[書評]「なんでだろう」から仕事は始まる!(小倉昌男)
ちょっと思うことがあって、というのと、亡くなられてもう3年にもなるのかということで、「「なんでだろう」から仕事は始まる!(小倉昌男)」(参照)を読み返していた。小倉昌男は、事実上宅配事業を日本に興したヤマト運輸の社長であった。
「なんでだろう」から 仕事は始まる! 小倉昌男 |
会社を経営するのに、「適齢期」というものがあるとは思わない。だが、この仕事を一人前にこなそうと思ったら、それなりの人生経験が求められるのは間違いないだろう。今の時代は、二十代や三十代でベンチャー企業の経営に乗り出す若い人も多いが、旺盛なチャレンジ精神はすばらしいことだと思うものの、見ているといささか心配になることがある。
というのも若い世代の人間ほど経験の価値を過小評価し、「情報や知識があれば何でもできる」と思っているふしがあるからだ。とくに今はインターネットでだれでも膨大な量の情報を手に入れることができるし、企業経営のノウハウを教えるマニュアル本や雑誌なども山のように出ている。だから余計に情報や知識の価値を過大評価してしまうのだと思う。
たしかに、そういったものを読んで勉強すれば、会社経営に必要な知識は身につくだろう。法律で定められた手続きをクリアすれば、会社を興して経営者になるのも簡単だ。
しかし、書類の上で経営者になれたからといって、それだけで経営ができるというものではない。経営とは、生身の人間とつきあう仕事だからである。
もうこの本、いいです、おなかいっぱいです、いらね、ということになってもなんら不思議ではない。どうしてこんな爺が偉そうなのか本書だけでは疑問に思っても当然かもしれない。まあ、それはそうだ。
この先、大学生で企業を興した若い経営者に小倉はこう諭すのだが、このあたりの妙味をどこまでわかるかが、本書の評価に関わるのだろう。
そんな彼に、私はある都々逸を教えてあげた。
「お顔見たけりゃ写真あり 声を聞きたきゃ電話あり
こんな便利な世の中に 会わなきゃできないこともある」
このなんともユーモアというか、なんだろこの人という変なところが小倉昌男の魅力でもあり、そのおふざけのような根幹に、つねになにかしら人間にとって根源的な視線、いや、なんというのか中二病とでもいうようなシャイでそれでいて原理的な思考が奇妙なリズムのように感じられる。
小倉昌男の経営思想の、もっとも難しい部分は、こうしたなにか奇妙なところに深く関係しているように思う。ある意味で、これだけ頭のいい人で、経営力がある人でありながら、いやだからなのか、人間というものに答えを出さない。なぜこうまで人間というものを開いて問い続けたのか、しかも80年も、ということが鈍い感動のようなものを残す。
その最たる部分が、読み返して、嘆息したのだが、人事評価の問題だ。
しかし、むずかしくても行わなくてはいけないのが人事考課というものである。だからこそ昔から多くの経営者や学者たちが、公平な評価制度についてさまざまな知恵を絞ってきた。研究書や解説書も山ほど出ている。
だが、小倉はそうした緒論を検討しつつ、「しかし、客観性の問題がどうしても解決しない」と悩む。
それに、もっと根幹的なことを言っておけば、会社の業績というものは、それがだれの「手柄」なのかを特定するのが非常にむずかしい。たとえば何か新しいプロジェクトが成功すれば、表向きはその担当者の功績のように見えるだろう。しかし、その仕事を今の担当者が一から育てたとはかぎらない。最初に種をまいたのは前任者で、今の担当者はたまたまそれが実ったところで刈り取っただけかもしれない。
また、大した実力はなくても、たまたま配属された部署に恵まれてよい結果を出せた者もいるだろう。
ここまではごく普通にビジネスマンも思う部分だろう。小倉は、ヤマト運輸との関わりの最後の仕事として「辞める前にこれだけは答えを出しておかないと悪いな」と考え詰めるのだが、答えはでなかった。
その先、こう言い放つ。
いささか乱暴に言わせてもらえば、実績だけでは社員を評価できないし、評価しても意味がない、という結論に達してしまったのである。
このあたり、まさに乱暴ともいえる、アナキーのような不可解な思考が小倉にはある。穏和でとぼけた爺さんのようでいながら、なぜこんな大胆な思考をするのだろうか。
そうは言っても、社員の中には会社に役に立つ人間もいれば役に立たない人間もいるわけで、そこはきちんと評価しなければいけない。では、会社の役に立つ社員とはどういう人間か。私は最近、それはじつのところ「仕事ができるかどうか」とは関係がないのではないかと思うようになった。
先ほどの都々逸はユーモアだが、こうなると悪い冗談なのか判断しづらくなっている。だが、小倉はここでまさに本気なのだ。しかも、経営者として大成し、80年の人生を完遂してなお、会社にとって役立つ社員は仕事ができるかどうかに関係なさそうだと思索している。
いくら分析しても個人の業績を客観的に評価できない以上、だれがどのくらい仕事ができるかを見分けることはできない。ならば、企業が「われわれは仕事ができる人間を求めている」といっても意味がないだろう。
さらに言えば、仮に仕事のできる人間がいたとして、それが本当に会社の役に立つのかどうかもわからない。
小倉は、「何を言い出すのかと驚かれるかもしれないが」と話を続ける。そしてその思惟の結論は、人柄ではないだろうかということに暫定的に落ち着く。たしかに、それはそうだろうというふうにも思えるし、その落とし所はまた凡庸なようにも思える。
小倉の不思議さはこの、なんともいえない中学生のような、思索の純粋さにある。人柄なんてことにすれば総体的に無能な社員になるだろうから、売り上げが落ちるかもしれない。そうも彼は考えるのだが、その先また奇妙なことを言い出す。「よくよく考えてみると、売り上げを伸ばすことにどれだけの値打ちがあるのかよくわからない」。そこまで言うか。
小倉の経営哲学はどこかしら人間離れしたところがあり、なのにそれが人間の、個々人のもっとも深い部分に触れてくる。彼は、自分は気弱だという。だが、国を敵に回しても、びくともしなかった。もっとも本質的な思索が人間というものに深く碇を降ろしていたからなのだろう。
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コメント
私の本棚にも初版第1刷があったので,再度,ページをパラパラとめくりました。
小倉自身には,小倉昌男が言う「変えたい自分」を意識し続けたことと,確固たる個として視点をもった自分の2つがあるように思います。同時に,受け継いで,そして変えた法人としてヤマト運輸への愛着を感じます。
「雇用」と「仕事」は同じではない,と言っている項では,旧来からの日本の仕事観を言っているようで,最後に「好きな仕事を失った人に,あらためて好きな仕事を保証するのが理想だろう。決して簡単ではないが,そのための努力を惜しんではいけないと思う」とは,そこまで考えろよ,と言われているような気がします。人が仕事するのであって,モノじゃないんだよ,と。
投稿: kazgeo | 2008.06.21 21:15
小倉昌男の『経営学』がブックオフにたくさんあって、ちょっとがっかりしながらもそのうちの一冊を購入しました。
その一冊はブックオフに逆戻りせず、まだ本棚にあります。
凡庸に読めば読めるような文章でも、ちょっとしたところに書き手の人柄とか考え方を感じ取れるように思うことはあって、そうした出会いが私にとっての読書の妙味です。
投稿: 左近 | 2008.06.21 22:01
弁当爺ちゃんはミスをしても直ぐに取り返す人間なんじゃね。偉いね。そうじゃないと、仕事は出来んよね。
大したモンじゃと思いました。
投稿: 野ぐそ | 2008.06.22 09:27
小倉さんが亡くなった時に、丁度この本を読みました。大会社に成長した会社の社長が想像とは裏腹に、純粋で粋な方だと感じて衝撃的でした。
価値観や選択肢などの多様化の中で必ず遭遇するのが、自分が何を基準に選択するかという問題です。そして、必ず人の存在があるので、感化されないようにここで自分という物を持つ必要性が生まれます。そういう時に、あまり筋肉質になろうと頑張らなくてもいいかなと癒されました。
タイムリーなエントリーでございました。
投稿: ゴッドマー | 2008.06.23 05:47