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2008.08.29

微妙にお疲れ様でした的なムシャラフさん

 今月ブログをへたっていた間に起きた国際情勢でこれははずせないなというのは、18日のパキスタン、ムシャラフ大統領の辞任だろう。私は、ムシャラフでパキスタンは安定化すると見ていたので意外は意外だった。
 流れ的には議会で連立四党による弾劾決議が迫り、強行に政権を維持するか、辞任するかという二者択一しかなかった。そう追い詰められたら前者しかないじゃないかという思いと、ムシャラフさんももう疲れてるんじゃないかなという感じはあった。
 というか、ムシャラフさんも自分の思いで突っ走れる時期は超えているし、あとは誰がサポーターかということになる。国民はもうそれほど支持していない(かつては支持してくれたのに)となると、軍と米国が頼みということになる。他に頼みになるスジが無いわけでもないけど、その悪スジを取ることはないだろう。
 なので結果が出てみると、軍と米国はムシャラフさんに引導を渡したということだ。軍からの見限りがあり、その全体を読んで米国がスッコメを呑ませたということではないか。ただ、軍と米国に今後のシナリオがあるかといえば、無いんじゃないか。
 事実関係のログとして報道もクリップしておこう。18日朝日新聞記事”ムシャラフ・パキスタン大統領が辞任 与党の圧力受け”(参照)より。


パキスタンのムシャラフ大統領(65)は18日、大統領を辞任した。99年の軍事クーデターで政権を奪って以来、軍の力を背に事実上の独裁体制を敷いてきたが、3月に発足した反大統領派の連立内閣を支える人民党やイスラム教徒連盟シャリフ派など4党が、大統領弾劾の圧力を強め、辞任を迫っていた。

 99年の軍事クーデターについては後で触れたい。

連立4党は今月初め、国会でムシャラフ氏の弾劾決議を目指すことで合意。その上で、クーデターによる政権掌握や昨年11月の非常事態宣言などが憲法侵害に問われ、死刑につながる可能性があった弾劾決議の前に辞任するよう求めていた。ムシャラフ氏は演説で「弾劾には根拠がなく、戦う用意があるが、弾劾が成立しても失敗しても国を混乱に陥れるだけだ」とした。

 でも、なんとか折れたということだ。
 彼の心情は、IBTimes”メッカの巡礼へ行きたい:ムシャラフ大統領”(参照)が伝えるとおりかもしれない。

9年間実権を握り続けてきたパキスタンのムシャラフ大統領が辞任してから一夜が明けた19日、同氏は報道陣に対し、近くメッカに巡礼の旅に出る意向を表明した。しかし国会では、反大統領派が同氏の弾劾裁判を行うよう要請している。


ムシャラフ氏はまず「ウムラ(Umrah:時期を問わぬメッカ巡礼)」の旅に出て、そこからアメリカに向かい親族に会うと見られている。ムシャラフ氏の親族は、医者である弟のナヴィード氏がシカゴに、その息子のビラール氏がボストンに住んでいる。

 暢気なトーンの背景には、同記事が伝える強面の脅しもあったのだろう。

 報道によると、ムシャラフ氏は辞任前に、9年間の大統領就任期間中に行われたいかなる行動に対しても裁判にかけられることのないよう、また身の安全が保障されるよう、連立政府との間で合意を結んだとされる。この合意には、パキスタンのカヤニ陸軍参謀長とアメリカ、イギリス、サウジアラビア3国の政府が保証人になっているという。

 ムシャラフは99年にクーデターで権力を得たと言われる。その評価にはちょっと微妙な部分がある。先の朝日記事でも微妙な譲歩感はある。

ムシャラフ氏は99年10月、当時のシャリフ首相(現シャリフ派党首)によるムシャラフ氏の陸軍参謀長職解任を巡って起きた軍の無血クーデターで権力を掌握。01年6月には大統領に就任した。01年の米同時多発テロ後にはアフガニスタンとの国境地帯に潜伏する国際テロ組織アルカイダの掃討にも積極的に協力するなど親米姿勢をとった。

 さらっと読むと、当時のシャリフ首相がムシャラフ陸軍参謀長職を解任したのでそれに反発して、軍の力任せにクーデター起こしたみたいだが、そうではない。
 97年の総選挙でシャリフは首相に就任し、憲法改正によって権限を首相に集中させ、さらに自身が任命したムシャラフ陸軍参謀長との対立から、ムシャラフが海外出張中にだまし討ちのように解任し、彼がパキスタン航空機でカラチ着陸するのを妨害した。これを知った陸軍が怒りシャリフ首相を拘束した。ムシャラフ自身がクーデターで政権を取りたかったわけではない。読売新聞(1999.10.15)”パキスタンのクーデター 「解任」知った参謀長激怒 「だれも止められないぞ」”より。

 イスラマバード発のインドPTI通信などによると、シャリフ首相によるムシャラフ参謀長解任の動きを軍が察知したのは、十二日午前十時(日本時間同日午後二時)。当時スリランカ訪問中だった参謀長は、本国の副官からの連絡で、急きょパキスタン航空の帰国便に飛び乗った。
 パキスタン国営テレビが「参謀長解任」の声明を読み上げたのは午後四時。参謀長は機中にあったが、首都ではすでに幕僚らが緊急会議を開き、一時間半後には陸軍第百十一旅団が出動してシャリフ首相の身柄をおさえた。
 一方、カラチに近づいた参謀長機は、首相からの指示があったのか、空港管制塔から着陸を拒否された。激怒した参謀長はコックピットに乗り込み、「私がカラチに降り立つのをだれも止められないぞ」と叫んだ。さらに無線機を勝手に使い、管制官に「おれは参謀長だ。燃料がない」と呼びかけ、午後七時四十五分になんとか着陸にこぎつけた。
 カラチで参謀長は、国民向けテレビ演説の録画撮りを行った。この演説が国営テレビで放映された十三日午前二時五十分(日本時間同六時五十分)までに、軍は全土を完全制圧した。
 一連の動きは、「クーデターは、参謀長解任で引き起こされた突然の行動だった」(ラシド・クレシ陸軍報道官)との軍の主張を半ば裏付けるものだが、その反面では見切り発車的であったことも示している。

 おそらくムシャラフ政権への期待もあったのだろうが、こうした背景からも米国はこの事態をクーデターとするにはためらっていた。読売新聞(1999.10.13)”パキスタンのクーデター断定を米が回避 援助継続へ配慮”より。

パキスタン政変について、米政府高官は十二日、「クーデター」と断定するのを避けた理由について、「再任されたばかりの陸軍参謀長を解任しようとしたのはシャリフ首相である」と言明。ムシャラフ参謀長の軍動員以前にシャリフ首相が軍の一部を動かし、スリランカ訪問中の参謀長の帰国を物理的に妨害しようとしたとの情報もあり、米政府内では、ムシャラフ参謀長はこれに対処して行動をとったとの見方が広がりつつある。
 米国防総省のベーコン報道官も同日、「シャリフ首相がムシャラフ参謀長を解任、後任に自分の腹心であるジアウディン統合情報局長(軍の情報機関トップ)を据えようとしたため、参謀長が反発して(政変が)起きた」との見方を明らかにした。

 当時はこの政変もパキスタン国民にそれなりに受け入れられてもいた。読売新聞(1999.10.14)”パキスタンのクーデター 国民、むしろ「歓迎」 シャリフ政権は災禍”より。

 だが、市内ではシャリフ氏の身を案じる声は聞かれない。「軍万歳」と歓呼する市民の姿が目立つ。アタル・モイヌディンさんは「皆、軍の登場を喜んでいる」と話す。学生のマリア・ムカダルさんも「政権が求めたのは、自分たちの利益。軍が全権を掌握したのは良いことだ」と強調。商人のマクスッドさんは「混とん、無政府状態、利己主義がはびこっていた。シャリフ政権の二年半は災禍だった。それが終わったのは、神のおかげだ」と歓迎した。
 市民の多くは、「軍は混乱に終止符を打つために決起せざるをえなかった」とする参謀長の決起理由を受け入れているようだ。

 こうして振り返ると、シャリフのほうがろくなもんじゃないなともいるが、シャリフにも別の思いはあり、軍とイスラム原理主義勢力の関係を排除したかったと見ることができる。
 逆に軍を背景としたムシャラフはイスラム原理主義勢力と癒着を余儀なくされた。一方でイスラム原理主義勢力に、他方で米国に支持というムシャラフにできることは最初から限られていたが、それでもパキスタンの経済成長率は6%にも上がった。
 暗殺されたブットとムシャラフの間には、おそらく米国の仲介だろうと思われるがそれなりの連携の密約があっただろう。ブットの死によってそれが消えたとき、ムシャラフの荷はさらに重くなっていたのだろう。
 現在の、ムシャラフ後のパキスタンはさらなる混迷に向かうだろうし、そうした中でムシャラフの復権があるかというと、私にはよくわからない。少し待ったらシャリフですら復活したのだから、ムシャラフの復活もありえないこともないようにも思うが、なんとなく、ないんじゃないか。ムシャラフは大統領になりたい人ではなかったのだろう。
 過去を顧みると、この話の背後にもう一人、カーン博士という大役者がいる。彼がこの権力の渦のなかでどういう立ち回りをしていたのか、特にシャリフとどういう関係にあったのか、そのあたりはいつかきちんと歴史に記されるまで待ってもいいかもしれない。

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2008.08.28

ドン・ガバチョフ元大統領、グルジア問題を論ず

 今回のグルジア衝突の報道をブラウズしながら、しみじみ自分は西側という地域にいるのだなという思いと、報道を少し超えた部分の解説では日本は未だに喧嘩両成敗か念力平和主義くらいしか思いつかないのかなと思った。
 とは言いつつ、欧米のジャーナリズムというのはすごいもんだなと思ったのは、いやあるいはロシアがそれだけ自由化し知識人をもっているということかもしれないが、聞き耳を立てれば、ロシアの声もきちんと聞こえることだ。そういう例として、ゴルバチョフ元大統領のコラムを紹介したい。オリジナルはロシア語でロシアの新聞に掲載されたが、英訳されワシントンポストにも掲載された。”A Path to Peace in the Caucasus”(参照)である。最初に当然ながら、戦闘は誰にとっても痛ましいものであり平和が希求されるとある。最初にあるのは、日本の新聞社説じゃないんだから、それをオチしてはコラムにならないからだが。
 前口上が終わると、簡単にこの問題の背景について触れている。くどいけど、このコラムはロシア人向けに書かれたというのを念頭において読んでいただきたい。


The roots of this tragedy lie in the decision of Georgia's separatist leaders in 1991 to abolish South Ossetian autonomy. This turned out to be a time bomb for Georgia's territorial integrity. Each time successive Georgian leaders tried to impose their will by force -- both in South Ossetia and in Abkhazia, where the issues of autonomy are similar -- it only made the situation worse. New wounds aggravated old injuries.

 ゴルバチョフは、今回の衝突の背景を1991年に誕生したグルジア分離主義指導者の存在に見ている。彼らは南オセチアの自治を否定しようとしているのだ、と。そしてそれがグルジアの領土統合にとって爆弾となり、91年以降、グルジアは軍事力をもって南オセチアとアブハジアにごり押しをし、これが事態を悪化させてしまった、と。
 衝突はどのように発生したと彼は見ているか。

What happened on the night of Aug. 7 is beyond comprehension. The Georgian military attacked the South Ossetian capital of Tskhinvali with multiple rocket launchers designed to devastate large areas. Russia had to respond. To accuse it of aggression against "small, defenseless Georgia" is not just hypocritical but shows a lack of humanity.

 彼は、グルジアが非人道的にも首都ツヒンワリにロケット弾を打ち込み軍事侵攻したと見ている。そこでロシアはしかたなく応答することになった、と。
 ここで私のコメント。今回の衝突、いったいどちらが口火を切ったのか? 日本のメディアだとそこはわからないが衝突はいけないといった落とし所になってしまったが、私はグルジアが口火を切ったのではないかと思う。昨日引用したフィナンシャルタイムズの、グルジアへた打ったなコラムも、その観点から読み直せば、前提にグルジアの暴発説を含んでいるようだ。ただし、サアカシビリの直接的な関与ではないし、その後の経緯から見ればロシアの術中に落ちたことは確かだろう。
 衝突の背景についてゴルバチョフはこう見ている。

Mounting a military assault against innocents was a reckless decision whose tragic consequences, for thousands of people of different nationalities, are now clear. The Georgian leadership could do this only with the perceived support and encouragement of a much more powerful force. Georgian armed forces were trained by hundreds of U.S. instructors, and its sophisticated military equipment was bought in a number of countries. This, coupled with the promise of NATO membership, emboldened Georgian leaders into thinking that they could get away with a "blitzkrieg" in South Ossetia.

In other words, Georgian President Mikheil Saakashvili was expecting unconditional support from the West, and the West had given him reason to think he would have it. Now that the Georgian military assault has been routed, both the Georgian government and its supporters should rethink their position.


 グルジアとしてはいったん衝突の口火を切ってしまえば、西側の援助はガチに決まっているじゃないかという読みがあったのだろう、と。そしてその奢りを増長させたのは米国の軍事的なサポートだった、と。
 私のコメント。グルジアから口火を切ったとすれば、最初から西側をのっぴきならない状況に巻き込む意気込みだったというのは、論理的な帰結のようなもので、そうなのだろう。むしろ重要なのはプーチンはそれを読んでいたし、さらに薄目で見ると、米国もそれを読んでいたのではないだろうか。昨日エントリ「極東ブログ: グルジア問題を少し振り返る」(参照)でなんとなく密約説を含めておいたのはそのためだ。ただ、この読みは現段階では微妙で、むしろ事件以降のロシアと米国の動きにシナリオ感があるかどうかが重要になる。
 さてゴルバチョフはどう落とし所を見ているか。私はコラムを読みながら、彼はなかなかの平和主義者なんだなと思ったが、日本語でそういうと違和感があるにはある。
 南オセチアとアブハジアに関わる紛争は今回が初めてではない。そのあたりはウィキペディアあたりに書いてあるのではないか。ロシアとしては平和維持軍の建前でこの地にプレザンスを持っている。それを前提として、ゴルバチョフはこういう。

When the problems of South Ossetia and Abkhazia first flared up, I proposed that they be settled through a federation that would grant broad autonomy to the two republics. This idea was dismissed, particularly by the Georgians. Attitudes gradually shifted, but after last week, it will be much more difficult to strike a deal even on such a basis.

 私の読みが違っているかもしれないが、彼は、南オセチアとアブハジアに暫定的な連邦を形成しろ、としている。追記: 「グルジアに2自治区を含めた連邦とすべき」と解釈すべきとのコメントをいただいた。

Old grievances are a heavy burden. Healing is a long process that requires patience and dialogue, with non-use of force an indispensable precondition. It took decades to bring to an end similar conflicts in Europe and elsewhere, and other long-standing issues are still smoldering. In addition to patience, this situation requires wisdom.

 そして実際の紛争解決は、時間をかけ、あくまで非軍事的に対話で推進せよ、と彼はいう。それだけ読むと日本の知識人が喜びそうな感じだが。
 そんなことが可能なのか?
 ここがこの問題の急所になるのではないかと私は思う。私は、日本的知識人からずり落ちてしまうが、この問題は対話によるべきで、平和維持軍の投入は違うと考えている。ロシアは対話に応じるだろうし、プーチンとゴルバチョフには基本的な前提が存在しているだろう。もっとも、この対話はかなりタフなもので、その能力の半分もあれば日本は……以下略。
 さて、ゴルバチョフの前提は、そのまま露骨に言えば西側としては受け入れがたいが。

Over the past few days, some Western nations have taken positions, particularly in the U.N. Security Council, that have been far from balanced. As a result, the Security Council was not able to act effectively from the very start of this conflict. By declaring the Caucasus, a region that is thousands of miles from the American continent, a sphere of its "national interest," the United States made a serious blunder. Of course, peace in the Caucasus is in everyone's interest. But it is simply common sense to recognize that Russia is rooted there by common geography and centuries of history. Russia is not seeking territorial expansion, but it has legitimate interests in this region.

 米国の言い分もそれなりに理解した上で、彼は、"But it is simply common sense to recognize"と言い出す。これはロシア人にとっては常識なんだ、と。何か? ロシアという民族国家は歴史的にこの地域に根を持っていているから、どうしようもないのだ、と。ロシアには領土拡大の野望はなく、適正な歴史民族意識の領土を保全したいだけなの、と。
 私のコメント。ここがむずかしい。単純な話、グルジアはそれを認めるはずがないからだ。そして、日本の知識人などは民族国家というのは近代が形成したもので云々とか言いだしかねない暢気さがあって、ゴルバチョフが「常識なんだ」という部分の思いが伝わらないかもしれない。
 それでも、ロシアには意図的には帝国主義的に領土拡大したいという意図はないのだというのは認めてよいのではないかと私は思う、これは他のロシア知識人も主張している。
 そして今回の問題について、グルジアにある西側向けの原油パイプラインを維持したい勢力としては、この地域に集約的に視点をあてるが、ゴルバチョフはこれを広くコーカサスの民族問題として捉えている。

The international community's long-term aim could be to create a sub-regional system of security and cooperation that would make any provocation, and the very possibility of crises such as this one, impossible. Building this type of system would be challenging and could only be accomplished with the cooperation of the region's countries themselves. Nations outside the region could perhaps help, too -- but only if they take a fair and objective stance. A lesson from recent events is that geopolitical games are dangerous anywhere, not just in the Caucasus.

 そしてこうした民族問題を抱える国家というのはロシアだけではないだろうから理解してほしいとゴルバチョフは言う。
 このあたりは、中国にもツボであり、今回の衝突で冷戦構造を煽る勢力は、中国を困惑させロシア側に付かせることにもなりかねない。
 イデオロギー的に見れば、いろいろ意見があり、そしてそれはまさにイデオロギーというものだろう。でも、平和というのものを戦闘のない状態の維持として考えるなら、私は、ゴルバチョフは平和主義の人であると思うし、こういう知識人がロシアに存在することを重視しなくては、対話は成り立たないと思う。

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2008.08.27

グルジア問題を少し振り返る

 5月に遡る。「極東ブログ: 学習すると早死にするらしい」(参照)というおふざけエントリでこう蛇足を書いた。


また3日穴が開いてしまった。しまったな。ちょっと気を抜いていたというか、日々ブログを書いていた時間をTwitterにシフトすると、なるほどそれなりにブログを書く気力みたいのも抜けるものなのかな。ブログが書けないわけでもない。いろいろ思うことはあるし、いくつか書評めいたことも書きたい本もある。


以前なら目下のグルジア情勢やレバノン情勢についてもエントリを書いたものだった。

 5月の時点で、グルジア情勢について書こうと少し思っていた。それを今頃夏休みの宿題のように少しだけ進めておこう。もちろん、問題は、とてつもなく、と大げさに言うのはいけないのだろうが、大きい。だからこそ少しずつ進めておこう、ブログをこのまま辞めてしまうのでないなら。
 とりあえず目下の状況の端緒は、4月2日にルーマニアの首都ブカレストで開催されたNATO(北大西洋条約機構)の首脳会議と見ていいだろう。一番の話題は、クロアチアのNATO加盟であった。これに続いて、アルバニア、マケドニア、グルジア、ウクライナの新規加盟も協議された。アルバニアも加盟した。マケドニアは当初から見送りの方向で、問題はグルジアとウクライナをどうするかだった。この旧ソ連の2国を。
 米国は加盟支持を打ち出していた。ブッシュはそのために東欧巡りもした、というか引き際の花にしたかったのだろう。仏独は問題を見送った。つまり加盟を否定した。なぜ? ロシアに配慮したからだ。ロシアを刺激しないように、ロシアと仲良くやっていくために、敵対的な関係を作るべきではない、とかいうことで。そして、つまり、それが今回の結果になったというと、話が急ぎすぎるのだが、ようするにそういうことだ。
 それから無人偵察機関連の危ない話が起きる。4月20日にグルジアの無人偵察機がグルジアの自国領内なのにロシアのミグ29戦闘機によって撃墜された。5月8日、ロシアの支援でグルジアからの独立を目指すアブハジア自治共和国は、アブハジア域に入ったグルジアの無人偵察機を撃墜した。が、グルジアはこれを否定。
 その間の4月29日、ロシアはアブハジア自治共和国に駐留する兵力を増強すると発表。理由は、グルジアがアブハジアへの軍事作戦を準備しているから、アブハジア内のロシア人を保護しなければいけないということ。もちろん、グルジアは怒る。6月に入り、NATOデホープスヘッフェル事務総長はロシア軍の撤退を要求。形だけね。
 さらにこの5月、ロシアではメドベージェフ大統領誕生、グルジアでは議会選挙サアカシビリ大統領与党「統一国民運動」が勝利。ここでサアカシビリ大統領は反ロシアを煽ってもいた。
 洞爺湖サミットは、実はこうした流れで、米ロ対談の場でもあったけど、なんとなくあまり報道されなかった。
 7月8日、ロシアは同じくグルジアからの独立を目指す南オセチヤ自治州上空を軍用機で領空侵犯。もちろん、グルジアは怒る。さらに、アブハジアで爆弾事件。南オセチヤでグルジア軍兵士が拘束。事件事件というか、チキンレース。
 15日からはグルジア(600人)と米国(1000人)が2週間合同軍事演習をグルジア内で始める。同日、ロシア(8000人)もグルジアに隣接する北カフカス軍管区対テロ演習を開始。まあ、緊張といえばそうだけど、なんとなく大物が出て落ち着いた感はあったし、洞爺湖サミットで米ロに密約でもあったのかもしれない。ところが北京オリンピックでブレイクしてしまった。
 さてあのころのワシントンポストから。4月22日。
 ”Aggression in Georgia”(参照)では、NATO首脳会議は、旧ソ連の2国にもたついたメッセージを送ったと断じていた。

LAST MONTH, NATO sent a muddled message to Ukraine and Georgia, fragile European democracies that are seeking membership in the Western alliance. Pressed by President Bush, a NATO summit meeting issued a statement declaring that the two countries "will become members of NATO" someday. But the alliance also deferred the requests of their governments for "membership action plans," the bureaucratic vehicle for joining, at the insistence of France and Germany -- which made it clear they were deferring to Russian objections.

 ここまでは普通の読みなのだが、これをワシントンポストはこう見ていた。

Russian President Vladimir Putin read NATO's ambivalence exactly as Georgia's president predicted he would -- as a sign of weakness.

 プーチンはNATOが弱腰になったと受け止めたというのだ。
 弱腰っていうことは、旧ソ連の2国について、NATOが手を離したなと見た、ということでもある。NATOがプーチンGOGOのシグナルを結果的に送っていた。
 もともとアブハジアと南オセチアは、ロシアとしては仕込みをしていた。

Russia has backed Abkhazia and South Ossetia in their rebellions against Georgia ever since Georgia became an independent country after the breakup of the Soviet Union. It has dispatched its own personnel to head ministries in the separatist regions and issued passports to many of their remaining citizens. Now it is treating the provinces as if they were autonomous Russian republics and attacking Georgia's aircraft as if they were over the territory of Russia, rather than in Georgia.

 旧ソ連のように2自治共和国をロシアの一部に見なしていた。
 そこでNATOの弱腰!

Mr. Putin clearly expects that Georgia's would-be Western allies will take no concrete steps to defend it -- and will shrink from any further step to bring it into NATO.

 NATOは動きませんよ、ということになった。
 ワシントンポストは、これはまずいとしてブッシュに動けとつっついている。それはNATOの弱腰をワシントンポストも認めてのことだ。

The appropriate and proportionate response is for NATO to take its own concrete steps toward integrating Georgia and Ukraine. An alliance meeting in December is due to reconsider the issue; the Bush administration should insist that a decision on membership action plans for the two nations be made then. It should also propose a new international mechanism for resolving Georgia's dispute with its provinces, one that cannot be dominated by Russia.

 4月22日の時点でだがブッシュが動かなければ、NATOの線引きが変わると危惧を表明している。

If it shrinks from challenging Mr. Putin's actions, NATO will allow a new line to be drawn in Europe -- one that leaves Georgia and Ukraine on the wrong side.

 でも、ブッシュは動かなかった。
 ニューヨークタイムズはほぼ悲鳴を上げる。5月6日、”Georgia, NATO and Mr. Medvedev ”(参照)より。

Russia is playing a game of cat-and-mouse with neighboring Georgia that, if everyone is not a lot more careful, could quickly turn deadly.

 結論からいえば、その3か月後、北京オリンピックの宴の陰で"could quickly turn deadly"ということになってしまったのだけど。
 ニューヨークタイムズは、ブッシュのケツを蹴るより、サアカシビリにここが我慢のしどころだぜと諭す。

Georgia’s leaders must also resist being baited into a fight by Moscow. That will surely doom their dream of NATO membership.

 グルジアが短気を起こせば、NATO加盟の道を閉ざすことになる、ということは、これは見方によればプーチンうまーの話。ということで、あとは、ロシア側としては、グルジアの堪忍袋をなでていればいつか、実は落ちるということだった。
 ここで、ニューヨークタイムズは少し興味深い指摘もしている。

The United Nations Security Council should also consider replacing Russian peacekeepers in Abkhazia with genuinely independent troops.

 アブハジアにいるロシア軍を国連軍にしちゃいなというのだ。この点、日本だと、国連幻想があるから、国連軍がこの地域に平和維持で入ればいいとか、たぶん、脊髄反射で言いがち。あるいは、ロシア軍よ撤退せよとか。
 ニューヨークタイムズも結果的には、これは仏独の問題だろ、しっかりしろよとは言っている。

NATO needs to work with both sides to defuse the growing crisis. France and Germany, which argued for putting off Georgia’s membership, have a special responsibility.

 これだけ緊張が高まっていながら、結局3か月も特になんにもなかった。まさか、北京オリンピックで勃発するとはね。
 ということで、8月11日付けで邦訳されたフィナンシャルタイムズ”傷ついたプライドのせいで発火、南オセチアの偶発戦争”(参照)の表現は当たっている。

しかし今のこの情けないていたらくの真相はもしかしたら、陰謀というよりは、ヘマと呼んだ方が近いのかもしれない。いつかは起きるに決まっていたヘマ、ではあったが。ロシアはもう何年も前から、グルジアをわざと挑発し続けていた。グルジアからの分離独立を求めるアブハジアや南オセチアを支援し、グルジアに対して禁輸措置をとっていたのはロシアの方だ。これに対してサアカシュビリ大統領は、防衛費を拡大し、軍事力行使の可能性を否定しようとしなかった。とはいえ大統領は、実際に軍事行動に出るつもりはなかったのだ。各方面の消息筋によると、大統領は今回の軍事衝突について、決して心構えが出来ていなかった。北京五輪の開会式に出席するべく、フライトの手配もしてあったというのが、何よりの証拠だ。


もしグルジアが最初から、南オセチアを軍事占領するつもりでいたのなら、当然ながらロキ・トンネルをあらかじめ封鎖したはずだ。ロシア軍が北オセチアの山間部を経由して支援部隊を現地に送り込むには、このルートしかないのだから。しかし実際には、グルジア軍のツヒンワリ攻撃開始からわずか数時間の内にロシア軍の戦車が南オセチアに侵攻していた。

 なんとなく締めの一言を言うのもなんだなあという感じがしてくる。
 それにしても、ヘマかあ。国際情勢や軍事のセンスがないとヘマになるんだろうな。

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2008.08.24

[書評]私のアメリカ家庭料理(長島亜希子)

 どこの国の料理が一番食べたいと聞かれて、そして正直に答えてよさそうなら、私はアメリカ料理と答えてしまうかもしれない。それでいいのかなと今一度自分に問うてみて、それほど確たるものはないが、概ねそれいいかなとやはり思う。自分に一番合う料理はといえば、気分とか季節にもよるけどなんとなく地中海料理かトルコ料理かもしれないが、ああ食べたいなというときに思うのはアメリカ料理だし、家庭料理ということで思い浮かべるのもアメリカ料理だ。アメリカ料理って、ところで何?

cover
私のアメリカ 家庭料理
長島亜希子
 長島亜希子が生涯の1冊の本として、特に娘さんが大学を卒業するの合わせて書かれた「私のアメリカ家庭料理」(参照)は私のアメリカ料理のイメージがつまった本だ。掲載されている料理は1960年代のもの。私は1957年生まれ。別段アメリカ家庭料理を食べて育ったわけでもないけど、わずかに進駐軍文化や、当時のアメリカのホームドラマなどの影響から、そんな思い込みがあるのだろう。そして、不思議なことに、私の人生もなにかとアメリカ家庭料理のようなのものを食べる機会が多かった。特に沖縄暮らしでは意識して、米軍文化が残したアメリカ料理を食べた。玉城村(現南城市)にあるチャーリー・レストラン(参照)や浦添市の米国領事館跡のピザハウス(参照)・(参照)にはよく通った。
 長島亜希子は昭和18年生まれ。小・中学校は雙葉学園。栗本慎一郎の本にそのころの彼女の思い出話があった。1958年、15歳のとき高校からインディアナ州ココモハイスクールに単身留学。氷川丸に乗った時代だった。船酔いでふらふらしながらシアトルに上陸。三日三晩大陸横断鉄道に揺られシカゴへ。ローカル線に乗り継いでココモについた。そこでビクスビー家にホームステイ。ビクスビー家の転居で高校三年の時友人のクーンズ家に移った。クーンズ家の母親はココモ・トリビューンの編集長をしていた。

午後3時ごろ仕事を終えるママ・クーンズは、ひと休みしたのち、手早く用意した料理をオーブンに入れるか大鍋で煮るかします。パパ・クーンズが帰宅すると、パパ、ママ、テレサ、それに私の一家全員で「食前のカクテルアワー」が始まります。パパはママと自分用にマルティーニ(カクテルの一種)を作り、テレサと私はコーラを片手にリビングルームに腰を下ろし、ポテトチップスをつまみながら一日の出来事を話すのです。

 彼女はそこから家庭料理を含めた家庭の理念のようなものを学んだのだろう。

 楽しい思い出をたくさん与えてくれたアメリカの’60年代。そこには古き良きアメリカの生活がありました。そこにはまた、素朴で情け深く、他人の喜びをわが喜びとし、他人の悲しみは己の悲しみとする、まことに信仰心の厚い人々が住んでいました。私はその生活と人々によって多くのものを学んだのです。”’60年代”は私の青春と共に永遠に過ぎ去ってしまいましたが、アメリカが私にくれた”贈り物”はいつまでも心の奥深く残って、励ましてくれているように思えます。

 そして彼女は、このレシピ本をアメリカへのお返しという意図も込めて書いたという。
 レシピを見るとわかるし、巻末の食材リストを見てもわかるが、スパムやビスクイックなど缶詰や簡単料理の食材に溢れていて、いわゆる料理のレシピ本とは違い、60年代の、あるいはそれからあまり変わらない米国の家庭料理のそのままが描かれている。

 紹介したい料理は数限りなくありますが、ここではふだん我が家で数多く作るものだけに絞りました。

 長島家の普段の食卓がそこにあると言っていいだろう。
 先日、このレシピ集からアボカドのグラタン(Baked Avocado)を作った。アボカドのグラタンにはいろいろなレシピがあり、ネットを検索するとそれなりにレシピが出てくる。長島亜希子がココモで覚えただろうレシピはこうだ。カップは米国標準なので240ccになる点を注意されたい。説明は私流にする。正確には本書を参照されたい。

(6人分)
アボカド(熟れたもの) 3個
タマネギみじん切り 1/2カップ
マッシュルーム薄切り 1/2カップ
エビまたはカニ(または両方) 適量
カレー粉 小さじ1/2
パン粉 1/4カップ
パルメザンチーズ 1/4カップ
レモン汁 少々
バター 大さじ1

1 アボカドは縦割り。果肉を取り出しフォークで適当にマッシュ。変色しないようにレモン汁を混ぜる。アボカドの皮は器にするのでとっておく。
2 タマネギ、マッシュルーム、エビ(カニ)をバターで炒めカレー粉で調味。あら熱を取る。
3 1と2を混ぜ、アボカドの皮のうつわに入れる。
4 パン粉とパルメザンチーズを混ぜて、表面に振りかけ、中火オーブンかオーブントースターで表面がきつね色になるまで焼く。


 レシピを見るとわかるがチーズの塩味以外に塩は入っていない。調味に少し入れてもよいかと思う。カレー粉は6人分で小さじ1/2ということ。このくらいに控え目にしないとうるさくなる。

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2008.08.15

霞が関に50兆円眠っているから、日本経済は大丈夫?

 今月の文藝春秋で高橋洋一が書いている『新「霞が関埋蔵金』50兆円リスト」(参照)が面白かった。高橋洋一の著作では以前「極東ブログ: [書評]さらば財務省! 官僚すべてを敵にした男の告白(高橋洋一)」(参照)と「極東ブログ: [書評]霞が関埋蔵金男が明かす「お国の経済」(高橋洋一)」(参照)に触れた。

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文藝春秋
2008年 09月号
霞が関埋蔵金リスト掲載
 以前の霞が関埋蔵金の所在は、もうばっくれようにもないなという追い込み方がも興味深かったのだが、なんとなくそれ以上の深掘りはできるとは思えなかったし、今から50兆円も掘れるとは思ってもいなかったので、驚いた。私は科学以外の「知識」というものにそれほど価値を置いてない人なのだが、本当の「知識」というのは怖いものだなと思った。正直に言うと、その怖さは諸刃の剣だとも思うけど。
 今回の話で、50兆円という金額にも呆れるのだが、それ以前の掘り出し埋蔵金の話も興味深いものだった。

 「霞が関埋蔵金」はこれまで二度、掘り出されてきた。竹中大臣のもと、経済財政諮問会議で仕事をしていた私がその在り処を示したために、のちに「埋蔵金男」という仇名まで頂戴した。
 最初は二〇〇六年の小泉政権下で、すったもんだの末、約二十兆円あまりの埋蔵金を吐き出させた。主なものは、「財政融資資金特別会計」から十二兆円、「外国為替資金特別会計」から八兆円、両方とも財務省所管の特別会計である。
 彼らは「もう余剰金はない」と言っていたが、翌二〇〇七年末、清和研の指摘をしぶしぶ認め、ふたたび財政融資資金特別会計から九・八兆円の埋蔵金が出てきた。

 よく出したものだなと当時は思っていたのだが、その顛末が面白い。これは国債償還に宛てることになった。

 だが、財務省が国債償還に使うといった埋蔵金九・八兆円分をどうするのか。実は、日本銀行が保有する国債三・四兆円分と、財務省の財政融資資金が保有する国債三・四兆分を買い入れるという。
 はっきり言って、これは国債償還したことにならない。財務省はもちろん政府の一部だし、日本銀行も広義では政府のなかにある。つまり、財務省の隠しポケットにあった「埋蔵金」を、同じ服についている日銀というポケットと、もう一つの財務省のポケットに移し替えているに過ぎない。

 そのくらいはするだろうなとは思うけど、その効果と背景はちょっとぎょっとした。自分がいかに経済学に無知かということでもあるけど。

 もし、財務省の目がきちんと国民のほうに向いていれば、埋蔵金九・八兆円を全額、市中の国際償還金にあてただろう。もしそうしていたならば、金利はもっと低下し、これほどまでに景気は落ち込んでいなかっただろう。

 ちゃんと市中に埋蔵金を出せばリフレ効果があったのか。というのと、逆にこうした埋蔵金の存在それ自体が日本経済をデフレに追い込む機能があるわけか。一種の巨大な箪笥だし。
 高橋はこう疑問を投げる、陰謀論に聞こえないわけでもないが。

 なぜこんなことをするのか。財務省と日銀との間で、密約でもあったのだろう。日銀は国債を保有することを過度に嫌う。どこの中央銀行でもマーケット・オペレーションは国債を中心にやっているけど、日銀は違うのだろうか。

 いずれにせよ、九・八兆円は埋蔵金に戻ったのでまた掘り返せる。しかも今年中に確実に掘り出せる。すごいな。
 目下の日本経済はこの記事の他所で触れているように、食料・エネルギーを除いた消費者物価指数を見ると、〇・1パーセント。横ばい状態。国内は依然デフレが続いている。

 しかも、海外の物価が上がっているため、国内の所得が海外に移転している。原油や食料を輸入しているため、実は二十五兆円ほど海外にカネが流出してしまた。これも日本国内のデフレ(お金が足りない)傾向を助長している。


 国内がデフレから完全に脱却していないのに、海外がインフレだから、「外からのインフレ圧力」で苦しいのだ。
 こうした場合、金融政策のセオリーとしては金融緩和をして、中央銀行が国債を買い取り、国内のマネーの流通を増やすのだ。海外にお金を吸い取られ、国内の所得が減った分を埋め合わせるべくお金を増やす。
 国内のお金が増えれば、なんとか価格を国内に価格転嫁できるようになる。海外のインフレによる負担を国民全体で、広く薄く負担したほうが楽なのだ。

 つまりはリフレということで、そしてリフレは実際には増税と似た効果を持つが、消費税のような逆進性は少ないし、また、特定分野だけの値上げよりはマシということなのだろう。
 このあたりの高橋の説明は私などはディテールまでよくわかるわけではないが、それほど理解しづらいものではない。

 なぜか日本のエコノミストは指摘しないが、これは金融政策のセオリーとしては大学生の教科書レベルの話である。逆に、原油価格が上がっているから、インフレだといって金融を引き締めようとするのはまったくおかしい。せめて、GDPデフレーターがプラスになるまで、金融緩和すべきだ。金融引き締めはGDPデフレーターが二~三パーセントになるまで控えたほうがいい。

 先日のフィナンシャルタイムズの指摘だとこのレベルにまで上げるにも、外圧インフレでは十分ではないらしい。よほど政治が必要なんだろうなという感じがする。
 話を埋蔵金に戻すと、埋蔵金掘り出しがその効果、リフレというかインタゲ的な効果を持つかというと持つわけはないが、援助にはるだろうし、まさに、政治のコミットになるだろう。ただ、これもフィナンシャルタイムズが指摘したように、そこは、デッドロックだ。
 さっさと浅堀できる埋蔵金が6・8兆円としても、50兆円なんて額はどこから出てくるのかというリストが記事には掲載されている。清和政策研究会提言を文藝春秋がまとめたもので、清和政策研究会提言はネットリソースとしては”「増税論議」の前になすべきこと―「改革の配当」の国民への還元―”(参照)だろう。

1.平成20年度中の対応(最大6.8兆円)
2.平成21年度予算での対応(10兆円以上)
3(1)3年以内の「改革の配当」の国民還元(9.2兆円超)
3(2)3年以内に合意形成をめざすべきもの(最大31兆円)

 べたに計算して50兆円を越える。ほんまいかな。
 詳細を見ると、埋蔵金というよりは、政府というもののありかた、あるいは官僚体制の在り方が問われる部分なので、これは今後どのような政権になっても問われるものになるだろうし、次回衆院選挙で、私は基本は民主党による政権交代を支持するのだが、この埋蔵金にどう答えるかによっては考え直そうかなと思う。もともと郵政の民営化は小沢も民主党も主張してたはずなのにああいうことするからな。
 ただ、この埋蔵金を掘り出せば、日本は本当に変わる。どう変わるかといえば、地方分権が伴わないといけない。それが今の日本を取り巻く外交的に危機的な状況で可能かなという懸念はある。外交的な危機を演出されるのも困るが、平和念仏で平和になるわけもないので、そのあたりの、我慢のしどころというのは国民にとってむずかしいところだろうなとは思う。

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2008.08.11

フィナンシャルタイムズ曰く、小泉だったら日本は成長できるのに

 フィナンシャルタイムズの日本関連の記事は最近では「フィナンシャル・タイムズ - goo ニュース」(参照)にオフィシャルな翻訳が出ることが多いので、4日付けの”Japan’s recession is not a recession”(参照)もそのうち出るんじゃないかと期待したが、今日11日になってもそんな気配はないし、4日付けの記事はなんとなくスルーされた感じなので、ほいじゃ、このブログで扱いますか。
 というか、一応普通に日本の知識人ならフィナンシャルタイムズの社説くらいは読んでいるんじゃないかと思うけど、この話題、他所では特に見当たらないようだが、どう? それほど話題になるようなネタじゃないということなのかもしれない。つまんない話題は当ブログのお得意だな。
 標題の”Japan’s recession is not a recession”は、「日本の景気後退なんて景気後退じゃないよ」ということ。


Fears that Japan’s government will soon be forced to declare a “technical recession” make a fine example of how useless the technical definition of a recession really is. Japan is suffering a slowdown but it has no house price bubble or credit crunch to deal with and its export markets in Asia are still growing. What the economy needs most is robust reforming policies from the government, not an ill-designed fiscal stimulus, or an excessive response to high inflation by the Bank of Japan.
(試訳)
日本政府が近々「自律的景気後退」宣言を出さざるをえないという恐怖は、自律的景気後退という定義がいかに無意味であるかということの好例になる。日本は景気減速に苦しんでいるものの、対処すべき住宅価格バブルも貸し渋りもなく、アジア向け輸出市場は依然成長している。経済で最も必要とされることは政府が力強い改革方針であって、下手な立案の財政出動や、高インフレに対する日銀の過剰反応ではない。

 簡単にいうと、日本の景気後退なんて世界的に見ればどんだけぇ~ということだよ、と。
 ほんとかねと日本人なら疑うわけで追い打ち。

The usual definition of a recession --- two consecutive quarters of negative growth --- matters little for two reasons. First, Japan’s notoriously volatile statistics recorded 4 per cent growth in the first quarter of 2008, so negative numbers in the second and third quarters are still compatible with a strong result for the year. Second, Japan’s stagnant population means its economy cannot grow as fast as others: recession is no worse for Japan than growth of below 1 per cent is for the US.
(試訳)
四半期が二期連続してマイナス成長なら景気後退だとする通常定義がそれほど重要なことでないのは二つの理由がある。第一に、日本は2008年の第一四半期に悪名高くも4%成長の急変記録を遂げているから、第二、第三四半期がマイナスであっても依然年間通して見れば強い結果になっている。第二に、日本の人口停滞は他国ほどの経済成長が不可能であることを意味している。つまり、日本の景気後退は米国の一パーセント成長よりひどいということはない。

 つうわけで、稼ぎ時に稼ぎやがって日本人何言ってんだというのが世界の視線、ということだろう。もともとそんなに稼げる国じゃないんだよ、これからは、と。
 ということでこの先フィナンシャルタイムズ社説はまあ日本のこれからの停滞は深刻といえば深刻だよねという同情はしている。
 じゃ、どうすりゃいいの?
 そんなこと口酸っぱく言っているだろ的フィナンシャルタイムズのお怒り感が微笑ましい。こんな感じ。

That is disappointing. Japan, once again, has failed to turn export-led recovery into sustainable growth powered by consumption at home. Compared with the US, UK or Spain, however, wrestling with inflation as well as a housing slump and a gummed-up financial system, Japan’s problems are minor. Large companies are still exporting and one month of bad trade data, for June, is no cause for panic.
(試訳)
がっかりしたのなんのって。日本はまたも輸出主導型回復から国内消費に裏打ちされた持続的経済成長への転換に失敗してしまった。とはいえ、住宅需要の落ち込みやぐちゃぐちゃの経済システムに加えインフレに格闘している米国、英国、スペインといった国に比べて、日本の問題なんてたいしたことはない。大半の企業は依然輸出しているし、6月の一か月ほど貿易統計がまずくても、パニックの理由にはならない。

 いや、うらやましいんじゃないか、世界の国からすると日本の経済は、こんちきしょー、というくらい。いや、こんな時にまた日銀やってくれるなよというフィナンシャルタイムズというか世界からのハラハラ感はけっこうマジっぽい。

The Bank of Japan should keep interest rates on hold. Headline inflation may be higher than it prefers but the slowdown already in progress should create spare capacity and it will take more than expensive gasoline to persuade Japanese consumers, accustomed to deflation for so long, that they should expect further price rises.
(試訳)
日銀は低金利を維持すべきだ。消費者物価指数は想定より高いかもしれないが、すでに進行中の減速によって余剰生産能力が生まれる。また、長期のデフレに慣れきった日本の消費者が物価上昇を期待できるように説得するには、ガソリン高騰以上のものが必要になる。

 すげぇ。いや、英語で読んだときは、ふふふふ、ブログのネタになるじゃじゃないか、おいしいなこの話とか思っていたのだが、訳してみると、けっこうすごいこと言ってる感が迫ってくる。ぶっちゃけインフレ期待を形成するにはガソリン高騰にくわえて、バイキンマン許さないぞアンパーンチとメロンパンナのメロメロパーンチ的な政策が必要になるということか。すげぇな。

Japan’s government, by contrast, could do much to support growth if it revived the structural reforms of Junichiro Koizumi, the former prime minister.
(試訳)
日本政府は、これに対して、経済成長支援に多くのことができる……もし前首相である小泉純一郎の構造改革が復活するならば。

 もちろん、そんな夢を世界が持っているわけはない。絶対にない。あるわけない。EUにも中国にも米国にも第三世界にも、まさか、日本が小泉時代に戻るなんて以下略。

Political deadlock makes that unlikely but what prime minister Yasuo Fukuda can do is resist a wasteful fiscal stimulus. Fuel subsidies for the fishing fleet, already announced, are a bad idea --- but a return to building roads to nowhere would be much worse.
(試訳)
もちろん政治的なデッドロック状態の日本ではありえない。しかし現首相の福田康夫君だって無駄な財政刺激に抵抗することはできる。すでに公約された漁船のための燃料補助金は悪い考えだが、それでも行き先のない道路建設に戻るというのはさらに、ひどすぎ。

 でも、そのひどすぎの道を辿るんじゃないか。
 人生塞翁が馬、日本塞翁が馬。西洋人や世界の人からは愚かに見える日本の政治経済がよい結果にならないとは限らない。

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2008.08.10

赤塚不二夫の満州

 2003年8月14日に始めたこのブログも5年になる。まだ45歳だったな、まだ若かったなみたいに思うけど、また5年もすれば今があんときゃまだ若かったなになるのかもしれない。いつまで私は生きているんだろう。いつまでブログを書いているんだろう。
 ブログを始めた数年は毎年8月には戦争ネタを書いたものだったが、昨年あたりからそういうのも飽きてしまった。が、昨年の8月にはジョー・オダネルが死んで、いろいろ考えさせられるものがあり、「極東ブログ: ジョー・オダネル(Joe O'Donnell)のこと」(参照)を書いた。今年はそういう、胸に迫るような戦争関連の出来事はあるだろうか、これからあるのかよくわからない。そういえばこの間、沖縄でお世話になった古老が幾人かお亡くなりになった。戦禍を生き延びたオジー・オバーみんな百まで生きてくれるというわけではないな、もっと話を聞いておけばよかったな。
 先日佐野洋子のことをふと思い出した。というか、「私の猫たち許してほしい」(参照)を思い出した。書架を探したが見つからない。実家にもないかもしれない。たしかこのエッセイに彼女が生まれた北京のアカシアの話があった。あるいは、「アカシア・からたち・麦畑」(参照)だったか。「猫ばっか」(参照)ではないだろうな。最近とんと佐野洋子の本を読んでいないことにも気が付いた。ちなみに、「100万回生きたねこ」(参照)は嫌いでもないがそれほど好きでもない。「空とぶライオン」(参照)が好きだ。
 佐野洋子の北京は赤塚不二夫からの連想だった。赤塚不二夫は昭和10年9月14日旧満州熱河省に生まれた、とウィキペディア(参照)には書いてある。またウィキペディアが参照しているヴィレッジセンターのプロフィール(参照)には、「旧満州熱河省承徳市に生まれる」とある。が、自伝的エッセイ「これでいいのだ」(参照)にはこう書かれている。


 ぼくはこれまで説明が複雑になるので、中国の承徳(旧満州国・熱河省。現在、中国の河北省)生まれだといってきたが、しかし正確にいうと承徳から西へ直線距離で70キロほど行った古北口(北京市東北部)生まれである。
 本籍がある新潟県西蒲原郡四ツ合村(現在、潟東村)大字井随809番地の戸籍謄本から見ると、
 赤塚藤雄 昭和10年9月14日 父・藤七、母・リヨの長男として満州国熱河省灤平県古北口古城裡22号において出生 父・藤七届け出
 となっている。

 なぜそこで赤塚不二夫が生まれたか。父の仕事に関係する。

 古北口というところは北からきた万里の長城がこのあたりで東に伸びるところで、旧満州国と中国の国境沿いの町だ。当時、満州国で抗日ゲリラと対峙する〈古北口国境警察隊〉の特務警察官だったおやじは、女房、子供を引きつれて危険地帯を転々としていたのである。

 そういえば、ウィキペディアには父についてこう書いている。

「バカボンのパパ」のモデルであり[1]憲兵であった父親は第二次世界大戦終戦直前にソビエト軍に連行されてしまい、残された家族は1946年に母の故郷の奈良県大和郡山市に引き揚げる。

 これも正確ではない。藤七は小学校を出て農業を手伝った後、憲兵の試験を2番で合格する。

 それだけ苦労してなった憲兵だったのに、おやじはこの陸軍のエリートコースをあっさり捨てた。満州に渡ってのことだが、昭和8年、上官の理不尽ないい分が我慢できず辞意を申し入れたのである。そのあと選んだ職業が警察官だった。警察官といっても通常のそれではない。反満、反日の中国人ゲリラと、目には見えない最前線で命を張って渡り合う特務警察である。

 憲兵ではないことは明らかだが、警察官というのともやや違う。現代では説明がむずかしい。藤七も中国語を駆使し、不二夫も物心ついたころから中国語を話していた(後年忘れたとは言っている)。
 藤七は息子を戦闘の場に連れ出したことがある。すこし長い引用になるが、藤七という人間を、そして赤塚不二夫という人間を知る重要なエピソードだろう。

 ある晩、隣の砦のほうから突然、ドカーン、パンパンパン……と爆発音に続く銃声が聞こえた。
 「襲撃だ!」
 おやじは言うが早いか制服に着がえてぼくと一緒に外に飛び出した。「ぼくも行く」と言ったからなのか、それとも「お前もこい!」とおやじがぼくを促したからなのかは定かではない。しかし、火事場見物ではない。深夜の殺し合いに、たとえ子供にせがまれたからといって連れて行くというのは考えにくい。やはりおやじは自分の意志で息子をあえて殺戮現場に連れて行ったのだろう。おやじは長男であるぼくに、ゆくゆくは父親のあとを継がせたいという明確な意志を持っていた。
 この夜の同行も、この意識から出たことにちがいない。
 外に出ると小規模だが日本の正規軍と、”満系”も集合、トラック何台かに分乗して現場へ急行した。到着したときはすでに敵の襲撃は終わり姿を消したあとであり、一家皆殺しに遭った千葉さんの家が焼け落ちて煙がプスプス立ちのぼっていた。敵は明らかに千葉さん一家を標的として選び、襲撃したのである。
 おやじの首には当時の金で2千円の賞金がかかっていた。当時としては途方もない大金である。べつに護衛に守られていたわけではないおやじが、裏切りや密告によってつかまる可能性はそれほど低くはなかったはずだ。おやじが砦の外の村へ出たとき、村人の1人が敵に連絡すればそれまでである。だが村人は誰もおやじを敵に売り渡さなかった。こういうわけで、おやじだけではなく赤塚家も襲撃されることがなかった。
 砦には時々、さまざまな物資を積んだトラックが到着した。おやじはその物資をよく村人に分けていた。
 「敵も味方も同じ人間じゃないか」
 なにか見返りを期待したわけではない、こちらに真心があればそれは必ず相手に通じるはずだ――これがおやじの人間観だった。

 これは中国的な人間観なのかもしれないし、赤塚不二夫という人の人間観にはこうした根があるのかもしれない。
 赤塚不二夫は同じく満州で生まれた兄弟姉妹をこう語る。

 ぼくのきょうだいは長男であるぼくをかしらに、妹、弟、弟、妹、妹――の男3人女3人、6人きょうだいである。しかし、幼い時の死別と生き別れで半数になってしまった。

 次女綾子は6か月でジフテリアで亡くなった。生き別れは弟の一人で他家に養子になった。「後年、ぼくは一度だけこの弟に会ったことがある。戦後、成人して茨城県の炭坑で働いていた彼に、実の兄とは名乗らずにそれとなく会った」とある名乗らなかった仔細は書かれていない。
 父・藤七はシベリア抑留となり、日本への帰還は母リヨ一人の手によることになった。子供がはぐれないようにつかまっていたという。書籍「これでいいのだ」の裏表紙の絵はこれを表現したものだろう。本書の読後に見ると涙がこぼれてくる。手を離せば残留孤児となったかもしれない。
 赤塚不二夫にとって日本は異国だった。

 ぼくが初めて眼にする日本だ。行けども行けどもコーリャンと畑とでっかい夕陽、乾いた道が一瞬にして大河に変わる光景、一寸先が見えなくなる黄砂……、といった風景しか見たことのなかったぼくにとって、今、眼の前に広がる風景は新鮮そのものだった。

 そして子供の赤塚不二夫は日本で満州帰りとして差別される経験もした。
 死んだ次女の名を受けたもう一人の妹綾子は日本に辿りついて亡くなった。

引き揚げの途中で子供に死なれでもしたら、かあちゃんは半狂乱になったかもしれない。でもここまできて綾子に死なれたのなら、かあちゃんには自分を責めるものは何もなかったし、泣く理由も感傷ももうなかったのだろうと思う。
 そういう意味では、生後わずか6か月で死んだ綾子は、本当にかあちゃん思いの親孝行な妹だった、とぼくは思っている。

 その思いを抱えて生きるということが戦争というものの一つの意味なのだろう。
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これでいいのだ
赤塚不二夫

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2008.08.09

赤塚不二夫のこと

 赤塚不二夫のことといっても、私は赤塚不二夫に面識はまるでない。赤塚不二夫の漫画を読んだ無名の一人というだけのこと。そこから思うことを少し書くというだけのことだ。昨日のエントリ「極東ブログ: [書評]これでいいのだ(赤塚不二夫)」(参照)の続きのような話なので、その2としてもいいのだが、ちょっと違うかもしれない。
 赤塚不二夫が亡くなっていろいろな感想をメディアやネットで見た。私はあるズレを感じた。自分が何か正しい感覚を持っているというようなことではない。なんだろうこのズレの感覚はと自分を訝しく思った。ブログなどでタモリの弔文が賞賛されるのにも少しズレを感じた。弔文が悪いということではまったくない。それどころか畢生の言葉だろうと評価するし、タモリは見えないところで赤塚に尽くしていたに違いないとも確信している。
 ズレの感覚を抱えながら、そこに一番近く触れるのは栗パパの昨日のワッサーステータス「赤塚不二夫の漫画で笑ったことないから世とのずれに戸惑ってる。」(参照)だった。栗パパはまだ二十代だろうか。さすがに二十代ではわからないだろうと思うが三十代から四十代にとっても、実際には赤塚不二夫の漫画は、笑えない戸惑いがあるのではないだろうか。
 竹熊先生は「追悼・赤塚不二夫先生」(参照)で、「自分の幼少期は「赤塚不二夫で始まった」と言って過言ではなく、特にギャグやお笑いに関しては、自分の感性の基盤となった人です。」と書かれたが、私より三つ年下の竹熊先生でそうだろうか。いや疑うわけでもないのだが、私の世代ですら、ある違和感があったのではないだろうか。
 赤塚不二夫は作品が多いようにも見えるが、おそらく代表作は、「おそ松くん」「ひみつのアッコちゃん」「もーれつア太郎」「天才バカボン」くらいだろう。もちろん、それらがどれも大量にあるとも言えるし、そして「レッツラゴン」などを代表作に入れるかはいろいろ議論もあるだろう。
 ウィキペディアの記載(参照)を借りてこれらの作品の時系列を見直すと考えさせられる。


1962年、「週刊少年サンデー」で『おそ松くん』、「りぼん」で『ひみつのアッコちゃん』の連載を開始すると一躍人気作家となる。
1963年、トキワ荘時代の仲間が設立したアニメーション製作会社のスタジオ・ゼロに参加。
1964年、『おそ松くん』で第10回(昭和39年度)小学館漫画賞受賞。
1965年、長女のりえ子が誕生[7]。また同年、長谷、古谷三敏、横山孝雄、高井研一郎等とフジオ・プロダクションを設立。
1966年、『おそ松くん』がスタジオ・ゼロ製作で毎日放送系でテレビアニメ化。
1967年、「週刊少年マガジン」(講談社)にて『天才バカボン』を発表。天才ギャグ作家として時代の寵児となる。また、テレビ番組『まんが海賊クイズ』で当時は漫画家としては異例のテレビの司会を担当し、黒柳徹子と共に司会を行った[8]。
1969年、『ひみつのアッコちゃん』『もーれつア太郎』がNETテレビ(現在のテレビ朝日)系列でテレビアニメ化。
1971年、『天才バカボン』が読売テレビ系列でテレビアニメ化。
1972年、『天才バカボン』で文芸春秋漫画賞を受賞。また同年、フジオ・プロに財政的な余裕が生まれたため「赤塚不二夫責任編集」と題した雑誌『まんがNo.1』を創刊。実質的な編集作業は長谷が行い、不二夫の荒唐無稽なイメージを伝える事に腐心した。しかし1号につき250万円程の赤字を出し、1973年に6号で休刊[9]。

 この時系列成立でよいのかわからないのだが、大きなはずしはないだろう。
 はじまりの1962年は昭和37年である。ここが赤塚の人生の大きな起点になることは、「これでいいのだ(赤塚不二夫)」(参照)にもあるのだが、この時系列は同書のほうから、つまり赤塚の内側から見るとわかりやすい。この内在の時系列は昭和34年に始まる。

 漫画週刊誌が創刊されたのが昭和34年、毎週1本、連載を描くなんていう仕事のペースはぼくには想像できなかった。

 私はここでぞっとするほど素直な赤塚不二夫の魂に出会っているように思える。ここには自分にはこんな仕事は無理だったかもしれないというトーンが少し感じられる。
 昭和37年に至る経緯はこう流れていく。

 ある日、『少年サンデー』から毎週読み切りの依頼がきた。読み切りならなんとかなるかと思い、自由にテーマを探し、奔放に描きまくった。
 インスタントラーメンが発売されると、学校から帰って風呂に入り、3分たつと頭が冴えるという『インスタントラーメンくん』、フラフープが流行ると、フラフープで遊んだ後はそれを洗濯の物干しにする、というような漫画を描いた。
 「こんど2週続きで描いてごらん」
 と言われて『スーダラおじさん』を描いた。植木等の『スーダラ節』のヒットをとらえた漫画だった。
 それが終わると、
 「こんど4週描いてみな」
 ということになった。昭和37年のことだ。

 昭和34年から37年への経路は赤塚の内側からはこう見えていたのだが、加えて、「極東ブログ: [書評]これでいいのだ(赤塚不二夫)」(参照)で触れたが、昭和36年に赤塚は江守登茂子と結婚の経緯があった。昭和35年である。

 仕事がますます増えて、アシスタントを入れる必要がでてきた。昭和35年のことである。ある編集者に相談すると、
「うちにちょうどいいのがいるよ」
 と言って若い女性を1人つれてきた。
 その子と仕事を続けて1年にもならないのに、彼女と結婚するムードが高まってきた。何せ、毎日一緒にしる間柄だったからだ。しかし、ぼくはまだ結婚に踏み切る自信がなかった。
 「大ヒットを1本出さないと、飯食っていけるかどうかわからないからな」
 そんなことを言うと、しっかり者の彼女は、ぼくをさとすように、
 「1人では食べられなくても、2人なら食べられますよ。私がちゃんとやりますから」

 彼らは昭和36年に結婚した。
 昭和37年から赤塚の馬車馬のような人生が始まる。

 週刊誌の4週といえば1か月だ。何を描いたらいいんだろう。ぼくは考え込んだ。これまで主人公というのは1人が普通だった。これを思い切って増やしてみたらどうか。そこで前に見た、映画『1ダースなら安くなる』を思い出した。1ダースも主人公がいる話しだ。しかし12人では1コマに描ききれない。そこで半分にした。6つ子である。どうせ4回だから思いっきり暴れさせてやろう、とはじめたのが『おそ松くん』である。
 女房の登茂子がすばらしいアイデアをどんどん出してくれた。

 漫画「おそ松くん」は一世を風靡した。サンデーの連載は昭和42年(1967年)まで続いた。この間、昭和41年にスタジオ・ゼロ製作で毎日放送系でテレビアニメ化されている。このオープニングは現在ではYouTubeで見ることができる。
 ここで時代の傍観者である私をストリートビューの人型アイコンみたいに置いてみたい。私は昭和32年生まれ。小学校に上がる前の5歳の時(昭和37年)にはテレビを見ていた。もちろん、同時代の少年サンデーも知っているし、「おそ松くん」も断片的には見ている。「おそ松くん」のとりあえずの連載が終わった1967年に、私は10歳である。小学校3年生だ。普通に少年サンデーを読んでいるのだが、ここが普通に読んでいる下限に近い年代ではないだろうか。3つ年下の竹熊先生はその時、小学校1年生。リアルタイムに「おそ松くん」を見ることができた本当に最後のラインになるだろう。
 ざっくり言えば、1960年生まれ以降の人は赤塚不二夫が描いた「おそ松くん」をリアルタイムには読んでいないと思う。もちろん、こう言うことには反発があるかもしれない。私は上から目線風に偉そうなことを言いたいのではない。むしろその逆だ。
 が、その補助線で言うなら、すでに私の世代から「おそ松くん」はTVアニメだった。「魔法使いサリー」の枠の後釜で1969年から1970年に放映された「ひみつのアッコちゃん」に至っては私には原作を知らない(当時男の子は女子の漫画を見ることはなかった)。
 赤塚不二夫の作品は「おそ松くん」だけではない。少年サンデーでは続いて「もーれつア太郎」が連載された。この作品は、竹熊先生ではないが、私の人生観の根幹に近い部分に影響を持っている。が、私は1969年に始まる「もーれつア太郎」のTVアニメはほとんど見ていない。
 「天才バカボン」は「もーれつア太郎」の同時期に連載され、これもTVアニメ化された。私は、「天才バカボン」が嫌いだった。連載もアニメもだ。私のごく私的な感想にすぎないが、「天才バカボン」は団塊の世代の学生が好んでいた。1967年に始まる「天才バカボン」の連載は70年代安保の文脈にあった。特に私が嫌悪したのが早大の学生が優越感を隠した自嘲でバカボンのパパの「バカ田大学」を連呼していることだった。うわっついたバカを装いながらインテリ特権意識で女を口説いていた当時の大学生の愚劣さと、それにのっかっていた薄ら左翼のオヤジども、青島幸男だの大橋巨泉、野坂昭如、前田武彦、永六輔などは私の嫌悪の対象だった。赤塚不二夫は本当はそういう人たちに汚れるべき人ではなかった。
 アニメーション作品にどのくらい赤塚不二夫が関わっていたのか私にはわからない。オリジナルを反映している部分はあるだろうし、「めぞん一刻」みたいにあのアニメ絵は受け付けないということはないし、「うる星やつら」のアニメ絵のように品質ががたがた変わるというものでもなかっただろうと思うが、なぜか私には、アニメの赤塚作品は赤塚不二夫の作品とはあまり思えない。が、それでも赤塚の生み出したキャラクターにはみな不思議な魂がこもっていた。「これでいいのだ(赤塚不二夫)」(参照)には「おそ松くん」に出てくるチビ太のモデルの話が出てくる。そこには本当に生き生きとした庶民の世界があり、そのかから生まれてきたことがわかる。
 アニメを別にすれば、赤塚不二夫の作品は60年代で終わっている。もちろん、アニメ作品をもって赤塚不二夫の作品としてもいいだろう。私はポケモンに原作が存在するのか知らない。クレヨンしんちゃんはアニメのほうが原作じゃないのかとも思っている。
 赤塚不二夫の作品は60年代で終わっているということはどういうことなのか。8月4日付け読売新聞記事”追悼・赤塚不二夫さん 本当にサヨナラなのだ(評伝)”が興味深いというか踏み込んだ書き方をしていた。

 赤塚不二夫さんの漫画家としてのたたずまいは、同じトキワ荘の仲間の藤子・F・不二雄さんとはまったく対照的だった。職人肌の藤子さんが最後まで第一線で描き続けたのに対し、赤塚さんが漫画家として輝いたのは、「おそ松くん」や「天才バカボン」を描いた1960~70年代のわずか10年間ほど。その後は仕事も激減し、タレント文化人という印象の方が強くなる。


 赤塚さんに、短期間になぜあれほどのヒットが飛ばせたのかを聞いたことがある。「一人じゃなくて、みんなで作ったからだよ」。60年代からペンを握っていなかった。当時のスタッフ――「ダメおやじ」の古谷三敏、「総務部総務課 山口六平太」の高井研一郎、「釣りバカ日誌」の北見けんいち、パロディー漫画の長谷邦夫といったそうそうたるメンバーとアイデアを出し合い、赤塚さんが吹き出しのセリフを作り、絵はスタッフ任せ。「おれの絵なんて、ハンコ押してるのと同じ」とうそぶく一方、会話のテンポには細心の注意を払った。自分のギャグの神髄が「言語感覚」であることを、誰よりも赤塚さん自身が知っていた。

 そうしたみんなのなからタモリもまた生まれた。
 この追悼記事を書いた文化部石田汗太記者は赤塚不二夫の実像をこう見ていた。

 しらふの赤塚さんに初めて会った時、シャイでまじめなことに驚いた。「酒を飲まなければ、まともに人と話せない」とも語っていた。その酒で寿命を縮めてしまうとは、ギャグ求道者の「業」を見る思いだ。

 その「初めて」がいつかはわからない。酒の入らないシャイでまじめな赤塚不二夫は「これでいいのだ(赤塚不二夫)」(参照)にきちんと描かれているようにも思う。
 文化部石田汗太記者は1999年8月10日”赤塚不二夫さん バカになりきれない シャイだから笑いが分かる”という記事を書いている。赤塚は、がんで胃を切って酒の味が変わったとして。

 でも、本当は好きじゃないんだよ、酒。酒は僕にとっての潤滑油。十代から赤面症というか、人と目を合わせて話をすることができないほどシャイだった。先日亡くなった由利徹さんがそう。あの人も酒がないと、他人と顔を合わせられないんだ。そんな二人が、人を笑わせることに一生をかけるんだから面白いね。


 僕はわんぱく小僧と思われてるかもしれないけれど、子供のころから内気でおとなしかった。でも、だからいろいろ考えて、本も読んだし、映画も見たし、音楽も聴いた。その蓄積が役に立った。ふだんから駄じゃればかり言ってふざけている人間には、笑いの奥深さが分からないんだ。駄じゃれは最低の笑い。マジ~メな人間だから、人間にとっての笑い、面白さとは何かをずーっと考えられるんですよね。

 赤塚不二夫は若い頃一生懸命映画を見ていた。手塚治虫に芸術を勧められたせいもあった。

 僕? ダメ。まだ徹底してない。だって、こんなちゃんとした話をしてるんだから(笑い)。本当にすごい奴(やつ)は、バカの面しか人に見せない。がんで逝った谷岡ヤスジがそうだった。僕も「赤塚ってバカだねぇ」って思われたいんだけれどね。かといって、現実にバカになり切ったら、漫画だって描けるかどうかわからないし、こんな生活してないかもしれないしね。
 結局、シャイな部分とハチャメチャな部分が両方あるから、「いかにバカっぷりを見せるか」という計算がばちっとできる。それでやってきたから、シャイな自分が嫌ではないんだな。

 ここに父母の墓に一人参って、「それはぼくが東京へ出てきて、初めて持った不思議な自分の時間だった」という孤独な赤塚不二夫がいる。
 歴史がこの人を生み出したのだろうし、この人を生み出した歴史の力は存分にそのエネルギーを放出した、それがアニメであれ。
 この時赤塚はこう問い掛けている。

 だって、今の子供はおかしいだろ? 車いすが来たら逃げたりして。俺(おれ)たちのころはそうじゃなかった。からかったりもしたけれど、みんな一緒で、おんぶして歩いたりしていた。それが人間だよ。

 石田汗太記者はこのとき赤塚不二夫がチビ太のことを思い出していることに気が付いただろうか。
 これでいいのだ(赤塚不二夫)」(参照)より。疎開先の郡山のことだ。

 ある時、いつものように遊んでいると、矢田山の向こうに煙りが見えた。
 「火事だっ!」
 「屋根に上がって見て見よう」
 するとチビ太も、
 「ぼくだって見たい!」
 と言い出す。今までさんざんチビ太からメンコを巻き上げたり殴ったりしているのに、みんなはこういう場面になると当然のように親切になってしまう。チビ太を肩車に乗せる者、上へ押し上げる者、上で受け取る者と手分けして、屋根に乗せ、山の向こうの煙を眺めた。これはたしかに火事だった。

 そして火事を見に行こうということになった。チビ太も行きたいと言ったが足手まといになる。それでもチビ太は行きたいという。鳩の糞を舐めたら連れってやるというと、チビ太は鳩の糞を舐めた。結局みんなで必死になってチビ太を火事場につれていくが、手間取って火は消えていた。

 みんなは代わる代わるチビ太の手を引っ張ったり、遅いといっては頭をコキンと殴ったりしながら火事の現場へ走った。しかし、現場に着いたとき火はもう消えていた。
「ほら見ろ、お前が連れてってくれなんて言うから、間に合わなかったじゃないか!」
 そう言ってまたひっぱたく。するとチビ太は、
 「ごめん」
 とすまなそうに、率直に言うのだった。
 帰り道はきた道とは違い、山の尾根道を歩いた。チビ太は疲れてしまいさすがにもう歩けない。みんなで代わる代わるおんぶして歩いた。山肌一面につつじか満開の季節だった。おりしも夕暮れとき、夕焼けがこれに映えて、全山萌えるように景色のなかを歩いた。

 この光景が終生脳裏を離れなかったことは、「極東ブログ: [書評]これでいいのだ(赤塚不二夫)」(参照)で触れた。

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2008.08.08

[書評]これでいいのだ(赤塚不二夫)

 ウィキペディアの赤塚不二夫の項目(参照)は比較的充実しているが、ネットのリソースが多く、漫画以外の赤塚不二夫の単著についての記載はない。来歴の記載もネット上のリソースに偏っていて、誰が執筆したものかはよくわからないが、ヴィレッジセンターの情報(参照)と公認サイト(参照)が参照されている。

cover
これでいいのだ
赤塚不二夫
 参考文献としては、1997年の「ギャグにとり憑かれた男 赤塚不二夫とのマンガ格闘記(長谷邦夫)」(参照)と2005年の「赤塚不二夫のことを書いたのだ!!(武居俊樹)」(参照)の二点が挙げられている。
 赤塚不二夫には平成五年(1993年)にNHK出版から出された本書、つまり本人による単著の自伝的エッセイ「これでいいのだ」(参照)がある。2002年に日本図書センターから刊行された「赤塚不二夫 これでいいのだ (人間の記録)」(参照)は本書の改題である。

軍人気質で潔癖、一徹なおやじ、なんでもできてガンバリ屋、世話好きなかあちゃん。ニャロメやイヤミなど、ユニークなキャラクターを生み出した著者が親子の絆を語り、人生をふり返る。戦中・戦後の赤塚家を通して、戦争と家族を描く感動のドラマ。涙と笑いの自伝的エッセイ。

戦中編 満州(誕生;お返し;あと継ぎ;結婚;氷の華 ほか)
終戦編 満州(8月15日前後;恨みと恩;シベリア送り ほか)
戦後編 大和郡山・新潟(親孝行な死;悪ガキ仲間;ボス;柿と栗;チビ太;早弁;女の子 ほか)
戦後編 東京(化学工場;映画;投稿;神様とドンブリバチ;世間知らず ほか)


photo
裏表紙から

 また本書は刊行翌年1994年8月22日からNHKドラマ新銀河「これでいいのだ」の原作ともなった。ドラマでは主人公フミオを堤大二郎、母花江を佐久間良子が演じた。NHK側の説明ではドラマのテーマは母子愛とのことだが、私はこれは見ていない。原作の本書のテーマが母子愛かというとそうは言い切れない。本書がNHK出版から刊行されたのは、翌年のこのドラマ化を見据えたものであったのかもしれない。なお、NHKと赤塚の関係だが彼の父が晩年NHKの集金人をしていたという興味深いエピソードも書かれている。
 昭和10年(1935年)9月14日生まれの赤塚不二夫は、本書初版刊行の1993年(平成5年)8月25日の時点で57歳である。ウィキペディアの同項の1994年には次のようにアルコール依存症であったことの記載がある。


1994年、赤塚のアルコール依存症が回復しないことにより、長年アイデアブレーンとして赤塚を支えてきた長谷がやむなくフジオプロを脱退[10]

 本書は、アルコール依存症の過程で本人によって十分に書けたものなのか、あるいはむしろその治療的な意味合いをもって書かれたのかよくはわからない。私の印象では、本書はぞっとするほどの達文であり、文筆の素人が書けるものとは思われない。が、そこに息づく精神は間違いなく赤塚不二夫のそれである。どのような過程で本書が形成されたのかはわからないが、本書には赤塚本人の魂が描かれている。
 そしてその魂の多くは赤塚の父母のことでもある。赤塚が世にでなければ市井の人として消えたかもしれないこの男女には時代が強いたドラマが確かにあった。
 本書には赤塚の男女のドラマは直接的には描かれていない。
 赤塚が後の眞知子夫人と再婚したのは、1987年(昭和62年)のことだった。赤塚が51歳か52歳のことだ。私の現在の年齢に近い。スタイリストだった眞知子夫人はその時37歳であったようだ。再婚を勧めたのは前妻の江守登茂子さんだった。眞知子夫人は2006年7月12日56歳でくも膜下出血で亡くなった。” [追悼抄]7月 赤塚眞知子さん 「生きがいは赤塚不二夫」”(読売新聞2006.8.22)より。

 「先生、眞知子さんを籍に入れたら?」。1987年、不二夫さんに再婚を強く勧めたのは、73年に離婚した前妻の江守登茂子さん(66)だった。「その時、『本当にいいのか?』って。ずっと、私に気兼ねしてたんでしょう。でも、眞知子さんなら私もうれしいし、大丈夫だって思ったから」
 不二夫さんの数多い“恋人”の中で、元スタイリストの眞知子さんだけが最初から違った。アルコール依存症で入院した不二夫さんを付きっきりで看病し、当時、仕事が激減していた漫画家のため、実家から借金までした。登茂子さんを「ママ」と呼んで慕い、長女のりえ子さん(41)を実の子のようにかわいがった。そのことで登茂子さんが感謝すると、「何よ他人みたいに! 私の娘でもあるんだからさ!」と笑った。「しばらく関係が途絶えていた私とママが、再びパパと仲良くできるようになったのは、眞知子さんのおかげ」と、りえ子さんは涙ぐむ。

 赤塚不二夫は2002年に脳内出血で倒れていた。ウィキペディアには2004年には意識不明のまま植物状態にあったと書かれている。
 編集者でもあり前妻である江守登茂子と赤塚が結婚したのは、昭和36年(1961年)10月24日。赤塚26歳。新婦は21歳だったと本書にある。長女が生まれたのは昭和40年(1965年)。結婚生活は12年続き、1973年(昭和48年)に離婚した。不思議な縁というべきなのかわからないが、江守登茂子は赤塚不二夫の死ぬ3日前の7月30日に68歳で病死した。
 赤塚不二夫は8月2日に亡くなった。72歳だった。
 死について本書の赤塚は深い視線を残している。
 赤塚は母親の死に際し、一度は死んだとみなされたものの彼の絶叫で一時蘇生したという話を書いている。が、母リヨは翌朝昭和45年(1970年)8月20日に亡くなった。59歳だった。父親藤七は昭和54年(1979年)5月17日にリンパ腺癌で亡くなった。71歳だった。癌で苦しむ父に彼はやさしく引導を渡していた。

 9年前、かあちゃんが臨終の時、ぼくの「かあちゃーん!」の一声でかあちゃんを幽冥の世界から呼び戻した。今度は「もういいよな!」でおやじを冥土へおしやったことになる。

 本書は終わり近くにこうある。今年の春とあるから、1993年(平成5年)赤塚不二夫57歳のことだろう。

 おやじもかあちゃんも、ともに波乱に富んだ人生を生きて死んで行った。その2人の子であるぼくのこれまでの人生も、また決して平穏ではなかった。おやじやかあちゃんが知らなかった世界もいっぱい覗いてきた。この先、どういう人生を生きることになるのか。

 本書には赤塚の父母の波乱に富んだ人生を子から見た姿が描かれていると同時に、かけがえのない昭和史にもなっている。だが本書は、彼自身の平穏ではない人生はあまり描かれてはいない。

 今年の春、久しぶりにおやじとかあちゃんが眠る八王子の富士見台霊園へ1人でふらっと行ってみた。ちょうど桜の季節で、前にはまだ小さかった染井吉野の枝が大きく伸びて、おやじとかあちゃんの墓に手をかざすような風情で五分咲きの花を開かせていた。
 晴れた日の夕暮れで、周りを囲んだ雑木林の丘陵が、夕映えで薄い紫色のシルエットに浮かび上がっている。それは奉天の空いっぱい数限りもなくからすが飛んだ夕焼けとも、火事見物の帰路、全山満開のつつじの花と夕陽に真っ赤にそまった大和郡山の日暮れとも違う。一種の静寂をたたえた夕景色だった。
 ――ぼくは死に際に、誰かに呼びもどされるのかな、それとももういいだろうと念を押されて行くのかな……。
 ふとそんなことを考えた。それはぼくが東京へ出てきて、初めて持った不思議な自分の時間だった。

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2008.08.07

中国製毒入り餃子、雑感その2

 中国製毒入り餃子事件だが、なんとなくこれは迷宮入りでしょと思っていた。が、昨日、流れが変わる報道があった。意外といえば意外なので少し雑感を書いておきたい。というのも、この問題の本質は毒入り餃子自体ではないだろうから。
 餃子に毒を入れたのは中国か日本かということで言えば、「極東ブログ: 中国人のわかりづらさという雑談」(参照)で李小牧が指摘している通りなので、ようするに後は外交的な問題だった。
 そこが曖昧になるだろうなと私が思っていたのは、中国がけっこうな強気で小日本をパスしてやっていけるとまでそっくり返ったのだろうなと見えたからだ。が今回、逆に、毒を入れたのは中国かもシグナルを出してきたということは、中国様だいぶ日本にご配慮しているなという感じがする。このご配慮の意味はなんだろうか。
 西欧の先進国が人権問題で騒いでいるのにぐっと堪えて偉いぞ、東洋鬼。ちがった、小日本。ちがった、蛮族。ちがった、二文字姓の少数民族。ちがった、まあ、日本人。ということか。かく言う私も、別になんのポジションもないけど、チベット問題やダルフール・ジェノサイドで現時点で中国を叩くようなこと言っても、遅いよ、遅すぎ、詮無き、夏ばてだよ、かつ屋でかつ丼食えよ的になっている。みんな未来に耐えていこうじゃないかみたいな。
 余談ついでに言えば竹島問題で、米国があっさり韓国領とか言いだしのは、あれはブッシュ訪韓前の韓国への配慮なんだろう。なかなか南部の人のハートウォーミングなところ、かもしれない。余談がさらにそれると先日映画「ボラット」(参照)を見たが、表向きのえげつない政治性や米国批判よりも、米国の根の部分の温かさや良心みたいのを随分感じた。木で鼻をくくったようなリベラルな人の前でバロン・コーエンのギャグがすべってもそれはそのまま気まずい沈黙で終わる部分はむしろああいうリベラルな感性が優れていることなんだろう。
 話を戻す。ステイルメイトかに思える毒入り餃子事件の状況をとりあえず中国側から崩したのは中国の意図なのか、日本の努力なのか。後者はあるだろうが、ざっくり見れば、中国側に変化があった。現状では大きな変化とはまだ言い難いが、ボールは打ち返されたわけで、外交がまた始まることになる。そうするしかないじゃないかね。
 ただ今回の打ち返しは三十六計のお国柄としても奇妙な感じはする。また陰謀論ですかみたいに三十六計も知らない人からネガコメ食らうものうんざりするのだけど、私が最初に思ったのは、オリンピックのどさくさに紛れてというより、戒厳令の効果があったかなだった。戒厳令下である程度まで北京にグリップが来たかな、と。
 この先は陰謀論的なスジが濃いと自覚があるのだけど、昨今のウイグルがとされる事件も本当にウイグルが主体なのか、私は疑問に思っている。すでに述べてネガコメ食らったけどチベット暴動もチベットが主体の暴動なのか依然疑問だ。大局的に見れば、中国はチベットとウイグルの地域を資源的に地政学的に確保しなければならないという至上命題があるので、すべてはその派生の最適化にしかならない。だとすれば叩く口実を付けて叩くのはごく当たり前の歴史常識の部類でしかない。
 どうも話がそれるが、北京オリンピックを出汁にした戒厳令のうま味がだいぶ効いているような感じがするし、そうでないとだいぶやばいのかなとも思う。ただ、本当に北京側のグリップなのか、また私兵集団人民解放軍とかのグリップというか揺さぶりがないのか。いやそれはまたあるでしょとは思う。しばらくすると軍関連で、げげげみたいなニュースが出てくるのがまいどのパターンだし。
 さて、今回の毒入り餃子事件進展だが、日本国内報道がなんとも奇っ怪。いったいこれはどこから出てきた話のなのか。私が最初にこの話を聞いたのは読売新聞記事”「天洋食品」回収ギョーザ、中国で中毒…現地混入が濃厚に”(参照)だ。各紙の報道はそれに次いだような記憶がある。読売の情報経路は「関係筋だ」。


 中国製冷凍ギョーザ(餃子)中毒事件で、製造元の中国河北省石家荘の「天洋食品」が事件後に中国国内で回収したギョーザが流通し、このギョーザを食べた中国人が有機リン系殺虫剤メタミドホスによる中毒症状を起こして、重大な健康被害が出ていたことがわかった。
 関係筋が5日明らかにした。これまで日中双方の警察当局がそれぞれ自国内でのメタミドホスの混入を否定してきたが、中国国内で同様の事件が発生したことにより、中国での混入の可能性が強まった。


 関係筋によると、中国側は7月初め、北海道洞爺湖サミット(主要国首脳会議)の直前に、外交ルートを通じて、日本側にこの新事実を通告、中国での混入の可能性を示唆したという。

 今回の問題な局所的な重要性はこの「関係筋」にかかっている。
 読売の記事を読んだ印象では、読売の関係筋は日本政府側の内情を知っているように見えるので、政府側から読売へのリークと見ていいのだが、政府側が現政権そのものなのかはよくわからない。一応話の可能性としては、北京または福田政権を困らすためにリークしたというのもあるが、まあ、それはないでしょ。事後の流れスムーズ過ぎるし。
 外交と内政の構図としては、産経”五輪成功目標の中国に配慮 ギョーザ問題解決、先送りに同意の日本 ”(参照)がわかりやすい。

 中国製ギョーザが同国内でも中毒事件を起こしていたことを受け、町村信孝官房長官は6日、8日の日中首脳会談で早期の事実解明に向けた捜査協力を確認するとの見通しを表明した。ただ、北京五輪の無事成功を至上命題とする中国側は、これまでに日中間の諸懸案の協議は五輪終了後に先送りしたいとの希望を伝えてきており、日本側も了承していた。食の安全という国民の関心事についても中国側の事情への配慮を続ける日本政府の「待ち」の姿勢が問われそうだ。
 五輪開会式出席のため、8日に中国を訪問する福田康夫首相は、温家宝首相、胡錦濤国家主席と相次いで会談するが、当初はギョーザ事件を取り上げるとは決まっていなかった。

 少し大きめな構図で言うと、毒入り餃子は一つのシンボルであって、「日中間の諸懸案の協議は五輪終了後に先送り」が基本構図だとわかる。
 ところが、8日訪中福田総理に合わせ、先送りでなくさせたのは、この流れで読めば中国側なので、だとするとリークの構造は、中国側からの口裏合わせに福田政権が流したものだろう。その意味で、政府側はリークがなければこの問題は日本国民に隠蔽していたのだ、というバッシングのストーリーは、ありえない、というか当初からそのくらいの泥かぶりを落とし所として意図されたものだろう。
 毒入り餃子問題はカモフラージュかもしれないという線も考えておきたい。

 実際、7月中に公表予定だった日中両国の歴史学者らによる「日中歴史共同研究」の報告書も、歴史認識をめぐる対立を起こしかねないため、五輪後に先送りとなっている。

 日中の歴史認識問題はそれ自体は問題であるには違いないのだが、実際には日中ともに内政政局のための弾にしか扱われてこないことが多い。しかも江沢民一派が多少整理されてからは、中国にとってナショナリズムの高揚は諸刃の剣より自国への剣の面が強い。中国側のほうが目下のところは歴史認識問題を持ち出したくないというか、北京側の思惑はそうだろう。
 ここで少し陰謀論的な読みに踏み込むとすれば、この構図で北京側が憂慮するのは、上海閥かあるいは軍か、いずれもまた歴史認識問題のカードを対北京向けの抗争手段に切り出す構図の危機を北京側が察知して日本に協力を求めている、というのもありそうだ。が、この構図はそれほど強いだろうか。評価がむずかしい。中国は自国の崩壊の危機をほったらかしても内政の権力闘争するか。意外とやるんですけどね、歴史を見ていると。
 事態を考察するに当たって、中国は日本のジャーナリズムにチャネルを持っているので、そのあたりから、微妙な本音というか声を聞き取ることもしてみたい。その最大チャネルは中国友好を掲げる朝日新聞の社説だったりするから、日本は国際情報に恵まれている。今朝の朝日新聞社説”中国ギョーザ―事実を国民に公表せよ”(参照)は微妙な面白さがあった。

 真相解明が立ち往生していた中国製冷凍ギョーザの中毒事件について、驚くような事実が報道で明らかになった。日本で事件を引き起こしたメーカーのギョーザを食べた中国の人たちも、中毒症状を起こしていた。
 原因をめぐっては、日中双方が自国で混入された可能性は低いと主張し、平行線をたどっていた。それが中国でも中毒事件が発生し、日本で検出された有機リン系農薬成分メタミドホスが原因と特定されたとなれば、中国国内で混入された疑いが濃厚になる。
 中国政府も国内での中毒の発生を認め、「全力で捜査している」との談話を発表した。

 ちょっと待ってくれ。
 新聞の基本の5W1Hが抜けている。「日本で事件を引き起こしたメーカーのギョーザを食べた中国の人たちも、中毒症状を起こしていた」はどういう事態なのか?
 先の産経のニュースでも指摘されているが、その事実確認はできていない。

 今回、中国側が国内での中毒事件発生を認めた経緯には「回収されたギョーザを食べているなど不自然な点がある。早期の問題決着を急いだ中国政府が無理やり解決のためのストーリーを書いたのではないか」(日中外交筋)という疑問も出ている。

 つまりこの話自体が中国様のよくできたお話という可能性があるのだが、朝日新聞社説はそこをスルーしている。そもそも、朝日新聞社説では「日本で事件を引き起こしたメーカーのギョーザを食べた」としているが、「回収」については触れていない。回収ってなんだよと疑問に思わないわけもないのだから、朝日新聞社説にはそこをスルーする意図があるだろう。
 加えて、朝日新聞社説では「中国政府も国内での中毒の発生を認め、「全力で捜査している」との談話を発表した」としてこの話が中国から公式に切り出されたふうに描かれている。リークの経路もスルーしているわけだ。
 さらにこの後。

 それにしても、である。
 この事実が7月の洞爺湖サミットの直前に外交ルートを通じて日本政府に伝えられていたのに、国民には一切知らされなかったことが理解できない。
 福田首相は「わが国の捜査当局と情報交換している状況だ。どういう状況か今申し上げるわけにはいかない」と述べたが、この弁解も納得できない。ことは人々の命にかかわる問題である。政府はただちに事実を公表すべきだったし、いまわかっていることをきちんと説明すべきではないか。

 としているが、それは話が逆であることは先に触れたとおりだ。「黙ってろ」といったのは中国様で、今回の切り出しも中国様イニシアティブと見ていい。
 というわけで、この朝日新聞社説のメッセージはいったい何だろう?
 朝日新聞を批判したいのではない。まったく逆だ。この社説自体が中国様の、今回の報道の、正しい読み方を示唆してくださっているわけだ。つまり、「回収」話の奇っ怪点はスルーしろよ、リーク経路は問うな、日本政府が隠蔽したことが問題だぜ(福田は泥を被ってくれるから)、問題は食の安全であって歴史認識とかは関係ないよ、というわけだ。わかりやすい。
 火もと近い読売新聞社説”ギョーザ事件 「混入元」はやっぱり中国だった”(参照)は一見すると中国非難のようだが、伝達部分を抜き出していくと朝日新聞社説と同じ主張に帰着している。「回収」話は問うなよ、リークじゃないよ関係筋だ、日本政府が食の安全をしっかりせよ、歴史認識問題は言及せず、と。
 日本人としてはまあ中国様の内情を察しつつ、日本文化お得意の勧進帳をするしかないだろう。っていうか、勧進帳だよ、盆踊りシーズんだからって踊るなよ。

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2008.08.02

福田改造内閣、雑感

 とぼけているかのようだがあまり政局というものに関心がない。今回の福田改造内閣についてもそれほど関心はなかったし、改造後の今もそれほど関心はない。なので、この話題は例によってスルーし、最近読んだ本の話でも書こうかなとも思ったが、微妙に心にひっかかる部分がある。ブログなんて無名な庶民の記録だよなという原点で、とりあえず書いてみよう。
 組閣のニュースを聞いて、えーそれはないでしょというふうなべたな驚きは、ない。しいていうと二つ、ほぇっとは思った。一つは、経済財政・規制改革担当与謝野馨ってなんだよ、それ、ということ。そしてそれは、大田弘子さん、お疲れ様でしたということでもある。悔いは残るだろうけど、辞めるにはいい時期だったんじゃないですかね、これからのことを思うと、というかこれからの日本のことを思うと力のある人材は備えていてほしい。
 もう一つは、麻生太郎が自民党の幹事長に、ほぉ、うまいな、と。よくそんな話に乗ったねというか、沈む泥船に乗るっていうのはどういうことなんだろとは思った。表向きには挙党態勢ってことなんだろうが、そのあたりの麻生側のメリット、または呑めよと促したのは誰……いや、もう誰っていったら、先日の件もあって、森さんしかいないじゃないですか。しょーもないな。
 まったく報じられていなかったわけではない。先月27日付け時事”福田首相、森氏と密談か=改造めぐり憶測広がる”(参照)より。


 福田康夫首相が内閣改造に踏み切るかどうかが政局の焦点となる中で、26日夕、黒塗りの乗用車が首相公邸に滑り込んだ。車に乗っていた人物は確認できなかったが、森喜朗元首相が福田首相と会い、改造や臨時国会の召集時期をめぐって意見交換したのではないかとの憶測が広がった。
 乗用車は午後5時半ごろ、首相が休日を過ごす公邸に入り、約2時間半後、別の出入り口から出て行った。その際、森氏と風貌(ふうぼう)が似た人物が車に乗り込むのが関係者に目撃されている。

 ということで時事の報道自体は「憶測」ということになっているし、福田が森と密談したって同じ派閥で別にどうってことはないわけで、むしろ森と麻生はどうよという話になる。そのあたりの話は、ざっと報道を見た限りない。
 関連かなと思えるのは、今朝の日経紙面の”麻生氏と密約説 党内で取りざた”だ。

 福田康夫首相が一日、麻生太郎氏の幹事長就任に際して自らの政権では衆院選はしないと麻生氏に伝えたという「密約説」が浮上した。事実なら首相が専権である解散権を放棄したともとれ、波紋を広げている。

 とのことだが、そのあたりの波紋は他のソースから見えない。私が鈍すぎかもだけど。

 複数の自民党関係者によると、麻生氏が「首相は選挙をするつもりがあるのか」とただすと、首相は「私の手で選挙をすることはない」と言い切った。


麻生氏が幹事長の受諾で「誰の手で解散するのかをはっきりさせてほしい」と条件をつけたとの情報もある。

 もちろん、これは「憶測」なので、このあたりをフカすことでメリットを得るスジの話かもしれない。というか、そのスジってどこ?
 この「憶測」について。

 当の麻生氏は記者会見で「解散時期について総裁と話し合った事実はない」と否定。

 なので、麻生を信じるならそんな話はなかったということだが、別にそんな話がなくても阿吽で確約できればいいことなんで以下略。

両氏がわざわざ首相官邸に隣接する公邸に場所を移し、二人きりで会ったことも憶測に拍車をかけている。

 とのことで、密談ではないけど、二人だけの対談はあったのは憶測ではない、と。
 ざっくり見れば、以上の話を「憶測」でまとめるのはちょっと無理があるわけで、麻生も泥船に乗るにはそれなりの確証を得ていると見ていいだろう。
 ということは、この新内閣が解散する契機は、福田ぶっち切れか、麻生側から泥船しずんじゃったでしょコールの二つということ。
 あとは国内的に多方面からいろいろ仕掛けても安倍政権みたいにはぶれそうにもないし、民主党の攻勢はそれほど効かないのではないか。というか、小沢はそのあたりは読めるから今回の自民党挙党一致路線から外れたあたりの勢力にもっとえげつない攻撃をしかけるか、民主党も内部に問題を抱えているのでチキンレースになるか。
 大したことはないでしょ。
 そのあたりの要因だけ見れば、この内閣、任期までは続くというかそれに近い時期まで続くかなみたいだ。がたぶん、その時期までには黒船ならぬ赤船が来ているんじゃないか(二階さんがんばってね)。今回の組閣は、国難の体制として雰囲気はなく、なんか、与謝野の増税もできるんじゃな~い、古賀の衆院選もそこそこいけるんじゃな~い、といったほのぼのとしたレトロな雰囲気に心和む。月曜日にご祝儀の株高があるとよいけど。

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2008.08.01

さんぴん茶

 さんぴん茶は普通ジャスミン茶として理解されている。ウィキペディアのジャスミン茶の項目(参照)にもこんな話が載っている。


沖縄ではさんぴん茶(さんぴんちゃ)として飲まれている。これはジャスミン茶を指す中国語(香片茶 シャンピェンツァー)から転じたものである。沖縄においてよく飲まれている茶であり、大衆食堂では大きな薬缶に入って置いてあるところもある。沖縄では紙パック入り、缶入り、ペットボトル入りのさんぴん茶飲料がスーパーマーケット、コンビニエンスストアなどで販売されている。中華のジャスミン茶よりジャスミン香が控えめである。

 間違いとは言えないのだが、ちょっと微妙なところがあるので、エントリに書いてみようかなと思った。そんなことを思うのも沖縄で八年暮らしたせいもある。別に沖縄通だとかふかしたいわけでもなく、なんとなく懐かしい思いを喚起させられることがあったからだ。
 ウィキペディアにある「大衆食堂では大きな薬缶に入って置いてある」というのは、そういうのもあるだろと思う。ああ、あそこにあったなというのは思い出せない。が、このさんぴん茶は戦後というか昔からずっと沖縄で飲まれいていたさんぴん茶で、なぜかピンク色の紙の筒に入っている。ブランドはいろいろある。ネットを眺めていたら、『ならんちゅぬツブヤキ。。』というブログの「さんぴん茶」(参照)というエントリに写真が載っている。なぜどれもピンクの紙筒なのかはよくわからない。入っているのはたしかにジャスミン茶なのだが、中華街とかで飲むジャスミン茶とは若干違って、ほうじ茶っていうことはないけど番茶みたいに鈍い味がする。つまりいわゆるジャスミン茶がべた中国緑茶を使っているのは違う。ウィキペディアには、「ジャスミン茶の茶葉は基本的に緑茶なので、80℃前後の若干ぬるめの湯で淹れるのが良いとされる」とあるがこのピンク紙筒のはそんな配慮は要らないはずよー(ちょっと沖縄ふうに言ってみる)。
 沖縄ではこのピンク紙筒のさんぴん茶の熱いので黒糖を摘む。黒砂糖とは言わない。黒糖という。ナイチャーの私は宮古だのヤエマのこくのある黒糖が好きだったが、オジーやオバーたちのなかには、そういう不純物の多い黒糖は質が悪いと思っている人もいた。このあたりの味覚が今一つわからない。鍋縁というのがよいと力説しているオジーもいた。どこでそんなものが手に入るのかというか、鍋縁と称する黒糖も売っているのだが、どうやらそうではない。オジーが子供のころ黒糖を鍋で煮て、その縁についたのを食ってうまかったという昔話なのだ。でも、それが本当にうまいんだろうな。
 ついでにいうと、泡盛なんか臭くて飲まないというオジーもいる。米軍統治の時代の酒はウィスキーで泡盛なんかそんなに飲まれてなかったというオジーもいた。また、観光客が好む泡盛を憮然、憤懣やるかたなき、みたいに思っているオジーもいて、ではどんな泡盛がよいかというと、忠孝とかいうのか、なんかよくわからない一升瓶を勧めてくれた。なるほどねというかアルコールですなという味がした。戦前は黒糖焼酎を飲んでいたというオジーもいた。そうなのかもしれない。
 ついでにいうと、ナイチャーは、れいの、ざわわ・ざわわ・風が通り過ぎるだけ♪というお歌が好きだが、うちなーんちゅの少なからずがあれにピンと来ない。フィリピンの歌でしょとかいううちなーんちゅもいた。たしかに戦前もサトウキビ畑はあったが、キビ畑というかウージっていうかあれがあんなにどばーっと広がって「基幹産業」になったのは米政府の指導によるもので、とある広がるキビ畑の光景だが、「戦前は、水田が広がっていたよぉ、このあたり」とかオジーに教えてもらって、え゛っとうなったことがある。
 なんの話だったっけ。さんぴん茶だ。で、ピンク紙筒のさんぴん茶の他に、中国から直輸入の缶入りジャスミン茶もそれなりに飲まれている。普通中華街で飲まれているのと同じだ。これが高級だと思っているオジーやオバーがいるが、それほど高級品ということはなく、サンエーとかカネヒデとか丸大とかでも普通に売っている。缶は丸いのと四角のとある。違いはよくわからない。図柄が蝶なのでなのか、蝶缶だったか、なんか愛称があったようだが忘れた。
 以上が沖縄さんぴん茶現代史の上巻、なのだが、平成5年に革命が起きる。沖縄ポッカが缶入りサンピン茶を出したのだ。沖縄ポッカの該当ページ(参照)にも「平成5年に販売を開始したポッカのさんぴん茶は、県内のさんぴん茶ブームの火付け役です」とあるが、これがなぜ革命的なのかというと、それまで缶入りさんぴん茶がなかったということもだが、味が違った。これは、ピンク紙筒系でもなく中国輸入缶入り系でもない。
 最初に飲んだときの感動を私も覚えているのだが、というか私は中国茶にそれなりに詳しいので、「こ、これって、白毫のか?」とつぶやいた。あの頃、というかそれ以前からだけど、華人の飲む茉莉花茶には白毫というかシルバーティップスというか、茶の葉の芽というか産毛の多いスジみたいのに丹念に着香した高級品があって、たいていはこれを丸めている。中国語で真珠を意味する珍珠と呼ばれている。白龍珠とも呼ばれている。
 さらにいうと、この茶の芽というか、短めで白毫のは細いほど高級品なので、珍珠は粒が小さいほうが高級品だ。私はこの最高級品ランクを飲んだことがあるけど、「こ、こ、これがさんぴん茶のことかーっ」と叫ぶくらい、なんつうのかギリシア甘いワインとイケムくらいの差があった。トロっいうふうでもないけどとろみのような、そして香りがあの、お便所にもよろしい鴨系では全然なく、楊貴妃の脇毛芳香もかくあらん(なわけねーよ)みたいな芳香です。っていうか、白龍珠の高級品は中華街の中国茶屋で売っているから、気になる人は一番高いのを飲んでんでみるといい。いれ方はこれこそまさに80度くらい。珠がひらけばいい。というか、そこがまた見て楽しいので耐熱グラスで飲むとよい。
 沖縄ポッカの缶入りさんぴん茶はそこまで高級品ではなかったけど、白毫系のサンピン茶の味がして、すごいなこれ、と思った。というか、うちなーんちゅも、え、これさんぴん茶という感じで嵌っていた。当然だが、類似品は出る出る(たしか沖縄ポッカは「さんぴん茶」を独自商標にしたかったのではかったかな)。出ても、あの味は出ない。今でも、沖縄ポッカのサンピン茶の品質はかなりすごいと思うよ。伊藤園とかのさんぴん茶のはお茶のテイストとしてはどうしてもナイチャー的な感性に引っ張られている。
 ついでだけど、ウィキペディアには。

高級なものほど、茶葉に対して花の量の比率が高い。烏龍茶や白茶に花の香りを吸着させたものもあり、特に白茶で作ったジャスミン茶は高価。 ジャスミンの花弁を取り除いたものが製品として出荷されるが、花弁を残しているものもある。この香りを移す工程を繰り返せば繰り返すほど、そして花弁を丁寧に除いたものほど、良質なジャスミン茶となる。

 とあり、この白茶は白毫か白龍珠の意味だろうと思う。というか、白茶の白毫もあるし、白茶で茉莉花茶もあるかもしれないけど、私の知識だとはたいていのは白茶には分類されないはずだし、珍珠というか白龍珠のは緑茶の分類のはず。このあたり、専門の方がいて、finalventの言うとおりだよというなら、ウィキペディアの同項目を修正しておくといいと思うが、どんなですかね。
 で、と。こんな沖縄ポッカのさんぴん茶のことを思い出したのは、先日、これの水出しを買って、水出しで作ったらけっこううまかった。どこで買ったのか失念していた。伊藤園でも水出しさんぴん茶があるのだが、緑茶テイストがきつい。
 沖縄に旅行に行く人に、なんか懐かしい土産物あるか、と聞かれて、沖縄ポッカの水出しさんぴん茶と答えた。まあ、ネットを見ると売っているみたいなんですけどね。というわけだけど、このエントリにはアフィリはないです。

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