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2008.06.19

[書評]わたし、男子校出身です。(椿姫彩菜)

 「わたし、男子校出身です。(椿姫彩菜)」(参照)を勧められて読んでみた。読書前には著者椿姫彩菜についてはまるで知識を持っていなかったし、書籍についても性的同一性障害の子の話らしいという以外は知らなかったが、ためらうことなくポチッと購入して読んだ。

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わたし、男子校出身です。
椿姫彩菜
 今アマゾンを振り返って見ると読者評がきびしいが、私はこれはかなりの良書であると思う。少なくとも星は4つはつける。5つ付けてもいいんじゃないかとも思うが、私はおよそ星数の評価というものが自体が好きではないし、星1つ引く趣向があるわけではないが、この本は受けない人もいるだろうから少しお勧め度を減らすかなくらいだ。しいていえば学校の先生には是非読んで欲しいとは思う。
 版元は、ズッコケ三人組(参照)で有名と言うべきだが、私としてはかいけつゾロリ(参照)で有名なポプラ社というか、原ゆたかのイラストのせいかどうにも坂井宏先社長(参照)につい親近感を感じてしまうポプラ社だったのも、読んでみたいと思った理由だ。坂井社長の思いの、メッセージを受け取ってみたいとも思った。
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月刊 psiko
2006年 09月号 [雑誌]
 と、ポプラ社のサイトを見たら今週の土曜日13時から福家書店銀座店で椿姫彩菜のサイン会があるらしい(参照)。ちょっと行ってみたい感じもするが、私などが行ったら浮くだろうな。サイトにはさらに椿姫彩菜のブログのリンクもあった(参照)。ありゃ、私が最近嫌いになったアメーバブログかあ。
 書籍だが、概要としては帯がわかりやすい。

話題のニューハーフモデル、初のエッセイ!
生まれたときは男の子、今は現役女子大生!
心は女の子なのに、身体は男の子として生まれてしまった著者が、家族との絶縁、恋の苦悩、社会的偏見、命がけの手術…さまざまな困難と向き合い、「女の子」として人生を再スタートさせるまで。

 たしかにそういうふうにも読める。物心ついてから、戸籍の性を変え、23歳の大学生となった現在までの物語だ。
 アマゾンの星1つ評が厳しいが、それはそれで理解できないものではない。

悩んでいる方には参考にならないのでは, 2008/6/12
By ・ (海外) - レビューをすべて見る

この本ですが内容は完全に椿姫さん個人の自分史です。
8割が学生時代にどんな生活を送ってきたかと言う内容であり椿姫さんファンしか楽しめない内容です。
彼女は性同一性障害の方の中でもかなり恵まれているため同じ悩みを持つ方たちはどうすれば?と言う気分でした。



最後に肝心の性転換手術の説明も病院の説明文丸写しでは?

 この評を引用したのは、私としてはその個人史は興味深いものだったからだ。特に、先生が重要な意味をもっていたということが感銘深い。そして、その「病院の説明文丸写し」が私などには社会勉強にもなった。
 おそらくこの評者のように、「同じ悩みを持つ方たちはどうすれば?」という感想もあるだろう。椿姫がつらかったのは共感するとしても、好運だったのではないかという印象ももつ。
 もっと率直に私の感想をいうと、椿姫は美しかったらそうできたのではないかなとも思った。という感想に自分のある種の無意識が反映している。
 話が脱線するかと思うが。私は性的同一性障害はないし、同性愛傾向もない。Twitterなどでは、男の子は若い時には女装しとくといいよとか言ったことがあるが、私は23歳のとき外人グループとの仮装行列で女装して六本木に繰り出したことがあり、その寸前、女装の私にメンバーが「急いで準備しなさいよ」というので「これでOK、僕は男」と答えた。驚いて、きれいだよと褒められた。当時はかなりグッドだったのではないか、写真はないけど。女装自体には関心はなかったし、その後もない。ただ、あの歳くらいまではぎりぎり両性的な資質はもてたのだろうといういい思い出になっている。が、そのせいかわからないが、私は二度ほど男からレイプの危機に遭遇したこともある、まあ問題なく過ごしたが。
 自分の内部にある両性的な資質は、その後傾倒した折口信夫への理解につながった。折口が後年、弟子の寝ている蒲団にせまりそれが弟子から拒絶されたとき、自分が若いときはもっと美しかったと嘆いたそうだ。その感覚は少しわかる。三島由紀夫が自身が老いていく醜さに耐えられないとしたものも少しわかる。
 書籍に戻る。性的同一性障害について、その発生のパーソナルヒストリーに自分はどのくらい共感できるだろうか、というのは読み進める上での関心だった。が、率直なところ、あまり共感できる部分はなかった。性同一の自意識の目覚めについては、著者に嘘があるとは思わないが、うまく語られているとは思えない印象もあった。私は、奇妙に幼児期の記憶があってフロイトのいう多型倒錯やシュレイバー症例などもある種の洞察があるが、著者椿姫については、そういうフロイトスキームというより、自己同定の強度が身体拒否を介して女性への同定意識に結びついているような印象を受けた。
 そこはボーヴォワールが「第二の性」(参照上参照下)で述べた「人は女に生まれない、女になるのだ」という、ある意味で社会制度的な性意識の選択の問題とは違うようにも思えたし、同様にというのは粗雑だがドゥルーズとガタリによる「アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症」(参照上参照下)のいうn個の性からの生成的な説明も違うように思えた。
 というか、本書では、生物学的な男が、社会的な女たらんする欲望の物語のように私には思えた。ボーヴォワール、ドゥルーズ、ガタリらが、むしろ女の性を社会的な制度へのモルドのように捕らえそこからの個の自由の可能性としての不定形な性を描くのとは、逆の構図になっているのではないか。
 このことは、椿姫の生育史における女との関わりにもある影響があるだろう。うまく言えないのだが、友愛原理に潜む本質的な同性愛的な愛の原理としては彩菜は肯定され、自己の居場所を見いだしていくのだが、現実の女社会からはむしろ排除される。男子校出身というのはその点で、むしろ女社会から保護的に機能していた点が本書の感動的な部分だ。
 ここでも、もちろん、と言うべきなのだろうが、そうした女社会こそが、ボーヴォワールらの言うような社会の産出だとも言えはするだろう。だが、それでも、椿姫の自己同定性における女は、その、女社会の女との違和ではない。むしろ、椿姫は、社会的に、普通に、女として生きたいと願うのであり、その意味では、べたに「人は女に生まれない、女になるのだ」という命題に逆説的に従っている。
 話を不要に複雑にしているようで申し訳ないが、椿姫における自己解放の課題にはむしろ社会的な性の、思想的な課題というよりも、友愛原理に潜む本質とその自由の権利の問題として提出されているように思えた。
 その意味で、性的同一性障害というのは、性ホルモンといった生物学的な問題や、ボーヴォワール的な社会思想的な問題もあるにせよ、それらはとりあえず捨象できる課題にあり、むしろ、この社会は、性を個人にとってどこまで自由に選択させるかという点で、社会的な課題となるのだろう。「性同一性障害者特例法」の改正案(参照)などを見るに、日本社会も多少なりの進展はあるようだが。
 原理的には、個人は自由に性を選択できるべきだろう。だが、それが確たる輪郭を持つのは、それが友愛原理、つまり、友人としての他者の現れであって、その先は、本書に描かれる各種の軋轢に潜む問題が露出する。
 たとえば、私が今若く、惚れた女性が、性的同一性障害から性を転換・選択した個人だったとする。それは私に問題か? たぶん問題ではない。性の選択の問題は、実際的な対性的な(恋愛的な)関係性においては問題とならない。子供についても、欧米のように法整備は可能だ。
 では何が問題なのか? 社会的な偏見だろうか? それはもちろんある。
 ここで自分がひっかかるのは、マージナルな問題と、うまく言えないのだが美的弱者の問題だ。マージナルというのは弱い性的同一性障害だ。自己を社会的に実現する上での妥協の閾値が低い場合、その人は自己を穏和に疎外して一生を終える。
 それと美的弱者だが、性的同一性障害において社会的に克服できるだけの美の獲得がほぼ不可能であるという問題は強固にあるように思える。その点では、男性であることを獲得するための性的同一性障害はややハードルは低いようにも思える。
 この問題の、もしそれが問題であるなら、いわゆる非モテ問題のような構図をしているのかもしれないとも思う。そこは冗談ではなく本質的に難しい。
 エントリが錯綜してしまったが、本書はある意味でプラクティカルな書籍である、まず先生にとって、そして次に私たち社会の友愛にとって。

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コメント

>もっと率直に私の感想をいうと、椿姫は美しかったらそうできたのではないかなとも思った。という感想に自分のある種の無意識が反映している。

 弁当爺ちゃんは不細工コンプレックスなん? 老化コンプレックスなん? 私は子供の頃身体虚弱だったから身体コンプレックスがあって、例えばマッチョとか巨乳とか、肉体豊満な系統に惹かれるよ。格闘ゲームで遊ぶときは相撲取りかプロレスラー絶対使ったし。
 でも今は通常体?なんで、そんな興味は無くなったね。
 漫画やテレビゲームの世界が不必要に美化豊満化するのは、やってる人たちに虚弱系が多いからってのもあるでしょね。

 それと同じく?、椿姫彩菜さんが女性系に走ったのは、身体上の特徴云々よりも先ず精神的な部分で男性度が異常に高くて、男性度の限界を社会性の中で思い知らされた屈辱感?が発端になってると思うんですが。

 弾翁の最近のエントリーでも似たようなのあったっしょ。そこで「負けるの悔しいよ」に走ったら行く末自殺で、生きることを大前提に考えて「負けるの楽しいよ」に走ったら、あーなる的な。
 男の料理好きってのも、結局そんなもんかと思うし。
 私の多弁も、おばちゃん癖と言ってしまえば、それまで。

 要するに、本が言いたいことは「負けるが勝ち」とか「負けるの楽しいよ?」とか、そういうことでしょ。

投稿: 野ぐそ | 2008.06.19 20:38

 今の日本の社会や家庭は我慢と完璧を要求するから、そんで試練に耐え切った人に全乗っかり(←おい)するから、中途半端に才覚持って生まれついたり「やれば出来る子」だったりすると、それがそのまま人生の重荷になって逆方向へ超走るってよくある話。武家や旧家の若棟梁(今だと公務員の子女?)がやくざ者と付き合うとか、そんな形で出てるでしょ。

 んで、そういった系統の人は、ある時期まで「朱に染まる」んだけど、ある時期を境に逆臨界点が来ちゃって、やっぱり戻っていくんですよね。元居た世界に。
 元居た世界の人からすると「何を今さら?」って感じでもあり、染まるべき朱の世界に居た人からすれば「逃げやがった」でしょう。蝙蝠なんよね。性分が。

 元々逃げたくても逃げられない、ある意味固着してる生き方をせざるを得ない人からすると、そういう類の生き様は、そのまま「憎しみ」の材料にしか成り得んのですよね。
 だから、常識から言えば、憎まれても蔑まれても当然。

 でもそこで、憎むや蔑むの感情を超越して(ある意味)素直に憧れるか、愛でるか。そうなったとき、人は己の心の重荷を少しだけ降ろすことが出来るんだと思いますよ。
 本来芸道は、そういう意味での「架け橋」だと思うんですね。渡るも戻るも自由なんよ。浮き世と憂き世の架け橋と言うか。通れるヤツは、通りゃんせ。そんだけ。

投稿: 野ぐそ | 2008.06.19 20:52

野ぐちゃんキレてるな

投稿: | 2008.06.19 21:43

> ちょっと行ってみたい感じもするが、私などが行ったら浮くだろうな。

そんなこと言わずにぜひ行ってください!

投稿: jiangmin | 2008.06.20 02:35

こんにちは。いつもRSSリーダーからお邪魔しています。もしかするとわたしのブログも知って頂いているかもしれませんが、敢えて匿名で厚かましく書かせていただきます。
ワタクシ、ご紹介されている本の方と似たようなヒトです。男子校出身ですw。今は平凡なオバサンになりつつあります。
おわかりかと思いますが、この世界は「有名なスパイはダメなスパイ」であって、こうして本など出して顔を曝してしまうことには、おそらく彼女も色々葛藤があったのではないかと思います。大体「ニューハーフ」という呼称は「男の仕事」の職業名ですから。「そういう人」として目だってしまうということは、「男を売りにする(FTMの場合は逆)」ということであって、キレイだの何だの言われれば言われるほど、惨めになるものです。
エントリのタイトルを見ただけで「あ」と反応はしてしまうのですが(わたし個人はもうしんどくてこうした本も貴殿のエントリすらもキチンと目を向けることができないのですが・・)、この手の話題が注目を浴びるたびに冷や冷やする思いがします。正直、「理解」などされては困るのです。「そういうヒト」が世の中にいるということが認知されてしまいますから。
以前、FTMの方が、GIDを素材にした漫画に抗議されたことがありました。その漫画では手術に関する詳しい描写があり「こんな説明がされてしまうと、手術跡の言い訳ができなくなる」ということでした。これはとてもわかります。
わたし自身も、若かりし頃に生きるために目立っていたことがありますし、商売していたこともありました。ですから、そういう人を否定する気はまったくありませんし、むしろ応援したいのですが、一方で一方で「あんまりメジャーにならないでくれぇ」とビクビクしている小心な潜伏者が結構いるのよーということも、貴殿であれば面白い一面として理解して頂けるのでは、と勝手に期待しております。
しょうもないコメントをスイマセン。

投稿: i | 2008.06.20 08:07

こんにちは。

昨日『DOORⅢ』(1996/監督:黒沢清)という映画を見ていいて、この辺のこと(特に「閾値」について)は、結構考え込んでしまいました。
分けても「友愛原理と異性愛ってバランスするものなのかなぁ?」という点について。

「報われぬ異性愛から友愛原理的に性を想像できるか?」とか、なかなか巧く言えませんが…結局権力になっちゃうんじゃないかなぁーと。


投稿: 夢応の鯉魚 | 2008.06.20 12:58

>>iさん

 そこでビクビクする小心者が日本の文化を守るんだと思いますんで、ビクビクして吉なんじゃないですかね?
 しない系統の人は、海外出て頑張って来いって感じで。

 あとねー。日本人は何だかんだで身勝手なんで、ある一定期までビクビク系を愛でるんだけど、臨界点が来たら舶来物にスッと乗り換えるからね。超捨てる。

 今は平凡なオバサンに…ということで諦め?も若干入ってるかもしれませんけど、それでもいつか全てに捨て去られる時が来るんで、ビクビクし過ぎも危険だと思いますよ。

 捨てられる前に捨てるが吉だと思います。

投稿: 野ぐそ | 2008.06.20 17:21

性というのは生物学的には、原生動物やある種の菌類の中には4極性、8極性、16極性といって4つも8つも16個もあるものがあります。単子葉植物は重複受精で一度に2種類の有性生殖をして種子の中に胚と胚乳を作ります。不完全菌類といって、有性生殖世代がみつからない菌類もたくさんあります。
性とか、人間類型とかはきっといろいろなのだろうと思います。
占いで例えて恐縮ですが、12星座占いや九星占いでもある程度までは言い当てられるけれど、精密な、カスタムメイドの話をしたかったら、ホロスコープの作成と解読や体系的な気学の学習をしないと深みのある話は出来ません。
これはfinalvent先生のほうが詳しいかもしれないけれど、周易だって、64卦の卦辞だけ見ても相当いい線まで占えるけれど、奥深い易者は、上下の8卦の象意をいろいろ考え、之卦や裏卦もよく考えて、状況に合わせて占断しているはずです。
科学や産業技術では有効数字が大切だけれど、現実に行動するためにはどの程度正しければ有意味であるかということを考えることは重要だと思います。話をどこまでも厳密にしていってもコスト高になってしまうだけで、かえって話が非現実的になってしまうと思われます。もちろん道楽ならそれでもよいのでしょうけれど。
この方が女性になられて満足されているのなら、私には何も追求することはありません。

投稿: n個の性 | 2008.07.05 13:42

椿姫彩菜さんもビッグネームだし、極東ブログも影響力が大きいそうで、このエントリーにコメントを入れて、話が悪い方向に向かうといやなんですが、一応、入れます。

また、この話では、分子生物学の泰斗である岡田典弘先生の実名を出させていただきます。岡田先生には有名税を支払わされたと思っていただきます。

さらに、血液型性格判断の話題が中心なんで、話が厄介なのだけれど、このコメントを承認するかしないかはfinalvent先生のご見識にお任せします。

また、私は、現在は、自然科学ではなくオカルトに軸足を置いてしまっています。科学的判断については自分の私見でなにかを断定する資格は基本的に持ち合わせていません。(だから、岡田先生の権威を借用させていただく訳です。)また、わたしは、血液型性格診断については、何も研究も検討もしたことがありません。私の関心の順位から言ったら、血液型より、アマツカナギの占いとか、陰陽道の暦法と方位術とか、が優先されるし、血液型についての知見の整理より、力を入れるとしたら、アセンダントの代わりにパート・オブ・フォーチューンを使って、パート・オブ・フォーチューンを出発点にして12ハウス分割をするホロスコープ占星術の成立の可能性はないか、といったことに研究の力点を置きたいと思っています。

長い前置きですみませんでした。

現在の岡田典弘東工大大学院教授は血液型性格判断に関心を持続されていらっしゃるかどうかまったく存じませんが、私が大学生だったころ、そのころの岡田先生は、血液型性格判断にひどく関心をお持ちでした。もちろん道楽としてです。当然、血液型性格判断の分子生物学的研究などまったくされていません。

学生の私は、赤血球の糖たんぱく質の糖鎖の単糖の1つや2つの違いが人間性の全容にそんな深く影響するのか?と、めずらしく至極まともな疑問を持ったので、実験の指導をしてくださっている当時まだお若かった岡田典弘先生に、そういう質問をしてみたのですが、岡田先生は、気楽に、血液型は免疫に深く関与しているから、同類型の人間の人間性や人間の行動様式に大きな影響を持つと考えるのは困難ではないと回答してくださったと記憶しております。

わたしは、さらに突っ込んで、ABO型だけではなく、Rh型やMN型やP型の血液型での血液型人間学が成立していないのはなぜか、と岡田先生に質問したところ、岡田先生は親切に、まず、RhやMNやPは、ABOほど強力な免疫性を持っていないから、それほど人間性に強く露骨に反映しにくいとおもわれる、つぎに、ABO以外の血液型は、一方の形質の持ち主が社会の非常に少数派であることが多いから、こういう性格判断の成果が出ても、それを公表することは社会のマイノリティーの人たちの扱われ方を不利にする危険性があるので、世間に衆知させられないことも考えられる、そういうわけで、ABO型の血液型性格判断も、日本のような血液型分布の社会だから公表が許されるわけで、ある種のアメリカインディアンの社会のようにO型の人が社会の成員の90%を超えるような社会では、研究成果を衆知させるように公表することには社会圧力がかかるだろう、と回答してくださいました。

別に、血液型性格判断は、科学である、あるいは科学的根拠がある、と主張したいがために岡田先生にご迷惑をおかけするのではなく、性とか性行動とか性認識というものを、2本の性染色体だけに限定して考えるのは偏狭なのではないか、という話に説得力を持たせたいからこの話を切り口にさせていただきました。

生殖器官の形成とか、生殖活動とかは、ダイレクトに2本の性染色体が主導している生物学的事象だろうけれど、血液型性格判断にも整合性のある科学的説明が可能ならば、人間の性意識や性的行動というのは、残り44本の常染色体が複雑に関与していると考えたほうが自然であろうと思う、といいたいだけです。

性(ジェンダー)に対する常染色体の複雑な関与という考えに説得力を持たせる上で、血液型性格判断の話は有益なたとえ話になるだろうと、そういうことです。性とか性格とかを、あんまり紋切り型に杓子定規に考えなくなるようにする、ひとつの切り口になろうかと、そういう話です。

投稿: 常染色体と性 | 2008.12.21 11:10

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