[書評]グーグルに勝つ広告モデル(岡本一郎)
ブロガーのR30さん(参照)が久しぶりにエントリを書かれていて、しかも書評。良書らしいので、「グーグルに勝つ広告モデル マスメディアは必要か(岡本一郎)」(参照)を即ポチっと買って読んでみた。
![]() グーグルに勝つ 広告モデル |
今日存ずるとも明日もと思うことなかれ。死の至ってちかくあやふきこと脚下にあり。
孤雲懐奘『正法眼蔵随聞記』
間違いとまではいわない。が、筆者はこの言葉が懐奘によるものではなく、道元の言葉を懐奘がパーソナルに書き留めたことを知っているだろうか。つまりこれは道元の言葉だ。孤雲懐奘『正法眼蔵随聞記』とは、孤雲懐奘編『正法眼蔵随聞記』の意味だ。そして、この引用は岩波文庫に収録されている和辻哲郎校訂であることを知っているだろうか。これはその四の八の部分で、書き写しに一点誤りもあるというか、文語に「至って」がないことはケアレスミスかも知れないが編集者にも素養がなかったかもしれないなという疑念もある。和辻哲郎校訂の原典は江戸時代の改訂である面山本であり曹洞宗はこれを使っているし私もこのバージョンが好きだが、今日ではより原典に近い長円寺本が研究され、この部分も微妙に違っている。しかしそうした細かいこともだが、この道元の言葉がどのような文脈に置かれていているかを理解したうえで、地上波テレビ局の衰退の章に置いのだろうか。原典の文脈を外したコラージュということなのかもしれないとしても、あまりよい趣味とは言えないだろう。古典というのは半可通がもてあそぶものではないとまでは言えないが、それをちりばめるのではなくその知恵の本質を血肉に変えて自分の文章に織り込んでいけばいいのに。
用語もときおりあれと思った。「取引コスト」で。
CMスキップに対する対抗策として、番組中に広告商品を露出させる広告手法=プロダクトプレースメントは、なぜうまくいかないのか、という問いですが、これは「取引コストが高くなりすぎる」というのがその答えになります。
というように「取引コスト」が出てくる。経済学の意味かなとちょっと首をかしげると、こう続く。
日本のテレビ広告市場は、年間2兆円を超えています。統計を見るとテレビ広告の一回の取引単価は0・2億円弱ですから、年間で10万回の取引をやっているということになります。
ということで、「取引コスト」は経済学の意味ではない。もちろん、こういう文脈で「取引コスト」を使うことが間違いとも言えないのだが、一瞬戸惑う。
内容にも関わるのだが、次のような話も、どきっとする。
マスメディアは非常に完全性が強い業界で、不完全なサービスをパイロットすることを非常に嫌がりますが、新聞社には購読世帯というコネクティビティの強い顧客が数百万人単位でいるわけですから、これを活用しない手はないのではないでしょうか。
いちおうそういう側面からの提案も理解できないわけではないが、「新聞社には購読世帯というコネクティビティの強い顧客」というとき、現実の娑婆では「新聞はインテリが作ってヤクザが売る」といった放言が聞かれることを筆者は知っているだろうか。知っていて捨象したのだろうか。しかし、この娑婆の部分にこそ新聞社が抱える大きな問題があることは、新聞以外のメディアからはもう白日の下にさられているに等しい。というあたりの齟齬感は読者の意見が違うというべきなのか。
話が散漫になりぼやきばかりで申し訳ない。が、率直にあれ?と思ったことを続ける。例えば、クリエーターには、メディアの枠組みとコンテンツの両方を進化させる能力が問われるとして。
そう考えていくと、技術とコンテンツの組み合わせをどういうタイミングでリリースしていくのか、というのが、非常に重要な論点になってきます。
それは理解できるし、この先に、YouTubeが成功したのは技術的な条件が満たされるタイミングがj重要だとするのも理解できる。で、そこで、あれ?と思うのは、「6章 オンデマンドポイントキャスト事業の提言」で、テレビに対する視聴者のニーズは「タイムシフト」と「編成権」だとして、さらにかみ砕いて「見たいときに、見たいものを、見たい部分だけ、見たい」とし、さらに「とにかく前に動かす方向で議論を進めてほしい」「まずは始めてしまうことです」としているのだが、単純にオンデマンドは、先の技術の条件からすると、どのように技術的に成立するのか疑問に思える。インターネットは端的に言って無理だから、NGNが暗示されているのだろうか。そしてそれはNHKのようにさらなる有償モデルなのだろうか。
こうしたあれ?あれ?というのが積み重なってふと気が付くと、本書の全体も見えづらくなり、大枠にも、あれ?という印象が深まる。例えば、テレビ、新聞、雑誌、ラジオといったマスメディアはアテンションを卸売りするモデルであり、ヤフーもそうだが、グーグルはインタレストを卸売りするモデルだというあたりだが、まったく理解でないわけでもないだが、それが書名の「グーグルに勝つ広告モデル」というコンプトとどう整合するのか。単純に考えれば、日本の広告業界ないしマスメディアが、グーグルのインタレスト卸売りモデルを超える可能性として理解できるだろうし、広告の打ち方のターゲットを絞れとしているのはその一環でもあるのだろうが、具体的にどうグーグルを超える広告モデルができるのかは見えない。そのうちに、マスメディアの存続に話題が流れていくようにも見える。
マスメディアの例として新聞の存続では、インターネットの対比から、新聞では「オピニオン軸での差別化」や「マイクロエリア/嗜好(しこう)軸での差別化」が出るのだが、ここでも、「あれ? それはむしろブログやSNSのほうが強いのではないか。そしてだからこそ、グーグルは検索エンジンにブログへのバイアスを高め、そしてSNSへの追撃を狙っているのではないか」などと疑問が湧く。
さらにグーグルが語られているわりにそれを含んだ昨今のグローバルな広告の問題には触れていないように見える。あえて触れていないのだろうか。
オンデマンドポイントキャストは通信を用いますから、クライアントごとにダイナミックにコンテンツを切り替えることが、技術的には可能になります。この特性を利用して、視聴者一人ひとりのプロファイルに基づいたターゲッティング動画広告を展開かできないか、というのが、筆者の考え方です。
という考えがこそ、このグーグルがこの一年EUで起こしたすったもんだに深く関わっていた。結局グーグルはその逆にプライバシー強化として市場を安定させる方向で進もうとしている。
なんだか難癖を付ける話ばかりになったが、ある意味でコントロヴァーシャル(controversial)であることが本書の価値であるかもしれない。
最後にもう一点、私はメディアはむしろ人に従属すると見て、そこからマスメディアや、マイクロトレンド的な視点を持つほうがよいのではないかと思う(というか本書の大半はマイクロトレンドで解けるようにも思えた)。そうすれば、セブンイレブンの商品棚もメディアとして扱えるだろうし、具体的に新聞などについては、戸配よりもセブンイレブンに吸収させてしまうほうがいいだろうといった視点も開ける。つまり、セブンイレブンのようなコミュニティ的な場そのもの(SNSなども含めて)が、広告対象のピンポイントメディアになりつつあると考えている。
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コメント
どうもこんにちわ~
広告業界の人間ではないワタクシには、横文字の専門用語が結構、しんどかったのですが
それでも1時間くらいで読了することができました。
一番面白かったのは音楽の話で、中世のクラシックがあれば、最新の音楽が必要ないというところ。
音楽以外でも過去のコンテンツが最新のコンテンツより勝ってしまうと
クリエーターは必要なくなり、コンテンツをまとめる人間が求めれれてくるのかも。
まぁ、それも夢がなくて寂しい気もしますが(苦笑)
ではでは、また遊びにきますね~
投稿: ゆきんこ | 2008.06.14 11:06
「正法眼蔵随聞記」を取り上げて頂いたので、このエントリーで仏教の話をさせてください。
わたしは、日蓮様の「日蓮大菩薩」、「立正大師」という称号が皇室から下賜して頂いたものであることを最近まで知らなかったのです。日蓮様に対してずいぶん非礼であったなあと反省しております。
別に、日蓮様や日蓮様の信者の方々を茶化しているわけではないことは文面からご理解いただけると思われるのですが、現在は21世紀ですから、「日蓮大菩薩」、「立正大師」に対応するサンスクリットの称号も考えても悪くなかろうと思われます。
間違ったサンスクリットかもしれませんが、
Mahabodhisattva Suryapundalika
とすると、「太陽と白蓮の大菩薩」という意味になると思われます。
また、Saddharma Maharsi とすれば
「正法の大仙人」という意味になると思われます。
あんまり勝手なことをすると、皇室に対しても、日蓮様に対しても失礼に当たると思われますが、サンスクリットの称号やチベット語の称号も考えたほうが海外向けには日本仏教を普遍化できるのではないかと思われます。
私は、チベット語はまったく知らないので、チベット語で「日蓮大菩薩」、「立正大師」という称号がどう訳出可能かはわかりません。
私は日蓮様の信者ではありませんが、私の信仰は法華中心であり、私は天台大師を尊崇するものなので、日蓮様には深い敬意を抱くものであります。
サンスクリットの日蓮様の称号を無理やりしつらえることを試みるというのは、私にとっては現在あたうる限りの日蓮様に対する今までの非礼のお詫びです。
投稿: 称号の話 | 2008.06.19 08:13
以前は、曹洞宗大本山永平寺では、朝課に「十一面観世音菩薩随願即得陀羅尼経」の中の随願即得陀羅尼を挙経していたことが坂内龍雄先生により紹介されています。永平寺の守護尊の白山妙理権現は本地が十一面観音であるとのことです。
私は曹洞宗の信者ではなく、白山神社の氏子でもないのですが、じつは、毎朝「十一面観世音菩薩随願即得陀羅尼経」を、漢文音読と訓読で挙経しております。
このお経は、大部分が四言が一句となって連なっている美しい韻文のお経なので、私はこのお経が大変好きなのです。
白山権現様の陀羅尼は、湯島天満宮男坂直下の天台宗の心城院さんでも唱えることを勧めてくださっています。このお寺さんは十一面観音様をお祀りされているお寺さんです。
投稿: 朝課 | 2008.06.19 08:27
坂内龍雄先生の「真言陀羅尼」によれば、天台智者大師の「懺過法(けかほう)」なるものがあるということです。
天台大師の「摩訶止観」に法華三昧が記されているということで、法華によって三昧に入る行法として十の科段が説かれているということです。
その後、宋代に、それに基づいて天台山国清寺で「観音懺法(かんのんせんぽう)」なるものが確立したということです。
天台大師の時代には密教の知識があまり入ってきていないらしくて、天台大師ご自身は密教をご存知でなかったようですが、そうであっても、天台大師は理知的であるばかりでなく、スーパーオカルティストでもあったそうです。
そんなわけで、東密でも、台密でも、一流の行者はともかく、二流三流の行者は、技能的技法的な表面的なことばかり夢中になっていたので、「摩訶止観」をおそらく全文暗記されていた日蓮様から見たら、「まったく背後の哲理がわかっていない」と思われてそういう行者たちをせせら笑っていたのかなとも考えています。
そうは申しましても、わたしは、密教を否定しませんし、ましてや「真言亡国」などとは考えていませんが、人間というのは、往々にして、応用ばかりに目が行って、基本的なコンセプトの概念構築を怠るものだとは考えています。これは自分も含めてです。
投稿: 密教以前 | 2008.06.19 08:58
小室直樹先生の「ロシアの悲劇」と「昭和天皇の悲劇」の両方が手に入りましたので、ギリシャの形式論理と大乗仏教の論理の図式的比較が可能になりましたので、紹介します。
まず、ギリシャ的形式論理。
これは、「契約」の概念を例にとって、小室先生は次のように説明してくださっています。
欧米では、「契約」とは、「結ばれた」か「結ばれていない」か明白で一義的でなければならない。また、契約は、「守られた」か「守られていない」かそのいずれかである。いずれの決定も、徹底的に二分法的である。
一方、大乗仏教の論理は、これを小室先生は、唯識論の「論理」とされています。ただ、唯識論は、論理学というより心理学なので、より正しくは中論の論理ではないかと思われるのですが、しっかり確認しておりません。また、唯識論の教えに従って、八識を四智に変えて六神通が得られれば、量子論理より優れているかもしれない大乗仏教の「論理」を自由に駆使できるようになるのかもしれません。
長い前置きでしたが、その唯識論の「論理」を小室先生は2・26事件を例にとって次のように説明してくださっています。
(2・26事件の)決行部隊は、尊皇義軍であると同時に反乱軍である。また、尊皇義軍でもなく反乱軍でもない。それらの命題がすべて成立する。記号論理学上はありえない。だが、それが成立するのが2・26事件。
別の言い方をすれば、決起軍は反乱軍である。でも、反乱軍であると同時に反乱軍ではない。さらに、決起軍は反乱軍でもなく、反乱軍でないのでもない。
こういうことが成立するのがギリシャの論理と異質な大乗仏教の論理だそうです。
論理というのは、元来愚鈍なものだそうですが、こういう、大乗の論理も自由に使えるようになると、量子論理コンピュータが出現しても、人間様の知性のほうがITインフラの知性にいつまでも負けないですむ可能性があるというそういう話のつもりです。
そういうわけで、八識を四智に変化させる唯識論の教えは今後、ITの進歩を人間が有効活用する上で有益かもしれないのではないかというところです。
投稿: 形式論理と大乗の論理 | 2008.06.19 09:25
「類比」、「類比推理」という言葉は別のエントリーで使ってしまった言葉ですが、この言葉は、どうも出発点は、チョムスキーが作った(使った)表現の訳語であるらしくて、トマス・アクィナスやエドワード・コークや今西錦司先生の論法の説明のためには不適切な表現で、単に「類推」という表現をしたほうが素直なようです。背景を知らずに不用意に使用してしまいました。でも、論理学的には精密な表現であるみたいです。
岩波全書の「論理学入門」で「類比推理」という述語が使われていたので深い考えも理解もなく使わせてもらいました。この点を釈明いたします。
それがきっかけで、よく調べてみると、「ランダムハウス英和大辞典」によれば、名詞のanalogueとは、「類似性を持つもの」、「類似物」という意味で、語源はギリシャ語のanalogosで、「調和した」という意味に近いそうです。また、形容詞のanalogは「相似型の」という意味で、連続的な変化量を表示することを言うそうです。
一方、digitalとは、「指の」という意味が「計数型の」という意味に転用されてanalogの対語になったそうで、語源のラテン語のdigitusは「指」という意味だそうです。
digitalとは、0と1による2値論理でなくても計数型ならdigitalであって、大乗仏教の「論理」のように、ある命題が「真」、「偽」、「真と偽が同時に成立」、「真と偽が同時に不成立」、「真と偽が同時に成立し、かつ、真と偽が同時に不成立」という判定がなされる、いわば、こじつけていえば「5値論理」による推論の場合であっても、計数型で表示できればdigitalでありうるようです。
量子論理は、どうも、原則的には、命題は、「真」か「偽」に判定されるけれど、「真と偽がともに成立する」と判定される場合も含むことができる論理であると理解しています。ただし、これは誤解に過ぎないかもしれません。
大乗仏教の「論理」と量子論理のこういう通俗的な説明には根本的な誤りがあるかもしれませんので、どうか、これは説明をわかりやすくするための方便を用いていると思ってください。
投稿: 「類比推理」 | 2008.06.23 07:37
だいぶ重箱の隅をつつきすぎな気もしますが…
タイトルはインパクトありきで中身とは必ずしも一致しないもの、
というのは最近の新書の兆候で、もはやそういうものでそれでいいのだと私は思います。
タイトルとどんなに合って無くても、
内容がよければタイトルに対する違和感も感じないだろうし…
投稿: | 2008.06.24 17:19
また細かな話をしてすみません。
私は日蓮様の全著作を読んだわけではないのですが、主著については、不思議と、日蓮様は、華厳仏教の大黒柱ともいえる賢首大師法蔵菩薩のことを悪く書いていないのです。むしろ、賢首大師に言及することを無理に避けているかのように思えます。不思議に思われました。
また、大曼荼羅本尊には、「南無龍樹菩薩」とあります。日蓮様は、龍樹菩薩の、「勝義諦」と「世俗諦」、「言語の仮設作用」という考え方は受け入れているのかと、これも疑問です。
でも、なぜ、賢首大師と龍樹菩薩は受容できるのに唯識と浄土を徹底否定できるのか。穿鑿しても仕方ないことだけれど、危うい橋渡りだなあと思われました。
天台大師と賢首大師の権威は、日本では後の時代まで甚大なようで、富永仲基も「出定後語」で、天台大師と賢首大師の学説をともに誤りとする文章で、両大師を並称し、鈴木大拙禅師も「日本的霊性」の中で智者大師と賢首大師はとても優れているけれども、学説がインドくさくて中国で根がつかなかったようだといった知見を示しました(鈴木禅師の考えは歴史に対する無知が原因であると考えます。中国では、唐の武宗の会昌の廃仏で、仏典がほぼ全滅してしまったそうです。それで、天台大師や賢首大師の思想をその後まともに継承できなくなってしまったようなのです。)。
朝鮮仏教は華厳中心なので、賢首大師は朝鮮仏教の最大の権威であったはずです。
そのようなわけで、鎌倉時代に賢首大師を真っ向から否定することは、ほとんど不可能であったのかなあなどと考えもしたのです。
投稿: ??? | 2008.06.30 06:27
日本国の国家誕生の幼児体験を考えると、遣唐使の僧道昭は玄奘三蔵法師の直弟子であり、東大寺で華厳教学を講じた新羅から渡日した審祥は賢首大師の直弟子であり、伝教大師も還学生(げんがくしょう)となって天台山国清寺で学び、天台教学に加えて禅と浄土と密教まで持ち帰りました。
これが、信じられないほどの好条件の日本の国家としての幼児体験です。
中国は、高い文化を持っていたのに、唐の武宗が会昌の廃仏をやって、後に新羅から華厳仏典を貰い受けねばならないくらい仏典がなくなってしまったみたいです。
この会昌の廃仏をそそのかした道教の道士たちなどというのは、現代でいえば、きわめて過激なスピリチュアルカウンセラーの一団みたいなものだろうと思っています。
朱子学(宋学)は、いうならば、ある意味では儒教の形態をとった華厳仏教の再生運動ともいいうる側面もあるようです。(金谷治先生の「易の話」(講談社学術文庫)に少し触れられています。)これが中国で起こってしまったこと。
ヨーロッパのカトリックの神学者、法学者で、直接アヴィケンナやアヴェロエスにアリストテレス哲学を学べた人たちなどいたのだろうかと思います。また、アヴィケンナやアヴェロエスの著書をラテン語訳してあげたのもイスラムのアリストテレス哲学者だったかもしれません。中国で仏典の漢訳をした法師たちは、初期の人々は多くはインドから中国にやってきた人々であったことが想起されます。
伝教大師の政治思想は、西尾幹二著「国民の歴史」によれば、「一切衆生の平等を主張し」、「奴婢にも仏性を認め」、「隼人や蝦夷をも公民化」するという、きわめて開けたものだったそうです。
日本のほうがヨーロッパや中国よりはるかに条件がよかったようです。
ヨーロッパの封建社会は西ローマ帝国の版図に西ローマ帝国の滅亡後に作られました。日本の封建社会は唐帝国の植民地の版図に唐帝国が滅亡してから作られたのではありません。
ヨーロッパや中国と日本を比較することはよいことだと思いますが、ヨーロッパや中国のものさしで日本を図るべきではないと考えます。こちらのほうがはるかに条件がよいと思って間違いないようなのです。
投稿: 少し踏み込むと | 2008.06.30 06:53
もしかしたら、賢首大師の教えを否定してしまうと、天台大師の教えの最も重要な部分も否定することになってしまうのかもしれません。
ただ、天台大師の教えと、賢首大師の教えを詳しく比較してないので、思い付きみたいな話をしているのですが。
賢首大師の教えは、間違いなく唯識論と深い関係があるはずで、天台大師は、「摩訶止観」のなかで龍樹、天親(世親のこと)を並称して言及しています。
何を言っても素人考えに過ぎませんが、とりあえず知る範囲での推測を書き込ませていただきました。
投稿: 「???」の補足 | 2008.06.30 10:01
日本では、般若心経が一番ポピュラーなお経で、これはなんといっても弘法大師が「般若心経秘鍵」を著作されて、般若心経の密教的解釈をされたというか、般若心経は密教の経典であるとされたということで般若心経は霊験あらたかなお経であるという評価が確立したのだと思われます。
後に、白隠禅師が「般若心経毒語注」を著作されて、般若心経は禅宗の代表経典であることも確立され、悟りに導く経典でもあるということになっているのだろうと思われます。
それで、さらに般若心経を調べたのですが、すごいすごい、南都仏教でも般若心経は重要聖典なのです。
岩波文庫の「般若心経 金剛般若経」の 「般若心経」解題 を読むと、普通に用いられている玄奘三蔵法師漢訳般若心経には、法相宗の宗祖の慈恩大師も「般若波羅蜜多心経幽賛」という解説書を著作されているし、華厳仏教の大成者の賢首大師も「般若波羅蜜多心経略疏」という解説書を著作されているのです。
般若心経は、筋金入りの大乗仏教の聖典です。
そんな訳で、なぜ薬師寺管長の高田好胤先生が般若心経のお写経勧進に力を入れられ、般若心経普及に努められたかに納得したというところです。
それから、金剛般若経ですけれども、これも、天竺三蔵鳩摩羅什大師漢訳「金剛般若波羅蜜経」には、天台大師の「金剛般若経疏」、慈恩大師の「金剛般若会釈」、わが国の弘法大師の「金剛般若波羅蜜経開題」といった重要な解説書がある立派な経典ですが、なんと言っても金剛般若経はあまりに長くて素人向きではありません。
素人は、般若心経を読誦するのがとてもよいようです。
なお、般若心経は、大切なのは、「ギャーテー、ギャーテー」の御真言以外は、とにかく、理屈をこねずに、「無」、「無」、「無」、「無」というようにとにかく、「無」を連打して発声していれば、お経の本旨にかなうようです。
サンスクリット原典の般若心経でも確認しましたが、こちらも、立て続けに、naが並んでいます。おそらく、サンスクリットのnaは、英語のnoかnotぐらいの意味だろうと思われます。
何であれ、唯識でも、華厳でも、密教でも、禅でも重要な経典なのだから、般若心経にはものすごく功徳があるはずなのです。
投稿: 般若心経と南都仏教 | 2008.07.16 06:52
瀬戸内寂聴長老尼がどうやら「ぱーぷる」というペンネームを併用されていらっしゃるらしい。どうも、「ぱーぷる」とは、紫式部の「紫」をもじってらっしゃるらしい。
べつに「ぱーぷる」、"purple"、悪いんじゃないですけれど、これは、「瀬戸内晴美」先生名義で用いてほしい用語法と思われます。
漢籍の読破については博覧強記であられた今春聴和尚の門人であられるのだから、ここは、ひとつ、ひとひねりして、ラテン語の「紫」の"purpura"を用いられるとか、さらにひねりを加えて、英語の"dressed in purple"(「紫色の衣装を着用」)のラテン語表現である、"purpuratus"を用いられるとか、古典文学に対応する格調とでもいうべきものを表現に持ち込んでいただければ、冥界の紫式部にも喜んでいただけるのではないか、とはたわけた弱輩の思料する次第。
瀬戸内先生には、あまり気分を害していただきたくないと思います。当方は無責任な話ばかりしているのだから。
「少し踏み込むと」で、伝教大師最澄上人が浄土思想を持ち帰ったと書き込んでしまいましたが、後で調べたら、浄土思想を日本に持ち込んだのは、慈覚大師円仁上人のようです。この点の事実誤認を訂正したかったので、瀬戸内先生によい機会を提供していただけました。
また、伝教大師が日本に持ち帰った禅仏教というのは、どうも、牛頭(ごず)法師の系統の禅仏教のようで、現在の臨済宗、曹洞宗のような、六祖慧能禅師以降のポピュラーな、狭義の禅仏教とは異質のものだったらしいです。この点もお知らせできてうれしく思います。
投稿: むらさき、紫 | 2008.10.16 09:10
ヨーロッパの宗教改革では、ルターやカルバンのプロテスタント運動に対して、カトリック側もイグナチウス・デ・ロヨラによるイエズス会が強力な反宗教改革運動を行ったことを歴史の授業で習うことができるのですが、日本の鎌倉新仏教の興隆という日本的宗教改革に対して、旧仏教側の反宗教改革の記述は乏しいものです。せいぜい明恵上人の華厳仏教による法然上人への対立が取り上げられる程度。
では、日本に反宗教改革運動らしいものはなかったのかというとそんなこともないようです。
イグナチウス・デ・ロヨラとイエズス会の巻き返しほど劇的ではないのですが、鎌倉時代には、華厳宗では、凝然という学匠が華厳思想の徹底的研究を行って、その後の日本の華厳思想の研究のあり方を決定するということがあり、唯識思想では、法相宗の良遍僧都が和文の唯識思想の解釈書を著作して、その後の日本の唯識思想の研究のあり方に決定的影響を与えたということがあって、日本にも日本なりの反宗教改革運動らしきものがあって、それら南都仏教側の反撃も、鎌倉新仏教のうらなりなどではなく、その後の時代の日本仏教のあり方に重大な影響を与えたそうです。
日本史学も西洋史学を模倣するなら、ここまで模倣すればいいのにねと思います。
私が西尾幹二先生の「江戸のダイナミズム」の続編の江戸時代の仏教編の著作を阻止したかったのは、この辺の事情もあって、結局、江戸時代の仏教学を本当に研究したいなら、上述の凝然、良遍といった学匠の難解な研究成果の研究をきちっとしなかったらほぼでたらめなものになるに決まっているのに、江戸時代の仏教学の傾向の話だけをして書誌的事項の整理だけして、江戸時代の仏教学の「ダイナミズム」がわかったことにしてしまわれるのがいやだったから。
富永仲基だって、かれに仏教学を教えたのは、鳳譚(ほうたん;正しくは「たん」の偏はさんずい)という華厳仏教の上人なのだけれど、「江戸のダイナミズム」では、鳳譚や普寂といった仲基の同時代の優れた学僧についてのしっかりとした説明などほとんどないはず。
わたしだって、概説と書誌的事項以外のことなどほとんど知らないけれど、とにかく、他人の土俵に上がるのはすごく難しいから、それは心して取り掛からないといけないであろうと、そういうことです。
もちろん、唯識や華厳が自分の土俵だなどと、僭越な考えは、私は一切持っておりませんが。
投稿: 反宗教改革? | 2008.11.27 09:39