微妙にお疲れ様でした的なムシャラフさん
今月ブログをへたっていた間に起きた国際情勢でこれははずせないなというのは、18日のパキスタン、ムシャラフ大統領の辞任だろう。私は、ムシャラフでパキスタンは安定化すると見ていたので意外は意外だった。
流れ的には議会で連立四党による弾劾決議が迫り、強行に政権を維持するか、辞任するかという二者択一しかなかった。そう追い詰められたら前者しかないじゃないかという思いと、ムシャラフさんももう疲れてるんじゃないかなという感じはあった。
というか、ムシャラフさんも自分の思いで突っ走れる時期は超えているし、あとは誰がサポーターかということになる。国民はもうそれほど支持していない(かつては支持してくれたのに)となると、軍と米国が頼みということになる。他に頼みになるスジが無いわけでもないけど、その悪スジを取ることはないだろう。
なので結果が出てみると、軍と米国はムシャラフさんに引導を渡したということだ。軍からの見限りがあり、その全体を読んで米国がスッコメを呑ませたということではないか。ただ、軍と米国に今後のシナリオがあるかといえば、無いんじゃないか。
事実関係のログとして報道もクリップしておこう。18日朝日新聞記事”ムシャラフ・パキスタン大統領が辞任 与党の圧力受け”(参照)より。
パキスタンのムシャラフ大統領(65)は18日、大統領を辞任した。99年の軍事クーデターで政権を奪って以来、軍の力を背に事実上の独裁体制を敷いてきたが、3月に発足した反大統領派の連立内閣を支える人民党やイスラム教徒連盟シャリフ派など4党が、大統領弾劾の圧力を強め、辞任を迫っていた。
99年の軍事クーデターについては後で触れたい。
連立4党は今月初め、国会でムシャラフ氏の弾劾決議を目指すことで合意。その上で、クーデターによる政権掌握や昨年11月の非常事態宣言などが憲法侵害に問われ、死刑につながる可能性があった弾劾決議の前に辞任するよう求めていた。ムシャラフ氏は演説で「弾劾には根拠がなく、戦う用意があるが、弾劾が成立しても失敗しても国を混乱に陥れるだけだ」とした。
でも、なんとか折れたということだ。
彼の心情は、IBTimes”メッカの巡礼へ行きたい:ムシャラフ大統領”(参照)が伝えるとおりかもしれない。
9年間実権を握り続けてきたパキスタンのムシャラフ大統領が辞任してから一夜が明けた19日、同氏は報道陣に対し、近くメッカに巡礼の旅に出る意向を表明した。しかし国会では、反大統領派が同氏の弾劾裁判を行うよう要請している。
ムシャラフ氏はまず「ウムラ(Umrah:時期を問わぬメッカ巡礼)」の旅に出て、そこからアメリカに向かい親族に会うと見られている。ムシャラフ氏の親族は、医者である弟のナヴィード氏がシカゴに、その息子のビラール氏がボストンに住んでいる。
暢気なトーンの背景には、同記事が伝える強面の脅しもあったのだろう。
報道によると、ムシャラフ氏は辞任前に、9年間の大統領就任期間中に行われたいかなる行動に対しても裁判にかけられることのないよう、また身の安全が保障されるよう、連立政府との間で合意を結んだとされる。この合意には、パキスタンのカヤニ陸軍参謀長とアメリカ、イギリス、サウジアラビア3国の政府が保証人になっているという。
ムシャラフは99年にクーデターで権力を得たと言われる。その評価にはちょっと微妙な部分がある。先の朝日記事でも微妙な譲歩感はある。
ムシャラフ氏は99年10月、当時のシャリフ首相(現シャリフ派党首)によるムシャラフ氏の陸軍参謀長職解任を巡って起きた軍の無血クーデターで権力を掌握。01年6月には大統領に就任した。01年の米同時多発テロ後にはアフガニスタンとの国境地帯に潜伏する国際テロ組織アルカイダの掃討にも積極的に協力するなど親米姿勢をとった。
さらっと読むと、当時のシャリフ首相がムシャラフ陸軍参謀長職を解任したのでそれに反発して、軍の力任せにクーデター起こしたみたいだが、そうではない。
97年の総選挙でシャリフは首相に就任し、憲法改正によって権限を首相に集中させ、さらに自身が任命したムシャラフ陸軍参謀長との対立から、ムシャラフが海外出張中にだまし討ちのように解任し、彼がパキスタン航空機でカラチ着陸するのを妨害した。これを知った陸軍が怒りシャリフ首相を拘束した。ムシャラフ自身がクーデターで政権を取りたかったわけではない。読売新聞(1999.10.15)”パキスタンのクーデター 「解任」知った参謀長激怒 「だれも止められないぞ」”より。
イスラマバード発のインドPTI通信などによると、シャリフ首相によるムシャラフ参謀長解任の動きを軍が察知したのは、十二日午前十時(日本時間同日午後二時)。当時スリランカ訪問中だった参謀長は、本国の副官からの連絡で、急きょパキスタン航空の帰国便に飛び乗った。
パキスタン国営テレビが「参謀長解任」の声明を読み上げたのは午後四時。参謀長は機中にあったが、首都ではすでに幕僚らが緊急会議を開き、一時間半後には陸軍第百十一旅団が出動してシャリフ首相の身柄をおさえた。
一方、カラチに近づいた参謀長機は、首相からの指示があったのか、空港管制塔から着陸を拒否された。激怒した参謀長はコックピットに乗り込み、「私がカラチに降り立つのをだれも止められないぞ」と叫んだ。さらに無線機を勝手に使い、管制官に「おれは参謀長だ。燃料がない」と呼びかけ、午後七時四十五分になんとか着陸にこぎつけた。
カラチで参謀長は、国民向けテレビ演説の録画撮りを行った。この演説が国営テレビで放映された十三日午前二時五十分(日本時間同六時五十分)までに、軍は全土を完全制圧した。
一連の動きは、「クーデターは、参謀長解任で引き起こされた突然の行動だった」(ラシド・クレシ陸軍報道官)との軍の主張を半ば裏付けるものだが、その反面では見切り発車的であったことも示している。
おそらくムシャラフ政権への期待もあったのだろうが、こうした背景からも米国はこの事態をクーデターとするにはためらっていた。読売新聞(1999.10.13)”パキスタンのクーデター断定を米が回避 援助継続へ配慮”より。
パキスタン政変について、米政府高官は十二日、「クーデター」と断定するのを避けた理由について、「再任されたばかりの陸軍参謀長を解任しようとしたのはシャリフ首相である」と言明。ムシャラフ参謀長の軍動員以前にシャリフ首相が軍の一部を動かし、スリランカ訪問中の参謀長の帰国を物理的に妨害しようとしたとの情報もあり、米政府内では、ムシャラフ参謀長はこれに対処して行動をとったとの見方が広がりつつある。
米国防総省のベーコン報道官も同日、「シャリフ首相がムシャラフ参謀長を解任、後任に自分の腹心であるジアウディン統合情報局長(軍の情報機関トップ)を据えようとしたため、参謀長が反発して(政変が)起きた」との見方を明らかにした。
当時はこの政変もパキスタン国民にそれなりに受け入れられてもいた。読売新聞(1999.10.14)”パキスタンのクーデター 国民、むしろ「歓迎」 シャリフ政権は災禍”より。
だが、市内ではシャリフ氏の身を案じる声は聞かれない。「軍万歳」と歓呼する市民の姿が目立つ。アタル・モイヌディンさんは「皆、軍の登場を喜んでいる」と話す。学生のマリア・ムカダルさんも「政権が求めたのは、自分たちの利益。軍が全権を掌握したのは良いことだ」と強調。商人のマクスッドさんは「混とん、無政府状態、利己主義がはびこっていた。シャリフ政権の二年半は災禍だった。それが終わったのは、神のおかげだ」と歓迎した。
市民の多くは、「軍は混乱に終止符を打つために決起せざるをえなかった」とする参謀長の決起理由を受け入れているようだ。
こうして振り返ると、シャリフのほうがろくなもんじゃないなともいるが、シャリフにも別の思いはあり、軍とイスラム原理主義勢力の関係を排除したかったと見ることができる。
逆に軍を背景としたムシャラフはイスラム原理主義勢力と癒着を余儀なくされた。一方でイスラム原理主義勢力に、他方で米国に支持というムシャラフにできることは最初から限られていたが、それでもパキスタンの経済成長率は6%にも上がった。
暗殺されたブットとムシャラフの間には、おそらく米国の仲介だろうと思われるがそれなりの連携の密約があっただろう。ブットの死によってそれが消えたとき、ムシャラフの荷はさらに重くなっていたのだろう。
現在の、ムシャラフ後のパキスタンはさらなる混迷に向かうだろうし、そうした中でムシャラフの復権があるかというと、私にはよくわからない。少し待ったらシャリフですら復活したのだから、ムシャラフの復活もありえないこともないようにも思うが、なんとなく、ないんじゃないか。ムシャラフは大統領になりたい人ではなかったのだろう。
過去を顧みると、この話の背後にもう一人、カーン博士という大役者がいる。彼がこの権力の渦のなかでどういう立ち回りをしていたのか、特にシャリフとどういう関係にあったのか、そのあたりはいつかきちんと歴史に記されるまで待ってもいいかもしれない。
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