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2008.06.25

[書評]破綻した神キリスト(バート・D・アーマン)

 もう少ししてから読もうかと思ったが、「破綻した神キリスト(バート・D・アーマン)」(参照)つい読み始めて、そして熱中して読んだ。本書は昨日「極東ブログ: [書評]捏造された聖書(バート・D・アーマン)」(参照)でもふれた聖書学者バート・D・アーマン(参照)が、この世界の苦悩について聖書がどのように見ているか、その多様な見解を正確にまとめたものだ。「人はなぜ苦しむのか」という問いに聖書はどように、多様に、答えているかが、その多様さと整理の点で、きちんとまとめられている。哲学・神学的にはこの分野は神義論と呼ばれる。

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破綻した神キリスト
バート・D・アーマン
 本書が類書の神義論とかなり異なるのは、それを聖書学者として客体的に描くだけではなく、著者アーマンがそれを自分の信仰との関わりのなかで真摯に問い、聖書の各種回答には納得できない、だから聖書の神を信じることはできない、と明言していることだ。この本は彼の棄教の本でもある。
 邦題はそうした部分を強調し、アーマンの理性から「破綻した神キリスト」が描かれたとして選ばれたものだろうだが、オリジナルは「God's Problem(神の問題)」(参照)とシンプル。副題も「How the Bible Fails to Answer Our Most Important Question --- Why We Suffer(我々の苦しみという重要な問いに、どのように聖書の回答が失敗しているか)」と適格に内容を表現している。人々は苦悩し、聖書に答えを求める。しかし、そこに答えなんかないのだということをアーマンは本書で解き明かす。
 本書は聖書学者アーマンの自身の棄教の物語でもあり、また聖書が神義論的に破綻しているという解説の書籍だが、多少なり神学も囓った人から見れば、アーマンは聖書学者としては当代一流であっても、神学では素人とはいえないものの、素人に近い見解と感想を述べているにすぎないとも言えるだろう。アーマンのような道を辿った人ではないキリスト教の信仰者なら、本書で信仰に躓くこともないのではないか。
 もちろんアーマンは神学に完全に素人ではない。が、メリットはその専門の本文批評学(textual critic)の能力を遺憾なく発揮し、聖書に込められている神義論の神学をきちんとモデル的に抽出している点だ。プロパーな神学がキリスト教の護教を前提として巧緻な組織を作り上げるのに対して、アーマンは聖書をある意味で科学的に分解し、そこに潜んでいる神学を科学的なモデルのように丁寧に取り出している。むしろプロパーな神学は、その聖書の神学の可能性の先に位置するもので、神学とはイエスのメッセージに対する全人類史的な応答になる。だが、アーマンはそうした神学の発想にも、本文批評学的な懐疑を投げかけている。
 聖書を、旧約・新約を含めて、きちんと読んでいこうという人にとって、アーマンの不可知論としての説得はあまり関心の持てるものではないとしても、そこから抜き出される神義論のモデルは正確に頭に入れておくとよいだろう。読者である私自身についていえば、私は黙示思想が大嫌いだったし、こんなものキリスト教に含めておく必要あるまいとなんとなく思っていた。とはいえ、本書でアーマンの言及もあったが、アルベルト・シュバイツァー(参照)の「イエスの生涯 メシアと受難の秘密 」(参照)も私は若い頃よく読んだし、そこに描かれる特権の預言者像は私が傾倒したイェレミアスのイエス像にも近いものだった。それでも、イエスもパウロも所詮は古代人であり、そして当時のヘレニズムというかペルシャ的文化風土の黙示思想はそれほど重視するような内容ではないと思っていた。
 が、私にとっては、イエスとパウロを丹念に黙示思想に位置づけて考察している本書の見解からは、かなり得るものがあった。私は、かなり率直にいえば、不可知論者というよりもう少しキリスト教信者に近い考えをしており、そこにはある程度黙示思想的な要素がないわけではない。
 またアーマンは西洋の文脈にあるため、神義論と自由意志の問題を大きく取り上げているが、この点、私は結果的に東洋的な文脈にあるせいか、親鸞的な機縁の考えに馴染んでいる部分が大きい。例えば悪人なり悪業というのはそれをなす業の問題としてかなり見ており、人間存在とはそれほど自由意志を持つことができないというのを自然に前提に見ている。
 本書は50歳を超えた現代人の魂の告白としても興味深い。アーマンは、苦しみと聖書の回答について30歳で本を書こうとしたが、まだ世の中のことがわからないとしてためらい、やめたという。

 それから20年も経ったが、依然として私は若輩者かもしれない。確かに私はあの頃よりも広く世間を知った。身を以て苦痛も体験し、他人、時には近しい人の苦痛や悲惨な体験も目にしてきた --- 婚姻の破綻、健康問題、人生の盛りで親しい人を奪っていく癌、自殺、先天性欠損症、交通事故で殺される子供、破産、精神病 --- 読者自身も、この20年のご自分の体験から、このようなリストを作ることができるだろう。さらに私は、多くの本を読んだ。ナチス・ドイツのみならす、カンボジアで、ルワンダで、ボスニアで、そして現在ではダルフールで行われているジエノサイドおよび「民族浄化」、テロ、大飢饉、古今の疫病、一撃の下に3万人ものコロンビア人の命を奪った泥流、旱魃、地震、ハリケーン、津波。
 とはいえ、20年間にも及ぶ経験と思索をもってしても、なお私にはまだその本を書く資格はないかもしれない。だがたとえさらに20年経って、その間にいかなる苦痛を体験しようとも、私は依然として同じように感じるかもしれない。だから、今書くことに決めたのだ。

 しかし、彼は30代の彼ではない。むしろ、その20年間、苦しみということを聖書に忠実に思索し続けた。

 私はほとんど毎日のように見知らぬ人からメールを受け取る。私の書いたものを読み、この世の苦しみを説明できないために不可知論者になったということを聞いた人々だ。これらのメールはつねに善意に溢れ、またきわめて思慮深いものもある。少なくともわざわざ私に考えを報せてくださった方々に謝意を表するためにだけでも、そのすべてに返事を差し上げたいと思う。とはいうものの、あまりにも多くの人々が苦しみというものを皮相的にしか理解していないことは私には少々驚きである。

 本書の真価は、その聖書学的な深い知見を別にすれば、人の苦しみというものを忍耐強く見つめている点にある。

 実際、ほとんど人は苦しみについての話なんかしたくないのだ --- さもなくば、この世に充ち満ちるあらゆる苦痛と悲惨と苦悩の理由を15秒以下で説明してしまえる答えを言おうとするかだ。

 苦しみを見つめ続けたアーマンは、聖書にその答えを求めることを捨てる。棄教したともいう。無神論者になったとは言わない。それもまた証明できないとして不可知論者だと言う。いずれにせよ、キリスト教は捨てた。

 私のようないわば「棄教」を体験したことのある人なら、それがいかに感情的な苦悩を伴うものとなりうるかをご理解いただけるだろう。その危機を乗り越えた今だから、それをユーモラスに思い起こすこともできるようになったが(友人の一人は、私は「再生派」から「再死派」になったなどと言う)、その最中においてはこの上もないほどの心の痛手となった。

 本書は、日本人の知識人にありがちな、科学と無神論を結びつけてしまう稚拙さはない。

最近の不可知論者や無神論者の本では、いやしくも分別や知性のある人なら誰であれ、人生の重要な問題に関して著者と同じ考え方をするのが当然だと言わんばかりのものがあるが、わたしはそんなことを言うつもりは毛頭無い。

 こうした思いは私は個人的によくわかる。私はキリスト教信者にも、無神論者にもなることはたぶんないだろう。ただ、不可知論者でもないかもしれないが。
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なぜ私だけが苦しむのか
現代のヨブ記
(岩波現代文庫社会164)
H.S.クシュナー
 聖書学のディテールについてはアーマンに自分は及びもしないし、執筆する能力も遙かに及ばないのだが、最終章など自分が書いたのかと錯覚するほどだった。これは私が書いた本じゃないのかと思うほどだった。
 アーマンと同じように私も「カラマーゾフの兄弟」(参照)を人生の課題とし、クシュナーの「なぜ私だけが苦しむのか 現代のヨブ記」(参照)をなんども繰り返し読んできた。同じように考えて読書していた人がそこにいる。そしてここにいる。
 自分は自分なりに孤独にものを考え、本当のところ自分の思索の孤立感は絶望的だなと思うほどだが、なぜ酷似した思索者に出会えるのか。そしてそういう出会いとして見るなら、自分の思索の歩みはけして孤立してないかもしれない。
 私は、正確に言えば、アーマンとは少し違う。でも、その信条と思索とそしてこの結論はほとんど同じだ。この世界の悲惨を神の存在に関連して問うより、もっと人間的に人間が人間に問い掛けるように申し立てなくてはいけないのではないか。

 どこかの国の(たとえ戦略的価値のない国だとしても)政府が自国の民を虐殺しているのを、われわれはただ座して眺めている必要はないのだ。多くの人がホロコーストの話を読み、「二度と繰り返してはならない」と言う。彼らはカンボジアのキリング・フィールドで大量虐殺が起きていた最中も、ただ「二度と繰り返してはならない」と言っただけだ。ボスニアでの大虐殺の時も「二度と繰り返してはならない」。ルワンダの大虐殺の時も「二度と繰り返してはならない」。そして今、ダルフールで強姦と略奪と虐殺の嵐が荒れ狂っているというのに、ただ「二度と繰り返してはならない」と言うだけだ。だが、そんなことが起きなければならない必然性などさらさらないのだ。これはリベラルの申し立てでも、あるは保守派の申し立てでもない---人間の申し立てなのだ。

 人間の申し立てこそが大切なのだろう。

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コメント

信仰心もなく、神学を学んだこともない私は、何故苦しむのかを聖書に問うという部分がまったくありません(聖書を書物として読んだことはありますが)。ですから苦しみから解放されるためにどうするかという点では、自分を問うという回路なので、悲惨、孤独で孤立です。でも、生きるか死ぬかの問題でない限り、自分の抱える問題はきっと極小なことなのだと思いました。更に、最終章に興味が有ります。そして、年齢的にも50年生きたアーマンの考えたことを知りたいと思います。早速注文します。
 

投稿: ゴッドマー | 2008.06.25 16:54

>自分は自分なりに孤独にものを考え、本当のところ自分の思索の孤立感は絶望的だなと思う

すごく共感します。まだ学生ですが、絶望的だな、とゆうか思索は必然的に孤独になるものだ、と考えていました。


>なぜ酷似した思索者に出会えるのか。そしてそういう出会いとして見るなら、自分の思索の歩みはけして孤立してないかもしれない。

こんな風に思える本を読んでみたい。
こんな風に思える人の文章を読むとなんとなく、嬉しいものですねw可能性を感じる、とゆうか。決して単純に孤独でなければならぬものではないかもしれない、と思えた事が鳥肌が立つほど嬉しい。
ゴッドマーさんもおっしゃっていましたが、僕もこの最後の章に強く共感しました。信教の外にいる人間ではありますが、とりあえずじっくり読んでみようかな、と思います。

なんとなく嬉しかったので、ありがとうございました。

投稿: conq | 2008.06.27 00:10

江川卓訳ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」第1部第6編 2 「神のもと永遠の生に就かれたる修道苦行司祭ゾシマ長老の一代記より、長老みずからの言葉をもとにアレクセイ・フョードロヴィチ・カラマーゾフこれを編む」の「(b)ゾシマ長老の生涯における聖書の意義」の末尾からの引用。

「ほう、ほんとうに動物にはキリストがついておられるのですか?」と若者がたずねた。
「どうしてついておられないことがありましょう」と私は言った。
「なぜなら神の言葉は万物のためにあり、すべての創造物、すべての生きものは、木の葉一枚といえども、神の言葉をめざし、神の栄光をたたえ、キリストのために涙を流しているからです、自分ではそれと気づかぬままに、自身の罪のない生の神秘によってこれをいとなんでいるのです。たとえば森には恐ろしい熊がうろついている、それは恐ろしい兇暴な獣ですが、だからといって熊にはなんの罪もない」こういって私は、森の中の小さな庵で修行していた偉大な聖者のところへ、あるとき熊がやって来た話を聞かせた。
偉大な聖者は熊をいつくしまれ、恐れる色もなく熊を迎えて、一片のパンを熊に与え、「さあ、行くがよい。おまえにはキリストがついておられるぞ」といった。すると兇暴な獣は、聖者に何の危害も加えず、おとなしく言うことを聞いて立ち去ったという。
すると青年は、熊が危害も加えずに立ち去ったことや、熊にキリストがついておられることに感動してしまった。
「ああ、それはすばらしい、神さまのものはすべて美しく、すばらしいのですね!」
こう言うと、彼はじっと立ったまま、静かな、甘美な物思いにふけりはじめた。何かを悟ったようであった。やがて私のかたわらで、彼は罪を知らぬ安らかな眠りに落ちていった。
主よ、あの青年に祝福を与えたまえ!
私も眠りにつく前に、その青年のために祈ってやった。
主よ、あなたのものなる人間たちに平和と光明を与えたまえ!

投稿: 引用 | 2008.06.30 07:22

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