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2008.05.14

奈良は中日の文化の源を同じくするシンボルです

 私は中国語がわからないのだけど、漢字の字面をつらつらと見ているとそれなりに何を言いたいかくらいはわかるというか、普通日本人はそうかな。いきなり余談だが、台湾を旅行したとき同行した日本人が旧字が読めないので、へえと思った。私は中学生時代角川文庫のショーペンハウエルとかで覚えたものだったのに。
 胡錦濤主席の訪問もつつがなく終え、それはそれでよかったのではないかと思うが、さて中国での受け止め方かたはどうだろうと、報道を見て回ったのだが、げ、日中友好トーンばっかしじゃんという雰囲気で驚いた。しかも、そのトーンがいかにダライが間違っているかの裏返し的トーンなのでさらに萎えた。しかし、そういうことにいろいろ言ってしかたないなと思って、そういえば胡主席が奈良を訪問したとき、どんな印象を持ったのか、あれかな、韓国の人のように彼らの祖先の偉大な歴史遺産に感銘を受けるの類かなと、どうかな。で、中国人もそうみたい。
 チャイナニューズ・コム”背景:文化渊源一线牵 奈良是中日文化同源的象征”(参照)をエキサイトの自動翻訳で読んでみた。表題は、「文化の源の第一線は引っ張ります。奈良は中日の文化の源(語源)を同じくするシンボルです」、はあ?だけど、ようするに奈良の古寺を見ると中日の文化の起源は同じだということっぽい。っていうか、それって、ようするに中国が起源ってことですよね、FA?


  中日文化同源,奈良是个象征。奈良在日本中南部,是日本文化的发祥地。奈良是公元710年仿照中国唐代的长安城修建的“平京城”,直到784年都是日本的首都,在74年中先后有七代天皇在奈良主政。

 中日の文化は源(語源)を同じくして、奈良はシンボルです。奈良は日本中南部にになって、日本の文化の発祥地です。奈良は西暦紀元710年中国の唐代の長安城の建造する“京城と引き分けします”をまねるので、784年まですべて日本の首都で、74年の中に相前後して7世代の天皇は奈良で統治します。


 “京城と引き分けします”は平城京の意訳かな。とはいえうろ覚えだけど、平城京という名称にはちょっとややこしい由来があったかと思ったがウィキペディアなどには書いてないな、たしか北魏の平城京ではないか。つまり、鮮卑だ。ちなみに、ちょこっとトンデモ話を書くと私は日本王朝の起源は鮮卑の傭兵ではないかと思っている。それはさておき、名前の由来からして、モデルは洛陽城かなとも思っている。このあたりについては専門家的にはすでに決しているのだろうか。
 話を戻すと「中国の唐代の長安城……まねる」として長安の模倣ということで中国的には決まりっぽい。つうわけで、日本の王城は中国のコピーでっせということだ。またちょこっとトンデモにずれるとそれでいいかもとも思う。壬申の乱というのは私は唐がしかけた内戦ではないと思うし、その結果が平城京ならそれもありかもしれない。さらに言うと、これはトンデモのつもりなく書くのだが、唐自身が鮮卑系の王朝で漢族ではない。

 唐代中国的佛学、建筑、医学、诗歌曾是日本古代文明的重要源泉。法隆寺始建于公元607年,是日本圣德太子当政时修建的。法隆寺有48座佛教建筑,其中11座建筑修建于公元8世纪前后,体现了中国古代佛教建筑与日本文化的融合。

唐代に中国の仏教学、建物、医学、詩歌はかつて日本の古代の文明的な重要な源でした。法隆の寺は西暦紀元607年に作られて、日本の聖徳太子の政権を握る時が建造したのです。法隆の寺は造る48基の仏教があって、その中の11基の建物は西暦紀元の8世紀の前後に建造して、中国を体現していて古代仏教が日本の文化との融合を造りました。


 ようするに日本の古代の文化はすべて中国様に由来するよ~んということ。
 それはそんなところだが、聖徳太子が出てくるあたりが香ばしい。そろそろ聖徳太子の実在は歴史学的にも疑問が一般化するのではないか。そして、仮に聖徳太子を認めるとして、法隆寺の様式はたしか高句麗様式。日本書紀などを読んでもこの時代は高句麗僧による歴史が基礎になっている。そしてこの時代、高句麗と隋は対立の関係にあり、というか、隋の滅亡はその対立の影響に由来するといってもよい。倭国王タラシヒコからの書簡は遊牧民族の形式で書かれており、おそらくその時代の外交を反映しているのだろう。

唐招提寺更是中日友好交往历史的见证。它是唐代高僧鉴真(公元688—763年)东渡日本后,于公元759年开工修建的,具有浓郁的中国盛唐建筑风格,已被确定为日本国宝。当时,扬州的鉴真和尚受日本留学僧之邀赴日传道,五次东渡失败,双目失明仍矢志不渝。

唐は招いて寺の更に中日の友好的な往来の歴史の目撃証言を持ちます。それが唐代に高僧の鑑真(西暦紀元688―763年)が日本へ渡ったのになった後に、西暦紀元に759年工事を始めて建造して、濃厚な中国の盛唐の建築の風格を持って、すでに日本の国宝に確定されます。その時、揚州の鑑真は僧のに日本に留学されて日本へ行って布教することを招いて、5回は失敗に日本へ渡って、両眼とも失明して依然として志を変えないことを誓います。


 「唐は招いて寺」は唐招提寺。話は鑑真和上になるのだが、失明してまで日本に文化を伝えようとした先人に胡錦濤さんは自身のなぞらえていらっしゃるのかもしれない。ありがち。
 鑑真の招聘にはいろいろごちゃごちゃした背景があり、必ずしも歴史学的な定見はないと思うが、それでも、仏教として「戒」を伝えなくてはという仏教徒の思いはあるだろう。で、日本はその戒のちゃぶ台替えしをしたし、鑑真和上に窓際冷や飯食わせたり、もうこのあたりの日本人のありかたはちょっと恥ずかしいものがありますなというのはたしかに。これは、ちょっと中国人には内緒ですな。

其后,日本古代高僧空海于公元804年到长安留学,带回大量经书,建立日本真言密宗,醍醐天皇赐为弘法大师,使佛教在日本进一步弘扬光大。

その後、日本は古代高僧の空っぽな海は西暦紀元に804年長安の留学に着いて、大量の経書を持ち帰って、日本の真言の密宗を創立して、精製した乳酪の天皇はいただいて弘法大家になって、仏教に日本でいっそう発揚して盛大にさせます。


 「古代高僧の空っぽな海」というのは案外言えているかも。「精製した乳酪の天皇」も案外体臭とかそれっぽかっとか。
 与太はさておき、空海の留学は留学か。密航とまではいえないか。いずれにせよ、留学僧はそそくさと帰国してはいけないという日本国法はさっさと無視してしまう。まあ、そのくらいの大人物だったとも言えるのだけど。
 たらたら行ってみよう。

 至今,中国传统文化精髓仍然是日本民族的精神食粮。《论语》、《孟子》、《老子》、《庄子》等译著在日本的书店中常年畅销不衰,甚至连明代作者洪应明所著《菜根谭》也成为近年最抢手的畅销书之一。

 今なお、中国の伝統の文化の精髄は依然として日本の民族の精神の糧です。《言葉を議論します》、《孟子》、《俺様》、《庄子》などの訳著が日本の本屋の中でいつもよく売れるのが衰えないで、甚だしきに至っては明朝は作者の洪応が明るくて《野菜の根譚》を書いたのさえ近年最も人気があるベストセラーの1つになります。


 「今なお、中国の伝統の文化の精髄は依然として日本の民族の精神の糧です」とのことで、それはというと、《言葉を議論します》……はてなかよ。《俺様》……アルファブロガー? 《庄子》……知らないなあ。
 「甚だしきに至っては明朝は作者の洪応が明るくて《野菜の根譚》」は、たしかに、甚だしきに至っているかもだけど、野菜の根の物語というのは、意外とよい訳かもしれない。「汪信民、嘗って人は常に菜根を咬み得ば、則ち百事做すべし、と言う。胡康侯はこれを聞き、節を撃ちて嘆賞せり」という。格差社会で成功する金言というべしだけど、あれですよ、メタボを避ければよろしという現代的解釈も可。

各种版本的《三国演义》家喻户晓,连《杨家将》也成为日本当代作家手中的创作题材。在日本,学习汉语的人不断增加,据报道现约有200多万人,仅次于学习英语的人数。

各種のバージョンの《三国史演義》は津々浦々に知れ渡っていて、《楊の家》さえ日本の現代の作家の手の中の創作する題材になります。


 各種のバージョンの《三国史演義》は横山光輝かな、《楊の家》さえ日本の現代の作家というのはソープに行けでネットで有名な北方先生でしょうか。
 そして中国語熱というのはたしかにあるかな。

回顾中日友好交往的这段历史,更加坚定了双方在新世纪构筑全面战略互惠关系,共同为亚洲及世界和平发展做出贡献的决心。

中日の友好的な往来のこの歴史を振りかえって、いっそう双方が新世紀に全面的な戦略を構築して相互に利益があって関係を固めて、共にアジアと世界平和のために発展して貢献の決心をします。


cover
楊家将〈上〉
北方謙三
 まあ、歴史を忘れるなという対象がなんであれ友好っていうのはいいことなんじゃないでしょうかっていうか、この論説、中国向けなんですよね。ちょっとなあ。

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コメント

>ちょこっとトンデモ話を書くと私は日本王朝の起源は鮮卑の傭兵ではないかと思っている。

 鮮卑の傭兵かどうかまでは分からないけど、北方騎馬系民族だろうな、とは思います。支配?階層と末端にやたらDQNが多いところとか。志向気質や文化風俗の流行り廃り具合なんかも何気に騎馬民族的だし。

 そらぁ中華とは相性悪いわい、って感じ。

投稿: 野ぐそ | 2008.05.14 19:44

岡田英弘説ですか?

投稿: | 2008.05.14 22:54

「ナラ」とは韓国語で、まさに「国」の意味です。
先に韓国朝鮮系の一族が日本に国を作り、後から中国系の人々が独自の文化を伝えたと言うのが極めて自然、正当と思われます。

投稿: | 2008.05.15 01:59

私は、恥ずかしながら、イラク戦争勃発のときも、そのときは判断を留保していて、それがアメリカの警察行為なのか、侵略戦争なのか、どちらの立場に付くのか、立場を鮮明にしませんでした。いまなら、どちらがの意見が正しかったかはともかく、イラク戦争が愚行であったことは誰でも明らかにわかることだと思います。私は、現在のところ、どう考えてもイラク戦争は愚行に過ぎなかったという立場をとっています。
中国についても、古代の中国の模範的偉人たちの話はともかく、現在と未来の中国については、将来経済超大国になるのか、それとも内部崩壊してしまうのか、どちらの意見の側なのかまだ立場を明らかにできません。
それでも、中国の近現代史を振り返ると、アヘン戦争後の洋務運動が実質的に大して中身のないものであったことが日清戦争の敗戦で世界中にわかってしまい、中共の大躍進運動の破綻の結果が文化大革命であったことが今になればほぼ確定的にわかっている歴史の前例を考えると、果たして今後の中国がかつて2回踏んでしまった轍を今度は踏まずに、社会を前向きに改良できるのか、今のところは様子を見ているところで、確定的な話は何もできないという立場を現在のところは採っております。情けない話ですが。

投稿: 様子見 | 2008.05.15 08:41

もちろんしってらっしゃるかと思いますが、庄子は荘子です。

投稿: | 2008.05.16 16:15

立場立場ってあなたの立場なんてどうでもいいと思うんですよ。
そういうのは、自身の発言が何かしら社会的影響力を持つ人間が使う言葉です。

投稿: qwerty | 2008.05.17 11:45

>「ナラ」とは韓国語で、まさに「国」の意味です。

中国の史書「三国志東夷伝(通称・魏志倭人伝)」には、西暦200年代初期に、半島や列島に国が何百もあることが記されています。そして当然、それぞれの国には、固有名詞があります(例:狗邪韓国、対馬国、伊都国など)。何百も国があったら、固有名詞をつけないと区別できませんから、それが当然だったわけです。

500年後の平城京の時代、半島にも列島にも、まだ複数の国があり、互いに名乗りあい、呼び合う必要がある。そのうちの一つの国の名称が、「国家」という一般名詞であるわけが無いでしょう。

投稿: 趣味人 | 2008.05.17 15:17

ではナラ、という固有名詞は、一体何に準拠しているのか?平らにならされた都という説があり、「平城京」という名称に「平ら」という漢字が入っていることから、完全否定も出来ない。しかし一番ピンと来たのは、印度語でナラは葦(あし)のことだという説(誰か確認出来る方がいたら感謝)。古事記で、日本の前身を、「葦原中国(あしはらのなかつくに)」としているのと、意味的に一致する。

そもそもナラは、インド起源の仏教を使って列島を国際的一等国にしようとした権力者(たぶん大陸からの逃亡者)の意図により、東大寺などが建立された様子がある。都のナラが印度語であれば、東大寺大仏開眼供養に、わざわざインドからの仏僧を呼び、大仏開眼させた事と辻褄が合う。飛鳥文化も、古代インドにあって仏教を守護した大王のアソカ王に語源があるように思える(漢字は単に当て字ですから)。

そして、仏教という宗教を、異民族統治に最初に利用したのが、北魏の鮮卑だったということで、このナラの統治者の周辺に鮮卑系の権力者の存在を感じる点で、極東ブログさんと見方が重なります。

投稿: 趣味人 | 2008.05.17 15:58

>先に韓国朝鮮系の一族が日本に国を作り、後から中国系の人々が(以下略)

鮮卑族は、モンゴル系と言われてますね。「韓国朝鮮系」と「中国系」で、その他を出さないのは、「プロパガンダ友達系」の投稿の感じがしますね。そもそも三国志によれば、「朝鮮」て、中国の殷王朝のスピンオフでしょう? 半島は、倭人の居住地でしたね。何千年も前のことくらい、現在の国家プロパガンダから離れて、自由に楽しみませんか?

投稿: 趣味人 | 2008.05.17 16:11

右翼から攻撃されるかもしれないけれど、皇室の先祖は弥生人で、朝鮮系だと言う意見がありますが、私はそうだと思いますよ。

皇室の伝統文化は韓国文化のにおいがしますね。

縄文人はアイヌ人の祖先で、弥生人との戦いに負けて北方に追いやられた??これも推論で、いろんな意見が出ていますが、全く否定されているわけではありません。

無論、日本には、多くの異文化、他民族が流れ込んでいるのは確かなようで、私は単にそれを楽しんでいるにすぎません。

知識の豊富そうな方が鼻息あらく反論を書かれていますが、結局それも推論の範囲内ですよね?

彼方の意見は、自分の結論が先にあって、それに理論を当てはめているに過ぎず、自分の意見に合わない可能性を否定しているようです。

言っておきますが、プロパガンダなど関心がありませんし、そう思うから意見を述べているだけです。

いろんな意見があって当然で、自分の意見のごり押しはやめましょう。

投稿: | 2008.05.18 07:48

>いろんな意見があって当然で、

別にいいんですよ。いろんな意見があること自体は。
ただし、その意見が、「誰かが広めているプロパガンダを無意識に引き受け」ていたり、「単なる印象や思い込み」でないよう、気をつける必要はありますよね?

そのためには、一次文献(文字で書かれた当時の記録として中国の正史の研究)と、それに対する考古学的・科学的検証、の両方を学んでみることが大切だと思いますよ。そして、それらを論拠として語るべきだと思うだけです。

投稿: 趣味人 | 2008.05.18 11:59

「思無邪」は、「論語」の注釈では「思い邪無し」と訓読されるのが普通です。でも、その後の研究では、「思」は意味のない助辞で、「邪なく」とでも訳すべきであるという話が貝塚茂樹先生の講談社現代新書の「論語」に載っています。
ただ、これは、それほど拘泥すべき問題なのかと思うのです。
「般若心経」の真言の
「ギャーテー・ギャーテー・ハーラー・ギャーテー・ハラソウ・ギャーテー・ボージー・ソワカ」ですが、これを無理にローマ字表記すると
gate gate paragate parasamgate bodhi svaha.
のようになりますが、これは、以下のように訳出できるそうです。
三人称単数呼格では、
「ゆけるものよ、ゆけるものよ、彼岸にゆけるものよ、彼岸に完くゆけるものよ、悟りよ、弥栄あれ」
とも、
「悟りよ、悟りよ、より勝れたる悟りよ、より完全なる悟りよ、菩提よ、円満なれ」
とも訳せるそうです。また、parasamgateのsamを、「完き」ではなく「ともに」と訳して、上野陽一先生は、
「ゆきゆきてともにながめん花の山」
と訳出されたそうです。
また、三人称単数於格で訳すと、
「往けるときに、往けるときに、彼岸に往けるときに、彼岸に完全に往けるときに、悟りあり、めでたし。」
とも訳出できるそうです。
昔のインドの言語を、近代のヨーロッパ人がラテン語やギリシャ語の文献を研究するように意味偏重的に捉えようとするから話がややこしくなるので、インド人は、マントラやダラニを意味より音声を重視して唱えていたというそれだけであろうと考えたほうが素直だろうと考えます。
それで、「論語」の「思無邪」ですが、これも、「思い邪無し」という意味が大切なのではなく、そのシチュエーションで、単に孔子が自分の好きな詩経の詩の一節を引用したと、その程度に考えればよいのだろうと思います。
近代の散文重視、意味伝達重視の言語観で、あまり細かに古代中国や古代インドの韻文を研究しても、かえって本質がわからなくなるだろうと、そういう意見です。
これは、今後の中国、インドとの付き合いでも、近代のヨーロッパ人が構築した考え方をいつでも無理やり当てはめないほうがよかろうという意見でもあります。

投稿: 「思無邪」 | 2008.06.10 06:53

中国に関するあまり物騒な話はしたくないけれど、中国というところがどういうところか、考える上での参考にはなると思います。

春秋戦国時代のことは諸子百家、特に「荘子」にその痛ましい状況がよく記載されています。

「三国志」は、想像力を働かせれば、劉備玄徳に正義があるなどとはとてもいえないことがわかると思います。権謀術数で敵を破滅させる知恵比べですね。

もっと後の時代だけれど、明の洪武帝は、王朝を確立した後、建国の功労者たちを片っ端から粛清しました。洪武帝は残忍非道な君主なのか?

回答は清朝の康熙帝の時代にあります。清朝の時代に、明から寝返った呉三桂らが領地を清から下賜してもらうと、呉三桂らは、三藩の乱を起こして清朝に対して反乱を起こします。この三藩の乱は東アジア世界全体に大きな影響を与えたそうなのだけれど、そのスローガンは、「明朝再興」だったのです。洪武帝は中国と中国人をよく知っていたから、天下を平定するためにはどうしないといけないのか、よくわかっていたけれど、満州族は、洪武帝よりずっと人がよかったから、後でひどく苦労してしまったということのようです。

中国とか中国人をまるっきり色眼鏡で見るのもどうかと思われるけれど、中国の権力闘争とは典型的にはこんなもののようです。

あまり触れたくないことだけれど、チベットを侵略した中共は、中国人自体にも文化大革命で巨大な暴力を行使したし、その中国が巨大な暴力を有するきっかけを作ったのは、ルーズベルトもスターリンも蒋介石も毛沢東も直接かかわりがあるけれど、日本が日華事変を起こしたことも隠しようのない原因で、チベットの問題に深く関与すると、日本もどうしても問責は避けられない。だからといって知らん振りしてよいことではないけれど。

中国史上、おそらくもっとも英明な君主の一人である明の洪武帝は、華北華中華南の地に平和と安定をもたらすため、建国の功労者たちを容赦なく大量粛清したということです。唐の太宗も、自分の親族たちと激しい権力闘争をしたはずです。太宗も自分の兄と弟を殺害しているのではないかと記憶しています。

投稿: 粛清の必然性? | 2008.12.30 07:54

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