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2008.05.12

[書評]私塾のすすめ(齋藤孝・梅田望夫)

 私などはブログの世界にいるせいか「私塾のすすめ ここから創造が生まれる」(参照)を梅田望夫対談シリーズ第三弾として読んでしまいがちになるが、二、三度読み返して、本書は基本的には斎藤孝ワールドを広げる形で読まれるというのが現在の日本の読書界あるいは出版界の妥当な位置づけではないかと思えた。たぶんその意図は達成されるだろうし、広く好意的に受容される対談になっていると評価する。

cover
私塾のすすめ
齋藤孝・梅田望夫
 うまく配慮が盛り込めないので失礼な言い方になるかもしれないが、対談の当初から斎藤孝はそういう構え(齋藤ワールドのまた一冊を作ること)でいたのだろう。多作の斎藤にしてみれば編集者から期待された著作群の拡張の一つだ。梅田もそこにビジネス的によく配慮し、齋藤の著作をよく学んでから対談に臨んでいる。
 だから齋藤ワールド的な滑らかな対談の流れが想定されるはずなのだが、実際の対談は梅田の情熱の側に歪むというか引きつけられトーヌスが発生している。齋藤は梅田からの問い掛けに、従来どおりの齋藤ワールドで答えつつも微妙なズレのところで引き返し、また梅田が問い掛けるという波がこの対談にはある。
 両者とも対談に手慣れた人だし、おそらく編集の阿吽もあってそうしたズレのような部分は表面的には見えにくい。対談書としての基本的なテーマ「私塾」にもうまく統合しているかに見える。さらに梅田は「おわりに」で二人が共通して戦っているものという統一的な視点を明確にして見せる。
 だが私はこの対談では、そうした対談の意図からのズレに関心を持った。本書の「私塾」はブログの世界に関わっているが、齋藤はその世界について調和しない。何が齋藤ワールドとブログの世界を調和させずにズレを残すのか。何が梅田を執拗にズレに押し出していくのか。
 齋藤の側のズレを責めるわけではないが、そのズレはネットの世界で可能になった、発言する個人なり、開かれた「私」の問い掛けの強さによるものだろうし、梅田の情熱はそこに根をもっている。また、そのズレは、プライベートと、出版的かつ公的な発言の関係に、本来的に潜んでいたものでもあるだろう。そのズレはネットの世界で増幅された。ネットがなければそのズレは見えなかった。
 対談に潜むズレは、微妙に50代に向かいつつある男の生き方に関わっている。性的な関係性に転機を迎えた中年の男の、「夫」あるいは「父」という、「私」から疎外された意識は、現在の状況ではある種のズレを持たずにはいられないからだ。たぶんこの対談は、40代の「父」であり「妻という女に対する夫という男」に、こっそりとだが強く揺さぶるものを持つのではないだろうか(もちろん「女」にも)。
 下品な切り込みになるかもしれないが、二人の次のような対話にそうしたズレの顕著な事例を私は見る。齋藤が「暗黙知を共有しているときに幸福感を味わえる」とした文脈のなかで、梅田はやや唐突に「夫婦」を問い掛ける。将棋や碁の感想という話についてだが。

齋藤 感想戦ができるということじたい、幸福なことですよね。すごく濃密なやりとりを非言語的におこなっていて、それについてあとで、言語的にふりかえることができるというのは。そういう濃密な関係性が築けることは素晴らしいことだと思います。
梅田 ご夫婦もそうですか?

 引用はあたかも夫婦関係の語りの文脈が滑らかに流れたかのようだが、実際の対話の文脈では、たとえば齋藤にしてみると濃密な関係に言及しながら、夫婦は想定されていない。まして齋藤にしみれば彼自身の夫婦関係が問われているようには理解していない。もちろん、この梅田の問い掛けに齋藤がそれほど違和感であったわけでもなく、武道の受け身のようにさらりと齋藤はこなしてはいる。

齋藤 これまでの会話の累積量が多いので、僕が言いそうなことはたいてい予測ついていますね。

 齋藤の簡素な「妻」語りは、中年の夫なら当たり前のようでもあるが、夫婦という関係性が、過去の会話の累積性として描かれていることは興味深い。逆に言えば、夫婦というのは齋藤にとって過去の会話の関係なのだろうかという疑念もある。予測可能な既知の関係性は、「濃密な関係性」とは当然あるズレを持つ。
 梅田はそのズレを感受したかわからない。流れるように、自身の文脈でこう続けていく。

梅田 うちも、アメリカに来てからの十四年で、ふつうの夫婦の一生分の話をしたね、一生分一緒にいたねとよく言い合っています。お互いに打つ手がすべてわかってしまうほど。

 私はあえてここで引用継続せず、梅田の対性と齋藤の対性の差異のようなものを少し感じる。
 齋藤はさらにこう受ける。

齋藤 一緒に暮らして二十年にもなると、あらゆる生活習慣を共有している。そうなると「いい悪い」という段階を超えますね。関係性の歴史というのは、暗黙知が積み重なれば積み重なるほど、言わなくてもわかる部分が増えて楽になる。だから、つい、仕事のパートナーでも慣れた人とやってしまいがちになります。ときどき、新しい人で勘のいい人が暗黙知を吸収すると、そっちにくっつきたくなりますね。

 細かいことを言えば齋藤は「暗黙知」を理解していないが、さし当たって問題ではない。私がここで注意したいのは、齋藤が二十代の結婚であるということと、恐らく学生結婚であることだ。さらにその関係が二十年後の今「ある段階を超えている」ことと、文脈が夫婦関係の深淵から、やや軽薄な印象を伴って仕事の関係に置換されていくことだ。
 梅田はたぶん齋藤の話に同感しながらも、人によって夫婦関係は違うものだろうしと流しているのだろう。だが、梅田の夫婦というものへの了解は齋藤のそれとは違っている。違いは両者が思っているより長い影を引く。たぶん齋藤には成人されたお子さんがあるだろうが、梅田には子どもはいない。その見えづらい差は同じように「私塾」と「子」の問題に反映されるのだが、それは問題の多面性を表出させるより、たぶん同じような年代にある「男」に重く問い掛けてくる。
 梅田が切り出した夫婦関係的な問題意識はしばらく対話が進んだあと、さらにまたひょっこりと蒸し返される。

梅田 自営の会社を始めて、あるときフルタイムの人を雇わなくなってから、自分の時間を完全に自由に使えるようになりました。人に会うのも好きなんだけれど、一人でいるのも好きだし、飲みに毎日行きたいという気持ちがある一方、引きこもっているのも好きです。過去のある時期は毎日飲みにいくような生活をしたから今はこっち、という振れかたに近いです。会社でみんなでわーわーやりたい、というのもあるんだろうけど、一人のほうがいい、という気持ちも両方ある。僕の妻は、淡々と一人で何かをずっとしているというのが好きな性格で、彼女のスタイルからずいぶん影響を受けた気もします。
 ところで、齋藤さんは、奥様から影響を受けていますか?
齋藤 受けていますね。僕は攻めを中心に考えるタイプであまり守りを考えないので、デフェンス面を補ってもらうという感じですね。
梅田 女性のほうが危機察知能力があるんですよね。僕は独立をするときに、最初、三人で会社をつくろうと思ったんです。アメリカ人一人と日本人一人と僕と、三人でチームを組んで、前の会社の中でかなり大きいビジネスをやっていたので、そのまま三人で会社を始めるという案があった。妻と相談したら、「一人でやるなら賛成、三人なら反対」と言われて、一人で独立することにしました。まったくもって正しい判断だったと思って、感謝しています。大きい判断については『君について行こう』の向井万起男先生の感覚に近いです(笑)
齋藤 大きい判断は当事者がすべき、という考えもありますが、勢いがあまっているし、人間関係にまみれているし、そういう事情を離れて客観的に見ることができにくいということがありますね。判断のスケールも、人によって得意不得意がありますね。僕は、仕事を受ける、引き受けないみたいな日々の細かいことについての判断というのは苦手です。

 あえて齋藤の受けまで引用した。梅田の「ところで、齋藤さんは、奥様から影響を受けていますか?」という唐突感と、梅田の自分語りに齋藤が実際には答えていないズレが興味深いからだ。
 齋藤は、「大きい判断は直接的な人間関係から離れた客観性が大切」という性の含みのない文脈にしているのだが、梅田の話では「妻」という、ある意味でもっとも深い関係性のなかで問われいる。齋藤はそこに気が付かない。
 梅田の「男・夫」としての自分語りはむしろ客観的に見るなら別の文脈がある。つまり、毎日でも飲みに行きたい行動と引きこもりもよいとする、双方の特質を持つ梅田という「夫」を「妻」が見るなら、彼女がその彼女自身の関与性から、「夫」の仕事について「一人に賛成」と答えるのは、ごく普通の帰結にすぎない。梅田はそこに気が付いていない。
 何かが語れることによって語られない何かが、実は、齋藤と梅田の、二人の表向きのテーマに深く関わってきている。それは「妻」と「夫」の他に、「父」と「子」という側面もある。
 例えば、次のような、齋藤による「父」語りだ。ここでは先ほどとは逆に齋藤の問いかけに梅田が沈黙している。

齋藤(中略)僕は、その場を祝福するような感じの祝祭体験を大事にしています。何かアイデアが浮かんだら、ああよかったね、みたいに拍手しあうとか。「場」を、「時」を祝福するというのは現実の人間でないとできないことです。
 語り合う相手が現実にそこにいるかいかないかというのは、必ずしも絶対的なことではありません。先日、父親が亡くなったのですが、亡くなった結果分かったのは、悲しいのは悲しいのだけれど、今でも父親が心の中に行き続けている、住み込んでいるという感じがするということです。亡くなるまでに、とことん語り尽くしたんですよ。

 齋藤は「現実の人間」の祝祭性を語りながら、「現実の人間」ではない死んだ「父」を語り出す。それは彼にとって違和感はない。「現実の人間」は、そこにいなくてもよいとしても、齋藤には矛盾ではない。なるほど、それはそれでもよい。
 死者の「父」が「子」である自分の中に生きているという感覚は、率直に言うのだが、子が40歳なるまで見届けた父親がもたらす好運に過ぎない。齋藤はおそらくこの語りが若くして「父」を失った梅田にどう響くかは意識していないだろう。
 梅田はこの齋藤による「父」の問い掛けに答えていない。語ることが難しい文脈を惹起することに配慮したかもしれない。さらに微妙な陰影があったのかもしれない。あるいはそういう私の読みは考え過ぎですよと笑ってすごすべきものかもしれない。
 齋藤の「父」語りにはまた独特のズレがある。齋藤は「父」をこう語る。

父親とは、「仕事をする心構え」の話しかしなかったんですが。父は家具屋業界で、こちらは学者で、職業は全然違うのだけれど、仕事をする心構えに関しての、お互いの燃える思いについて語り合いました。

 齋藤が父と語りあったのは40歳という文脈ではない。子どもの頃からそうだったと言う。子どもの頃から仕事をする心構えを語り合うわけはないから、ある種の生き方を、齋藤が幼いころから語りあっていたのだろう。
 そういう親子を想像できるだろうか? 私は想像しにくい。私はそういう父子を否定はしないが、率直に言えば、何かがおかしいと思う。
 父親は子にある「含羞」を持つものだし、子は子で父親に「含羞」を持つものだ。「含羞」は、妻であり母である女の関係や自身の性の関係を含み込む距離感もあるだろうが、むしろそうした「含羞」のなかで、子は「男」なり「女」なりという性によって自立した人間であることの感覚を持つようになる。齋藤にはそういう「含羞」が私はあまり感じられない。
 教育者であること、著名人であること、そうしたことが、齋藤の何かを覆っているし、あるいはそうした覆いの部分が教育者や著名性の基礎になっている。というのは、齋藤はこう自身を語る。梅田のブログに対して齋藤の本という文脈で。

齋藤 本というものは、文章にせよ、主題にせよ、ある程度以上の秩序が要求されますよね、編集者というフィルターも入りますし。でも、ネットで僕が直接メッセージを書いたときに、舌禍事件をおこしてしまいそうということがあります。本ではコントロールしているのですが、なまみの人間としては、そうとう危険な発言が多い。それが一つ。それから、ブログで日常をオープンすることによって、プライベートに入り込まれる、というのも危惧しています。実際いろんな人がいますから。本より、ネットのほうが読者との距離は近いですよね、双方向というか。
梅田 教室、本、ネットと並べれば、教室の祝祭空間とネットのほうが、教室と本より近い感じがするのですが。
齋藤 質的には近い感じがしますね。

 齋藤はそのブログ的なメディアに対して、プライベートの境界で危機感を持っているし、それはある意味で、教育者や著名人の特徴的な対応だろう。しかし、祝祭性が重要だとしながら、その祝祭性の濃い危険なブログが一つ前に突き出ているところから齋藤は引いていることになる。それに対して、梅田はそこに一つ突き進んでいる。その差異が「私塾」の意味合いにも反映している。
 この対談が暗黙に含み込んでいる差異は、繰り返すことになるが、仕事の第一線にある40代の男にとって、「夫」であることと「父」であることに静かな振動を与えている。おそらくズレは肯定されてもよいのではないか。もちろん、「妻」であり「母」である中年の女にとっても。

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コメント

なぜ、斎藤さんが「声を出して」テキストを読みたくなるのか、読むように啓蒙したくなるのか、わかるような気が、さっきした。

投稿: haineko2003 | 2008.05.13 06:02

例えば、父を看取るときの体面の必要において、
「妻」に対するのと「それ以外の他人(ひと)」に対するのとでは、質的な差異があるのだろうか?
もしかしたら……なんて、昨年祖父を送別った父を見て思ったのですが、
これはやはり「家」と「妻」の関係性が大きいのでしょうね。
正直なところ、どちらが(逃れがたく。また、認めがたく)おそろしいのかと言えば……


投稿: 夢応の鯉魚 | 2008.05.13 12:58

 まぁいずれにしても、梅田さんにしろ齋藤さんにしろ最終的に夢みたいな寝言語って客引きやってるって意味では異口同音だよねと思う私としては、どーでもいいよ。
 世の中にはある種の志向性とか夢とか理想とか必要だから、それを美々しく提示する人必要ねって意味合いから言えば重要かと思うけど。

 いずれにしても、そんな都合のいい夢語れる人はごく僅かで圧倒大多数は都合良く逝くわけないから、そこに「現実」ってもんがあるんじゃネーノ? と。私なんかは意地くそ悪いこと考えちゃうんですけどね。

 生き方指南するときの方法論には「自分には自分なりの条件があったから、その中で精一杯やったらこーなった」式と「皆で夢見て頑張れば少しづつ緩やかに良くなるだろう」式とあるけど…私は前者支持の後者懐疑派なんで。
 正直、コレどこの新興宗教? としか思いません。

 私自身が、なまじっか結果出しちゃってるだけに、ね。

投稿: 野ぐそ | 2008.05.13 19:05

成る程。斉藤サンがうざったい理由はそこにあったのですね。「含羞」は、男女間関係に転じると不感症かしら。

身体と心の感度にはズレがあるものですしね。心の感度がいい人が身体の感度がいいとは限らない。ズレの組み合わせで男女関係の種の多様性がうまれるのでしょうか。

投稿: 或る女 | 2008.05.15 01:35

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