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2008.05.30

ジョジョ問題っていうか

 エントリ書こうか、こういうのは書かないほうがいいのではないか、書いても意味ないんじゃないかとけっこう逡巡している自分が結局いるので、とりあえず書いてみる。特にまとまった意見も主張もないが。
 問題は、まず、共同記事”日本アニメ、中東で非難”(参照)より。


 【カイロ22日共同】日本の人気アニメ「ジョジョの奇妙な冒険」の中に、悪役がイスラム教の聖典コーランを読みながら主人公らの殺害を命じる場面があり、アラビア語圏のウェブサイトで批判が高まっていることが二十二日までに分かった。原作コミックスの出版元でアニメ製作も主導した集英社(東京)は同日、問題のアニメのDVDと原作コミックスの一部を出荷停止にすると発表した。
 中東では「コーランを読めば悪者になるという趣旨か」などの書き込みが三百以上のサイトに拡大。イスラム教スンニ派教学の最高権威機関アズハルの宗教見解委員長アトラシュ師は「イスラムに対する侮辱で受け入れられない」と非難した。
 集英社によると、原作コミックスではコーランは描かれていないが、話の舞台がアラビア語圏だったため、アニメ化の過程で採用したアラビア語の文章を「コーランの一部だとの認識を欠いたまま」使ったという。

 この問題は外交問題となりいちおう収まった。「外務省: 日本アニメのイスラムに対する不適切表現について」(参照)より。

 5月22日、アニメ「ジョジョの奇妙な冒険」を制作した集英社とA.P.P.P.社は、イスラムを冒涜する意図は全くない旨述べるとともに、不適切な表現によってイスラム教徒に不快な思いをさせてしまったことをお詫びするとの趣旨の見解を発表した。日本政府は、不注意とはいえ、同アニメの一部内容により、イスラム教徒の感情が傷つけられたことは遺憾と考える。いずれにせよ、異なる宗教や文化への理解と敬意を育み、このようなことが再発しないようにすることが重要と考えている。

(参考)
(1)集英社とA.P.P.P.社の人気アニメ「ジョジョの奇妙な冒険」DVD(日本語版の他に英語版も発売)のなかで、悪役が主人公の殺害を命じる場面でコーランが不適切な形で使用されており、アラビア語圏のウェブサイトで批判が高まっていた。
(2)集英社は、22日、同社ホームページに謝罪文(日本語、英語)を掲載し、当該DVD、原作の一部の出荷停止を決定した。


 集英社側のアナウンスはPDF文書だが、「アニメーション「ジョジョの奇妙な冒険」における表現について (日本語)」(参照)が出た。
 気になるのは追記の部分だ。

 本件に関する報道の一部に、登場人物が「コーランを読んで殺害指示を出している」かの誤解を招く表現がありましたが、本作品のストーリーには、そのような「コーランと殺害指示を関連づける」ような設定はありません。また、「ムスリムを悪者やテロリストとして描いている」といった事実もないことを、ここにお伝えします。

 この追記は、共同の記事に対応しているのではないかと思うが、これについて共同側の応答があったのだろうか。探したがわからなかった。
 少し話を戻す。事件を時事で読み直してみる。”「コーラン」登場の批判、昨年から=数百のサイトに-アニメ「ジョジョ」”(参照)より。なお、この部分、事実認識はかなり重要なのであえて、事実の報道であるとの理解で全文引用する。

2008/05/22-20:31 「コーラン」登場の批判、昨年から=数百のサイトに-アニメ「ジョジョ」
【カイロ22日時事】人気漫画「ジョジョの奇妙な冒険」の原作とDVDの一部がイスラム教に関する不適切な表現を含むとして出荷停止になった問題で、同作品中に悪役がイスラム教の聖典コーランを読む場面が出ているとの指摘は昨年からアラビア語のウェブサイト上に現れていた。
 昨年6月には「ジョジョ」を見た視聴者がアラビア語のアニメ関係の掲示板で、作品中にコーランが出てくるのは奇妙だと批判的に言及。これに対し「ジョジョ」をアラビア語に翻訳したという人物が「登場人物がコーランを読んでいるだけでイスラムへの侮辱ではない」と作品を擁護した。
 今年4月には別のイスラム系フォーラムのサイトで「コーランを読むと悪人になると子供が信じてもよいのか」と批判する投稿が出た。
 この話題は数百のアラビア語サイトに広がっているもようだ。ただ、これまでのところ、日本に対する敵対的行動を呼び掛けるといった過激な反応は見当たらない。

 ここで、共同の記事の別の部分(以下)を含めて考察したい。

 問題の場面は二〇〇一年制作のアニメシリーズ「ジョジョの奇妙な冒険 ADVENTURE」の第六話「報復の霧」の冒頭。エジプトに潜む悪役「ディオ」がコーランを読みながら「(日本から来た主人公らを)始末しろ」と部下に命じる。


 〇七年三月ごろからアラビア語の字幕を付けた海賊版がネット上で流通。視聴者の一人が、問題の場面の静止画をサイトに投稿し批判して以降、多数のサイトで書き込みが相次いだ。

 今回の事件について私はまず欧米のソースをあたってみたのだが、どれも共同をベースにしており、独自ソースからの欧米報道を見つからなかった。ただし、欧米のソースによってはそのソースの限定性に配慮して共同とは異なった懐疑的なトーンが感じられた。
 グーグルでは最近アラビア語の翻訳機能を持っているので、アラビア語圏のニュースも可能なかぎり調べてみたが、欧米と同様で、どうもこの事件は共同以外のソースを見つけることはできなかった。
 しかし、時事のニュースは、共同のソースとは別の情報が含まれており、共同から派生したものではない。共同と時事がどのような関係またはきっかけで同時期のニュースとして発信したのかそこがわからない。過去の慣例からすると、共同が出すとすでに事態を知っていた時事が遅れないように出すということがあり、今回もそうなのかもしれない。
 もう1つ気になるソースがある。読売”「ジョジョ」DVDにコーラン落ちる場面、集英社が出荷停止 : ニュース : エンタメ ”(参照)より。

 アニメで登場人物が持つコーランがいすに落ちる場面が問題と判断したという。原作にはコーランの描写はないが、モスクの描写などが不適切とした。アニメの表現を巡り、イスラム圏のウェブサイトで批判があると、今月上旬、報道機関から指摘があり調査していた。

 今月上旬に集英社は知っていた。
 3ソースからの時系列をまとめるとこうなる。

  1. 2001年にアニメシリーズ「ジョジョの奇妙な冒険 ADVENTURE」第六話「報復の霧」が制作された。
  2. 07年3月ごろからアラビア語の字幕を付けた海賊版がネット上で流通し始めた。(共同)
  3. 07年6月ごろ、字幕付き海賊版を見た視聴者がアラビア語のアニメ関係の掲示板で、作品中にコーランが出てくるのは奇妙だと批判的に言及した。(時事)
  4. 字幕付き海賊版をアラビア語に翻訳したという人物が「登場人物がコーランを読んでいるだけでイスラムへの侮辱ではない」と作品を擁護した。(時事)
  5. 08年4月には別のイスラム系フォーラムのサイトで「コーランを読むと悪人になると子供が信じてもよいのか」と批判する投稿が出た。(共同)
  6. 08年5月上旬、ある報道機関から集英社に指摘が入った。(読売)
  7. 中東では「コーランを読めば悪者になるという趣旨か」などの書き込みが三百以上のサイトに拡大した。(共同)
  8. 08年5月22日、アラビア語圏のウェブサイトで批判が高まっていることが共同に分かったと発表した(読売報道とやや矛盾)。
  9. イスラム教スンニ派教学の最高権威機関アズハルの宗教見解委員長アトラシュ(Sheikh Abdul Hamid Attrash,)師は「イスラムに対する侮辱で受け入れられない」と非難した。(共同)

 事実関係でいつかわからない点がある。問題がニュースで取り上げられるに値する問題となったのは、イスラム教スンニ派教学の最高権威機関アズハルの宗教見解委員長アトラシュ師による非難が出たことで、それが出なければ、曖昧な翻訳であるかもしれない海賊版を見ている、世界のどこにでもいる日本アニメ好きさんのもめ事にすぎないし、その時点では外交問題には発展しない。
 つまり、どのような経緯で、イスラム教スンニ派教学の最高権威機関アズハルの宗教見解委員長アトラシュ師による非難が出たかが重要になるのだが、そこがわからない。
 これに関連して、「非難」が何を意味しているのかが気になる。これはアトラシュ師のステータスにも関連しているが、英語圏では"Sheikh Abdul Hamid Attrash, chairman of the Fatwa Committee at Cairo's Al-Azhar University"とあり、Fatwa(ファトワー:宗教令)に関連している。今回の非難はファトワー(参照)なのだろうか。ウィキペディアでは「宗教令」という訳語を当てていない。

ファトワー(فتوا fatwā, 複数形 فتاوى fatāwā)は、イスラム教(イスラーム)における勧告、布告、見解、裁断のこと。

ファトワーとは本来、「ムフティー」と呼ばれる、ファトワーを発する権利があると認められたイスラム法学者が、ムスリム(イスラム教徒)の公的あるいは家庭的な法的問題に関する質問に対して、返答として口頭あるいは書面において発したイスラム法学上の勧告のことである。ファトワー自体には法的拘束力はないが、著名なムフティーによるファトワーはファトワー集に編纂され、各イスラム法学派の個別事例に対する見解を示すものとして重視された。


 ファトワーであったとしてもスンニ派の場合宗教的な拘束力はない(シーア派では異なる)がそれに準じる権威を持つ。しかも、アズハルの法学者によるであれば外交問題となってもおかしくはない。この点が報道からは見えない。また、ファトワーであれば「返答として」ということなので、誰がお伺いを立てたのかかも気になる。
 この問題で次に気になるのは、共同報道の時系列の位置づけだ。この点で重要なのは、集英社に今月初旬指摘したのはどの報道機関なのか?という問題だ。読売が伝えるこの記事からはそこが明らかになっていない。
 一般的な報道となったのは、共同のほうが時事より若干先になっているようだが、事実報道において時事が過去の経緯に詳しいことと、また、記事からの印象では共同がこの事態についての認識を持ったのは比較的最近のことらしいことから、時事が集英社に通知したのではないだろうか。
 すると、これに関連してどの時点で、アトラシュ師の非難が出たのかが気になるし、ざっと報道をみたところアトラシュ師に言及しているのは共同に限定されるようなのも気になる。
 まとめると、疑問点は次の2つに集約される。

  • アニメシリーズ「ジョジョの奇妙な冒険 ADVENTURE」第六話「報復の霧」にファトワーが出されたのか。出されたならどのような経緯であったか?
  • 共同報道以前に集英社に通知したのはどの報道機関なのか?

 話の側面を変える。
 今回の件で、日本のネットの動向を見たのだが、率直にいってどれも上記ソースを超える確かな情報はなかった。逆に不確か情報が迷路にようになっていたし、私もその迷路に戸惑ったがどれも考察に寄与できなかった。が、はてなダイアリ「空き箱」”ジョジョ話に関する英語報道”(参照)と”共同通信のジョジョ問題に関する記事について ”(参照)は事実が手際よくまとめられていて参考になった。
 集英社の今回の対処についてだが、私は妥当ではないかと思う。集英社としてはまさかアラブ圏に及んだ海賊版で、共同から”異文化への無知で波紋”(参照)と非難されると思っていなかっただろうし、制作年が01年であることも昨今の世界の様相とは異なる。参考までに共同の指摘はこう。

日本の人気アニメ「ジョジョの奇妙な冒険」で、悪役がイスラム教の聖典コーランを読む場面が中東のイスラム教徒の強い反発を招いた。世界的な人気を誇る日本のアニメ産業界が異文化圏の宗教や習俗についてあまりに無知であることや、国境を越えるインターネットの普及で、思わぬ地域に視聴者層が拡大したことが背景にある。

 それでも今回の対処が妥当だっただろうと私が思ったのは該当シーンを見たからで、これはイスラム教徒なら明らかにコーランの一節であることがわかるほど鮮明だったからだ。この不手際は弁解できないのではないか。
cover
ジョジョの奇妙な冒険
(1~7巻セット)
 次に、この事件を欧米がどう見ているのか、報道は日本ソースばかりなので、ブログを読んで回ったのだが、私が見た範囲では、なんで日本はこの問題で怖じけているのか、誤解をちゃんとはらすようにしたらどうかという意見が多かった。確かに、そのとおりだと頷けるのだが、その強気の背景には欧米が起こしたイスラム教徒非難にとられかねない漫画の問題と同じ構図がある。日本がそうした構図に載るのは少し違うのではないかという印象を持った。
 対処という点で、自分なり総じてみると、集英社も外務省も妥当だったかな、自分が要所の責任者なら同じことをしただろうなとは思った。

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2008.05.28

[書評]グーグルに勝つ広告モデル(岡本一郎)

 ブロガーのR30さん(参照)が久しぶりにエントリを書かれていて、しかも書評。良書らしいので、「グーグルに勝つ広告モデル マスメディアは必要か(岡本一郎)」(参照)を即ポチっと買って読んでみた。

cover
グーグルに勝つ
広告モデル
 私の評価は微妙。悪い本ではないのだけど、あちこち変な感じがした。その変な感じがうまく焦点を結ばない。著者がお若いせいかあるいは知的なバックグラウンドのせいなのか。例えば、章末などに名言がちりばめられているのだが、違和感を感じる。あえて重箱の隅をつつくように書くが(失礼)、例えば。

今日存ずるとも明日もと思うことなかれ。死の至ってちかくあやふきこと脚下にあり。
                孤雲懐奘『正法眼蔵随聞記』

 間違いとまではいわない。が、筆者はこの言葉が懐奘によるものではなく、道元の言葉を懐奘がパーソナルに書き留めたことを知っているだろうか。つまりこれは道元の言葉だ。孤雲懐奘『正法眼蔵随聞記』とは、孤雲懐奘編『正法眼蔵随聞記』の意味だ。そして、この引用は岩波文庫に収録されている和辻哲郎校訂であることを知っているだろうか。これはその四の八の部分で、書き写しに一点誤りもあるというか、文語に「至って」がないことはケアレスミスかも知れないが編集者にも素養がなかったかもしれないなという疑念もある。和辻哲郎校訂の原典は江戸時代の改訂である面山本であり曹洞宗はこれを使っているし私もこのバージョンが好きだが、今日ではより原典に近い長円寺本が研究され、この部分も微妙に違っている。しかしそうした細かいこともだが、この道元の言葉がどのような文脈に置かれていているかを理解したうえで、地上波テレビ局の衰退の章に置いのだろうか。原典の文脈を外したコラージュということなのかもしれないとしても、あまりよい趣味とは言えないだろう。古典というのは半可通がもてあそぶものではないとまでは言えないが、それをちりばめるのではなくその知恵の本質を血肉に変えて自分の文章に織り込んでいけばいいのに。
 用語もときおりあれと思った。「取引コスト」で。

 CMスキップに対する対抗策として、番組中に広告商品を露出させる広告手法=プロダクトプレースメントは、なぜうまくいかないのか、という問いですが、これは「取引コストが高くなりすぎる」というのがその答えになります。

 というように「取引コスト」が出てくる。経済学の意味かなとちょっと首をかしげると、こう続く。

 日本のテレビ広告市場は、年間2兆円を超えています。統計を見るとテレビ広告の一回の取引単価は0・2億円弱ですから、年間で10万回の取引をやっているということになります。

 ということで、「取引コスト」は経済学の意味ではない。もちろん、こういう文脈で「取引コスト」を使うことが間違いとも言えないのだが、一瞬戸惑う。
 内容にも関わるのだが、次のような話も、どきっとする。

 マスメディアは非常に完全性が強い業界で、不完全なサービスをパイロットすることを非常に嫌がりますが、新聞社には購読世帯というコネクティビティの強い顧客が数百万人単位でいるわけですから、これを活用しない手はないのではないでしょうか。

 いちおうそういう側面からの提案も理解できないわけではないが、「新聞社には購読世帯というコネクティビティの強い顧客」というとき、現実の娑婆では「新聞はインテリが作ってヤクザが売る」といった放言が聞かれることを筆者は知っているだろうか。知っていて捨象したのだろうか。しかし、この娑婆の部分にこそ新聞社が抱える大きな問題があることは、新聞以外のメディアからはもう白日の下にさられているに等しい。というあたりの齟齬感は読者の意見が違うというべきなのか。
 話が散漫になりぼやきばかりで申し訳ない。が、率直にあれ?と思ったことを続ける。例えば、クリエーターには、メディアの枠組みとコンテンツの両方を進化させる能力が問われるとして。

 そう考えていくと、技術とコンテンツの組み合わせをどういうタイミングでリリースしていくのか、というのが、非常に重要な論点になってきます。

 それは理解できるし、この先に、YouTubeが成功したのは技術的な条件が満たされるタイミングがj重要だとするのも理解できる。で、そこで、あれ?と思うのは、「6章 オンデマンドポイントキャスト事業の提言」で、テレビに対する視聴者のニーズは「タイムシフト」と「編成権」だとして、さらにかみ砕いて「見たいときに、見たいものを、見たい部分だけ、見たい」とし、さらに「とにかく前に動かす方向で議論を進めてほしい」「まずは始めてしまうことです」としているのだが、単純にオンデマンドは、先の技術の条件からすると、どのように技術的に成立するのか疑問に思える。インターネットは端的に言って無理だから、NGNが暗示されているのだろうか。そしてそれはNHKのようにさらなる有償モデルなのだろうか。
 こうしたあれ?あれ?というのが積み重なってふと気が付くと、本書の全体も見えづらくなり、大枠にも、あれ?という印象が深まる。例えば、テレビ、新聞、雑誌、ラジオといったマスメディアはアテンションを卸売りするモデルであり、ヤフーもそうだが、グーグルはインタレストを卸売りするモデルだというあたりだが、まったく理解でないわけでもないだが、それが書名の「グーグルに勝つ広告モデル」というコンプトとどう整合するのか。単純に考えれば、日本の広告業界ないしマスメディアが、グーグルのインタレスト卸売りモデルを超える可能性として理解できるだろうし、広告の打ち方のターゲットを絞れとしているのはその一環でもあるのだろうが、具体的にどうグーグルを超える広告モデルができるのかは見えない。そのうちに、マスメディアの存続に話題が流れていくようにも見える。
 マスメディアの例として新聞の存続では、インターネットの対比から、新聞では「オピニオン軸での差別化」や「マイクロエリア/嗜好(しこう)軸での差別化」が出るのだが、ここでも、「あれ? それはむしろブログやSNSのほうが強いのではないか。そしてだからこそ、グーグルは検索エンジンにブログへのバイアスを高め、そしてSNSへの追撃を狙っているのではないか」などと疑問が湧く。
 さらにグーグルが語られているわりにそれを含んだ昨今のグローバルな広告の問題には触れていないように見える。あえて触れていないのだろうか。

 オンデマンドポイントキャストは通信を用いますから、クライアントごとにダイナミックにコンテンツを切り替えることが、技術的には可能になります。この特性を利用して、視聴者一人ひとりのプロファイルに基づいたターゲッティング動画広告を展開かできないか、というのが、筆者の考え方です。

 という考えがこそ、このグーグルがこの一年EUで起こしたすったもんだに深く関わっていた。結局グーグルはその逆にプライバシー強化として市場を安定させる方向で進もうとしている。
 なんだか難癖を付ける話ばかりになったが、ある意味でコントロヴァーシャル(controversial)であることが本書の価値であるかもしれない。
 最後にもう一点、私はメディアはむしろ人に従属すると見て、そこからマスメディアや、マイクロトレンド的な視点を持つほうがよいのではないかと思う(というか本書の大半はマイクロトレンドで解けるようにも思えた)。そうすれば、セブンイレブンの商品棚もメディアとして扱えるだろうし、具体的に新聞などについては、戸配よりもセブンイレブンに吸収させてしまうほうがいいだろうといった視点も開ける。つまり、セブンイレブンのようなコミュニティ的な場そのもの(SNSなども含めて)が、広告対象のピンポイントメディアになりつつあると考えている。

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2008.05.27

日本の備蓄米放出の話

 多少時期を逸したけど今日のワシントンポストの社説を読んで思い出した。簡単に食糧危機と日本のコメ問題をメモしておきたい。話はまずニューズウィーク日本版5・21「真犯人は愚かな農業政策だ(It's the Stupid Politics)」がよいだろう。英語版は無料で読める(参照)。全体の概要はリードでわかるだろう。つまり、「先進国の農業補助と途上国政府の無策がこの危機を招いた」と。英語のほうのリードは"The world's poor are paying the pirce for years of bad goverment policy in agriculture.(世界の貧困は歴年の悪農政の対価を払っている)"。冒頭が面白い。


 コメを輸入する必要などないと、多くの日本の政治家は考えている。実際、昨年の国内の収穫高は国内の需要を大幅に上回った。コメ生産農家を国際競争から守るのは、自民党が長年貫いてきたポリシーだ。
 輸入米は何年でも倉庫で寝かされることが多い。その後で加工用に使われたり、援助食糧として外国に送られたり、家畜の飼料になったりする。
 日本がコメを輸入する理由はただ一つ。WTO(世界貿易機関)の言うことを聞かなければならないからだ。93年に妥結した農業交渉で、日本は年間の国内コメ消費量の4~7・2%を輸入しなければならなくなった。
 昨年は77万トンを輸入。世界のコメ価格を上昇に向かわせた一つになった。
 「自由貿易の番人」であるWTOに言わせれば、日本がコメ市場を開放するのは当然のことだ。日本と韓国は農家を手厚く保護しているため、消費者は主食の米を世界の平均より3~4倍も高い価格で買わされている。こうした閉鎖的な政策により、途上国の農家は日本のコメ市場に参入できず、貧困が解消されにくい状況になっている……。

 と、この先がある。そう驚くほどの展開でもない。

 だが、ようやく開放された日本の市場でコメを売って大きな儲けを得たのは、米政府から手厚い保護を受けているカリフォルニア州のコメ生産者だった。
 95年以降、日本の輸入米のざっと半分をカリフォルニア米が占めている。同時期にカリフォルニアのコメ農家に米政府が与えた補助金は20億ドルに登る。

 知っている人には知っているごく当たり前のことなんだけど、意外に知らない人もいるかもしれない些細な逸話といった感じ。いや、つまりこれがアジアの貧困の要因の一つでもある。
 ニューズウィークはさらに途上国側の農政の問題を挙げるが、これは「極東ブログ: コメ急騰問題メモ」(参照)とそれほど変わらない。のでそこは省略。
 アフリカ開発会議とかやってアフリカの貧困とか日本の新聞とかは話題にしているけど。

 マイク・ムーアWTO元事務局長は新多角的貿易交渉(ドーハ・ラウンド)の早期妥結を訴える。妥結すれば、13年までに農産物の輸出補助金が打ち切られることになるだろう。
 それによりアフリカが受ける経済的な恩恵は「債務経済と開発援助をすべて合わせた金額の4~5倍にのぼる」と、ムーアはみる。

 自由貿易を緩和するほうがナンボか援助になるはずだが、あまりそういう議論は聞かないというか、聞かないわけもないけど、なんとく別の話が喧しい。
 記事の結語がまた秀逸。

 EUは近年、90年代には150億ユーロだった輸出補助金を減らしており、昨年は30億ユーロを切った。だが食糧危機を解決するには、世界各国がもっと大胆な変革に乗り出す必要がある。
 日本の倉庫で眠っている莫大な古米を見るかぎり、道のりは険しそうだ。

 ほいで、ワシントンポストの話に移る。19日付け”Release the Rice”(参照)では。

AS PRICES rise on global commodity markets, U.S. agriculture policies that contribute to higher food costs are coming under fire -- especially subsidies for ethanol production. That criticism is warranted. But this country does not have a monopoly on irrational food policy. Consider Japan's rice mountain.

(世界の商品市場の価格上昇で、食料価格高騰による米農政が問題になっている。特にエタノール生産への補助金が問題だ。批判は当然だ。しかし、米国は非理性的な食糧政策を独占しているわけではない。日本のコメの山を考えよ。)


 ということでちょいと日本の内情に色目を使ったあと(そりゃね)、日本のコメを巡る状況に触れて、こう来る。

This is crazy. Though they've edged down lately, rice prices have risen by about 75 percent since the beginning of this year, causing real hardship in the Philippines and elsewhere.

(気が狂っている。コメの価格は最近やや下げてきたが、コメの価格は年初に比べて75%も上がり、フィリピンや他の地域に問題を起こしている。)


 日本農政はcrazyと。そういえば、ニューズウィークのほうはstupidだった。まあ、そんなもの。

Japan could help. Its stockpile of imported rice now stands at 1.5 million metric tons. That is enough to feed 24.5 million Japanese for a year, at current average rates of consumption. But since the Japanese don't want to eat it, perhaps they could let other people have at least a taste. Instead of turning the rice into animal feed or, even sillier, ethanol, the Japanese should release it to the world market. That alone wouldn't cause prices to plummet. But it might undercut the export bans other countries are trying to sustain. At a time when so many people in East Asia are going without, the United States should not object, despite its past insistence that Japan use imported rice for domestic consumption. It is in no one's interest for wealthy Japan to be the world's No. 1 hoarder.

(日本は援助ができるはずだ。輸入米の山は今や150万トンある。現状の消費ならこの量は向こう一年2450万人を十分食わせることができる。日本人がそれを食いたくないなら、多国民が味わうことができるはずだ。動物の餌にしたり、愚かしいエタノールに転換する代わりに、日本人はそれを国際市場に放出すべきだ。それだけでは価格を下げることにはならないだろうが、他国の輸出規制維持は切り崩せるかもしれない。過去において日本に対して国内消費に輸入米を回せと米国は主張したが、東南アジアの諸国民に欠乏がある現在、米国は反対すべきではない。富裕な日本にとって世界買いだめナンバー1になることは誰のためにもならない。)


 そりゃなというのが19日のこと。日本政府はワシントンポストが言うほど気が狂っているわけでもないし、米国もそうなので、事態はやや好転した。
 23日日経新聞”フィリピンへの支援米、米国からの輸入分で・米側も容認”(参照)より。

日米両政府は23日、市場価格の高騰でアジアを中心に不足感が強まっているコメの国際需給について、米農務省で対応策を協議した。日本はフィリピンからの要請を受け、同国に対し、主に米国から義務的に輸入・保管している「ミニマムアクセス(MA)米」から20万トンを提供する方向で検討している状況を説明。米側は「日本の取り組みを支持する」とし、容認する考えを表明した。

 米国が「容認」というのは、ワシントンポストが触れているように、それお前ら食えとか言っていた手前があるからだ。日本としても、米国様の顔色をうかがうと。24日付け朝日新聞”フィリピンへのコメ支援、米国からの輸入米でも容認”(参照)はそこも補足している。

 協議の対象は93年のウルグアイ・ラウンド合意で日本が輸入を義務づけられた「ミニマムアクセス米」。年間輸入量約77万トンのうち米国産が5割程度を占める。米側はこれまで「輸入米は日本国内で消費されるべきだ」と主張してきたが、人道支援目的に限って容認する方針に転換した。米議会などからも日本などに対し、国内産も含めた備蓄米の放出を求める声が出始めていた。

 もうちょっと補足すると、AFP”食糧危機対策、日本の備蓄米に世界が注目”(参照)より。

 ただし、備蓄されているこれらの輸入義務米を国外に売却するためには、日本は輸出国の承認を必要とする。

 いずれにせよ、20万トンを放出。ワシントンポストが触れたように各国の規制への緩和的効果はあっても目下の食糧危機にはあまり効果はない。AFPの説明は正しいだろう。

 しかし観測筋は、日本の思い切った備蓄米放出がない限り、フィリピンのコメ不足は解消されないだろうとみる。大和総研(Daiwa Institute of Research)のアナリストは「10万トンや20万トンの放出では効果は限定的」と厳しい見方だ。このアナリストによると、フィリピンにはパキスタンその他の国からの輸入米のほかに、日本から60万トンの輸入が必要だという。

 きつくキチガイだろ日本と名指しをしたワシントンポストだが、その後、ちゃんと仁義は切っている。今日付”Release the Rice (II)”(参照)より。

KUDOS TO the government of Japan, which we recently urged to sell or donate a substantial portion of its massive stockpile of U.S.-grown rice.

(日本政府に賞賛を送りたい。私たちは先日米国米の大量の備蓄のかなりの部分を売却するか供与せよとしたことゆえにだ。)


 このあと、ワシントンポストはブッシュ大統領にも賞賛を送っている。私はこういう米人のさっぱりとしたところが好きだな。
 ワシントンポストによれば20万トンは想定した効果はあったようだ。そして、もっと放出せよという。私もそう思う。
 もっと日本はきちんとアジアやアフリカの人の飢えを助けるべきだ。

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2008.05.25

[書評]あなたの職場のイヤな奴(ロバート・I・サットン)

 「あなたの職場のイヤな奴(ロバート・I・サットン)」(参照)を読んだ。

cover
あなたの職場の
イヤな奴
 読んだ理由を忘れたが良書だった。ある意味、ごく普通の経営書でもある。私は普通に書店で買ったのだが、献本速報の弾小飼さんあたりがすでに書評していいんじゃないのか、なぜ漏れたんだろうと疑問に思って検索したら、いや、すでに、あった(参照)。というわけで、私がなんか書くほどのことでもないかなと思ったが。弾さん指摘に首を傾げたのをきっかけに少し書いてみよう。弾さんの指摘はこう。

本書に「クソッタレから逃げろ」という対処法が出てこなかったのが不思議であったが、それは本書の欠点というにはあまりにささいなものであろう。

 というのはあれ?と思った。私の読書としてはそこはちゃんと書かれていると思ったからだ。たとえば。

逃げろ、無理なら近づくな --- 予防法2

(略)
〈ダ・ヴィンチ・ルール〉はこんなときにも役立つ。大切なのは、できるだけ早くその職場から逃げ出すことだ。
(略)
 たとえば、クソッタレが出席するミーティングにはできるだけ行かない。クソッタレから質問された場合はできるだけ返信を遅らせ、できることならあまり答えない。クソッタレとのミーティングをどうしても避けられないときには、できるだけ短く切りあげる。このようにしてクソッタレから逃げたり隠れたりすれば、機嫌の悪さをうつされる危険をぐっと減らすことができる。
 ただし、これを実践するためには、小学校で教えこまれたこと --- いわく、「よい子は自分の席から離れない」「授業がいくら退屈でも我慢する」「先生がどんなに嫌なやつでもとにかく耐える」などなど --- を忘れる必要がある。
 わたしたちの多くは、大人になってからもこうした教えを振り払えずにいる。そのため、会話中やミーティング中にクソッタレから逃げ出すのは悪いことであるかのように感じてしまう。


 というわけで、弾さんの疑問はきちんと書かれていると思うし、これってあたりまえの人にはあたりまえのことだけど、青少年期に優等生だった人には行動パターンに染みついていてなかなか抜けないし、善人オブセッションや母親オブセッションの人なんかもなかなか抜けきれないものだ。露悪的に書くけど、自分を愛してくれた人、助けてくれたという人が実はただのクソッタレであることを心理的に認めたくないという無意識があるとけっこう最悪になる。つまり、そういうことなんだよ。
 ところでクソッタレ(asshole)とはなにか。ショートバージョンではこう。

基準1/ その人物がつねに他人を貶め、やるきを喪失させる人間かどうか?
基準2/ その人物がつねに自分より力の弱い(もしくは社会的地位の低い)相手を標的にしているかどうか?

 簡単にさらにまとめると、口答えできないポジションの人なのに、合うといつもやな感じにさせられるというヤツがクソッタレということ。
 あれですよ、ネットなんかによくいる、「テラワロスw」とか書いていそうな人。他者に悪意をまき散らさずにはいられない人。
 でも、正確にはそうではない。
 どう違うかというと、ネットは職場とは違って、人間関係で明示的な上位のポジションということはないからだ。本書を読みながら、ネットに溢れるクソッタレをどうしたものかな、どうしようもないだろなと思ったのだが、ネットは職場とは違って上位ポジションはないけど、匿名でいることがややそれに近いかもしれない。その意味で、匿名でテラワロス発言をするのはクソッタレFAなんだけど、まさに特定されないのであまりそう考えても意味がない。つまり、ネットのクソッタレ問題にはあまり適用できないように思った。
 職場とネットに少し関わる部分としては、次は参考にはなる。

 もしあなたの働いている部署にクソッタレがはびこっているとしたら、メールや電話はあなたを彼らの悪意から守ってくれるどころか、問題をさらに大きくしてしまう危険がある。それを避けるには、仕事仲間と直接顔を合わせる時間をつくり、相手が直面しているプレッシャーを理解し、より大きな信頼関係を築くように努力する必要がある。

 ただ、その対応法もどちらかというと経営者の力量に拠るだろう。現実には、経営者がクソッタレだったり、ぼんくらだったりして、クソッタレ被害にあった人間を包み込もうとする人間関係の基盤がない職場のほうが多い。
 それと本書は、実は、べたな経営論であって、職場や会社のなかのクソッタレをどう管理するかということがテーマで、あからさまに言えば、本書は管理者向けの本だ。毎日クソッタレに向き合わされて困っている人にはそれほどには役に立たない。逆に、有能な管理者は本書を読まなくてもクソッタレの被害を算定できる。ちょっと横道にそれるが、基本は人事だろうし、人事以外では、経営がきちんと開かれていると自然にクソッタレの生息は減少するものなので、そうではない閨閥的な企業や閨閥的な官僚なんかのほうがクソッタレ満載になる。
 本書は管理者向けの本だから、日々クソッタレに向き合わされて困っている人にはあまり役に立たないのではないかと書いたが、でも先の予防法などはそれなりに役に立つ(ただ、その予防法も、実は、経営の立場と、クソッタレに苦しめられている立場が多少混同されてはいるようだが)。
 先に紹介した予防2には、〈ダ・ヴィンチ・ルール〉が出てきたが、これはこういうこと。

かのレオナルド・ダヴィンチも言っているとおり、「最初に抵抗するほうが、あとになってから抵抗するよりも楽」なのである。

 実際にはそれは微妙かな。浅薄に書くとよくある釣りっぽい話になってしまう。でも以下はけっこう言えている。

自分が足を踏み入れようとしている職場がどんなところかしっかり見きわめ、もしクソッタレの巣窟だとわかったら、たとえどんなに待遇が魅力的でもその仕事につくべきではない。

 この部分あたりは本書の白眉とも言えるので、気になる人は立ち読みでもするか買って読む価値はあると思う。
 本書はいろいろ啓発されるところが多いが、個人的には、以下の話が奇妙に心にひっかかった。クソッタレというのは先天的なものなのではないかという疑いだ。著者サットンはかなり控え目に提起し単純に肯定はしていないが。

 子供時代にいじめっ子だった人間が職場でもいじめをする傾向が強いかどうか、はっきりとした調査結果が出ていない。しかし、オルヴェウスの調査は、子供のころの卑劣さが大人になるまで尾を引くことを示している。

 クソッタレの根にある卑劣さというのは、私の人生観察でもかなり先天的なものではないかと思う。ただ、卑劣さがそのまま先天的というより、卑劣さになりうるなにかが先天的なのであって、その何かは集団においてある種のメリットを持っているのだろう。たぶん、支配についての経済学的なものだろう。
 サットンは、クソッタレの存在意義・メリットについても触れている。クソッタレは、撲滅してしまうのではなく、ある程度の閾値以下にしておくほうが、経済学的にメリットが出そうだ。そのあたりに、クソッタレという表現形を持つなんらかの先天的傾向が関係するのかもしれない。
 そういえば、本書では、スティーブ・ジョブズを、単純に排除してはいけないクソッタレの例としてあげている。彼を長年ウォッチした人ならその評価に異論はないだろうが、彼は閾値で管理すべき凡庸なクソッタレとは違う。そのあたりの有能なクソッタレの問題は、実は、さらに大きな問題が潜んでいるかもしれないし、イノヴェーターは多分にクソッタレであるものだ。
cover
The No Asshole Rule:
Building a Civilized Workplace
and Surviving One That Isn't:
Robert I. Sutton
 とはいえ、全体として、ある種の会社はクソッタレを排除するシステムを円滑化することでかなりの利益に貢献できるはずで、私たちの身近な接客サービスのインタフェースでは実はかなり、このクソッタレ排除ルール、No Asshole Ruleが、すでに、実装済みになっているようだ。

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2008.05.24

[書評]もういちど二人で走りたい(浅井えり子)

 読もうと思って過ごしてしまった本がいくつかある。そして時代が変わってしまって、世の中がその本のことを、まったく忘れたわけでもないのだろうけど(人の心に深く残るのだから)、あまり読み返されない本はある。絶版となり復刻されない(そのまま復刻すればただ誤解されるだけだろうし)。文庫にもならない。それはそれでよいのかもしれない。世の中とはそういうものだし、そういうふうに世の中が進むのにはそれなりの意味もあるのだろうから。ただ、私はあまりそうではない。

cover
もういちど
二人で走りたい
浅井えり子
 「もういちど二人で走りたい(浅井えり子)」(参照)は読むつもりでいて失念し、いつかあっという間に時が過ぎた。私が沖縄に出奔したころ話だ。癌になって余命いくばくという佐々木功は前妻と離婚し、教え子の浅井えり子と結婚した。純愛のような話題にもなったし、私は引いた奥さんは、愛川欽也の前妻でもそう思ったが、偉いものだなとも思った。ただ、こういう話に仔細はあるだろう。気にはなっていたけど、関心をそこに向ける余裕はなかった。
 先日、「極東ブログ: [書評]ランニングとかで参考にした本」(参照)で浅井えり子に触れたおり思い出して読んでみた。
 年齢差はどのくらいだっただろうか。佐々木功(参照)は1943年2月2日生まれ。95年3月13日に死んだ。一週間後にサリン事件なるのでその話題でその死の話題は多少霞んでいたように思う。浅井えり子(参照)は1959年10月20日生まれ。私より2歳年下だが、だいたい同年齢代と見ていい。本書を読みながら、同時代を生きた歴史の感覚はある。佐々木との年齢差は15歳。娘ほど違うというほどではない。
 浅井が日本電気ホームエレクトロニクスで佐々木の指導下に入ったは22歳のころ。佐々木は37歳か。まだ30代だった。厄年の前でもありいろいろな焦りはあっただろうと思う(小学生くらいのお子さんがいたのではないか)。37歳の男にとって22歳の女はたぶんよほど幼く見えたのではないか。
 佐々木は岩手県立美術工芸高校(現岩手県立盛岡工業高等学校)卒業後いったん職についてから22歳で東洋大学に入学し箱根駅伝などで働いた。その後、リッカーを2年で退社し、東洋大学陸上部の監督となる。28歳であろう。監督時代に結婚したらしい。30歳過ぎくらいだろうか。そして奥さんは学生のランナーだっただろうか。なんとなくだが、8つくらい年下の女性を思う。お子さんは二人いる。
 佐々木と浅井がコーチと選手ということで意識し出すのは、本書では82年のペナンマラソンとのこと。その頃浅井は鉄欠乏性貧血になり、食事に注意をしない彼女に佐々木が激怒し、指導を強めるのだが。

一年間も指導を受けて、まともな食事ひとつできなかった私の、口だけの報告では信用できないらしく、夕食をのぞきにアパートを訪れるようになる。練習が終わると、夕食のチェックのために私のアパートに来て、そのままビールを飲みながら、二人で陸上の話をする。そして十時になると帰っていく。それは、しだいに、日課になっていった。

 単純に言えば非常識きわまりないのだが、佐々木という人は、真性の陸上馬鹿であったし、すべてをそこにつぎ込んでしまう人でもあった。が、私はそれを否定しないまでも、少し残余を思う。
 この関係の描写は、本書が出て15年してみると、ある種時代に取り残された、薄気味悪い印象もある。だが、この関係性の風景はそう昔の風景ではない。

「俺は、悪いことをしているわけではないのだから、コソコソする必要はない。本気でおまえを強くしてやりたいんだ」
と言って臆することがなかった。
”本気の思い”というのは、時として”怖い”。
「俺がこれだけ真剣なのに、おまえには、その気持ちがわからないのか!」
 口ごたえして殴られたことは数え切れない。私自身、思ったことを我慢できない性格なので、ついついよけいなことを言ってしまい、怒られた。監督の殴り方はハンパじゃないの。唇が切れたり、顔が腫れて、会社を休まざるをえなかったこともある。

 ただ一方的な関係ではなかった。

 何度も傷つけられた復讐というわけではけっしてないのだが、実をいうと、私も監督を何度となく”痛い目”にあわせている。ビールは好きだが、すぐ酔っぱらってしまう私は、酔うと始末が悪い。あるとき、陸上部の飲み会の帰り、歩けなくなった私がいきなり「おぶって」と、酔っている監督の後ろから抱きついて、アスファルトの上にモロに顔面から倒してしまい、監督の額にダラダラ血が流れるほどのスリ傷をつくってしまった。またあるときは、酔った私に突き飛ばされ、そのはずみで、店のビールケースで胸を打った監督は、肋骨にヒビが入り、しばらく痛みに苦しんだ。

 こういう関係がある意味で普通に見える時代があった。
 浅井は84年名古屋女子マラソンで4位、84年東京国際女子マラソンでは2位となりトップランナーの名声を得る。そのころは、二人とも田町勤務となり毎朝笹塚で落ち合って走りながらの通勤となった。浅井24歳、佐々木41歳。「ゆっくり走れば速くなる マラソン・マル秘トレーニング (佐々木功)」(参照)の出た年だ。ある意味で、二人の絶頂期だったかもしれない。
 浅井は30代に入り、長いスランプのような状態に陥る。同棲ということはなく佐々木は十時には自分の家に帰るということではあったが、すでに彼らは事実上の内縁関係にあったと見てよさそうだ。佐々木はこう言う。

「いま、ここで逃げ出してしまったら、すべてが中途半端に終わってしまい、何も残らなくなるんだぞ。それじゃ世間から、不倫のレッテルを張られたままで終わってしまう。何でもう少し、がんばれないのだ」

 男として最低の言葉だなと私は思う。結局、佐々木という人間は浅井を自分の理論のための実験として見ていただけなのだろうかとすら思う。ある意味不快な気持ちにもなるが、彼らの人生はそこで終わらないからこの言葉が女から漏れた。
 浅井は復活した。しかも30代半ばで。94年名古屋国際女子マラソンで優勝する。
 浅井の意地だろうし結局は愛というものだろうと思うと同時に、そこでしばし、いやそれは佐々木の愛かもしれないと思い直し、「愛」というキーワードにある困惑を覚える。
 その年に、佐々木は倒れた。がんが彼を蝕んでいた。
 なんなのだろうと私は思う。人生は物語ではない。しかし、物語のようにしか見えない人生というものがある。
 厚労省は単なる慢性病、しかも遺伝的影響の強い慢性病を「生活習慣病」と言い換えて健康を自己責任化に見せつつ、国民の身体管理を始める時代になった。が、病というのは、人生の物語に仕組まれているものではない。ある程度生きてみると、致死の病というのは、天災のように不運でもあり、そしてどことなく物語のようでもある。精神科医頼藤和寛は世間の悩みを飄々と聞きつつ、自らを蝕む癌も知らずに「人みな骨になるならば―虚無から始める人生論」(参照)を書いていた。彼は53歳で死んだ。
 理性的に考えれば、佐々木の52歳というにはなんら物語的な理由はない。ただ、時代から残されてしまえば物語のように見えるし、物語であることで、「愛」という言葉に再定義を迫る、人の経験というものを残す。

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2008.05.22

[書評]ランニングとかで参考にした本

 なんとく走り出した。「極東ブログ: [書評]走ることについて語るときに僕の語ること(村上春樹)」(参照)を書いてたころは自分が走るとは思っていなかった。水泳も依然やっているし、それほどスポーツしたいとか体を鍛えたいわけでもない。ただ、なんとなく走り出したのだった。
 もちろん、無理はできない。悲しいかな、俺、50歳だし、気が付けば。初老の部類か。健康のためならウォーキングだろう、普通、と思うのだが。まあ、いいや。シューズを買って、ウェアを買った。俺って、走れるのだろうか。走ってみた、もちろん、走れないことはない。無理はきかないだろうなと思いつつ、歩道を4キロを走る。へぇ、走れるか。このまま、走るのだろうか。わからない。
 私は中学・高校と陸上部にいた。選手になる気はなくて、小児喘息だった自分がどのくらい体を動かせるかみたいな感じでやっていた。訓練すればクラスで2番目くらいの俊足なる。へぇと思った。その後は、陸上みたいなことはしていない(と思っていた)。50歳で走ってみると、当時のことを思い出した。14歳とか15歳の自分。そんな自分が自分のなかに生きているような感じもする。
 いちおう走り方は知っているし、無理する気もないのだが、それでもこの間時代は変わったので、ランニングとかのセオリーも違うかもしれない。参考書とかないだろうか。一般向けでいいからと探した。わからない。

cover
金哲彦の
ランニング・メソッド
 アマゾンでつらつらと見ながら、いかにもスタンダードで評判良さそうなので「金哲彦のランニング・メソッド(金哲彦)」(参照)という本を買ってみた。読んでみた。わからない。読者評に「小難しいことは一切書いてなく、『肩甲骨、丹田、骨盤』の三つを意識する、をしっかりと守ることで綺麗なフォームで歩け、走れるようになるといいます」とあり、たしかにそう書いてあるのだが、はて? 丹田? なんだか中級・上級者向けの書籍なんだろうか。そのわりにはあまり理論的なことは書いてないような気がする。自分には合わなかったのだろうか、それともいずれ役に立つときがくるだろうか。金哲彦という人もまるで知らない。その世界では偉い人なんだろうか。いや私は何にも知らないな。

cover
ゆっくり走れば速くなる
佐々木 功
 そういえば思い返したのだが、以前「ゆっくり走れば速くなる マラソン・マル秘トレーニング (佐々木功)」(参照)を読んで感銘を受けたことがある。いつのころだろう。この本が出たのは84年なのでそのころには違いない。その頃、自分は走っていただろうかと思い出して、ああ、皇居の回りとか少し走っていたことを思い出した。なんか記憶が消えているな。この本は実家にあるか処分してしまったか。ただ、読後の記憶からするとLSD(Long-Slow-Distance)でよいという以上のプラクティカルな話はなく、どちらかというと選手向けだったような気がした。水泳とかサイクリングも取り入れろとか。

cover
ゆっくり走れば速くなる
浅井えり子
 そうしてアマゾンを見ていて、佐々木の指導を受けた浅井えり子の「ゆっくり走れば速くなる(浅井えり子」(参照)を見つけた。私はけっこう浅井えり子が好きだったのだった。お弟子のスジからお師匠の本を、あるいは愛というか夫というかまあ、そういう情熱か、いずれにせよ、理論がプラクティカルにリニューされているといいなと思って読んでみた。佐々木の本とはすごく違っているという印象があった。そして佐々木の本よりわかりやすい。なるほどそうだったのかと思うことがいろいろあった。特にLSDは自分が想定したよりはるかに遅いし、遅いことで身体を意識させる……フェルデンクライスみたいだなと。これは参考になった。ただ、後半の選手向けのトレーニングは私には要らないし、50歳向けでもない。なにより医学的な知見はないなと。もうちょっとスポーツ医学的な部分が知りたい。

cover
賢く走るフルマラソン
田中 宏暁
 そこで次に読んだのが「賢く走るフルマラソン―マラソンは「知恵」のスポーツ(田中宏暁)」(参照)。この人についてもまったく知らないけど、お医者さんらしいし、47歳から初めて今では60歳近いらしい。なんかためになるのではと思った。ためになった。なるほどねということがいろいろあり、自分なりにアレンジしてみた。LSDとは書かれていないが、LSDの考え方とも矛盾しないので、本は買ったけど迷うだけに終わったということにはならなかった。こちらの本もフルマラソンを意識しているので、当面私には関係ないし、あとお医者さんの割にそれって医学?みたいな仮説も入っているので、ある程度は自分なりの科学知識で差し引きして読んで参考にした。

cover
スポーツ選手なら
知っておきたい
「からだ」のこと
小田伸午
 ついでなので、ランニングという文脈ではないけど、話題だったし水泳とかで勧められたりもしたので「スポーツ選手なら知っておきたい「からだ」のこと(小田伸午)」(参照)も読んだ。これが微妙な本だった。著者はスポーツ医学の第一人者らしいのだが、これってどっちかというとトンデモ本ではないのかという印象がぬぐい去れない。ただ、それをいうなら佐々木功のLSDの本も当時はトンデモ本かもしれないと思ったし、浅井えり子という実践者がいなかったらトンデモ・セオリーだったかもしれない。この本については実によくわからん。私がフェルデンクライスで学んだことと違うことが多いように思えるのもそうした抵抗感だろうか。ちょっとまいった。

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2008.05.21

[書評]霞が関埋蔵金男が明かす「お国の経済」(高橋洋一)

 3月に講談社刊の書籍について、「極東ブログ: [書評]さらば財務省! 官僚すべてを敵にした男の告白(高橋洋一)」(参照)を書いたが、本書「霞が関埋蔵金男が明かす「お国の経済」(高橋洋一)」(参照)は、その高橋洋一による文春新書。

cover
霞が関埋蔵金男が
明かす「お国の経済」
高橋洋一
 内容的には講談社本に被るところがあるが、視点はぐっと身近な経済学に寄っているのと、インタビュー書籍であるが、インタビューアが高橋の業績をよく知っているらしく、要領のよい質問を繰り出しているので新しい価値がある(ただ、見出しがいくつか変なので編集の不手際は感じる)。
 帯に「新日本経済入門」と「高校1年生~財務官僚・日銀マン向き」とある。どちらも皮肉ではあるが、確かに高校一年生でも読めるだろうし、高校一年生ならこのくらい読んでおいたほうがいいだろう(大学生なら必読かな)。
 ただし、この本で経済学がわかるといった類ではないし、ある意味で最先端の経済学のプラクティカルなエッセンスだけなので、「なぜそうなるのですか」という部分については、私を含め、普通の大人でも答えられないだろう。それでも、ある程度、グローバルに経済を見ているなら(グローバル経済ということではなく)、これらの経済学知見はそれほど常識に反するものではない。が、日本のジャーナリズムの常識に反する部分は多いかもしれないのが、高校生一年生に読ませるときの問題かもしれない。
 「まえがき」がそこをずばりと言っている。

 最近よくマスコミに出てくる言葉として、埋蔵金、道路特定財源、財政再建、日銀総裁人事、公務員制度改革、地方分権などがあります。これらについてどのくらい語ることができますか。
 いくつかのキーワードとちょっとした経済理論がわかれば、簡単ですよ。経済学なんて役に立たないと思っている人は多いでしょう。でも、複雑な経済問題を理解するためには本当はけっこう役に立ちます。

 として日本の目下の課題を最新の経済学的な知見でばさばさと切り込んでいく。
 私は本書を読みながら、「ああそうだ、そう表現すればすっきりするな」とか、「その知識を最初に得ていたらよかったのに」と、随所で思った。
 読みながら違和感がないわけでもない。例えば、道路特定財源の問題だが、そもそもガソリン税をどう考えるか。高橋はこれを「ピグー税」(参照)としている。ああ、なるほどそう考えるとすっきりするなとは思いつつ、ガソリン税が導入された経緯としては、それは違うだろうなとも思える。いずれにせよ昨今の状況ではピグー税として位置づけるのでよいと思うし、すっきりする。
 「マンデル・フレミング理論」(参照)も、これまでわかんないしモデルが単純過ぎるから現実には合わないのではないか、「極東ブログ: [書評]「陰」と「陽」の経済学―我々はどのような不況と戦ってきたのか(リチャード・クー)」(参照)も専門家としていちおうそれを踏まえて反対しているのではないか、などと思っていた。しかし、高橋がばっさりと言い切ると、そう考えたほうがわかりやすいなと、そそくさと軍門に下るの感がある。
 為替介入にしても、「極東ブログ: [書評]デフレは終わらない 騙されないための裏読み経済学(上野泰也)」(参照)を読みながら、この理解でいいのかなと不安でもあったが、高橋がばっさりと説明すると、ふん、それでいいかと納得する。いや、ちょっとこの問題はまだ疑問が残るか。
 「国際金融のトリレンマ」(参照)についても、私はこれは経済の範疇であるが、経済理論というより国際政治的な合意の問題ではないかとなんとなく思っていた。しかし、これも高橋が単純に言い切るほうが正しいと思えた。このあたりそれで納得すると、日本てなんて変な国なんだろうというか、その変な理由もなんとなくわからないでもない。
 どれもそれほどはっとする知見というわけではないが、なるほどなあ、もっと経済学をシンプルに見ていいのかとは思った。

 経済学は一日一日はわからないけど、半年くらいのスパンをとればけっこう当たるものです。

 というのは確かなのだろう。ただ、これも率直に言うけど、経済学で現在世界のキチガイみたいなホットマネーが扱えるかというと私は依然疑問符ではあるけど。
 あと2点。
 「極東ブログ: 祝日本インフレ、日本賛江、フィナンシャルタイムズより」(参照)については、あの状況下で日銀がまた大ポカしそうという文脈ではシリアスだけど、概ねのところでは洒落もあるなとは思った。どのくらい洒落かというと、そこの見極めは難しく、逆にどっちかというと、全体的にはインフレ的な傾向にはなるだろうからいいのではないかとは思ったのだが、本書の高橋の説明はすっきりする。

 海外の物価が上がったときは、お金を国内から海外にとられる。つまり、海外の物価が上がるということは、国内の所得が減るということだよ。
 だから、国内の所得を埋める分だけお金をつぎ込むんだ。ガソリン価格みたいなもので輸入物価が上がったときは、実は金融緩和なんだよ。
 国内の物価が上がったときには引き締めなんだけど、海外の物価が上がってそれが国内に波及するようなときには、金融を引き締めないと大変なの。

 私なんかでは、単純に、ほう、そうか、とか思う。まあ、このあたりは完全に腑に落ちるというものでもないのは、やはり経済学的に納得しているというわけではないからだ。
 そうした、なるほどそれが正解だろうなと思いつつ、きちんと自分で経済学的に説明できるかとなると、できそうにないなという隔靴掻痒感は多い。でも、本書は、普通の人には必読だろう。これだけ単純に説得力ある本は読んだことがない。
 消費税については、私は現状ではどうにも動けないでしょくらいに思っていたが、高橋はこれを地方分権から見ていく。消費税は本質的に国税か地方税か。

 消費税はどっちになるか分かる? たぶん地方税になっちゃうよ。消費税みたいな安定的な財源というのは、本来、マクロ経済政策がなくて景気対策ができない地方が安定的に行政をするためのものなんです。

 そうかなとちょっと疑問を抱きつつ、でも米国では州法の規定が強いところを見ると、たしかにそうだ。州というのは地方分権と同じだ。
 そしてそう考えない日本国について。

 これに対しては財務省は反対でしょう。せっかく財務省が必死になって導入した消費税を地方に渡せないという議論がある。
 それが嫌だから、消費税を社会保障の税財源という目的税にしようという話を打ち上げているという噂も出ている。社会保障税にしておけば、国が社会保障の地域間バランスを保つという名目で、国税にしておけるから。

 高橋の真骨頂は、意外と経済ではなく、この地方分権への情熱にある。なぜなのだろうかと、率直なところよくわからない。
 私は金融政策のテクニカルが議論が実は好きではない。国家を操作するという発想にどうも不愉快を感じる。私は、基本的に国家なんてものは小さければ小さいほどよいと考えるからだ。
 高橋がそういう国家と金融問題のプロ中のプロでありながら、ここまで確固たる分権主義者であるのはなぜなのだろうか。

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2008.05.20

小中学生の携帯電話利用についてなんとなく考えたこと

 問題の全体像というか問題の感触がつかめないのと、とりわけ自分に確たる意見もないので、なんとなく書かないでいようかと思っていたのだが、ぼんやりと心にひっかかっているようでなんどか繰り返し考える。ブログだし、思ったことをメモ的に書いてみるかな、という程度で、率直なところあまり関連する喧しい話題というか、一部のかたの思いのこもった議論に私は関心はない。で、それはなにかというと、政府の教育再生懇談会がその報告書に小・中学生の携帯電話の使用制限を盛り込む云々という関連のことだ。繰り返すけど、その事自体には私はあまり関心はない。率直にいうと、無理でしょFAというくらいしか思わないからだ。で、なにが私の心にひっかかっているのかというと、端的に言えば、なぜ親たちは子どもに携帯電話を与えているのだろうということだ。もちろん、すぐにというか脊髄反射的にそりゃという答えが出てくるということかもしれないが、まずはファクツ回りを簡単にまとめておこう。
 17日付け毎日新聞記事”教育再生懇談会:小・中学生の携帯使用を制限 報告に盛る”(参照)がわかりやすい。


 政府の教育再生懇談会(座長・安西祐一郎慶応義塾塾長)は17日、東京都内で開いた会合で、6月初めにまとめる報告書に小・中学生の携帯電話の使用制限を盛り込む方針で一致した。報告書は小・中学生に極力、携帯電話を持たせないよう保護者らに促す一方で、所持する場合には法規制をかける内容となる見通しで、今後、論議を呼びそうだ。

 まあ、ネットでは議論を呼んでいるようだ。背景は犯罪との関連の認識がある。

 町村信孝官房長官は会合で「携帯を使った犯罪に子供が巻き込まれている以上、ある程度の規制の検討も必要だ」と明言。出席者からは「携帯依存症が懸念される」など携帯電話所持に否定的な意見が相次いだ。

 話を簡素にするために、携帯依存症については捨象しておこうと思う。
 具体的な報告書の方向は次の3点らしい。

 こうした意見を踏まえ、報告書には(1)小・中学生に携帯電話を持たせない(2)機能を通話と居場所確認に限定する(3)有害サイトへの閲覧制限を法的に義務付ける--などの内容が盛り込まれる見通しだ。
 

 すでに記事に書かれているが、異論はこうらしい。

 ただ、(1)に関しては実効性が問題視されており、(2)の携帯電話は商品開発が進んでいない。(3)には「表現の自由」との関係で異論がある。

 実は、この異論について、最初なんとなくふーんと思ったのだが考えてみるとよくわからない。私の思いはこう。(1)の実効性というのは技術の問題ではなく、つまりは親の問題ではないのか。(2)はGPSと音声通話ならよいのか。(3)有害サイト規制については、表現の自由以前に技術的にどうなんだろ。
 愚考を続けるのだが、まず問題範囲は、小中学生であって高校生ではないとしておきたい。そして小中学校にいる間は現状でも携帯電話の利用は禁止されているはずだし、学校が規制できる。
 ということは、問題の領域は、小中学生の通学時、および帰宅後の家庭外活動、家庭内活動という3つの時間領域で区分される。
 そして、ここに親が子どもに携帯電話を与えた理由というかその限定性があるはずだ。このことは先のGPSと通話ならよしということとも関連し、つまり、親の見えないところでの子どもの安全性を確保したいということだろう。
 それが理由で親は子どもに携帯電話を与えているのだろうか。
 そこがどうも世間を眺めてみる感じでは納得いかない。というのは毎朝見かける携帯メール打ちながら歩道を行く学生や、マクドナルドや地域の小図書館に集まってメール見ている学生、夜塾帰りかと思える電車で携帯電話を見ている学生とかの像ととうまく馴染まないからだ。
 とすると、親の思いは思いとして、子どもがたちが勝手に携帯電話を使っているのが問題だということ。つまり、知らぬは親ばかりなり、と。これは、家庭内での携帯電話の利用にも関連してそうなのか。
 繰り返すけど、親は子どものそういう携帯電話の利用を知らない、ないし、困っているのだろうか。そのどちらの理由であっても、小中学生への携帯電話の規制は理解しやすい。
 で、どうか?
 そこが皆目私にはわからない。
 この問題の自分の心でのわからなさは、50歳の私といえば、普通なら小中学生の親どころではなく、高校生・大学生の親の年齢である。だから、自分の同年の人々を見回してみればなるほど、多少は共感的にわかりそうなものだが、そこがわからない。多分に、私のこういう面での感性がないのだということは了解するとしても。
 もう少し言うと、どうも小中学生の親というのは、30代後半から40代前半くらいの親のようだし、母親はそのあたりに固まっている。彼女たちは、いったいこの問題をどう考えているのか。
 ということで視点を変えてそのあたりの年代層の女性を見回すと、私から見るという限定なのだが、彼女たち自身もけっこう携帯メールのやりとりをしている(意外と旦那との連絡にも使っている)。ちょっと誇張して言うと、今回問題とされる小中学生の携帯利用と、母親たちの携帯利用はそれほど変わってない。逆にだから、まるで親には問題意識なんてないんじゃないかと考えるほうが、事態に整合的に思えてくる。
 ここで、私は先日の「マイクロトレンド」のことをふと思い出すのだが、著者マーク・ペンは90年代半ば、クリントン元大統領の選挙参謀的なポジションにあるとき、「サッカーママ」を発見した。中流階級で小中学生の活動に熱心な層だ。ペンはそこの票を狙うには、クリントンに小中学生の教育を語ればよいとした。今回の彼の著作「マイクロトレンド」では、それから10年後としてもはや「サッカーママ」は大半は離婚していることや離婚してなくても家庭経済に対する高等教育の経済負担に関心を持ち、公教育的な充実には関心を失っているとメモしている。
 私がこの「サッカーママ」を連想したのは、先の日本の小中学生の母親たちが、10年前の米国の「サッカーママ」に近似しているのではないかなと思ったからだ。その線で言うと、子どもたちの活動を支援するために子どもにも携帯電話を与え、自分たちも利用している。そしてそのニーズというのは、あまり今後も変わらないだろうし、さらに政府の教育再生懇談会がどうたらまとめても、公教育の公のセクターと、私的なセクターとの分別の暗黙の了解は成立しているのではないか。ちょっと露悪的に言うと、公教育のセクターの限界は親たちにきっちり認識されていて「義務教育なんて、まあ、あんなもの」くらいになっているから、私的なセクターとしての教育を含んだ時間領域の充実に携帯電話が投入されているのではないか。
 とか、思ったのだけどね。

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2008.05.18

イスラエル建国60年周年記念、欧州からの論点

 先日沖縄本土復帰記念日の前日、イスラエル建国60年周年記念があった。欧米紙ではいろいろ取り上げられていた。国内大手紙でも、私の見落としがなければ、朝日新聞”パレスチナ60年―難民の苦境に終止符を”(参照)、読売新聞”イスラエル60歳 現状維持では未来はない”(参照)、毎日新聞”中東紛争60年 国連にもっと大きな役割を”(参照)があった。大手紙ではないがNHKは”時論公論 「イスラエル建国60年、遠のく和平」”(参照)で触れていた。
 率直なところ、平和のためには話し合いが大切、米国や国連はもっと頑張れといった感じで、どれもピンと来なかった。しいて言えば、毎日新聞が重要な問題部分に少し踏み込んでいたかもしれない。


 第二次大戦後の47年、国連総会はパレスチナ地域を二つに分割する決議を採択した。これを後押ししたのは米国だが、ナチスによるホロコースト(大量虐殺)で何百万人もの同胞を失ったユダヤ人に国を与えようという発想が間違っていたわけではあるまい。

 多少なりとも常識のある人なら、イスラエル建国の主体が米国であるかのように読める、この書きように少し首をひねるではないか。というか、なぜバルフォア宣言に触れないのだろうか。
 バルフォア宣言についてウィキペディアの記載は薄いしやや偏向している印象もあるが、それでもそれなりの要点は描かれている(参照)。

バルフォア宣言(ばるふぉあせんげん、英:Balfour Declaration)とは、第一次世界大戦中の1917年11月に、イギリスの外務大臣アーサー・ジェームズ・バルフォアが、イギリスのユダヤ人コミュニティーのリーダーであるライオネル・ウォルター・ロスチャイルド卿に対して送った書簡で表明された、イギリス政府のシオニズム対処方針。


一方で、パレスチナでの国家建設を目指すユダヤ人に支援を約束し、他方でアラブ人にも独立の承認を約束するという、このイギリス政府の矛盾した対応が、現在に至るまでのパレスチナ問題の遠因になったといわれる。

 歴史を顧みるならバルフォア宣言にまつわるイギリスの位置が当然問われるだろうし、毎日新聞社説がホロコーストに言及していた関連もある。つまり、ドイツの問題だ。言うまでもなく、イスラエル建国というのは歴史的に見れば一義に欧州の問題が関わっている。
 なのに国内報道では、私の読み落としかもしれないのだが、まるでタブーのように触れられてなかったし、問題を米国の枠組みに落とし込もうとしている密約でもあるかのようだった。なぜなのだろうか。
 あまり重要な指摘ではないが毎日新聞はさらにこれを国連に結びつける。

 だが、この決定が60年余りに及ぶアラブ・イスラエルの対立を生み出し、その対立解消に国連が実効的な手を打てないできたことを、国際社会は反省する必要がある。和平仲介がもっぱら米国の役目になっているのは、イスラエルの国連不信が一因だが、本来は国連がもっと大きな役割を果たすべきである。

 国連というのは一種の社交界、あるいは連絡会議のようなものでそもそもそんな大きな役割を担えるわけでもない。日本の国連拠出は大きいが平和維持的には他国に比べて弱いなか、どうして日本がこうも国連幻想をいだけるのか不思議に思える。
 話を少し戻すと、イスラエル建国には大きく欧州が関わってくるし、流民という点では旧ソ連や東欧諸国が関連している。そうした配置のなかで、つまり、欧州とイスラエルという図式のなかでは、当然ユダヤ人が問われるはずだ。そこは今どうなっているのだろうか、というのが欧米紙の一つの関心になっていた。なぜか。私の印象では欧州におけるユダヤ人問題があるのだろう。
 日本ではあまり報道されていなかったのではないかと思うが、フランスでは昨年反ユダヤ主義としてイラン・アリミさんをしのぶ無言のデモ(参照)が行われた(なおこのデモはあらゆる人種差別への反対ということになっている)。類似の事件の懸念もときおり話題になる。
 少し古いが状況はそれほど変わっていないだろうとも思うので04年のシャロン発言についても触れておこう。”「在仏ユダヤ人、早く移住を」 シャロン首相発言、仏で反発 ”(2004.07.20読売新聞)より。

イスラエルのシャロン首相が、嫌がらせなどが相次ぐフランスのユダヤ教徒に対し、イスラエルへの移住を奨励する発言を行い、フランスで反発を呼ぶ騒ぎとなっている。シャロン首相はこのほど、エルサレムで開かれた会合で、「仏国では人口の約一割がイスラム教徒で、反イスラエル感情と宣伝工作により、反ユダヤ主義の温床になっている」とした上で「仏国内にいる同胞へ助言するとしたら、一刻も早くイスラエルに移住せよと言うだろう」と述べた。

 なお、同記事でも触れられているが、フランスにはユダヤ系住民約五十万人いる。内年平均二千人がイスラエルに移住する。
 欧州のユダヤ人はイスラエルを安住の地と見ているかというとそこは難しい。記念日にあたりテレグラフは難しい論点を描いた。”Israel's anxiety as Jews prefer Germany ”(参照)より。

In 2003, for example, 12,383 Jews reportedly chose to emigrate from the former Soviet Union to Israel. But 15,442 went to Germany. The latter country, which had conceived the idea of eliminating Jews altogether just 60 years previously, was more enticing to them than the promised land itself.

 旧ソ連からのユダヤ人流出先はイスラエルよりもドイツが多い。

Such a powerful wave of immigration has multiplied Germany's Jewish population tenfold from the 20,000 or so at the time the Berlin Wall fell.

 ドイツにおけるユダヤ人人口の増加は現時点で難しい問題にもなってきている。

But the decision by Soviet Jews to choose Germany over Israel has been cause for serious friction between the two countries.

 ドイツとイスラエルの国家間の問題になっているとしている。

Israel lobbied hard - and ultimately successfully - to persuade Germany to end its generous immigration laws for Jews which encouraged hundreds of thousands to head to the reunited European state after the collapse of communism.

 イスラエルとしてはドイツにユダヤ人を気前よくそう受け入れないでくれということらしい。

Israel's concern is prompted in large part by the word "demographics", which has become a hot topic in the Holy Land. Israel may define itself as the Jewish state, but more than a million of its citizens are Arab Muslims. They have a higher birth rate than Jews, and many in Israel worry that their country's Jewish identity is being diluted. This has inspired headlines warning of a "demographic time bomb".

 このあたりの話は世界を眺めるうえでごく常識だと思うのだがなぜかあまり日本のジャーナリズムでは指摘されていないように思える。少なくとも今回の60周年記念では指摘もされていない。それは、イスラエルという国はけしてユダヤ人の国とは言い難い点だ。イスラエル人口は700万人ほどだが、うちアラブ人が100万人を超える。端的にいえば、アラブ人の同意なくしてイスラエルは存立しないし、今後さらにアラブ人比率が高まる。そのあたりをここでは爆弾と比喩している。
 さらに問題がある。

The other factor, they say, is that with Jewish life flourishing, even where it was all but erased by the Holocaust, Zionism's very raison d'etre is being challenged.

 この問題は非常に微妙だし、関心のある人はテレグラフ論説の文脈を追ってほしいのだが、私が思うのは、ユダヤ人文化というのがそもそもドイツ文化なのではないかということだ。ドイツの文化は第二次大戦前が顕著だが実際にはプロテスタント文化とカトリック文化に分かれており、それにユダヤ文化がグリューの役割として国民文化なり国民国家の様相を示してきた。むしろユダヤ人があってこそドイツのナショナリズムであることは白バラ(参照)がドイツ青年運動に関連することから類推されるだろう。
 この問題の微妙な部分はウォールストリートジャーナル寄稿コラムが”German War Guilt and the Jewish State”(参照)が扱っている。

As Israel celebrates its 60th anniversary there is no denying that the Jewish state has an image problem in Europe.

 イスラエル建国60周年において、ユダヤ人の欧州でのイメージに問題が起きているというのだ。

Opinion polls in the U.S. consistently show that a majority of Americans are sympathetic to Israel. But the situation is the reverse on the other side of the Atlantic. It's particularly bad in Germany. In a British Broadcasting Corp. (BBC) survey last month, for example, Germans were among the Europeans with the least favorable views of Israel, second only to Spain. Even the respondents in the United Arab Emirates had a more positive perception of the Jewish state than Germans did.

 米国は親イスラエルだが、欧州ではそうではないという世論動向がある。しかも、世論的に見れば、日本人には意外かもしれないのだが、アラブのほうが親イスラエル的だという。先にイスラエル内のアラブ人人口に触れたが冷静に考えればそのほうが納得しやすいだろう。
 ドイツには歴史的に難しい問題がある。

In light of the Holocaust, Germany seems to have no choice but to support the Jewish state. Former Green Foreign Minister Joschka Fischer advocated this policy of "historical responsibility" as effortlessly as Christian-Democratic Chancellor Angela Merkel does.

 ドイツはホロコーストの歴史から、対ユダヤ人国家に「歴史的責務」を追うしかないとしている。そこは了解しやすい。

But guilt is an unhealthy basis for a relationship; it easily turns into resentment. This may help explain why so many Germans ? 30% according to last year's survey by Bertelsmann Foundation --- are eager to compare Israel to fascist Germany. If it were true that Israelis are modern-day Nazis, there would be less reason to feel guilty about the real Nazis.

 だがそうした歴史観をベースにした罪責観が世論的には逆に触れてしまっているらしい。そしてむしろ、現イスラエルをナチスになぞらえて考えるドイツ人が増えている。この寄稿でも触れているが、戦後世代のドイツ人にしてみると、「歴史的責務」がうまく共有されないこともあるのだろう。
 逆にイスラエルの建国を是とできないという世論もあるらしい。

Israel's detractors take this argument one step further, claiming it was immoral to establish a Jewish state in the Middle East to atone for European crimes.

 歴史が流れるというのは皮肉なものだとも思える。
 文脈では米国が親イスラエルである理由を宗教文化的な背景で見ている。

A key factor is Americans' appreciation of their Judeo-Christian heritage. While this is a common term in the U.S., it is a novel concept in Europe. Only recently has it found its way into the vocabulary of a few conservative Germans. Ms. Merkel and colleagues from Poland and Italy wanted to add a reference to the Continent's Judeo-Christian heritage to Europe's proposed constitution. The idea was rejected as too divisive.

 このJudeo-Christian heritageというのは、「極東ブログ: ヒラリー・クリントンはユダヤ人じゃないよというお話」(参照)のような事例からもわかりやすい。
 しかし、昨今の米国の親イスラエルや欧州における反イスラエルの動向は、さらに言い尽くしがたい微妙な問題を孕みつつあるようにも見える。

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2008.05.17

[書評]書籍「マイクロトレンド」の序文について

 先日のエントリ「極東ブログ: [書評]マイクロトレンド 世の中を動かす1%の人びと(マーク・J・ペン)」(参照)だが、私の書き方が悪く、誤解されたむきもあるかもしれないが、翻訳として悪いわけではない。誤訳が多いということではなく、むしろ良質な翻訳だろう。

cover
マイクロトレンド
 訳書の問題点は、私の考えだが、4つあって、1つは一番重要な概論である序文が大幅に編集されていて、冒頭から読み進めると「マイクロトレンド」ということがなにかが翻訳書では理解しづらい。2つめは、三浦展による各項目の補足はそれはそれとして彼の概括はオリジナルの主張と反対になっている。3つめはオリジナルでは75項目あるのに訳書では41項目なので約半分の抄訳である。4つめは抄訳で割愛された部分について、選挙など政治関連の世論調査家としてマーク・ペンが一番主力を置いているはずの政治・人種・宗教といった部分がほとんどタブーであるかのように削除されているということだ。
 以上をのぞけば、訳出された項目についてはさらっと読むことができるし、それなり社会動向や、商品開発、選挙といったことに関心のある人は一読しておいたほうがよいだろう。むしろお勧めしたい。
 4つの問題に点に戻るが、3と4の抄訳についてはいかんともしがたい。別途続巻を出すか(これは皮肉ではなく政治・人種・宗教に詳しい識者の論説をともに出版するとよいと思う)、新装版を出してもいいだろう。
 2の三浦展の概説については、ごく簡単な週刊誌の書評程度で書かれたと見ればあまり目くじらを立てるほどのことでもないだろうし、むしろ抄訳本としてはマッチしていると出版側が考えたのも頷けるかもしれない。
 つまり、ブログなどで対応・補足できるとしたら、序文のサマリーと、マイクロトレンドがどのような意味を持つかという解説だろう。ということで、あまりきちんとした解説ではないけど、少し補足しておきたい。
 最初に翻訳本の「はじめに」がどのように編集されているかを具体的に示すために、オリジナルと対照できる部分をブロックにわけてみた。具体的には、この翻訳の「はじめに」はオリジナルを切り刻んでつなぎ合わせているので、つなぎ目ごとにA、B、Cとブロックわけしてみた。全体は、ABCDEFGHの8つの断片に分かれる。これがオリジナルではどのように出現するかというのを示すと前回言い方はよくないがかなり編集されたとしたことはある程度客観性を持つだろう。
 その順序だが、F、B、D、G、C、E、A、Hである。かなりランダムに近いが、AとHが後半に固まっているので、それを大幅に割愛した前半から切り取り集めたということだろう。
 次に、邦訳書の「はじめに」で省略された部分を基本に、オリジナルの序説を再構成してみたい。なお、邦訳書で編集された「あとがき」とオリジナルの結語の対応についてはここでは触れないが、やはり異質なものに書き換わっている。
 まず、オリジナルの序文だが、断片Fの前にオリジナルの冒頭に数パラグラフがあり、ここでは、米国の60年代のフォード型の画一的生産と、現在の小さく細分化された生産が対比されている。これは、あとで、フォード対スタバという対照になる。フォードのように単一の生産物を単一の工程で生産する段階を米国が終え、スタバのように細かいニーズにカスタマイズしたサービス産業が主流になったということだ。そこはごく常識的でもあるが、次の指摘は多少留意させられるものがある。フォード型の産業に対して。

But ask two-thirds of America, and they will tell you they work for a small business.
(アメリカの三分の二を取り上げれば、労働者はスモールビジネスに従事していると言うだろう。)

 このあたりは、いわゆるSOHOと同定されるものではなく、大企業に属しても自身の理解としてsmall buisinessということはありうるだろう。しかし、サービス側から見れば、いずれにせよ、小範囲の規模で足りる仕事に従事しているとは言えるだろうし、ペンは明記していないが、それがIT革命の達成でもあるだろう(クルーグマンとかわかってないっぽいけど)。さらに言えば、small buisinessはいわばブレーンのビジネスなのでリザルトが小さいということではない。途上国側のフォード的な生産を統括しているとイメージすればいいかもしれない。いずれにせよ、ここからマイクロトレンドが語られる点は興味深い。

Many of the biggest movements in America today are small --- generally hidden from all but the most careful observer.
(アメリカでの大きな変化の大半は規模が小さく、注意深い観察者を除けば一般的には隠されている。)

 マイクロトレンドの累積が大きな変化なのだが、個々のマイクロトレンドはわかりづらい。なぜか。以下は邦訳書の初めにも含まれているのだが原文で引き、訳を変える。

Microtrends is based on the idea that the most powerful forces in our society are the emerging, counterintuitve trends that are shaping tomorrow right before us.
(私たちの社会で最も強い力は、私たちの前に未来の真相を形作る新興で反直感的なトレンドであるという考えにマイクロトレンドは基づいている。)

 マイクロトレンドは、counterintuitve(反直感的)であるというこがとても重要なことで、the most careful observerは理解しえるかもしれないが、いわゆるトレンドウォッチャー的な直感ではわからないものとするのが、本書の方法論的な原点になる。
 なぜそうなのか。

The power of individual choices has never been greater, and the reasons and patterns for those choices never harder to understand and analyze.
(個人選択の力はかつてないほど大きくなり、その理由とパターンの理解や分析もかつてないど困難になった。)

 マイクロトレンドの背景にあるのは、人々の選択の力の不可解ともいえる増大だとしている。
 これは、私見が入るのだが、多様な消費のなかにしか、消費の可能性がなくなってきているか、あるいは、従来の消費社会のようなベース部分の解放を意味しているだろう。たとえば、エンゲル係数といった観点は、具体的な食品の市場の可能性においてはすでに意味がなくなりつつある。ただし、ここは逆に各種のアナクロニズムが住んではいるが。
 その意味で、ガルブレイスの「ゆたかな社会」(参照)との関連やその後の資本主義観にも関わってくる。多少放言すれば、現代は資本主義だ、マルクスは再解釈されるとかいうのであれば、その前に資本主義の変化が考察されなければならないのだが。
 いずれにせよ、ペンの視線は、個人の解放、しかも、消費動向としての解放が、市場を決定するという日本でいえば吉本隆明の考えに基礎が近い。
 なぜペンはそうした、人々=大衆から思考するにようになったのか。訳書では「あとがき」に編集で移動されているが、それが引き続き語られる。重要なのは、ペンの思想は、米国の古典的な政治学者V. O. Key(参照)を継承していることだ。日本ではキーについてはあまり語られていないようだが、戦前の政治やおそらく日本の統治にもなんらかの影響があるだろう。ペンをキーの系譜で見直すと、マイクロトレンドが実は政治学にもっとも近いことは理解しやすいだろう。
 キーのテーゼは「有権者はバカではない」ということだ。余談になるが、小泉郵政選挙の際ネットではチーム世耕による情報工作だという話も広げられたが、そのあたりはまさにキーのテーゼに反している。
 もちろん、ペンはキーのテーゼをそのまま受けているわけではない。が、むしろ人々の政治行動を、仮定の原則として正しいと見る方法論は重要だろう。この点も吉本隆明の政治観に似ている。
 次に邦訳書の「はじめに」でも引かれている部分だ。そうはいっても、人々の政治や消費活動は、全体として見れば矛盾しているように見える。健康食を求めながらビッグマックが売れているというぐあいに。
 この矛盾は、トレンドをマクロトレンドやメガトレンドとして考えるからで、個人の選択は各人の嗜好を是とする(人々は正しい選択をする)から考えれば、各種のマイクロトレンドとして独立して見る方法論が重要になる。
 ここで当然の流れのようにペンがクリントン政権樹立にどのように関わったかというエピソードが入るのだが、邦訳では一部が訳者の解説に織り込まれ、大半は「あとがき」に移動されている。
 エピソードの重要点は「サッカーママ」だ。中流階級の既婚女性で子どものサッカー活動なに推進するという層だ。クリントン政権樹立時はそうしたグループが政治的には見えてこなかった。しかし、そこへの攻勢が重要になったとしている。ペンは当時のアメリカの有権者分析をして、男性の投票行動に対するキャンペーンがあまり有効ではないことを知った。そして「サッカーママ」の存在を見つけていく。ここでもやや余談だが、ようやく日本でも「サッカーママ」は政治的な力になりそうだ。特に東京郊外部の中流階層からやや下あたりにそうした動向が見られる。
 邦訳書はペンのそうした政治との関わりをごっそりと「あとがき」に回し、1%の人々が世界を変えるという話を取り上げ、翻訳初の副題にもしているのだが、再び、邦訳書から消された部分に文脈を戻すと、その1%は、むしろ、不法移民が参照されているのだ。
 つまり、以前はサッカーママが政治の舞台に上がらなかったように、不法移民もこれまではそうした舞台から見えなかった。しかし、今では新しい政治動向となりつつあるということだ。
 個人の選択力が政治的にも広がるときそれは政治的な力になりうる。
 ペンはその援助としてインターネットが人々を繋げる要因も上げているし、今日世界のテロもそうしたマイクロトレンドに結びつけている。テロはマイクロトレンド的な政治意識から発生しているとも見ている。
 日本と違うのは、ペンはこうしたマイクロトレンドを、米国の成長、巨大化とも結びつけている点だ。ペンは具体的には触れていないが、そう遠くない未来に、中国は老人国となり人口の拡大も止まる。ざっくりと12億人としてよいかわからないが、米国は4億人になる。ちなみにロシアや日本は縮退し、EUやイスラム圏になる。教育差を考えれば米国が来世紀にもスーパーパワーで君臨するだろうが、そうした未来像がなにげなく本書マイクロトレンドに組み込まれている。
 逆にいえば、日本のように縮小し老人化していく国のマイクロトレンドは大枠において異なる可能性がある。(たぶん老人の活動が日本を混乱させるだろうとは思うが。)
 話を戻して、邦訳書ではこの先にその「はじめに」の冒頭が繋がり、フォードとスタバの例が引かれる。
 次に大きく邦訳書の「はじめに」で抜けているのが、"The Power of Numbers"という小項目で、これは「あとがき」に編集で移動している。ここではマイクロトレンド読み出しに関する方法論で、統計をどのように考えるか、恣意的にしないためにはどうするかが論じられる。
 そして最終部は邦訳の「はじめに」でも多めに翻訳されるのだが、次の重要な、と言っていいだろう一文は「あとがき」に回されている。

Hidden right in front fo us are powerful counterintuitive trends that can be used to drive new business, run a campaign, start a movement, or guide your investment strategy.
(私たちの目前で隠されている真相は、強力に反直感的なトレンドであるが、それは、新規ビジネスや、選挙活動、社会運動、投資指針に利用できる。)

 つまり、マイクロトレンドを知ることが、新しいビジネスのチャンスを得ることであり、ペンの専門である政治活動でもあり、さらに投資にも重要だということだ。

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2008.05.15

[書評]マイクロトレンド 世の中を動かす1%の人びと(マーク・J・ペン)

 「マイクロトレンド 世の中を動かす1%の人びと(マーク・J・ペン)」(参照)が翻訳されているのを知らなかったので、えっと思って中身も見ずに買ってしまった。

cover
マイクロトレンド
 これって弾小飼さんの書評にあったっけ。というのもなんだが、出版社さんはまず弾さんに寄贈というところからブログの世界で新刊書の通知という時代なのかな。
 原書のほう「Microtrends: The Small Forces Behind Tomorrow's Big Changes(Mark J. Penn, E. Kinney Zalesne)」(参照)はすでに昨年に買ってちらほらと読んでいたし、これはきっと翻訳が出るだろうし出たら買うかという心づもりでいたのも、訳本の中身も見ずに買った理由。
 で、びっくりした。というか、ちょっとこの厚みであの内容が入っているわけない感はあったのだけど、この訳本はだいたい中身は半分といったところ。抄訳だ。訳の質は悪くはないし、それなりに編集の手も入っているけど、これは続巻を出していいか、もし原書のほうがさらに生き延びるようなら再出版していいのではないか。
 アマゾンの読者評にもあるけど。

★★☆☆☆ 納得いかない, 2008/5/11
By meta-o (奈良県) - レビューをすべて見る

原書では70のマイクロトレンドが紹介されているそうだが、この訳書ではそのうち41しか載っていない(しかも、抄訳だということに初めて気づいたのは訳者あとがきだった)。監修者の解説テキストが各所に散りばめられているにもかかわらずだ。内容がとても興味深いだけに残念である。


 ええと、正確に言うと、原書では「70のマイクロトレンド」ではなく、75個ある。
 そして訳書を読み返してぎょっとしたのだけど、一番重要な概説が書いてある「はじめに」にかなり編集が入っていてわかりづらい。最初からこの訳書を読み進めると、オリジナルの半分の内容かそれ以下といった印象を持つだろう。またオリジナルの序文の話のかなりの部分が、訳書の「あとがき」へ編入されていて、オリジナルの結語と異なる。
cover
Microtrends(洋書)
 出版側としても日本人に関心のない項目なんか入れたら厚くって売れないでしょという思いがあったのだろうし、それも出版界の論理としてわからないではないけど、この訳本、人種、宗教、政治がごそっと抜けている。そのあたりの情報はけっこう日本の未来に死活問題が関わってもいると思うだけど。
 たとえば、邦訳書に含まれていない"Christian Zionist"(キリスト教徒のシオニスト)っていうのは、今の大統領選挙戦にかなり死活問題。マケインもイスラエル詣でをしてたり、ヒラリーがイランの核がイスラエルに及べば戦争も辞さないみたいなことを吠える背景には、"Christian Zionist"も考えに入れたほうがいい。それとあまり言うにはばかれるけど日本のマスメディアにも奇妙な影響がある。まあ、そのあたりは私のブログのネタにでもいずれするかもしれない。
 抄訳であることは、訳者も新婚でいろいろ大変だったのかもしれないなか、こっそっと「訳者あとがき」で良心的に書いてもいる。

 今回、日本語版を刊行するにあたっては、人種間や宗教のトレンドなどアメリカに顕著な事情や、日本のほうが先行したり逆行していたりするものは基本的に割愛し、結果的に精選した41のマイクロトレンドに絞らせていただいた。原書で紹介されているすべてのトレンドを紹介できなかったことは残念でならないが、割愛せざるを得なかった項目に興味をお持ちの方は、ぜひ原書にチャレンジしてみていただきたい。

 このあとがき、でも、よく読むと、原書の序文を折り込んでいるんですよね。それもちょっとなあという感じはするけど。
 個々のマイクロトレンドについては、読めばわかるというか、普通に面白いので、なんだかんだ言っても日本語で週刊誌のように読める点でお勧めはしたい。というか、とりあえず半分さくっと読むにはお勧め。
 先ほど、訳書の「はじめに」にかなり編集が入っていると書いたが、実際この「はじめに」の概論部分を細かく原文と対照作業してみたら、勝手な作文が書いてあるわけではないのだけど、オリジナルのあっちこっちから順序不同に近いかたちでパッチワークになっている。そして結果、出来た邦訳の「はじめに」はそれなりにスジが通っているからいいのかもしれないといえば、そうかもだが、私の印象ではなんか別の話になっている。
 困ったことに訳書で解説をしている三浦展の「本書の読み解き方」が、私の見た感じだけど、見事に外している。三浦はオリジナルを読んでいないのではないか。別に三浦をタメで批判したわけではないけど、これはちょっと困るなという感じがするので、以下ちょっとメモしておきたい。各種の新しい動向について三浦は。

それらは最初は小さな動きなので見逃しがちだが、実はその根底に社会の大きな構造変動があるのだというのが本書の著者マーク J・ペンの主張であると言えるだろう。

 「であると言えるであろう」というあたりに率直に「読んでないのでわかりません」を聞き取るべきかもしれない。
 確かに現代社会に大きな構造変動があると言えないこともないのだが、ペンの主張は、構造変動よりマス(大衆)がインターネットなどで結合し巨大化したために、全体から見ればわずかな人々の結合でも社会影響力を持つようになったということで、構造変動というより特定分野で可視になる全体の量的拡大のスレショルドが超えたことで、マイクロトレンドのような相対的少数者を介しても構造変動をもたらしうるということだ。
 むしろペンは、「大きな構造変動」といったいわばメガトレンドようなものを否定している。その意味で、三浦の理解は本書の基本コンセプトとまったく逆になっている。繰り返すが、大きな変動を社会に見いだそうとすれば相矛盾した重要なトレンドを相殺してしまい社会考察として意味が失われてしまうということが重要だ。この点はマーケットの世界ではごく常識化してはいるだろうが(だからトレンドウォッチからマーケティングができない)。
 ここも違う。

 考えてみれば、最もマイクロなマイクロトレンドとは、まさに自分という個人の中のトレンドであろう。だとしたら、まず自分の日常生活における意識や行動の小さな変化に対して自覚的であることが、マイクロトレンドを発見するいちばんの早道であるに違いない。

 ここは、しいて言えばと留保はするけど、2点間違っている。ペンがマイクロトレンドを提示したのは、マイノリティグループというべたな意味ではないけど少数の人々が、身近な他者であるとして、見えづらい小さな連携のなかでアイデンティティを見つける傾向を通して、市民社会の内在にある、従来の手法では定義しがたい他者という存在を理解するための方法論、つまり多様な市民を理解する一助にしたいということがある。三浦のように日本人にありがちな自己探し的な枠組みの発想ではなく、ペンはむしろなるほど民主党の参謀らしいリベラルなコミュニティ志向があるのだ。
 2つめの三浦の間違いは(というと言葉もきつくてごめんなさいな)、それが自覚可能だとしている点だ。本書は、訳の都合もあるのだけど、重要なキーワード、"counterintuitive"が文脈に開かれているので、キーワードとして意識しづらい。そこも問題なのかもしれないが、ペンはマイクロトレンドは"counterintuitive"(反直感的)であるということを基軸に置いている。三浦はこれを常識の逆転と理解しているのだが、そうではない。ペンは、社会の常識や直感的な理解からマイクロトレンドは見えないですよと主張しているのだ。だからこそ、統計など方法論を重視している。
 この"counterintuitive"は、先の他者理解とも関連していて、三浦のように自分の身の回りの繊細な観察・理解といったものが自己に閉鎖してしまう点に対する、対抗的な方法論として描かれている。他者理解というものの本質的な難しさがペンの手法に組み込まれているのが本書の重要性だ。
 そもそも、ペンがなぜマイクロトレンドを書いたのかというのは、クリントン大統領時代からの民主党の参謀として、人々を細かく、方法論を介して見ていたからで、そうした政治の関連がある。
 ところがペンと政治の関連について、オリジナルの序文から翻訳書では削除され、訳書の「あとがき」に編集して移されている。
 逆に言えば、本書は、選挙ための書籍だともいえる。自民党でも民社党でもすこし頭の切れる人がいるなら、本書から学び得るところは大きいはずだ。もっともそんなことすでに知っているという返答も来そうだが、いちおう識者とされている三浦展の理解からするとそうでもないように思える。
 オリジナルの内容についての話は、このブログでも別途するかもしれないが、"counterintuitive"であるという他者性は、しかし、その個人がマイクロトレンドにいるときはむしろ自明な自覚になることが、自分でも興味深い。具体的には、個人的にはだが、「はてな村」とかTwitterにいると、自分がまさに各種の未知なるマイクロトレンドにすでに浸されている実感はある。

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2008.05.14

奈良は中日の文化の源を同じくするシンボルです

 私は中国語がわからないのだけど、漢字の字面をつらつらと見ているとそれなりに何を言いたいかくらいはわかるというか、普通日本人はそうかな。いきなり余談だが、台湾を旅行したとき同行した日本人が旧字が読めないので、へえと思った。私は中学生時代角川文庫のショーペンハウエルとかで覚えたものだったのに。
 胡錦濤主席の訪問もつつがなく終え、それはそれでよかったのではないかと思うが、さて中国での受け止め方かたはどうだろうと、報道を見て回ったのだが、げ、日中友好トーンばっかしじゃんという雰囲気で驚いた。しかも、そのトーンがいかにダライが間違っているかの裏返し的トーンなのでさらに萎えた。しかし、そういうことにいろいろ言ってしかたないなと思って、そういえば胡主席が奈良を訪問したとき、どんな印象を持ったのか、あれかな、韓国の人のように彼らの祖先の偉大な歴史遺産に感銘を受けるの類かなと、どうかな。で、中国人もそうみたい。
 チャイナニューズ・コム”背景:文化渊源一线牵 奈良是中日文化同源的象征”(参照)をエキサイトの自動翻訳で読んでみた。表題は、「文化の源の第一線は引っ張ります。奈良は中日の文化の源(語源)を同じくするシンボルです」、はあ?だけど、ようするに奈良の古寺を見ると中日の文化の起源は同じだということっぽい。っていうか、それって、ようするに中国が起源ってことですよね、FA?


  中日文化同源,奈良是个象征。奈良在日本中南部,是日本文化的发祥地。奈良是公元710年仿照中国唐代的长安城修建的“平京城”,直到784年都是日本的首都,在74年中先后有七代天皇在奈良主政。

 中日の文化は源(語源)を同じくして、奈良はシンボルです。奈良は日本中南部にになって、日本の文化の発祥地です。奈良は西暦紀元710年中国の唐代の長安城の建造する“京城と引き分けします”をまねるので、784年まですべて日本の首都で、74年の中に相前後して7世代の天皇は奈良で統治します。


 “京城と引き分けします”は平城京の意訳かな。とはいえうろ覚えだけど、平城京という名称にはちょっとややこしい由来があったかと思ったがウィキペディアなどには書いてないな、たしか北魏の平城京ではないか。つまり、鮮卑だ。ちなみに、ちょこっとトンデモ話を書くと私は日本王朝の起源は鮮卑の傭兵ではないかと思っている。それはさておき、名前の由来からして、モデルは洛陽城かなとも思っている。このあたりについては専門家的にはすでに決しているのだろうか。
 話を戻すと「中国の唐代の長安城……まねる」として長安の模倣ということで中国的には決まりっぽい。つうわけで、日本の王城は中国のコピーでっせということだ。またちょこっとトンデモにずれるとそれでいいかもとも思う。壬申の乱というのは私は唐がしかけた内戦ではないと思うし、その結果が平城京ならそれもありかもしれない。さらに言うと、これはトンデモのつもりなく書くのだが、唐自身が鮮卑系の王朝で漢族ではない。

 唐代中国的佛学、建筑、医学、诗歌曾是日本古代文明的重要源泉。法隆寺始建于公元607年,是日本圣德太子当政时修建的。法隆寺有48座佛教建筑,其中11座建筑修建于公元8世纪前后,体现了中国古代佛教建筑与日本文化的融合。

唐代に中国の仏教学、建物、医学、詩歌はかつて日本の古代の文明的な重要な源でした。法隆の寺は西暦紀元607年に作られて、日本の聖徳太子の政権を握る時が建造したのです。法隆の寺は造る48基の仏教があって、その中の11基の建物は西暦紀元の8世紀の前後に建造して、中国を体現していて古代仏教が日本の文化との融合を造りました。


 ようするに日本の古代の文化はすべて中国様に由来するよ~んということ。
 それはそんなところだが、聖徳太子が出てくるあたりが香ばしい。そろそろ聖徳太子の実在は歴史学的にも疑問が一般化するのではないか。そして、仮に聖徳太子を認めるとして、法隆寺の様式はたしか高句麗様式。日本書紀などを読んでもこの時代は高句麗僧による歴史が基礎になっている。そしてこの時代、高句麗と隋は対立の関係にあり、というか、隋の滅亡はその対立の影響に由来するといってもよい。倭国王タラシヒコからの書簡は遊牧民族の形式で書かれており、おそらくその時代の外交を反映しているのだろう。

唐招提寺更是中日友好交往历史的见证。它是唐代高僧鉴真(公元688—763年)东渡日本后,于公元759年开工修建的,具有浓郁的中国盛唐建筑风格,已被确定为日本国宝。当时,扬州的鉴真和尚受日本留学僧之邀赴日传道,五次东渡失败,双目失明仍矢志不渝。

唐は招いて寺の更に中日の友好的な往来の歴史の目撃証言を持ちます。それが唐代に高僧の鑑真(西暦紀元688―763年)が日本へ渡ったのになった後に、西暦紀元に759年工事を始めて建造して、濃厚な中国の盛唐の建築の風格を持って、すでに日本の国宝に確定されます。その時、揚州の鑑真は僧のに日本に留学されて日本へ行って布教することを招いて、5回は失敗に日本へ渡って、両眼とも失明して依然として志を変えないことを誓います。


 「唐は招いて寺」は唐招提寺。話は鑑真和上になるのだが、失明してまで日本に文化を伝えようとした先人に胡錦濤さんは自身のなぞらえていらっしゃるのかもしれない。ありがち。
 鑑真の招聘にはいろいろごちゃごちゃした背景があり、必ずしも歴史学的な定見はないと思うが、それでも、仏教として「戒」を伝えなくてはという仏教徒の思いはあるだろう。で、日本はその戒のちゃぶ台替えしをしたし、鑑真和上に窓際冷や飯食わせたり、もうこのあたりの日本人のありかたはちょっと恥ずかしいものがありますなというのはたしかに。これは、ちょっと中国人には内緒ですな。

其后,日本古代高僧空海于公元804年到长安留学,带回大量经书,建立日本真言密宗,醍醐天皇赐为弘法大师,使佛教在日本进一步弘扬光大。

その後、日本は古代高僧の空っぽな海は西暦紀元に804年長安の留学に着いて、大量の経書を持ち帰って、日本の真言の密宗を創立して、精製した乳酪の天皇はいただいて弘法大家になって、仏教に日本でいっそう発揚して盛大にさせます。


 「古代高僧の空っぽな海」というのは案外言えているかも。「精製した乳酪の天皇」も案外体臭とかそれっぽかっとか。
 与太はさておき、空海の留学は留学か。密航とまではいえないか。いずれにせよ、留学僧はそそくさと帰国してはいけないという日本国法はさっさと無視してしまう。まあ、そのくらいの大人物だったとも言えるのだけど。
 たらたら行ってみよう。

 至今,中国传统文化精髓仍然是日本民族的精神食粮。《论语》、《孟子》、《老子》、《庄子》等译著在日本的书店中常年畅销不衰,甚至连明代作者洪应明所著《菜根谭》也成为近年最抢手的畅销书之一。

 今なお、中国の伝統の文化の精髄は依然として日本の民族の精神の糧です。《言葉を議論します》、《孟子》、《俺様》、《庄子》などの訳著が日本の本屋の中でいつもよく売れるのが衰えないで、甚だしきに至っては明朝は作者の洪応が明るくて《野菜の根譚》を書いたのさえ近年最も人気があるベストセラーの1つになります。


 「今なお、中国の伝統の文化の精髄は依然として日本の民族の精神の糧です」とのことで、それはというと、《言葉を議論します》……はてなかよ。《俺様》……アルファブロガー? 《庄子》……知らないなあ。
 「甚だしきに至っては明朝は作者の洪応が明るくて《野菜の根譚》」は、たしかに、甚だしきに至っているかもだけど、野菜の根の物語というのは、意外とよい訳かもしれない。「汪信民、嘗って人は常に菜根を咬み得ば、則ち百事做すべし、と言う。胡康侯はこれを聞き、節を撃ちて嘆賞せり」という。格差社会で成功する金言というべしだけど、あれですよ、メタボを避ければよろしという現代的解釈も可。

各种版本的《三国演义》家喻户晓,连《杨家将》也成为日本当代作家手中的创作题材。在日本,学习汉语的人不断增加,据报道现约有200多万人,仅次于学习英语的人数。

各種のバージョンの《三国史演義》は津々浦々に知れ渡っていて、《楊の家》さえ日本の現代の作家の手の中の創作する題材になります。


 各種のバージョンの《三国史演義》は横山光輝かな、《楊の家》さえ日本の現代の作家というのはソープに行けでネットで有名な北方先生でしょうか。
 そして中国語熱というのはたしかにあるかな。

回顾中日友好交往的这段历史,更加坚定了双方在新世纪构筑全面战略互惠关系,共同为亚洲及世界和平发展做出贡献的决心。

中日の友好的な往来のこの歴史を振りかえって、いっそう双方が新世紀に全面的な戦略を構築して相互に利益があって関係を固めて、共にアジアと世界平和のために発展して貢献の決心をします。


cover
楊家将〈上〉
北方謙三
 まあ、歴史を忘れるなという対象がなんであれ友好っていうのはいいことなんじゃないでしょうかっていうか、この論説、中国向けなんですよね。ちょっとなあ。

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2008.05.13

昨日の朝日新聞のクルーグマンのインタビューとか読んで

 私が書くと与太話になってしまうかな。昨日の朝日新聞9面にクルーグマンのインタビュー記事があって、軽いタッチで書かれていて面白かった。たぶん、一日遅れくらいでネットに掲載されるんじゃないかな、と思っていたけど、どうなんでしょ。「グローバル化の正体@米国経済」ってやつです。まあ、ちょっとアレゲな枠がかっちり感はあるのですがね。
 じゃ、たらたらと。
 まず、グローバル化って何?というのが冒頭あって。


政府や自然による障壁が減り、世界の人々とさまざまな仕事や取引をしやすくなったということだ。

 なんとま大雑把な。間違ってはいないけど意味のない定義とか昔のチョムスキーが言いそうな感じ。
 その歴史背景はというと、まず第一段階はこう、世界経済の形成時期。

19世紀半ば、鉄道と汽船、電報で遠隔地の経済が結ばれ、例えば英国がニュージーランドからの肉輸入で食料をまかなうようになった。

 なんかリカルドとかマルクスとか読んでる雰囲気。第二段階は。

これは70年代以降のコンテナ輸送とファクスの急速な普及や、関税引き下げなどによるもので、はるか遠く離れた顧客のために多くのモノやサービスを互いに生産しあうような世界になった。

 クルーグマン御大だと、ほいだけ。IT技術というのはとくにどってことはなさげ。
 金本位制崩壊、プラザ合意、金融テクノロジーっていうのが重要なんではないのかな、ぽりぽりっとか私なんかは思うのだけど、どうなんすかね。え、先に行け? はいはい。
 つうことでグローバル化で世界はどうなったか。

経済をより効率的にした半面、所得配分を悪化させた。工業製品の生産を途上国に移転することで、値段が安くなった半面、高等教育を受けていない労働者の賃金を削減した。

 え? これってマジ、クルーグマン御大? なんか冗談を読まされているような。なんか昔のアルジリ・エマニュエルでも読んでいるような感じ。ってか、違うのかもしれないけど、でもだとするとそれって労働力の可動性の問題で、で、っていうことはまさにそれがITで移動したりっていうのが現在のグローバル化の問題ではないの。違う? あ、違いますか。っていうか、クルーグマンって保護主義者だったのか? 
 で、あれですかい、話題の格差っていうか不平等?

米国の不平等については、他の先進国以上に政治が最大の問題だ。もちろん、技術革新や貿易などの要因もあり、その背景にグローバル化がある。

 いや率直に何おっしゃてるのかわからん。引用が少ないせいもあるのだろうけど、でも全文引用してもわからんと思う。グローバル化つまりクルーグマン的には、70年代のモノ・情報の移動の高度化が背景となって技術革新や貿易がある? わからん。で、それと米国の不平等は直接は関係しない、と。
 つまり、米国の社会問題は、グローバル化とは直接は関係ないってこと。ああ、それならわかるな。日本のグローバル化が格差問題に関係してないことからでも(いやこれは冗談です)。
 共和党のイデオロギーは保守的か? という朝日新聞の問い掛けに。

そう。裕福な人々の税金を軽減し、社会保障のプログラムを減らすことをめざす動きで、基本的に不平等を拡大するものだ。

 でもグローバルにはそれで富は拡散して、世界全体的には貧困や飢餓から抜け出せたのではないかな。っていうか、民主党のほうが保守主義っぽく見えるんだけど。
 ようやくキモだけど。

米国のセーフティネットは他の先進国に比べて極端に弱いから、強化すべきだ。とりわけ重要なのは、国家的な医療保険制度を持つことだ。底辺の不平等を改善し、貧困の削減に大いに役立つ。一方、労働政策を変更し、労働者が労働組合を組織しやすいようにすることも必要だ。

 つまり日本のほうがセーフティネットがしっかりしているんですよ。つまり日本のほうが医療保険制度がしっかりしているんですよ。
 話が右往左往して。

世界は決してフラット(平ら)ではない。先端技術を担える人材がいるところと、そうでないところでは投資に差が出る。米国と中国の製造業の平均賃金が将来は同等になるとしても、それは何十年も先のことだ。中国の製造業の生産性は先進国の10%以下だから、中国の賃金が上がるにしても限度がある。

 これは概ねそうかな。
 もっと、医療従事者とか学者とか、国境を越えちゃうし、シンガポールとか呼び寄せているし、そういうのがグローバル化なんすけどはまあとりあえずおいといてもいいか。で、中国の生産性というのは、あれ、資源利用の効率とかも関係するというか、中国人これからどう働くのでしょうっていうか、南アに出稼ぎとかね、よしとけばいいのに。
 金融危機については。

中国からの資金流入が金利低下を加速し、低所得者向け(サブプライム)融資ブームに油を注いだ面がある。

 へぇ。っていうか、資金流入させた別の国へのご配慮、ありがとう。でも、まあそういう面もあるくらいかな。

だが、金融機関の破綻がグローバル化のせいだとは言えない。これは基本的にウォール街の取引の複雑化に由来する危機で、米国産の現象だ。

 まあ、そうかな。EUの信用縮小は目をつぶると。
 目下の危機には、公的資金投入で30年代の不況再来を防ごうというのだけど、それなあ、むしろ雇用の問題じゃないかな。ロバート・サミュエルソンが言っているけど、失業補償を伸ばしたほうが効果的なんじゃないか、っていうか、サミュエルソンのように本当に危機なんかいかな的気分があるのだが。
 締めは日本だよ。日本。

日本の景気は回復したが、それは経済政策のおかげではなく、技術革新が進み、投資が望ましい水準に戻ったからだ。

 一瞬、え゛とか言いそうになるけど、概ねのところそう言ってもいいか。

しかし、日本経済はまだデフレのがけっぷちにある。経済をさらに上向かせるには、日銀が2%今日の物価上昇率を目標に掲げるよう私は提案してきたが、今も同じだ。

 それは言わないお約束。

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2008.05.12

[書評]私塾のすすめ(齋藤孝・梅田望夫)

 私などはブログの世界にいるせいか「私塾のすすめ ここから創造が生まれる」(参照)を梅田望夫対談シリーズ第三弾として読んでしまいがちになるが、二、三度読み返して、本書は基本的には斎藤孝ワールドを広げる形で読まれるというのが現在の日本の読書界あるいは出版界の妥当な位置づけではないかと思えた。たぶんその意図は達成されるだろうし、広く好意的に受容される対談になっていると評価する。

cover
私塾のすすめ
齋藤孝・梅田望夫
 うまく配慮が盛り込めないので失礼な言い方になるかもしれないが、対談の当初から斎藤孝はそういう構え(齋藤ワールドのまた一冊を作ること)でいたのだろう。多作の斎藤にしてみれば編集者から期待された著作群の拡張の一つだ。梅田もそこにビジネス的によく配慮し、齋藤の著作をよく学んでから対談に臨んでいる。
 だから齋藤ワールド的な滑らかな対談の流れが想定されるはずなのだが、実際の対談は梅田の情熱の側に歪むというか引きつけられトーヌスが発生している。齋藤は梅田からの問い掛けに、従来どおりの齋藤ワールドで答えつつも微妙なズレのところで引き返し、また梅田が問い掛けるという波がこの対談にはある。
 両者とも対談に手慣れた人だし、おそらく編集の阿吽もあってそうしたズレのような部分は表面的には見えにくい。対談書としての基本的なテーマ「私塾」にもうまく統合しているかに見える。さらに梅田は「おわりに」で二人が共通して戦っているものという統一的な視点を明確にして見せる。
 だが私はこの対談では、そうした対談の意図からのズレに関心を持った。本書の「私塾」はブログの世界に関わっているが、齋藤はその世界について調和しない。何が齋藤ワールドとブログの世界を調和させずにズレを残すのか。何が梅田を執拗にズレに押し出していくのか。
 齋藤の側のズレを責めるわけではないが、そのズレはネットの世界で可能になった、発言する個人なり、開かれた「私」の問い掛けの強さによるものだろうし、梅田の情熱はそこに根をもっている。また、そのズレは、プライベートと、出版的かつ公的な発言の関係に、本来的に潜んでいたものでもあるだろう。そのズレはネットの世界で増幅された。ネットがなければそのズレは見えなかった。
 対談に潜むズレは、微妙に50代に向かいつつある男の生き方に関わっている。性的な関係性に転機を迎えた中年の男の、「夫」あるいは「父」という、「私」から疎外された意識は、現在の状況ではある種のズレを持たずにはいられないからだ。たぶんこの対談は、40代の「父」であり「妻という女に対する夫という男」に、こっそりとだが強く揺さぶるものを持つのではないだろうか(もちろん「女」にも)。
 下品な切り込みになるかもしれないが、二人の次のような対話にそうしたズレの顕著な事例を私は見る。齋藤が「暗黙知を共有しているときに幸福感を味わえる」とした文脈のなかで、梅田はやや唐突に「夫婦」を問い掛ける。将棋や碁の感想という話についてだが。

齋藤 感想戦ができるということじたい、幸福なことですよね。すごく濃密なやりとりを非言語的におこなっていて、それについてあとで、言語的にふりかえることができるというのは。そういう濃密な関係性が築けることは素晴らしいことだと思います。
梅田 ご夫婦もそうですか?

 引用はあたかも夫婦関係の語りの文脈が滑らかに流れたかのようだが、実際の対話の文脈では、たとえば齋藤にしてみると濃密な関係に言及しながら、夫婦は想定されていない。まして齋藤にしみれば彼自身の夫婦関係が問われているようには理解していない。もちろん、この梅田の問い掛けに齋藤がそれほど違和感であったわけでもなく、武道の受け身のようにさらりと齋藤はこなしてはいる。

齋藤 これまでの会話の累積量が多いので、僕が言いそうなことはたいてい予測ついていますね。

 齋藤の簡素な「妻」語りは、中年の夫なら当たり前のようでもあるが、夫婦という関係性が、過去の会話の累積性として描かれていることは興味深い。逆に言えば、夫婦というのは齋藤にとって過去の会話の関係なのだろうかという疑念もある。予測可能な既知の関係性は、「濃密な関係性」とは当然あるズレを持つ。
 梅田はそのズレを感受したかわからない。流れるように、自身の文脈でこう続けていく。

梅田 うちも、アメリカに来てからの十四年で、ふつうの夫婦の一生分の話をしたね、一生分一緒にいたねとよく言い合っています。お互いに打つ手がすべてわかってしまうほど。

 私はあえてここで引用継続せず、梅田の対性と齋藤の対性の差異のようなものを少し感じる。
 齋藤はさらにこう受ける。

齋藤 一緒に暮らして二十年にもなると、あらゆる生活習慣を共有している。そうなると「いい悪い」という段階を超えますね。関係性の歴史というのは、暗黙知が積み重なれば積み重なるほど、言わなくてもわかる部分が増えて楽になる。だから、つい、仕事のパートナーでも慣れた人とやってしまいがちになります。ときどき、新しい人で勘のいい人が暗黙知を吸収すると、そっちにくっつきたくなりますね。

 細かいことを言えば齋藤は「暗黙知」を理解していないが、さし当たって問題ではない。私がここで注意したいのは、齋藤が二十代の結婚であるということと、恐らく学生結婚であることだ。さらにその関係が二十年後の今「ある段階を超えている」ことと、文脈が夫婦関係の深淵から、やや軽薄な印象を伴って仕事の関係に置換されていくことだ。
 梅田はたぶん齋藤の話に同感しながらも、人によって夫婦関係は違うものだろうしと流しているのだろう。だが、梅田の夫婦というものへの了解は齋藤のそれとは違っている。違いは両者が思っているより長い影を引く。たぶん齋藤には成人されたお子さんがあるだろうが、梅田には子どもはいない。その見えづらい差は同じように「私塾」と「子」の問題に反映されるのだが、それは問題の多面性を表出させるより、たぶん同じような年代にある「男」に重く問い掛けてくる。
 梅田が切り出した夫婦関係的な問題意識はしばらく対話が進んだあと、さらにまたひょっこりと蒸し返される。

梅田 自営の会社を始めて、あるときフルタイムの人を雇わなくなってから、自分の時間を完全に自由に使えるようになりました。人に会うのも好きなんだけれど、一人でいるのも好きだし、飲みに毎日行きたいという気持ちがある一方、引きこもっているのも好きです。過去のある時期は毎日飲みにいくような生活をしたから今はこっち、という振れかたに近いです。会社でみんなでわーわーやりたい、というのもあるんだろうけど、一人のほうがいい、という気持ちも両方ある。僕の妻は、淡々と一人で何かをずっとしているというのが好きな性格で、彼女のスタイルからずいぶん影響を受けた気もします。
 ところで、齋藤さんは、奥様から影響を受けていますか?
齋藤 受けていますね。僕は攻めを中心に考えるタイプであまり守りを考えないので、デフェンス面を補ってもらうという感じですね。
梅田 女性のほうが危機察知能力があるんですよね。僕は独立をするときに、最初、三人で会社をつくろうと思ったんです。アメリカ人一人と日本人一人と僕と、三人でチームを組んで、前の会社の中でかなり大きいビジネスをやっていたので、そのまま三人で会社を始めるという案があった。妻と相談したら、「一人でやるなら賛成、三人なら反対」と言われて、一人で独立することにしました。まったくもって正しい判断だったと思って、感謝しています。大きい判断については『君について行こう』の向井万起男先生の感覚に近いです(笑)
齋藤 大きい判断は当事者がすべき、という考えもありますが、勢いがあまっているし、人間関係にまみれているし、そういう事情を離れて客観的に見ることができにくいということがありますね。判断のスケールも、人によって得意不得意がありますね。僕は、仕事を受ける、引き受けないみたいな日々の細かいことについての判断というのは苦手です。

 あえて齋藤の受けまで引用した。梅田の「ところで、齋藤さんは、奥様から影響を受けていますか?」という唐突感と、梅田の自分語りに齋藤が実際には答えていないズレが興味深いからだ。
 齋藤は、「大きい判断は直接的な人間関係から離れた客観性が大切」という性の含みのない文脈にしているのだが、梅田の話では「妻」という、ある意味でもっとも深い関係性のなかで問われいる。齋藤はそこに気が付かない。
 梅田の「男・夫」としての自分語りはむしろ客観的に見るなら別の文脈がある。つまり、毎日でも飲みに行きたい行動と引きこもりもよいとする、双方の特質を持つ梅田という「夫」を「妻」が見るなら、彼女がその彼女自身の関与性から、「夫」の仕事について「一人に賛成」と答えるのは、ごく普通の帰結にすぎない。梅田はそこに気が付いていない。
 何かが語れることによって語られない何かが、実は、齋藤と梅田の、二人の表向きのテーマに深く関わってきている。それは「妻」と「夫」の他に、「父」と「子」という側面もある。
 例えば、次のような、齋藤による「父」語りだ。ここでは先ほどとは逆に齋藤の問いかけに梅田が沈黙している。

齋藤(中略)僕は、その場を祝福するような感じの祝祭体験を大事にしています。何かアイデアが浮かんだら、ああよかったね、みたいに拍手しあうとか。「場」を、「時」を祝福するというのは現実の人間でないとできないことです。
 語り合う相手が現実にそこにいるかいかないかというのは、必ずしも絶対的なことではありません。先日、父親が亡くなったのですが、亡くなった結果分かったのは、悲しいのは悲しいのだけれど、今でも父親が心の中に行き続けている、住み込んでいるという感じがするということです。亡くなるまでに、とことん語り尽くしたんですよ。

 齋藤は「現実の人間」の祝祭性を語りながら、「現実の人間」ではない死んだ「父」を語り出す。それは彼にとって違和感はない。「現実の人間」は、そこにいなくてもよいとしても、齋藤には矛盾ではない。なるほど、それはそれでもよい。
 死者の「父」が「子」である自分の中に生きているという感覚は、率直に言うのだが、子が40歳なるまで見届けた父親がもたらす好運に過ぎない。齋藤はおそらくこの語りが若くして「父」を失った梅田にどう響くかは意識していないだろう。
 梅田はこの齋藤による「父」の問い掛けに答えていない。語ることが難しい文脈を惹起することに配慮したかもしれない。さらに微妙な陰影があったのかもしれない。あるいはそういう私の読みは考え過ぎですよと笑ってすごすべきものかもしれない。
 齋藤の「父」語りにはまた独特のズレがある。齋藤は「父」をこう語る。

父親とは、「仕事をする心構え」の話しかしなかったんですが。父は家具屋業界で、こちらは学者で、職業は全然違うのだけれど、仕事をする心構えに関しての、お互いの燃える思いについて語り合いました。

 齋藤が父と語りあったのは40歳という文脈ではない。子どもの頃からそうだったと言う。子どもの頃から仕事をする心構えを語り合うわけはないから、ある種の生き方を、齋藤が幼いころから語りあっていたのだろう。
 そういう親子を想像できるだろうか? 私は想像しにくい。私はそういう父子を否定はしないが、率直に言えば、何かがおかしいと思う。
 父親は子にある「含羞」を持つものだし、子は子で父親に「含羞」を持つものだ。「含羞」は、妻であり母である女の関係や自身の性の関係を含み込む距離感もあるだろうが、むしろそうした「含羞」のなかで、子は「男」なり「女」なりという性によって自立した人間であることの感覚を持つようになる。齋藤にはそういう「含羞」が私はあまり感じられない。
 教育者であること、著名人であること、そうしたことが、齋藤の何かを覆っているし、あるいはそうした覆いの部分が教育者や著名性の基礎になっている。というのは、齋藤はこう自身を語る。梅田のブログに対して齋藤の本という文脈で。

齋藤 本というものは、文章にせよ、主題にせよ、ある程度以上の秩序が要求されますよね、編集者というフィルターも入りますし。でも、ネットで僕が直接メッセージを書いたときに、舌禍事件をおこしてしまいそうということがあります。本ではコントロールしているのですが、なまみの人間としては、そうとう危険な発言が多い。それが一つ。それから、ブログで日常をオープンすることによって、プライベートに入り込まれる、というのも危惧しています。実際いろんな人がいますから。本より、ネットのほうが読者との距離は近いですよね、双方向というか。
梅田 教室、本、ネットと並べれば、教室の祝祭空間とネットのほうが、教室と本より近い感じがするのですが。
齋藤 質的には近い感じがしますね。

 齋藤はそのブログ的なメディアに対して、プライベートの境界で危機感を持っているし、それはある意味で、教育者や著名人の特徴的な対応だろう。しかし、祝祭性が重要だとしながら、その祝祭性の濃い危険なブログが一つ前に突き出ているところから齋藤は引いていることになる。それに対して、梅田はそこに一つ突き進んでいる。その差異が「私塾」の意味合いにも反映している。
 この対談が暗黙に含み込んでいる差異は、繰り返すことになるが、仕事の第一線にある40代の男にとって、「夫」であることと「父」であることに静かな振動を与えている。おそらくズレは肯定されてもよいのではないか。もちろん、「妻」であり「母」である中年の女にとっても。

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2008.05.11

学習すると早死にするらしい

 また3日穴が開いてしまった。しまったな。ちょっと気を抜いていたというか、日々ブログを書いていた時間をTwitterにシフトすると、なるほどそれなりにブログを書く気力みたいのも抜けるものなのかな。ブログが書けないわけでもない。いろいろ思うことはあるし、いくつか書評めいたことも書きたい本もある。だけどネットに向き合う時間がなんとなく減りつつある。ジョン・マエダではないけど、背をもたれて本を読むほうが心地よいし、ジャーナルもマシンの前を離れてコーヒーを飲みながら読むほうを好みつつある。年齢ってやつか。でも考えてみたら、こんなにネットにプラグする以前の行動パターンだったか。

cover
パラサイト・レックス
生命進化のカギは
寄生生物が握っていた
カール・ジンマー
 そういえば「極東ブログ」という鉄人28号ばりのふざけた名前をブログ名にしたのは、できるだけ世界の端っこから世界を見つめていたいという思いもあった。以前なら目下のグルジア情勢やレバノン情勢についてもエントリを書いたものだった。そうした気力が抜けつつある。継続的に関心を持つことにしたダルフール危機も内戦の様相を深めており、スーダン政府が空爆で学童を殺害してもニュースにしないNHKなどが、反抗勢力の活動となるといそいそと報道するのもなんだなとは思うが、それでも報道しないよりはましだろう。ブログで何か言及すべきか。目下の状況はチャドとの関連があるようだし、大きな構図ではまだ変化もないといえばないのかもしれない。
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水辺で起きた大進化
カール ジンマー
 というあたりで、一息ついて、ちょっくら身近な温泉でも行ってくるなとかつい思ってしまう。いやいやなんかエントリを書こう。素直に思うのだけど、私は、できるだけブロガーでいたいなという気持ちもある。ブロガーなんてもちろんバカみたいな存在、糞みたいな存在だろうけど。
 で、おネタなのだが、日本で報道されただろうか。へぇと思ったし、どうせどっかのブログがネタに書いているんじゃないかと思うのだが、ジャーナル発ロイター経由みたいなものではないからそうでもなかったか。ネタは、サイエンスライターのカール・ジンマー(CARL ZIMMER:参照参照)が6日のニューヨークタイズムのサイエンス欄に書いた記事”Lots of Animals Learn, but Smarter Isn’t Better
”(参照)だ。面白かった。その後、エディトリアルなんかでも取り上げられていた。

Lots of Animals Learn, but Smarter Isn't Better

“Why are humans so smart?” is a question that fascinates scientists. Tadeusz Kawecki, an evolutionary biologist at the University of Fribourg, likes to turn around the question.

“If it's so great to be smart,” Dr. Kawecki asks, “why have most animals remained dumb?”

学習行動をする動物は多いのに賢いことがより良いわけでもない
「なぜヒトは賢いのか?」という疑問は科学者を魅了する。フライバーグ大学の進化生物学者タデューツ・カウツキーは問題の転換を好む。彼はこう問い掛ける、「もし賢くなることがすばらしいなら、大半の動物が愚鈍のままなのはなぜだろう?」)


cover
「進化」大全
カール・ジンマー
 もちろん、コラムだし、ネットでいう「釣り」ではあるのだが、ようするに学習しないことの生物進化的な意義というのがありそうだということだ。
 その前に、動物や昆虫というのはそんなに学習するものなのか?
 するらしい。というか、するというのが最近の生物学の常識と見てよいらしい。つまり、行動は本能行動というだけではなく状況における学習の意義が大きいようだ。という話がちと続く。
 であれば、なぜ学習がそれほど普遍性があるのに、そうは見えないのか。

Although learning may be widespread among animals, Dr. Dukas wonders why they bothered to evolve it in the first place. “You cannot just say that learning is an adaptation to a changing environment,” he said.
(学習が各種動物に広まっているかもしれないとして、ではなぜそれを優先に進化しないのか、そうデュカス博士は問う。「学習は環境変化による適合であるというだけではすまない」)

 そういう疑問から、学習、つまり環境変化による適合、というものが、神経システムに対してなんらのデメリットを持っているのではないか、という疑問になり、ほいじゃ、ショウジョウバエを学習させて、どーんなデメリットがあるのか調べてみようということになった。いいんじゃないかな。水とかに語りかけるよりショウジョウバエというのは。

It takes just 15 generations under these conditions for the flies to become genetically programmed to learn better.
(遺伝的に学習効率良くプログラムさせるためには、こうした環境下で15世代を経過させる。)

 で、どうなったか? 

The ability to learn does not just harm the flies in their youth, though. In a paper to be published in the journal Evolution, Dr. Kawecki and his colleagues report that their fast-learning flies live on average 15 percent shorter lives than flies that had not experienced selection on the quinine-spiked jelly. Flies that have undergone selection for long life were up to 40 percent worse at learning than ordinary flies.
(ショウジョウバエが若いときは学習は有害ではない。が、「進化」誌掲載論文で、カウツキー博士と同僚の報告では、初代の学習ショウジョウバエは、キーネ入りゼリー選択を経験しない普通のショウジョウバエより、平均寿命が15%短かった。長期生存で選択下にあったショウジョウバエは学習によて通常のショウジョウバエより40%も悪化した。)

 つまり、学習すると、早死にするようになった。
 なぜ? 理由はわからない。

“We don’t know what the mechanism of this is,” Dr. Kawecki said.
(カウツキー博士は、我々にはこの機序がわからないと言った。)

 わかんないじゃすまないので、理由を考える。
 現状のところ、ようするに学習っていうのは神経系に負荷が大きすぎるのではないかということになりそうだ。
 そのあたりは、別コラムニストが”The Cost of Smarts”(参照)も書いていた。
 いずれにせよ、学習というのは一種のダークサイドというか副作用とか、生存によからぬ影響を持っていると仮定してもよさそうだ。

Dr. Kawecki says it is worth investigating whether humans also pay hidden costs for extreme learning. “We could speculate that some diseases are a byproduct of intelligence,” he said.
(人間の過度の学習にはどんな損失が隠されているのか調べる価値があるとカウツキー博士は言う。「ある種の病気というのは知性の副作用であると考えられるではないかな。」)

 そしてオチ。ネタにはオチだよ。

“If you’re using your intelligence to outsmart your group, then there’s an arms race,” Dr. Kawecki said.
(きみが所属する集団により優れるために知性を使うなら、それは軍備拡張となる。)

cover
セレクション
たま
 なんかあれだな、平和のためには逆進化というか、むかし「たま」の歌にあったように退化していくのがいいのかもしれないし、その率先にある世界の範たる国民といえば……、ちょっとヨタがすぎました。

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2008.05.07

[書評]シンプリシティの法則(ジョン・マエダ)

 「シンプリシティの法則(ジョン・マエダ)」(参照)は、表題からその意図がわかるだろうが、煩雑な物事にシンプリシティ(簡素さ)を求めるにはどうしたらよいのかという課題に対して、基本となる10の指針を法則として与えている。翻訳の文体に多少硬い印象があるが、これはかなりの美文で書かれているのでしかたがないだろう。

cover
シンプリシティの法則
ジョン・マエダ
 書籍本体は意図的にきっちり100ページに抑えてあり(訳本もまた)、二時間もあれば読み通せる。要点もまたすっきりと書かれているので、わかりやすいという印象を持つ人もいるだろう。つまり、この本自体がそのシンプリシティの法則が適用されているがゆえにシンプルである、と。間違ってはいない。薄く軽いタッチの書籍のわりに1500円は高いなと思う人もいるかもしれない。
 私にしてみると、この本はきつい読書の部類に入った。再読を終えて、実はまだ書評を書くべきではないのではないかと逡巡している面がある。シンプルに書かれているのだが、読書にかなりの思考力が要求され、理解しづらい。単純に要点をまとめて暗記してすむといったたぐいの書籍ではない。ある種の古典といった風格がある。著者ジョン・マエダ(参照)も、背をもたれて読んでほしいとしているが、ところどころで読者に思考を強いているようだ。
 凡庸な編集者なら(本書はかなり編集者の手が入っているようだが)、本書をもっとばっさりと安易なハウツー本に仕上げることができるだろう。だが、マエダはそこを明確に、ヒューモラスに拒絶している。理由はわかる。シンプリシティ(簡素さ)とはけしてシンプルなことではないからだ。そしてなぜそれがシンプルではないかというと、シンプリシティを求める人間の知性や美意識のなかに、生命の本質が関わる複雑性の要素をそぎ落とすことができないからだ。マエダの思考は、どことなくハイデガーの哲学に似たような部分があるが、そういう比喩は誤解を招くかもしれない。
 本書の目的は非常に明確であり、その点ではシンプリシティそのものだといえる。

私たちのミッションは、コミュニケーション、ヘルスケア、娯楽の分野においてシンプリシティが持っているビジネス価値を明らかにすることだ。


人びとは、生活をシンプルにしてくれるデザインを買うだけではない。さらに重要なことに愛しているのだ。ここ当分のあいだは、複雑なテクノロジーが私たちの家庭や職場に押し寄せ続けるだろう。したがって、シンプリシティはきっと成長産業になるはずなのだ。

 ものを作る、サービスを提供するということにおいて、その価値に対してシンプリシティがどのように貢献できるのか。こうした分野に関わる人びとにとって、本書はおそらく必読といってもよいかもしれない。
 私は本書を読みながら、些細なことだがこのブログ「極東ブログ」のデザインのことも考えた。私は私なりにこのブログのデザインに自分の美学を表現している、もっともそう思ってくれる人はいないだろうが……。色合いは私が好きなマルタカラーから選んでいる。2カラム以上は増やすまい。アフィリエイトの猥雑さを減らしそれでいて可能な最適なアフィリエイトはどのように可能になるか。本文は読みやすいか……。この点についてはかなり批判があるだろう。メイリオといった書体を強制的に指定することもできるし文字を大きくすることもできる(だがしていない)。いろいろとシンプリシティを考える。
 本書を読みながら、たびたび、別途私がウェブサービスで使っている「はてな」のことも考えた。率直に言って本書は「はてな」の人びとに読んでもらいたいと思った(おそらくすでに読んでいらっしゃるだろうが)。というのは興味深いサービスを多数提供しながら、そしてそれなりにシンプリシティを追求されているのだろうが、それでもシンプリシティとはほど遠いサービスが続出する状況はなんとかならないのだろうか。
 他にもいろいろある。携帯電話もおよそシンプリシティから遠い。携帯電話のメールにいたっては自然に適用されたシンプリシティへの要求で表題がすでに欠落して使われている。いや、それはもはや電子メールではないのだろう。
 デジタルカメラも複雑過ぎる。プリンターもそうだ。パソコンがそもそもシンプリシティから遠くなりつつある。
 ITだのデジタル分野以外に、公共サービスもまた複雑化している。高齢者医療の負担の問題については、その対象の人びとが理解できるシンプリシティはなかった。人生全体についてもシンプリシティは求められる。
 本書の法則は破っても罪になるものではないとして。

だが、デザイン、テクノロジー、ビジネス、人生においてみずからシンプリシティ(そして健全さ)を探求するときには、これらの法則が有用であることがわかるだろう。

 本書は丹念に読めばデカルトの方法序説の脇に並べるほどの価値をもっている。
 ではそのシンプリシティの法則とはどのようなものか。それはすでにウェブでも公開されている(参照)。ここにも再掲してみよう。ただし、訳は私なりに変えてみた。アイコンは本書についていたもので、マエダがそのコンセプトをデザインしたものだ。

  1. REDUCE(縮小せよ): The simplest way to achieve simplicity is through thoughtful reduction.(シンプリシティを達成するもっともシンプルな手法は思慮深い縮小を通して実現される。)
  2. ORGANIZE(組織化せよ): Organization makes a system of many appear fewer. (組織化によって多数のシステム構成要素が少なく見える。)
  3. TIME(時間): Savings in time feel like simplicity.(時間を節約させれば人はシンプリシティの感覚を得る。)
  4. LEARN(学習せよ): Knowledge makes everything simpler. (知識によってすべてがよりシンプルになる。)
  5. DIFFERENCES(互いの差分): Simplicity and complexity need each other. (シンプリシティとコンプレクシティは互いに必要としあう。)
  6. CONTEXT(全体状況): What lies in the periphery of simplicity is definitely not peripheral. (シンプリシティの周辺にはとても周辺とは思えないものが存在する。)
  7. EMOTION(情感): More emotions are better than less. (情感は少ないより多いほうがよい。)
  8. TRUST(委託): In simplicity we trust. (私たちはシンプリシティに委託するものだ。)
  9.  FAILURE(失格): Some things can never be made simple. (けしてシンプルにならないものが存在する。)
  10. THE ONE(選ばれし者ザ・ワン): Simplicity is about subtracting the obvious, and adding the meaningful.(シンプリシティは自明なものを取り除き、意義を加えることに関わる。)

cover
The Laws of Simplicity
John Maeda
 ところで、DIFFERENCESのアイコンはなぜ、アヒルなのだろうか?(アヒルではないのか?) 私はなんとなく自分なりの理解を持っているのだが、シンプルなお答えはどこかに書かれているのだろうか。ご存じのかたがいらしたら教えていただきたい。

追記
 コメント欄にて早々に回答をいただいた。ありがとう。
 Duck duck goose、なるほどね。
 ⇒maeda January 23, 2007

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2008.05.05

有毒ガス自殺メモ

 この話題は触れないでおこうかとも思ったけど、世相のログとしてごく簡単に。
 書こうかと思ったのは、昨今の有毒ガス発生による自殺の連鎖を海外がどう見ているか、あるいは海外ではこうした事件はないのかと見ていて、どうやら極めて日本的と見られている印象があったからだ。
 ざっと見たところ海外報道では「detergent suicides」として扱われていることが多いようだ。類似の事件は海外にはなかったのだろうかとざっと調べたところはなかったようだ。また各国が目下の日本の自殺エピデミックスの影響に恐怖しているかどうかもざっと見たが、概ね他人事感がある。「detergent」が身近であっても、特異なBath Saltのほうが存在しないからではないだろうか。記事によってはBath Saltをliquidと表現している記事もあった。してみると、この事件の背景要素は極めて日本的とも言えるのかもしれないし、高島俊男先生の楽しみも減ることであろうな。
 いつからこの騒ぎが起きたのかざっと過去記事を探ってみた。読売新聞のアーカイブでは2007年10月24日(埼玉版)”有毒ガスで2女性自殺”が初出のようだった。


 23日午前11時半ごろ、熊谷市川原明戸の荒川河川敷で、通行人の男性から「軽乗用車の中で人が倒れている」と110番通報があった。熊谷署員が駆けつけると、卵の腐ったようなにおいが充満した車内で、女性2人が運転席と助手席のシートを倒してあおむけの状態で死んでいた。
 同署によると、死亡したのは、比企郡の女性会社員(22)と無職女性(21)。2人は小学校からの幼なじみで、仕事や人生について悲観する内容の手書きの遺書が車内に残されていた。
 車内からは、硫黄を含む液体入浴剤と液体の酸性洗剤の空き瓶計4本が見つかり、後部のドアガラスには「毒ガス発生中、火気厳禁」と書かれた紙が内側から張られていた。

 車中ということで一時期の練炭ガス自殺に似ている。通報者は、前日6時半ころ目撃しているものの寝ていると思ったとのこと。
 これに続くニュースは今年1月25日(奈良版)”ホテル客室で異臭 室内の男性死亡 自殺の可能性”だった。

 24日午後0時5分ごろ、奈良市四条大路の「ホテルアジール奈良アネックス」で、従業員が「4階の客室から異臭がする」と119番。駆けつけた消防隊員が部屋を調べたところ、50歳代とみられる男性が頭からビニール袋をかぶって床に倒れているのを発見。男性は硫化水素を吸っており、間もなく死亡が確認された。

 その次が2月29日(大阪版)”大学院生自殺、民家部屋から有毒ガス 90世帯避難呼びかけ”だった。

 29日午前10時ごろ、大阪市港区八幡屋の民家で、大学院生の男性(24)が3階自室で倒れているのを母親が見つけた。ドアに「有毒ガスが発生中。硫化水素。警察を呼べ」と書かれた張り紙があり、駆け付けた救急隊が男性の死亡を確認した。

 この事件では表題のように付近の世帯が避難した。オウム事件の記憶もよぎったことだろう。
 以上3件は4月前のもので、4月からはニュースが増え、4月後半からは現在のエピデミック状態にいたる。3件とも地方版であって、4月前までは、言い方はよくないのだが、練炭自殺に似たようなよくある自殺として日本国全体に行き渡る問題とは見られていなかったのだろう。
 他の記事も読んでみると、自殺者は他者に危険を告知する貼り紙をしているケースが多く、おそらくその指示を含んだ統一的な情報ソースにあたったのだろう。
 4月18日には京都府警が「京都府警の青木五郎本部長は17日、発生方法がインターネットの掲示板に数多く書き込まれていることが影響しているとして、同府内の23のプロバイダー業者に、こうした書き込みの削除を検討するよう要請したことを明らかにした」とあり、情報元はインターネットという流れになっていく。おそらくそうなのだろう。
 興味深いのは4月25日”洗浄剤の取り扱い、アマゾンが中止”というアマゾンについての記事だった。

 アマゾンの商品検索サイトは、商品を検索すると、説明と写真に加えて「関連商品」が自動的に表示されるシステムで、洗浄剤を検索した場合、関連商品として自殺に関する書籍やポリ袋なども表示されていた。今月中旬、利用者から「自殺を誘発しかねない」と指摘があり、洗浄剤を掲載商品から外した。

 この件なのだが私の記憶では"Bath Salt"が削除されていた。いずれにせよ、アマゾンとしてはWeb2.0の流儀だったのだろう。
 その後、自殺情報を掲載したインターネットの情報を規制という流れになっているが、私としては当初、この知識はごく中学生の理科のレベルなので、規制してどうとなるものではないような印象をもっていた。「12階の屋上から飛び降りると死にます、下に通行人がいないか確かめてください」といった類ではないかと。しかし、そういうことでもないだろう。
 今回の事件で有毒ガスの有毒性の認識を新たにしたという人も多いのも不思議といえば不思議にも思えた。火山ガス問題などでもよく報道されているので、みなさんご存知だろうと思っていた。
 話を戻すと、諸外国がこの事件を極めて日本的というふうに他人事と見ているように、情報ではなく物質側の規制はそう難しいものではないので、しばらくすれば落ち着く一時的な問題ではないだろうか。もちろん、潜在的な自殺志願者が多いという日本社会の問題は依然として残る。あと、この点については諸外国からは、経済の停滞に加え、日本には生命倫理がなくて、簡単に死ぬ文化を持つ国民と見られているようだ。

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2008.05.04

英国における教育の英語の状況

 世間は連休のせいかネットもやや閑散とした印象があるし、特に世相の話題もない。胡錦濤さんもパンダをお土産につつがなく来日・帰国して過ぎ去ればええんでないかというくらいなもので、特にブログを書く気もないな、とかしていると3日穴が開く。それでもいいけど、なんかネタはなかったかなと思い出すと、先日のテレグラフの記事”English not first language for 800,000 children ”(参照)を思い出した。表題をべたに訳すと「80万人の子どもにとって英語が第一言語ではない」ということ。そりゃそうでしょというのは日本であって、英国で英語が母語ではない子どもが80万人というのはどうなんでしょうかね。
 英国の人口は6000万人。なので人口的には日本の半分の規模。日本だとその場合、だから、日本に160万人日本語が母語ではない子どもがいると想像してみると身近な実感がつかめるか。うまく想像付かないな。


Almost 500,000 children in primary schools have English as a second language - an estimated one in seven - with a further 350,000 pupils in secondary schools.
(小学校で英語が第二外国語の子どもが約五〇万人、つまり7人に1人の割合、中学校だとさらに35万人。)

 7人に1人は多いかな。20人クラスがと3人くらいは母語が不自由ということになる。当然、教育する側は大変だろう。

Teachers warned yesterday that large concentrations of foreign pupils with a poor grasp of English were placing an increasing burden on their capacity to provide all children with a decent standard of education.
(英語能力が低い外国人生徒が集中することで、全生徒に適切な教育標準を提供する能力への負担が増すと、昨日教師たちが警告した。)

 地域の偏りも大きいようだ。

In some areas, children without English as their first language account for more than half of all pupils.
(地域によっては、英語を母語としない子どもが半数以上を占める。)

 なぜそうなかったかだが、当然移民を受け入れているからなのだが、記事を読んでへえと思ったのはEUの関連だ。

According to official figures, the number of pupils speaking other languages has increased by a third since the main expansion of the European Union in 2004, from 10.5 per cent to 14.4 per cent this year.
(公式統計によると、他国語を話す生徒数は、2004年のEUの主要拡張以降、三分の一増加、10・5%から14・4%に増えた。)

 EUの影響が強いと言えば強いらしい。実際の言語のバラエティとしては。

One primary school - Newbury Park in east London - teaches children who speak more than 40 languages, including Tamil, Swahili, Bengali, Cantonese, Spanish, Japanese and Russian.
(ロンドン東部ニューベリーパークの小学校では40以上の言語を話す子どもを教育している。言語には、タミル語、スワヒリ語、ベンガル語、広東語、スペイン語、日本語、ロシア語がある。)

 ベンガル語や広東語が出てくるのが興味深いといえば興味深い。
 教育成果の面では問題があるかというとそうでもないらしい。

Mr Knight said: "The gap in achievement between migrant children and English-speaking pupils has narrowed significantly in recent years."
(移民と英語母語の子どもの学力差は近年有意に狭まっていると学校省ナイト氏は語る。)

 意外と社会問題でもないのかなと思っていたが、関連の同紙社説”The English language in British schools”(参照)では少しトーンが違う。

Both Mr Knight and Miss Blower state that migrant children are not being disadvantaged, that they are performing well and "closing the gap" with native speakers.

This is almost certainly true. It is indigenous pupils, especially those in disadvantaged, inner-city areas, whose standards are likely to be falling.
(ナイト氏もブラウワー氏も、移民の子どもに不利はなく、うまくやっているとし、英語母国の子どもとの差も狭まっていると語る。それは確かにあらかた正しい。問題は英国人の生徒なのだ。特に不利な状況にある生徒であり、スラム街の子どもだ。彼らの水準が低落しかねない。)


 さすが右派のテレグラフだなという感じ。

The Government must now make a definitive commitment to the exclusive use of English by all government agencies so that migrant families have a clear incentive to adopt it as their first language.
(政府は、政府機関では英語専有を明確にすることで、移民家族が英語を第一言語にする明確な動機となる。)

 現実問題として政府や公教育を巨大化することはできないのだからどこかで折り合いは付けざるをえないだろうし、結果的に英語というのはこういう軋轢を含み込むことで国際語としての力をつけていくのだろう。

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2008.05.01

祝日本インフレ、日本賛江、フィナンシャルタイムズより

 いろいろ沈む話ばっかり書いてきたが、よい話もある。福音だ。主の再臨は近いってそりゃねもうこの二千年間くらい……じゃあなくて、フィナンシャルタイムズが日本のインフレ良かったね、おめでとうという社説をあげていたことだ。ほんとかよ。と、昨日の日銀の動向を見ていたのだが、うーん、ええんでないの、日本、始まったな。
 4月28日付けフィナンシャルタイムズ”Inflation is good news for Japan(インフレは日本への福音)”(参照・要登録)が表題のとおり、日本のインフレを祝していた。それもけっこうマジ喜んでいる。冒頭、Hooray for inflation! だよ、「やったぜインフレ!」ということ。日本のネット的に言えば、リフレかな。若干違うといえば違うのだけど、まあ、以下に続く、と。
 祝辞に続いて、目下の日本経済の状況だが、食料品や石油の値上げ、さらに信用縮小ということで悪い話が続くようだけど、デフレばっかしだった日本にとっては、このインフレは経済向上の期待に絶好のチャンスなんだよとくる。普通の先進国なら1~3%のマイルドのインフレがあって経済成長をするのだが、日本は0・1%だ。物価の番人日銀仕事しすぎだよと。常考だろ、と。さてその先だ。


The rise in headline inflation is an opportunity, however, because it implies a fall in real interest rates. As long as nominal interest rates remain at 0.5 per cent then the real rate is negative, which should stimulate economic activity and create the expectations that prices will continue to rise in the future.
(とはいうものの、消費者物価指数の上昇は好機である。なぜなら、これで実質金利が下がる意味合いがあるからだ。名目金利が0・5%で維持されるなら実質金利がマイナスになり、これによって、経済活動が刺激され、価格が将来上昇し続けるという期待が形成される。)

 んなのあたりまえだろということだけど、フィナンシャルタイムズがそれを待ち望んでいたということ、つまり世界がそれを待っていたということはちょっと意味合いが違う。
 もちろん、インフレ怖いよみたいなことは折り込み済み。

The future inflation implied by government bond prices, however, remains fairly minimal.
(国債から見る将来のインフレはといえば最小限といったところ。)

 さて、これで万々歳かというともちろん、そんなことはない。継続的でマイルドなインフレにとって重要なのは、これもよく言われていることに過ぎないのだけど、賃金上昇と消費の活性化だ。

Any sustained inflation will depend on a cycle of rising wages and higher consumer spending. There are encouraging signs that wage growth is picking up; the danger now is that a Bank of Japan over-zealous in its maintenance of price stability squashes this growth by raising interest rates.
(継続的なインフレーションは賃金上昇と消費活動の高まりのサイクルによって維持されることになる。賃金上昇の機運もみられる。だが、目下の危機は、日銀が価格維持のためのお仕事やりすぎだ。そんなことをすれば金利上昇による経済成長を潰すことになる。)

 ということで、楽観論に過ぎるかなとはも言えるが、日本の賃金上昇や消費の活性化は想定できるとすれば、また日銀だよな、と。
 実際日銀はどうよ。というところに話が絞りこまれていく。

The central bank must ask whether today's mild price and wage inflation threatens price stability in two years' time, to which the only sensible answer is "No". The rising yen will bear down gently on export growth, as will a slower US and global economy. Domestic consumption and investment are not rising fast enough to outpace the economy's capacity.
(中央銀行はこう自問しなければならない、つまり今日の緩和な価格と賃金上昇がこの2年間の経済安定を脅かすものか、と。バカでなければ答えは一つしかない、「違うだろ」だ。円高はゆるかではあるが輸出を抑制するし、米国と世界経済の減速も同様だ。国内消費と投資は、経済規模を越えてまで上がることはない。)

 そしてなぜこの社説が4月28日にあがったか。単純。日銀に圧迫を加えるためでしょ。毎日新聞の社説子ですらかなりたぶんフィナンシャルタイムズは読むでしょくらいの影響力はあるはずだ。

When the BoJ makes its interest rate decision tomorrow it is expected to keep rates on hold. In its rhetoric, however, the bank should imply that it will keep rates on hold for some time, until modest inflationary expectations are well established. That is unlikely - the BoJ's conservatism on inflation is extreme - but it now has another chance to promote growth. The BoJ should not spurn it.
(4月29日の日銀が金利を決定には現状維持が期待される。ごちゃごちゃと難しい文言であれ、それは控えめなインフレ期待が形成されるまで、日銀はしばらく金利を据え置くとすべきだ。そうならないだろう。日銀はインフレは行きすぎだと見ているからだ。しかし今は日本の経済成長のチャンスなのだ。日銀はそれをぺしゃんこにしてはいけない。)

 ということで、4月29日の決定はどうだったか。Hooray!
 同日の毎日新聞記事”日銀リポート:利上げ路線を事実上「棚上げ」”(参照)より。

 ★金融政策
 今後の金融政策について、リポートは「経済の不確実性が高く、あらかじめ(利上げと利下げの)特定の方向性を持つことは適当でない」と述べ、従来の利上げ路線からの転換を正式に表明した。
 日銀は07年2月には追加利上げで政策金利を年0.5%に引き上げ、その後も利上げを探る姿勢を示してきたが、昨年夏にサブプライム問題が表面化し、利上げ見送りを余儀なくされた。昨年末からは景気認識を徐々に下方修正し、今回で利上げ路線からの撤退を終えた形だ。
 日銀は景気の不確実性を警戒しており、景気の一段の減速が鮮明になれば、機動的に利下げに動ける立場をひとまず確保した格好。ただ、市場では「日銀がすぐに利下げに転じる可能性は低い」との見方が大勢だ。日銀はリポートで「現在の金利水準は成長率や物価上昇率から見て、引き続き極めて低い」と表明しているからだ。
 白川総裁は会見で「時間がたてば、(利下げ・利上げの方向性を)判断できるようになる」とも述べた。市場では「当面は利上げも利下げもせずに金利を据え置いて、景気動向を慎重に見極める」との見方が強く、「利上げは09年」との指摘も出ている。

 ということで、今朝の日経社説”政策の機動性掲げた白川日銀”(参照)もこうなった。

 もっとも生鮮食品を除く消費者物価上昇率の見通しは、08年度が1.1%と前回の0.4%から大幅上方修正され、09年度も1.0%となった。現在の政策金利(無担保コール翌日物金利)は年0.5%なので、物価上昇率を差し引いた実質金利はマイナスとなり、金融緩和の度合いは大きくなりつつある。金融面から景気の下支えを続けつつ、悪い物価上昇のリスクも念頭に置き、消費者のインフレ心理や企業の価格設定行動などに目配りすべきだろう。

 ということで、北京オリンピックが終わるまで、まぶしい季節が続きそうだ。まずはめでたしめでたし。

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