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2008.04.23

光市母子殺害事件高裁判決、雑感

 光市母子殺害事件高裁判決の印象だが、率直に言って気が重い。気が重くなるようなことは趣味でやっているブログに書くことはないだろうとも思うし、最近ではそれ以外でも気が重いときや無理にネタを書くことはないなというときは書いていない。ただ、この話については、普通の国民の一人として雑感を書くくらいはしてほうがいいのではないなと思うので、ちょっと書こう。その程度なので、大した議論とかにとらないでほしい。
 私は、以前にも書いたと思うが、大阪教育大学附属池田小学校事件以降、死刑廃止論者というほど大それたものではないが、死刑廃止の考えに傾いてきた。理由は以前も書いたけど、死を決心したらなんでもできるというありかたを拒絶したいというのがある。ただ、それについては違うよという意見もあるだろう。あと、先進国は米国をのぞけば表向きは死刑を廃止しているし、米国も基本的に州法の問題になっている。日本も先進国ツラをしておくのもいいのではないかとも少し思う。ただし、実際に死刑を廃止するなら別途きちんとした終身刑は整備されないといけないとも思うが、そのあたりは私が論じるよりよい論者が社会にたくさんいらっしゃるだろう。
 もう一つ。私は未成年の行動は社会の大人にかなりの責任があると考えている。今回の例でもやはり未成年のことだしという思いは強い。ただ、最近の世界の潮流からみると、18歳を未成年と見るのは難しいというのもあるかもしれない。そういう議論であれば選挙権と併せて18歳を成人とすべきかと思う。
 ということで、今回の高裁判決は、自分の信条としてはやるせないものを感じた。
 しかし、私の信条というか理念というのは、当然現行法の変更への期待にすぎないのであって、現行法が適用されている現状の元での判決ということであれば、法理に照らして妥当かどうかが問われる。この部分については、私は法律の専門家ではないのだが、今回の最高裁差し戻しの経緯などをざっと見ると、妥当なのではないかと思う。つまり、今回の死刑判決は現行の法の視点からみて妥当だろうと思う。ただ、それと私の信条は違うなということで特に大きな矛盾は感じてはいない。
 その意味で、今朝の朝日新聞社説”母子殺害死刑―あなたが裁判員だったら”(参照)のように、今後現行法の下で私が裁判員になるというなら、現行の法と社会通念に照らしてそのとき、他の裁判員と対話して考えて結論を出すだろうということで、対話を優先し予断をもたないでいたい。
 同社説ではメディアへの批判もあったが、私がもしこうしたケースの裁判員になるなら、米国のO・Jシンプソン裁判の陪審員のようにメディアの情報はいったん遮断すると思う。そのあたりは、私の個人的な思いより、制度に組み込んでもよいようにも思うが、実際は難しいのだろうか。
 今回の判決について以上のように述べたものの、難しいなと思う部分は、法理とか偉そうにいっても、その内部に社会通念というか世相の判断が必然的に含まれる部分があることと、裁判員制度はむしろそれを積極的に推し進める制度であるという点だ。そこが自分ではうまく整理はできていない。
 この問題については、日経新聞社説”国民の感覚を映した死刑判決”(参照)が示唆深かった。


 死刑は憲法が禁止する「残虐な刑罰」にはあたらない、との判断を初めて下した48年の最高裁大法廷判決には「ある刑罰が残虐であるかどうかの判断は国民感情によって定まる」との補足意見がついている。
 これを敷衍(ふえん)すれば、死刑適用を判断するには、裁判官は専門家の「量刑の適正感」でなく、国民の「何が適正な刑罰か」の感覚をくむべき、といえよう。さらに刑罰全般についても専門家の「適正感」が妥当か一般国民の感覚と常に照らし合わせる必要がある。裁判員制度を始める理由の1つがそこにある。

 最高裁判決ではなく補足意見であり、かつ48年と古いことを考慮すると、「これを敷衍すれば」とまで言っていいのか、つまり、そのまま敷衍とかしちゃっうとふえ~んってなことになりはしないかと懸念もあるのだが、指摘の大筋としては正しいように思う。つまり、死刑の量刑も「一般国民の感覚」によるということだろう。
 メディアの騒ぎを完全に別にできると思うわけではないが、今回のケースなどを見ると、「一般国民の感覚」としては、あれが死刑でなければどういう処罰がいいのかという感覚は強いと思われるし、それは私の印象だけではなく、各種アンケートなどをしてもそういう結果は出てくるだろう。
 死刑廃止や未成年犯罪の問題は、だからこそ、「一般国民の感覚」にまで降りて議論されなくてはならないだろうし、そういう点にブログは、それが些細な存在だからということで、ちょっこし近いところにいるのかもしれない。

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「時事」カテゴリの記事

コメント

> ブログは、それが些細な存在だからということで、ちょっこし近いところにいるのかもしれない
http://anond.hatelabo.jp/20080423011332
ぜひご一読を。

投稿: ZAPPA | 2008.04.23 14:47

先日は本編と無関係な話を延々と続けてしまい、申し訳ありませんでした。
氏の仰ったように、あれでは特に後にコメントを付けることになる普通の読者にしてみれば益がないどころか、違和感の表明や批判に余計な労力を使ってしまって、本編の読後感をそのままに持ち込めない障害になったのかもしれない。いや、なったと思います。
終風先生、巻き込んでしまった元ハナ毛さん、並びに他のコメントをよせようとされた方々に
謹んで、お詫び申し上げます。

以下は光市母子殺害事件高裁判決について、コメントをさせて下さい。スミマセン。

>今回の高裁判決は、自分の信条としてはやるせないものを感じた。
 しかし、私の信条というか理念というのは、当然現行法の変更への期待にすぎないのであって、現行法が適用されている現状の元での判決ということであれば、法理に照らして妥当かどうかが問われる。
(中略)今回の判決について以上のように述べたものの、難しいなと思う部分は、法理とか偉そうにいっても、その内部に社会通念というか世相の判断が必然的に含まれる部分があることと、裁判員制度はむしろそれを積極的に推し進める制度であるという点だ。そこが自分ではうまく整理はできていない。

何といったらいいんでしょう……もし「家族幻想性の怨念」みたいなものや一部のインテリさんが時折見せる「対幻想(?)の怨念」みたいなものの齟齬感が制度を改定する起点になるのなら、「それらって折衷するのかな?」「皆な呑まれないように意識してるんだよね? 当然」という疑問がこういう問題ではしきりに……
無論、判決は判決として。制度設計のときは結局「大きい声」が意見の勝ち負けを誘引してしまって、「何だい結局宙ぶらりんな宅間の予備軍には対応しないんじゃないか?」という疑問もあります。どんな施策にも不備は尽きないにせよ、しかしそれは「彼らの問題」を話し合っていると言えるのか? どうしてもね。

投稿: 夢応の鯉魚 | 2008.04.23 16:57

私自身は、死刑判決を受けてるような気がする。だって死なない人間なんておかしいし。「じゃ、お前、寿命だから」、と突然誰かに言われて、「えっ」って思う前に死ぬんだろうな、私は。「決まってたのかよ!」ってつっこむ前に。

投稿: ddc | 2008.04.23 19:02

イエスノー

投稿: 時宗 | 2008.04.23 19:09

違う存在を理解しようと思うか、拒絶するか
じゃねーの
犯罪者、外国人、敵対陣営、etc…

投稿: | 2008.04.23 21:06

 違う存在って、普通は拒絶されると思うよ。
 その人なりに受け入れられる範疇までは受け入れると思うけど。その「受け入れられる範疇」ってのが、例えば好悪の情だったり商売上のメリットデメリットだったり大局大勢を鑑みる判断だったり法だったり、するだけなんじゃないかと。
 どっかの宗教や思想にかぶれると何でもかんでも統一だって舞い上がるけど、世の中そんなに・そこまで甘くないよ? ってのは社会も歴史も世界諸国の諸々の人々の「今」も、まさにそう言ってるんじゃないの? って感じなんですけど。お前の言うことなんか誰が聞くか! ってのが、人の本質なんだよ。

 最近だと日本人とか法を犯すものに対して異常に厳しくなりつつあるけど、それって要するに法がどうこう以前の感情の部分ではとっくのとうに許してなくて、法が「まぁまぁ抑えて抑えて」とか近所のご隠居さんみたいなこと言うからしょーがねーなーってだけの話で。「それ」をいいことに舞い上がったり付け上がったりし過ぎて暴走する人が居るから、結局は追放されたり隔離されたり、事によっては殺しちゃうだけでしょう。

 弁当爺さんだって、つい先日誰ぞ追放したばっかりじゃない。私にしても鯉の中の人にしても、暴走したら誰かにたしなめられたりするじゃない。

 弁当爺さんだって、私の妄言をベースにエントリー立てたりすることはあっても、直接コンタクト取ろうとしないじゃない。そこが「判断」ってヤツだし峻別の境目なんじゃないの? それが人の心にあって、尚且つ当然であるならば、行き着く先が死刑であっても死刑に相当するであろう「ただし、実際に死刑を廃止するなら別途きちんとした終身刑は整備されないといけないとも思うが(本文より引用)」であっても、仕方ないと思うよ。

 今の日本が拙くてヤバいのは、

>日本も先進国ツラをしておくのもいいのではないかとも少し思う。
↑この気が(表向きは兎も角内心)まったくなくて
>ただし、実際に死刑を廃止するなら別途きちんとした終身刑は整備されないといけないとも思うが、
↑このために何か動こうとしたら途端に反対者が徒党組んで大合唱して何も出来なくなるってことなんじゃないかな?

投稿: 野ぐそ | 2008.04.24 08:23

 個人的には、本来受け入れられがたい「違う存在」って拒絶するのが普通だと思ってるから、そういう存在同士がぶつかって暴走(?)するのも当たり前だと思ってるんで。だから鯉の中の人はゴメンナサイ言ってるけど私はゴメンナサイって思わないのよ。残念ながら。だから嫌われるんだ、としか言いようが無いし。

 私の場合はそーゆー感覚がベースにあるから、逆に「殺人」「死刑」に相当する極度なものは駄目って判断なの。叩いて叩き返して双方フルボッコであっても、死ななきゃまたやり返す機会はあるわけじゃない。それが傍目に泥沼の闘争だったり発展性を阻害する醜い政治闘争だったとしても、「殺人」「死刑」ってところまで行き着かなければ「相手に反撃のチャンスがある」わけだ。喩え一時的に完膚なきまで叩き潰されても、生きてさえ居れば反撃のチャンスはあるし見返すチャンスはある。そこで、相も変わらず泥沼の闘争に身を投じるか発展性を優先して争いから身を引くかは個人の判断ってだけ。

 「殺す」を選択肢の中に入れちゃうと、その可能性の芽を摘んじゃうでしょ。相手に言い返したりやり返したり努力の果てに見返そう的な可能性の芽を摘んじゃうでしょ。それをする権利まで俺たち個人は当然の権利として持ってんの? って判断。「そこ」を犯すから、殺人犯には死刑が妥当でしょ? って感じ。

 光市事件の場合、加害者と被害者の間に恒常的な闘争状態があったわけでも何でもなくて、加害者側が一方的に仕掛けて後の反撃を封じ込めて自身の理想を最大限(?)叶えちゃったわけじゃない。被害者側は一方的に奈落の底まで叩き落されたわけじゃない。何にもしてないのに。旦那さんとか貴重な人生の前半分を訳の分からん闘争状態に費やさざるを得ない羽目になったでしょ。

 私ら一般人の立場としては「それをする権利まで俺たち個人は当然の権利として持ってんの?」って判断があるから、殺せ殺せの大合唱をする必要はまったくないんだけど。そういう判断を下すことで自ら泥沼住人に堕ちなくてもいいでしょ? ってだけのことで。死刑を拒絶する理由があるとするなら、そんなもんでしょう。
 どうせ手を汚すなら(汚さざるを得ないなら)人の手を汚せってことなんですよ。高みの見物する方が勝手がいいもん。

投稿: 野ぐそ | 2008.04.24 08:48

 泥沼の闘争路線を行き着くと「アフリカでは内戦ばっかり」とか「女は弱いけど母は強い」になっちゃうわけで。
 そこを拒絶して発展性を重視すると「欧米先進国は傲慢だ」とか「男はひ弱で世間知らずなくせに勝手ばかり言う」になるんだろね。
 どっち取る? じゃなくて「どっちもやる」のが、今後幾らか目指すべき方向性なんじゃないの? って感じ。

 日本はどっちかに極度に偏るタイプの人が多いし、女子供はとくに婚姻・出産前後で揺り返しの激しいケースが多いから。だから狂っちゃうんだろうな、って感じ。大変だよね。頑張らんとね。

投稿: 野ぐそ | 2008.04.24 09:06

>このために何か動こうとしたら途端に反対者が徒党組んで大合唱して何も出来なくなるってことなんじゃないかな?

野ぐそのこと、おれ、いつもみまもってるから。

投稿: | 2008.04.24 10:39

あいかわらずハナ毛だなぁ

投稿: | 2008.04.24 12:59

社会からはみ出た者を社会が裁くのは正しいと思うんですけど
マスコミに扇動された結果下された結論なのがマズイって事なのでしょうか。。
でもそれは安易に影響されてしまう側が問題な気がします

投稿: たろー | 2008.04.24 14:56

コメントを久しぶりにいれさせていただきます。

この狂想曲に違和感を抱くものとして、その抱き方に違いはあれ、その釈然のしなさを勇気をもって書かれたことに敬意を表します。

>ただし、実際に死刑を廃止するなら別途きちんとした終身刑は整備されないといけないとも思うが、そのあたりは私が論じるよりよい論者が社会にたくさんいらっしゃるだろう。

ということでしたら、是非とも一度
「無期懲役刑に関する誤解の蔓延を防止するためのブログ」
http://blog.livedoor.jp/muki2007/
をお読みください。終身刑を整備うんぬんという点について読み終えた後、きっとまったく違った考え方をなされるのではないかと思います。

投稿: 遊鬱 | 2008.04.24 15:47

>個人的には、本来受け入れられがたい「違う存在」って拒絶するのが普通だと思ってるから、そういう存在同士がぶつかって暴走(?)するのも当たり前だと思ってるんで。だから鯉の中の人はゴメンナサイ言ってるけど私はゴメンナサイって思わないのよ。残念ながら。だから嫌われるんだ、としか言いようが無いし。

鯉の中の人……○○男みたいなイメージが(笑)。別に構いませんけど。
冗談はさておいて――僕が謝ってしまうのは(そうとう遅きに失した感がありますが(汗)性格ですから、元ハナ毛さんはお気になさらぬように。
とコメントしちゃうのもまた余計なことですが、これもまた性か(ry

しかし、今回の判決にしても思うことですが「前提の共有」
中々巧くいかないものですね。
終風先生が未成年に言及するのもそのような含みだろうと思うのですが、素朴に「違い→関係性」って展開はヤッパ困難なご時勢なの?
そんな事例はなかった? 
ルサンチマンなスケールは僕だって普通に持ってるし、以前ご迷惑だったでしょうが開陳しちゃいましたけど、
それでも手が出ないのは……思うに確固とした成功観を持ってない所為なんですよね(「食う」とか「効率」とかの感覚はありますよ。うん、きっと)。持っちゃった人を見続けてゲンナリしたからか、根っこは何処に伸びるやらはっきりしませんが、「出来上がった空間」の中で「違う存在」なら逃げるか「分業」訴えるかしかないじゃないか、って会得。まあ逃げる根性はなかったので後者でやっていこうと今は齷齪する日々ですが、これは幸運なんですよね、おそらく(薄情なようですが、「逃げ」も留保できるし)。
(僕が)説得する相手に余裕が、余裕を与える支えがあるってことなんだろうから。
例えば、そういう支え(ウチは土地かな?)を設えるという意味でも「前提の共有」があるといいんだけど、それが姑衆だったりするからまた……何を吹き込むんだこの人たちは!!って(苦笑)。
どうも「違い」を信用しない。協約の契機さえあればそれなりに経済廻る=値あると思うんだけどなあ。

投稿: 夢応の鯉魚 | 2008.04.24 22:21

異物が混入することで活性化する面もある

投稿: | 2008.04.25 05:46

事件を観るたびに亡くなられた方の悔しさと怒りに憤りを感じ涙を流します。私は本村さんと同じ年のせいかこの事件をおわずにはいられません。前科があろうとなかろうと大人であろうとなかろうと犯人には極刑しか無いです。

投稿: 里佳 | 2008.10.03 00:12

昔に遡って読んでいるので、時期はずれなコメントですいません。

この事件でfinalventさんが触れておられない点に、少年法の問題があると思います。最近は世論の後押しで法律も変わったりして、徐々に未成年の犯罪であっても、厳罰化の方向になっているように思いますが、10年、20年前までは、未成年なら人を殺しても死刑にならない、という考えが常識であったと思います。

もうひとつは安田弁護士の件。弁護士は被告を弁護するのが仕事だから、弁護すべきなんだけど、彼の場合、ご自身の死刑廃止というイデオロギーにこの事件を利用しているのではないかと疑いたくなる。

こういう話を書き出せば単なるメモではすまなくなるので、意識的に避けられたのかもしれないけど、当時18才だった少年が、排水検査を装って侵入し、被害者を強姦しようとしたら抵抗されたので絞殺し、その後死姦。

さらには泣き叫ぶ幼児も殺してしまった。こんな奴は死刑で当然だと、感情的に思ってしまいます。

投稿: ピンちゃん | 2009.10.09 12:30

人を殺しといて、自分は殺されたくないって。 おかしくない? ただのわがままだよ。自分は死にますから、許せないとは思いますけど、どうか勘弁して下さい。っていうのが普通でしょ。アメリカや先進国のやってる事が全て正しいわけでは無いでしょう。君は家に銃が沢山ある国の真似をした方がいいのかね?

投稿: たく | 2009.10.28 21:09

本村さんの心情は本人以外わからない。
犯人が何を考えているか誰にも分からない。
だから、本人の言い分か証拠で推測しなければいけない。
犯人が連れに出した手紙を読んで
彼が数年後自分の近所に住み、嫁や娘と接触する事を
許可出来るだろうか?
誰かの隣に必ず住むのだから、他人事では済まされない。
無期が数年となる制度の今、他に選択肢があるだろうか。
深く反省しており厚生の余地がありますので…
そうして再犯した人間(それも捕まった奴だけで)
何人いるだろうか。
記事にもあるが、死刑を廃止するなら終身刑を終身に。
厚生させたいなら、再犯の多い現実に目を向けて欲しい。
今の制度のままなら
国民は、犯罪者が厚生するかどうかの実験台にされている
言い過ぎでしょうか?

投稿: | 2009.11.28 08:30

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善悪を決めるのは誰か。 「極東ブログ: 光市母子殺害事件高裁判決、雑感」を読んでつらつらと考えた。さして深く考えたわけではない。深く考えても無駄だと思ったからだ。finalvent氏は先のエントリで日経新聞の社説を引き、「つまり、死刑の量刑も『一般国民の感覚』によるということだろう。」と書いている。落としどころはその辺りにしかないとぼくも思う。当然ながらことの善悪を決めるのは各個人である。立小便は...... [続きを読む]

受信: 2008.04.24 18:48

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