« [書評]これでいいのだ(赤塚不二夫) | トップページ | 赤塚不二夫の満州 »

2008.08.09

赤塚不二夫のこと

 赤塚不二夫のことといっても、私は赤塚不二夫に面識はまるでない。赤塚不二夫の漫画を読んだ無名の一人というだけのこと。そこから思うことを少し書くというだけのことだ。昨日のエントリ「極東ブログ: [書評]これでいいのだ(赤塚不二夫)」(参照)の続きのような話なので、その2としてもいいのだが、ちょっと違うかもしれない。
 赤塚不二夫が亡くなっていろいろな感想をメディアやネットで見た。私はあるズレを感じた。自分が何か正しい感覚を持っているというようなことではない。なんだろうこのズレの感覚はと自分を訝しく思った。ブログなどでタモリの弔文が賞賛されるのにも少しズレを感じた。弔文が悪いということではまったくない。それどころか畢生の言葉だろうと評価するし、タモリは見えないところで赤塚に尽くしていたに違いないとも確信している。
 ズレの感覚を抱えながら、そこに一番近く触れるのは栗パパの昨日のワッサーステータス「赤塚不二夫の漫画で笑ったことないから世とのずれに戸惑ってる。」(参照)だった。栗パパはまだ二十代だろうか。さすがに二十代ではわからないだろうと思うが三十代から四十代にとっても、実際には赤塚不二夫の漫画は、笑えない戸惑いがあるのではないだろうか。
 竹熊先生は「追悼・赤塚不二夫先生」(参照)で、「自分の幼少期は「赤塚不二夫で始まった」と言って過言ではなく、特にギャグやお笑いに関しては、自分の感性の基盤となった人です。」と書かれたが、私より三つ年下の竹熊先生でそうだろうか。いや疑うわけでもないのだが、私の世代ですら、ある違和感があったのではないだろうか。
 赤塚不二夫は作品が多いようにも見えるが、おそらく代表作は、「おそ松くん」「ひみつのアッコちゃん」「もーれつア太郎」「天才バカボン」くらいだろう。もちろん、それらがどれも大量にあるとも言えるし、そして「レッツラゴン」などを代表作に入れるかはいろいろ議論もあるだろう。
 ウィキペディアの記載(参照)を借りてこれらの作品の時系列を見直すと考えさせられる。


1962年、「週刊少年サンデー」で『おそ松くん』、「りぼん」で『ひみつのアッコちゃん』の連載を開始すると一躍人気作家となる。
1963年、トキワ荘時代の仲間が設立したアニメーション製作会社のスタジオ・ゼロに参加。
1964年、『おそ松くん』で第10回(昭和39年度)小学館漫画賞受賞。
1965年、長女のりえ子が誕生[7]。また同年、長谷、古谷三敏、横山孝雄、高井研一郎等とフジオ・プロダクションを設立。
1966年、『おそ松くん』がスタジオ・ゼロ製作で毎日放送系でテレビアニメ化。
1967年、「週刊少年マガジン」(講談社)にて『天才バカボン』を発表。天才ギャグ作家として時代の寵児となる。また、テレビ番組『まんが海賊クイズ』で当時は漫画家としては異例のテレビの司会を担当し、黒柳徹子と共に司会を行った[8]。
1969年、『ひみつのアッコちゃん』『もーれつア太郎』がNETテレビ(現在のテレビ朝日)系列でテレビアニメ化。
1971年、『天才バカボン』が読売テレビ系列でテレビアニメ化。
1972年、『天才バカボン』で文芸春秋漫画賞を受賞。また同年、フジオ・プロに財政的な余裕が生まれたため「赤塚不二夫責任編集」と題した雑誌『まんがNo.1』を創刊。実質的な編集作業は長谷が行い、不二夫の荒唐無稽なイメージを伝える事に腐心した。しかし1号につき250万円程の赤字を出し、1973年に6号で休刊[9]。

 この時系列成立でよいのかわからないのだが、大きなはずしはないだろう。
 はじまりの1962年は昭和37年である。ここが赤塚の人生の大きな起点になることは、「これでいいのだ(赤塚不二夫)」(参照)にもあるのだが、この時系列は同書のほうから、つまり赤塚の内側から見るとわかりやすい。この内在の時系列は昭和34年に始まる。

 漫画週刊誌が創刊されたのが昭和34年、毎週1本、連載を描くなんていう仕事のペースはぼくには想像できなかった。

 私はここでぞっとするほど素直な赤塚不二夫の魂に出会っているように思える。ここには自分にはこんな仕事は無理だったかもしれないというトーンが少し感じられる。
 昭和37年に至る経緯はこう流れていく。

 ある日、『少年サンデー』から毎週読み切りの依頼がきた。読み切りならなんとかなるかと思い、自由にテーマを探し、奔放に描きまくった。
 インスタントラーメンが発売されると、学校から帰って風呂に入り、3分たつと頭が冴えるという『インスタントラーメンくん』、フラフープが流行ると、フラフープで遊んだ後はそれを洗濯の物干しにする、というような漫画を描いた。
 「こんど2週続きで描いてごらん」
 と言われて『スーダラおじさん』を描いた。植木等の『スーダラ節』のヒットをとらえた漫画だった。
 それが終わると、
 「こんど4週描いてみな」
 ということになった。昭和37年のことだ。

 昭和34年から37年への経路は赤塚の内側からはこう見えていたのだが、加えて、「極東ブログ: [書評]これでいいのだ(赤塚不二夫)」(参照)で触れたが、昭和36年に赤塚は江守登茂子と結婚の経緯があった。昭和35年である。

 仕事がますます増えて、アシスタントを入れる必要がでてきた。昭和35年のことである。ある編集者に相談すると、
「うちにちょうどいいのがいるよ」
 と言って若い女性を1人つれてきた。
 その子と仕事を続けて1年にもならないのに、彼女と結婚するムードが高まってきた。何せ、毎日一緒にしる間柄だったからだ。しかし、ぼくはまだ結婚に踏み切る自信がなかった。
 「大ヒットを1本出さないと、飯食っていけるかどうかわからないからな」
 そんなことを言うと、しっかり者の彼女は、ぼくをさとすように、
 「1人では食べられなくても、2人なら食べられますよ。私がちゃんとやりますから」

 彼らは昭和36年に結婚した。
 昭和37年から赤塚の馬車馬のような人生が始まる。

 週刊誌の4週といえば1か月だ。何を描いたらいいんだろう。ぼくは考え込んだ。これまで主人公というのは1人が普通だった。これを思い切って増やしてみたらどうか。そこで前に見た、映画『1ダースなら安くなる』を思い出した。1ダースも主人公がいる話しだ。しかし12人では1コマに描ききれない。そこで半分にした。6つ子である。どうせ4回だから思いっきり暴れさせてやろう、とはじめたのが『おそ松くん』である。
 女房の登茂子がすばらしいアイデアをどんどん出してくれた。

 漫画「おそ松くん」は一世を風靡した。サンデーの連載は昭和42年(1967年)まで続いた。この間、昭和41年にスタジオ・ゼロ製作で毎日放送系でテレビアニメ化されている。このオープニングは現在ではYouTubeで見ることができる。
 ここで時代の傍観者である私をストリートビューの人型アイコンみたいに置いてみたい。私は昭和32年生まれ。小学校に上がる前の5歳の時(昭和37年)にはテレビを見ていた。もちろん、同時代の少年サンデーも知っているし、「おそ松くん」も断片的には見ている。「おそ松くん」のとりあえずの連載が終わった1967年に、私は10歳である。小学校3年生だ。普通に少年サンデーを読んでいるのだが、ここが普通に読んでいる下限に近い年代ではないだろうか。3つ年下の竹熊先生はその時、小学校1年生。リアルタイムに「おそ松くん」を見ることができた本当に最後のラインになるだろう。
 ざっくり言えば、1960年生まれ以降の人は赤塚不二夫が描いた「おそ松くん」をリアルタイムには読んでいないと思う。もちろん、こう言うことには反発があるかもしれない。私は上から目線風に偉そうなことを言いたいのではない。むしろその逆だ。
 が、その補助線で言うなら、すでに私の世代から「おそ松くん」はTVアニメだった。「魔法使いサリー」の枠の後釜で1969年から1970年に放映された「ひみつのアッコちゃん」に至っては私には原作を知らない(当時男の子は女子の漫画を見ることはなかった)。
 赤塚不二夫の作品は「おそ松くん」だけではない。少年サンデーでは続いて「もーれつア太郎」が連載された。この作品は、竹熊先生ではないが、私の人生観の根幹に近い部分に影響を持っている。が、私は1969年に始まる「もーれつア太郎」のTVアニメはほとんど見ていない。
 「天才バカボン」は「もーれつア太郎」の同時期に連載され、これもTVアニメ化された。私は、「天才バカボン」が嫌いだった。連載もアニメもだ。私のごく私的な感想にすぎないが、「天才バカボン」は団塊の世代の学生が好んでいた。1967年に始まる「天才バカボン」の連載は70年代安保の文脈にあった。特に私が嫌悪したのが早大の学生が優越感を隠した自嘲でバカボンのパパの「バカ田大学」を連呼していることだった。うわっついたバカを装いながらインテリ特権意識で女を口説いていた当時の大学生の愚劣さと、それにのっかっていた薄ら左翼のオヤジども、青島幸男だの大橋巨泉、野坂昭如、前田武彦、永六輔などは私の嫌悪の対象だった。赤塚不二夫は本当はそういう人たちに汚れるべき人ではなかった。
 アニメーション作品にどのくらい赤塚不二夫が関わっていたのか私にはわからない。オリジナルを反映している部分はあるだろうし、「めぞん一刻」みたいにあのアニメ絵は受け付けないということはないし、「うる星やつら」のアニメ絵のように品質ががたがた変わるというものでもなかっただろうと思うが、なぜか私には、アニメの赤塚作品は赤塚不二夫の作品とはあまり思えない。が、それでも赤塚の生み出したキャラクターにはみな不思議な魂がこもっていた。「これでいいのだ(赤塚不二夫)」(参照)には「おそ松くん」に出てくるチビ太のモデルの話が出てくる。そこには本当に生き生きとした庶民の世界があり、そのかから生まれてきたことがわかる。
 アニメを別にすれば、赤塚不二夫の作品は60年代で終わっている。もちろん、アニメ作品をもって赤塚不二夫の作品としてもいいだろう。私はポケモンに原作が存在するのか知らない。クレヨンしんちゃんはアニメのほうが原作じゃないのかとも思っている。
 赤塚不二夫の作品は60年代で終わっているということはどういうことなのか。8月4日付け読売新聞記事”追悼・赤塚不二夫さん 本当にサヨナラなのだ(評伝)”が興味深いというか踏み込んだ書き方をしていた。

 赤塚不二夫さんの漫画家としてのたたずまいは、同じトキワ荘の仲間の藤子・F・不二雄さんとはまったく対照的だった。職人肌の藤子さんが最後まで第一線で描き続けたのに対し、赤塚さんが漫画家として輝いたのは、「おそ松くん」や「天才バカボン」を描いた1960~70年代のわずか10年間ほど。その後は仕事も激減し、タレント文化人という印象の方が強くなる。


 赤塚さんに、短期間になぜあれほどのヒットが飛ばせたのかを聞いたことがある。「一人じゃなくて、みんなで作ったからだよ」。60年代からペンを握っていなかった。当時のスタッフ――「ダメおやじ」の古谷三敏、「総務部総務課 山口六平太」の高井研一郎、「釣りバカ日誌」の北見けんいち、パロディー漫画の長谷邦夫といったそうそうたるメンバーとアイデアを出し合い、赤塚さんが吹き出しのセリフを作り、絵はスタッフ任せ。「おれの絵なんて、ハンコ押してるのと同じ」とうそぶく一方、会話のテンポには細心の注意を払った。自分のギャグの神髄が「言語感覚」であることを、誰よりも赤塚さん自身が知っていた。

 そうしたみんなのなからタモリもまた生まれた。
 この追悼記事を書いた文化部石田汗太記者は赤塚不二夫の実像をこう見ていた。

 しらふの赤塚さんに初めて会った時、シャイでまじめなことに驚いた。「酒を飲まなければ、まともに人と話せない」とも語っていた。その酒で寿命を縮めてしまうとは、ギャグ求道者の「業」を見る思いだ。

 その「初めて」がいつかはわからない。酒の入らないシャイでまじめな赤塚不二夫は「これでいいのだ(赤塚不二夫)」(参照)にきちんと描かれているようにも思う。
 文化部石田汗太記者は1999年8月10日”赤塚不二夫さん バカになりきれない シャイだから笑いが分かる”という記事を書いている。赤塚は、がんで胃を切って酒の味が変わったとして。

 でも、本当は好きじゃないんだよ、酒。酒は僕にとっての潤滑油。十代から赤面症というか、人と目を合わせて話をすることができないほどシャイだった。先日亡くなった由利徹さんがそう。あの人も酒がないと、他人と顔を合わせられないんだ。そんな二人が、人を笑わせることに一生をかけるんだから面白いね。


 僕はわんぱく小僧と思われてるかもしれないけれど、子供のころから内気でおとなしかった。でも、だからいろいろ考えて、本も読んだし、映画も見たし、音楽も聴いた。その蓄積が役に立った。ふだんから駄じゃればかり言ってふざけている人間には、笑いの奥深さが分からないんだ。駄じゃれは最低の笑い。マジ~メな人間だから、人間にとっての笑い、面白さとは何かをずーっと考えられるんですよね。

 赤塚不二夫は若い頃一生懸命映画を見ていた。手塚治虫に芸術を勧められたせいもあった。

 僕? ダメ。まだ徹底してない。だって、こんなちゃんとした話をしてるんだから(笑い)。本当にすごい奴(やつ)は、バカの面しか人に見せない。がんで逝った谷岡ヤスジがそうだった。僕も「赤塚ってバカだねぇ」って思われたいんだけれどね。かといって、現実にバカになり切ったら、漫画だって描けるかどうかわからないし、こんな生活してないかもしれないしね。
 結局、シャイな部分とハチャメチャな部分が両方あるから、「いかにバカっぷりを見せるか」という計算がばちっとできる。それでやってきたから、シャイな自分が嫌ではないんだな。

 ここに父母の墓に一人参って、「それはぼくが東京へ出てきて、初めて持った不思議な自分の時間だった」という孤独な赤塚不二夫がいる。
 歴史がこの人を生み出したのだろうし、この人を生み出した歴史の力は存分にそのエネルギーを放出した、それがアニメであれ。
 この時赤塚はこう問い掛けている。

 だって、今の子供はおかしいだろ? 車いすが来たら逃げたりして。俺(おれ)たちのころはそうじゃなかった。からかったりもしたけれど、みんな一緒で、おんぶして歩いたりしていた。それが人間だよ。

 石田汗太記者はこのとき赤塚不二夫がチビ太のことを思い出していることに気が付いただろうか。
 これでいいのだ(赤塚不二夫)」(参照)より。疎開先の郡山のことだ。

 ある時、いつものように遊んでいると、矢田山の向こうに煙りが見えた。
 「火事だっ!」
 「屋根に上がって見て見よう」
 するとチビ太も、
 「ぼくだって見たい!」
 と言い出す。今までさんざんチビ太からメンコを巻き上げたり殴ったりしているのに、みんなはこういう場面になると当然のように親切になってしまう。チビ太を肩車に乗せる者、上へ押し上げる者、上で受け取る者と手分けして、屋根に乗せ、山の向こうの煙を眺めた。これはたしかに火事だった。

 そして火事を見に行こうということになった。チビ太も行きたいと言ったが足手まといになる。それでもチビ太は行きたいという。鳩の糞を舐めたら連れってやるというと、チビ太は鳩の糞を舐めた。結局みんなで必死になってチビ太を火事場につれていくが、手間取って火は消えていた。

 みんなは代わる代わるチビ太の手を引っ張ったり、遅いといっては頭をコキンと殴ったりしながら火事の現場へ走った。しかし、現場に着いたとき火はもう消えていた。
「ほら見ろ、お前が連れてってくれなんて言うから、間に合わなかったじゃないか!」
 そう言ってまたひっぱたく。するとチビ太は、
 「ごめん」
 とすまなそうに、率直に言うのだった。
 帰り道はきた道とは違い、山の尾根道を歩いた。チビ太は疲れてしまいさすがにもう歩けない。みんなで代わる代わるおんぶして歩いた。山肌一面につつじか満開の季節だった。おりしも夕暮れとき、夕焼けがこれに映えて、全山萌えるように景色のなかを歩いた。

 この光景が終生脳裏を離れなかったことは、「極東ブログ: [書評]これでいいのだ(赤塚不二夫)」(参照)で触れた。

|

« [書評]これでいいのだ(赤塚不二夫) | トップページ | 赤塚不二夫の満州 »

「歴史」カテゴリの記事

コメント

>赤塚さんが漫画家として輝いたのは(中略)1960~70年代のわずか10年間ほど。

 世間様が才能?を受け入れる限界年度枠いっぱい、って感じでしょうね。そこを超えたら耐えられなくなるですよ。今なんて3ヶ月~半年がワンサイクルだし、3年続いたら一流。そのこと思えば、昔は随分気長だったんでしょうね。

>ふだんから駄じゃればかり言ってふざけている人間には、笑いの奥深さが分からないんだ。駄じゃれは最低の笑い。マジ~メな人間だから、人間にとっての笑い、面白さとは何かをずーっと考えられるんですよね。

 ここが、赤塚さんをしてタレント文化人の道に進ませることになった根本かと。奥深さの分からない、最低の笑いでもいいんですよ。だからこそ、きっかけ作りには丁度いい。馬鹿が馬鹿なこと言って真面目で立派な大人しい人に「それ違うだろう!」って突っ込ませなきゃ、参加型には成らんですよ。そこで、本来才能の源泉であるところの生真面目さやナイーブさが仇になって足引っ張る。
 庶民感覚で庶民の目線でワーワー言ったら。それ見て他の人が真似するようになったら、今度は自分が鬼にならんと意味が無い。豆撒かれて叩き潰されるくらいで丁度いい。
 そこに耐えられんかったんでしょうな。だからタレント文化人にもなるし、酒にも呑まれる。悪くは無いけど、そこが限界だったってことで。

>だって、今の子供はおかしいだろ? 車いすが来たら逃げたりして。俺(おれ)たちのころはそうじゃなかった。からかったりもしたけれど、みんな一緒で、おんぶして歩いたりしていた。それが人間だよ。

 ここに関して赤塚さんのセンスに共感するけど、今そんなことしたら変人扱いでしょ。何なら、道端で出会った赤の他人にジュースでも奢ってみなはれ。特に若い女であれば千三つくらいよ。受け取るの。殆どは足早に遠ざかって気持ち悪そうな目つきで見るから。テレビカメラでも回ってれば取る確率上がるだろうけど、素でやったら怖がられるだけよ。それが今どき普通だっつーの。

 ちなみに私、今月から資格取る学校逝って簿記やってんですけど。受付のお兄さんお姉さんにジュースあげたら一応喜ばれたけど、怪訝そうな目で見られましたよ。なんでそんな真似すんの?って言われてもね。それが私の生き様だからとしか言いようが無い。知り合いでもなければ、そんな真似したら気持ち悪がられるだけよ。最初の1,2回くらいはそれで良くても、何度も続けば却って負担になるから遠ざけるもんよ。
 誰だって、そう。
 その意味で言えば、昔はその程度に田舎感覚?が受け入れられる余地があったってことかもね。今は、どーだろね?

 赤塚さんみたいな人は、もう本質的に世の中に受け入れられんのですよ。言葉の上で、気持ちの中で、生き延びることはできる。でも実際傍に居たらウザくてやっとれんだけ。
 でも。それもまた人生。ご冥福を。

投稿: 野ぐそ | 2008.08.09 20:19

子供の頃、月1くらいで婆さんに連れられて、五つ程年の離れた従兄弟の居る家に遊びに行ってました。
従兄弟も漫画好きで、サンデー、マガジン等々が2階の彼の部屋に積み上げられていました。
貪り読みました、もちろんおそまつ君も。
と言って赤塚の漫画を礼賛するものではありませんが、リアルタイムであるかないかは大きな事かも知れません。

投稿: takkyu | 2008.08.10 07:13

 これでまた世界から貧しさがひとつ消えていきましたね。
 それで皆幸せなんですかね?幸せなんでしょうね。多分。

投稿: 野ぐそ | 2008.08.10 09:13

最も強い者は、一番他人を殴って泣かせる者でも、一番金を持っている者でも、一番頭のよい者でもありません。
最も強い者は、何が本当のことかを知っている者です。
ただし、ジル・ドゥルーズが「ニーチェと哲学」で言っていたことだと記憶していますが、低次元の事実しか知らないのでは、これはどうにもなりません。

投稿: 一番強い奴 | 2008.08.12 05:52

「天才バカボン」については、私はこう解釈しています。
数年前までどんなひどい生活しかできなかったかを忘れて、頭のよいふりをした連中にあおられて、大勢の人間が、不平や不満を、口実を作っては探して歩いていた時代に、植木屋のバカボンのパパにいつも「これでいいのだ」と言わせていた赤塚不二夫先生は、本当のことを知っていらした、本当に強く賢い日本のお父さんだったのだと今になって思い知っております。
愚かな者たちは、バブルがはじける1989年まで「これでいいのだ」と思い込み、バブルがはじけた後も、「これから4、5年たてばまた何とかなるのだ」と思っていたのだけれど、赤塚先生は、1967年から「これでいいのだ」といい続けてきたけれど、1976年にはご自身ではもうバカボンのパパに「これでいいのだ」とは言わせなくなりました。
本当に賢明なバカボンのパパのパパには、何がよくて、何がよくないのか、よく見えていたのだと思います。

投稿: 一番強い奴 | 2008.08.12 06:01

内向き世間じゃ売り出し中の芸人さんも大変じゃないかしら。
ナンセンスは内輪ネタじゃダメなのかも。
シェーが仏語だったのね!すごいね活字文化。
でもアレも活字文化。←自粛

投稿: おひさ | 2008.09.15 00:39

「六つ子」がオカルトであると申し上げたのは不適切でした。すみません。お詫びします。「一卵性の六つ子」は、おそらくオカルトです。動物種としてのヒトに可能なのは、おそらく一卵性は四つ子までだろうと思います。卵割が第3回になったら、各細胞の発生運命も決定事項が多いと思われるので、ヒトの場合は、たぶん、一卵性の六つ子や八つ子は不可能であろうと思われます。

わたしは、4月生まれなので、盛運と衰運の年齢を上記のように列挙しましたが、11月、12月生まれの人は、1年若くずれて盛運と衰運がやってきていることも多いかとも思われますが、それは、その人たちのほうが正しいので、私の列挙した年齢の数字に無理に合わせようとなさらないでください。

結局、運のよいことも、運の悪いことも、いつまでもは続かないもので、うまく行っているからといって増長すべきではないし、不運や災難が来ても、悪いめぐり合わせはいつまでもというわけではないので、簡単に絶望しないでいただきたいという話を気学を利用して話をしたかったということです。

運のよいときに調子に乗らず、災難の中でも簡単に絶望せず、というのも、赤塚ストーリーの特徴だったと思われます。

投稿: 「運気の盛衰」の補足 | 2008.11.08 13:34

いや、これ、今40過ぎた大人でもそうですよ。「車いすに乗った人を見たら逃げる」って。・・・先日、同窓会に行って来たんだけど、鬱を患ったのが数名、パニック障害が1人いる。で、嫌な奴が「あいつら世界違うから」なんて言うんです。・・・恐ろしい事に、それが皆の本音っぽい。・・・地方の、2流エリート校でそうです。皆、1流企業の中堅管理職になって、まじで勝間和代とか読んでる訳。・・・誰も、「人間の本当の辛さ」を知らない。高度成長した日本と言う揺りかごに抱かれた、永遠のベィビィ達ですね。(苦笑)。

投稿: ジュリア | 2009.12.06 16:02

遅まきながらコメントします。
自分は80年代に小学館のコロコロコミックで「花の菊千代」をリアルタイムで読んでいたクチです。「猫ってこんなに面白い動物なんだ」と思い、まだ小学5年生だった自分は猫を家に連れてきたことがあります。

投稿: 船橋市民 | 2010.10.03 23:42

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 赤塚不二夫のこと:

« [書評]これでいいのだ(赤塚不二夫) | トップページ | 赤塚不二夫の満州 »