[書評]江戸時代(大石慎三郎)
先日のエントリ「極東ブログ: [書評]江戸の経済システム 米と貨幣の覇権争い(鈴木浩三)」(参照)を書いた後、江戸時代の経済史をもう少し概説的に考えてみたいなと思い、同書に参照されている「江戸時代(大石慎三郎)」(参照)を読んでみた。
江戸時代 中公新書 (476) 大石慎三郎 |
面白かったかというと面白かった。率直なところ当初予想していた、江戸時代の経済史の大枠のような部分は自分ではそれほどよくわからなかった。銀の流出もそれが生糸のためであり、女性の華美な着物にあてられたという説明も間違いではないのだろうが、関連する考察はやや皮相というか全体像が見えづらい。総じて各種のエピソードは面白く、そのエピソードが暗示する部分に全体象のイメージはあるのだが、もどかしい感じはした。個人的には個別のケーススタディとして言及されている、信州佐久について、そこが自分の祖先に関連する部分があるので興味深かった。
江戸における女性の人口などいくつかこの話は知っているなというのがあって、自分がなぜ知っているのか思い出し、そして杉浦日向子のことを思い出し(参照)、少し悲しい気持ちになった。
本書の中心的な課題ではないのだろうが、「はじめに」の次の指摘は、いろいろ考えさせられた。なぜ江戸時代を自由に問うのかとして。
その第一は、江戸時代(または近世)とは、本当の意味で庶民の歴史がはじまった時代である、ということである。天皇制の古さを強調するために故意に無視されてきたきらいがあるが、わが国における庶民の歴史は、普通漠然と信じられているほど古くはないのである。というのはつぎのような意味からである。
ここで、日本史を問うとき、邪馬台国がどうたらという国家の始まりが近代の人々の関心になるのだが、というくだりがある。大石は、しかし、そうした国家起源に歴史は、実際の日本人の祖先という意味での歴史像には結びつかないとしている。
天皇家だとか藤原家といったごく特殊な例を除いて、今日の日本社会を構成している一般市民の家は、九九パーセント以上の確率で歴史的に自分の祖先をたどってさかのぼりうるのは江戸時代初頭まで、もう少し無理をしても戦国時代末までなのである。
これは自分の祖先を以前調べたときもそうだった。私は武家、そして曾祖父は近衛兵でもあり、それなりに家系図があるのだが、戦国時代末あたりでどうもぼやけて、その先は源平の伝説に融合している。逆にいうと、源平の伝説というのは、中世日本のかなり重要な部分だろうとは思うが。
「Ⅲ 構築された社会、2 近世城下町の成立事情」の蜂須賀小六のところで述べたように、そのなかから近世大名および武士階級を生み出した室町末期の在地小領主層でも、その素姓は正確にはわからないのである。ましてその在地小領主のもとで、半ば奴隷的な状態で支配されていたわれわれ庶民大衆の祖先のことがわかろうはずはないのである。
これは実感してそう思う。そして仔細に家系を見ると、家の名を継いでいるものの、血統はさらにわからない。ただ、うっすら血統のシステムが存在していることはわかるので、なんらかの血統の連続性のようなものはあるのだろう。
さらに私事になるが私は三〇代半ばから四〇代半ば沖縄で暮らし、この、民族と言ってもとりあえずもいいだろう、琉球の人々の庶民史を考えたが、私の印象では室町時代の庶民がここで連続している印象を持った。
明治時代の民俗学は日本民族起源に沖縄を想定することが多いが、実際の沖縄の歴史は日本の室町時代、特に、和冦や浄土教や習合した神道と海洋民に関連している。いわゆる中国的な琉球王国は、華僑が交易のために、でっちあげというのはなんだが、虚構化したというか、東アジアにありがちな華僑文化の一環にも見える。もちろん、こうした私の印象はごく私見であり、通説からはトンデモの部類だろう。ただ、琉球史を見ることで、日本史というものが、室町的な原形の連続(琉球)と、非連続(本土)という文化があるように思えた。そして、奈良時代以前のいわゆる古代というのは、こうしたその後の庶民史的な日本のコアからするとむしろトリビアルな位置づけになるのではないか、とも思った。
本書を読みながらまたいろいろ思ったのだが、さらに私の家系が武家といっても、それは父系の一部であり、実際の私に至る各種の人々の生きた歴史ではないし、特に、女たちがどのように生きていたのかというイメージはわからない。
本書の次の指摘は当たり前といえばそうなのだが、自分の史観には痛烈な批判にはなった。
在地小領主が戦国大名にまで成長した段階でだした領内統治のための法である分国法には、多くの場合子供の配分のルールを決めた項目がある。それは主人の違う男女のあいだに生まれた子供の配分であるが、たとえば、「塵芥集」では男の子は男親の主人が、女の子は女親の主人が取ることを決めている。また「結城家法度」ではそれが原則ではあるが、一〇歳、一五歳まで育てた場合には、男女とわず育てたほうの親の主人がその子供を取るべきだと既定している。
こうしたことを知っていたか知らなかったかといえば、うっすら知っているのだが、うまく子供や、その男女のイメージに結びつかない。いずれにせよ、子供は労働力や、端的にいえば商品としての価値があり、それを育てる環境が存在するのだが、その多様性がよく見えない。主流は、女の家だろうとは思う。あるいは女集団なのだろう。その歴史的なイメージが自分にはまだ大きく欠落している。
本書、大石はそうした私の考えとはやや違う方向でこう問う。
このことはまだ庶民大衆の祖先たちは、この段階では夫婦をなして子供まであっても、夫は甲という在地小領主の隷従者であり、妻は乙の隷従者であるというように、夫婦が家族とともに一つの家で生活するという家族の形態をとっていないことの反映である。つまりわれわれ庶民大衆が家族をなし親子ともども生活するようになったのはこの時期以降、具体的には江戸時代初頭からのことである。
その推定に間違いはないだろうが、むしろ家族より、家族ではない子供の所有・育成のシステムが重要だろうし、実質、江戸時代でもそれは機能していたのだろう。
このあたり、江戸時代以前の日本人、江戸時代以降の都市・非都市の日本人が、どのように子供から生育し、また男女がどのように子供をなしていたのか、いくつか基本的なモデルが自分には見えてこない。たぶん、民話などに反映しているのだろう。恐らく、近代が作り直したものではない民話というのを、総体的に探るイメージの研究は重要になるのだろう。
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