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2008.06.24

[書評]捏造された聖書(バート・D・アーマン)

 「捏造された聖書(バート・D・アーマン)」(参照)はいずれ読むんだろうなと思っていたが、ふと思い立ったように読んでみた。面白かった。

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捏造された聖書
バート・D・アーマン
 話は、聖書の本文批評学(textual critic)を一般向けにしたものだ。聖書というのは信仰者の多くは神の言葉だと理解しているしそれはそれで信仰の問題だが、信仰といった部分を除いて考えるなら、普通に人間が書いた歴史文書であり、その編纂の歴史というものがある。本書はその新約聖書の部分をまとめたもので、こういうと嫌われるかもしれないが、欧米の知識人と向き合うことがある日本の知識人ならこの程度の内容はざっとごく常識として知っておいたほうがいい。その意味では必読書と言えるかもしれない。日本の現代知識人は奇妙に歪んだ、キリスト教に対する優越心みたいなものを持っていることがあるようだけど、そんなのは欧米人には通じない。むしろきちんと彼らの背負い込んだ知識を理解したほうがいい。
 本書は私にはある意味で運命的な本でもある。個人的な話になるが、私は若いころ聖書学を志していたからだ。歴史的イエスというものに関心を持ち、方法論としてはイェレミヤスが試みていた、アラム語によるQの再現といったいった学問に夢を持っていた。幸いというべきか学部時代に夢は早々に破れ、貯めておいた人文のギリシア語とラテン語の単位は語学に移し、以降学問と信仰というものを分離して生きるようになった。
 そういう個人的な背景があるものだから、「捏造された聖書」のバート・D・アーマン(参照)がその「はじめに」で書かれている、素朴な信仰者がしだいに聖書学によって信仰が揺らいでくる過程は興味深かった。そしてアーマンは私より数歳年上なので同じような時代の中にいたのだろうという共感もあった。
 より聖書を学ぶことで信仰に確たる基礎が築けるのではないか、それは私も経験したが矛盾した営みだった。たしかに、一面では信仰というか確信は深まる。四福音書がそれぞれ違った立場で書かれていることがよくわかるようになり、またパウロ書簡の真偽の区別も付くようになる。だが、それはキリスト教だろうか? かろうじて私は当時八木誠一先生が提示した、信仰のリアリティを元に新約聖書における信仰類型の考え方で矛盾を解決しようとした。しかし、私はやめた。信仰のリアリティはそもそも存在しないのではないか。八木先生もその後仏教に傾倒され、私も結果的に仏教に傾倒していくのだが、その意味合いはかなり違ったものになった。もちろん、先生に自分が及ぶとはまるで思っていない。むしろ、私は神学としてはティリヒの理解を深め、仏教については素朴に道元に思慕を持つようになった。
 私はといえば、学部半ばで挫折したから、ギリシア語で聖書がすらすら読めるというわけではないが、それでも実家にはギリシア語聖書は4、5冊くらいあり辞書も数冊あった。インタリニアー聖書が2冊あり、今でもその気になれば、聖書で、あれここは誤訳かなというところは原典で参照できる。それはある意味で困ったことでもある。アーマンの言葉はよくわかる。彼は学生時代にこう思った。

 ギリシア語の学習はスリリングな体験だった。実際にやってみると、基礎の習得は実は簡単で、つねに私は一歩先の課題を求めていた。とはいうものの、もっと深い面では、ギリシア語を学習したことで、私自身と私の聖書観について若干の問題が生じた。すでに解ってしまったのだが、新約聖書のギリシア語テキストの完全な意味とニュアンスを理解するには、その原語で読んで学ぶ以外に手はないのだ(同じことは旧約聖書にも言える。ということが、後にヘブライ語を学んだときによく解った)。だったらなおのこと、何が何でもギリシア語は完全にマスターしなきゃ、と私は思った。と同時に、これによって私は、霊感によって書かれた神の言葉の意味を完全に理解するためには、それをギリシア語(それにヘブライ語)で研究しなければならないというのなら、そんな古代語なんて読めないほとんどのキリスト教徒は、神が与えようとした言葉を完全には理解できないということになるんじゃないのか?

 私にとってもこれは奇妙な課題だった。私はキリスト教信仰心の乏しい人間だが、部分的には信仰者よりも詳しく聖書を読んでいる。「ああ、それはなんとか聖書の誤訳ですよ、それは加筆部分ですよ」というようなことを平然と言いのけるまでに墜ちていた。悪意すらなかった。私は、信仰者の躓きになるくらいなら黙っているほうがいいとは思いつつ、密かにネットができるようになってからは同種類の異端者を捜した。数名はいた。不思議と数名はいるものだ。
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イエスはなぜ
わがままなのか
岡野昌雄
 この問題、つまり聖書学と信仰だが、結局、最近、岡野昌雄先生が「イエスはなぜわがままなのか (アスキー新書 67)」(参照)で優しく説いているように、聖書というのは聖書学なくして読むものだと、というのが私も正しいと思う。ブーバーが旧約聖書の預言者の言葉の残酷さを問われたとき、平然と「預言者が神の言葉を聞き違えたのでしょ」と言いのけたというエピソードがあるが、聖典信仰というのは、単純にSola Scriptura(ソラ・スクリプチュラ)というわけにはいかない。このSola Scriptura問題も、「捏造された聖書」には結果的に書かれているのも興味深かった。プロテストタントとカトリックにとって重要な問題なのだろう。
 「捏造された聖書」を読み進め、私にはいろいろ懐かしい思いがした。私は30年間三位一体問題に苦しみ、10年前にようやく三位一体は異教であるどころか教父たちの恩恵だなと思うに至ったので、本書初期キリスト教異端についても、けっこう平然と、そうだよなそういう異端も出てくるよな、ふんふんと読んだ。
 本書で、いくつか最新の聖書学の知見もリニューした。先日Twitterで、ルカ書と使徒行伝は一冊の本ですよと発言したら、違うかもというレスを貰い、最近はそうなのかと疑問に思っていたが、アーマンは同一作者と見ているようなのでその点の理解は昔のままでいいのだろう。
 私が学んだころの本文批評学(textual critic)はどちらかというと、古代写本関連が重視され、あまりエラスムス編聖書のことは話題にならなかったし、私も関心もっていなかった。どうせ近代の学問の成果ではたいしたことないでしょくらいな気持ちでいた。が、「捏造された聖書」で、私にとって圧巻だったのは、聖書写本の異同の話より、中世から近代における本文批評学の発展の歴史のほうだった。私にしてみれば、真なる聖書なんて問題は30年前に終わっている。信仰者を躓かせるようなこともすべきではない。聖書は妥当なテキストでいいし、ヨハネ書から「罪なきものが石を打て」の挿話を削ることはないだろう。人類がその後にいろいろあって結果的にできた聖書はそれはそれでいいのではないか。
 本書で焦点が当てられているエピソード、怒れるイエスやマルコの結末など、知らない人なら驚くかもしれないし、欧米人などでも一般の人は驚いたからベストセラーになった面もあるのだろう。知ったかぶりするわけではないが私はこの程度の話は知っていた。
 邦題は「捏造された聖書」だが、オリジナルは「Misquoting Jesus」、つまり、「引用間違いで伝わったイエス・キリスト」ということだ。基本はその写本の部分にある。ただ、アーマンはなんとなく明確にしていないが、歴史的なイエスの再構成が原理的にはありえないことはもうブルトマン時代にわかっていることだ。その意味で、本文批評学が微妙に神学を内包してしまう部分もあるので、この分野の知識人ならアーマンの手つきにところどころニヤリとさせられる。

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コメント

一行の、いや二行(たまに三行)のレスの100倍以上、ブログにエントリーしてもらうと嬉しいです。これからも、こんな風にいろいろ語ってくださいね。

続きを早く読みたいと思って急いで戻って、やっと読めました(ジョギング)。

投稿: ゴッドマー | 2008.06.24 17:26

>>弁当教諭

 良かったね。次の人が見つかったじゃん。良かった良かった。これで後は、野ぐそがさっさと抜けて昔みたいに皆さんの補遺コメンツが花盛りになったら言うこと無しね。

 今月一杯はぷらぷらするけど、来月になったらべんきょおするからサイナラよ。来年また来るから、そん時凄くなっておると良いよね。頑張ってぬ?

 どーでもいいけど、先週から父ちゃん(75)肺炎で入院してるんだけど癌の可能性があるから検査&手術するけどいい? とか病院の人に言われて軽くショックだぜ~。でも出陣も与太も止めないし暴れると言ったら暴れるぜ~。父ちゃん危険になってもべんきょおやるって決めたから止めないぜ~。
 馬鹿でもカスでも言ったらやるのが俺の流儀だぜ~。
 周囲なんか知ったことかって感じだぜ~。

 勿論それが全てじゃないけど、そういう要素が無いと孤独にパックリ食われて死んじゃうぜ~。だから弁当教諭は孤独がどーたら言っちゃ駄目なんだぜ~。

 頑張るんだぜ~。ほなさいのら。

投稿: 野ぐそ | 2008.06.24 20:17

あまりに野ぐそさんがチャーミングなのでちょっと横レス。

貴方に代わるキャラは他にはないから、ここにいないとダメ、ダメね!

投稿: ゴッドマー | 2008.06.25 05:51

 駄目じゃ。アホはふたりも要らん。以後はアンタがやったらええ。
 頑張りんさい。

投稿: 野ぐそ | 2008.06.25 22:28

今、日本書紀を少しずつ読んでいるのですが、英雄の事跡の記録が主体ということで、中国だと金文の記録が長編化したようなものかなと思っています。

神話を語りだしているのは神々であり、人々を導くのも神々なのでしょうが、神話を記録し、編集し、保存するのは為政者ですから、8世紀前半の日本の為政者たちの事情が本来なら読み取れないといけないのだろうと思います。

日本書紀の室町時代以来の解釈史がわかれば、その時代なりの日本書紀の利用の仕方や、特定の人々に日本書紀が果たした役割もわかるのだろうと思われます。

投稿: 神話の記録 | 2009.01.10 14:42

はじめまして。バートDアーマン検索で辿り着きました。私は著者や管理人様のような優れた知性は持ちませんが教会の外で再生体験を始めとする宗教的体験を得た事を切っ掛けに聖書を読むようになりました。

その頃より独特の難解さを持つ聖書や教会の信仰告白に違和感を持っていましたが、不思議な縁あってバプテスマを受けクリスチャンになってからも、伝統的キリスト教の教理に関心が持てず悩んでいましたので、この本を読んでスッキリしました。

そして私も管理人様に倣って伝統的信仰者の信仰を理解しようとか、何かを分かち合うべく干渉する事を止めようと思います。
スピノザも言ったように聖書が人の手によって書かれたものであると結論したところで決して神を冒涜する事にはならない筈だと主張していたのですが、要は人間やその文化歴史というものに対する根本的な認識の違いであって、言葉が適切でないかもしれませんが「カルト問題」と同じくらい根の深い代物なのではと思うようになりました。

私は元々仏教の僧侶の家に生まれ育った人間なのでそのうち古巣に戻るかもしれませんけれど、聖書とキリスト教を知って自分なりに学んだ日々というものはそれなりに実の多いものだったと感謝しております。
とりとめのない投稿ですみません。


投稿: watakusi | 2009.06.17 20:47

ああ、なぜ僕はこの記事を読み落としていたのだろう、と思いました。そして今読むのだろうと思いました。かたわらに八木誠一『キリスト教は信じうるのか』、赤岩栄著作集、滝沢克己『人間の「原点」とは何か』とを置きながら。

投稿: edouard-edouard | 2009.10.30 12:54

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