はこうだ。もし誰かが自分が存在するのかしないのかと思い惑うなら、その思いの中は思いの属性が、その人が存在しているという証明になる。なぜなら、少なくとも、「私」とはその思索行為の主語だからだ。)

 英米圏でもよって通解にして悪いわけでもない。ただ、ここで「なぜなら」以下はちょっと「主語」を補って意訳したが、このあたりも英米語のCopula特有の思考はありそうだ。
 もう少し通解に近づけて"Je pense, donc je suis."を訳せば、欧米語のCopulaを考慮して、「我思う、故に我は、(思念活動として)有り」であり、「として」という本質が問われている、と私は見ている。
 そして、方法序説は、「として」として現れる「思念」が理性というエンジンに基づくということで、有ると言明されたかのような「私」より、一種の純粋理性に起点が置かれ、そこから方法が始まっている。

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コメント

 色々学問上の考察もあって、そういう部分を含めて考えないと面白みが出ないものかと思うんだけど(そしてまた、面白いんだけど)、三流の脳みそを所有する私には却って面倒くさくて分かりにくかったりする罠ですね。

 直感・直視で0,1秒以内に「飲み込みにくい」と判断したものは、大概飲み込めないですよ蒟蒻畑。そこを無理して飲み込もうとしたり皆飲めてんだからお前も飲めと言い張ったり勝手に面白い飲み方開発したりすると、喉に詰まらせて死んじゃう人が出るんですよ蒟蒻畑。人の耳目に入ってナンボのもの・飲まれてナンボのものって認識を、言葉自体は持たないですよ蒟蒻畑。その言葉が生まれ育った地勢環境時代背景と消費する地勢環境時代背景は違うんだから蒟蒻畑。本分を知りつつ弁えつつ今の時代に応じ即して消費する、それが、生きる者の心得だと思うな蒟蒻畑。嗚呼勿体無い蒟蒻畑。

投稿: 野ぐそ | 2008.10.31 17:02

そういうのはあるのかな、と。デカルトは死を怖れていて、それゆえに自分の存在について考察していた、その結論が「私とは思念そのもの」=「死んでも死なない」となるのは当然である、そんな風に講義で聴いた記憶があります。

投稿: カラ | 2008.10.31 17:57

正確に言えば、
I think, therefore I have thought.
われ思う、ゆえに思考あり。
で良いと思います。
主体と客体をきちんと区別するならこうなります。
I am thinking therefore I have thought.
でもいいですけど。
私が考えているが故にそこに自己の思考があるのです。

長尾龍一先生が確かそうおっしゃっていました。
何かの参考になれば幸いです。

投稿: tanutanu | 2008.10.31 19:55

この I am は単に現在進行形の略なのではないんですかね。"Buy American stocks. I'm buying them."

投稿: あめよし | 2008.10.31 20:36

どうでしょうね?フランス語の語感としてはそうならないと思うのですが。接続詞 donc の機能は結論を導くもので、A donc B となって "B だから A" というのはありえない、のじゃないかなあ。
cogito にしろ je pense にしろ、"am thinking" ではないかというのはそれほど外した読みではないと思います。区別する理由も感じないのですが。「ている/である」の区別があまり重要でない言語というものがあって、フランス語もラテン語もそういう言語だと理解しています。cogito ergo sum に戻れば、私は思惟している、だから(思惟している)私がいる。のちにラッセルあたりはそこにあるのは思惟しているという感覚与件だけで、そこから存在を結論するのは飛躍だと批判しますが、finalvent さんの読みはその線にむしろ近づくのかなと思いました。

投稿: Britty | 2008.10.31 21:16

> これってデカルト自身はラテン語で言ってなくて、ヴァルガーに"Je pense, donc je suis."としか言っていない。

この書き方は不正確かなと思います。
著名な『哲学の原理(Principia philosophiae)』、第1部、第10節には、

"ego cogito, ergo sum"(私は考える、ゆえに私はある)

という文章(命題)が登場します。

デカルトの関心が、私という「存在」なのか、私の「本質」なのかについては様々な解釈があり得るとは思います。
テクストを素直に解釈すれば、『省察』では本質に力点が置かれ、『哲学の原理』では存在に力点が置かれているように思われます。

投稿: ニコ厨 | 2008.10.31 23:23

誤訳というよりも、『聖霊』とか『神の息』のようなものに文化的に慣れている人々にはスッと受け入れられて、そういう素養の無い人には理解し難い内容なのではないかと。私も素養の無い人なので推測で書いていますが。

投稿: bywordeth | 2008.11.01 01:40

「我思考するところに我あり」

物心ついてデカルトにふれたときから25年間
そうよんできました。

投稿: 沓掛 | 2008.11.01 03:10

ハイデガーも「存在と時間」で「オン」の話をしているというのは浅学ゆえ存じませんでしたが、シェリングが「哲学的経験論の叙述」で、この「オン」と「メー・オン」にずいぶんこだわっていたのを覚えています。ただ、私には、シャリングの考えていることがほとんどわかりませんでしたが。

デカルトの「コギト・エルゴ・スム」なんていうのも、フランス語の歴史文法学の知識を持つ人が読んだら、どう読解できるのか多少関心があります。

ラテン語からのイタリア語の成立については、歴史文法学的な研究方法論が力を発揮したという話を聞いたことがあります。でも、イタリア語なんていうのは、もちろん標準語が普及しているけれど、たくさんの方言のある言語のはずで、こういう言語の歴史的研究っていうのは、諸学説が入り乱れるはずのではないのかともおもうのですが。もちろん、内容は何も知らない門外漢の感想です。

投稿: オンとメー・オン | 2008.11.01 08:10

考えること=存在すること。
その歴史文化的な背景にある、西欧文化のテキスト至上主義。

投稿: PK | 2008.11.01 08:28

>『哲学の原理(Principia philosophiae)』、第1部、第10節には、

些細な訂正ですけど、正確には第1部第7節ですね。

repugnat enim, ut putemus id quod cogitat, eo ipso tempore quo cogitat, non existere. Ac proinde haec cognitio ego cogito, ergo sum, est omnium prima et certissima, quae cuilibet ordine philosophanti occurrat.

直前の「existere」を考慮するなら、少なくとも『哲学原理』のここで問題となっているのは、私の本質の問題というより、私の存在のようです。

投稿: にく | 2008.11.01 11:48

シェリングの「哲学的経験論の叙述」で、いい加減なことをいってすみません。正しくは次のとおりです。

ギリシャの哲学者たちは、メー・オン(非存在者)も存在者のように扱う。それに対して、プルタルコスは、メー・エイナイ、存在しないことと、メー・オン・エイナイ、存在者でないこととを区別すべきことを主張する。

これが、シェリングのメー・オンについての指摘です。また、

プラトンのいうアペイロン(限界なきもの)、ピタゴラス派のアリオストス・ドゥアス(無規定的な2)

についても考察しています。

そして、そのアリオストス・ドゥアスとは、ヒポクラテスの説くところの有限的事物の性格であるエイナイ・カイ・メーエイナイ(存在しかつ存在しないこと)であると説明しています。

ハイデガーは後期シェリングの熱心な研究者だったので、以上のシェリングの議論を知った上で、ハイデガーの諸著作を読むと、もしかしたら理解が深まることもあるかもしれません。

投稿: シェリングの議論 | 2008.11.01 16:03

はじめまして。ときどき拝見させてもらっている者です。

学生時代にジルソンという人の注釈本を授業で読んだのみですが、そのときに僕が伺った解釈はfinalventさんの訳文、つまり
>「私は思念している、だからそれが私だ」
とそれほど矛盾を来すものではなかったように思います。

大きなヒントになると思われるのは、スピノザがデカルトのcogtoを実際はdubitoだと注釈していることです。ご存じのように『方法序説』は「私は夢を見ているのではないかと疑う」という方法的懐疑から始まります。そうやって不確実な現象をいわば「引き算」していった結果、どうしても最後に残るのが「疑っている」主体です。

『序説』の著者は、それを探求の最初にあるべきもっとも「明晰かつ判明」なものとして見出すわけですから、スピノザは、前者の命題はむしろ「我疑うゆえに我あり」と語られるべきだろう、と注釈したわけです。

このように考えると、デカルトの命題におけるエートルは、コプラ文の観点から語られるようなものとは、やや異なるように思います。

神が無限であり、したがって常にある種のトートロジーとして定義されるほかないという点に関しては、次のよく知られる古典論理学の定義があります:「神はあらゆる述部を含む主語である」。これはデカルトやその同時代人が前提としたスコラ的定義であり、後世のヘーゲルも扱うことになったきわめて(あるいはもっとも)「西洋的」なコプラ文に他なりません(「小論理学」でも出てきます)。

しかしいずれにせよ、これは哲学史的にはラッセルの記述理論などにつながってゆく問題系を形成するもので、デカルトの懐疑は、むしろ現象学的なエポケーに近いと見なすのがもっとも普通の現代的解釈ではないでしょうか。

長々と失礼しましたが、最後にもうひとつだけ。バフェットの"I am"は、たとえば"You can't go."/"I am!"などという場合のそれと同じで、ほぼ一意的であるように思います。すでに同じコメントがありますが、やはり「アメリカ製品(または株)を買いたまえ、私は断固買う」といった意味でしょう。ちなみに、Buy Americanは法案名でもあるようですね。

ブログの更新楽しみにしています。どうかこれからも頑張ってください。

投稿: how_say | 2008.11.02 02:44

「我思う。ゆえに我あり」とは、「我という署名・オーソライズによって出されるドキュメントは、有識論を越えぬ」という、宗教者たちへの不可侵宣言ではなかったか。と私は考えます。ガリレオやコペルニクスばかりでなく近代精神の論者たちが闘っていたのは、中世の暗黒・宗教的世界だったはずです。
西欧中世の科学と宗教の二項対立を日本人は想起しないので、「存在」という科学と宗教を越えた概念に仕立てて、日本への普及者たちは、デカルト思想の普遍性・敷衍性を訴えようとしたのでは…。

マルキシズムを唯物論などといいますが、ベルリンの壁が崩壊したあと、オウムという擬似スピリチュアリズムが暴発する。しかし、デカルトの言葉によって、カルト問題を論じることはタブー。結果、魂の死後存続を信じる人達が自爆テロを起こし続ける。結局のところ、「我思う。ゆえに我あり」では、問題は解決しない。

いろいろな意味において、デカルトの言葉は重要なのでしょう。

投稿: スポンタ | 2008.11.02 14:49

大学時代に、言語哲学の塚本明子先生から、アリストテレス哲学の、実体とは名詞、属性とは形容詞、運動とは動詞といったように、アリストテレス哲学も、骨子は、実は、ギリシャ語文法を哲学の用語に置き換えたようなものという話を聞いて感心した覚えがあります。

それで、デカルトの方法は何が哲学化されたものなのか考えたのだけれど、4つの格率というのは、活字印刷の図式に似ていると思われるのです。明証性とは、1つ1つの活字、分析とはスペリングを確かめること、総合とは活字をそろえて文章を作ること、吟味、枚挙とは、最後に、スペルミスなど、誤植がないことを確認すること、と考えると、なんとなくつじつまが合う気になるのです。私の考えが正しいとは言いません。1つの試論です。

アリストテレスの論理学は、しっかり学習したことがないのだけれど、どうも、演繹も帰納も、類推も一義性も、全部アリストテレスの時代に出揃っていた概念のようで、人間の考えることなど、出発点を作った破格に頭のよい人から、そんなには踏み出せないものなのかなと思いました。

ゲーテやドリーシュの自然学の、エンテレケイアという概念もアリストテレスの提示した概念なので、生命科学でも最近までアリストテレスの議論は蒸し返されていたようです。果たして、分子生物学の延長上にある現代生命科学の文脈で、アリストテレスのエンテレケイアの復活はあるのか、もしあれば、ベルクソンのエラン・ヴィタール(生の躍動)も大筋誤りではなかったということだろうと思います。

投稿: デカルトの方法の基礎? | 2008.11.03 14:13

フロイトが「夢判断」で盛んにいろいろな夢の中の言語表現の語呂合わせや連想の分析をしていますが、これは、フッサールが行っていた多くのラテン語の詩のアナグラム分析と同じ心的能力を行使していたのではないかと思うのです。

無意識的には、フロイトとソシュールは似たようなことをしていたのではないかと思われます。

こういう風に考えると、ジャック・ラカンの精神分析学について、1つの切り口を見つけられるのではないかと思います。

ユングの集団的無意識、元型、アニマ・アニムス、シャドウ、セルフ、自我肥大などは、精神現象を説明するためには便利な概念ですが、いざ実在を検証しようとすると実証性に乏しい作業仮説のように思われます。

デカルト的理性から逸脱した言語の混濁した連想の側からデカルト的理性の意味づけを考えることも無意味でもなかろうと思われます。

投稿: フロイトとソシュール | 2008.11.23 07:45

シェリングの「人間的自由の本質」は、「ツァラトゥストラかく語りき」とならぶハイデガーの愛読書だったのだけれど、シェリングは、自由とは善と悪の能力であるとしています。そして、悪を悪たらしめていて存在可能にしているのも悪が内包している善であるという議論をしています。

悪の内容と成立原因を天台教学が考察しているのか恥ずかしながら知らないのだけれど、天台教学では、あらゆる善が悪を内包しており、悪と無縁な善は存在不可能であり、もし、悪と無関係な善を想定しようとすれば、それは、空疎な善でなければ、無力な善にすぎない、といった議論を展開していたと記憶しています。白隠禅師の「南無地獄大菩薩」といった着想も由来はここだと思います。善や正義が成立するためには、悪や不正と同じ次元に立たねばならないようなのです。またそうしないと善や正義には効力がなくなってしまう。

シェリングや天台智者大師みたいに考えると、善と悪が二元論の倫理ではなく、医学や衛生学に還元されるのだけれど、こういう高度な議論が、ヨーロッパでは、19世紀でもなかなか受け入れてもらえず、一方、日本では、平安時代には上流階級には主流のものの考え方になっていた。中国では、同時代には廃れて省みられなくなってしまっていた。そんなところのようです。

シェリングの思索は、デカルトどころかカント以降のもので、天台智者大師は、ナーガールジュナの議論をよく知っていて、そのナーガールジュナは、ロバチェフスキーやリーマンがユークリッド幾何学をたたき台にして行ったような作業を論理学を用いて成し遂げたような人だったのだけれど、いまでは、シェリングも天台智者大師もほとんど捨てて省みられない。

思索の進歩というのは、何を考えて、どういう解答を導くかより、記号法の合理化や明晰化のほうが重要なのかもしれません。デカルトは、代数幾何学の発展の基礎を作った人でした。

投稿: enneagram | 2009.02.07 09:36

こんにちは!
Buy American. I am.
の I am は単に
I am going to buy ones.
の略なのではないでしょうか?
と思いました。
いかがでしょうか?

投稿: 永岡瑞季 | 2009.03.12 17:35

そのとおりです!!

投稿: | 2013.11.12 12:47

わしがええ言うたらええにゃ、とか、わしがわかったらええにゃとか、零細企業のワンマン社長が従業員に八つ当たりしたこのセリフが、嵌ってるように思えます。私の実体験です。

投稿: | 2014.09.13 17:12

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「我思う故に我有り」は微妙に誤訳なんじゃないか本当はを読んでいると、非常に惜しい、と思わざるを得ません。デカルトの本質についてさまざまな翻訳者より真実に近いところまで迫っていたのに、微妙な間違いのために間違った結論に至ってしまった、と思えます。 欧米哲...... [続きを読む]

受信: 2008.11.01 09:57

» コギト・エルゴ・スム [よのなかクロマトグラフィー]
 これがfinalventさんのところで取り上げられていたのが去年の10月31日 [続きを読む]

受信: 2009.01.17 10:18

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