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2008.04.11

[書評]東京奇譚集(村上春樹)

 先日「極東ブログ: [書評]回転木馬のデッド・ヒート(村上春樹)」(参照)を書いたがそういえばこれに類する他者体験聞き書き的短編小説「東京奇譚集(村上春樹)」(参照)をまだ読んでいなかったことを思い出した。以前「極東ブログ: [書評]海辺のカフカ(村上春樹)」(参照)でも書いたが、私は長いこと村上春樹の小説を読めない時期があった。それ以前はほとんどコンプリートと言えるようなファンでもあったのに。

cover
東京奇譚集
村上春樹
 「東京奇譚集(村上春樹)」だが文章がこなれていて軽く読める。それでいてかなり深みと意匠があり、円熟した作家の作品だととりあえず言える。少し留保がつくのは意匠が強すぎて実験的というのは作品のブレを感じる部分もあるからだ。
 古典作品もよいにはよいのだが、自分の感性にあった同時代の小説家や歌手がもてるというのはちょっとしたあるいはけっこうな幸せの一つだと、本書を舐めるように読みながら思ったし、いくどか中断して思いを膨らましながら読んだ。
 書誌的メモとまだ読んだばかりに近いので個別の感想を簡単に書いておきたい。4作品の初出は文芸誌「新潮」であった。2005年である。同年に「品川猿」を含め単行本化され、昨年12月に単行本化された。作品の順序は公開の順序に従っており、おそらく「品川猿」が群を抜いて優れた作品であることに異論を持つ人はいないだろう。

  1. 偶然の旅人(「新潮」2005年3月号)
  2. ハナレイ・ベイ(「新潮」2005年4月号)
  3. どこであれそれが見つかりそうな場所で(「新潮」2005年5月号)
  4. 日々移動する腎臓のかたちをした石(「新潮」2005年6月号)
  5. 品川猿(単行本収録)

 タイトルにはそれぞれ込められた思いがあると推測するが私にはわからない。「偶然の旅人」と「ハナレイ・ベイ」は知る人ならなにか曲が浮かぶのかもしれないし、丹念に読んだつもりで私がその意図を読み落としているのかもしれない。
 「偶然の旅人」はゲイの中年男性が中年と呼ぶには若い既婚女性と読書を通した出会いから、彼の姉との和解を描いた作品ということになるのだが、家族的な心性における確執と和解がテーマではない。いろいろな読み方があるだろうと思うが、私は、普通の中産階級の既婚女性が死の影を帯びた乳がんに向き合うとき、夫ではない男と関係を持ちたいという衝迫に捉えられたという、一種の存在的な力と、その力を阻止し迂回させるためのゲイという構築に興味を引かれた。その迂回から存在のデュナミスのようなものが和解や保護に働く。ゆえに、ゲイの男はこう言わざるをえない、「かたちあるものと、かたちのないものと、どちらかを選ばなくちゃならないとしたら、かたちのないものを選べ。それが僕のルールです」。ある意味でそれは村上春樹の小説の作法でもあるだろう。この作品は小さな、ありがちなエンディングがあり、かつて「蛍」が「ノルウェイの森」に至るような、「ねじまき鳥と火曜日の女たち」が「ねじまき鳥クロニクル」に膨れて破綻したようなそういう展開は期待させない。
 「ハナレイ・ベイ」は、ハワイのハナレイ・ベイのサーフィンで十年前に息子を鮫に殺されたジャズピアニストのサチがその後もハナレイ・ベイに愛着を持ち、そこで日本人若者との出会いを通して回想や幻影を探す物語だ。個人的には綾戸智恵をふと連想したがタイプはかなり違う。年代も違う。綾戸は私と同じ年だが、サチは作品中でも「団塊」と呼ばれている。村上春樹の妻のイメージも多少寄り添っているし、「神の子どもたちはみな踊る」の善也の母のイメージもある(余談だが「善也」はヨシュアのダジャレでイエスのヘブライ読みである)。ストーリーからすれば不合理な偶然で失われた息子への鎮魂を思うがむしろその欠落がモチーフに近い。この自然の力による人の喪失は、村上春樹のオウム真理教事件と阪神大震災への思いにも繋がっているだろう。主人公サチという人物の描き込みは、類似のシーンでいえば「ダンス・ダンス・ダンス」のアメの類型のようでもあるが、と、こうして過去作品との対比で思うのだが、その人間的な陰影はこの作品集では深まっている。作品ではエンディング近く、二人の若者が死んだ息子の幽霊を見たのに、サチは見ずにハワイ滞在を終える晩、サチは気が付くと泣いていたとなる。これは「プールサイド」の三五歳の男の泣き方に近く、意味合いも近い。だが六十歳は近いだろうサチにとっては人生の終末に近い実在との遭遇でもあるだろうし、どこかしら癒しの印象もある。
 「どこであれそれが見つかりそうな場所で」は、村上春樹の短編集に特有のヒューモラスな非現実的な設定になっている(表題は私には有名なユダヤ笑話を連想させる)。探偵のような主人公は消失した人間に関心を持つ。物語ではある女の夫が突然マンションの24階から26階で消えた。なぜ? 答えはない。あるいは答えるならそれは品川猿のようなものになるのだろう。その意味で、この作品は品川猿の前哨的な意味合いを持っている。と同時に、村上春樹の初期・中期、いや「海辺のカフカ」でもそうだったが、ストーリーを逸脱した登場人物の消失の類型のメタ的な意味合いがある。エンディングは趣味の悪いものになっている。最終の二段落を書き加える必要があったか。すでに村上春樹は大作家であり、その創作過程に編集者の思いは入らないが、ひと昔の編集者ならここは削っただろう。しかし、この趣味の悪い構成は次の作品にも引き継がれる。
 「日々移動する腎臓のかたちをした石」は、小説家淳平が二人目の女に出会う話だ。彼の父はこう息子に告げる、「男が一生に出会う中で、本当に意味を持つ女は三人しかいない。それより多くもないし、少なくもない」。読者である中年男性の私はここで目を閉じて、私の女を数える、一人、二人、三人。それでいいのか? あれは一人目なのか、それは二人目なのか。そしてこれは三人目なのか。もちろん、この女を数える含みには性交が含まれているようでもあるが、それだけではない。そして、すでにそうした思いのなかでこの小説のなかに巻き込まれてしまう。男にとって人生で意味のある女は確かに三人しかいない。物語は、その二人目であろうかという女との出会いであり、そしてその、男にとって限定された二人目の女とはどのような意味を持つのかが問われるように女が造形される。ここでさすがに大作家だと溜息をつくのだが、この女の造形には主人公淳平が小説家であことから、その作品のなかの女医が影のように存在し、それがメタ・フィクションの構成を持っている。日々移動する腎臓のかたちをした石はこの小説内の小説の内部に存在し、小説内小説の女と男の関係は、実際には淳平という中年に向かう男の内面を描き出している。ただし、もはや「プールサイド」のようにまさに人生にぶつかるような音は立ない。淳平の父のように老いに至りつつある作者の述懐のなかで、死へターンした中年となる男の契機が描かれる。淳平に老いの男はつぶやかせる、「大事なのは数じゃない。カウントダウンには何の意味もない。大事なのは誰か一人をそっくり受容しようとする気持ちなんだ、と彼は理解する」。つまりそれが二人目の女という意味なのだが、これにこう続く、「そしてそれは常に最初であり、常に最終でなくてはならないのだ」。しかし、ここは作者村上春樹の嘘だ。真実は、もう一人の、三人目の女に中年から老いに至る男は向き合うことになるということだ。それはもしかするとヘルマンにとってのヘルミーネであるかもしれないにせよ。エンディングは前作「どこであれそれが見つかりそうな場所で」のように悪趣味な趣向で終わる。が、それはおそらくこの作品が大作の構成を持っているためだろう。この作品は主人公の名前が同じく淳平であるように「蜂蜜パイ」と一体化した作品だろう。
 「品川猿」は圧倒的な作品だ。私は読みながら爆笑し、エンディングで不覚にも号泣するはめとなった。主人公の、結婚三年目二六歳の安藤みずきは自分の名前を日常でしばしば想起できない事態になっている。精神の病だろうかと、カウンセラー坂木哲子に相談する。カウンセリングの過程で安藤みずきこと旧姓大沢みずきは高校時代の知人松中優子を思い出す。優子はみずきに寮暮らしの名札を預けた翌日自殺した。自分の名前を想起できない既婚女性の物語は、この名札と品川猿によって奇妙な笑い話のような解決を見る。私は、実は、この作品がどのように読まれているかネットをさっとサーチしたところ「品川猿問題」という言葉に出会った。文芸評論家加藤典洋は、「その人の真実をその人を傷つけることなく伝えるかということ」としているらしい。加藤の評論を読んでいないのでなんとも言えないのだが、品川猿が意味するものは、人を傷つけることなく人に真実を知らせるということではない。まったくない。作品では、真実を知る安藤みずきはそれによって大きく傷つく。彼女の真実とは、誰からも愛されず偽りのなかで女性として性を引き受けて老いに向かわなくてはらないという悲しみの受容であり、その傷と悲しみという人生の影を突きつけるのが、表層的には悪のトリックスターである品川猿なのだが、それによって彼女は真実を生きる可能性を得る。彼女は傷つき真実を受け入れるまで、誰にも嫉妬をすることがなかったという。死んだ松中優子は才能も美貌もありながらおそらく嫉妬のような心的存在によって死んだ。いや、品川猿は優子を生かしたかもしれないし、逆に安藤みずきは真実を生きることで同じような死を迎えるかもしれない。およそ真実の生を生きることは自分の死の形を受け入れることだし、愛なき存在として生を受諾しながら、そのために誰かを愛していかなくてはならないプロセスに至る。私は余計なことを言っているとは本当は思っていない。「品川猿」の読後、「蜂蜜パイ」を読み、そして「日々移動する腎臓のかたちをした石」を読み、さらに本書の「偶然の旅人」と「ハナレイ・ベイ」と再読されれば、その問題意識こそこの短編のモチーフであるとわかるはずだ。

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コメント

「東京奇譚集」面白かったですね。
表紙の猿の絵もよろしく~ENOKI~

投稿: eno | 2008.04.14 18:58

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