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2008.07.31

過去のメディアが今のメディアと競合する時代

 WTO決裂については今日の新聞各紙社説がそれなりにうまくまとめているし、こうした正論が新聞に書けている時代はまだいい、ということで、というか、たぶん今回のWTOは決裂以降が問題なわけなので注視しつつこの話題はブログではパス。で、雑談。
 先日のエントリ「極東ブログ: [書評]グーグルに勝つ広告モデル(岡本一郎)」(参照)だが、読後はよくわからなかったのだが、避暑がてらというのと、オリンピック騒ぎを逃げるために、DVDの映画とか古書とかを探しに街に出て、なるほどね、同書にあった過去コンテンツが現在のコンテンツと競合するっていうのは、けっこうアリなかと実感した。過去コンテンツがここまで膨れあがった文明っていうのはなかったわけだ。頭ではわかっていたけど、どうにも実感としてついてこれないでいたが、なんだかようやくわかってきてぞっとするものがあった。
 蔦屋に行ったら巨人の星が全巻ある。私が見たことない、いわゆる本編以外もある。私は世代的に巨人の星は雑誌もテレビも全部見ている。特に雑誌のほうは少年マガジンの連載以外に、別途総集編雑誌が発売されていた。それのオマケにしょぼい短編漫画がついていて、多分無名のまま消えたんじゃないなという作家のものだが、奇妙に、断片的だけど、鮮明に記憶にあったりする。
 巨人の星の本編では日高美奈とか青春のオブセッションでもある、とかとか思うけど、こんなもの二度と見たくもない。
 雑誌もテレビも全部見たといえば「うる星やつら」も全部ある。TVのほうの音楽はかなりグッドなんだけど、放映の途中ごろ絵がすごく汚くてあれはもう積極的に見たくない。いまBSでやっている「ルパン三世」ももういいや。映画「ルパン三世 ルパン vs 複製人間」(参照)は傑作だからいつか見直してもいいけど、「ルパン三世 カリオストロの城」はもう見ることないだろう。
 仮面ライダーなんかも過去の作品がけっこうきちんと整備されていて、なんか、こー、鬱っていうか、ケロロ軍曹とか見ていて元ネタがわかる自分に鬱っていうか、そんな感じ。娯楽なんだから、別に見なくてもいいし、考えなくてもいいんだけど。それにしても、すごい未来がやって来たものだな。蔦屋とか古書店で呆然とする。
 そういえば一昨日のエントリ、「極東ブログ: [映画]時をかける少女(細田守監督)」(参照)もそうだけど、これってある意味で過去作品の連続の上にもあるわけだし、もちろん、そういうふうに見なくて全然いいのだけ、それでも過去作品を背景している部分もあるわけで、なんだか不思議な感じがする。
 今は過去の上に成り立っているとしても、たぶん80年代あたりからか、今が過去のコピーというかメディアの上に成りっているみたいな錯視感に変わった。別の言い方をすると、60年代というのはなんでもやたらと「新しい」時代だった。そして70年代はその新しさが腐ったというか、マス化を含めて終わった時代だった。そして80年代になったら、もうリアルなものはなにもなくて、作品というか作られた映像から歴史が出来てきてた。ボードリヤールがあのころ、シミュラクルとかハイパーシミュレーションはリアリティって言ってたがよくわかったというか、吉本隆明もまだ元気でそのあたりニューアカのバイパスで格闘していたわけだけど。
 ど、というのは、個人的な印象だけど、ネットっていうか、90年代半ば、モザイクというか画像がネットに登場するようになって(正確にいうとコンピュサーブでかな)、ハイパーシミュレーションはリアリティじゃなくて、リアリティそのもの。もうなにがなんだかわけがわかんないことになった。見えるということは、そもそも創作だし再創造なんだというのが自明な世界がやってきた。
 70年代というか80年代の頭くらいまでは、まだ映像がリアリティ=本当の世界、との対比で語り得たけど、80年代のあたりのどっかでリアリティっていうのはフィクションの純化というか、本質という創作になってしまった。あまり言うと不要なバッシング受けるかもしれないけど、歴史修正主義というはまあ普通に批判されてしかるべきなものだなのだが、その歴史修正主義という概念が依拠しているリアル感は実は80年代に消えたんじゃないだろうか。
 小林信彦がテレビの戦争ドラマのリアリティがおかしくなっているということを以前時折触れていたが、もう触れるのもイヤになってしまったみたいだが、映像や物語で語られる戦争のリアリティの質感がどっかで根本的に違ってしまって、ちょっと偽悪的にいうと、そこで提出されるイデオロギーのリアルな希求がリアリティに置き換わってしまった。たとえば、戦争の悲惨を理解することがリアルな映像なのだというか。でも、本当の映像というのは、たえず各種のイデオロギーというかそういう理解を裏切る雑音的な要素があるものだった。リアルなものというのは物語を否定しちゃう矛盾を持っているもので、ある微妙な「おかしみ」というのか変な日本語だけど、いや別にナショナリストでも戦争賛美でも否定でもないけど、春風宇亭柳昇のラッパの話は面白いなあみたいな部分があるものだった。
 不思議なのだが、YouTubeのおかげで60年代とかの古い映像とかも見ることができる。先日、宇宙少年ソランのチャッピーを見てなんか泣けてしまうものがあるのだけど、じゃ復刻なら当時の映像のままだから、ある種のリアルが今でも見えるのかというと、見られない。満州時代の映画とかも、たしかに歴史の資料だしそのままだけど、どこかできちんと21世紀に再生している50歳の俺が一緒にいる、みたいなカプセル化がきちんとできていて、カプセルを外すことはできない。なぜなのだろうか。
 しいていうと、古い建物のすえた臭いのなかに、本当の歴史の感覚がすると感じることはある。自分が生体として生きて来た時間の、もっとも原初的なリアリティのなかでしか戻らないものなんだろうか。
 なんかまとまりの無いようなことを書いているけど、星里もちるの「りびんぐゲーム」だったか、登場人物の女の子が1970年代生まれだ、若い!、とかで他の登場人物がずっこけているシーンがあったが、1970年代生まれの子が世の中に登場してきたよガビーンの感じはあった、俺の90年代。その先はもう80年代生まれどころじゃない。
 ただ自分が年を食ったということがいいたいわけでも懐古したいわけでもなく、自分からみると、シミュラクルとリアルの差のない、あるいは差が価値という歴史空間に生まれた人たちがもう立派な大人になっているのだし、その人たちがまた映像を作り出してしまっている。恋愛とかしているし子供を産んだり育てたりととかしている。えええ! そういう人間的な行為はメディアの外でするもんだぜ!、とか言いたくなりそうだが、そう思う自分も、実は文章のメディアとしては同じ構造の中を生きてきた。
 歴史の感触がメディアに置き換わるのは、「映像で」というのは70年代以降だが、「文章で」というか「出版のメディアで」というのなら、近代が始まったときにすでに起きているというか、なんとなくなくだが「極東ブログ: 武士というもの」(参照)で武士道が興行の産物ではないかとしたように、明治時代の後期あたりから発生している感じがする。普通に近代とは文章というメディアの空間だし、80年代あたりからそれが映像や感覚再現のメディアに置き換わったのだろうな。
 話がごちゃごちゃしてしまうが、映像メディア自体は1930年代には興隆しているし、そもそも第二次世界大戦というのが、飛躍するけど、その映像メディアの産物だとも言えないことはない気がする。「あの戦争」はどことなく映像で出来ている。そして映像というのは、リアリティを映し出すのではなく、編集ということなのだろう。
 80年代に歴史のリアリティが映像化するというのは、映像の質、端的には映画からTVということかもしれない。
 夏雲を見上げて、すっと手を伸ばしてみる。どっかに薄いメディアの幕みたいのが破れるんじゃないか、と。破れっこないのだ。

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2008.07.29

[映画]時をかける少女(細田守監督)

 細田守監督作品「時をかける少女」(参照)は2006年7月15日の公開なので私は二年以上経って見たことになる。気になっていた。夏雲を見上げたら、見るころじゃないかなと。見た。傑作でしたよ。これはすごいなと。これは大人の映画だなと。いろいろな見方があるだろうし、いろいろと感動(あるいは罵倒)を胸に溜め込んでいる人も多そうな感じはする。まあ、私が思ったことでも少し書いておきますか、くらいな話を以下に。

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時をかける少女
 まいどまいど自分語りがくどくて申し訳ない。1957年生まれの私は1972年に放映されたNHK少年ドラマシリーズ「タイム・トラベラー」をべたに見ている。べたなターゲット層だし。深町くんことケン・ソゴルもよく覚えている。ラベンダーもこの番組をきっかけで知った。1983年大林宣彦監督映画「時をかける少女」は見ていない。原田知世も角川映画も好きだったがなぜだろうか。理由はよくわからない。ユーミンの「VOYAGER」は聞いていた。
 2006年「時をかける少女(細田守監督)」は原作とはだいぶ違うらしいくらいの前知識はあったし、あまりそのテイストへのこだわりはなかった。が、もともとは少年ドラマふうな印象があったから、そのあたりが現代にどう活かされるのだろうかという関心はあった。理科室が出てくるところは原作へのオマージュかなとは思った。
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VOYAGER
松任谷由実
 後で知ったが、この作品は1983年大林宣彦監督映画「時をかける少女」の続編の位置づけらしい。1983年版は原作をなぞっているから芳山和子の登場でもわかる。というか、そのあたりに作品のトリックがありそうなので、途中、身構えた。
 というあたりを先に話すと(スポイラーになるとは思うが)、未来人、間宮千昭がこの時代にやってきたのは東京国立博物館のある絵を見るためということと、芳山和子の人生の時間についてのくだりに、たぶん、私からは読めない何かプロットが仕組まれている印象はあった。なんだろ?
 話に入る。冒頭、東京下町の高校二年生女子、紺野真琴が、同級生の男友だち間宮千昭と津田功介とつるんでいる。たわいないキャッチボール。こういう男女関係は、幼なじみ的な関係ではありえないわけでもない。が、イカ臭い高校二年生なんだから当然、そこに恋愛や性の感情がにじむ部分もある。実はそこがこの映画の一つのテーマになっているといってもいいだろし、そこはよく描けている。紺野真琴の胸はやたら小さいが(意図的だろうけど)。
 原作は、SFチックというか少年少女向けに書かれていることもあり、いわゆるタイムトラベルものの様相を色濃く出しているのだが、今回の映画では、それは、明確に一つの比喩として描かれている。比喩でしかない。これはすごいなと思った。
 私は50歳にもなってしまったので十分少年時代や青春時代を薄汚く述懐してもいいのかもしれない。というのは、過去というのは常に可能性に見えているものだからだ。そう過去がだ。可能性に満ちているのは、未来ではなく過去だ。あの時、あの選択をしたら、どう生きていただろうか。仮想のパラレルな過去を積み上げて今という時をごまかして生きている。時間というのは、意識によって崩壊した量子的な存在でもあり、エヴェレットの多世界解釈のように今の自分は多層な可能性に満ちた過去の幻想に覆われているものだ。
 いや冗談ですよ。実際にはこの一つの人生しかなく、そしてそれは今という時間のなかで、薄汚く汚れたものでしかない。なんでこんな惨めな老いた自分がいるのだろうということ、過去の多様な可能性は意識のなかでバランスされている。時間の意識というのはそんなものだ。
 と強引に自分の話を引っ張ったが、この作品、ある意味で、津田功介が藤谷果穂と二人乗りの自転車で踏切事故にあって死ぬのが、リアルなエンディングなのだ。人生という物語なら、そこで終わり。主人公、紺野真琴はそこに罪のような悔恨のようなけっして戻らない死を抱えて、30歳・40歳。50歳とだらだら生きることになる。人は、可能性の過去のなから最悪の線の上に細っそりと惰性で生きていくものだ、普通はね。生きているだけマシが死に損なったかなの均衡をゆっくり壊していく。
 あの二人のリアルな死で、この物語の一つのリアルな構造が終わる。その時、物語の空間が強くなり、突然、間宮千昭が未来人であると告げられる。つまり、そこからSFという比喩がようやく始まる。作為のなかで死のリアルさと、幻想の過去の可能性としてのSFは、きちんと意識的にこの物語のなかで多層化される。
 この多層性のなかで、紺野真琴は間宮千昭を恋人として選び得たかもしれない失われた過去にいる。ここでも時間が死と遭遇している。間宮千昭は、時間の秘密を犯した重罪であり、きっちりとは描かれていないがそれは死罪と見てよい。「今」という時間は、恋を選べずに罪と死だけが残されるようにできている。
 物語のこの屈曲点から、物語としての最終部に向けて、ドラマツルギーによる転換が始まる。リアルな人生の、こうした悲惨な時間という意識構造に立ち向かい始める。私たちは過去のなかで選び得たものを最上のものとすることができるのではないか、と。
 冗談エントリを書いているようだが、これはニーチェ哲学の最上命題だ。多様な希望に満ちた過去からその最悪な今につながるルサンチマンとしての自分の今のあり方を、きちんと今選びなおすこと。もう一度あの時間を生きるとしても、同じ選択をすること。今の人生に是と言うための過去を選択しなおすこと。
 物語では、紺野真琴は間宮千昭を恋人として選び直す。それは同時に過去の恋人を失うことでもある。そこで失われた恋人として、「また未来で会おう」と約束する。それは、未来としてのこの今のこの時間に、最善の選択をすることだ。そして、それが今という時間を変える。
 映画のこの、ラブシーンのように見えるトリックは、「タイム・トラベラー」の視聴者だった私にはよくわかる。ケン・ソゴルと芳山和子の約束そのものだからだ。恋人は再び別の人間として未来に現れるということ。
 人は若い日の恋愛のなかには生きてはいけないけど(そこには死があるし)、そこから組み上げた最上の未来のなかで定まった未来の恋人を選び出すことはできる。その確信のなかに生きていたことが、過去の時間のすべてを変える。それが大人の物語だ。
 アニメの映像も美しい。2006年の東京というには少し古いように見えないこともない。でも、そこに刻まれた風景はたぶん、若いときにこの映画を見た人の心のなかで、20年後、30年後、きちんと時を超えて、大人の物語として蘇る。

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2008.07.28

次の目標地点は北京パラリンピック、それまでは昼寝が吉

 ジワジワと北京オリンピックが迫って来て個人的には気が落ち込む。もともとオリンピックは好きではないし妙ちくりんな事件でも起きなければいいなくらいに思う。世界が平和でありますように。
 いろいろと北京政府も大変そうな感じは、産経新聞”日連続で直訴者摘発 数千人規模か 五輪開催中の混乱を予防”(参照)あたりから伺える。


地方官僚の腐敗や横暴ぶりなどを訴えるために上京した農民らが住みつく北京の「直訴村」で連日、一斉拘束が行われている。24日で4日連続となり、拘束者は数千人規模になるようだ。五輪期間中に北京市内の人目につく場所で直訴者が抗議行動を起こすのを防ぐのが狙いだ。当局がこのほど、「五輪期間中は北京の3カ所の公園を集会・デモのための区域とする」と発表したのも、同じ狙いからとみられる。

 3か所については共同”五輪期間にデモ専用区設置 異例の措置、暴動続発背景”(参照)より。

 中国では官僚腐敗などへの不満から地方で暴動が相次ぎ、住民の中央政府への陳情も増加しており、公安当局などの力による抑えつけに限界があることが背景にある。
 専用区域は世界公園、紫竹院、日壇公園。いずれも五輪会場に近く、隣接しているものもある。劉部長は「デモは申請して許可を受ける必要がある」としており、中国政府のチベット政策や人権問題を批判する団体などによる申請は大半が不許可になるとみられる。

 という見方は共同の思いが入っているかも。先の産経では。

 一方で、当局が特定の場所での集会・デモを認めたことについて、五輪前の拘束を逃れた直訴者を把握し、摘発するのが目的、との見方も直訴者の中から出ている。

 三十六計のお国柄とするとこっちがたぶん真相に近いか。というか、北京オリンピックをむしろきっかけにウイグル地区の弾圧など強めているのかもしれない。9日付けCNN”新疆ウイグル自治区で「聖戦」唱える5人射殺と、中国当局”(参照)より。

中国の国営・新華社通信は9日、新疆ウイグル自治区ウルムチで中国からの独立を目指し「聖戦」を標ぼうする勢力の拠点を摘発、構成員5人を射殺したと報じた。摘発したのは、イスラム教スンニ派のウイグル族の男女15人。

 とはいえ、おそらく北京政府側が恐れているのは、愛国心を錦の御旗にした暴動だろう。昨年9月杭州市でワールドカップ、ドイツ戦で「なでしこジャパン」が4万人の中国人観衆からブーイングを浴びせられたことを思い出すと、謝謝横断幕精神でうまく落ち着くのか不安には思う。が、オリンピック終了まで何か大事件と呼べるようなことが起きるかといえば私は起きないだろうに賭ける。
 問題は、オリンピックまでは繋げてきた中国の発展で、先日のエントリ「極東ブログ: [書評]中国発世界恐慌は来るのか?(門倉貴史)」(参照)でも触れたが、同書では、北京オリンピック直後に問題は起きないだろうとしていた。
 今朝の日経新聞社説”五輪を迎える中国(下)経済の「質」高め大地の荒廃食い止めよ”(参照)は随分と楽観的に出てきた。

 「北京五輪が終わると中国の景気が急減速し世界経済の足を引っぱるのではないか」との懸念が早くから指摘されてきた。実際にはサブプライムローン問題に端を発する米国の景気減速が最大の不安要因となっており「中国発の世界不況」という事態はなさそうだ。ただ結果的に、中国が高成長を続けることへの期待は従来以上に高まっている。

 さらっと読むと、もう中国発世界不況はなく、米国経済の失態で中国にもっと期待が高まるっということだ。ほぉ。
 だが続きのトーンは微妙。というか、どういう段落のつながり方をしているのか次段落はこう。

 胡錦濤国家主席をはじめ共産党政権は国内の安定を最優先し、五輪が終わるまで改革を先送りしているようだ。五輪閉幕後にはコストに見合った水準まで電力料金などエネルギー価格を引き上げる改革に踏み切るべきだ。世界経済の不透明感が増し中国の景気減速も懸念されるが、改革は急がなければならない。

 これはどういう意味なんだろう。単純なところなんのための「改革」か? 文脈的には、「高度成長を続けるため」としか読めないのだが、「五輪閉幕後にはコストに見合った水準まで電力料金などエネルギー価格を引き上げる改革に踏み切る」ことで、高度成長が続くのだろうか。そのまえに凹むんじゃないの。
 さらにこう続く。

 「粗放型」の発展の限界は鮮明になっており、生産性の向上で成長を目指す必要はかつてなく高まっている。中国は五輪を機に、より質の高い「循環型」経済への転換を加速しなければならない。その成否こそが将来、北京五輪に対する歴史的な評価を左右することになる。

 腐したい意図はまるでない。文脈的には改革で生産性の向上が望まれるというのだ。ようするにスパンの取り方の問題だろうか。
 それでも、「粗放型」の発展の限界は鮮明だとしているということは改革がないとそれはそれで凹むということだろう。というか、そうしないと北京五輪自体が別の歴史的な意味を持つということで、なんとも高度な修辞で読みがむずかしい。
 この問題の識者として参考になるのが24日付けロイター”五輪後の中国:間違った経済政策、早期転換無ければ社会亀裂リスクも”(参照)の富士通総研(FRI)経済研究所の柯隆・主席研究員の指摘だ。これはネットで見られる内に直接読んだほうがいいと思うけど、簡単にコメント。

 ―― 五輪後の中国経済の行方は。 
 「規模そのものの拡大は続く。2008-09年は07年ほどの高さではないにしても、10%前後の成長が続く見通し。ただ、経済の中身を検証する必要がある。今の経済政策は大きく間違っている。昨年から一気に景気引き締め政策を始動させたが、中央銀行はインフレ抑制のために引き締めたくても、通貨の安定を考えると利上げはできず、手足を縛られた状態だ。預金準備率の引き上げや手形発行による短期金融市場からの資金吸い上げを行っているが、インフレで熱は上がり、解熱剤になっていない」
 「そこで昨年7月には外科手術のように貸出総量規制を導入したが、これは完全に間違っている。市場経済と言いながら計画経済の政策を復活させたもので、多少熱が下がるようにみえても、実は体力の消耗になるだけだ」 

 現状ママで来年まで成長するとのこと。ここで個人的に理解がむずかしいなと思うのは、貸出総量規制の件で、柯氏はかなり明確に間違いだとしている。
 さらにこの先柯氏は総量規制の緩和こそ必要だとている。一種のリフレが必要だという理解でよいのではないかと思うが、率直なところ、そのあたりのことが私も詳しく知りたい。自分には十分な経済学的な知識がないからだ。ただ、「極東ブログ: [書評]霞が関埋蔵金男が明かす「お国の経済」(高橋洋一)」(参照)の日本への指摘には似ているように思えた。
 オリンピック後はどうか。

 ── なぜパラリンピックまでに政策の転換が必要なのか。 
 「北京五輪は国威発揚のイベント。中国では過去100年でこれほど世界に注目されるイベントはなく、待ちに待った一大イベントだ。五輪が作り出す表面的な繁栄や高揚感の中では経済の実態が見えにくいが、パラリンピックが終わった瞬間に人々の間に喪失感が広がる。2年後に上海万博があるとは言え、市民は簡単に切り替えられず、株や経済の実態に気づくだろう」

 柯氏の要点は、「人々の間に喪失感が広がる」という点だろう。このあと。

 ── 政策が転換されない場合はどうなる。 
 「経済政策の是非を判断する最良のバロメーターは株式相場。上海総合指数が昨年、6000ポイントを超えた時はさすがに高過ぎて調整が必要と思われたが、これほど急激に半分以下の水準まで落ち込むのは明らかに間違った政策の影響がある。政策転換がなければ株価が2000ポイントまで落ちることも十分ありうる」
 「上海の個人投資家に聞き取り調査したところ、株への信用を失っている。中国には1億人以上の個人投資家がいる。退職金を全てつぎ込み、不動産を担保に借り入れして投資する人もいたが、株の失敗で自殺者が増えている。企業の経営をやめるケースが増えて失業率が上がれば、治安も悪化する。1番のリスクは雇用だ」 

 ここもむずかしい。この点について、ニューズウィーク日本版7・23”上海株暴落と市場浄化の真実”では多少楽観視している。オリジナル記事は毎度ながら英語で読める。”Following The Herd In China”(参照)である。

 株価が急落した後も中国で抗議行動が起こっていない理由の一つは、中国の銀行が株取引のための融資を認められていないからだ。そのために損失の額も限定されたと、スタンダード・チャータード銀行の中国担当エコノミスト、スティーブン・グリーンは言う。昨年のバブルの頂点で、中国の流通株の時価総額はGDP(国内総生産)の約30%だった。日本の109%、AMリカの142%に比べるとはるかに低い。

 概ねそうなのだが、ここの部分の翻訳が毎度ながらちょっと引っかかるので原文も引用しておく。

The fact that China has not experienced the sort of protests that hit other countries after major market meltdowns―as in India, where investors took to the streets of Mumbai earlier this year―is partly down to the fact that Chinese banks are not allowed to support margin trading (that is, lend people money to invest in stocks). That has limited the absolute size of losses, says Stephen Green, Chief China Economist of Standard Chartered Bank. At the height of the boom last year, China's tradable market cap was equal to around 36 percent of GDP, compared with 109 percent in Japan and 142 percent in the United States.

 この先、ニューズウィーク記事でも、株暴落の影響は出はじめているとはしている。が、それでも、記事のトーンとしては中国人にとっても自己責任のいい教訓になっただろうというふうにはなる。
 気になるのは英文のほうの対比されているインドの事例だが、むしろインドは民主主義だからそれなりの社会抗議に政治の流れが付けられるが、中国はどうなんだろうか。
 中期的に見れば、大きな経済クラッシュもなく社会不安も一定域に押し込められ、未来永劫までとはいわずも長期に繁栄して共産党独裁が続くというシナリオがありそうなのだが。
 が、というのは、私はこのブログで米国住宅ローンバブルはある程度予測したし、かなりひどいことになると思ったけど、サブプライムローン問題が金融危機にここまで連鎖するとまでは思っていなかった。そのあたりを教訓にすると、あまり楽観論というのもどうかな、なのかもしれない。

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2008.07.27

雑感、関心がすれ違っていく

 ブログを初めてもうすぐ5年になる。よくやっているなというのと、このところのエントリの書けなさからするともう終わった感もないわけでもない。そのあたりは自分のありかたに自然なままで推移していくしかないだろう。個人のブログなんだし、自分が多少なり社会に問い掛けたい(あるいはそれをもって世相のログとする)という以上には目的のないブログでもあったし、その限界で終わりというものは必ずある。
 ただ、「書けなさ」感みたいのは、ある程度は自覚的だ。世間の物事に自分の関心がなくなっている。そしてさらに関心を持たないようにしている自分もいる。そのあたりことを、この間、書かなかったなということの言い訳のようにざっとメモ書きしておきたい。
 どこからでもいいのだが、連想のようにして思いつくのは、八王子で起きた無差別殺人だろう。凶器は包丁だったのでさすがにこれを取り締まれというナンセンスな意見は見かけなかった。秋葉原の事件ではネットのリアクションには共感のようなものもあったように思えたが、今回はこれもさすがに見かけなかった。あったのかもしれないが少なかったのだろう。無辜の、市井の人が殺害されてしまう社会というのは問題は問題だし、大手紙も社説で触れていたのを読んだが、特に共感もしなかった。対処案としては、日本社会の人間関係の根幹の問題だというのが上がっていたが、それこそ言っても詮無い。読売新聞だったか私服警察官を街に増やせというのがあった。そういう発想にもなんと言っていいのかわからない。映像ニュースは意図的にほとんど見なかったがラジオまたは音声だけのNHKのニュースでは、街中の監視カメラが容疑者を撮影しているものが多かったようだった。そうした監視カメラは今回の事件の抑制には繋がらなかったわけだが、その後のニュースという物語の素材にはなった。またニュースなのに被害者の小学生時代の作文も聞いた。ある種のディテールが語られることで、事件のリアル感を失っていくような奇妙な感じがする。
 ネットの話題だが、毎日新聞の英語向けサイトの話題が下品だということで、ネットからはバッシングがあり、結果的に毎日新聞も謝罪?というのか、公式に記事の不適切性を認めた。私はこの件についてもほとんど関心がない。該当の下品な記事を読んでいないこともあるが、ネットなんて下品な記事に溢れている。私のブログだってその部類だろう。私は自身を著名なブロガーなりアルファブロガーなりとも思っていないが、そういう幻影から揶揄や攻撃は受ける。しかたない面もある。我ながらちょっと下品だよな、俺、このブログ、しかたないな、と。
 毎日新聞がアルファブロガーの特集をしたとき、私にはまったくのお呼びはなかった。泡沫ブロガーだからということでもいいが、もうオフレコでいいかもしれないので言うと、NHKクローズアップ現代で以前アルファブロガー特集があったとき、このブログは内容に出る可能性があった。結局は没になり、画像だけが放映され、そのことがネットの嘲笑の対象にもなった。どうでもいいよと思う。毎日新聞からも呼ばれたいとも思わないのだが、なんとなく、切込隊長(山本一郎)さんと天漢さんと私には、ブロガーということでお呼びをかけるキンタマのあるマスメディアはないんじゃかなというのは少し思った。切込隊長さんは文春などにも執筆する言論人だからそうでもないかもしれないが、ブロガーとしての彼の「毒」や、天漢さんの「毒」みたいのは、マスメディアの論調には合わないだろう。そのズレにかろうじてブログの良心というのか、いや良心などではないにせよ、なにかブログの精神に近いものがあるように思うが、そのあたりは自分の考え過ぎかもしれないとも思うし、私についていえば、「ブログ」論的な話題にはそれほど関心はない。私は私のブログを書くことがそれ以上の関心事だ。
 話がそれたが、毎日新聞の英文の下品サイトだが、何が問題かというと、それが毎日新聞に強くリンケージされていたからなのではないだろうか。ドメインもサブドメインだったようだ。その感覚が毎日新聞にはなかったのだろう。ネットからバッシングされた当初、毎日新聞側は、「え? あれ、編集組織違うし」というような他人事感はあったように思えた。確かにこれが独自ドメインで、毎日新聞ブランドでやってなければそれほど問題にはならなかったのではないか。独自ドメインのZakzakのサイトなど、下品でなかったら誰も見ないだろうし。いや、毎日新聞の今回の問題はそういう下品さではなく、日本人の自虐的な部分にあったということかもしれない。だったら、そういうのもあってもいいのではないかとも少し思った。
 先日深夜地震があった。ちょうどそのおりパソコン作業をしていたので、そうした状況で地震が発生した常として、即Twiiterに書き込みした。ついでに話題の流れをみるとすでにあちこちで地震の声が上がっていて、北海道からもというので、すぐに震源は東北かなとわかった。Twitterは最近よく壊れて使い物になんないよとも思うのだが、こういう面ではさすがだ。地震警報のシステムに活かせないものだろうか。
 当の地震は大きい割に被害は少なかったかったと見ていいだろう。深夜だったせいもあるという話も聞いたが、都会の深夜ならそうもいかないだろう。揺れの質によるのだという話も聞いた。れいによって大手紙の社説は地震はいつ起こるかわからない気のゆるみがないようにというようなことを書いていた。他に何も書けないだろうなと思った。個人的には耐震性の少ないとされる建造物が今回の地震でどう持ちこたえていたか調査してみたらいいのではないかという思いはある。が、そのあたりはちょっとタブーな臭いもしないでもない。
 タブーといえば、タミフルの副作用についてまた否定的な結果が出た。厚生労働省省研究班が実施した二つの最新の疫学調査が報告され、厚生労働省専門家作業部会は十日「服用と異常行動の因果関係は見られなかった」などとした。英文報道でも私は読んだ。というか、英文側の印象では、気になる日本での動向だがやっぱり想定範囲内ではないかという安堵のような視線を感じた。これをもって一時期の毎日新聞とナニワの浜医師らによるタミフル副作用の騒ぎがマスメディアの馬鹿騒ぎだった、と断じることができるか、といえば、公平に見ればそうとも言えないだろう。ただ、馬鹿騒ぎだった要素はあるなとは思う。そのあたりはマスメディアが少し反省するだろうかというと、たぶんしないのではないか。つまり、この手の問題もまた関心をもってもあまり意味がない。
 つらつらと書いていたらそれだけで長くなった。エントリを書き出すにあたり、思いついたキーワードを見直すと、G8、ホリエモン裁判、大分県教育委員会、地上波デジタル、著作権問題、カラジッチ、ダルフール危機、竹島問題、中国とあり、どれも書こうと思えば書けないでもないし、以前はそうした思いを毎日追っていたようにも思う。が、顧みて私が書いてどうということもない。というか、ブログ論はどうでもいいと言ったものの、ブログが何を取り上げるかというのと、個人の関心と社会への訴えかけのバランスみたいのは、どことなくむずかしい局面にはあるような気がする。

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2008.07.24

[書評]イーゲル号航海記 1 魚人の神官(斉藤洋)

 斉藤洋の西遊記シリーズ「西遊記7 竜の巻」(参照)の結末がちょっと、というかけっこう心に引っかかっていて、次の巻はどういう展開になるのだろうwktk。

cover
イーゲル号航海記1
魚人の神官
斉藤洋
コジマ ケン
 そろそろ次の巻が出るんじゃないのと検索したら、「イーゲル号航海記 1 魚人の神官(斉藤洋)」(参照)をめっけた。昨年11月に出ていたのか。知らなかったな。というか、これが出るってことは、西遊記のほうが終わるのかなとかも思った。
 偕成社の紹介(参照)を見ると。

 第一次世界大戦と第二次世界大戦のあいだの、平和とはいえ、ヨーロッパが怪しくうごめいていた時代、そんな時代を舞台にした冒険物語です!
 科学技術がガガガーンと急速に発達しているさなか、時代の技術から見ればさらに何歩も先をゆく潜水艇に、たまたま乗りこんでしまった日系ドイツ人の少年、カール・キリシマ・キルシュが主人公です。

 うぁ、それって俺のめっちゃツボじゃないですか。ぽちっと。ということで読んだ。
 面白かったか。面白かった。文章はなんかもうさすがの美文。そして話の展開は、ある意味しっとりというか、カール・キリシマ・キルシュの心の動きが、密に織った布の手触りのようによくわかるし、不思議な話の展開も、いわゆるこの手のファンタジーにありがちな展開とは違って、ポストモダン的でポストコロニアル的な展開。まあ、現代の物語だからねという感じで、これはこれでいいか。このシリーズも読むかなという感じでいた。

天才科学者ローゼンベルク博士のつくった最新式の潜水艦。そして、奇妙きてれつな5人の乗組員。その一行が、北海で巨大渦にのみこまれ、世にも奇妙な場所にたどりつく。波瀾万丈のストーリーのなかで、少年の成長を描くSF海洋冒険小説。

 で、読後少しして感想が変わってくる。なんつうのか、静かな不思議な感動がこみ上げてくるというのも違う、なんだろかね、潮が満ちてくるみたいに、静かなそれでいてしっかりした感動の核みたいなものが出てくる。いやはやとても不思議な感じだ。
 なぜなのか。心を探ると、やはり、時代背景が、読書時はさりげなさすぎるなと思っていたのだが、それなりにきっちり届く。大鳥の描写の比喩や、ハンス・ハンスのちょっとした言葉使いとか。当たり前なんだけど、ドイツとフランスは戦争していたし、この時代のあとも戦争をした。そしてでも彼らは和解している。そのなんか心情の核の部分のようなものが淡く色づけられている。
 と同時に、これはたぶん長編をかなり意識して書いているのだろうなと思った。キャラの深みは使い切ってないし、日系という伏線もありそうだし、カールの母の描写もちょっと意外といえば意外というか、とても現代的な意味をこれから持つようになるのかもしれない。というか、この本、「対象年齢:小学上級から」ということで、私などはその父親の世代であり、カールの母には私の同世代に近い女性のイメージがたぶん寄せられていくのではないか。
 偕成社のサイトにある著者の話では。

 あ、そうそう。ひょっとするとみなさまのなかには、
〈新シリーズなんていったって、斉藤洋のは次が出るまで、長いからなあ。白狐魔記シリーズなんて、第一巻と第二巻のあいだは二年半近くあいていたし……。〉
なんて思っていらっしゃる方がおられるかもしれません。
 でも、だいじょうぶ! ご安心ください。第二巻はもう書きあがっていて、原稿は偕成社にありますから!

 とかいってもう半年以上出ないわけですよ。一巻目のインパクトが弱かったというのはあるかもしれないけど、コジマケンの絵のこともあるのかもしれない。西遊記のイラストの広瀬弦もかなりのものだけど、イーゲル号航海記のコジマケンのイラストもかなりいいです。というか、どっちもけっこうアート。
 未来というのはよくわからないけど、こういう物語を子供時代に読んだ人間たちはきっと新しい世界を作り出していくのだろうなと思うし、子供たちの心や魂を新しい物語で捕まえようとする文学の試みというのは希望というものによく似ている。

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2008.07.19

[書評]中国発世界恐慌は来るのか?(門倉貴史)

 書名に釣られて読んだ。「中国発世界恐慌は来るのか?(門倉貴史)」(参照)だものね。

cover
中国発世界恐慌は
来るのか?
門倉貴史
 気になるといえば気になるし。帯には”「北京五輪後、崩壊が始まる」という説は本当か?”とあり、本当なのか? いや違う。北京五輪を待たずもう崩壊が始まっているから、という冗談はさておき。
 そのスペシフィックな問い掛けについては、ミステリー小説のスポイラーのようになるが、まず3つのシナリオが提示される。

  1. バラ色に彩られた最良のシナリオ
  2. 問題先送りの灰色のシナリオ
  3. 崩壊への暗黒のシナリオ

 さて、どれか?
 著者による表向きの解答はこう。

 さて、では実際のところ、バラ色のシナリオと暗黒のシナリオのどちらが現実的なのだろうか。筆者は、60%程度の確率で、とりあえずはバラ色のシナリオが実現するのではないかとみている。

 というわけで、バラ色に決定!
 というには微妙な書き方になっているのはしかたがないだろう。かくいう私はどうかというと、60%程度の確率で灰色のシナリオあたりじゃないかな、60%で灰色ってなんだとかツッコミ禁止ね、洒落だから。というか、本書の筆者も灰色のシナリオを挙げていていちおうその説明があるのだけど、「実際のところ」の決断で外しているのは何故? というか、そのあたりは、本書を最後まで読んでいくと、なんとなくわかる。わかれよ。
 ところでバラ色60%マゼンタ80%的な理由はなぜか。

 その根拠は、中国政策当局が90年代半ばの引き締め政策や日本のバブル崩壊から教訓を引き出しているという点にある。その教訓とは、金融引き締め解除のタイミングさえ誤らなければ、荒療治を行っても経済をソフトランディングさせることは十分に可能ということだ。

 こ、これはネタ? というか、日本はそれに成功したら教訓なのか、日本は失敗したから、ああすんじゃねーという教訓なのか。どっちだとあなたは思いますか?
 後者でしょ、たぶん、かなり60%以上の確率で。日本はべたにタイミング誤ったわけだし。
 本書でもこのあと「バブル退治に失敗した日本と異なり」とあるので、つまり、日本は失敗したら、だからそうしなければうまくいくという論拠、だなと、ここは微笑むところかも、とか本書を腐したいわけじゃないけど、ダメの道はいろいろとあってダメが一個ならそれを避ければいいけど、右の下水路を避けたら左の肥溜めに落ちるというダメはいろいろあったりして。

 結局、これらの3つのシナリオから言えることは、北京オリンピックの宴が終わった後に中国経済が深刻な不況に見舞われると日本の企業は大変困ったことになるが、かといって、中国がソフトランディングに成功して超大国への道を邁進するようになったとしても、それはそれで厄介な側面もあるということだ。どちらに転んでも大きな影響力がある、それほど日中関係は抜き差しならないものになっているのである。

 そりゃそうでしょ。このあたりを「”俺様国家”中国の大経済(山本一郎)」(参照)は日本国家の存亡の視点から書いているが、ようするにパチンコの玉みたいに中期的には下の穴に入ってしまうわけだ。
 でと、現時点でこの手の話題を論じてそれなりにまともな意見にするなら、最初からある程度このあたりまでしか言えないよなというのがきっちりたらっとふら~っとに本書は書かれているし、途中、いろいろレポートまとめました百科事典的だったり、中国面白エピソード集っぽかったりして、それはそれで面白いし、その価値も十分あるので、お得な1冊でもあるのだが、というか、著者もわかっていて。

 本書では、『中国発の世界恐慌は起こるのか?』という疑問をきっかけとして、様々な側面から、北京オリンピックを開催した後の中国経済がどのような姿になるのかを検討してきた。いろいろな話が出てきて頭が混乱している読者もいると思うので、最後にこれまでの論点を簡素にまとめておこう。

 と率直に書いている。いろんな話はそれなりに面白いのだけど、『中国発の世界恐慌は起こるのか?』とはそれほど強く論拠になっているふうは表向きは、ない。
 が、とこのあたりでマジに読者として本書の評価をすると、北京オリンピック後の崩壊というのはようするにレンジの問題だろう。というか、ここまでよくもったよなということで、そのもった仕組みについて、「第6章 人民元の切り上げと資産バブルの崩壊」という章で縷説しており、率直にいうと、中国経済の専門家は別として一般人なら、この章読むだけで本書の価値がある。よく書けていると思う。というか中国政府はよくやっている。つまり、バラ色60%はここまでよく頑張りましたということだろう。
 なかでも、今年に入ってからの上海株暴落にはよく耐えてきたと思う。本書でも、「中国本土の株価バブルは完全に崩壊したと言っていいだろう」としてそれをすでに過去のこととしている。あとは不動産市場だがこれは率直なところお茶を濁すしかないだろう。「中国社会科学院は、これまでの金融引き締め政策の効果が浸透してくることで、中国の不動産価格が08年以内にスローダウンするとみている」と伝聞にして締めにしている。
 あとは不良債権の問題だが私はよく読み取れなかった。米国のサブプライムローン問題を表に出して論じてるために却ってよくわからないという印象を持った。
 結局どうなのか? 

 ただ、問題は上海万博が終了した後、すなわち2011年以降の中国経済がどうなるかである。より中長期的な視点に立って考えると、中国発の世界恐慌が起こる可能性は排除できない。

 本書はむしろ社会的な要因を主要なものとしているが、どうだろうか。
 私のごく印象だが、北京オリンピックという契機をこれまでの頂点と見るか、来るべきものの前倒しと見るかで、前倒しされる壮大な崩壊は依然ありうるのではないか、というところだ。でも、日本とか米国とか世界経済がその前にチキンレースに負けました、ならそれはそれで、Win-WinならぬLose-Loseでめでたしとかになるかな。
 そのあたりの指標は筆者も指摘しているがインドだろう。長期的に見れば、インドが中国を圧倒してくるし(中国は高齢化する)、そのパワーのぶつかりは激しくなる。
 本書にはいろいろなお話が掲載されていて、飲み会のネタの仕入れにもいい。ただ、石油高騰問題や水問題、三峡ダム、台湾問題など、いろいろというなら項目にあってもいいものはいろいろ抜けている。

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2008.07.18

イラクの対外債務のこととかのメモ

 個人的にちょっと気になるというか、わかるようでいまひとつわからないので気になっているというか、イラクの対外債務のことだ。私だけがとんと無知ということかもしれいが、無知を晒すのにブログはよかろうってなノリというか備忘を兼ねてちょっと書いてみたい。
 話は先日のアラブ首長国連邦(UAE)による対イラクの債権全額放棄がきっかけだ。7日のCNN”アラブ首長国連邦、イラクの債務7500億円を帳消しへ”(参照)より。


ドバイ  アラブ首長国連邦(UAE)は、イラクがUAEに負っている70億ドル(約7500億円)の債務を帳消しにする意向を表明した。イラクのマリキ首相が6日明らかにした。

 なぜこうなったかだが、同記事では。

米国は、イラクの重要問題である対外債務の減免を各国に要請してきた。キミット米財務副長官が5月に明らかにしたところによると、債権国の大半はアラブ諸国。

 というわけで、米国の主導のようだ。そしてイラクへの債権国の大半はアラブ諸国。まあ、ここでなぜアラブ諸国なんだというのはありげにちょっと心にフックしておく。
 同日U.S. FrontLine”対イラク債務帳消しを歓迎 米政府 ”(参照)では、債務を40億ドルとしている。

 アラブ首長国連邦(UAE)が6日、イラクに対する約40億ドル(約4300億円)の債務を全額帳消しにし、駐イラク大使を指名したと伝えられたことについて、米国家安全保障会議(NSC)のジョンドロー報道官は7日「米政府として歓迎する」との声明を発表した。

 額のブレが2倍近くあるが利子らしい。同日のIBTimes”UAE、イラクの債務帳消し、駐イラク大使を指名”(参照)ではこう説明されている。

UAEがイラクに貸し付けていた債務は利息を除いて40億ドルにも達する。UAE政府関係者の話によると、利子も含めれば総額70億ドルとなるという。

 利子の仕組みや慣例がどうなっているのかいま一つぴんと来ない。
 共同もよくわかってない雰囲気が6日付け”イラクの債務全額帳消し UAE、約4300億円”(参照)から漂う。

 【カイロ6日共同】アラブ首長国連邦(UAE)のハリファ大統領は6日、イラクが負っている約40億ドル(約4300億円)の対UAE債務を全額帳消しにすると発表した。首長国通信が伝えた。ロイター通信は延滞利息などを含めると総額約70億ドルとしている。

 続けてIBTでは。

 また国連によると、イラクのクウェート侵攻時に生じた債務が280億ドル残っているという。イラクは同国原油売上高の5%を債務返済のために充てている。イラクは前年に比べ暴力事件発生件数が70%も減少している。近隣国ヨルダンも先週駐イラク大使を指名しており、クウェート、バーレーンも近く駐イラク大使を指名する予定であるという。
 米ホワイトハウス広報官ゴードン・ジョンドロー氏は、米政府もUAEのイラク債務帳消し、国交正常化を歓迎していると述べた。

 ようやく米国主導の戦後の始まりかとも取れるのだが、気になるのは、この280億ドルの債務とは何か? いやとりあえずまたフックしておく。
 同日のロイター”UAE、イラクが負う約70億ドルの債務を全額帳消し”(参照)がまた興味深い。

 イラクが負う対外債務の総額は、最大で800億ドルに上るとみられる。米政府はかねてから、アラブ諸国の政府に対して、欧米諸国と同様に債務免除に応じ、イラクの復興を支援するよう要請していた。

 ここでひょこっと800億ドルが出てくる。これはさっきの280億ドルとどういう関係にあるのか? 今度は3倍以上の差がある。
 ところで今回のUAEには前段がある。5月30日付け読売新聞記事”イラク復興プロセス検証で会議、首相が対外債務削減求める”(参照)より。

イラク復興への具体策を定めた「イラク国際協定」の合意内容を検証する初の国際会議が29日、当地で開かれた。

 会議には、ライス米国務長官やモッタキ・イラン外相ら約600人が出席。約100の国・機関の多くは過去1年間の再建に一定の評価を示したが、焦点のフセイン政権時代からの債務削減では具体的な議論は出なかった。


 そのあたりが今回の前段ではあるのだが、債務の額はというと。

 イラクのマリキ首相は演説で、治安回復など復興に向けた努力の成果を強調した上で、「独裁者から引き継いだ債務によって、再建のプロセスが停滞している」と主張、債権国に債務減免を求めた。イラクの対外債務は現在、500億ドル(約5兆2000億円)を上回ると見られ、経済再建の足かせになっている。ライス長官も演説で、「(イラクの)債務を削減した国もある」と述べ、首相の訴えに理解を求めたが、主要債権国サウジアラビアなどはこの問題には明確に触れなかった。

 今度は500億ドル以上。どうなってんの? ようするに最終的にチャラにするから、そのあたりはレトリックということだろうか。
 で、気になるのは、主要債権国がサウジアラビアだということ。
 というあたりで少し整理というか、7・23日本版ニューズウィークではこうまとめている。

665億ドル:対外債務1270億ドルのうち、債権放棄や減額、支払いによって2004年からこれまで減った分。
280億ドル:1990年のクウェート侵攻に対する賠償金として今後も支払うべき金額。イラクは原油取引の利益を支払いにあてている。
250億ドル:サウジアラビアが主張する債権額(400億ドル)と、イラクが主張する債権額(150億ドル)の差額。
80%:パリクラブ(主要債権国会議)に参加する先進19か国が同意した債権放棄の割合。

 さて、これをどう読むか? ニューズウィークはへぇみたいに突き放していて、特に解説はない。基本的に先進国では債務放棄になるのだろうというのはガチ。
 クウェートへの債務がでかいのは賠償金の問題が依然大きい。
 問題はやはりサウジアラビアで、言い分だと400億ドルだから、それは何? 賠償金だろうか? はて?
 ここで歴史を振り返る。イラク戦争開戦は2003年3月19日。ウィキペディアなんかだと今も継続中とのことでまあウィキペディアだからね。いちおう、一つの目安として米国の戦闘終結宣言は2003年5月1日。
 で、イラク債務が問題になるのは、というか、過去を振り返ると、浮上してくるのは、200年4月ごろ。それまでは問題はあるにはあったというか、湾岸戦争と関連しているのでないわけはないのだが、なんとなく冬眠したような状態になっていたと言ってもそう間違いでもない。
 気になるのは、2003年4月11日読売新聞記事”イラク債務削減、G7で話し合う/スノー米財務長官”。べた記事であることと孫引きでもあり事実なのであえて全文引用する。

 【ワシントン=天野真志】ジョン・スノー米財務長官は十日、米FOXテレビに出演し、先進七か国財務相・中央銀行総裁会議(G7)などで、イラクの債務削減問題を議題にしたい意向を示した。長官は「イラク国民にフセイン政権が残した深刻な債務を負わせるべきではない。各国が削減に応じる必要がある」と語った。イラクの対外債務は一千億ドルを超える規模とされる。日本政府や企業も一兆円以上の債権を持ち、削減協議の対象になると見られる。

 まだ米国の戦闘終結宣言前にこれが決まっていた。そしてその額は「一千億ドルを超える」ということで、流れ的に見ると、いやその、爺が引くような予防線気味の「陰謀論じゃないが」という枕を置くわけだけど、このあたりはパイプマン的な勢いが当初あったのだろう。で、詰まっているのは、サウジアラビアを筆頭としたアラブ諸国という図か。ふむ。
 翌日の記事”イラク復興 対外債務処理、難題に 米、各国に削減要求か 仏露の反発確実”はかなり突っ込んでいる。

 イラク復興に関連し、約千三百億ドル(約十五兆六千億円)規模とされるイラクの対外債務の処理問題が、主要国間の重要課題に浮上してきた。新規の借款供与など「本格支援」に進むには、過去の債務処理が不可欠なうえ、膨大な戦費負担を抱え込むアメリカが、主要国に対し、戦費分担の代わりにイラク向け債権カットという形での復興への貢献を求めると見られるためだ。しかし、多額の債権を抱えるロシア、フランスなどの反発は確実で、ワシントンで十一日夜に開幕する先進七か国財務相・中央銀行総裁会議(G7)などでも、同問題を巡る意見調整は難航しそうだ。
 国際開発センターの推計によると、油田開発や発電所、港湾整備などのための資金借り入れにより、イラクの対外債務額は現在、官民合計で金利分を含め約千二百七十億ドルに膨らんでいる。

 まず、1300億ドルだったわけね。そして、ロシアとフランスはこの時点で反発していた。
 内訳はこう。

 主な債権国と額は、湾岸諸国(クウェートを除く)三百億ドル、クウェート百七十億ドル、ロシア百二十億ドルなど。先進七か国では、日本が約五十億ドル(約六千億円)、フランスが四十―五十億ドルと多いが、アメリカやドイツなどは数億ドルにとどまっていると見られる。

 ここでほぉと思った。

 千百二十五億バレルと世界第二位の埋蔵量を持つイラクの油田が原油生産を回復すれば、イラクは年百五十―百八十億ドル規模の輸出収入を確保でき、債務返済の有力な原資となる。しかし、イラクの対外債務規模は国内総生産(二〇〇〇年で約三百億ドル)の四倍強に達している。さらに、これとは別に湾岸戦争に伴って支払う必要がある賠償金が約二千億ドルもあるとされ、原油の輸出収入だけでは、新たな復興資金も含めた財政需要をとてもまかなえそうにない。

 この時点でイラクの対外債務規模は約千三百億ドルということだが、「これとは別に湾岸戦争に伴って支払う必要がある賠償金が約二千億ドルもある」ということなわけだ。
 で、「原油の輸出収入だけでは、新たな復興資金も含めた財政需要をとてもまかなえそうにない」のだが、これ、原油価格が上がれば話は別か。
 このあたりで湾岸戦争ころに遡るのだが、1991年2月20日読売新聞記事”再建険しいイラク経済 たとえ停戦実現しても 賠償・制裁…お手上げ(解説)”が興味深い。

 まず、イラクの対外債務は、昨年八月のクウェート侵攻時点で、七百五十億ドルに達していたと推定される。これは、途上国の中では、ブラジル、メキシコに次ぐ金額である。このうち、ソ連が武器輸出代金などで二百億ドル、クウェートが百四十億ドルの債権を持つとみられる。
 この負債を返済するだけでさえ容易ではないが、戦後はこれに、侵略で破壊されたクウェートや、ミサイル攻撃を受けたサウジアラビアなどから、賠償金の支払いの請求が待っている。
 クウェート亡命政権の試算によると、クウェートが受けた被害の総額は、六百四十億ドルに達するという。その上、イラクが仕掛けたイラン・イラク戦争でのイラン側の賠償請求問題もくすぶっている。イランとクウェートを合わせた賠償請求額は、二千億ドル(二十六兆円)に及ぶという試算もあり、これを支払うことは、事実上、不可能に近い。
 一方で、イラクは外貨収入の九八%を原油・石油製品の輸出に頼っていた。しかし、現在は経済制裁で輸出はできず、石油生産・石油化学工業の施設もほとんど破壊されてしまった。唯一の収入の道が閉ざされたことになるわけだ。


 また、イラクは、昨年八月以前、輸出の四七%、輸入の七〇%を多国籍軍側の国と行ってきた。しかも、石油輸出の八五%をサウジとトルコを通過するパイプラインを経由して実施していた。つまり、停戦になっても、多国籍軍側の経済制裁が続けば、イラク経済の再建など、絵にかいたモチであることがよくわかる。

 確かにそういう状況だった、と言いたいところだが、実態は少し違う。前年8月8日読売新聞記事”イラク制裁の効果は疑問 原油輸出、相当量が市場に”より。

 イラク経済は、八年間に及ぶイラン・イラク戦争遂行に伴う戦債など、現在総額七百億ドル余の対外債務を抱え、不振にあえいでいる。経済再建のため不可欠な輸出収入の九割までを、原油輸出に頼っている。その輸出先の三分の二が西側各国であり、禁輸措置が、同経済の首をジワジワ絞め上げていくことは間違いない。
 だが、相当量のイラク産原油は、制裁に加わっていない国を経由し、仲介業者の手を通じて世界市場に出回ることが予想されると、ロンドンのエネルギー問題専門家は指摘する。これを阻止するには、イラクからの原油の輸出を完全に封じる以外にない。
 イラク原油の搬出ルートは、トルコ、サウジアラビア両国を走る長大なパイプラインとペルシャ湾の二つ。米国はトルコ、サウジ両国に対し、パイプラインの送油停止を強く働きかけているが、両国がイラクを挑発する手段に出るのは困難との見方が強い。唯一の手は、西側各国によるペルシャ湾の海上封鎖ということになるが、各国がそこまで踏み切れるかどうか。

 このあたりに後の国連不正問題の根があるわけだが、というか、根はそのまま放置されてきた。
 このころの記事が今振り返ると面白い。4日読売新聞記事”OPEC支配の野望? クウェート制圧のイラクのサウジ侵攻説消えず”では。

 イラクのサダム・フセイン大統領の強力な権力志向型の個性を考えると、最終的にサウジアラビア侵攻をひそかに狙っている可能性は否定できない。それだけに米国を始め、湾岸に権益をもつ日本や欧米諸国は不安を募らせる。
 もしイラクがクウェートに加えサウジアラビアの石油まで意のままにできるようになれば石油輸出国機構(OPEC)は、フセイン大統領の個人機関に化しかねない。それでなくとも、ロンドンの専門家筋の間では、石油価格が来年まで一バレル=二十五ドル程度を続ければ、世界的に平均二―二・五%のインフレを生み、成長率を二%近く引き下げるとの声が早くもささやかれている。
 今回の紛争の口火を切ったのは、クウェートなどがOPECの協定枠を越えて増産、その結果、原油価格が急落したため、イラクが百四十億ドルの損害をこうむったとするフセイン大統領の非難だった。ついでタリク・アジズ外相は、「クウェートが十年前からイラク領のルメイラ油田を盗掘し、二十四億ドル相当の原油を盗んだ」として、損害賠償を要求。国家同士が「油泥棒」呼ばわりで、けんかするというスキャンダラスな展開となり、ついにイラク軍の侵攻という最悪事態に突入した。

 このとき原油価格の急落があった。というか、湾岸戦争の理由は原油価格の低迷にフセインが怒ったとしている話もあった。

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2008.07.16

武士というもの

 昨日のエントリ「極東ブログ: 三橋一夫のこと」(参照)の続きのような話。とはいえなんとなくもわわんとして特にまとまりはない。なんというのか、「日本」とか「武術」とか「古武道」とか「武士道」とかまあ、最近言われているその手のものへの違和感にある歴史感覚のズレのようなことをこのところいろいろ思う。「ナンバ歩き」みたいなものも自分ではその部類だろうか。とりあえす、「武士というもの」かな。仮に問いを立ててみる。
 武士道で一番大切なことは何か?
 武士にとって何が一番大切か?と言い換えてもいいような。いやそうでもないような。微妙な感じがするのは、我々が「武士」と思っているもののイメージは、歴史における武士とまるっきり違うのではないか。以前与太で関連エントリを書いたことがあるけど、与太マークをしなかったので誤解されて困惑したが、たとえば宮本武蔵とか、彼は実際には一種の芸人でしょう、と。人斬りとかもどっちかというと大道芸の部類はないか、というのは、組織的な戦闘にはあんなもの役立つわけがないよ、と。日本史における戦闘は基本的に海戦だし、陸上の場合は馬が基本で、刀なんかぶん回すわけがない、というか、日本刀というのはおそらく海戦用だろうし刺身包丁が起源なのではないか、と。与太で言うわけなのだけど、というかその話はもうどうでもいいが。

cover
「健康」の日本史
(平凡社新書)
北沢一利
 昨日のエントリで三橋一夫の父、つまり本当に武術家だった彼は、「剣道」とはいわず「撃剱」と言っていた。「撃剱」とは何かだが、いわゆる竹刀の稽古と言ってもいいかもしれない。が、およそ竹刀なんて軽っちょいもので、鉄の塊である日本刀の代わりになるわけないのでというのは後で触れるのだが、いちおう江戸時代を通じて剣術家はいた。それりゃそうだだが、このあたりのことも今一つよくわからない。わからないというのは、どうもチャンバラものという時代劇映像の武士というのは実際の当時の存在とはまるで違っているのでないかという疑念があるからだ。
 話を端折って「撃剱」だが、これにある種の奇妙な歴史的な語感が付くのは「撃剱興行」があるからだ。「撃剱会始末(石垣安造)」(参照)の書籍解説に「明治六年剣士救済のため榊原鍵吉によって始められた撃剱興行のてん末を直心影流正統の流れを汲む著者ならはで詳細に描き切ったものである」とあるが、明治4年の脱刀令公布で帯刀できなくなった剣術家を大道芸として職をつけるべく直心影流第14代榊原鍵吉が官許の撃剣興行を開始した。これが明治時代の間中紆余曲折がありながらけっこう続いた。撃剱興行はある意味で相撲興行にも似ていて、興業としての家制度もあったようだ。私はこの撃剱興行がチャンバラ劇やチャンバラ映画の起源なのではないかと思っている。つまり、武士のイメージの起源。
 撃剱興行は東京府では明治6年にいったん禁止され11年に再開するのだが、この間、西南戦争が起きている。「「健康」の日本史 (平凡社新書)(北沢一利)」(参照)によると。

(前略)道場の剣術家たちは、興業などでかろうじて食いつないでいたにすぎません。
 皮肉なことに、この剣術の滅亡を救ったのは西南戦争でした。この戦争で官軍の中心勢力は先にも繰り返し述べたように徴兵軍隊です。しかし、政府はこれを補うために、地方で職にあぶれていた士族を警察官である「巡査」として採用し、これを前線の薩摩兵と戦わせたのです。西南戦争後、多くの剣客が警察に残り、なおかつ警視庁も巡査の訓練に剣術を採用することになったので、剣術は柔術のように転向することなく、警察のなかで生き延びる道が確保できたのです。

 「柔術」の転向も面白いのだが、そこは端折って、この警察に生き延びた剣術は、その後、実際上の「警視庁流」を生み出した。同書によると「これがのちの剣道の起源になります」とこのと。いやはや。剣道の起源は韓国にありのほうがまだよかったかもしれない。
 その後日清戦争を契機に、「武士道」の復古となり、桓武千百年祭で「大日本武徳会」ができてくる。というか、どうも現代の武士道とやらの起源はこのあたりにありそうだ。新渡戸稲造の「武士道」もこうした擬古的な歴史幻想の文脈から生まれている。
 話を先の「武士道で一番大切なことは何か?」に戻すと、こうした擬古幻想を外して、実際に武術家だった、この時代の三橋一夫の父はどう考えていたかだが、おそらく次のエピソードが答えになる。三橋一夫はこう言う。

 八月末、私は満十五歳になりました。
 父は月給取りのくせに、まだ武士のつもりでしたから、
 「いよいよ、お前も満十五歳で、元服したのだから、切腹の仕方を教えてやる。それから、毎日、この棒を素振りしろ。一日千回は振れるようになれ」

 ということで、まず切腹の作法を教えた。
 武士道で一番大切なことは、切腹だろう、常考、である。
 なにより先に切腹の気構えと作法ありきが、武士道である。なんでそんな当たり前のことがなんかすこんと見えなくなった感じがするのかというと、そんな自殺はあかんということもなのだろうし、確かに切腹は自殺には違いないが、どうも歴史の感触として奇妙なものがある。いずれにせよ、やはり切腹無くして武士道はないだろう。現代の選挙とかでハラを切れと宣う人もいるが、武士でないものにそんなことを言っても意味ないが。
 話はずれるのだが、三橋が父からもらったこの棒だが。

 といって、元服記念に六角棒をくれました。
 鬼のもっている鉄棒みたいに、先が太くなっている。竹刀くらいの長さの棒です。
 柄だけが丸く、先は六角になっていました。

 というわけでやはり竹刀なんかぶん回しても意味ないからだろうと思うのだが、その先の話が、なんというか私などは呆れる。というか、武士ってこういうものか。

 「赤樫だ。船大工に作らせた。丁度二貫目ある。三八式歩兵銃と大体同じくらいの重さにしてある」

 本当の武士というのは剣にはこだわっていなかったのだろう。江戸時代でもいわゆる剣術は表向き盛んだったが、それに槍術が迫る。むしろ日本の歴史の戦場で役立ったのは槍術だろうし。
 そして幕末では砲術が武士に重視される。あれだよ、武士っていうのは、国を守るためにいるのであって剣術興行が主目的ではない。三橋の父も、武士のままその時代時代にその根幹を見ていたから、「三八式歩兵銃」を想定したのだろう。武士というのはこういうものなんだろうなと私は思う。
 三橋は元服のときに、切腹作法と六角棒に加えて、健康法として革身術をその父から教わる。三橋はさらっと書いているが、革身術は切腹作法と関連をもつ武家の秘伝だったのではないか。
 八十歳になった三橋はこう述懐する。

 六角棒は、七十歳くらいまで、いつもそばにおいて、ほとんど毎日振っていましたが、だんだん素振りの数も少なくなり、二年ほど前、親しい友人にやってしまいました。
 しかし、関東大震災の日、亡父から習った革身術は、今日でも、毎日欠かさず実行しております。

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2008.07.15

三橋一夫のこと

 三橋一夫という著作家を書店で検索すると各種の書籍が出てくるのだが、これが同姓同名の4人くらいが混ざっている。ウィキペディアを見ると同項目(参照)はその点を考慮しているが。


1. 小説家、健康体育研究家(1908年8月27日 - 1995年12月14日)
2. 音楽評論家(1928年 - )
3. 日本庭園研究会千葉支部代表(1941年 - )

 がというのは、その先の記載はない。私が関心を持っているのは、小説家、健康体育研究家の三橋一夫で、なぜかはてなキーワードの解説が詳しい(参照)。なぜかで思うこともあるがあえて書かない。

作家(1908年(明治41年)8月27日~1995年(平成7年)12月14日)
本名:三橋敏夫。
戦後の「新青年」誌に、形容不能の幻想小説「ふしぎ小説」を連続発表して話題となる。
ユーモア小説等も発表した後に、小説の筆を折り、健康法の著作等をものした。
別名として森九又、信濃夢作もある。

 同項目には”三橋一夫作品目録”(参照)へのリンクがあり、これはこれでたいしたものなのだが、「健康体育研究家」についての著作の話はない。
 ぐぐるとガラクタ風雲というサイトに「三橋一夫」(参照)の春陽文庫書籍についてのやや詳しい話がある。ここにも同姓同名のことが書かれている。

確かに、同姓同名の三橋一夫がいるのである。建築関係の本を出している三橋一夫、音楽関係の本を出している三橋一夫などなど、どういうわけか数人の三橋一夫が確かに存在しているのである。そして、本家本元の三橋一夫はというと、ひとりで複数のジャンルにわたる本を出していたのである。不思議小説を書き、明朗青春小説を書き、健康本を書いていたのである。ああもう、ややこしい。
著書の数は半端でなくたくさんあるらしいのだが、そのほとんどを持っていないので、とりあえずここでは春陽文庫にしぼりこんで三橋一夫を紹介しよう。

 「本家本元」というのは表現にもよるのだろう。が、私が関心をもつ三橋一夫は少なくとも健康体育研究家でもあった。というか、その側面を歴史の中に置き直すと、日本の近代史の奇妙な証言になっている。
 というあたりで、三橋一夫の「らくらく体操健康法 著者80年の体験」(参照)という本の話を少し書きたい。さすがに「書評」とは言い難いし、この本自体に関心があるわけではない。いや、この本は絶妙に面白い本なのだがそのことは今回は触れない。(余計なお節介でいうと、三橋の本は希少化しつつあるので今が最後の買い時かもしれない。)
 話がずれるのだが、私が結局傾倒することになった山本七平(その傾倒ゆえにとばっちりや陰湿な嫌がらせも光栄にも受けることになってしまったが)は大正10年の生まれ。1991年に亡くなっているのでもう随分経ってしまったことになる。同じく傾倒した吉本隆明は大正13年生まれ。二人の対談は一度あったが、率直に言って吉本が大人気ない対応をしていて失敗したと見ていいし、吉本はあえてそうしたかったのかもしれないが、この二人のズレは戦中派と戦後派の微妙な差異がもっとも際立ったところだ。吉本を戦後派とするのはやや異論があるかもしれないが、山本は戦地の体験があり、吉本にはない。ここでいつも自分の父を思うのだが、彼は大正15年生まれで、戦地に行く前に大病し、そして一命を取り留め、かくして私がこの世にいる。父の友人たる同窓会のリストでずらっと並んだ戦死の文字が未だに忘れられない。2歳ほど上の父の兄はインパールで戦死した。殺されたと言うほうが正確だろうが。
 そういえば2002年に亡くなった山本夏彦は大正4年の生まれで、山本七平より10歳近く年が上だ。彼は87歳まで矍鑠と生きて、最晩年には戦争真っ暗史観と彼が呼ぶものにヒューモラスな批判活動をしたが、夏彦は七平とはまた違った戦争観がある。このあたりの戦争というものの実感のグラデーションをどう見ていくか、つまり、きれいにイデオロギーで滅菌された歴史ではない内省の側から日本の近代史はどう見えるかということを知るうえで、三橋一夫のような視点は興味深い。
 三橋が生まれたのは明治41年ということで、私の祖父母が明治30年代だったので、それよりは若いが、漱石が亡くなった大正5年からすると、三橋の目から漱石などはその現代の流行作家であったろうしそういう感覚が生きている。
 話が散漫になるが、私はいつのまにか50歳になってしまったが、祖父母が明治の人であるといことは、この年になってみると恩恵とまではいえないが、いろいろと今でも学ぶことが多い。というか、この年になってみて百年の歴史を人間の体温を伴って伝えてくれるものがある。
 三橋が同書を書いたのは昭和63年、81歳のことだ。昭和63年は事実上昭和の最後になる。亡くなったのは平成7年ということで、山本夏彦のように87歳だったことになる。この本を書いてから6年後に亡くなった。そういえばと連想するのだが、佐保田鶴治は明治32年生まれ、昭和61年に亡くなった。本人は「八十八歳を生きる」(参照)としていたが、満年齢では87歳だった。彼は私の祖父母の世代になる。
 三橋は小説家でもあったが、なりたくてなったわけでもなかった。40代半ばにヨガを知ったとして。

 そのころ私は、もう四十代半ばになっていました。
 長い戦争のおかげで、教師にもなりそこない。進駐軍の命令で、武術を教えることも禁じられていたので、仕方なしに小説を書いて生活していました。

 彼は先祖代々の武術家の嫡男でもあった。
 世の中には文学好きの人がいるが、として。

 ところが私は、子供のころから文学は好きで、高校時代は和歌の会に、大学時代は詩と小説の会の同人になったりしていましたが「詩人になりたい」とか、「小説家になりたい」などとは、夢にも考えたことはありませんでした。
 父は「会社員になれ」というし、大学では「教師になれ」というので、どうしようかと考えている……そんなヒマもなく、満州事変で、幹部候補生になり、それから長い戦争。
 戦争が終わったら、二十代前半だった男が、もう四十歳のオッサンです。
 私は子供のときから、武術家として育てられ、体育家になっていました。
 軍服を着ようが、何を着ようが、私は武術体育家のつもりでしたが、戦後は、それでは生きてゆけない。
 そこで、仕方なしに「芸は身を助ける」式に小説家に化けました。

 小説家としては大成しなかったが、ネットなどを見ると愛好者は少なくはない。

 文学賞の候補にも三度なりましたが、三度とも次点でした。
 当選したら、お断りしようと思っていたくらいですから、そのためではないのですが、小説家としての生き方が、私にはむずかしく、性に合っていないようで、いろいろ悩んでいました。

 ということで、本書には武術家であった彼の父の姿や三橋が子供のころ、つまり、大正の始めのころの風景が何気なく描かれている。それがいろいろ面白い。
 昨今、古武術ということがいろいろ言われているが、三橋一夫はその正統伝承者でもあった。さりげなく「父は剣道とも剣術とも云わず、撃剱と言っていました」という思い出にも「撃剱」の語感がうまく生きている。
 三橋は子供のころこう思った。

 「道場の試合用の武術ではダメだ。実戦用でなくては……!!」
 父にたのんで、道場の稽古とは別に、居合抜刀術や古流ヤワラや、骨法(当身術)などもはじめました。

 ということで、彼は子供ながらに表向きの武術とは違う武術を知り、父から教わる。その父がさすがなのだが。

 中学一年のころ、日本の拳闘(ボクシング)が輸入されました。
 アメリカで修業してこられた渡辺勇次郎先生や郡山東郷先生が帰国して、それぞれボクシングの団体を結成したのです。
 父が「西洋の当身術も稽古しておけ」
 というので、さっそくボクシングもはじめました。

 このあたりの、明治の武術家の父と子の「西洋の当身術」への感覚も面白い。
 三橋の父はその後武術家ではなくなり、三橋もそうではなくなった。しかし、三橋はこっそり武術が殺人技術であることはよく知っていたし、その側面はざっと見た限り伝えることもなく歴史から消えていった。

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2008.07.13

[書評]兵法三十六計 かけひきの極意 中国秘伝!「したたか」な交渉術(ハロー・フォン・センゲル)

 昨日取り上げた「極東ブログ: [書評]中国人のビジネス・ルール 兵法三十六計(梁増美)」(参照)だが、これは日本人作ではあるけど、実際のところ欧米での最近の「兵法三十六計」ブームというか対中国系の本の派生として書かれているっぽいので、そのあたりの空気というかどうなんだろと、本書「兵法三十六計 かけひきの極意 中国秘伝!「したたか」な交渉術(ハロー・フォン・センゲル)」(参照)も読んでみた。

cover
兵法三十六計 かけひきの極意
中国秘伝!「したたか」な交渉術
ハロー・フォン・センゲル
 こっちはドイツ人ですよ。中国とドイツといったら「極東ブログ: 時代小説 黄宝全」(参照)の元ネタを思い出すけど、特にその雰囲気はない。ドイツも歴史を忘れているかも。それはそれとして、この本、微妙に怪著でしたよ。その意味で面白い。ビジネス書として読んで面白いかというと、面白い。対中国関連で読んで面白いかというか、これがまたねじくれて面白い。ちょっとそのあたりを説明したい。
 この本、普通は兵法三十六計の解説書として読まれると思う。ドイツ語で書かれ、釣書的には、「ビジネスマンに向けて解説。英語、ドイツ語、スペイン語など9カ国語に翻訳された世界的隠れたベストセラーが日本に登場」とのこと。そのあたりは、べたに対中国ビジネスものとして読まれちゃったのだろう。たしかにそう読んでもいいのだけど、ドイツ人が中国について書いてそれを日本人が漢字交じりに翻訳して読むというヘンテコ回路にぴったりの変な構図がこの本にある。
 ちょっと言い過ぎかもしれないけど、話を端折るためにぶっちゃけ的にいうと、この本、台湾とか香港とか北京とか出たらしい兵法三十六計の大衆書を買いこんでそのエピソードを、いやその、コピペっている感じがすごいする。いちいちエピソードの出典が記載されているのだけど、それを見ていくと、逆に中華圏でこの手の本がしこたま近年出ていた雰囲気もわかる。ただ、実際に出典を見ているとそれは多数というより、ネタ本は2002年に北京で出た「商戦兵法三十六計全書」というののようだ。だったら、日本人的にはそれ中国語から直接翻訳してくれねか的ではある。
 著者フォン・センゲル(参照)はいちおう中国学の専門家らしいのだが、日本人から見ると、なんかこの人漢籍の教養はないのかも的な雰囲気は漂う(ヘルマン・ヘッセとかカール・ユングとかはなんか逆で嫌味があるけど)。もっともそんなもの出してもターゲット読者層へのじゃまかなと判断されているのかもしれない。幸い訳者のかたに普通に日本的な漢籍の教養があり、それで補っている印象もある。
 逆にこの西洋人漢籍素養なさげというのは、欧米人の書籍にありがちなんだけど(タオとかの本ですらそう)、原理性への知性的追求がきっちりしている裏腹であることもあって、つまり、フォー・ダミーズ的でありながら、きっちり高度な部分まで描くことがある。本書もそういう面はあって、昨日取り上げた「中国人のビジネス・ルール 兵法三十六計(梁増美)」(参照)がべたっと三十六計を並べてしまうのに対して、フォン・センゲルのほうは三十六計の内的な原理を洞察し再組織化している。
 この部分の知的作業がフォン・センゲル自身によるのかよくわからないのだけど、梅田望夫風にいうと情報が構造化されているのでわかりやすい。また、ある意味で西洋人にありがちな東洋神秘観のせいか、各計についても、それぞれこれが秘伝解だみたいな切り込みはせず、複数解を並置している。というか、いくつかの複数解を読みながら、私は、ああなるほど、これは易の象なのだなとわかったというか個人的に理解した。その「わかった」感は自分的にはけっこう衝撃だったので、その意味で、ちょっと皮肉に評してしまうけど、本書は意図されたものではないにせよ、自分にとっては良書だった。なるほど兵法とは易か。
 各計のエピソードはたぶん中華圏で作成されたコピペのせいか、これも端折って言うと、日本人への偏見に満ちていて笑える。フォン・センゲル自身も日本人と中国人の違いがよくわかってないんじゃなかろかねみたいなところがある。また、エピソードに対するフォン・センゲルのコメントもある意味で笑えるのが多いというか、西欧の人だとそんなふうに反応するのかという大衆的な感性(おいおいオッサン的)が露出している。そのあたりは、逆に西欧人の発想が逆に伺える。

兵法三十六計


第一計 瞞天過海 《まんてんかかい》

天を瞞いて海を過る《てんをあざむいて うみをわたる》

第二計 囲魏救趙 《いぎきゅうちょう》

魏を囲んで趙を救う《ぎをかこんで ちょうをすくう》

第三計 借刀殺人 《しゃくとうさつじん》

刀を借りて人を殺す《かたなをかりて ひとをころす》

第四計 以逸待労 《いいつたいろう》

逸を以って労を待つ《いつをもって ろうをまつ》

第五計 趁火打劫 《ちんかだごう》

火に趁んで劫を打く《ひにつけこんで おしこみをはたらく》

第六計 声東撃西 《せいとうげきせい》

東に声して西を撃つ《ひがしにこえして にしをうつ》

第七計 無中生有 《ちゅうしょうゆう》

無の中に有を生ず《むのなかに ゆうをしょうず》

第八計 暗渡陳倉 《あんとちんそう》

暗かに陳倉に渡る《ひそかに ちんそうにわたる》

第九計 隔岸観火 《かくがんかんか》

岸を隔てて火を観る《きしをへだてて ひをみる》

第十計 笑裏蔵刀 《しょうりぞうとう》

笑いの裏に刀を蔵す《わらいのうらに かたなをかくす》

第十一計 李代桃僵 《りだいとうきょう》

李、桃に代わって僵る《すもも ももにかわって たおる》

第十二計 順手牽羊 《じゅんしゅけんよう》

手に順いて羊を牽く《てにしたがいて ひつじをひく》

第十三計 打草驚蛇 《だそうきょうだ》

草を打って蛇を驚かす《くさをうって へびをおどろかす》

第十四計 借屍還魂 《しゃくしかいこん》

屍を借りて魂を還す《しかばねをかりて たましいをかえす》

第十五計 調虎離山 《ちょうこりざん》

虎を調って山を離れしむ《とらをあしらって やまをはなれしむ》

第十六計 欲檎姑縦 《よくきんこしょう》

檎えんと欲すれば姑く縦て《とらえんとほっすれば しばらくはなて》

第十七計 抛磚引玉 《ほうせんいんぎょく》

磚を抛げて玉を引く《れんがをなげて ぎょくをひく》

第十八計 擒賊擒王 《きんぞくきんおう》

賊を擒えんには王を擒えよ《ぞくをとらえんには おうをとらえよ》

第十九計 釜底薪抽 《ふていちゅうしん》

釜の底より薪を抽く《かまのそこより まきをぬく》

第二十計 混水摸魚 《こんすいぼぎょ》

水を混ぜて魚を摸る《みずをかきまぜて さかなをさぐる》

第二十一計 金蝉脱殻 《きんせんだっかく》

金蝉、殻を脱ぐ《きんせん からをぬぐ》

第二十二計 関門捉賊 《かんもんそくぞく》

門を関ざして賊を捉う《もんをとざして ぞくをとらう》

第二十三計 遠交近攻 《えんこうきんこう》

遠く交わり近く攻む《とおくまじわり ちかくせむ》

第二十四計 仮道伐鯱 《かどうばっかく》

道を仮りて鯱を伐つ《みちをかりて かくをうつ》

第二十五計 偸梁換柱 《とうりょうかんちゅう》

梁を偸み柱に換う《はりをぬすみ はしらにかう》

第二十六計 指桑罵槐 《しそうばかい》

桑を指して槐を罵る《くわをゆびさして えんじゅをののしる》

第二十七計 仮痴不癲 《かちふてん》

痴を仮るも癲せず《ちをいつわるも てんせず》

第二十八計 上屋抽梯 《じょうおくちゅうてい》

屋に上げて梯を抽す《おくにあげて はしごをはずす》

第二十九計 樹上開花 《じゅじょうかいか》

樹上に花を開す《じゅじょうに はなをさかす》

第三十計 反客為主 《はんかくいしゅ》

客を反して主と為す《きゃくをはんして しゅとなす》

第三十一計 美人計 《びじんけい》

美人の計《びじんのけい》

第三十二計 空城計 《くうじょうけい》

空城の計《くうじょうのけい》

第三十三計 反間計 《はんかんけい》

反間の計《はんかんのけい》

第三十四計 苦肉計 《くにくけい》

苦肉の計《くにくのけい》

第三十五計 連環計 《れんかんけい》

連環の計《れんかんのけい》

第三十六計 走為上 《そういじょう》

走ぐるを上と為す《にぐるをじょうとなす》


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2008.07.12

[書評]中国人のビジネス・ルール 兵法三十六計(梁増美)

 「中国人のビジネス・ルール 兵法三十六計(梁増美)」(参照)は出先の書店の平積みで見かけ冒頭を立ち読みし、へぇ面白いんじゃいのと思ったので買って読んだ。兵法三十六計について面白いというより、「第一章「兵法」がわかれば中国人がわかる」が儒教と兵法の対応で中国人を論じていて、それはそうかなと思った。つまり、同書によれば、中国人というのは身内には儒教の倫理を適用するけど、身内でない人には兵法で接する、と。

cover
中国人のビジネス・ルール
兵法三十六計
梁増美
 ここでいう兵法というのは簡単に言えば策略、計略、というか、奸計というか陰謀というか、まあ日本人から見るとそう見える。中国人にビジネスで接していると「なんだか騙されたような気がする」から「マジに騙された」とか、第三十一計美人計で嵌められたとか(微細に羨ましい感じもしないではないが)、とかいろいろあり、本書は、そういうケーススタディが計ごとに伝聞的にテンコモリになっている、とひとまず言える。
 ちょっと留保してしまうのは、話は伝聞的なんで、まったくの架空のお話かもしれないし、ものの見方ということかもしれない。そのあたりはそうマジこいて読むことでもないのだろうけど、とはいっても実際に読まれると、こういうのって本当にあるんだろうな、うひゃあ怖いと思う日本人も多いだろうと思う。
 著者は、といって私はこの人についてまったく知らないが、中国通なんだろうなという感じはするし、あとがきでは儒教の話もしたかったのだけどみたいなこともある。それも書いてあったら面白いかもしれない。
 冒頭、立ち読みして、へぇと思ったその理論的な枠組みは”Chinese Business Negotiating Style(Tony Fang)”(参照)によっている感じだ。そっちを読んでみるかとお値段を見ると高い。洋書で直接買うかなと見てもそっちも高い。なんでなんでしょかね。もう一つの枠組みは、岡田英弘先生の考えに拠っているようだ。というわけで、先生の本はおそらくすべて読んでいる私にしてみると、なるほどだから馴染みやすかったのかなとは思った。が、岡田先生の中国人観と本書は微妙に違う。違って別に言い悪いということではない。
 本書は、端的に言えば、日本人が中国人とビジネスをしていかに騙されないないかというニーズで読まれるのだろう。そして実際のところ騙された人は多いし今後も多いだろうからそういうニーズはしかたないのだろう。ただ、ごくお気軽にいうと、本書はそういう面でそれなりに役立つけど(たとえば、献金を求められたら払っておけとか)、騙されまいとしても無理なんじゃないかな。邱永漢先生ですらなんどもやれているし、おそよ計には計を、つまり謀略には謀略をというのはどうしようもない悪循環になる。この点は、中国人も大人というかそれなりにわかっているから、ここは日本人は日本人商人の心意気で通すしかないんじゃないか、というか、現実問題として中国人とビジネスをやってそう騙されるというものでもないし、むしろ律儀だ。でなけりゃ華僑なんてやってられないというか、実は華僑が律儀という話は本書にもあるし、それと本書の良いところは、中国人は篤志家が多いことも書いてある。それもそうだ。
 本書は、序論後、兵法三十六計に沿って書かれてはいるけど、このあたり率直に読めばわかると思うけど、各計とエピソードがうまく噛み合っていない。もともと兵法三十六計というのが、それほどたいした根拠のないものだからというのはある。そのあたりはウィキペディアにもそれなりにまとめられている。

成立時期は不明であるが、大体5世紀までの故事を17世紀明末清初の時代に纏められた物だと言われている。1941年、邠州(現・陝西省邠県)において再発見され、時流に乗って大量に出版された。様々な時代の故事・教訓がちりばめられ、中国では兵法書として世界的に有名な『孫子』よりも民間において流通し、日常生活でも幅広く流用されている。

 兵法三十六計というのはそれほど大したものでもない。
 むしろ、漫画的なストーリー物のオチというか、大衆的な知恵をまとめたもので、逆にいえば、本書でも指摘されているが、この手の謀略の大半は、中国人にとっては子供でも知っている常識のようなものだ。ただ、それを実際にやるかというとそうでもないだろうし、儒教というのは別かもしれないが普通の倫理観というか道徳観のようなものは普通に中国人にもある。当たり前の部分が大きい。
 というか、最終のところで兵法というのは孫子であり、孫子というのは老子であり、タオに極まる。ということでタオの地点で儒教(つまり道教)と根が同じなので(この点は本書でも触れていて好ましい)、だから、そうしたちょっとオカルト的な部分も出てくる。まあ、そういう文化というか文明なんだから、そういうものなんじゃないかくらいなことかな。中国とは長い付き合いなのだから大きく構えたほうがいい。
cover
孫子
(講談社文庫 か 1-1)
海音寺潮五郎
 そういえば本書の計の説明で孫子の孫臏のエピソードが何度か出てくるけど、このあたりは、「孫子(海音寺潮五郎)」(参照)が面白いよ。私はこの本、十回は読んだ。まだまだ繰り返して読むと思う。

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2008.07.11

[書評]あなたがあたえる 大富豪ピンダーの夢をかなえる5つの秘密(ボブ・バーグ、ジョン・デイビッド・マン)

 どういう話の文脈だったか忘れたが、「夢をかなえるゾウ」(参照)をきみは読んだほうがいいよ、みたいに言われた。その本は読んだことがないが、先日、人に用事を頼まれて薬局に行ったおり待合室の女性雑誌にこの本の要点があって、ふーんと思った。要点のなかで覚えているのは「靴は磨け」だけだ。いや、違ったかな。記憶があやふやだが、お話は、たしかダメ人間がガネーシャ神の指導で夢を叶えるサクセスストーリーではなかったか。
 そういえば、関係ない余談だが、私は以前コルカタを旅して、現地の寺院で売られている小さいガネーシャ神像がかわいいなと思い、こういうの好きそうな女友達にプレゼントしようとして買おうとしたら、現地の親切な人に、あなたはこの神様を尊敬していますか、と問われた。インドの人たちはこの神様を大切にし、信じているのです、と。痛いところを突かれたなと思って買うのはやめた。ガネーシャ神を大切に思う人にはガネーシャ神の御利益はあるんだろう。

cover
あなたがあたえる
大富豪ピンダーの夢を
かなえる5つの秘密
 「夢をかなえるゾウ」の本は本屋でよく見かける。表紙の絵のインパクトも売れた理由なんじゃないかなとなんとなく思っていた。この手のベストセラーは、古本屋で100円くらいになった時分に読むのがよかろうかと思っていたところ、本書、「あなたがあたえる 大富豪ピンダーの夢をかなえる5つの秘密(ボブ・バーグ、ジョン・デイビッド・マン)」(参照)をあたえ・られた。ので、もらった。なんかよくわからないが、「宇宙」の御心は、私になんとか夢を叶えてほしいんじゃないかだろうか。
 私の夢? なんだろ? ダルフールの人々が平和に暮らせますように、かな。それもあるけど、自分自身ビジネス的にも社会的にも成功したいなというのがないわけではない。メシャムのパイプが似合うノンスモーカーとかになりたい気もする。どのくらいサクセスしたい気があるかというと、もう50歳にもなっちゃたんだしな。現実的にはあまりその手の夢は自分には合わない感じはするけど。
 で、読んだ。読み始めて、あ、これってあれだよ、「極東ブログ: グーグルは何かを知ろうとしている」(参照)でふれた本田健著「ユダヤ人大富豪の教え 幸せな金持ちになる17の秘訣 (だいわ文庫)」(参照)の元ネタ本? タイトルも似ているし。
 でも、サクセスに至るまで17もの秘密をマスターするより、5つのほうがいいような気がする。だいたい四十八手っていったって、正常位、騎乗位、後背位、坐位、シックスナインとかだいたい5つくらなもんだよね、梯子丹。なんか話がいよーにずれているような気もするが、この本のコンセプトは本田健的、ビジュアルは「夢をかなえるゾウ」の矢野信一郎、ということかな。
 これっていつの時代の本か? と、ちとオリジナルを米アマゾン調べて、一つ星の悪口でもたーんと読むかな、うひひ、とか思って、「The Go-Giver: A Little Story About a Powerful Business Idea(Bob Burg、John David Mann」(参照)を調べたら、昨年末の出版で、米国でめっちゃベストセラーやんか。ガネーシャ。ということは米人との付き合いのあるビジネスマンなら普通に読んでおけ常考、でもあるわけだ。
cover
The Go-giver
CD朗読(英語)
 とにかく米国でのベストセラーブリには驚いた。これってすごい本なのかも。今なら古書1円で買える「チーズはどこへ消えた?」(参照)以来の革命的なビジネス寓話とかいう評もあった。な、なるほど、っていうか、こっち本も沖縄時代読んだな。内容はなんにも覚えてないけど。
 というわけで読み始めた。出だしのところを原文で照合した。イタリックになっている用語の強調がうまく翻訳に反映されていないかなという感じもあるけど、翻訳の文体はこれでいいんじゃないか。英語タイトルのGo-Giverは、出だしにもあるけど、Go-Getter(ビジネスのやり手)の洒落になっていて、これって昨年の米国映画のタイトルとかの連想もあるのかもしれない。
 実際読んでみると、自分などからは若い世代になってしまった現代米人ビジネスマン特有の発想や、日本のメディアからは見えづらい米国のビジネスシーンが見えてきて、そういう面でも、読んで桶本だろう。
 内容はストーリー展開になっている。25歳のジョー(つまり「名無し」ということだよね)が、金持ちの賢者から教えを請うということだ。ふんふんふんとか読んでいたのだが、後半のところにあるジョーの妻との話や、夫を失ったデブラの話あたりが、寓話ですませないえぐみがあってなかなかええんでないのガネーシャとか思うに至った。
 感動がこみ上げるということではないけど、こうして語られている5つの秘密というのはとても重要なことには違いないし、こういう、ある意味で当たり前のことを教えてくれる人は今の時代だと少なくなったのかもしれない。人生、宝くじに当たったみたいに富豪になる人はいるし、普通の人でそういう富豪のコネがあってなんとなくつられて富豪になる人もいるけど、悪銭身につかずではないけど、長期にカネにご縁をもつなら、それなりの人間の「うつわ」というものが必要なものだ。この本の秘密はそういう「うつわ」を大きくする基本でもある。読後ぼんやりエビチリ食いながら、そういえば、こういう秘密を世間から自然に学んで立身出世する人たちというのはいるなあ、特に中国人にとか思った。
 書籍のコンセプトとしてはオリジナル本と比べ練られているといえるのかなと挿絵を見ながら思った。かなり練り込まれたイラストかなと表紙裏のイラストとか見て思った。これね。これから読む人の便宜になればと、名前と秘密番号を貼っつけておいたけど。

photo

 キャラとストーリーの感じがよくイラストに練り込まれている、のかな、表紙のイラストもだけど、と思ったけど、よく見るとサムが抜けているので、そうでもないのかも。
 で、この本の秘密なんだけど、以下に英語の原文と試訳を添えておきますよ。翻訳が悪いというわけではないけど、ちょっとニュアンスが違う感じがしたので。
 というわけで本書を読まない人がここだけ暗記してもどうかなと思うし、いちおうスポイラーっぽいので、本書読んでから以下は本書を読んだ人が参考にしてほしい。

Law 1. The Law of Value; Your true worth is determined by how much more you give in value than you take in payments. (法則1 価値の法則:あなたの真価は、どれだけ支払いを得るかではなくて、どれだけの価値を与えるかによって決まる。)

Law 2. The Law of Compensation; Your income is determined by how many people you serve and how well you serve them.
(法則2 報酬の法則:あなたの収入は、あなたがどれだけ多くの人々に役立つか、そしてそれがうまくいくかで決まる。)

Law 3. The Law of Influence; Your influence is determined by how abundantly you place other people’s interest first.
(法則3 信望の法則:あなたの信望は、あながたどれだけ十分に他人の利益を優先するかによって決まる。)

Law 4. The Law of Authenticity; The most valuable gift you have to offer is yourself.
(法則4 誠実性の法則:あなたが与えることができるもっと価値のある贈り物は、あなた自身である。)

Law 5. The Law of Receptivity; The key to effective giving is to stay open to receiving.
(法則5 受容性の法則:効果的に与えるための鍵は、受容できるようにオープンでいることだ。)

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2008.07.10

原油高騰にまつわるきな臭い話

 先日「極東ブログ: 原油高騰の雑談、2008年前半版」(参照)でざっと原油高騰まわりの雑感を書いた。そのおり、ちょっとさすがにこの話は控えておこうかなと思って控えたのだが、今週の日本版ニューズウィークのホルヘ・カスタニャダ(Jorge Castan~eda)のコラム「原油高騰とイラン攻撃の幻影」というコラムに出てきた。例によって原文”The War Premium On Oil”(参照)は無料で読める。
 結論から言うと修辞を除けばどってことない話なのだが、ニューズウィーク所属のコラムニストが出してきたのかというのと、この手の話の出所がいつもならお馴染みのあたりではないところから出てきているようなので、ちょっと首を傾げていた。印象でいうと、そのスジではまさかオバマが出てくるとは思っていなかったのかな。
 そんな背景で、与太話といえばそうだけど、このあたりは目下の常識となりつつある与太話だし、日本では若干タブー化しているようでもあるので、ちょこっと触れておこう。まあ、タブー化しちゃう理由もわかるし、それほど弊害があるわけでもないのだけど。
 話はホルヘ・カスタニャダの切り出しがわかりやすいだろう。ちょっと長いけど、こういうことだ。


 最近の国際情勢で誰も模範解答を示せない二つの疑問がある。一つは世界経済が減速しサウジアラビアが原油増産を打ち出しているのに、なぜ原油価格が上がり続けているのか。もう一つはなぜ多くの専門家や政府がアメリカかイスラエル、または両方が、ジョージ・W・ブッシュ米大統領が任期を終える来年1月までに、イランの核開発計画を破壊あるいは後退させる行動に出ると考えているのか。

 一見この二つはつながりがないし、真実は繋がっていないのかもしれないが。

 膨大な数の解答のうち、筆者は「答えは二つの疑問を結ぶ関連性の中にある」という意見が気に入っている。

 この書き方はようするに与太話ということではある。が、与太話を書くときにはこっそっといいづらい真実を混ぜておくものだ。

 相場はすでに1バレル=140ドルを超え、連日最高値を更新している。理由を解き明かす唯一の説明はない。だが石油取引業者や消費者、製油業者に政府機関までもが、近い将来アメリカとイスラエルがイランに軍事介入し、結果として原油価格がさらに高騰すると考えていることは説明の一つにはなるだろう。

 与太話はこう展開していくのだが、与太は与太でもこれで動いていそうな投機筋はありそうだし、カスタニャダはこの先そう書ききっている。というあたりはとりあえずガチなのだがようするにその比率がどのくらいで、そしてその投機筋はどこかということは、ぼやかされている。
 カスタニャダの話は日本人にとってはへぇくらいなもので、米国民にとってもへぇなのだろうが、この先、与太の楽しみで、ウゴ・チャベスを登場させ、このマッチョも米国への原油をストップさせるだろうとしている。おお怖いぞぉとか合いの手を入れたくなるところだ。
 が、実際にはそれでもそれほどの危機にはならないと私は見ているし、カスタニャダもそのハラはありそうだ。ただ、短期的に200ドルという局面はありそうなんで、投機筋の最適化行動は続く可能性は高い。結局のところ、カスタニャダが与太を超えて言いたいのは、こうしたチキンレースが世界構造化しているよということで、それはそう。問題は、つまりイスラエルの国是としては空爆圧力はあるよというのと、イランやベネズエラが火遊びを楽しめるだけの外貨をもってしまったということ。
 現実的には、イスラエルが米国を無視して暴走する可能性は少ないし、ちょっと踏み出していうと、昨今米国が北朝鮮がらみでわいわいやっているのは、日本の思惑とはべつにイランへのメッセージかもしれない。どさくさでふみだすと、構図はイラン対イスラエルではないかもしれない。まあ、ちょっとぶっそうなんであまり与太でも言うべきこっちゃない領域に近づいてくる。
 もうちょっとイスラエル寄りに見ると、日本では報道されたかどうかわからないが、先日はでな軍事演習をやっていた。先月26日のガーディアン”A shot in the dark”(参照)より。

Efforts to persuade Iran to freeze its programme of uranium enrichment are entering a dangerous new phase. Viewed from Tehran, the west is playing a classic game of good cop, bad cop. The good cop, the EU foreign policy chief Javier Solana, tells them that a package of incentives is still on the table if they halt enrichment. The bad cop, Israel, sends 100 fighter planes 870 miles into the eastern Mediterranean (the distance between Israel and Iran's main enrichment plant at Natanz) for an exercise designed to show military readiness for a long-range attack.

 空爆機を百機もイスラエルからイラン核濃縮施設のあるナタンツへの距離に相当する870マイルも飛ばした。
 イスラエルの強行の裏付けはガーディアンによるとこう。

  • Syria was planning to supply Iran with spent nuclear fuel from al-Kibar, the site Israel bombed in September;
  • discrepancies found in the amount of fissile material North Korea (Syria's adviser in the construction of al-Kibar) declared and the amount it could have produced, drastically alter intelligence calculations of how soon Iran could get enough material to make a nuclear bomb;
  • the point of no-return in Tehran's bomb programme is now 2010;
  • there would be regional consequences to a strike on Iran's nuclear facilities, but that these would be the lesser of two evils.

 さすがにこれは与太と笑い飛ばせることではないし、日本みたいに目をつぶって過ぎゆくの待つわけにもいかない。
 この潜在的な危機だけど、意外と別の方向からくるかもしれない。ガーディアンにはその意図はないのだろうが、結語にはよからぬ暗示がある。

There is also Afghanistan and the Strait of Hormuz through which 90% of Gulf oil passes. And that is before you even get to Hizbullah's long-range rockets. A ball of fire, the phrase of Mohamed El Baradei, the head of the International Atomic Energy Agency, would not even begin to describe the fallout from an Israeli attack.

 エルバラダイIAEA事務局長まで与太かよとはいいづらいが、つまりその話はカスタニャダのコラムに近い。問題はこの前半だよな。オバマはこの問題の構図を根幹からわかっていないようだし、EUにはもう解決は不可能みたいだし。

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2008.07.09

[書評]母が重くてたまらない 墓守娘の嘆き(信田さよ子)

 4月に出た本だけど暑苦しい夏向けのホラー物、とちゃかしたい気もするが、というかカバーを外した本書の装丁のように、少しはそんなアソビっ気もないとやってらんないよなというすごい話がテンコモリでしたよ、「母が重くてたまらない 墓守娘の嘆き(信田さよ子)」(参照)は。

cover
母が重くてたまらない
墓守娘の嘆き
信田さよ子
 表題を見て、何かピンと来た人、とくに女性は、場合によってはこの本は劇薬級のインパクトがあると思う。でも、率直に言えば、「鏡の法則 人生のどんな問題も解決する魔法のルール」(参照)とか読んで人生をさらにこじらせてしまった人には、そうしたインパクトが必要なのかもしれない。
 釣書的にはこう。

母との名状しがたい関係に苦しみながら、それでも罪悪感にとらわれている女性たちが数多く存在している。本書では、カウンセリングの経験に基づいて、墓守娘たちの苦しみを具体的に取り上げた。進学、就職、結婚、介護…。どこまでもついてくる母から、どう逃げおおせるか。NOと言えないあなたに贈る、究極の"傾向と対策"。

 短い文章でよくまとまっているけど、ようするに「母との名状しがたい関係に苦しみ」が本書のキモ。そこを簡単に言えば、罪悪感によって娘を支配する母親、ということだが、それだったら、モーツアルト「魔笛」の世界からありがちな話であるが、本書はもっとスペシフィックに、団塊女の母親がどのように娘たちの人生を破壊しているかという事例がものすごい。
 話のなかで嗚咽したり、泣き崩れたりする女性の姿があるが、そのあたりは、中年男性の私が読んでも(私だからかもだけど)、ヒリヒリするくらいの痛みが伝わってくるとともに、母親に向ける憎悪あるいは意識に立ち上る憎悪について、共感もする。
 そのあたりの叙述は、ストーリーテリングとしても面白く、なんというか村上春樹の近年の短編を読んでいるような趣もある。たとえば、母の支援でビジネスエリートになったヒカルさんという娘の話だが。

 入社して三年目を迎えるが、休みの日には、母がかいがいしく下着を洗濯してくれる。部屋は毎日掃除機がかけられ、夜には昼間干したふとんのぬくもりの中で眠る。駅から「今着いたわ」と携帯で電話すると、どんな遅くても暖かい夕食が用意されている。「ビールどう?」と勧められるままにコップを干すと、母はうれしそうに「ママも一杯もらっちゃおう!」と華やいだ声を上げる。「まるでオヤジのような毎日でしょ」と、ヒカルさんは低い声でつぶやいた。
 「ときどき、夜中に目が覚めるんです。そんなとき、ふっと母を殺したくなっちゃう自分がいて、それがこわくて……」。このことを他人に話したのは初めてだと言いながら、ヒカルさんは激しく泣いた。

 泣いて済めば、「ふっと母を殺したくなっちゃう」よりいいのかもしれない。だけど、問題はそれでは解決しない。
 この短い引用ではわからない人は本書を読む必要はないが、おそらく読まなくてはならない、あるいは本書でなくてもそうした問題に直面しなくてはならない人はいるだろう。もうちょっと本書を紹介する。
 本書を、ダンコーガイ書評スタイルで目次も引用すると、こう。

1 母が重くてたまらない―さまざまな事例から
〈Ⅰ〉
  ママのための中学受験
  母と娘の「運命共同体」
  息子を見上げ、娘を見下ろす母
  気がつけば、落とし穴
〈Ⅱ〉
  自分の不幸にふたをして
  団塊母の苦しみ
〈Ⅲ〉
  傷つけ合うことで深まる絆
  父の存在はどこに?
  無邪気な独裁者
2 母とは一体誰なのか?
   母親を徹底的に分析する
   母をどうとらえればいいの?
3 迷宮からの脱出―問題解決の糸口
   母に対する処方箋
   父に対する処方箋
   墓守娘に対する処方箋)

 目次を引用したのは、構成を紹介したしたいためで、圧巻は「1 母が重くてたまらない―さまざまな事例から」にある。
 「2 母とは一体誰なのか?」は、著者がカウンセリングの専門家であることもあり、ごく一般的というか、そこいらの精神医学系の著名人でも書きそうな内容なのでつまらないといえばつまらない。さらにそのつまらなさの部分を言えば、母性幻想は近代に作られてものだとか、戦時体制の国家が母性を女性に強いたのだとかくだくだ書かれているが、ちょっと踏み込んで言うけど、それはたぶんはずしでしょ。本書では、この恐ろしい団塊女性母が青春時代に恋愛イデオロギーにあったというけど、まさにそのイデオロギーが帰結したものがこの本で描かれている事態なのだと思う。つまり、端的にいえば、夫婦関係の、微妙な失敗の必然的な帰結であり、そこから生まれた子供、特に娘は悲劇だよねということだ。
 筆者は女性問題に注視し、そして団塊女性母の配偶者で「夫」の問題(別の切り口からすれば「父」なんだがそこはなぜかあまり深掘りされていないのは、林道義みたいな議論になってもなあ、かもしれない)を扱うのだが、むしろ現代的な問題は、こうした苦しみのなかで生きる娘さんたちの恋人や夫のほうが重要な問題だろう。昨今、非婚時代で、非モテとか男女関係と経済を含めた世相の切り口でわかりやすい物語がよく作られるけど、実際に30代の男女関係・夫婦関係に重たい影を落としているのは、その親たちの団塊の世代だろう。
 というか、団塊の世代に、その自覚がまったくないのだというのが、本書でよく描けている。ぞっとするほど。著者、信田さよ子自身がその団塊世代のまっただなかにいるせいもあるだろうが、それだけ同世代に向けてきちんとした批評眼を向けているのはさすがだと思うのと、私などからすれば、まだまだこんなもんじゃないよとも思う。
 母親に自覚があればまだ救いがある。しかし、大半は念入りに隠蔽された地獄なのだ。

(前略)母親たちは無邪気に見える。透明な清らかさというより、彼女たちの体重ように鈍重な無邪気さだ。自分の感情や行動は娘のためだとつゆ疑うことのない、そんな無神経な無邪気さに満ちあふれている。
 パソコンやケータイを使いこなせないと、「わかんない~」と娘に甘えてドジなおばさんぶりを発揮する。無理に話を合わせようとして娘から軽蔑のまなざしを向けられれば、「どうせおばさんだからね」とすねた顔をして娘を困らせる。時には「ああ、このしわやしみを見て見て……もう長くないかもよ」と脅しながら、娘の心配げな顔を見てはほっとする。たぶん、これらは何とも言えない快楽なのだ。年齢をかさにきた脅しとひがみで娘を操作し、最後はひらきなおって無邪気を装う。そのくせ異様に元気で、体力は娘以上ときている。ジムに通って、毎日四~五時間も水泳やマシーンで体を鍛えているからだ。このように、母親たちは人生を安楽に過ごすために蓄えた年季のはいったスキルを、ここぞとばかりに発揮する。

 苦笑で済む話ではない。
 本書は必死に解決を与えようとして後半はその試みに費やされる。しかし、答えなんかあるわけがないのだ。と読み進めながら、該当の娘に対して、次のように筆者が語るとき、私はこの筆者の根幹の良心のようなものに出会えたように思えた。

 「勇気を出してそう言ってみましょう、お母様もわかってくださるでしょう」こう言いながら背中を押してあげたいのは山々だ。しかし、残念ながら私はそんな甘く楽観的な考えをもってはいない。
 (中略)
 クールに現実を見据えれば、そんな甘い期待であなたたちを満たすことはできない。おそらく墓守娘たちは、これまで何度も体験してきた「やっぱり無理だったのか」という失望のどん底に落とされるだろう。それもいい経験だからやってみましょうなどという残酷なことばを、カウンセラーとして私は伝えることはできない。(後略)

 本書は墓守娘に焦点を当てている。母と娘という関係は、息子のそれとは違うとしてその説明も縷々といった印象はある。だが、息子も同じなのだというのは、中島義道の乱造本に思われている「愛という試練」(参照)の、母の死との情景によく描かれている。50過ぎてこんな号泣なんてやだなと思う。だが、これはきれいに描かれた必然なのだ。中島義道は中二病で恥ずかしいっす、みたいなありがちな揶揄で済ませる人生なら……いやそれもまた別の地獄なのだが。

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2008.07.06

[書評]仕事ができる人はなぜ筋トレをするのか(山本ケイイチ)

 「仕事ができる人はなぜ筋トレをするのか(山本ケイイチ)」(参照)だが、最初書名を見たとき、「ああ、これは最近乱造されているネタ本かな」と思って敬遠していたのだが、なんとなく面白い本のではないかなとも思ったので購入し、ざっと目次でもブラウズするつもりが、ぐいぐいと引かれてそのまま読み切った。面白かった。知らないことをこの本で知ったという部分はそれほどないが、読みながら、現代日本やこれからの日本社会がどういうふうに変化していくか、ある具体的なビジョンが得られたように思った。

cover
仕事ができる人は
なぜ筋トレをするのか
山本ケイイチ
 ということは、書名「仕事ができる人はなぜ筋トレをするのか」が当然暗示するような、「筋トレすれば仕事ができるようになる」だから「こうやって筋トレしなさい」ということがこの本の面白さではなかった。その話が描かれていないわけではないし、筆者は、一流の筋トレのトレーナーとして多くの人にきちんと筋トレをやって欲しいと願っていることはよくわかるのだが、逆にその明鏡止水的な視点が、ある意味で現代人のグロテスクな側面を結果的に描いてしまっているのが、皮肉なようだが、とても面白かった。
 グロテスクな部分、つまり、筆者の意図ではないのだがという限定は明確にし、私が受け取ってしまった部分を単純に言えば、筋トレしない人間はもう脱落者、ということだ。もちろん、筋トレしないでも人生の成功者というかビジネスの成功者はいるだろうし今後もいるだろうから、そのグロテスクな見方が一般的になったり支配的になることはない。だが、成功者=筋トレ=肉体的に見た目の差別感、という社会通念的な人間観はこれから一層強化されていくだろうし、そうした先行的な傾向の風景がこの本からよく見える。
 もう少しこの部分を踏み込んで言う。私も筋トレを始めた、というか、再開したので本書の内容がよくわかる部分は大きいので、その点はあとで触れたいのだが、本書が結果的に描いているのは、筋トレでも、たとえば私のようにブルワーカー(参照)やチューブ(参照)などを使ってチープに実現するということではない。くどいが筆者はそれを否定しないだろうと思う。が、この本が結果的に描いているのは、社会的成功者、あるいは成功に到達しつつある若い世代の一群の人々が、フィットネスクラブを使って身体を改造していく光景だ。
 ある程度ぶっちゃけて言ってもいいと思うが、30代、40代の米国のビジネスエリートを思い出すと、彼らは男女ともにまず肉体が違う。これはがっちり筋トレしているなという感じがすぐにわかる。ごく個人的な印象なんでハズしているかもしれないが、最近は中国人エリートでもそれを感じる。エリートは体格でまずわかる。その体格がないとファッションも着こなせない。こういう見た目でエリート感というのは30年くらい前もそうだったように思うが、あの時代を思うとエリート達には、それ以前に、ある種の倫理感と禁欲感のようなものがまず先行してあり、肉体はそれに従属していた。どこかで逆転したように思える。
 この米人エリート達は高級フィットネスクラブで筋トレをやっている。そしてそれがビジネスと恋愛の一種の社交界を形成し、つまりインサイダー的グループを形成している。それが日本にも及んできたのだなと思う。残念ながら現在の私はそうしたものをもう間近で見ることはない(見たくもないけど)。
 こうした風景のアイロニカルな表出はたとえば次のような部分だ。入会金や月会費が高いフィットネスクラブは何が違うのか。

 では高い入会金や会費は何に使われているのか。
 私は以前、あるコンサルトに、
 「会費が高いフィットネスクラブとそうでないクラブの違いって、どこにあるんですか?」と質問したことがある。
 するとそのコンサルタントは、
 「ロッカーとロッカーの間隔だよ」と即答した。

 筆者はそうしたものは筋トレには必須ではないし、よい経営によってカバーできると力説するのだが、現実には、ロッカーとロッカーの間隔のある高級フィットネスクラブにエリートは集まり、ゆったりとシャワーをする。そしてその先は言わずもがなだろう。
 この本の魅力はそうした結果的な風景を次のような真摯な視点で対比させることだ。

 では、入会金や月会費の違いによるトレーニング内容の違いはあるのだろうか。
 私はないと考えている。それはズバリ、入会金や月会費がトレーナーやインストラクターにあまり還元されていないからである。フィットネス業界で働いたことのある人には納得してもらえると思うが、トレーナーにしてもインストラクターにしても、とにかく給与、報酬が安い。これはいわゆる高級クラブであっても変わらない。

 たぶんそうなのだろう。そして、その部分はこれからは変わっていき、より優れたトレーナーがより肉体的なエリートを作成していくのだろう。
 そこまでして肉体的なエリートになりたいものなのか。という問いをもう少し筋トレという点で見て、そこまでして筋肉を付けたいのか、というと、本書の事例で、予想外ではないが、ディテールが面白すぎる。ようするに、エリートのみなさん、もっとモテたいのだ。筋肉はモテると思われている。実際にそうなのだろう。私などはいやはやという感じがするし、そうした側面について良心的なトレーナーがどう見ているかは本書がとても参考になる。もちろん軽蔑はしてない。否定もしてない。
 筆者はとても公平に多様な側面を描いている。一般的な筋トレ本では得られない話も多い。忠告も重要な点が多い。例えば、筋トレは筋肉増強に暴走しがちだとも忠告している。これは当たり前に重要なことだが、そこに嵌る人は少なくない。ありがち雑誌みたいに3か月で腹筋を割る特集みたいなことはあり得ないこともきちんと書かれている。加圧トレーニングの危険までは踏み込んでいないが、ダイエットと筋トレの関係や、筋トレと有酸素運動との差異などもきちんと書かれている。本書は、フィットネスについてかなり読みやすく妥当な概説書になっている。ただし、しいていうとディテールで非科学的な部分も若干あるようには思えた。
 本書は年代別の筋トレの示唆も30歳から5歳単位で細かく書かれている。ふむふむと読みながら、示唆には50歳以上がない。そこであれれと私は気が付いた。私自身が50歳であることをすっかり忘れていたのだ。つまり私などは、筋トレの実用書的にはもう本書の対象外かな、あはは、とか思った。が、たぶん、市場的にはこれからは50歳から70歳レンジの筋トレも重要になるではないか。というか、その世代がある程度おカネをこの分野に注げるかどうか?
 50歳である私は世代的にはぎりぎり戦後の貧しい世界に根をもっている。筋肉を鍛えるにはコンダラでも引っ張るほうがいいような間違った先入観もある。団塊の世代とか兎跳びとかしちゃうんじゃないか。脚を伸ばして腹筋するなよ爺みたいな。とか、ざっくりと見れば、たしかに現在の50歳以上はあまりまともなフィットネス市場にはならないような気もする、といったところか。
cover
40歳からの肉体改造
頑張らないトレーニング
 本書が面白かったので、アマゾンのお勧めにある「40歳からの肉体改造 頑張らないトレーニング」(参照)も読んでみるか、だけど、こっちはディテールの本みたいだな。読者評を見ると筋トレ的ではなさそうだ。そういえばダンコーガイさんは筋トレやってんの?

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2008.07.04

[書評]人生の危機は宇宙からの贈り物(ローラ・デイ)

 今週のニューズウィークにローラ・デイ(Laura Day)を話題にした記事「困ったときは霊感頼み」があって、そういえばと思って比較的最新の「人生の危機は宇宙からの贈り物(ローラ・デイ)」(参照)を読んでみた。
 デイはそれなり有名な人と言っていいのだろうと思う。ウィキペディアにも簡単な項目がある(参照)。該当記事のオリジナル”The $10,000-a-Month Psychic”(参照)は例によって無料で読める。ついでにご本人が語る動画もあって、ちょっと怖い。
 日本語記事の表題もアレだし、英語のほうもアレで、記事内容もモデレートだけどアレがかっている感じはある。ようするに、霊感アドバイスでコンサルト料を儲ける人がでる時代だというのだが、これって別に現代に限らない。正確な歴史として研究されたことがあるかどうかわからないが、米国でも日本でも少なからぬ政治家にこの手のものがくっついているし、企業経営者とかだともっと多い。あまり言うのもなんだけで、某アレとかも別段TVでメタボ表示しなくても十分やっていける。

cover
人生の危機は
宇宙からの贈り物
 「人生の危機は宇宙からの贈り物 望みをかなえるチャンスに変える」(参照)はどうだったか。結論からいうと意外に普通の啓発書だった。その分、つまらないとも言えるけど、ごく普通の啓発書として読んでみてどうかというと、なるほどこれは売れるかな、上質の部類ではないかな。自分としても、考えさせられるところはあった。ので、あとで触れる。
 邦訳タイトルはまた「宇宙」かよ。「極東ブログ: [書評]身体症状に<宇宙の声>を聴く(アーノルド・ミンデル)」(参照)でも邦題に「宇宙」が出てきてアレなんだが、このあたりの出版社の感性がわからない。「宇宙」だと売れるんでしょうかね。そういえば、デイのこの本だけど、ミンデルに似ている部分はある。
 オリジナルタイトルは「Welcome to Your Crisis: How to Use the Power of Crisis to Create the Life You Want」(参照)、つまり、「ようこそ、あなたの危機:あなたが望む人生を作るために危機の力を使う方法」ということ。なんかよくわからないといえばそうだから、邦訳のサブタイルもしかたないのかもしれない。
 意図は、人生のズンドコに落ちた危機の時が、新しい人生が始まるチャンスでもあるのだということ。んなまさか、だけど。実際、あれですよ、人生ズンドコしちゃって、そこで命果つということがなければ、なんとか乗り越えるのだし、乗り越えた分だけなんとかなっているので、自分なんかもそういうサバイバーなんで、なるほどね、ズンドコ見ちゃうと成長する部分はあるよねとは思う。
 なので、本書は、今まさに人生のズンドコの人向けに書かれているのだが、これは例えば、いや例示はまずいし誤解されるか、でもお勧めすべき本なのか。ちょっと微妙。この本、ニューズウィーク記事や表題から期待されちゃうオカルト度はかなり低いですよ。そして意外にプラクティカル。ディはかなりインテリジェンスが高いんじゃないか。つまり、彼女は別に霊感というか直感で稼がなくても十分やっていける能力はありそうだ、というのがよくわかる。ぶっちゃけ、この本は人生ズンドコだったら助けを求めなさいというふうに誘導するように書かれている。
 それって米国的かなとも思う。日本だと人情とか言われているわりに、困っている人のサポートグループ的なものは政治的な色がないとむずかしいのが現実。それと、これも米国的なのだろうと思うけど、どっちかというと頑張れ自助努力的な部分は大きいので、日本人みたいにズンドコだったら甘えたいべちょべちょでいいでしょ受け入れてくれ的メンタリティーには向かないかもしれない。
 もうちょっと分析的に読むと、この手の業界慣れした人なら、ここはゲシュタルトセラピー、ここはNLP、ここは交流分析みたいに、ネタの仕込みはけっこうわかるというか、ようするにその手のもののええ塩梅のアレンジになっている。
 読んでいて意外と面白いのは、現代米国人のある種の人生の断面というのが、なんというかポエティックにいろいろ描かれていることだ。デイ自身の人生の体験談なんかも、ある意味では壮絶だな。人生ってその悲惨な壮絶感がどことなく詩的なワビサビ感にも通じるみたいな。そういう意味で、他人の人生をなんとなく見つめて、そういえば、自分の人生を横切っていたあいつとかこいつとか、どうしたかな、ろくなことにはなってないだろうなとか、けっこう物思いに浸った。
 私個人しては、それでも読んで良かったかなと思う部分はいくつかあって、その一つは、自分を生態系として見なさいということ。このあたりディがうまく書いているか、私がうまく読み取れてないかちょっと曖昧なところがあるけど、危機に陥ったとき、それは危機そのものを作り出す生態系の一環としての自分は、ある意味で、すでに過去として死んでいるわけで、それはそれで終わりとして別の生態系に移行しないといけない。この時、自分という思念や各種の総合性というのは、必然的に過去のものして終わるには終わる。なんか曖昧なことを言っているようだけど、過去はどうやっても取り返せない。また過去に期待した未来はすべて無くなってしまった。生きるのは今とこれから未知の未来だけで、しかも過去のようには生きられない。
 あたりまえといえば当たり前だけど、そのあたり、自分の思念のなかでぐるぐる考えていてもどうにならないし、まして権力だのカネだのある人はそのあたりのトチ狂いというか孤独はあるだろうから、この手の霊能力者の市場というのはあるのだろう。
 ついでにいうと、危機を乗り越えてバリバリと権力だのカネだの世界に舞い戻る系でない人でマジ人生危機になってしまったなという人なら、本書より、クリシュナムルティの「しなやかに生きるために 若い女性への手紙」(参照)は薄っぺらだけど、お勧めしたい。サブタイトルにあるような若い女性へと限らない本だ。ただ、この本にはなんの救いもないし、きちんと理解するのはとてつもなくむずかしい本で、いろいろ言いたい人は多いと思うので私はあまり言うことはない。

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2008.07.03

原油高騰の雑談、2008年前半版

 テーマはある意味で深刻だけど雑談です。またまた与太話と言ってもいいかもしれないけど、専門家でもないことだし、ブログなんで気楽にさらさらと始めますか。
 最初に、原油高騰がここまで上がると予想していたかと自問すると、いや予想してなかったな。ホットマネーが溢れていて、米国威信の低下でドルが下がるのだから、それにヘッジして原油が上がるだろうとは思ったけど、ここまで上がるという勘はまるでなかった。そのダメな勘で言うなら、1バレル120ドルくらいで「このチキンゲーム止めようぜ」の空気になると思っていた。そうはならないようだ。まだまだやるらしい。正気かよ。正気のようだ。
 先日のNHKのクローズアップ現代だったか、どの回だったか忘れたが、原油の適正価格は70ドルだったか80ドルだったか、そのくらいで、それに投機資金が流れ込んで現在の高騰になったのだというグラフを描いていた。
 そうなんじゃないかというのと、ホントかねという思いがあい半ば。実際のところ、目下の原油高騰は投機によると言われているのだが、どうやってその議論が裏付けられていて、どの程度なのかは私なんぞにはわからない。でも投機の部分は大きいのではないか、うーむ、120ドルくらいがチキンゲームの正しい水準ではないか、とかまたぐるぐる思う。
 原油の価格だが、私はこれから下がると見ている。いやまるでポジショントークとかじゃなくて、ここの部分も勘だ。よって与太でしかないのだが、中国経済がクラッシュするでしょとまでは蛮勇無き身としては口が裂けても言えないが、成長率は鈍るし、そもそもエネルギー効率が悪過ぎなので一息つけよ中国といった感はあるだろう、し、石炭のシフトやそれにまつわるいろいろがあるのではないか。いずれにせよ、中国の原油消費はそのまま伸びていくことはないんじゃないか。
 でも中国以外の国では原油の需要は伸びているのではないかだが、概ねそうだとは思う。そのあたりの需要の伸びと投機とドル低下のバランスは今の景色の彩色でいいのか、なのだが、なんとなくちょっと違うんじゃないか、印象としてだか。
 原油高騰なんで必然的に愉快なオイルピーク説も散発的に出てくるが、むしろ諸通貨の低落に関連して、実際には、昔の金本位制じゃないけど、原油本位制的な部分もあるかもしれないなとは思う。このあたりは以前、「極東ブログ: 本物のダイヤモンドと偽物のダイヤモンドの違い」(参照)を書いたときに思ったのだが、宝石としてはダイヤモンドよりルビーやサファイヤのほうが希少性があるのに、ダイヤモンドが価格維持されるのは、ようするにメタメタぐるぐるだけで価格維持される仕組みがあるから、ということらしい。同じようなことが原油にもあるのだろう。すでに石油メジャー陰謀論が成立できないほど、原油は産油国の国家管理になっているわけで、まあ、そんなものなのかな。
 というわけで、原油自体が、デフレ下における貨幣みたいに、ほっとけおけば増殖していくわけだから、実質金利と名目金利の議論みたいに、貨幣側の金利に見合わなければそのまま出し惜しみして原油金利みたいなものが増加するのだろう。備蓄っていうか地中に埋めたままにしておくっていうか。巨大な箪笥預金というか。
 ただ、どっかでオイルサンドとかその他のエネルギーへのシフトも散発的に起きるだろうから、産油国のチキンゲームには抑制があるだろうとも思っていたが、そのあたり、なかなかそうもいかないようだ。
 先のクローズアップ現代の話ではオイルサンドから精製される石油は世界の需要の数パーセントにしかならないらしい。そうなのか。そうなんだろうな。となるとあとは原子力のシフトということになるし、実際そうはなるのだろう。フランスとか原子力で電力の7割だしな。この分野の技術を握っていてよかったね、ニッポン、とか喜んでいいのかよくわからないが。
 で、これからどうよ?
 最初のカタストロフ的な兆候は、インドネシアとかとか国家が石油の価格を維持・補填しているあたりから発生してくるのではないかな。別の言い方をすると民主主義や市場経済が成熟してない国の暴動的な、国家総ぐるみ的な馬鹿騒ぎが起きるのではないか。いやはや、なんか考えたくもないけど。その点日本は、まだまだええ湯加減かもしれない。
 もう一つ危険な兆候は、なんだかんだ言ってもイランは潤うということだ。日本ではなぜか報道されていないが、イスラエルがある日突然ぶっち切れ起こす可能性はこのところ妙に懸念されている。というか、意外と米国大領線をメタ的に決めてしまうのはその構図だったりして。桑原。
 以上は手前のバカ頭でひねった与太話だが、以下はもうちょっと与太からずれて雑話。
 日本版ニューズウィーク6・25に、尊敬するロバート・サミュエルソンが面白いコラムを書いていて、そうかあと素直に思ったということ。元ネタは「オイルショックの学習効果」。オリジナルタイトルは「Learning From the Oil Shock」で、英語のオリジナルはワシントンポスト(参照)で無料で読める。
 私は、サミュエルソンに、このチキンゲームは早晩終わるよ、を期待していたのだが、コラムの結論は、なかなか微妙。まずは、このまま高騰でGOGOGOという流れで話が進む。サミュエルソンは、ここでジェフリー・ルービンの説を借りて話を進める。で、結局、原油高騰で何が起きるか? もちろん、アメリカにということだが。
 まず、アメリカの製造業が潤うというのだ。へえ。理由は、輸送コストが上がるから、地元産業へのシフトが起きる、と。
 そういえば、地球温暖化を防止するために、国内産業を育成しましょうなんて与太話も最近どっかで読んだ気がする。そりゃいいとか皮肉につぶやいたが、サミュエルソン御大も似たような感じになってしまったのか。いや、さすがに地球温暖化じゃないよな、そりゃな。
 いずれにせよ、輸送コストの問題は、原油高とバランスする部分は出てくるだろうし、その要因は大きくはなるだろう。日本でいえば、東京集中はさらに進むのでその周辺に食料品関連の産業が再組織化されるのではないかな。
 次に。FRBがインフレコントロールしづらくなる、と。へぇ。食品とエネルギーを除いたコア・インフレの場合は、ある種の自動調整的な動きになるらしいのだが、原油価格と食品価格が上昇し続けると、そうもいかないらしい。そういうもんか。そしてこの傾向は当分続くとのこと。
 日本はどうだろ。食品とエネルギーは上がるが他はデフレのままだろう。そのあたり、よさげなバランスになる? いやこれは冗談にしても悪過ぎるな。
 三番目に。住宅建築業と自動車産業の低迷はさらに深刻化する、と。それはそうだろう。ただこの側面では、抑制の反動が出てきているそうだ。それこそ地球温暖化を防止によいのではないか。冗談抜きで。
 さて、処方箋。そんなのがあるのかよくわからないがみたいな感想を私はもつが。
 まず、投機を問題にしてもしかたないよ、と。そうかなと思う。理由は詳しく書かれていない。
 次に。米国内でエネルギー供給を増やせ、と。そりゃそうだろ。書かれていないが、オイルサンドとかもあるし、と思ったら、バイオ燃料も増やせと。うーむ、うなるな。問題をこじらせるんじゃないかという懸念も私はもつ。
 結末近くなって、サミュエルソンは、こんなことを言う。


ガソリン価格高騰は、木くずや生ゴミなどから作られるバイオ燃料の開発を促進させるかもしれない。自動車研究センターのデービッド・コール所長は、バイオ燃料の生産コストは1リットル当たり、約0・26ドルの範囲内だろうと言う。これが本当なら、現在のガソリン価格よりはるかに安い。
 そのためには、原油価格が下がったときに、バイオ燃料の生産者が倒産しないように、原油の下限価格を50~80ドルに設定すべきだ。これは関税を使うことで簡単に導入できる。

 むむむ。その含みはなんだ?
 締めはこう。

 原油価格は予測不能だし、もし価格が崩壊しても、これで永遠に安価な石油が手に入るという幻想をアメリカ国民がいだくことはないだろう。オイルショックの苦い経験は、それほど遠い昔のことではない。

 原文を読むとわかるが、関税の話はコールによるもの。それと原文と訳文は微妙に違う。

Finally, we need to realize that high prices may stimulate new biofuels from wood chips, food waste and switch grass. Production costs of these fuels may be in the range of $1 a gallon, says David Cole of the Center for Automotive Research. If true, that's well below today's wholesale gasoline prices. To assure new producers that they wouldn't be wiped out if oil prices plunged, we should set a floor price for oil of $50 to $80 a barrel, says Cole. This could be done with a standby tariff that would activate only if prices hit the threshold. Oil prices are unpredictable, and should a price collapse occur, Americans wouldn't be deluded into thinking we've returned permanently to cheap energy. We've made that mistake before.

 サミュエルソンはあまり大胆に言ってないというか、蛮勇無きか、けっこう韜晦して言っているけど、でも、短期的には原油が暴落するリスクをヘッジしつつ、産油国の政治から米国は独立できるように政治をしたらあ、ということかな。
 たぶん、日本もな(オイルマネーとかなんとかマネーで日本売却完了前に)。

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2008.07.01

[書評]「はだかの王様」の経済学(松尾匡)

 松尾匡「「はだかの王様」の経済学 現代人のためのマルクス再入門」(参照)は、私にとっては、とりあえず難しい本だったと言っていいかと思う。

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「はだかの王様」の経済学
松尾匡
 内容が難しいわけではない。また評価が難しいわけではない。結論を先にいうと、私の評価は筆者にきびしいものになるだろうと思うが、その理由については後半に触れる。否定的な評価に聞こえることを懸念するが、意図としては肯定的に筆者に伝達できればよいと願っている。
 では何が私にとって「難しい」のか。理解も評価も容易である本の難しさというのは修辞的になりがちだが、端折って言えば、著者松尾匡の師匠である置塩信雄の思想が現代というコンテクストにおいてこのように、つまり疎外論に総括された形態で後継されるものなのだろうか、という問題だ。違うのではないかとどちらかといえば思う。
 よりマルクス経済学的に言えば、「マルクスの基本定理(Fundamental Marxian Theorem)」つまり、「置塩の定理」の今日的な意味付けは、本書のような入門書になるのだろうか。
 こう問わざるをえないのは、置塩の思想を継承できるのは松尾をおいていないだろうに、それがこの本という結実なのだろうか。そこの受容が難しい。私のこの希望は、著者による本書の位置づけとは異なるかもしれないが、さらに希望を重ねれば、スラファ(Piero Sraffa)の思想の延長し統合した入門書が読みたい。
 本書の内容だが、表題「「はだかの王様」の経済学 現代人のためのマルクス再入門」が簡素に表現している。現代経済学が「はだかの王様」なのだ、と読みたい誘惑にも駆られるが、そうではなく、マルクス思想が、その経済学として、現代という状況を「はだかの王様」であると描く点だ。
 この「はだかの王様」という比喩は、本書でも挙げられているが、現代よりも戦時下の状況のほうがわかりやすい。日本はなぜ愚かな戦争をしたのか。当時の軍部や支配階層は日本があの戦争に勝てるとでも思っていたのか。たぶん、思っていなかっただろう。だが、それを言うことはできなかった。まるで、「はだかの王様」ではないか。そういう意味合いが本書の根幹の比喩としてある。
 この比喩はさらにその解決も示唆する。つまり、みんなが戦時下の日本の状況を「はだかの王様」ではないかとコミュニケーションし、合意すれば、あの愚かな戦争にはならなかったはずだ。
 「はだかの王様」的状況を作り上げているのは、戦時下では、日本という民族的な依存の関係(偽装の関係かもしれないがだが)に加えて、個人がばらばらにさせれていたことだった。つまり、「依存関係+ばらばら」という図式がある。それを松尾はマルクス思想の「疎外」と位置づける。だから、「ばらばら」がなくなれば、疎外はなくなる、と松尾は強く本書で主張している。
 本書は、前半において、マルクスの思想の根幹を「依存関係+ばらばら=疎外」と描き、次にその根幹の思想がマルクスの諸著作にどのように体系的に現れているかを描き出し、後半において、その疎外という状況は、ばらばらをもたらすコミュニケーションの不在性という点で、ゲーム理論的にも妥当に説明できると描く。結論としては、松尾は、コミュニケーションによる「ばらばら」解消として、アソシエーションとしての地域の共同体という可能性を描き出す。
 以上の私の読解はそれほど本書の概要を外していないのではないかと思う。どうだろうか。
 仮に私が大きな誤読をしていないとして、そして戦時下の日本の状況はそれで理解できるとして、現代日本は同じように理解ができるのだろうか。そう問いを進めたい。
 端的なところ、現代日本の疎外の状況、具体的には、労働者の労働が自身のものにならない状況、別の言い方をすれば、労働は時間として表現されるのだから、時間的な豊かさを享受できない日本の労働者の、ばらばらにされた状況に、松尾の提言はうまく対応しているだろうか。
 松尾の理路からすれば労働者のコミュニケーションがまず求められるはずなのだが、そこが本書では薄い。IT技術への言及はわずかにあり、まったく描かれていないわけではないが、提言のビジョンとしては、労働者のアソシエーションというより、地域社会の回復という話に逸れていく印象が強い。
 本書は講習会テキストとして2006年にできていたものとあり、おそらくその読者層はこの構成でうまく取り込めているのだろうし、それはたぶん、旧来のマルクス主義経済学からの脱却の可能性でもあるだろう。この点では、置塩信雄の思想の一般化とも言えるはずだ。
 だが、もう少し広い読者層を想定したときに本書の目論見が成功しているかは難しい。従来の国独資論を中核とするようなマルクス経済学に対して、本書の立ち位置が、初期マルクス的疎外論による一貫した批判と受け取れないこともないが、旧マル経的な諸派から見れば、ごく散発的な批判にしか見えないだろう。さらに、残念なことに広義のマル経以外からの立ち位置からは本書の位置づけはおよそ前提から理解されないだろう。
 逆説的なのだが、本書は入門書でありながら、むしろ置塩信雄や森嶋通夫の著作を読んだことのない読者には問題意識は了解されにくいのではないか。筆者からすれば、異質な読者との出会いで、どうしてそんな誤解がされるのかという奇異な印象すら得ることなるではないだろうか。繰り返すが、より広い視座で読者を再包括するのであれば、マルクス思想再入門というよりも、置塩経済学の意味付けと展望を丹念に描いたほうがよいだろう。
 「マルクスの基本定理」については、松尾も知っているはずだが、現代的な課題は多い。「正の利潤を発生させるような価格なら労働が搾取されている」は、サミュエルソンが言うように逆も成立するから、「搾取される剰余価値が成立するのは正の利潤が発生した場合だけ」ということにもなる。この皮肉は、正の利潤を発生させない、つまり、ダメな経営こそが剰余価値の搾取を解消するという冗談になりかねないことだ。利潤はドラッカーが見直したように、経営の目的ではなく、経営健全性の尺度として認めざるをえない。
 ネットのリソースでいえば、「ちきゅう座 欧米マルクス価値論の新たな潮流〈吉村信之〉」(参照)が触れているが、ローマーの描いた「一般化された商品搾取定理」などの問題もある。

戦後におけるこの第二期に当たる「転形論争」を通じて生み出された一応の有力な回答の一つは、日本の経済学者である置塩信雄氏が出したものであり、「マルクスの基本定理」と呼ばれている。この定理は、生産条件と実質賃金からなる価格方程式、および労働時間を単位とする価値方程式から、数理的に「利潤の存在は剰余価値の存在と同値である」ことを証明した。しかしマルクスが転形問題の重要な柱とした「総計一致の二命題」(総価値=総生産価格、総剰余価値=総利潤)は成立しないことをも、同時に明らかにした(置塩[1978/初版1965][1977] )。いわばマルクスの価値論を、マルクス自身の主張よりは幾分弱めた形で立証したのである。

しかしこれに対する批判も出されている。1981年のボウルズ=ギンタス(Bowles and Gintis[1981])が、更には日本では「クーポン社会主義」や「アナリティカル・マルクス主義」の旗手として知られているローマー(Roemer [1986])が一層精緻に、この「マルクスの基本定理」が、労働力のみならず、鉄や小麦といった生産投入要素にも同様に成立することを数理的に証明した。「一般化された商品搾取定理」と呼ばれるものがそれである。生産過程において投入される生産要素が利潤を生み出すことに寄与していること、この点で労働力も鉄や小麦と無差別であることが証明されれば、マルクスの剰余価値論、さらにはその上に打ち立てられたマルクスの経済学体系は砂上の楼閣に帰してしまう。事実、ローマーらはその後、もはや生産関係を問題とするマルクス主義の系譜を引いた「アナリティカル・マルクス主義」という呼称を止め、生産における分析ではなく分配的な正義を追及することに関心を移している。日本でも近年この方面の諸議論を紹介した幾つかの書籍が出版されたことは記憶に新しい


 むしろ現代の状況は、「一般化された商品搾取定理」の上に諸理論が成立するかもしれないように見える点にあることではないか。
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マルクス経済学の
解体と再生
 このあたりの切り口からさらに深化させれば、高須賀義博が80年代「マルクス経済学の解体と再生」(参照)において、置塩やスラファを念頭に置きながら、国際金融や国際的な通貨の問題へも目配せを始めていた視点が重要になる。この点は過去「極東ブログ: World 3.0 という雑想」(参照)で少し触れた。
 本書の文脈でいうなら、貨幣の一般的な現象は、他のマルクス経済学のモデル全般にいえるが(リカード的な国際間経済がまったく捨象されているはずはないのだが)、どちらかといえば、一国経済学のモデルであり、国際通貨とそのシニョリッジや、端的にいえば金融帝国主義的な帝国における中央銀行の意味付け、それが必然的にもたらすというと言い過ぎだが、余剰マネーからホットマネーと投機といったマネーの問題がある。さらに個別に国家に幽閉された一次産品といった極めて現代的問題は、本書の視座にはない。
 労働価値説の理論面からすれば、こうした現代的なマネーの問題は確かに不要なのだが、現実の日本の労働者がおかれている状況には、その影響力はかなり大きい。具体的に目下の状況のように外在的なインフレでは日本の国富は結果的に吸い取られていくわけだし、それは労働者の賃金にも影響している。日本の労働者と日本国家の金融政策の関与の部分は少なくないし、松尾がこの分野に目配せできないはずもないことは、本書のエピソードからわかるのだが、それでも本書では、まずマルクス思想、特にその疎外論が突出しているため、現実の日本との乖離感は強い。
 本書の根幹の疎外論に話を移す。
 私は、本書のマルクス思想の理解、特に、疎外論の理解には異論を持った。私見では、疎外は、けして悪なり単純に解消されるべき現象ではない。むしろ、必然の現象であり、歴史における、根幹的かつ一元的なプロセスの産物である。マルクスはヘーゲルを転倒したと言われるが、それは歴史の実体を精神と見るか、物質的な生産向上と見るかの転倒性であって、方法論的な転倒はない。つまり、自己が疎外によって反自己を生み出し、その対応の能動性から止揚に至る図式では、ヘーゲルとマルクスに差はない。
 より具体的に本書の疎外論を私のマルクス理解から批判してみたい。もちろん、私が正しいと主張したいわけではない。
 松尾は「国家」を疎外論によって次のように説明する。図自体が誤解を招きやすいので、それも引用したい。

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 国家とは何か。社会の共同利益・共同秩序のための公的な観念(法・制度など)が、個々人の具体的な事情を離れて、あたかも何か一つの実体がある物のようになって人々の外にひとり立ちしたものだ。いったんこうなると個々人には、公的なものの抜け殻となった、自己利益を追うわがままな自分しか残されていない。そこで、国家が警察や軍隊などの権力で無理矢理抑圧することによって、やっと個々人の社会性が実現されることになる---こういう図式です。

 この図式の前段には国家を神に置き換えたフォイエルバッハの図式があるが、そこでなぜ人が自己疎外して神を生み出したかについて、こう説明している。

この図式においては、もともと生身の人間のくらしの欲望に根ざしていたはずの理性や思いやりが、神の性質として人間の外から立ち現れます。そしてそんな神様の目におそれいって、生身の人間の利己的な欲望を抑えつける、それではじめて人間の本質たる共同性が保たれます。しんどい話です。

 確かに「しんどい話」ではあるが、何がこの「しんどさ」を生み出しているかといえば、トマス・ホッブズがいうような「万人は万人に対して狼」による「万人の万人に対する闘争」の調停への希求であり、そのような調停なくして共同性は実現できないことだ。
 国家についても同じだ。国家は、市民個々人の権利を社会や伝統集団の因習から保護するための意志として疎外されて出現する。より正確に言えば、共同体はイコール国家ではなく、国家を生み出す疎外の契機は別途存在するのだが、ここでは触れない。
 国家を疎外する必要性については、こう言い換えてもいいかもしれない。「万人は万人に対して狼」である自然性のなかで、個人が存在するためには、その防衛のために自己を疎外せざるをえない。
 この意味で、疎外の図式は無制限に何にでも適用できるようなギャグネタではないことは明白だが、問題は、疎外の解消ではなく、疎外を必然として受け入れた場合の両義性にある。
 もちろん、松尾はそうした疎外の必然性を理解していないのかというと、かならずしもそうではないことは次の部分から了解できる。しかし、その了解は十分ではないように私には思える。

(前略)社会の共同利益がひとり立ちしたものと国家を既定するとき、共同利益だからいいと言っているわけではなくて、それが現実の生身の人間の利益から切り離された、具体的な人間不在の観念的な「共同利益」であるかぎり、どんなにエコヒイキない理想的なクリーン国家でも、それは疎外であり人間に対する抑圧だと批判しているのです。

 ある意味でそれはマルクスの思想に合致している部分もある。つまり、「エコヒイキない理想的なクリーン国家」の追求が結果的にスターリンやポル・ポトなどを生み出したのは、まさにマルクスが指摘した疎外の問題の本質的な倒錯の結果であることだ。
 だが、松尾の了解がマルクスの疎外論を十分に表現しているとは私は思えない。人間不在の観念的な「共同利益」が同時に公正をも意味していることは、西洋近代の基本を是認しているマルクスにとっては自明であったからだ。
 西欧においては、法は、目隠しをし秤と剣を持つ女神として象徴されるものだが、これは、人間的な感情や縁故なり、共同性的な結合の権力関係を排除し、非人間化することによって正義が出現することを示している。と同時に、この正義が死刑を国民にもたらすような権力となるのは、その必然的な両義性にある。
 問題は、では国家をどのように暴走させないようにするかだ。また法によって実現される権力の行使はどのように箍を嵌めるべきなのかだ。けして、疎外を後ろ向きに解消させることではない。後ろ向きの解消は、公正な正義の欠落をもたらし、日本赤軍のリンチのような「万人は万人に対して狼」を露出させることになる。
 別の言い方をすれば、問題は、疎外自体を解決させて本来性を復元させようとすることではなく、疎外の必然性を受容し、その先に、国家をいかに止揚するかという課題を提出することであるはずだ。だが、松尾の視座にはそれはないのが残念だ。
 同様に松尾の疎外論理解にはマルクス思想からみてもう一つ大きな逸脱があるように私には思えた。簡単に言えば、市場とはそれ自体がコミュニケーションの場だということだ。
 マルクスは、人間と人間の関係を商品という物の関係に物象化したものとして資本主義を了解したということはよく指摘される。さらにその商品の関係性から貨幣が出てくる過程も松尾が本書で説明する通りでもそれほど問題はないのだが、なぜそのような疎外が起きたのか、またその疎外は解消されるべきかという点では、ここでも国家と類似の論点が出てくる。
 簡単に言えば、労働は交換可能になるには商品として疎外されなけばならず、また労働が時間差をもって蓄積され交換されるためには商品化からさらに自然に簡便性の高い貨幣化に至るものだ。
 物象化は非人間化だから、魔法で蛙された王子様の魔法を解く、というような単純なことではない。むしろ、市場という、コミュニケーションの場に現れるために、物象化は必然として現れる。
 だからこそ、マルクスは労働価値説において、リカード的なモデルでの単純な労働価値説を取らなかったのだ。
 マルクスは、価値の実現の契機に市場を本質的に介在させた(この部分はマルクスが思想を完成させずに死去したので、異論が多いところでもあるが)。
 市場というコミュニケーションの場、ないし共同意識(これもまた疎外された意識)を介在しなくては、労働の価値そのものが創出されない。労働の価値は疎外と市場というコミュニケーションの場を経て初めて現れる。
 「依存関係+ばらばら=疎外」をとりあえず認めるとしても、ばらばらを統合するのは、市場のコミュケーション機能であり、労働の価値は市場を本質的な契機とするのだから、むしろ、労働が正確に疎外されない状態は、市場に問題がある。

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