松尾匡「「はだかの王様」の経済学 現代人のためのマルクス再入門」(参照)は、私にとっては、とりあえず難しい本だったと言っていいかと思う。
内容が難しいわけではない。また評価が難しいわけではない。結論を先にいうと、私の評価は筆者にきびしいものになるだろうと思うが、その理由については後半に触れる。否定的な評価に聞こえることを懸念するが、意図としては肯定的に筆者に伝達できればよいと願っている。
では何が私にとって「難しい」のか。理解も評価も容易である本の難しさというのは修辞的になりがちだが、端折って言えば、著者松尾匡の師匠である置塩信雄の思想が現代というコンテクストにおいてこのように、つまり疎外論に総括された形態で後継されるものなのだろうか、という問題だ。違うのではないかとどちらかといえば思う。
よりマルクス経済学的に言えば、「マルクスの基本定理(Fundamental Marxian Theorem)」つまり、「置塩の定理」の今日的な意味付けは、本書のような入門書になるのだろうか。
こう問わざるをえないのは、置塩の思想を継承できるのは松尾をおいていないだろうに、それがこの本という結実なのだろうか。そこの受容が難しい。私のこの希望は、著者による本書の位置づけとは異なるかもしれないが、さらに希望を重ねれば、スラファ(Piero Sraffa)の思想の延長し統合した入門書が読みたい。
本書の内容だが、表題「「はだかの王様」の経済学 現代人のためのマルクス再入門」が簡素に表現している。現代経済学が「はだかの王様」なのだ、と読みたい誘惑にも駆られるが、そうではなく、マルクス思想が、その経済学として、現代という状況を「はだかの王様」であると描く点だ。
この「はだかの王様」という比喩は、本書でも挙げられているが、現代よりも戦時下の状況のほうがわかりやすい。日本はなぜ愚かな戦争をしたのか。当時の軍部や支配階層は日本があの戦争に勝てるとでも思っていたのか。たぶん、思っていなかっただろう。だが、それを言うことはできなかった。まるで、「はだかの王様」ではないか。そういう意味合いが本書の根幹の比喩としてある。
この比喩はさらにその解決も示唆する。つまり、みんなが戦時下の日本の状況を「はだかの王様」ではないかとコミュニケーションし、合意すれば、あの愚かな戦争にはならなかったはずだ。
「はだかの王様」的状況を作り上げているのは、戦時下では、日本という民族的な依存の関係(偽装の関係かもしれないがだが)に加えて、個人がばらばらにさせれていたことだった。つまり、「依存関係+ばらばら」という図式がある。それを松尾はマルクス思想の「疎外」と位置づける。だから、「ばらばら」がなくなれば、疎外はなくなる、と松尾は強く本書で主張している。
本書は、前半において、マルクスの思想の根幹を「依存関係+ばらばら=疎外」と描き、次にその根幹の思想がマルクスの諸著作にどのように体系的に現れているかを描き出し、後半において、その疎外という状況は、ばらばらをもたらすコミュニケーションの不在性という点で、ゲーム理論的にも妥当に説明できると描く。結論としては、松尾は、コミュニケーションによる「ばらばら」解消として、アソシエーションとしての地域の共同体という可能性を描き出す。
以上の私の読解はそれほど本書の概要を外していないのではないかと思う。どうだろうか。
仮に私が大きな誤読をしていないとして、そして戦時下の日本の状況はそれで理解できるとして、現代日本は同じように理解ができるのだろうか。そう問いを進めたい。
端的なところ、現代日本の疎外の状況、具体的には、労働者の労働が自身のものにならない状況、別の言い方をすれば、労働は時間として表現されるのだから、時間的な豊かさを享受できない日本の労働者の、ばらばらにされた状況に、松尾の提言はうまく対応しているだろうか。
松尾の理路からすれば労働者のコミュニケーションがまず求められるはずなのだが、そこが本書では薄い。IT技術への言及はわずかにあり、まったく描かれていないわけではないが、提言のビジョンとしては、労働者のアソシエーションというより、地域社会の回復という話に逸れていく印象が強い。
本書は講習会テキストとして2006年にできていたものとあり、おそらくその読者層はこの構成でうまく取り込めているのだろうし、それはたぶん、旧来のマルクス主義経済学からの脱却の可能性でもあるだろう。この点では、置塩信雄の思想の一般化とも言えるはずだ。
だが、もう少し広い読者層を想定したときに本書の目論見が成功しているかは難しい。従来の国独資論を中核とするようなマルクス経済学に対して、本書の立ち位置が、初期マルクス的疎外論による一貫した批判と受け取れないこともないが、旧マル経的な諸派から見れば、ごく散発的な批判にしか見えないだろう。さらに、残念なことに広義のマル経以外からの立ち位置からは本書の位置づけはおよそ前提から理解されないだろう。
逆説的なのだが、本書は入門書でありながら、むしろ置塩信雄や森嶋通夫の著作を読んだことのない読者には問題意識は了解されにくいのではないか。筆者からすれば、異質な読者との出会いで、どうしてそんな誤解がされるのかという奇異な印象すら得ることなるではないだろうか。繰り返すが、より広い視座で読者を再包括するのであれば、マルクス思想再入門というよりも、置塩経済学の意味付けと展望を丹念に描いたほうがよいだろう。
「マルクスの基本定理」については、松尾も知っているはずだが、現代的な課題は多い。「正の利潤を発生させるような価格なら労働が搾取されている」は、サミュエルソンが言うように逆も成立するから、「搾取される剰余価値が成立するのは正の利潤が発生した場合だけ」ということにもなる。この皮肉は、正の利潤を発生させない、つまり、ダメな経営こそが剰余価値の搾取を解消するという冗談になりかねないことだ。利潤はドラッカーが見直したように、経営の目的ではなく、経営健全性の尺度として認めざるをえない。
ネットのリソースでいえば、「ちきゅう座 欧米マルクス価値論の新たな潮流〈吉村信之〉」(
参照)が触れているが、ローマーの描いた「一般化された商品搾取定理」などの問題もある。
戦後におけるこの第二期に当たる「転形論争」を通じて生み出された一応の有力な回答の一つは、日本の経済学者である置塩信雄氏が出したものであり、「マルクスの基本定理」と呼ばれている。この定理は、生産条件と実質賃金からなる価格方程式、および労働時間を単位とする価値方程式から、数理的に「利潤の存在は剰余価値の存在と同値である」ことを証明した。しかしマルクスが転形問題の重要な柱とした「総計一致の二命題」(総価値=総生産価格、総剰余価値=総利潤)は成立しないことをも、同時に明らかにした(置塩[1978/初版1965][1977] )。いわばマルクスの価値論を、マルクス自身の主張よりは幾分弱めた形で立証したのである。
しかしこれに対する批判も出されている。1981年のボウルズ=ギンタス(Bowles and Gintis[1981])が、更には日本では「クーポン社会主義」や「アナリティカル・マルクス主義」の旗手として知られているローマー(Roemer [1986])が一層精緻に、この「マルクスの基本定理」が、労働力のみならず、鉄や小麦といった生産投入要素にも同様に成立することを数理的に証明した。「一般化された商品搾取定理」と呼ばれるものがそれである。生産過程において投入される生産要素が利潤を生み出すことに寄与していること、この点で労働力も鉄や小麦と無差別であることが証明されれば、マルクスの剰余価値論、さらにはその上に打ち立てられたマルクスの経済学体系は砂上の楼閣に帰してしまう。事実、ローマーらはその後、もはや生産関係を問題とするマルクス主義の系譜を引いた「アナリティカル・マルクス主義」という呼称を止め、生産における分析ではなく分配的な正義を追及することに関心を移している。日本でも近年この方面の諸議論を紹介した幾つかの書籍が出版されたことは記憶に新しい
むしろ現代の状況は、「一般化された商品搾取定理」の上に諸理論が成立するかもしれないように見える点にあることではないか。
このあたりの切り口からさらに深化させれば、高須賀義博が80年代「マルクス経済学の解体と再生」(
参照)において、置塩やスラファを念頭に置きながら、国際金融や国際的な通貨の問題へも目配せを始めていた視点が重要になる。この点は過去「極東ブログ: World 3.0 という雑想」(
参照)で少し触れた。
本書の文脈でいうなら、貨幣の一般的な現象は、他のマルクス経済学のモデル全般にいえるが(リカード的な国際間経済がまったく捨象されているはずはないのだが)、どちらかといえば、一国経済学のモデルであり、国際通貨とそのシニョリッジや、端的にいえば金融帝国主義的な帝国における中央銀行の意味付け、それが必然的にもたらすというと言い過ぎだが、余剰マネーからホットマネーと投機といったマネーの問題がある。さらに個別に国家に幽閉された一次産品といった極めて現代的問題は、本書の視座にはない。
労働価値説の理論面からすれば、こうした現代的なマネーの問題は確かに不要なのだが、現実の日本の労働者がおかれている状況には、その影響力はかなり大きい。具体的に目下の状況のように外在的なインフレでは日本の国富は結果的に吸い取られていくわけだし、それは労働者の賃金にも影響している。日本の労働者と日本国家の金融政策の関与の部分は少なくないし、松尾がこの分野に目配せできないはずもないことは、本書のエピソードからわかるのだが、それでも本書では、まずマルクス思想、特にその疎外論が突出しているため、現実の日本との乖離感は強い。
本書の根幹の疎外論に話を移す。
私は、本書のマルクス思想の理解、特に、疎外論の理解には異論を持った。私見では、疎外は、けして悪なり単純に解消されるべき現象ではない。むしろ、必然の現象であり、歴史における、根幹的かつ一元的なプロセスの産物である。マルクスはヘーゲルを転倒したと言われるが、それは歴史の実体を精神と見るか、物質的な生産向上と見るかの転倒性であって、方法論的な転倒はない。つまり、自己が疎外によって反自己を生み出し、その対応の能動性から止揚に至る図式では、ヘーゲルとマルクスに差はない。
より具体的に本書の疎外論を私のマルクス理解から批判してみたい。もちろん、私が正しいと主張したいわけではない。
松尾は「国家」を疎外論によって次のように説明する。図自体が誤解を招きやすいので、それも引用したい。

国家とは何か。社会の共同利益・共同秩序のための公的な観念(法・制度など)が、個々人の具体的な事情を離れて、あたかも何か一つの実体がある物のようになって人々の外にひとり立ちしたものだ。いったんこうなると個々人には、公的なものの抜け殻となった、自己利益を追うわがままな自分しか残されていない。そこで、国家が警察や軍隊などの権力で無理矢理抑圧することによって、やっと個々人の社会性が実現されることになる---こういう図式です。
この図式の前段には国家を神に置き換えたフォイエルバッハの図式があるが、そこでなぜ人が自己疎外して神を生み出したかについて、こう説明している。
この図式においては、もともと生身の人間のくらしの欲望に根ざしていたはずの理性や思いやりが、神の性質として人間の外から立ち現れます。そしてそんな神様の目におそれいって、生身の人間の利己的な欲望を抑えつける、それではじめて人間の本質たる共同性が保たれます。しんどい話です。
確かに「しんどい話」ではあるが、何がこの「しんどさ」を生み出しているかといえば、トマス・ホッブズがいうような「万人は万人に対して狼」による「万人の万人に対する闘争」の調停への希求であり、そのような調停なくして共同性は実現できないことだ。
国家についても同じだ。国家は、市民個々人の権利を社会や伝統集団の因習から保護するための意志として疎外されて出現する。より正確に言えば、共同体はイコール国家ではなく、国家を生み出す疎外の契機は別途存在するのだが、ここでは触れない。
国家を疎外する必要性については、こう言い換えてもいいかもしれない。「万人は万人に対して狼」である自然性のなかで、個人が存在するためには、その防衛のために自己を疎外せざるをえない。
この意味で、疎外の図式は無制限に何にでも適用できるようなギャグネタではないことは明白だが、問題は、疎外の解消ではなく、疎外を必然として受け入れた場合の両義性にある。
もちろん、松尾はそうした疎外の必然性を理解していないのかというと、かならずしもそうではないことは次の部分から了解できる。しかし、その了解は十分ではないように私には思える。
(前略)社会の共同利益がひとり立ちしたものと国家を既定するとき、共同利益だからいいと言っているわけではなくて、それが現実の生身の人間の利益から切り離された、具体的な人間不在の観念的な「共同利益」であるかぎり、どんなにエコヒイキない理想的なクリーン国家でも、それは疎外であり人間に対する抑圧だと批判しているのです。
ある意味でそれはマルクスの思想に合致している部分もある。つまり、「エコヒイキない理想的なクリーン国家」の追求が結果的にスターリンやポル・ポトなどを生み出したのは、まさにマルクスが指摘した疎外の問題の本質的な倒錯の結果であることだ。
だが、松尾の了解がマルクスの疎外論を十分に表現しているとは私は思えない。人間不在の観念的な「共同利益」が同時に公正をも意味していることは、西洋近代の基本を是認しているマルクスにとっては自明であったからだ。
西欧においては、法は、目隠しをし秤と剣を持つ女神として象徴されるものだが、これは、人間的な感情や縁故なり、共同性的な結合の権力関係を排除し、非人間化することによって正義が出現することを示している。と同時に、この正義が死刑を国民にもたらすような権力となるのは、その必然的な両義性にある。
問題は、では国家をどのように暴走させないようにするかだ。また法によって実現される権力の行使はどのように箍を嵌めるべきなのかだ。けして、疎外を後ろ向きに解消させることではない。後ろ向きの解消は、公正な正義の欠落をもたらし、日本赤軍のリンチのような「万人は万人に対して狼」を露出させることになる。
別の言い方をすれば、問題は、疎外自体を解決させて本来性を復元させようとすることではなく、疎外の必然性を受容し、その先に、国家をいかに止揚するかという課題を提出することであるはずだ。だが、松尾の視座にはそれはないのが残念だ。
同様に松尾の疎外論理解にはマルクス思想からみてもう一つ大きな逸脱があるように私には思えた。簡単に言えば、市場とはそれ自体がコミュニケーションの場だということだ。
マルクスは、人間と人間の関係を商品という物の関係に物象化したものとして資本主義を了解したということはよく指摘される。さらにその商品の関係性から貨幣が出てくる過程も松尾が本書で説明する通りでもそれほど問題はないのだが、なぜそのような疎外が起きたのか、またその疎外は解消されるべきかという点では、ここでも国家と類似の論点が出てくる。
簡単に言えば、労働は交換可能になるには商品として疎外されなけばならず、また労働が時間差をもって蓄積され交換されるためには商品化からさらに自然に簡便性の高い貨幣化に至るものだ。
物象化は非人間化だから、魔法で蛙された王子様の魔法を解く、というような単純なことではない。むしろ、市場という、コミュニケーションの場に現れるために、物象化は必然として現れる。
だからこそ、マルクスは労働価値説において、リカード的なモデルでの単純な労働価値説を取らなかったのだ。
マルクスは、価値の実現の契機に市場を本質的に介在させた(この部分はマルクスが思想を完成させずに死去したので、異論が多いところでもあるが)。
市場というコミュニケーションの場、ないし共同意識(これもまた疎外された意識)を介在しなくては、労働の価値そのものが創出されない。労働の価値は疎外と市場というコミュニケーションの場を経て初めて現れる。
「依存関係+ばらばら=疎外」をとりあえず認めるとしても、ばらばらを統合するのは、市場のコミュケーション機能であり、労働の価値は市場を本質的な契機とするのだから、むしろ、労働が正確に疎外されない状態は、市場に問題がある。