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2008.04.14

[書評]宮大工西岡常一の遺言(山崎祐次)

 西岡常一(にしおかつねかず:1908-1995)は奈良県法隆寺の宮大工の家に生まれ希代の棟梁となった人だ。薬師寺金堂、西塔の再建も行った。この話はNHK「 プロジェクトX 挑戦者たち〈5〉そして、風が吹いた」(参照)でも紙芝居風に放映された。「西岡常一」を著者名に含める「木に学べ 法隆寺・薬師寺の美(小学館文庫)」(参照)や「木のいのち木のこころ―天・地・人(新潮文庫)」(参照)の他に、最近の新書では「宮大工の人育て (祥伝社新書)(菊池恭二)」(参照)などもある。

cover
宮大工西岡常一の遺言
山崎佑次
 そうしたなかで、本書「宮大工西岡常一の遺言(山崎祐次)」(参照)がとりわけ優れているというわけでもないだろう。私はたまたま西岡常一と遺言という言葉に惹かれてなんとなく買って読んだくらいだが、存外に面白かった。著者は映像プロダクション関連の仕事をされた人で、西岡常一の生前の映像なども撮っていた。率直なところ、西岡常一自身が語られる言葉は無性に面白いが、筆者の文章にはやや浮いた感じの思い入れも感じないではない。
 本書を読みながら、西岡常一という人は優れた宮大工というより、希有な仏教信者なのだという思いにとらわれた。むしろその生き方は神官に近いのかもしれない。神官として生まれついて定められた信仰の派生に宮大工があるのだろう。

 まあね、法隆寺棟梁いうても、毎日仕事があるわけやない。仕事のないときは農業をやって食っていたんです。宮大工というのは百姓大工がええのかもわかりません。田んぼと畑があればなんとか食っていけますんでな。ガツガツと金のために仕事をせんでもええわけですから。儲けを考えたら宮大工なんかできません。やってはならんことです。食えても食えんでも宮大工は民家はやらんのです。この家もわたしが作ったんやない、ほかの大工さんに作ってもらってるでっせ。

 祖父もまた棟梁であり、孫の常一にはある意味で厳しく仕込んだ。具体的にどう教えるというのではなく、幼いころから仕事を見ていろふうなものだ。すごいなと思ったのは、常一の高校に農学校を選ばせ農業を学ばせる点だ。そのおかげで常一は樹木というものをしっかり見るようになる。たぶん、食う分は農家をしろという意図もあったのだろう。
 本書を読んで思ったのだが、宮大工といっても室町時代以降の宮大工と、法隆寺宮大工とはかなり異なり、ようするに白鳳の建築とは山を買ってその樹木をすべて無駄なく作るという点で、山の命そのものが移し替えられたものだ。そしてその建築技術というのは古代だから劣っているということではなく、中世以降とは思想が異なるということなのだ。このあたりは、私にはちょっと唖然とするものがあった。私は日本の古代とはそれほど大したもんじゃないという歴史の感覚を持っているのだが、山そのものが白鳳の建築の命となれば、山そのものをはぐくむ生活の感性がそのまま仏教に移されることになるし、山の樹木と共生する感性はおそらく千年のスパンがあるだろう。
 西岡常一にとって寺院建築とは千年近い山の命の形を変えたものだ。そしてこれも私の無知で唖然とすることになったのだが、コンクリート建築は数百年の命しかない。それに対して白鳳の建築はそれを守っていく人がいるならまだ千年に耐えるものだ。薬師寺金堂の復興でこういうエピソードがある。

 金堂の申請をしましたときに、白鳳様式といえども建築は昭和の建築で国宝ではない、けれども内部は世界的な宝である薬師三尊をまつるんやから耐震耐火のコンクリートにせよ、そして収納庫の周辺を木造で包むというやり方でやれということでしたんですが、わたしの意見は反対でしてね、コンクリートは村松禎治郎さん(建築学者)に聞いたら百年しかもたんと言いますねん。百年しかもたんものを千年もつ木造を使うてはあかんやないかと、コンクリートがあかんようになるとき木造もあかんようになるやないか、やめてくれと言うたんですが、そんな勝手なことを言うなら金堂を建てる許可をせんということでしたんで、しゃあないからコンクリートにしたんですが、あまり感心したことではありません。

 西岡常一は結局コンクリートを認めるのだが、コンクリートがダメになるときそこだけユニット的に取り外せるようにした。
 法輪寺三重の塔のときは鉄ボルトを入れろと言われて、西岡常一は抵抗する。

 竹島博士の言わはることもわからんでもないのです。けれどももし鉄材を入れるんやったら、法隆寺金堂のときのように千三百年たってから入れたらどうでしょうかと。なにも新しい木に穴をあけるようなことはできんと。わたしは飛鳥の工法にこだわってるんやない、聖徳太子ゆかりの寺です、すこしでも木のいのちをもたすことを考えてのことですわ。けどまあ、決着はつきませんでした。で、仕方なしに(委員会の)鈴木嘉吉さんを呼んで、その立会いのもとに使わんということに決めまして、ボルトだけつけて、入れておいたことにして、中には(鉄材が)通ってませんにゃ。竹島博士は月一回しか(現場に)来ませんのでわかりませんねん。鉄を入れたあと埋め木しますんで知ってませんねん。飾りでボルトが付いているというだけで、へっへっへっ。

 「へっへっへっ」がおかしい。しかし、これは恐ろしい覚悟の上からできたことでもある。

 棟梁というもんがあってその下に集まってくる人は、恐れずに思い切って仕事をやれと。まちがえば棟梁が腹を切るんやから、これ以上できんという仕事をやってもらいたい。

 この人は本当に腹を切る覚悟で棟梁をしてきた人だというのがわかる。集まってきた大工の一人はこう述懐する。

「最初、棟梁とお会いしたとき、失敗を恐れるな、思い切ってやりなさい、失敗したところでいつかまた修理せにゃあかん、何百年後かに誰かが直してくれんで、と言われたときにはビックリしました。すべての責任は自分がとるということでしょうが、すごいことを言う人や思いました」

 私はこの本から西岡常一を見ながら、あの白鳳の建造物というのは、まさに樹木の命と宮大工という形の一つの信仰の形態なのだと思った。もちろん、千年にもわたって受け継がれた過去の遺産はすばらしいが、価値はその物そのものあるのではない。樹木と宮大工さえいたらそれは再生する。つまりはそれは信仰の形であり、信仰そのものなのだと亀井勝一郎みたいに思えることができた。
 それとともに自然というのはつまりは日本人と山との精神的な交流そのものであるなと思う。環境というのをすこし考え直した。

いま緑や緑やゆうてやかましいですけども、ベランダの緑なんかどうでもよろしい。山は母のふところです。ふところがなくなったら人間は生きていけません。日本はもっと自然に感謝する気持ちをもたなあかんのとちがいますやろか。

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コメント

>残飯爺

>田んぼと畑があればなんとか食っていけますんでな。ガツガツと金のために仕事をせんでもええわけですから。儲けを考えたら宮大工なんかできません。やってはならんことです。食えても食えんでも宮大工は民家はやらんのです。

↑こういうことを仰る仁に

>西岡常一という人は優れた宮大工というより、希有な仏教信者なのだという思いにとらわれた。むしろその生き方は神官に近いのかもしれない。神官として生まれついて定められた信仰の派生に宮大工があるのだろう。

 こんな(やや浮いた感じの思い入れも感じないではない)こと言ったところで、へっへっへ、で笑い飛ばされて終了だと思うよ。だから残飯爺なんだよ。

 終風翁への道は遠いよね。でも頑張ってね。ほなさいなら。

投稿: 野ぐそ | 2008.04.15 18:02

>弁当爺

『あっかんべぇ一休』(漫画・坂口尚 著)を買って読むといいよ。堅田の和尚さんがいいこと言うんだ。アレ見て「まぁ普通。いや別に?」って思うくらいじゃないと遺憾でしょ。

 そうじゃないヤツは自然と共に生きても辛いだけだから、人里に降りて欲に揉まれて生きた方が遥かに幸せだよ。人界に倦むくらいが、その人にとってベストの選択なんじゃねーの? って感じ。

投稿: 野ぐそ | 2008.04.15 18:09

成功を目指さなければいけない。しかし最も大事なのは、いざとなったらいつでも失敗できる用意があるという事だろう。強くなりたい。

投稿: ddc | 2008.04.15 19:35

大工的知恵より技術の進歩を尊重したい。しかしそのことが大工を貶める事には全くならない。そのことに我々はしばしば気づかされる。

投稿: ddc | 2008.04.15 19:50

飾りボルトの豪腕っぷりに惚れる

投稿: | 2008.04.16 06:45

 故西岡頭領の本は、建築に関わらない方が読んでも大変含蓄のある面白い読み物ですね。

 今建築業界は、現実に建っていた優良な建物を研究することから始まったはずの建築学の生成物に過ぎない法律によって、さんざんに痛めつけられています。
 今の建築基準法では、現実に度重なる災害に耐え数百年の寿命を実証されている法隆寺は建てることが出来ません。
 伝統構法も同様な状況で、先人の経験によって洗練されてきた様々な技術が途絶えさせられようとしています。

 「200年住宅」もそんな流れの中での政策で、なんだか胡散臭いです...。

投稿: 山本大成 | 2008.04.16 12:18

今後ほとんど木造で新築できないってマジすか?

投稿: | 2008.04.17 06:41

>建築基準法
法制化することで手法がマニュアル化され、法の基準に頼りきって、考え・検証しなくなることが先細りの要因でしょうね。
(新しいものは前向きに受け入れ、古いものは新しい発見がない限り切り捨てていくのは社会的風潮か)
…耐震偽造の事件の後、法令遵守で身動きが取れない建築設計関係の方々が、西岡棟梁のように物事を捉えるとしたら、これから先、良い方向に物事は変わってゆくでしょうか?

投稿: 八葉 | 2008.04.17 12:44

西岡棟梁の言葉の中には、簡素ながらも実直で、心にズバッと入り込んでくる言葉がたくさんありました。自分は住宅大工をしているので、何か参考になるものがあればという気で色々と本を読ませてもらったのですが、一番心に残ったのは、「現代人の、仕事を労働と言い、お天道様を太陽と呼ぶような気位の低さ謙虚な姿勢の無さ」への、嘆きの言葉です。言われなければ当たり前に通り過ぎていたことに気付かされた思いで、思わすはっとしました。感謝や謙虚さは自分で思うほどできてないこと、気付かなかったり忘れてしまいがちだとあらためて感じることができました。ありがとうございました。

投稿: ゆうき | 2009.10.05 23:00

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