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2008.08.10

赤塚不二夫の満州

 2003年8月14日に始めたこのブログも5年になる。まだ45歳だったな、まだ若かったなみたいに思うけど、また5年もすれば今があんときゃまだ若かったなになるのかもしれない。いつまで私は生きているんだろう。いつまでブログを書いているんだろう。
 ブログを始めた数年は毎年8月には戦争ネタを書いたものだったが、昨年あたりからそういうのも飽きてしまった。が、昨年の8月にはジョー・オダネルが死んで、いろいろ考えさせられるものがあり、「極東ブログ: ジョー・オダネル(Joe O'Donnell)のこと」(参照)を書いた。今年はそういう、胸に迫るような戦争関連の出来事はあるだろうか、これからあるのかよくわからない。そういえばこの間、沖縄でお世話になった古老が幾人かお亡くなりになった。戦禍を生き延びたオジー・オバーみんな百まで生きてくれるというわけではないな、もっと話を聞いておけばよかったな。
 先日佐野洋子のことをふと思い出した。というか、「私の猫たち許してほしい」(参照)を思い出した。書架を探したが見つからない。実家にもないかもしれない。たしかこのエッセイに彼女が生まれた北京のアカシアの話があった。あるいは、「アカシア・からたち・麦畑」(参照)だったか。「猫ばっか」(参照)ではないだろうな。最近とんと佐野洋子の本を読んでいないことにも気が付いた。ちなみに、「100万回生きたねこ」(参照)は嫌いでもないがそれほど好きでもない。「空とぶライオン」(参照)が好きだ。
 佐野洋子の北京は赤塚不二夫からの連想だった。赤塚不二夫は昭和10年9月14日旧満州熱河省に生まれた、とウィキペディア(参照)には書いてある。またウィキペディアが参照しているヴィレッジセンターのプロフィール(参照)には、「旧満州熱河省承徳市に生まれる」とある。が、自伝的エッセイ「これでいいのだ」(参照)にはこう書かれている。


 ぼくはこれまで説明が複雑になるので、中国の承徳(旧満州国・熱河省。現在、中国の河北省)生まれだといってきたが、しかし正確にいうと承徳から西へ直線距離で70キロほど行った古北口(北京市東北部)生まれである。
 本籍がある新潟県西蒲原郡四ツ合村(現在、潟東村)大字井随809番地の戸籍謄本から見ると、
 赤塚藤雄 昭和10年9月14日 父・藤七、母・リヨの長男として満州国熱河省灤平県古北口古城裡22号において出生 父・藤七届け出
 となっている。

 なぜそこで赤塚不二夫が生まれたか。父の仕事に関係する。

 古北口というところは北からきた万里の長城がこのあたりで東に伸びるところで、旧満州国と中国の国境沿いの町だ。当時、満州国で抗日ゲリラと対峙する〈古北口国境警察隊〉の特務警察官だったおやじは、女房、子供を引きつれて危険地帯を転々としていたのである。

 そういえば、ウィキペディアには父についてこう書いている。

「バカボンのパパ」のモデルであり[1]憲兵であった父親は第二次世界大戦終戦直前にソビエト軍に連行されてしまい、残された家族は1946年に母の故郷の奈良県大和郡山市に引き揚げる。

 これも正確ではない。藤七は小学校を出て農業を手伝った後、憲兵の試験を2番で合格する。

 それだけ苦労してなった憲兵だったのに、おやじはこの陸軍のエリートコースをあっさり捨てた。満州に渡ってのことだが、昭和8年、上官の理不尽ないい分が我慢できず辞意を申し入れたのである。そのあと選んだ職業が警察官だった。警察官といっても通常のそれではない。反満、反日の中国人ゲリラと、目には見えない最前線で命を張って渡り合う特務警察である。

 憲兵ではないことは明らかだが、警察官というのともやや違う。現代では説明がむずかしい。藤七も中国語を駆使し、不二夫も物心ついたころから中国語を話していた(後年忘れたとは言っている)。
 藤七は息子を戦闘の場に連れ出したことがある。すこし長い引用になるが、藤七という人間を、そして赤塚不二夫という人間を知る重要なエピソードだろう。

 ある晩、隣の砦のほうから突然、ドカーン、パンパンパン……と爆発音に続く銃声が聞こえた。
 「襲撃だ!」
 おやじは言うが早いか制服に着がえてぼくと一緒に外に飛び出した。「ぼくも行く」と言ったからなのか、それとも「お前もこい!」とおやじがぼくを促したからなのかは定かではない。しかし、火事場見物ではない。深夜の殺し合いに、たとえ子供にせがまれたからといって連れて行くというのは考えにくい。やはりおやじは自分の意志で息子をあえて殺戮現場に連れて行ったのだろう。おやじは長男であるぼくに、ゆくゆくは父親のあとを継がせたいという明確な意志を持っていた。
 この夜の同行も、この意識から出たことにちがいない。
 外に出ると小規模だが日本の正規軍と、”満系”も集合、トラック何台かに分乗して現場へ急行した。到着したときはすでに敵の襲撃は終わり姿を消したあとであり、一家皆殺しに遭った千葉さんの家が焼け落ちて煙がプスプス立ちのぼっていた。敵は明らかに千葉さん一家を標的として選び、襲撃したのである。
 おやじの首には当時の金で2千円の賞金がかかっていた。当時としては途方もない大金である。べつに護衛に守られていたわけではないおやじが、裏切りや密告によってつかまる可能性はそれほど低くはなかったはずだ。おやじが砦の外の村へ出たとき、村人の1人が敵に連絡すればそれまでである。だが村人は誰もおやじを敵に売り渡さなかった。こういうわけで、おやじだけではなく赤塚家も襲撃されることがなかった。
 砦には時々、さまざまな物資を積んだトラックが到着した。おやじはその物資をよく村人に分けていた。
 「敵も味方も同じ人間じゃないか」
 なにか見返りを期待したわけではない、こちらに真心があればそれは必ず相手に通じるはずだ――これがおやじの人間観だった。

 これは中国的な人間観なのかもしれないし、赤塚不二夫という人の人間観にはこうした根があるのかもしれない。
 赤塚不二夫は同じく満州で生まれた兄弟姉妹をこう語る。

 ぼくのきょうだいは長男であるぼくをかしらに、妹、弟、弟、妹、妹――の男3人女3人、6人きょうだいである。しかし、幼い時の死別と生き別れで半数になってしまった。

 次女綾子は6か月でジフテリアで亡くなった。生き別れは弟の一人で他家に養子になった。「後年、ぼくは一度だけこの弟に会ったことがある。戦後、成人して茨城県の炭坑で働いていた彼に、実の兄とは名乗らずにそれとなく会った」とある名乗らなかった仔細は書かれていない。
 父・藤七はシベリア抑留となり、日本への帰還は母リヨ一人の手によることになった。子供がはぐれないようにつかまっていたという。書籍「これでいいのだ」の裏表紙の絵はこれを表現したものだろう。本書の読後に見ると涙がこぼれてくる。手を離せば残留孤児となったかもしれない。
 赤塚不二夫にとって日本は異国だった。

 ぼくが初めて眼にする日本だ。行けども行けどもコーリャンと畑とでっかい夕陽、乾いた道が一瞬にして大河に変わる光景、一寸先が見えなくなる黄砂……、といった風景しか見たことのなかったぼくにとって、今、眼の前に広がる風景は新鮮そのものだった。

 そして子供の赤塚不二夫は日本で満州帰りとして差別される経験もした。
 死んだ次女の名を受けたもう一人の妹綾子は日本に辿りついて亡くなった。

引き揚げの途中で子供に死なれでもしたら、かあちゃんは半狂乱になったかもしれない。でもここまできて綾子に死なれたのなら、かあちゃんには自分を責めるものは何もなかったし、泣く理由も感傷ももうなかったのだろうと思う。
 そういう意味では、生後わずか6か月で死んだ綾子は、本当にかあちゃん思いの親孝行な妹だった、とぼくは思っている。

 その思いを抱えて生きるということが戦争というものの一つの意味なのだろう。
cover
これでいいのだ
赤塚不二夫

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コメント

私の母方の祖父は、昔満州鉄道の偉い人だったとかで、8人兄弟だった母も満州から引き上げてきた時の話をしてくれました。昭和3年生まれの母は、赤塚より少し年上ですが、満州を引き上げる際の船で、8人兄弟の一番末の乳飲み子だった弟がジフテリアでなくなったと聞いています。赤塚が妹が引き上げの途中で亡くならなかった事を母親への気遣いとして書き残しているのとは全く違って、母は、ずっと姉として面等を見てきた自分の責任だと言っては涙ぐんでいました。このようなことは、今では考えられない事ですね。そのことを夏になると思い出して話をしていました。先日も実家に帰った時に、昔の話を少し聞いてきました。つくづく思いますね、生き証人の話しをもっと聞いておきたいと。

投稿: ゴッドマー | 2008.08.10 16:36

>>ゴッド・マーさん

 理由があって言えなければしょうがないんですけど、そういう話こそやって貰えると嬉しいもんですけどね。聞く側としては。別に大向こうウケする面白い話ばっかりしなくていいんだから。ブログなんだし。弁当爺さんだって無名な庶民のどうでもいい記録だって言ってるし、クソみたいな文章は排除するよ宣言出してるのに野ぐそ掃除しないんだから。言えるんだったら言えばいいと思います。


 そういや、もーそろそろ終戦記念日ですね。今年も『火垂るの墓』の季節ですか。そうですか。そんな感じ。

投稿: 野ぐそ | 2008.08.10 22:21

亡くなられた指揮者の朝比奈隆氏も、庶民の中国人気質について語ってましたね。
満州で終戦の報を聞いた氏は中国人の事務員を全員集め、金庫を開けて、
「日本が戦争に負けたため、皆さんに給料も退職金も払えなくなってしまいました。
この金庫のお金から椅子の一脚に至るまで、みなさんで分配してください」
と告げ、家に帰ったそうです。
それでか満州から脱出するまで誰からも密告されず、生きて帰ってこられた。
「あのときズルやインチキをやった日本人は皆密告されて捕まった。それをしなかったら中国人も黙っていてくれた」
という感じで。

投稿: てんてけ | 2008.08.10 23:43

>>ゴッド・マーさん
佐野洋子さんの『シズコさん』にも、満州を引き上げる際、体の弱い弟さんの面倒をほとんど母親のようにみていた話がありますね。

投稿: haineko2003 | 2008.08.11 08:01

ジャカーシーだけのクマゼミとアブラゼミにミンミンゼミの声が混じり始めたよーですなトーキョーじゃ。
もーすぐツクツクオーシですか。

ソンじゃ朝な夕なヒグラシが森を心地よくニギヤカにしておりますが。っつーところで。

ヒマですな。

投稿: 預言者 | 2008.08.11 08:51

finalventさん、ちょっとこの場をお借りしますね。

野ぐそさん>、昨日ここでコメントした時点で、動揺してしまって、書かずにはいられない気持ちでした。でも背中を押してもらったという気がしました。ありがとう。沢山でなくてもいいのですが、少しoutputするとスッキリします。涙と鼻水でPCを汚すよりは自分の庭先でと思い、今朝少しだけ書きました。こちらにトラックバックを受け付けてもらったようなので、お越しください。(コメント歓迎ですよ!)

haineko2003さん>ご紹介ありがとうございます。佐藤洋子さんの「シズコさん」はその昔読みましたが、ここで蒸し返しでしょうか、なんだかまた読みたくなって参りましたよ。あのー、ティッシュを箱で用意してからにします。(寄る年波、涙腺が緩んだのか、更に悪化の道を辿っています。)ラッキーな事に、今日用事で実家に帰りますので、自分の書庫から持ち帰ります。(タイミングが良くてgood!)

投稿: ゴッドマー | 2008.08.11 10:45

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