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2008.04.30

ガソリン税暫定税率再可決、いやほんと雑感

 このエントリを書いている時点ではまだガソリン税暫定税率再可決されていないが、されたと書いてもそう大過はないだろう。この問題、私はつまるところ何が問題なのかよくわからないせいもあり、どっちでもいいんじゃない、勝手にすればあ、みたいな投げやりな気分でいた。ブログのエントリに書くべきこともないのだけど、さすがに時代の風景のようでもあるし、簡単にスケッチ程度に書いてみたい。いやほんとに雑感という程度。
 エントリ書こうか適当に悩んでそれでもちょっと書こうかなと思ったのは、今日のこの再可決が憲法の視点から見れば極めて遵法であり、憲法が生きていて喜ばしきかなということだ。憲法59条では、「参議院が、衆議院の可決した法律案を受け取つた後、国会休会中の期間を除いて六十日以内に、議決しないときは、衆議院は、参議院がその法律案を否決したものとみなすことができる」ということであり、「衆議院で可決し、参議院でこれと異なつた議決をした法律案は、衆議院で出席議員の三分の二以上の多数で再び可決したときは、法律となる」ということで、憲法を守れという立場の私としては、いい結果になったと思う。
 というのがなんとなく皮肉っぽいトーンを帯びてしまうのは、この機構上優越されている衆院が現状本当に国民から優越の認可が与えられているかというと、なんだか違うなと思う部分があるからだろう。つまり、現行の衆院は小泉政権の惰性であり、端的に言って郵政民営化の惰性でもある。過去を振り返ってみると、意外と言うのも変だが小泉元総理はそのあたりの配慮に自覚的だったし、安倍元総理も彼なりに自覚的だったように思える。では、現福田総理はというと、本人は自覚的なんだろうけど、もうどうしようないということではないか。世論の内閣支持率ではすでに福田政権は前の安倍政権よりひどい状態に突入しつつあると見てよいようだが、安倍政権末期のような四面楚歌感はそれほどない。というか、今回の再可決を見ても、へぇ、自民党のみなさんすっかり本気ですねということだ。
 民主党としてはそのあたりを突いて、衆院を解散せよということで、それはそれなりの考えでもあるだろうが、これも機構上別段、今解散しなければならないほど国難ということではない。国難というなら、目下の日本の意志決定は不在ちゃう?状態だろうが(北朝鮮とシリア問題とか遠い国の問題みたいだし)、同じく世論動向を見ても民主党政権ができればそれでよしという流れは、まったくと言ってないだろう。つまり、出口がないというより、霧に囲まれた四方断崖絶壁にいるようなもので、動けば、すとんと奈落に落ちるようなものだ、というか、いずれ外在的に奈落がやってくるのだろう。
 話を戻して、今回の暫定税率失効狂想曲は自分には奇妙なものに思えた。うまく印象がまとまらないのだが、暫定税率が失効したということと市場でのガソリン価格の低下というのは直接的には繋がらないはずだ。というか、短期の再可決は見えていたといっていいわけで、実際のところ市場というか庶民生活が触れる部分での市場ということだが、そこでの価格低下は暫定税率失効より別のメカニズムだったのだろう。それはなんだろとしばし考えたがよくわからない。私は30代の後半から8年ほど沖縄で暮らしたが、沖縄の風物とも言えるのだがときたまガススタンドで価格値下げ祭りが始まる。そして国道のあるガススタンドがつぶれると祭りが終わる。これも沖縄の知恵みたいなものかもしれないが、何年も暮らしていると定期的に起きる。ガススタンドがそれで整理されつくされてもう収束しているのだろうか。話を少し戻すと今回のガソリン値下げも、本来あるべき市場の調整というか過当競争みたいなものではなかっただろうか。
 話が横に滑る。ガソリン価格が下がったというのはたしかだが、1リットル当たり25円程度である。いや、比率として見れば少ないわけではない。値上がり後が150円なるとすると、17%くらいかな。一割価格が下がったくらいかと思ったが大きいには大きいか。しかし、価格の差分を儲けたと理解するとして仮に20リッターで見ると500円の儲け。ワンコイン。お金を粗末にする気はないけど、素人に危険なガソリン備蓄をさせるほどのインセンティブになるとも思えない。が、それってガソリンの危険性を知らないのか(ついでに言うとどうも硫化水素というのも理解されてないっぽい感じがする)、その価格差が庶民の生活の死活問題なんだよということか。でも、たかだか1か月程度ということなんだが。
 これで暫定税率が戻りガソリンの価格が上がり、年内に200円になるから大変だみたいなお馬鹿なこと言う人がいるけど、まず、これね、「OECD諸国のガソリン1リットル当たりの価格と税(2007年第2四半期)」(参照)。だいたい200円当たりがEU相場っぽい。それと、この高騰は投機の部分とドル安の問題があるので、むしろ投機部分は中国経済の失速を見据えた秋口までのチキンレースになるのでしょう。
 別の言い方をすると円が上がっているのだから、輸入品を広く活用するという点ではガソリンの問題は相対的な問題ではないかと思う。というか、それほど騒ぐことかいな。
 さらに話が滑る。今回のガソリン税暫定税率騒ぎで、これは私の偏見かもしれないけど、騒いでいたのはむしろ地方だったんじゃないかな。またまた私の庶民感覚になるけど、都市生活してしかもコンビニにプラグインしている私なんかだと、自動車そんなに乗らない。今の若い人たちは自動車を買わないとかいうけど、都市生活ではあまり必要ない。いや、あるとすれば、商店街が崩壊したので、ショッピングがショッピングセンター化してしまうこと。ついでにいうとデパートとかでないとけっこう物が買えない。物はむしろショッピングセンターとかにある。なのでこれは自動車に依存する、のだけど、最近重たいものはネットからデリバリーできる。ネットで広告見てあれとこれとこれみたいにリストして5000円を超えると配送無料で自宅にもってきてくれる。ますます車イラネになりつつある。むしろ、ショッピングセンターとか行って駐車場見て驚くのだけど、ショッピングセンターがいわゆるショッピングというより娯楽センター化していて、車もなんだかセレブなのが多いんですよ。この光景とガソリンをけちる騒ぎがどうにもしっくりこない。小泉政権時代、都市民の利益が政治の前面に出たみたいに言われたこともあったけど、昨今の状況を見ていると、ガソリン税暫定税率騒ぎはそれほど都市民の利害に関係ないんじゃないだろうか。
 逆に地方では車は必須になっているから、ガソリン税は重要なんだけど、その地方で選出された議員先生がたは、端的に言うと道路利権そのものだし、地方にもよるのかもしれないけど、地方で暮らしていると、道路整備がないと雇用が崩壊しちゃう。
 今回の一連の騒ぎでもう道路は要らないという意見もよく聞いたけど、私はそれもどうかなと思っている。もしかするとピントがずれているのかもしれないけど、都市部や都市郊外の道路事情がそれほどよくない。もっと整備していいんじゃないかと思う。それとよく社会問題にならないなと思うのだけど、最近、老人の無茶苦茶な車道横断が多い。あと少し歩けば信号機付きの横断歩道なのにふらりとあぶねー車道に出てくる。ああいうのも道路整備の一環でなんとかしないといけないのではないか。
 まとまりないけど、実際まとまった考えもないので、そんなところですかね。

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2008.04.27

もはや料理とは呼べないくらい簡単な豚ネギ丼

 吉例、お料理話。
 今回は、もはや料理とは呼べないくらい簡単な豚ネギ丼。簡単すぎてブログのネタになるのだろうか、不安。
 要するに、ご飯の上に茹でた薄切り豚肉(ロースがいいよ)とネギのみじん切りを載せて、ポン酢をかけるというだけ。
 ああ、一行で終わってしもた。

photo

 一応、レシピっぽくするかな。

材料


  • どんぶりご飯(適量)
  • 薄切りロース豚肉(豚シャブ用がよいよ)100~200g
  • ネギ適量(ネギの種類はなんでも化)
  • ポン酢
  • わさび(お好みで)

作り方
 どんぶりご飯は適当に。レトルト飯でも可。これをどんぶりに入れる。
 薄切りロース豚肉が一口より大きかったら、調理用ハサミでちょきちょきと切る。
 コップ二杯くらいの湯を沸かして、薄切りロース豚肉をさっと茹でる。肉の厚さにもよるけど1分くらいでよいよ。湯がいたら、取り出して、よく湯を切る。
 ネギはみじん切りにする。みじん切りは適当でいいよ。ネギの種類もなんでも可。
 ご飯に、ゆで豚を載せて、ネギのみじん切りを散らして、ポン酢を適当にかける。わさびはお好みで。
 
 簡単過ぎてネタが続かない。ので、これの変形は、豚トロロ丼かな。トロロを擦って軽く味をつけて(蕎麦出汁でよいよ)、それにゆで豚を載せて、と。
 すでに予想はつくと思うけど、キムチとか載せてもよし。茄子の素揚げとかあるとさらによしだけどめんどくさ。
 そういえば豚のゆで汁で味噌汁を作っても吉。
 なんか非常に貧乏臭いのだけど、腹が減ってても料理作る気にもなれないときに即効でよいと思われ。

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2008.04.26

[書評]デフレは終わらない 騙されないための裏読み経済学(上野泰也)

 私は経済学に詳しくはないが日本は依然デフレだし、いろいろ諸物価高騰というけどデフレ基調は終わらないと見ているので、「デフレは終わらない 騙されないための裏読み経済学(上野泰也)」(参照)は表題を見てそのまま買って読むことにした。

cover
デフレは終わらない
されないための裏読み経済学
 帯にある聡明そうなお写真と「エコミストランキング6年間連続1位の著者」というのも、なんか偉そうでいいなとか思った。どうでもいいけど、本書は、著者上野泰也自身の自分語りや家族のことなどのほうが印象深く心に残った。水泳しているというところもよいな、うんうん。
 本書読後、結論としては、筆者の言われるように、デフレは終わらない、という認識はわかるものの、率直にいうと、なぜ「デフレが終わらないのか」という理路は釈然としなかった。なぜデフレが続くのか。本書のエッセンス部分は次のような観点だろうか。

 根強いデフレ圧力は、今後もさまざな商品の形をとって、「番付」上で確認されていくことだろう。需要面からの構造的なデフレ要因である「人口減少」と「少子高齢化」、そして政府が推進しているさまざまな「規制緩和」。これらが、サービス分野の硬直的な価格をさらに破壊する流れは今後も続く。

 私が本書を読み違いしているのかもしれないが、それがデフレの原因説明というのは、率直に言って納得できなかった。(付け足すと筆者は海外のインフレ要因は独立してみなせるとしているようだが、そこは納得定食。)
 デフレは基本的に貨幣現象だろうと私は見ている(あるいは見るようになった)ので、そうした貨幣要因がどう説明されるかが本書の一番の期待だったったのだが、そのあたりの説明はなかったように思われる。日銀についてもなぜ利上げを求めるか、また内部の意志決定はどうなってんの問題などの部分はかなり議論が裂かれているのだが、デフレを基本にすえてという前提があっての話なので、それはそれとしても良いのだが、日銀と貨幣制御の関係は問われていないように思えた。どうなんでしょうかね、経済学にお詳しいみなさん。
 私は経済学に疎いのでデフレ原因についてよくわからないのだが、本書の「人口減少」「少子高齢化」「規制緩和」については、違うのではないかという印象はもった。つまりそれらは日本をその経済を含め変動させていく主要因ではあるけど、デフレという経済現象をもたらすに中間的な機構なのでは。別の言い方をすれば、「人口減少」「少子高齢化」「規制緩和」があってもデフレにはならないということも可能だろう。素人なりにそう思うのは、世界の国で言えば、途上国と米国をのぞけば日本は人口的に見ても大国でありむしろ普通の国は人口は少ない。ただ、国力の衰退がデフレに繋がるだろうことは否定しないが。また、規制緩和はそれが上手に機能するのであれば生産性向上にむしろ繋がる可能性のほうが強いのではないか。
 私のもわっとした疑念の核にあるのは、本書の主張の理論的な根には、「人口減少」「少子高齢化」「規制緩和」といった要因より、需要の不足がある。つまり、本書の主張は簡単にいえば、日本は需要不足に陥っているからデフレなのだ、ということではないだろうか。
 私も長いことそう考えてきたし、また今でも半分くらいはそう考えているので、需要不足からデフレという話は半分くらいはわかる。ただ、現実にリアル世間とかネットを眺めていると、格差だ貧困が問題だというわりには、奇妙なところに大きなカネが流れては問題を起こしている(そんな投資話はないだろ常考的な)のを見ていると、カネをどう使っていいかわからないという部分もあるし、偉そうな言い方だけど日本の経済の問題はある意味でカネを溜め込んでいることが諸悪の原因とも言えるわけで、マイナス金利しろよ的な意見のほうに私は傾いている。
 まとめると、確かに需要が低減しているしそれが目下のデフレなんだけど、その需要低減は、「人口減少」「少子高齢化」「規制緩和」などからべたに引き出されものなのか。また潜在的な需要は低いのか? そこが皆目わからなかった。
 とはいえ、「デフレが終わらない」を基軸とした未来の死ミレーションの的な部分の話や個別の経済認識については興味深かった。たとえば。

 過熱した中国の景気が目立って減速する時期は、おそらく2008年夏の北京五輪終了後には到来するだろう。実はすでに、当局による金利引き上げなどの景気抑制策を受けて、07年12月分のマネーサプライ伸び率が予想外に鈍化するという変調が出始めている。中国など新興諸国の景気が勢いを弱めることは、原油や穀物といった国際商品の市況を下落させる効果を間違いなく有する。

 目下の原油高騰や穀物高騰について本書でもドル安へのバーターという説明があり、私もそう見ているのだが、この部分の指摘、つまり、現在世界的なインフレを進めている投機の部分だが、いわゆるデカプリグン論の逆みたいだけど、需要の低減予測で価格ががっこんと変化を来すのではないだろうか。
 というか、どうもこの夏はしんどいことになるのではないかな。米国大統領選挙もこのまま暢気なシーンが続かないんじゃないかみたいな不安はある。
 なんとなくだけど、日本はなんだかんだ言っても好運だし鎖国的だから、地味にこの世界が維持できるならどかんと投資が流れ込むなんて変な図が出てくるかもしれない……うーん、ちょっと違うかな。

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2008.04.24

[書評]それでもなお、人を愛しなさい 人生の意味を見つけるための逆説の10カ条(ケント・M・キース)

 先日、ウエイン・W・ダイアーの「ダイアー博士のスピリチュアル・ライフ」(参照)をざっと読んだとき、そのなかに「逆説の十戒(The Paradoxical Commandments)」が出てきて、しばらく考えこんだ。

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それでもなお、
人を愛しなさい
人生の意味を見つけるための
逆説の10カ条
ケント・M・キース
 「逆説の十戒」は多少なりとも良心的な教養のある英米人ならそらんじているとまではいえなくても、たいていは知っているものだ。あるいはなんとなく壁に貼ってあったりする有名な教えだ。旧約聖書のモーセ十戒にちなんで十戒になっているが、逆説(パラドキシカル)とあるように合理的ではない不合理な教えだ。有名なので英語版のウィキペディアにも項目がある。日本語の項目はないので試訳を添えておこう。

  1. People are illogical, unreasonable, and self-centered. Love them anyway. (人は論理的でも合理的でもなく自己中心的なものだ。それはそれとして、人を愛しなさい。)
  2. If you do good, people will accuse you of selfish, ulterior motives. Do good anyway. (あなたが良いことをしても人はわがままだと非難するし動機を邪推する。それはそれとして、いつも良いことをしなさい。)
  3. If you are successful, you will win false friends and true enemies. Succeed anyway. (あなたが成功すると、間違った友人と本当の敵を得る。それはそれとして、成功させなさい。)
  4. The good you do today, will be forgotten tomorrow. Do good anyway. (あなたがする今日の良いことは明日には忘れられる。それはそれとして、よいことをしなさい。)
  5. Honesty and frankness make you vulnerable. Be honest and frank anyway. (正直と気安さはあなたを弱い人にする。それはそれとして、正直で気安くありなさい。)
  6. The biggest men and women with the biggest ideas can be shot down by the smallest men and women with the smallest minds. Think big anyway. (最大級の発想を抱く最大級の男も女も、最低の心情を抱く男や女によって打ち落とされる。それはそれとして、大きな発想をしよう。)
  7. People favor underdogs, but follow only top dogs. Fight for a few underdogs anyway. (人は負け組に同情しても勝ち組に追従するものだ。それはそれとして、負け組のために戦いなさい。)
  8. What you spend years building may be destroyed overnight. Build anyway. (幾年もかかる建物も一晩で壊される。それはそれとして、建てよう。)
  9. People really need help, but may attack you if you do help them. Help people anyway. (人が本当に助けを必要としているのに、あなたが助けようとすればあなたが非難される。それはそれとして、人を助けなさい。)
  10. Give the world the best you have and you’ll get kicked in the teeth. Give the world the best you have anyway. (自分の持っている最善を世の中に尽くしても、それで酷い目に合わされる。それはそれとして、世の中に最善を尽くしなさい。)

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マザー・テレサ語る
 ウィキペディアの解説にあるように、1949年生まれのケント・M・キースさんが大学生時代、1968年に学生向けの小冊子に書いたものだった。一種の詩でもあったようだ。それが不思議と人々の間に広まり、マザー・テレサのグループのもとに至り、彼女たちが愛唱した教えとしてルシンダ ・ヴァーディ編著「マザー・テレサ語る」(参照)に掲載され、いわばマザー・テレサの教えとしてさらに世界中に広まった。
 ケント・M・キースさん本人はそれを25年後に知ることになる。本書「それでもなお、人を愛しなさい 人生の意味を見つけるための逆説の10カ条」(参照)はそうした不思議な経緯で書かれたものだった。

「逆説の十カ条」が世界に広まって、二十年後にさまざまな形で私のところに戻って来始めたのです。不思議な感じに打たれました。人々はいま、これまでもそうであったように、生きることの意味とスピリチュアルな真実に飢えているということを暗示しているように思われました。また、「逆説の十カ条」について人々はもっと知りたがっているのではないかとも思われました。
 本書はもっと知りたい人のために書かれました。「逆説の十カ条」とは何を意味するのか、その背後にはどんな物語があるのか、その考えを生きるとはどういうことなのかといった質問に答える本です。世界がどんなに狂っていたとしても、人は人間としての意味を見つけることができると私は確信しています。同時に、他人から認めてもらうことや拍手喝采を受けることに心の焦点を合わせる代わりに、人間としての意味に焦点を絞って逆説的な人生を生きたなら、この世界はもっと意味のあるものになるだろうことも確信しています。自分の人生に意味を発見する中で、私たちの一人ひとりがこの世界をすべての人にとってより住みやすい場所にすることができると思うのです。

 私はうかつにもこの本の存在を知らなかったし、エッセンスがすでに10カ条にうまくまとめられているなら、それをたぶん薄めたようなご教訓の本など読むことはないのではないかと思った。それに高校生に毛が生えたくらいの青年の詩にそれほど意味を求めるべきでもないのではないかと思った。でも、なんか自分にも奇妙な巡り合わせのようなものをスピリチュアルというか感じたので読んでみた。読んで良かった。読みながらなんども泣いてしまった。
 すでに老人の域に入っているケント・M・キースさんがまさにこの「逆説の十カ条」を生き抜いた総括がわかりやすく書かれている。そしてその話からもう一度「逆説の十カ条」を読み返すと、これはすごい教えなのだなと思う。
 逆説というのは、つまり、合理的に考えるなら人生に意味はない。だけど、あなたや私の人生の意味がないということではない。それは不合理な言い方だし、逆説だ。

 この世界は狂っているということをまず認める、そこから始めるのが最善です。この世界はまったくどうかしています。


 確かに、この世界は狂っています。あなたにとってこの世界が意味をなさないと言うのなら、それはあなたの言うとおりです。この世界はまったく意味をなしていません。
 大切なことは、それについて不平を言うことではありません。希望をすてることでもありません。それはこういうことです。世界は意味をなしていません。しかし、あなた自身は意味をなすことが可能なのです。あなた自身は一人の人間としての意味を発見できるのです。それがこの本のポイントです。これは、狂った世界の中にあって人間として意味を見つけることについての本です。

 私はこの本を読み終えて、これまで出会った良い人たちのことを思い出してみた。人はどの民族に所属してもどの宗教に所属していてもあるいは宗教など信じていなくても、良い人がありうる。そしてその良い人々にはなにかある普遍的な倫理性の確信のようなものがある。それはこの「逆説の十カ条」にとても近いという感じがする。
cover
Anyway:
The Paradoxical Commandments:
Finding Personal Meaning
in a Crazy World:
Kent M. Keith
 "Honesty and frankness make you vulnerable."は、正直で気安く生きていると、人はvulnerableになる、弱みを握られたようになる、弱くなるということだ。それは、負け組の心理に加担し正義の仮面を被って人を罵る人の弱さとは違う。でも、弱いには弱いし、"can be shot down "というように、狙い撃ちされる。でも、そうしなさいということができれば、その弱さこそが逆説のなかで強さを意味するのだろう。

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2008.04.23

光市母子殺害事件高裁判決、雑感

 光市母子殺害事件高裁判決の印象だが、率直に言って気が重い。気が重くなるようなことは趣味でやっているブログに書くことはないだろうとも思うし、最近ではそれ以外でも気が重いときや無理にネタを書くことはないなというときは書いていない。ただ、この話については、普通の国民の一人として雑感を書くくらいはしてほうがいいのではないなと思うので、ちょっと書こう。その程度なので、大した議論とかにとらないでほしい。
 私は、以前にも書いたと思うが、大阪教育大学附属池田小学校事件以降、死刑廃止論者というほど大それたものではないが、死刑廃止の考えに傾いてきた。理由は以前も書いたけど、死を決心したらなんでもできるというありかたを拒絶したいというのがある。ただ、それについては違うよという意見もあるだろう。あと、先進国は米国をのぞけば表向きは死刑を廃止しているし、米国も基本的に州法の問題になっている。日本も先進国ツラをしておくのもいいのではないかとも少し思う。ただし、実際に死刑を廃止するなら別途きちんとした終身刑は整備されないといけないとも思うが、そのあたりは私が論じるよりよい論者が社会にたくさんいらっしゃるだろう。
 もう一つ。私は未成年の行動は社会の大人にかなりの責任があると考えている。今回の例でもやはり未成年のことだしという思いは強い。ただ、最近の世界の潮流からみると、18歳を未成年と見るのは難しいというのもあるかもしれない。そういう議論であれば選挙権と併せて18歳を成人とすべきかと思う。
 ということで、今回の高裁判決は、自分の信条としてはやるせないものを感じた。
 しかし、私の信条というか理念というのは、当然現行法の変更への期待にすぎないのであって、現行法が適用されている現状の元での判決ということであれば、法理に照らして妥当かどうかが問われる。この部分については、私は法律の専門家ではないのだが、今回の最高裁差し戻しの経緯などをざっと見ると、妥当なのではないかと思う。つまり、今回の死刑判決は現行の法の視点からみて妥当だろうと思う。ただ、それと私の信条は違うなということで特に大きな矛盾は感じてはいない。
 その意味で、今朝の朝日新聞社説”母子殺害死刑―あなたが裁判員だったら”(参照)のように、今後現行法の下で私が裁判員になるというなら、現行の法と社会通念に照らしてそのとき、他の裁判員と対話して考えて結論を出すだろうということで、対話を優先し予断をもたないでいたい。
 同社説ではメディアへの批判もあったが、私がもしこうしたケースの裁判員になるなら、米国のO・Jシンプソン裁判の陪審員のようにメディアの情報はいったん遮断すると思う。そのあたりは、私の個人的な思いより、制度に組み込んでもよいようにも思うが、実際は難しいのだろうか。
 今回の判決について以上のように述べたものの、難しいなと思う部分は、法理とか偉そうにいっても、その内部に社会通念というか世相の判断が必然的に含まれる部分があることと、裁判員制度はむしろそれを積極的に推し進める制度であるという点だ。そこが自分ではうまく整理はできていない。
 この問題については、日経新聞社説”国民の感覚を映した死刑判決”(参照)が示唆深かった。


 死刑は憲法が禁止する「残虐な刑罰」にはあたらない、との判断を初めて下した48年の最高裁大法廷判決には「ある刑罰が残虐であるかどうかの判断は国民感情によって定まる」との補足意見がついている。
 これを敷衍(ふえん)すれば、死刑適用を判断するには、裁判官は専門家の「量刑の適正感」でなく、国民の「何が適正な刑罰か」の感覚をくむべき、といえよう。さらに刑罰全般についても専門家の「適正感」が妥当か一般国民の感覚と常に照らし合わせる必要がある。裁判員制度を始める理由の1つがそこにある。

 最高裁判決ではなく補足意見であり、かつ48年と古いことを考慮すると、「これを敷衍すれば」とまで言っていいのか、つまり、そのまま敷衍とかしちゃっうとふえ~んってなことになりはしないかと懸念もあるのだが、指摘の大筋としては正しいように思う。つまり、死刑の量刑も「一般国民の感覚」によるということだろう。
 メディアの騒ぎを完全に別にできると思うわけではないが、今回のケースなどを見ると、「一般国民の感覚」としては、あれが死刑でなければどういう処罰がいいのかという感覚は強いと思われるし、それは私の印象だけではなく、各種アンケートなどをしてもそういう結果は出てくるだろう。
 死刑廃止や未成年犯罪の問題は、だからこそ、「一般国民の感覚」にまで降りて議論されなくてはならないだろうし、そういう点にブログは、それが些細な存在だからということで、ちょっこし近いところにいるのかもしれない。

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2008.04.19

[書評]ウエイン・W・ダイアーのこと

 先日ふとウイエン・W・ダイアーのことが気になってたまたま本屋に行ったら彼の本があった。手にとって見て特に読むことはないかなと思ったが、それからちょっと気になることがあったので買ってみた。最初に手に取って気になったのはこれではなかったかもしれない。

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ダイアー博士の
スピリチュアル・ライフ
 これというのは、「ダイアー博士のスピリチュアル・ライフ―“運命を操る力”を手にする「7つの特別プログラム」(ウエイン・W・ダイアー、訳:渡部昇一)」(参照)だ。ざっと読んだ。ざっとしか読めない本だとも言える。表題から連想される以上のことは何も書かれてない。それでも気になるなら出版社の釣書はこう。

あなたのスピリット(魂)には、人生のあらゆる問題を解決する答えがある! 「自分のための人生」をはじめ、数多くのベストセラーを著してきた著者が執筆。「不思議な偶然」と「幸運」に出会う本。

 そうなのかもしれない。しかし、当面自分には関係ないなと思った。奇妙な空白感があった。この空白感は二度目だ。
 一度目は、沖縄で暮らしていたころ、ふとウエイン・W・ダイアーのことが気になって、「自分のための人生―“自分の考え”はどこへいった! (ウエイン・W・ダイアー、訳:渡部昇一)」(参照)と「どう生きるか、自分の人生!―実は、人生はこんなに簡単なもの(ウエイン・W・ダイアー、訳:渡部昇一)」(参照)それともう1冊アマゾンで取り寄せて読んでがっかりしたことがある。単純に言うと、あの時思ったのは抄訳がひどすぎるのではないかということだった。
 私がウエイン・W・ダイアーの本を最初に読んだのは、「間違いだらけの生き方―あなたは人生に自信が持てますか(訳:多湖輝)」(参照)だった。これも抄訳だったが、けっこう人生観にインパクトを受けたものだった。1977年の出版である。当時の日本語表記では「ダイヤー」だった。オリジナルは”Your Erroneous Zones(Wayne W. Dyer)”(参照)で、アマゾンの広告には「全世界1250万部突破の記録的大ベストセラー」とあるがウィキペディアでは3000万部とある。ちょっとありえねえ感があるが当時、あるいはそれから米人とちょっとした話の際になにげなく聞いてみるとある年代以上の人はほとんどがこの本を読んでいた。今アマゾンを見たらドイツ語版もけっこう売れているようだ。
 ”Your Erroneous Zones”は彼の著作のなかでは2作目で、実際には同書を読めばわかるように当時は彼はカウンセラーで、最初の著作はそうした職業的なもののようだ(私は読んだことはない)。なので”Your Erroneous Zones”が事実上の処女作と言っていいだろう。1976年の作品で頭の体操で有名な多湖輝が感銘して訳したというのだが、ご本人が訳されたのだろうか。そういえば、その後は渡部昇一訳がよく出てくるのだがこれもご本人が訳されたのだろうか。余談だが、私は多湖輝にも渡部昇一にも実際に会ったことがある。しかも会いたくて会ったわけでもなくというシチュエーションなのだが。多湖輝については同訳書が出たころだった。1926年生まれというから、あのころ50歳くらい、つまり今の私くらいの年だったわけか。彼は、人生の選択として子どもを生まないということがあります、と熱心に説いていたのだが、その熱心さになんか奇妙な違和感を覚えたものだった。渡部昇一については、いやそれはまた別の機会でもあれば。
 ”Your Erroneous Zones”は私好みの悪いダジャレは止めてくれ系のタイトルでネタもとは”erogenous zones(性感帯)”である。くだらね。とはいえ意味は、人間の行動パターンでエラーを起こしやすい諸点ということだろう。多湖輝訳では「間違いだらけの生き方」としていたがそのほうが、「自分のための人生」よりもマシな気がするし。くだくだ書いたけど、全世界でこれだけの人が読んだ本は名著というほかはない。英語で読めるなら読んでみるといいと思うし、邦訳なら多湖輝訳を古書でさがされたほうがいいと思う。
 事実上の次作、”Pulling Your Own Strings: Dynamic Techniques for Dealing With Other People and Living Your Life As You Choose ”(参照)も、率直にいってすごい本で、私は若い時にこれ読んでしまったので、行動パターンがちょっと日本人からずれてしまった。あれだ、欧米人や華人といて、この押しの強さはなんだお前らになるコツが延々と書かれている、えげつない本である。読むと得をする本だと言ってもいいが、長期的に見れば、私がいい例だけど、今は反省している。翻訳者渡部昇一はそうではないご様子なのが「ダイアー博士のスピリチュアル・ライフ」の後書きでわかった。彼が英国留学中、地方税をどうするかという問題に直面したときのことだ。

 その時、ちょうど『どう生きるか、自分の人生!』の翻訳に関わっていたので、そこに書かれたとおりのことを実行することによって、首尾よく数百万円の地方税がすべて反ってくるという経験をしたのである。
 こうした自身の経験からも、なるほどダイヤーは実践的な生活の知恵を教えるすばらしい人だと思っていたのである。

 この本も翻訳は渡部昇一でないものがあったと思うのだが、わからない。いずれにせよ現在その訳本として販売されている「どう生きるか、自分の人生!」とは別の本のような印象がある。
 その後、ウエイン・W・ダイアーは事実上の三作目"The Sky's the Limit"(参照)を出したあたりから、マズロー心理学のようになっていき、そしてだんだん変な人になっていた。先の「ダイアー博士のスピリチュアル・ライフ」の後書きではこうある。

 しかし、ダイアーは単にこの世の生活技術のみならず、インテリジェントなものからスピリチュアルなものへと興味と関心が動いていったのであった。
 その後、私は彼の主なる著書に二十数年つきあってきたので、彼の成長過程がよくわかる。そして彼は自分の死んだ父との神秘的体験もあって、完全にスピリチュアルなほうにウエイトをかける著者になったのである。

 というわけで、同書はすでにすっかりそっちの人になったウエイン・W・ダイアーがいる。
 エントリの冒頭に戻る。私は、なぜかウエイン・W・ダイアーのすっかり度が少し気になった。人間いったいどこまですっかりその気になれるものなんだろうか、という関心でもある。そして、すごーく行っちゃった人の話を聞くと、自分もすごーく行けちゃうものなんだろうか。よくわかんないけど、自分はどことなく、その手のすごーく行っちゃった人とスピリチュアルな縁というか悪業でもあるのかこんきしょう的な遭遇もないわけでもないので云々。で、読んで気が抜けた。ほとんど空白感だったのである。
 率直に言うと、私はそのすっかりになってしまったウエイン・W・ダイアーにまだちょっと興味がある。それと正確に言えば、私のように今は反省しているタイプの人では、ウエイン・W・ダイアーはないようだ。なんかこの奇妙なねちっこさのようなものが「ダイアー博士のスピリチュアル・ライフ」からはにじみ出ているような気がした。

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2008.04.18

人は年を取るにつれて幸せになるか

 人は年を取るにつれて幸せになるか? なるらしい。いやそこまで一般化はできない問い掛けだろうし、個人の人生観などが関わってくる問題でもあるのだろうけど、今朝のサイエンス・デイリー”Older People Are Nation's Happiest: Baby Boomers Less Happy Than Other Generational Groups(老人がこの国で一番幸せ:ベイビーブーマー世代はそれより年上の世代に比べると幸福感は少ない)”(参照)の記事を読みながら少しそんなことを考えた。このニュースが気になったのは、自分も年を取るについ幸せだと思うことが多くなったような気がするからだ。
 サイエンス・デイリーの記事はもう少し限定されている。表題からもわかるように、ベイビーブーマー世代とその上の世代の比較で、上の世代のほうが幸福度が高いらしい。ベイビーブーマー世代とはウィキペディアを借りると(参照)、「アメリカ合衆国を中心として、第二次世界大戦終了後の復員兵の帰還に伴って出生率が上昇した時期に生まれた世代」で具体的には、「アメリカにおいては世代の範囲についての定義に揺れがあるものの、1946年から1964年の間に生まれた人々を指す事が多い」とある。
 一読して、「え? 俺(57年生まれ)もベイビーブーマー世代なのか?」と驚いて英語ウィキペディアの解説を見たら日本語ウィキペディアは英語の記述に依拠しているようだ。自分がベイビーブーマー世代になるとは知らなかったなと思った。ところがよく読むと、知らなかった理由もわかる。


1947年から1948年、1957年から1958年にかけてと1961年から1964年にかけては明らかに減少しているが、1964年から65年における減少幅の方がそれらより断然大きい[1]。おおよその目安としては1940年代から1960年代となっている。

 これは米国を指すのだろうと思うけど、私が生まれた57年は団塊世代の終わりと共通一次世代の狭間にあって奇妙な空白感があった。まあ、私のようなこの間隙の世代を理解してくれと言っても無駄なのがよくわかってあらかじめ黙り老いてしまった世代でもある。余談ついで言えば、この間隙の世代は最初から老いていたので、自分を若者だと思ったこともない。団塊世代の若者文化の偽善性をひんやり横目で見ていた。昨今の若い人たちが自身を若者と同定して語るのに合うと、こいつら団塊世代と同じっぽいな、とか思う。と同時に共通一次世代以降のような社会価値の一元性もなかった。センター試験の点数とかそもそもなかったけど、学歴とかもあまりピンとこなかった。一時期自分の周りに東大生がけっこういたけど、別になんとも思わなかった。それはさておき、日本ではベイビーブーマー世代は団塊世代に相当するとされている。自分は団塊世代と感性もライフスタイルも違うので、だから自分はベイビーブーマー世代じゃないでしょと思っていたわけだ。むしろ、私のような間隙の世代は大正デモクラシーの世代に共感していた。私も50歳になって自分の日本人アイデンティティというのを思うのだけど、父や山本七平、手塚治虫、星新一、といったなんとなく欧風のモダンな日本人の感性に近い気がする。
 余談が長くなるが、米国民主党のクリントンとオバマのごたごたは、ようするにこの広義のベイビーブーマー世代とそれ以下の世代の対立なのだろう。というか、話を戻すとこのサイエンス・デイリーの記事もその陰影がある。

The study also found that baby boomers are not as content as other generations, African Americans are less happy than whites, men are less happy than women, happiness can rise and fall between eras, and that, with age the differences narrow.
(研究でわかったことは、ベイビーブーマー世代は他の世代より満足度が少ないこと、アフリカ系米人は白人により幸福度が低いこと、男性は女性より幸福度が低いこと、幸福度は時代によって起伏があること、年齢差は少ないことだ。)

 黒人と白人とに幸福感の差があるのは社会構造の反映があるのだろう。男女差もそうかもしれない。しかし、概ね時代に流されて、人はその幸福感を決めていると見てもよさそうだ。
 また、この先に白人女性の老人がもっとも幸福感を得ているともあるが、ベイビーブーマー世代より上の世代では、きちんとお婆ちゃんになれたからではないかという印象がある。が、記事では一般化としてはこう言及している。

The increase in happiness with age is consistent with the "age as maturity hypothesis," Yang said. With age comes positive psychosocial traits, such as self-integration and self-esteem; these signs of maturity could contribute to a better sense of overall well-being.
(年齢による幸福度の増加は、加齢成熟仮説に合っている。年を重ねるにつれ、自己統合や自己評価といった心理的形質は積極的になる。こうした成熟の特徴は、健康であることの了解によるのだろう。)

 とはいえベイビーブーマー世代はそれほどではない。老境というのはまだ年齢が若いからとも言えるのかもしれないが、記事では社会的資源の配分にも言及しているので、基本的には社会に還元されるのではないだろうか。
 サイエンス・デイリー記事のネタもとは、the April issue of Media Abstracts for the American Sociological Review。概要は”Media Abstracts for April 2008 ASR”(参照)にある。試訳は添えないがそれほど難しい口調ではないし、サイエンス・デイリー記事から逸れているわけではない。

Social Inequalities in Happiness in the United States, 1972 to 2004: An Age-Period-Cohort Analysis
- Yang Yang, The University of Chicago
Americans Becoming Happier, but Baby-Boomers Less Happy than Others

As Americans live longer, are they living better, happier lives? Research by Yang Yang, a sociologist at The University of Chicago, provides a comprehensive analysis of the disparities in happiness between men and women with different demographic characteristics, such as age and race. While substantial variation in subjective happiness exists between social groups, she finds that overall, levels of happiness increase with age. Since 1995, most groups of Americans have seen an up tick in happiness, with the happiness gap between men and women closing during this time. The racial disparity in happiness, although declining, continues to persist. Interestingly, she finds that baby boomers have experienced less happiness on average than both earlier and more recent cohorts. This suggests that happiness in later life is closely related to early life conditions and formative experiences. For example, larger cohort sizes increase the competition to enter schools and the labor market and create more strains to achieve expected economic success and family life. Baby boomer’s unique experiences during early adulthood may have had a lasting impact on their sense of happiness.


 ざっくり眺めていると、サイエンス・デイリー記事から落ちているのは、老後の幸福は人生の初期地点にも依存するというあたりだろうか。初期というのは、修学から就職を意味しているようだ。
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ヘルシーエイジング
アンドルー ワイル
 ベイビー世代より上の世代ではその頃戦争やまだ恐慌の余波があったようにも思うのだが、とすると悲惨な経験は老後の幸福感にも繋がるのかもしれない。そう言ってしまうのは穿ちすぎだが、最近若い人と話して思うのは、東京オリンピック以前の東京や日本の、本当の風景の感触ってなくなったんだなと思う。臭かったですよ、あちこち、なにかと、あの時代。

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2008.04.16

イタリア総選挙、雑感

 イタリア総選挙でベルルスコーニが帰ってきた。マジかよ。というあたりで、イタリアという国はよくわからないし、よくわかんなくてもイタリアはイタリアなんじゃないか。問題解決は、ようするにG8から抜ければいいだけじゃないか。と不謹慎なことを思いつつ、この話題はどう扱っていいのかわからないなと思ってもいたのだが、今朝の朝日新聞と日経新聞が社説で扱っていた。両紙ともによほど社説のネタに事欠いていたのかと思ったが、一読して不可解。だらっとした話になるけど、朝日新聞社説”イタリア総選挙―政治こそ新陳代謝がいる”(参照)は実に要領を得なかった。というか、肝心なところイタリアの政局がどうなるのかが皆目わからない。締めはこう。


 自民党政権の耐用年数は過ぎたと言われて久しい。なのに、なかなか政治の刷新が起こらない。閉塞(へいそく)感を打破するのに必要と思えば、有権者はすかさず政権を交代させる。そんな政治が、ちょっと、まぶしく見える。

 ようするに、ベルルスコーニの登場でイタリアの政治が刷新されましたということ?まさかね。二大政党制が「まぶしく見える」ほどよいということらしい。途中こうある。

 むろん、政権が交代しても低迷していた経済などがバラ色になるわけではなかろう。しかし、政治が行き詰まりを見せれば、総選挙で民意を問い、政権の担い手を変える。政治の新陳代謝である。その仕掛けがこの国に定着したのは間違いない。

 この国ってイタリアなんですよ。あははって笑っていいかわかんないけど。そういう政治の仕組みがいいならアメリカがガチですよ。もう世界経済とかイランの核問題とか吹っ飛ばして盛り上がっているし(ってそれが問題ですよってば)。
 おちゃらけてしまったけど、もとの朝日新聞の社説がこれはちょっとおちゃらけ過ぎでしょう。日経はどうか。日経新聞社説”伊新政権に構造改革の重責”(参照)が率直にいってまじめくさったジョークのような印象がある。

ベルトローニ前ローマ市長率いる中道左派と大差をつけたとはいえ、安穏としてはいられない。新政権には2つの重大な責務がある。

 なんだなんだその2つ。

 第一は経済の再建だ。イタリア経済は低迷が続き、2007年10―12月期も08年1―3月期も、実質国内総生産(GDP)成長率はゼロまたはマイナスと予測される。


 第二は選挙制度の改革である。同国の現行の選挙制度では、安定した政権維持が極めて難しい。両院が対等であるほか、上院では20州に配分した議席の中で、州ごとに最多得票政党が55%の議席を得る。

 なんかべたなくさしを書きたいわけではないけど、それって無理でしょ。というか、鶏も大空を駆けめぐるべきである的な冗談としか思えない。
 両紙ともに社説ということもあってか、選挙の内実には触れていなかった。むしろそのあたりが奇っ怪に思えた。中国報道だといろいろ触れてはいけないことがあるのはわかるけど、イタリアになぜ?
 今回の総選挙のポイントは北部同盟でしょと私は思う。毎日新聞記事”イタリア総選挙:極右政党、与党中枢に”(参照)がさらっと伝えている。

ベルルスコーニ前首相を復活させたイタリア総選挙では、小政党にも変動があった。東欧、アジアやアフリカなどからの移民を嫌悪する極右政党「北部同盟」が票を倍増させ、与党の中枢に食い込んだ。一方、外国人保護をうたう伝統的な左翼は後退した。新政権の政策次第では、増え続ける外国人への嫌悪など不寛容さが広がる危険もある。
 北部同盟は、ベルルスコーニ氏が率いる中道右派連合の一翼を担い、前回06年の得票率4.5%が今回は上下両院で8%台へと躍進した。

 さらっとしていてベルルスコーニ政権と北部同盟の関係がわかりづらい。というか、毎日の記事は移民排斥はいかんなのイデオロギー的な正義にもたれて作文しているせいで、北部同盟をべたに「極右政党」とか舞い上がり、実際のイタリアの政局を見ていないっぽい。
 では実際はどうか。まず選挙の概要というかファクツだが、西日本新聞”イタリア総選挙 中道右派、両院で勝利 ベルルスコーニ氏 3度目首相に 中小政党は壊滅状態に”(参照)より。

 選挙は中道右派と、ベルトローニ前ローマ市長(52)率いる「民主党」を中心とする中道左派による、初の本格的な二大勢力対決となった。
 内務省の発表によると、中道右派の得票率は下院(定数630)47%、上院(定数322、うち終身議員7)47%で、いずれも中道左派(下院38%、上院38%)を大幅に上回った。下院は政権安定のためのボーナス制があり、最多得票の中道右派は340議席を保障される。地元通信社によると、上院では162議席以上を確保する見通し。
 二大勢力以外の中小政党はほぼ壊滅状態で、中小政党が乱立してきたイタリア政界の構造が大きく変化しそうだ。

 以上はまあファクツ。で、まとめとしてはこう。

プローディ首相の中道左派連立政権の崩壊に伴うイタリア総選挙が13、14の両日行われた。即日開票の結果、ベルルスコーニ前首相(71)率いる「自由国民」を中心とする中道右派が上下院とも勝利し、2年ぶりに政権を奪還。ベルルスコーニ氏が三度目の首相職に就任する。政治的混乱が続いた同国だが、中道右派は両院を制したことで安定政権としてスタートする見込み。

 このあたりを真に受けて朝日新聞なども二大政党だとか浮かれ上がったのだろう。また、毎日新聞”イタリア総選挙:中道右派が圧勝 2年ぶり、ベルルスコーニ政権に”(参照)の表題のように「圧勝」とか言っている。先の日経新聞社説でも「安定政権」とか言っていた。

イタリアの上下両院総選挙で、ベルルスコーニ前首相が率いる中道右派が圧勝した。5月上旬にも第3次ベルルスコーニ政権が誕生する。中道右派は上下両院で過半数の議席を確保した。伊共産党左派の流れをくむ小政党は議席を失い、政党数が激減した。プロディ政権と異なり、安定政権を樹立できそうだ。

 数字的にはそうかもしれないが、たぶん、「安定政権」にはならないだろう。理由は、日本の報道にはなぜ指摘がないのか不思議なくらいにごく単純なことに思えるのだが、ようするに、第三期ベルルスコーニ政権は、かなり穏健になったとはいえ北部同盟に依存しなければならないのに、今回破れたとはいえベルトローニ側の勢力は衰えたわけではない。そういう状況でベルルスコーニ政権がどうでるかだが、第一期のベルルスコーニ政権が北部同盟のごたごたで潰れたことを思い出せば、また同じようなストーリーになりかねない。
 不思議なのだが、普通にイタリアを見ていたら今回の選挙がどうなるというより、ドイツではないけど大連立くらいしか打つ手はないのはわかりそうなもの。ニューズウィーク日本版4・9「イタリア救う秘策は大連立」ではこう。

 小党乱立で歴代政権が機能不全に陥ってきたイタリアでは選挙制度改革、労働改革など問題が山積。タカ派のベルルスコーニと左派のブルトローニの協力(=ベルトルスコーニ)以外、この国を救う道はない。

 ベルルスコーニはそのカードを切りたがっているが、まだブルトローニ側では動きがない。そりゃ日本の大連立フカシのどたばたでもそりゃそうだの内情はあるもの。
 結局どうなるかなのだが、さらによほど追い詰められないとどうにもならないし、私はどっちかというとさらに追い詰められても結局どうにもならないんじゃないかにちょっと賭けている。イタリアってそれほど国家的な求心力はないのだろうと思うし。
 それにしても、10年以上も前になるが日本のジャーナリズムは随分と「オリーブの木」に期待をかけたものだった。あのころの朝日新聞でも読み返してみたい気がするけど、それももう歴史の物語というところか。

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2008.04.14

[書評]宮大工西岡常一の遺言(山崎祐次)

 西岡常一(にしおかつねかず:1908-1995)は奈良県法隆寺の宮大工の家に生まれ希代の棟梁となった人だ。薬師寺金堂、西塔の再建も行った。この話はNHK「 プロジェクトX 挑戦者たち〈5〉そして、風が吹いた」(参照)でも紙芝居風に放映された。「西岡常一」を著者名に含める「木に学べ 法隆寺・薬師寺の美(小学館文庫)」(参照)や「木のいのち木のこころ―天・地・人(新潮文庫)」(参照)の他に、最近の新書では「宮大工の人育て (祥伝社新書)(菊池恭二)」(参照)などもある。

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宮大工西岡常一の遺言
山崎佑次
 そうしたなかで、本書「宮大工西岡常一の遺言(山崎祐次)」(参照)がとりわけ優れているというわけでもないだろう。私はたまたま西岡常一と遺言という言葉に惹かれてなんとなく買って読んだくらいだが、存外に面白かった。著者は映像プロダクション関連の仕事をされた人で、西岡常一の生前の映像なども撮っていた。率直なところ、西岡常一自身が語られる言葉は無性に面白いが、筆者の文章にはやや浮いた感じの思い入れも感じないではない。
 本書を読みながら、西岡常一という人は優れた宮大工というより、希有な仏教信者なのだという思いにとらわれた。むしろその生き方は神官に近いのかもしれない。神官として生まれついて定められた信仰の派生に宮大工があるのだろう。

 まあね、法隆寺棟梁いうても、毎日仕事があるわけやない。仕事のないときは農業をやって食っていたんです。宮大工というのは百姓大工がええのかもわかりません。田んぼと畑があればなんとか食っていけますんでな。ガツガツと金のために仕事をせんでもええわけですから。儲けを考えたら宮大工なんかできません。やってはならんことです。食えても食えんでも宮大工は民家はやらんのです。この家もわたしが作ったんやない、ほかの大工さんに作ってもらってるでっせ。

 祖父もまた棟梁であり、孫の常一にはある意味で厳しく仕込んだ。具体的にどう教えるというのではなく、幼いころから仕事を見ていろふうなものだ。すごいなと思ったのは、常一の高校に農学校を選ばせ農業を学ばせる点だ。そのおかげで常一は樹木というものをしっかり見るようになる。たぶん、食う分は農家をしろという意図もあったのだろう。
 本書を読んで思ったのだが、宮大工といっても室町時代以降の宮大工と、法隆寺宮大工とはかなり異なり、ようするに白鳳の建築とは山を買ってその樹木をすべて無駄なく作るという点で、山の命そのものが移し替えられたものだ。そしてその建築技術というのは古代だから劣っているということではなく、中世以降とは思想が異なるということなのだ。このあたりは、私にはちょっと唖然とするものがあった。私は日本の古代とはそれほど大したもんじゃないという歴史の感覚を持っているのだが、山そのものが白鳳の建築の命となれば、山そのものをはぐくむ生活の感性がそのまま仏教に移されることになるし、山の樹木と共生する感性はおそらく千年のスパンがあるだろう。
 西岡常一にとって寺院建築とは千年近い山の命の形を変えたものだ。そしてこれも私の無知で唖然とすることになったのだが、コンクリート建築は数百年の命しかない。それに対して白鳳の建築はそれを守っていく人がいるならまだ千年に耐えるものだ。薬師寺金堂の復興でこういうエピソードがある。

 金堂の申請をしましたときに、白鳳様式といえども建築は昭和の建築で国宝ではない、けれども内部は世界的な宝である薬師三尊をまつるんやから耐震耐火のコンクリートにせよ、そして収納庫の周辺を木造で包むというやり方でやれということでしたんですが、わたしの意見は反対でしてね、コンクリートは村松禎治郎さん(建築学者)に聞いたら百年しかもたんと言いますねん。百年しかもたんものを千年もつ木造を使うてはあかんやないかと、コンクリートがあかんようになるとき木造もあかんようになるやないか、やめてくれと言うたんですが、そんな勝手なことを言うなら金堂を建てる許可をせんということでしたんで、しゃあないからコンクリートにしたんですが、あまり感心したことではありません。

 西岡常一は結局コンクリートを認めるのだが、コンクリートがダメになるときそこだけユニット的に取り外せるようにした。
 法輪寺三重の塔のときは鉄ボルトを入れろと言われて、西岡常一は抵抗する。

 竹島博士の言わはることもわからんでもないのです。けれどももし鉄材を入れるんやったら、法隆寺金堂のときのように千三百年たってから入れたらどうでしょうかと。なにも新しい木に穴をあけるようなことはできんと。わたしは飛鳥の工法にこだわってるんやない、聖徳太子ゆかりの寺です、すこしでも木のいのちをもたすことを考えてのことですわ。けどまあ、決着はつきませんでした。で、仕方なしに(委員会の)鈴木嘉吉さんを呼んで、その立会いのもとに使わんということに決めまして、ボルトだけつけて、入れておいたことにして、中には(鉄材が)通ってませんにゃ。竹島博士は月一回しか(現場に)来ませんのでわかりませんねん。鉄を入れたあと埋め木しますんで知ってませんねん。飾りでボルトが付いているというだけで、へっへっへっ。

 「へっへっへっ」がおかしい。しかし、これは恐ろしい覚悟の上からできたことでもある。

 棟梁というもんがあってその下に集まってくる人は、恐れずに思い切って仕事をやれと。まちがえば棟梁が腹を切るんやから、これ以上できんという仕事をやってもらいたい。

 この人は本当に腹を切る覚悟で棟梁をしてきた人だというのがわかる。集まってきた大工の一人はこう述懐する。

「最初、棟梁とお会いしたとき、失敗を恐れるな、思い切ってやりなさい、失敗したところでいつかまた修理せにゃあかん、何百年後かに誰かが直してくれんで、と言われたときにはビックリしました。すべての責任は自分がとるということでしょうが、すごいことを言う人や思いました」

 私はこの本から西岡常一を見ながら、あの白鳳の建造物というのは、まさに樹木の命と宮大工という形の一つの信仰の形態なのだと思った。もちろん、千年にもわたって受け継がれた過去の遺産はすばらしいが、価値はその物そのものあるのではない。樹木と宮大工さえいたらそれは再生する。つまりはそれは信仰の形であり、信仰そのものなのだと亀井勝一郎みたいに思えることができた。
 それとともに自然というのはつまりは日本人と山との精神的な交流そのものであるなと思う。環境というのをすこし考え直した。

いま緑や緑やゆうてやかましいですけども、ベランダの緑なんかどうでもよろしい。山は母のふところです。ふところがなくなったら人間は生きていけません。日本はもっと自然に感謝する気持ちをもたなあかんのとちがいますやろか。

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2008.04.13

コメ急騰問題メモ

 朝ラジオをつけたらフィリピンでのコメ不足問題を扱っていた。十数名の子どもを食わせるのは大変といった声を聞いて、それは確かに大変だろうけど同時に立派なものだなとも思った。日本も昔はそういう時代があった。
 私は1957年生まれで団塊世代から十年ほど下になる。団塊の世代には飢えの記憶がある人もいるかもしれないが、「ひもじさ」のほうが鮮烈だろう。私の世代になるとそこからも脱却している。しかし世界の飢えの問題はまだ解決されたわけではない。それでも私の子どものころに予想されていた悲劇的な食糧危機のかなりの部分は緑の革命が変えた。功罪はあるのだろうが。
 今朝の朝日新聞社説”食糧高騰―市場の暴走が飢餓を生む”(参照)が関連の話題を扱っていた。朝日新聞によれば全世界的に食糧不足の時代なのだそうだ。


 地球上を妖怪が歩き回っている。食糧不足という妖怪だ――マルクス・エンゲルスの「共産党宣言」流で言えば、こうなるだろう。

 この痛い趣味にはついてけないな。食糧不足の理由について朝日新聞はこう説明している。

 なぜ、いま、食糧不足なのか。
 確かに、オーストラリアの干ばつなど、主要農業国の不作が重なった。中国やインドといった人口大国で食生活が変わり、肉の消費と飼料の需要が急増したこともある。トウモロコシなどの穀物を、ガソリン代わりのバイオ燃料に転用し始めた影響も大きい。
 だが、今回の事態を招いた要因として何より注目されるのは、投機資金が食糧市場に流れ込んでいることだ。米国の金融不安を機に金融・株式市場から引き揚げられた資金が穀物などに向かう。価格が上がり、それがまた投機資金を呼び込むという悪循環である。
 その結果、食糧輸出国は売り惜しみをし、輸入国は買い占めに走る。世界の食糧生産は増えているという現実があるのに、貧しい国、貧しい人々には手が届かなくなってしまうのだ。市場の暴走というほかない。

 一読したとき、大筋でそうだろうなと思った。逆にそうであるというなら、表題のような「市場の暴走が飢餓を生む」ということについては、人類の知恵で対応可能かもしれないとも思った。つまり食糧の絶対量の不足という事態と、市場の暴走は別だからだ。あまり単純な話にしてはいけないが食肉を減らせば穀物が食糧に回る。
 そういえば、この関連の話題は以前にも書いた。昨年1月17日に書いた「極東ブログ: このところの穀物高騰など」(参照)に続く。他に2004年の「極東ブログ: 中国はもはや食料輸入国」(参照)、「極東ブログ: 世界市場の穀物価格は急騰するか?」(参照)がある。2008年に私は次のように書いた。

 もう1つは、いずれにせよ穀物価格はじわじわと高騰する、か、あるいはどっかでカタストロフ的に高騰するかだ。これも避けられない。そのあたりの反射が、どう国際経済を襲うのだろうか。単純に考えれば、以前極東ブログでも触れたように一次産品の価格上昇という問題かもしれないし、石油を含めて、中国発デフレが中国発インフレになるか、ということだが、どうもそこまで話を進めると実感はない。

 4年前のことだ。世界はある程度理路を辿るものだ。どのような理路であるかは別としても。
 話を今朝の朝日新聞社説に戻す。次のような困惑する記述もある。

 日本の私たちも、その余波を肌身で感じさせられている。パンや即席めん、乳製品などの値上げラッシュである。だが、いちばんの被害者は最も弱い立場の人たちだ。
 たとえば、紛争が続くスーダン。難民キャンプにいる200万人への食糧支援がおぼつかない。このままではさらに新たな難民が出る恐れもある。

 スーダンの難民キャンプにはダルフール危機が含まれているのだろうが、「ダルフール」というキーワードが抜けているのは、そのキーワードを書くと、スーダン政府によるこの数年の援助妨害の問題に朝日新聞も直面しなければならなくなるかもしれないからか。
 日本の食品価格上昇と世界の食糧危機の問題は、朝日新聞がいうほど直結していい議論とは思えないが、それでも世界の食糧危機という現実は4年前に想定したようにある。
 最近の事態の時事的な話題のまとめとしては、FujiSankei Business i.「中国・アジア/「コメ騒動」拡大中 1年で70%の価格高騰」(参照)がわかりやすい。

≪投機資金流入も≫
 AP通信によると、国連食糧農業機関(FAO)がコメの主要輸出銘柄からまとめた「全米価指数」は1998~2000年を「100」として、昨年3月の130から今年3月に216まで約66%も上昇。コメの最大輸出国、タイの代表銘柄タイ・ホワイト・グレードBの場合は、今月初めに1トン=795ドルと昨年12月の2倍以上になった。
 FAOでは中国、インドやベトナムなどの主要輸出国がコメ輸出を制限していることが価格急騰原因と指摘している。燃料費高騰で肥料や輸送、脱穀用燃料などのコストが上昇、米価に跳ね返ったほか、米国で小麦などに転作が進んでいることも供給減少の背景にある。相場のつり上げを狙った投機資金の流入が価格上昇に拍車を掛けており、米シカゴのコメ先物相場は史上最高値が続いている。

 フィリピンのコメ高騰の背景は、ベトナムのコメ輸出制限が関係している。

 タイに次ぐコメ輸出国ベトナムは今年初めに寒波に見舞われ、生産に大きな影響が出ている。だが、業者がより多くの利益を得ようとコメを輸出に振り向ける動きも広がり、今年1~3月のコメ輸出量は約300万トンと昨年同期(約183万トン)を大きく上回った。このためベトナム当局は、国内の食糧確保のためコメの年間輸出量の上限を400万トンと決めて、新規のコメ輸出商談を停止させた。

 タイもまた同じように輸出制限するかもしれない。
 どうしたらよいのか。朝日新聞的にはこう提言する。

 先進国の投機と無策が人道危機を引き起こしている。飢餓の広がりを防ぐために、日本をはじめとする先進国は緊急支援に動かねばなるまい。

 先進国の投機と政策に原因があるのだから、先進国は緊急支援をすべきだというのだ。
 フィナンシャルタイムズはそれとは違った視点を出していた。9日付け”Restocking the empty global larder”(参照

Advice for those trying to solve the global food crisis: do not start from here. As governments across the developing world impose export bans on staple foods, further worsening the shortages on inter-national markets, the shortcomings of a system designed around the expectation of plenty are becoming painfully evident.
(世界食糧不足を解決しよとするためのアドバイス:ここから始めないこと。途上国政府が主食の輸出制限を課しているので、国家間市場の不足が悪化し、潤沢の期待から作られたシステムの欠点は痛ましいほどに明白になってきている。)


There are, sadly, few quick fixes, not least because food production responds only slowly to changes in price, although restricting global supply via export bans is certainly not a sensible solution.
(輸出禁止による国際的供給の制限は理性的な結論に程遠いにも関わらず、特に食糧生産は価格に対してゆるやかにしか対応しないのだから、悲しむべき事ではあるが、応急処置はほとんどない。)

 短期的な解決はないというなら、中長期的にはどうか。

In the medium term, the imperative must be on increasing supply, for which much of the responsibility lies with developing countries - improving infrastructure, including storage where necessary for buffer stocks, bringing more land into production and encouraging crop insurance or forward markets where they do not exist. Those countries resisting the introduction of genetically modified food should take another look at the productivity gains that it can unleash.
(中期的には、供給を増やすしかないし、それは途上国に多く責任がある。そのために、問題緩和のための貯蔵、生産用地拡大、現在は存在していない先物取引市場や農産物保険の推進を含め、インフラを強化しなければならない。遺伝子組み換え作物導入を規制している国は解放に向けて再検討すべきだ。)


Security and stability of food supply are enhanced when markets are allowed to work by being given clear and enduring price signals, with governments providing social and physical infrastructure support.
(市場が明確で継続的な価格を示せるようになれば、途上国政府が社会的かつ目に見えるインフラを提供することとあいまって、食糧供給の確保と安定が向上する。)

 これは朝日新聞にとっても、途上国支援の人々にも受け入れがたいことかもしれない。私としてはその視点が依然暢気な先進国の空気を反映しているような気もするが。

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2008.04.11

[書評]東京奇譚集(村上春樹)

 先日「極東ブログ: [書評]回転木馬のデッド・ヒート(村上春樹)」(参照)を書いたがそういえばこれに類する他者体験聞き書き的短編小説「東京奇譚集(村上春樹)」(参照)をまだ読んでいなかったことを思い出した。以前「極東ブログ: [書評]海辺のカフカ(村上春樹)」(参照)でも書いたが、私は長いこと村上春樹の小説を読めない時期があった。それ以前はほとんどコンプリートと言えるようなファンでもあったのに。

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東京奇譚集
村上春樹
 「東京奇譚集(村上春樹)」だが文章がこなれていて軽く読める。それでいてかなり深みと意匠があり、円熟した作家の作品だととりあえず言える。少し留保がつくのは意匠が強すぎて実験的というのは作品のブレを感じる部分もあるからだ。
 古典作品もよいにはよいのだが、自分の感性にあった同時代の小説家や歌手がもてるというのはちょっとしたあるいはけっこうな幸せの一つだと、本書を舐めるように読みながら思ったし、いくどか中断して思いを膨らましながら読んだ。
 書誌的メモとまだ読んだばかりに近いので個別の感想を簡単に書いておきたい。4作品の初出は文芸誌「新潮」であった。2005年である。同年に「品川猿」を含め単行本化され、昨年12月に単行本化された。作品の順序は公開の順序に従っており、おそらく「品川猿」が群を抜いて優れた作品であることに異論を持つ人はいないだろう。

  1. 偶然の旅人(「新潮」2005年3月号)
  2. ハナレイ・ベイ(「新潮」2005年4月号)
  3. どこであれそれが見つかりそうな場所で(「新潮」2005年5月号)
  4. 日々移動する腎臓のかたちをした石(「新潮」2005年6月号)
  5. 品川猿(単行本収録)

 タイトルにはそれぞれ込められた思いがあると推測するが私にはわからない。「偶然の旅人」と「ハナレイ・ベイ」は知る人ならなにか曲が浮かぶのかもしれないし、丹念に読んだつもりで私がその意図を読み落としているのかもしれない。
 「偶然の旅人」はゲイの中年男性が中年と呼ぶには若い既婚女性と読書を通した出会いから、彼の姉との和解を描いた作品ということになるのだが、家族的な心性における確執と和解がテーマではない。いろいろな読み方があるだろうと思うが、私は、普通の中産階級の既婚女性が死の影を帯びた乳がんに向き合うとき、夫ではない男と関係を持ちたいという衝迫に捉えられたという、一種の存在的な力と、その力を阻止し迂回させるためのゲイという構築に興味を引かれた。その迂回から存在のデュナミスのようなものが和解や保護に働く。ゆえに、ゲイの男はこう言わざるをえない、「かたちあるものと、かたちのないものと、どちらかを選ばなくちゃならないとしたら、かたちのないものを選べ。それが僕のルールです」。ある意味でそれは村上春樹の小説の作法でもあるだろう。この作品は小さな、ありがちなエンディングがあり、かつて「蛍」が「ノルウェイの森」に至るような、「ねじまき鳥と火曜日の女たち」が「ねじまき鳥クロニクル」に膨れて破綻したようなそういう展開は期待させない。
 「ハナレイ・ベイ」は、ハワイのハナレイ・ベイのサーフィンで十年前に息子を鮫に殺されたジャズピアニストのサチがその後もハナレイ・ベイに愛着を持ち、そこで日本人若者との出会いを通して回想や幻影を探す物語だ。個人的には綾戸智恵をふと連想したがタイプはかなり違う。年代も違う。綾戸は私と同じ年だが、サチは作品中でも「団塊」と呼ばれている。村上春樹の妻のイメージも多少寄り添っているし、「神の子どもたちはみな踊る」の善也の母のイメージもある(余談だが「善也」はヨシュアのダジャレでイエスのヘブライ読みである)。ストーリーからすれば不合理な偶然で失われた息子への鎮魂を思うがむしろその欠落がモチーフに近い。この自然の力による人の喪失は、村上春樹のオウム真理教事件と阪神大震災への思いにも繋がっているだろう。主人公サチという人物の描き込みは、類似のシーンでいえば「ダンス・ダンス・ダンス」のアメの類型のようでもあるが、と、こうして過去作品との対比で思うのだが、その人間的な陰影はこの作品集では深まっている。作品ではエンディング近く、二人の若者が死んだ息子の幽霊を見たのに、サチは見ずにハワイ滞在を終える晩、サチは気が付くと泣いていたとなる。これは「プールサイド」の三五歳の男の泣き方に近く、意味合いも近い。だが六十歳は近いだろうサチにとっては人生の終末に近い実在との遭遇でもあるだろうし、どこかしら癒しの印象もある。
 「どこであれそれが見つかりそうな場所で」は、村上春樹の短編集に特有のヒューモラスな非現実的な設定になっている(表題は私には有名なユダヤ笑話を連想させる)。探偵のような主人公は消失した人間に関心を持つ。物語ではある女の夫が突然マンションの24階から26階で消えた。なぜ? 答えはない。あるいは答えるならそれは品川猿のようなものになるのだろう。その意味で、この作品は品川猿の前哨的な意味合いを持っている。と同時に、村上春樹の初期・中期、いや「海辺のカフカ」でもそうだったが、ストーリーを逸脱した登場人物の消失の類型のメタ的な意味合いがある。エンディングは趣味の悪いものになっている。最終の二段落を書き加える必要があったか。すでに村上春樹は大作家であり、その創作過程に編集者の思いは入らないが、ひと昔の編集者ならここは削っただろう。しかし、この趣味の悪い構成は次の作品にも引き継がれる。
 「日々移動する腎臓のかたちをした石」は、小説家淳平が二人目の女に出会う話だ。彼の父はこう息子に告げる、「男が一生に出会う中で、本当に意味を持つ女は三人しかいない。それより多くもないし、少なくもない」。読者である中年男性の私はここで目を閉じて、私の女を数える、一人、二人、三人。それでいいのか? あれは一人目なのか、それは二人目なのか。そしてこれは三人目なのか。もちろん、この女を数える含みには性交が含まれているようでもあるが、それだけではない。そして、すでにそうした思いのなかでこの小説のなかに巻き込まれてしまう。男にとって人生で意味のある女は確かに三人しかいない。物語は、その二人目であろうかという女との出会いであり、そしてその、男にとって限定された二人目の女とはどのような意味を持つのかが問われるように女が造形される。ここでさすがに大作家だと溜息をつくのだが、この女の造形には主人公淳平が小説家であことから、その作品のなかの女医が影のように存在し、それがメタ・フィクションの構成を持っている。日々移動する腎臓のかたちをした石はこの小説内の小説の内部に存在し、小説内小説の女と男の関係は、実際には淳平という中年に向かう男の内面を描き出している。ただし、もはや「プールサイド」のようにまさに人生にぶつかるような音は立ない。淳平の父のように老いに至りつつある作者の述懐のなかで、死へターンした中年となる男の契機が描かれる。淳平に老いの男はつぶやかせる、「大事なのは数じゃない。カウントダウンには何の意味もない。大事なのは誰か一人をそっくり受容しようとする気持ちなんだ、と彼は理解する」。つまりそれが二人目の女という意味なのだが、これにこう続く、「そしてそれは常に最初であり、常に最終でなくてはならないのだ」。しかし、ここは作者村上春樹の嘘だ。真実は、もう一人の、三人目の女に中年から老いに至る男は向き合うことになるということだ。それはもしかするとヘルマンにとってのヘルミーネであるかもしれないにせよ。エンディングは前作「どこであれそれが見つかりそうな場所で」のように悪趣味な趣向で終わる。が、それはおそらくこの作品が大作の構成を持っているためだろう。この作品は主人公の名前が同じく淳平であるように「蜂蜜パイ」と一体化した作品だろう。
 「品川猿」は圧倒的な作品だ。私は読みながら爆笑し、エンディングで不覚にも号泣するはめとなった。主人公の、結婚三年目二六歳の安藤みずきは自分の名前を日常でしばしば想起できない事態になっている。精神の病だろうかと、カウンセラー坂木哲子に相談する。カウンセリングの過程で安藤みずきこと旧姓大沢みずきは高校時代の知人松中優子を思い出す。優子はみずきに寮暮らしの名札を預けた翌日自殺した。自分の名前を想起できない既婚女性の物語は、この名札と品川猿によって奇妙な笑い話のような解決を見る。私は、実は、この作品がどのように読まれているかネットをさっとサーチしたところ「品川猿問題」という言葉に出会った。文芸評論家加藤典洋は、「その人の真実をその人を傷つけることなく伝えるかということ」としているらしい。加藤の評論を読んでいないのでなんとも言えないのだが、品川猿が意味するものは、人を傷つけることなく人に真実を知らせるということではない。まったくない。作品では、真実を知る安藤みずきはそれによって大きく傷つく。彼女の真実とは、誰からも愛されず偽りのなかで女性として性を引き受けて老いに向かわなくてはらないという悲しみの受容であり、その傷と悲しみという人生の影を突きつけるのが、表層的には悪のトリックスターである品川猿なのだが、それによって彼女は真実を生きる可能性を得る。彼女は傷つき真実を受け入れるまで、誰にも嫉妬をすることがなかったという。死んだ松中優子は才能も美貌もありながらおそらく嫉妬のような心的存在によって死んだ。いや、品川猿は優子を生かしたかもしれないし、逆に安藤みずきは真実を生きることで同じような死を迎えるかもしれない。およそ真実の生を生きることは自分の死の形を受け入れることだし、愛なき存在として生を受諾しながら、そのために誰かを愛していかなくてはならないプロセスに至る。私は余計なことを言っているとは本当は思っていない。「品川猿」の読後、「蜂蜜パイ」を読み、そして「日々移動する腎臓のかたちをした石」を読み、さらに本書の「偶然の旅人」と「ハナレイ・ベイ」と再読されれば、その問題意識こそこの短編のモチーフであるとわかるはずだ。

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2008.04.09

[書評]回転木馬のデッド・ヒート(村上春樹)

 最近なんとなく村上春樹の短編「プールサイド」と「雨やどり」を思い返すことがあり、たまたま買い物先の本屋でこれを収録する短編集の文庫「回転木馬のデッド・ヒート」(参照)を見かけ、何の気なしに買って読み直した。面白かったといえば面白かった。技巧的ではあるけど春樹さん(なぜか春樹さん)のこのころの感性は若いなというのと、その後の作品に繋がる部分もいろいろ思った。この短編集は彼の短編集のなかでは最高傑作と言えるかどうかよくわからない。が、再読して「プールサイド」と「雨やどり」は自分の人生観を結局大きく変えていたなというのを確認した。

cover
回転木馬の
デッド・ヒート
 私はこの短編集の作品を講談社のミニ雑誌IN・POCKETに連載中から読んでいた。単行本化されても読んだ。最初の文庫でも読んだ。今回で何回目になるだろうか。今ウィキペディアを見ると2004年改訂とある。この文庫版に改訂部分があるのだろうか。わからなかった。
 IN・POCKET連載の順序は次のとおりだ、とこういうときウィキペディアは役立つ。

  1. プールサイド (1983年『IN・POCKET』10月号)
  2. 雨やどり (1983年『IN・POCKET』12月号)
  3. タクシーに乗った男 (1984年『IN・POCKET』2月号)
  4. 今は亡き王女のための (1984年『IN・POCKET』4月号)
  5. 野球場 (1984年『IN・POCKET』6月号)
  6. BMWの窓ガラスの形をした純粋な意味での消耗についての考察 (1984年『IN・POCKET』8月号)
  7. 嘔吐1979 (1984年『IN・POCKET』10月号)
  8. ハンティング・ナイフ (1984年『IN・POCKET』12月号)
  9. はじめに・回転木馬のデッド・ヒート (1985年10月 『回転木馬のデッド・ヒート』に書き下ろし)
  10. レーダーホーゼン (1985年10月 『回転木馬のデッド・ヒート』に書き下ろし)

 ご覧のとおり、この短編集は「プールサイド」と「雨やどり」から始まっている。たぶんこの短編集のもっとも本質的な部分がこの2作にある。すでに短編集既読のかたもこの順序で読みなおしされると印象がかなり違うのではないだろうか。
 最初の作品が発表されたのは1983年の秋で、私はその年に大きな人生の転機があった。印象深く思い出す。私が26歳。春樹さん(まだ超メジャーな作家とも言えなかった)が35歳だ。この35歳という年齢がこの作品集にとても重要な意味を持つ。「プールサイド」がまさに35歳という意味の作品でもあるからだ。26歳の私は、そのころ手ひどい失恋の後遺症にあって、それをそれから10年近く引きずりながら自分なりの35歳を迎えた。
 発表時のリストと本書の収録の違いは、その掲載順序以外にすぐにわかることがある。短編集では次の配列になっている。

  1. はじめに・回転木馬のデッド・ヒート
  2. レーダーホーゼン
  3. タクシーに乗った男
  4. プールサイド
  5. 今は亡き王女のための
  6. 嘔吐1979
  7. 雨やどり
  8. 野球場
  9. ハンティング・ナイフ

 そう、「BMWの窓ガラスの形をした純粋な意味での消耗についての考察」が抜けているのだ。この作品はある意味で変な作品で、春樹さんの存在に閉じ込められていた暴力的な部分が強く垣間見られる。長いことこの作品は書籍化されなかったが、たしか現在では作品集には収録されたはずだ。IN・POCKET(1984・8)がレア本ということではもうなくなっただろう。
 再読して、「プールサイド」と「雨やどり」がやはり印象深い。この作品を十分に理解できる年齢に自分がなってしまったのだということもよくわかった。作品としては「レーダーホーゼン」がもっとも完成度が高いかもしれない。その他の作品のモチーフは中断されたような形なっていて他の短編(「トニー滝谷」とか)や長編小説などに引き継がれている。意外と「極東ブログ: [書評]海辺のカフカ(村上春樹)」(参照)で触れた「海辺のカフカ」に繋がる作品として読めるものがあるように思えた。
 この時代の春樹さんは文体が若く、また今の自分の感性からすると稚拙に思える文章も多い。意外と言ってはいけないのだろうが、50歳以降の春樹さんの文体はいわゆる第三の新人の影響のほうが強いのではないだろうか。ネットなどでよく春樹文体のパロディがあるがああいう文体で彼はもう書いていない。
 「プールサイド」と「雨やどり」について少し触れておきたい。「プールサイド」は35歳になったある男の独白だ。人生は好調に過ごしているのに、自分が人生の折り返し点と決めた35歳になって、わけもなく泣いたという話だ。話の表面には「老い」というものの抗しがたい力が暗示されるのだが、そこは別の系列の問題意識のようでもある。むしろ、妻もいながら33歳で24歳の女性とした不倫の述懐に本質がある。

 彼はその情事を通じてあるひとつの事実を学ぶことになった。驚いたことに、彼はすでに性的に成熟していたのである。彼は33歳にして、24歳の女が求めているものを過不足なくきちんと与えることができるようになっていたのである。これは彼にとって新しい発見だった。彼にはそれを与えることができるのだ。どれだけ贅肉を落としたところで、彼はもう二度と若者には戻れないのだ。

 男という存在は、童貞の喪失から、おそらくその九割は、十年近くは女というものに結果的にぎこちなく戦い続けてしまうものではないだろうか(女にも別の戦いはあるだろうが)。そしてふとこの35歳の男のような述懐を持つ。童貞時代あるいは女とぎこちなく性行為を重ねた時代の若さが懐かしいというのではない。「もう二度と若者には戻れない」というのもその喪失を嘆くというのとは少し違う。とても言葉にしがたい何かだし、その時期が過ぎ去ってしまえば、この男のようにもう二度と泣くこともない何かだ。
 「雨やどり」は仕事に破れ、不倫の男とも別れた28歳の女がなんとなく売春をする話だ。お金が欲しいわけではなく、自分の性的な存在に対価を男につきつけてみることでひとときの生(ライフ)の充足を得たという話だ。作品は作者の男の視点が強く混じる。

 個人的な話をすると、僕も金を払っては女と性交しない。したこともないし、この先とくにしようとも思わない。しかしこれは信念の問題ではなく、いわば趣味の問題である。だから金を払って女と寝る人間をまっとうじゃないとは僕には断言できないような気がする。たまたまそういう巡りあわせになっているだけのことなのである。

 単純に言えばそれはかなり嘘だ。趣味の問題ではない。この作品は、山火事のようにセックスがただだった時代があるといったうそぶいたエンディングがあるが、それもまた違う。対価をもって性と関わるようなそういう存在のある種の救済の物語だ。もちろん、それは私たちの表向きの社会とは違う。にも関わらず、春樹さんや私のように金で性を買わない市民的な市民ですらその内奥には同じ文学的な存在が潜んでいる。
 最初に買われた、いや売ったときの女の述懐はやや男の視点に濁っているが何かを言い表そうとしている。

男がペニスを抜きとってシャワーを浴びに行ったあと、彼女はしばらくベッドの上に横になり、じっと目を閉じていた。そしてこの何日間かずっと彼女の中でわだかまっていた名状しがたい苛立ちがもうすっかり消え失せていることに気が付いた。

 森有正ならその「名状しがたい苛立ち」をアンゴワッス(angoisse:懊悩)と呼ぶのではないだろうか。英語ならanguishだ。森は西洋的な個人の性の内奥にあるものをそう呼び、それを喉が締め付けられるような情感として捉えた。西洋人の存在喪失のような迫力をもつ性欲はしばしば「乾き」ととらえられるが(ちなみにこれはイエスの受難の含みがある)、たぶん、thirstyという感覚はanguishに近い「狭隘」といった感覚を伴うものなのだろう。
 こうした感覚はたぶん東洋人にはない。日本人にもあまりない。しかし、個人がその存在の輪郭を深めるとき性の圧倒的な衝動として訪れる。と同時にそれはどかしら、カトリック的な救済の陰影を持つ。
 短編には救済というには滑稽にも思えるエピソードがある。

「ねえ」と僕は言った。「もしさ、僕がお金を払って君と寝たいと言ったとするね。もしだよ」
「ええ」と彼女は言った。
「君はいくらって言う?」
 彼女は唇を少し開いて吸いこみ、三秒ばかり考えた。それからもう一度にっこりと笑って「二万円」と言った。
 僕はズボンのポケットから財布を出して、中に幾ら入っているか勘定してみた。全部で三万八千入っていた。
 「二万円プラス、ホテル代プラス、ここの払い、そして帰りの電車賃、そんなもんじゃないかしら?」
 実にそのとおりだった。

 どこかしら告解のようでありながら、その存在の限界が性の対価として告げられる。そのようにしてしか存在しえないような人の関わりとういものがあり、それが実現しないせによ、私たちの生活の根の部分に、おそらく救済に近い形で潜んでいる。

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2008.04.08

アルゼンチン・タンゴ的アルゼンチン

 アルゼンチン情勢はあまり日本の話題ではないが、なんとも微妙な感じがある。いやネットで注目のベンジャミン・フルフォードさんの大著「日本がアルゼンチン・タンゴを踊る日」(参照)という趣向でもないのだが。
 比較的最近のアルゼンチンを伝えるニュースとしては、エープリルフールネタとして読み過ごしたかたもいるかも知れない読売新聞”輸出税引き上げ反対、農民が道路封鎖…アルゼンチン”(参照)がある。


 AP通信などによると、トラクターなどで封鎖されているのは国内の主要幹線道路400か所以上。流通網の寸断で、数百万トンの穀物が港に到達せず、中国や欧州向けの輸出が滞っている。アルゼンチン国内のスーパーでも、牛肉や鶏肉、イモの供給が不足しているという。地元紙ラナシオンは、デモによる損害額は約23億5000万ペソ(約750億円)に達すると報じた。

 背景は農産物税率の問題だ。

 政府は3月11日、大豆や小麦など4品目の輸出税について、税率を固定制から国際価格に応じた変動制に切り替えた。これにより、大豆の税率が35%から45%に上昇したことから、農業団体が反発。同13日から抗議活動が始まった。

 アルゼンチン政府側がどう見ているかというと、抗議農民の実態は富裕層であり事態はその造反としているようだ。

 昨年12月に就任したクリスティナ・フェルナンデス大統領は当初、「抗議しているのは、最も収益を上げている連中」とデモを批判、交渉に応じない考えを示していた。だが、混乱が長期化するなか、大統領は3月31日、「対話の用意はある」などと述べ、融和策を発表した。

 関連の日本国内報道を見ていて「へえ」と思ったのだが、赤旗はクリスティナ・フェルナンデス大統領の見解を支持しているようだ。”アルゼンチン農業スト/富農・富裕層が“指図”/輸出利益への増税に抵抗/革新政権への攻撃にも利用”(参照)より。

 【メキシコ市=島田峰隆】農産物の輸出税引き上げに反対するアルゼンチンの農業団体による抗議行動は、各団体が一カ月間のスト休止を決めたことで五日までに収束しました。この抗議行動には多くの農民が加わりましたが、最も積極的にあおったのは、輸出で収益を上げる一握りの大土地所有者や富農、都市部の富裕層で、これにたいする労組や社会団体の反発も起きています。

 農民を締め付ける税制を赤旗は支持しているようだ。国家主義的にはそれでまっとうなあり方だからか。赤旗の考えの裏付けは貧富の問題らしい。

 アルゼンチンでは、大土地所有者、富農とその他の中小零細農民の間には規模の点で著しい格差があります。
 たとえば土地の55%を2%の富農が所有。大豆では、わずか20%の生産者が収穫全体の八割を独占し、さらにその20%のうちの2・2%が収穫全体の46%を占めているといいます。
 最近の穀物価格の上昇によって輸出で莫大(ばくだい)な利益を上げているのは、これらの大土地所有者や富農です。今回の抗議行動の背後には、こうした特権層の指図があったといいます。

 ちょっとぼかして書かれているものの、赤旗というか日本共産党はクリスティナ・フェルナンデス大統領の施策を支持している。儲けているやつから国家が搾り取るのは当然ということかな。
 今後はどうなるか。Sao Paulo Shimbun”アルゼンチン農業者ストは30日間の休戦”(参照)によると一息ついたという感じらしい。

 二一日間に及んだ農業者ストは中止になったが、アルゼンチンではインフレ問題で国民の前途期待感がしぼんだ。
 OPSMコンサルタント調べによると、経済の前途楽観は昨年末に五一%だったのが三七%に下がった。悲観は大統領選挙終了の直後に一〇・四%だったのがここに来て二二・二%に上昇した。
 農業者側は、ストは三〇日間の休戦としており、ぶり返すことも考えられる。ストはクリスチーナ大統領に政治的なダメージを与えた。

 数値的にはまだそれほどお先真っ暗感はないようでもある。
 フィナンシャルタイムズの1日付けの冗談のようなタイトルの”Where’s the beef?”(参照)は、赤旗の方向とは違っている。

Workers in the booming soya industry are being laid off. Food shortages have come in the wake of energy cuts for business users, pushing up prices. The private sector has no confidence in this meddling government's inflation statistics. Independent economists say prices rose by about 20 per cent in 2007 and may have increased by as much as 3 per cent last month.
(急成長の大豆産業労働者は解雇されつつある。産業用電力供給不足から食物不足となり、物価が上昇した。民間部門は干渉する政府のインフレ率統計を信じていない。民間のエコノミストには、2007年に20%上昇し、先月だけで3%上昇したと見るものもある。)

 政府統計を民間は信じていないし、対外的な投資もそれでは難しいだろう。フィナンシャルタイムズ的にはどうすべきか。

It is high time Ms Fernandez realised that the interventionist policies introduced after the 2001-02 crisis are no longer appropriate. In the short term, she should negotiate with farmers and be prepared to offer concessions. Windfall taxes are warranted when commodity prices soar but the scale of those imposed on the farm economy makes little sense, especially when the proceeds are in effect financing subsidies.
(フェルナンデス大統領は、2001年から02年の危機後に導入された干渉主義政策がもはや有効ではないと理解する時期に来ている。短期的には、彼女は農民と交渉し、譲歩するべきだろう。棚ぼた式な税収は物価高騰時には支持されるが、農業経済に強制する量として見るとあまり意味がない。特に収益が経営の助成になっているときはそうだ。)

 私が誤解しているかもしれないが、農業部門の成長を阻害するようなことはするなということだろうか。
 フィナンシャルタイムズはいくつか政策提言をして、こうまとめる。

None of this will be easy. But the longer Argentina's problems are allowed to fester the more difficult they will become to resolve. Argentina is still a long way from the meltdowns of the 1980s and early part of this decade. But it is just as far from seizing yet another golden opportunity to turn itself into the prosperous nation it should be.
(どの施策も簡単ではない。アルゼンチン問題の悪化を長引かせればより解決が難しくなる。アルゼンチンは1980年代のメルトダウンから離れこの10年の初期段階にある。とはいえ、もう一つの好機を得て繁栄国にするにはまだ遠い。)

 今なら好調のラインに戻せるかもしれないがこのままではまずい、と。なんだかどっかの国の話のようだし、総じて見るとアルゼンチンは好機を掴むことはたぶんないだろう。案外赤旗の視点も正しいのかもしれないな。
 そういえば、この事態はある意味で、昨年フェルナンデス大統領が就任した10月のワシントンポスト”New President, Old Cycle”(参照)で予想されていた。

For the last century, Argentina has lived by a cycle of economic boom and bust, driven by prices for its agricultural exports, by the fondness of its governments for populist policies and by its resistance to playing by the usual rules of global financial markets.
(農産物輸出の価格、政府の大衆迎合政策、国際市場の常識への拒絶によって、何世紀もの間アルゼンチンは、盛衰を繰り返してきた。)

 まあ、タンゴのメリハリというのは国民性なんだろう。
 エビータ再来のタンゴのお相手が誰かなんていう話題もちょっと書こうかと思ったけど、どうでもいいや。

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2008.04.07

日本でもシトルリン(Citrulline)ですか

 ちょっとたらっと書くのと、記憶に頼るのであまり正確な情報ではないかもしれない。なので雑談程度に受け止めておいていただきたい。
 ニュース的には3日付けFujiSankei Business i”アサヒ飲料、資生堂、ロッテが共同PR シトルリンで健康維持して”(参照)がわかりやすい。


 アサヒ飲料、資生堂薬品、ロッテは2日、食品用の機能性素材「シトルリン」を配合した新商品の合同発表会を開催した。3社が新商品を22日に一斉発売するほか、「シトルリン健康プロジェクト」を立ち上げ、シトルリンの認知度向上に取り組む。

 機能性というのだからそれはなにか。

 シトルリンは、スイカなどに含まれるアミノ酸の一種で、昨年8月に食品への使用が認められた。すでに体内の血流を改善する効果が確認されている。これにより、栄養分や酸素が順調に細胞に届けられ、新陳代謝が活発になるほか美肌や筋力強化、冷え性改善などの効果が期待できるという。

 その期待がどれだけ裏付けられるかということと、こうした食品の摂取のメリットがどれだけあるかは、市場にまかされている。
 ところで、なぜシトルリンが今頃日本に出てきたかというと、この4月の食薬区分改正で非医薬品リストのL-シトルリンが食用解禁されたからで、チオクト酸以降こうした区分変更が3年間ほど事実上凍結されていたので解禁のシンボルにもなっているようだ。ちなみに、チオクト酸は区分変更後は米国のサプリメント風にアルファリポ酸と呼ばれていることが多い。あまり受けてないようだが。余談だが、こうした変更は日本では法律によってなされず、厚労省による知事通達でなされる。私はこういうやりかたはまずいんじゃないのと思っている。
 シトルリンについてはすでに米国で5年以上前だったか話題になり、その後も市場的な問題を起こしていないようなので、厚労省側としても実質米人の人体実験でも大丈夫とみたのだろう。
 シトルリンとはだが、ウィキペディアの項目は間違いではないのだがわかりづらい(参照)。

シトルリン (Citrulline) はアミノ酸の一種で、尿素回路を構成する化合物のひとつ。1930年に日本でスイカの中から発見され、そのラテン語citrullusに因んで名づけられた。動物、特に哺乳類で広く存在する。化学式は 6H13N3O3、IUPAC命名法では 2-アミノ-5-(カルバモイルアミノ)ペンタン酸であり、分子量は 175.2 g/mol。CAS登録番号は [372-75-8] である。

 日本で昭和5年に発見された。発見者はM.Wadaというのだが日本語での名前を私も知らない。

ミトコンドリアでオルニチントランスカルバモイラーゼによって触媒される、オルニチンとカルバモイルリン酸の反応でリン酸と共に生成する。また、サイトソルでアスパラギン酸、ATPと反応し、オルニチンとAMP、ピロリン酸となる。この反応はアルギニノコハク酸シンテターゼによって触媒されるが、この酵素が欠けていると血中にシトルリンが蓄積し、また尿中に排出されるようになってシトルリン血症(シトルリン尿症)を発症する。

 後半部については、アスパルテームにおけるフェニルケトン尿症患者のような懸念がないわけでもないが、概ね市場的にはないだろう。
 前半の説明だが、サプリメントの立場からすると重要なタームが抜けている。アルギニノコハク酸からL-アルギニンになりまたシトルリンに変換される過程でNO(一酸化窒素)を出す。これが血管拡張に寄与すると想定されている。
 のだが。
 この一酸化窒素とサイクリックGMP(cGMP)の関係はバイアグラの機序を連想させるところが米国でシトルリン・サプリメントのバカ騒ぎが起きたツボだった。このバカ話がすでに日本に上陸しているか、シトルリンでぐぐったら案の定だった。
 この手の際物サプリメントの第一人者サヒリアン医師はこう簡素に答えている(参照)。

Q. Is citrulline taken daily or every other day. How does citrulline supplement affect erections and sexual desire? How does citrulline affect the penis in the flaccid state since there is more nitric oxide in the system.
A. We are not impressed by citrulline as a supplement for erection enhancement or sexual desire improvement. The use of a citrulline supplement is not likely to influence penis erection.
(質問:シトルリンは日々または一日おきに摂るものですか。シトルリンはどのように勃起と性欲増進に役立ちますか。シトルリンが萎えたペニスに影響を与えるのに一酸化窒素以上の効果はありますか。回答:私たちは勃起改善や性欲増進にシトルリンのサプリメントを勧めません。シトルリン・サプリメントはペニスの勃起には影響しそうにありません。)

 この他の米国のバカ騒ぎとしては、アルギニンやオルニチンから成長ホルモンの分泌をよくするといったものがあった。
 シトルリンに健康面での効果がないかどうかはわからない。ざっと見た感じでは厚労省側は食品区分に移しただけで、機能性食品として認可された製品はまだなさそうだ。が、機能性食品でも特保は個別の食品の認可であって、ビタミンなど栄養機能食品は別扱いになる。シトルリンあたりは今後は特保だろうか。
 ところで、なぜ私がシトルリンに関心を持っていたかというと、第2レベルに上がれません問題ではなく、沖縄暮らしで、ゴーヤーが精力剤として伝統的に理解されていたことになんか薬学的な根拠でもあるのかなと調べていて見つけた。ゴーヤー(ニガウリ)にもシトルリンは多く含まれている。といいつつ、スイカより多いかどうか忘れたし、ググっても簡単な解はないようだ。ゴーヤーも種類が実はいろいろあるので推定値が難しかった記憶がある。
 ネットを見ると協和発酵データとして(参照)、スイカは100gでシトルリン180g。ヘチマ(可食部)で57mgとある。多いのか少ないのかもよくわからないが、健康食品としてみたばあいは、デザートのスイカ一切れ程度でしょう。夏スイカよく食って血行が良くなったという実感はあまりないが。
 ヘチマの可食部で思い出したが、沖縄暮らしではよくヘチマを食った。東京に戻って食えずにさみしくなり実家で植えてもらった。上野アメ横のアジア食材の店に食用ヘチマが売っているが、もっと一般的に購入できるようならレシピでも書きますかね。

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2008.04.05

オムレツと小麦粉についての悩ましい問題

 「悩ましい問題」って表現は日本語じゃないよなと思いつつ、なんとなくこの手のボケ話題には向きそうな表現なので採用。というわけで、オムレツと小麦粉ついての悩ましい問題だ。つまり、オムレツに小麦を入れるか?ということ。入れるわけねーじゃん、とか脊髄反射でツッコミすんなよ、ネタがなくなるからさ。
 まずオムレツとは何か?だが、これが非常にうざい。ウィキペディアの記事とか読むとうでうで書いてあるんだけど、けっこうどうでもいいかなと。どうでもいいの決定版がその写真で、「うーむ、お母さんの手作りか」と思いきや英語版にも載っている。これってオムレツのグローバルスタンダードってやつですかい。
 で、オムレツっていうのの日本人のイメージはあれでしょ。というわけで、ユーチューブ的にはこんな感じ(参照)。難しいこと言う人がいるけど、こんなんがスタンダードでは。
 それはそれとして、問題は、オムレツと小麦粉ついての悩ましい関係だ。これが国際的にあるいは大英帝国的に、紅茶のミルクはいつ入れるか的に、大問題だというのはBBCのサイトの”Omelettes”(参照)からもわかる(いやエイプリールフールじゃないからネタバレすると個人ブログだけどね)。いわく、オムレツには2つの問題がある。1つはミルクを入れるかよと。答えはクリームちょっとくらいならよいよ、と。2つめが小麦粉問題。


Secondly, one should mention flour, since a few recipes for omelettes have erroneously and spuriously included it in the ingredients. If an omelette is made using that recipe the result could double as building material. A properly-made omelette is one of the most delicate dishes one can eat, unlike the pancake which, exactly as a consequence of the flour, can be a stodgy affair. So, no flour.
(二番目に小麦粉について言及せざるを得ない。というのもレシピによっては間違いも甚だしく偽りにも事欠くというべきか、オムレツに小麦を含ませている。万が一にもかくなるレシピで製造されるなら建築材の代用になりうる。適正なオムレツは人が食しうるもの料理においてもっとも繊細なものだ。パンケーキじゃないんだ。それなら小麦粉は使うし、気の重い出来事になる。つまり、小麦粉は絶対なしだ。)

 まあ、わからないでもない。
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亡命ロシア料理
 でも、私は小麦粉入れることがある。カラマーゾフの血が、アリョーシャの良心が、そうさせるのだ。いや違うか。ロシアといってもこりゃ、ユダヤ料理だもんな。というわけで、前世紀に作成されたもっとも美しいラフマニノフの音楽と「亡命ロシア料理」(参照)だが、こう書いてある。

 かつてベテランの料理人は、新人を採用するとき、一つだけ試験を課した。それは、オムレツを作ることだった。この料理の簡潔さと端正さは、単純であると同時に手が込んでいて、まるでソネットのようだ。温めたフライパンにバターを入れて溶かし、そこに、卵と牛乳と小麦粉をミックスしてあらかじめよく泡立てたタネを流し込む。(小麦粉はほんの少し ―― 卵二個につき小さじ一杯 ―― にしなければいけない。牛乳といっしょに薄めたサワークリームや生クリームを加えてもいい)。

 つうわけで、私は小麦粉を入れることがある。入れてどうなるかなんども作っているけどよくわからん。たいていそれなりにうまくできる。
 まずバターを大さじ一かけくらい入れて溶かす。フライパンは強火。ちなみにプチ・レミパン(参照)。

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 卵2、小麦粉小さじ1、牛乳大さじ2をよくまぜたタネを流し込む。

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 箸でかき回す。フライパンを揺するとか別にしなくてもよい。

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 全体がこんな感じでクリーミーになったら、端からフライ返しで端に重ねるように寄せていく。無理に巻こうとしなくていい。

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 寄せるとこんな半月形の感じになる。

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 これをフライパンをていねいにひっくり返すようにして皿に盛りつける。このとき同時に、形を自然に整形することになる。

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 できあがり。ソースはデミグラもよいよ(参照)。

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 つうわけで、まあ、こんなものなのかな、とも思うのだが、先の「亡命ロシア料理」ではこの先がちと違っている。


 タネが固まったらすかさず、フライパンを温めておいた天火の中に移す。そこでオムレツは膨らみ、盛り上がる。それをフライパンから取り出して、数秒以内に食べるのが肝心だ。

 それをやったことがない。めんどすぎ。
 とはいえ、「亡命ロシア料理」のこの先の教訓はロシア的であるとともに、非カント的な非モテの倫理性とは異なるかもしれないが、家族の本質を描くという点で概ね現代日本にも当てはまる普遍性を持っているかもしれない。

最も難しいのは、食べる人たちが唯一のしかるべき瞬間に食卓についているようにすること。たいていは、そんな風にはゆかない。あなたは家族を呼ぶ。家族は「いま行くよ」と答えるけれど、もちろんどこへ行くわけでもなく、どうでもいいような自分の仕事にかまけている。そこで、たとえ腹立ちまぎれに、「くそ、悪魔のところに行っちまえ」などと心で罵ったとしても、悪魔のところに行ってくれるわけでもない。ささやかな料理のお手柄はもう喜びにはつながらず、家族をみんな殺してしまいたくなる。そして、ナイフやオーブンがそばにあるものだから、妙な空想がだんだん高じてくる。でもこれはもう、全く別のお料理……。

 天国と地獄の境目は、スェーデンボルグのように考えなくても、そこいらに存在する、っていうか、飯を作ってもらったらさっさと食え。

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2008.04.04

ジンバブエ大統領選・議会選後、メモ

 うまく整理できてないので散漫になるかと思うし、ブログに書くにはもう少し待ってもよいかもしれないのだが、現時点で記しておく意味も多少はあるかもしれない。あとで触れるかもしれないが、日本のジャーナリズムはアフリカ問題に疎いということもだが、中国の手前この問題に触れたくないのではないかという印象もある。なお、前回ジンバブエに触れたのは昨年7月の”ジンバブエ情勢メモ”(参照)だった。
 3月29日に実施された大統領選と議会選の結果だが、ロバート・ムガベ(Robert Mugabe)大統領(84)の敗北は明確なので、問題はそれによって何が起きるかということに関心が移る。どう進んでもかなりの困難が予想されるが、最善な傾向としては、AFP”ジンバブエ、ムガベ氏が辞任に同意か”(参照)が伝える線だろう。つまり、国内争乱なく政権の移行が行われることだ。


 前月29日に大統領選と議会選の投票が行われたジンバブエで1日、28年に及ぶロバート・ムガベ(Robert Mugabe)大統領(84)の時代が終わりを告げ、長年にわたる政敵モーガン・ツァンギライ(Morgan Tsvangirai)氏が政権を握る見通しが強まってきた。
 ムガベ氏からの敗北宣言はないものの、外交官や与党幹部までもがムガベ氏が辞任に基本合意したと話している。

 もっともジンバブエの場合は”極東ブログ: ケニア暴動メモ”(参照)で触れたケニアのようにはならない。この点についてもAFPが詳しい(ただしケニアの件ではAFPの視点は結果的に外れた)。”選挙結果を待つジンバブエ、ケニアの「二の舞」にならない理由”(参照)にはいくつか分析があるが、要するに、ムガベ政権は論外の水準にあった。

地元の大学講師は、「国のすべてが腐敗している」ために今回の選挙で民族が焦点になることはないと話した。

 今回の選挙では、選挙操作でどうとなるレベルではなかったというのが事態をぐいっと進める結果になった。加えて、米国はワシントンポスト”Zimbabwe Teeters”(参照)が伝えるように選挙操作への威嚇を出していた。

Whether Mr. Mugabe succeeds in imposing a fraudulent election result will depend on whether other governments in southern Africa accept Ms. Rice's judgment -- and resolve, at last, to do something about the situation.
(ムガベ氏による詐欺的な選挙結果の強要が成功するかどうかは、南アフリカの他の政府がライス氏の判断の受諾するにかかっている。つまり最低でも状況に何か関与するという判断だ。)

 2つのAFP記事が楽観視する方向で進むかなのだが、現時点ではわからない。現時点の最新AFP記事はニューヨークタイムズの孫引きだが、懸念も伝えている。”ジンバブエ当局、外国人記者2人を拘束 無許可取材で”(参照

 前月に大統領選・総選挙が行われたジンバブエで、米ニューヨーク・タイムズ(New York Times、NYT)記者らジャーナリスト2人が3日、無許可で取材していたとして当局に拘束された。警察当局とNYTが発表した。
 
 ジンバブエ警察当局の広報によると、2人は首都ハラレ(Harare)中心近くの高級宿泊施設ヨークロッジ(York Lodge)で拘束され、警察当局によって留置されているという。

 ニューヨークタイムズの関連記事”New Signs of Mugabe Crackdown in Zimbabwe ”(参照)にはより深刻な事態のトーンがある。
 私の推測だが、すでに西側諸国の合意もあり、それほど大きな混乱はなく、ムガベ政権は終了するのではないか。
 問題は最善の線を進むとして、ムガベ大統領はどうなるか。3つシナリオはある。それなりに国内で隠遁する、裁判にかけられる、国外脱出する。たぶん、最初のシナリオはないだろう。ムガベはマタベルランド虐殺に関与しているからだ。この虐殺はなぜかあまり日本のジャーナリズムからは顧みられないが、2000年のBBCに簡素な記事”Mugabe: Madness of Matabele deaths”(参照)がある。

President Robert Mugabe of Zimbabwe has admitted that the killings and atrocities that took place in Matabeleland in the 1980s were "reckless and unprincipled".
(ジンバブエのロバート・ムガベ大統領は、1980年代マタベルランドで行われた殺戮と虐殺を「無謀かつ不測の事態」と認めた。)

 殺戮の規模については数千人と触れているが数万に及んでいたかもしれない。この虐殺はグクラフンディ(Gukurahundi)(参照)として知られている。かなり明白に国際法上の違反になるだろう。
 もう一つのシナリオは国外脱出だが受け入れ国の問題があり、さらに上位の枠組みに中国と西側諸国の問題がある。結論を先にいうと米国と中国北京政府側で暗黙の合意がとれている可能性もある。
 今回のムガベ敗北は中国にとっても手痛い事態でもあった。率直に言ってこれはこれでかなりの偏向があるが産経新聞記事”ジンバブエの大統領選、中国が強い関心”(参照)がこの背景を伝えている。

【北京=矢板明夫】中国のメディアはジンバブエの大統領選挙に高い関心を持ち、連日最新情勢を詳しく伝えている。これまでに10回以上の訪中経験を持つ盟友のムガベ大統領が落選すれば、中国にとってアフリカ南部における影響力の後退を意味し、大きな痛手になるからだ。

 以下の話は産経新聞らしいネタではあるがあまり重要ではない。個人の思想というより利権・独裁・ポピュリズムといった構図で見るべきだからだ。

 中国メディアの報道などによれば、中国は1980年に独立したジンバブエを最初に承認した国の一つ。それ以後、両国間の交流は順調に発展。87年にムガベ大統領が就任し、中国との関係はさらに接近した。大統領は独立運動を指導していた時代から毛沢東思想を信奉。若いころに約10年間投獄されたが、その間、「毛沢東選集」を繰り返し読んだという。

 ジンバブエを今日の圧政国家に育て上げたのは、しかし、かなり公平に見て中国だと言ってもよいだろうと思う。

 2002年、大統領が白人の農園を強制収用し、野党を弾圧したことなどを理由に、欧米諸国から経済制裁を受けた。四面楚歌(そか)の中、中国だけが支援の手を差し伸べ続け経済交流を拡大させた。ジンバブエからクロム、銅などの天然資源を輸入し繊維製品、医薬品などを輸出した。二国間の貿易額は01年に約1億4000万ドルだったが、07年には約3億4000万ドルに増えた。今年1月にはジンバブエの経済混乱を受け、中国は5000トンの緊急食料援助を行った。

 産経新聞をソースにするだけで反感を持つ人もいると思うので昨年6月のBBC”Zimbabwe signs China energy deal ”(参照)もあげておく。

China has signed a $1.3bn deal with Zimbabwe to help relieve an acute shortage of energy.
(緊急のエネルギー不足の解決のために、中国はジンバブエとの間に13億ドルの援助協定に調印した。)

 産経新聞は触れていないが、その後、胡錦濤政権が強化されるにつれ、この問題は、北京側では認識されている。昨年8月のテレグラフ記事”China is to withdraw backing for Mugabe”(参照)が簡素に対ジンバブエの中国の変化について触れている。

Robert Mugabe is to lose vital support from one of his few remaining allies on the world stage, China.

One of the Zimbabwe president's oldest diplomatic friends, China yesterday told Lord Malloch Brown, the Foreign Office minister, that it was dropping all assistance except humanitarian aid.
(ロバート・ムガベは、国際舞台のわずかな同盟国の一つ、つまり中国から貴重な支持を失うことになる。ジンバブエ大統領の長年の友である中国が昨日、マロック・ブラウン卿(外務省大臣)に話したことろでは、人道援助以外の援助はすべて低下しているとのことだ。)


 つまり中国側としても疲弊したジンバブエに対して人道援助に絞りたいとしていた。
 少し勇み足な考察になるが、中国が今回の事態を想定していたかだが、いただろうと私は思う。結果的にババを引く形になるが胡錦濤としてはこの時点でもっとも合理的な結論だともいえる。だが、当然抜本的な解決に至る結論にはなっていない。
 もっとも、ジンバブエの未来において、抜本的な解決というのはたぶん存在しないだろうし、混乱からの回復にどのように国際社会が関わるかについて、帝国主義時代の遺産を抱える西欧や大国の思惑があり、見えてこない。日本のほうがこうした問題に関われるチャンスはあるかと思うし、北京側との暗黙の合意を取りつつ汗を流すという選択もありうるだろうとは思う。

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2008.04.03

マケドニアのこと

 もう15年以上も前になるが北部ギリシアを旅行し、サロニカ(テサロニキ)から40キロほどのペラ遺跡を見に行ったことがある。
 ペラはマケドニア王国の首都でアレキサンダー大王の故地だ。サロニカを拠点とした小旅行では、カナダ人4人と私とガイドの矍鑠としたギリシア人のインテリお婆さんの6人だった。私は彼女から戦前の話も伺えて面白かったし、交渉力の強い彼女のおかげで発掘中の遺跡なども間近で見ることができた。
 ギリシア内の古代マケドニア遺跡をいろいろ見て回り、私は、なるほどこの文化はアテネなどの古典ギリシア的な世界とは随分違うものだと思ったし、墓制が異なるというのはそもそも文化が違うのだろう、いわゆるヘレニズムというのは西洋の誤解かもしれないと思ったものだった。
 ちなみに、ヘレニズムのヘレはギリシアを意味する。というか、英語でGreeceというのは俗称で、正式にはHellenic Republicという。つまり、ヘレニックというのはギリシアということだ。
 遺跡見学の途中、観光目当ての小さなカフェテラスでまいどながらのギリシア・コーヒーを飲んだ。ギリシア人は「ミドル・スイート?」と聞くので、「ノーノー、ベリーベリースイート」と答える。甘くなくちゃね。ぺっぺっしながらギリシアコーヒーを飲みつつ土産物を見ると、「マケドニア 3000年」というティーシャツがあった。ほぉと思って買って、日本に帰ってから着ていた。アテネで着るのはちょっとためらわれた。
 あの地域ではマケドニアはどういう含みがあるのか、以来いろいろ気になっていたが、最近、なるほどねというニュースを聞く。
 国内報道では毎日新聞記事”マケドニア:「ギリシャの一地方」 国名論争再び過熱”(参照)が比較的わかりやすい。


 【ベルリン小谷守彦】「マケドニア共和国」の国名をめぐり、同国と隣国ギリシャとの90年代以来の論争が再び過熱している。「本来のマケドニアはギリシャの一地方」と主張するギリシャは、北大西洋条約機構(NATO)や欧州連合(EU)へのマケドニアの新規加盟阻止をちらつかせつつ、国名の変更などを要求。国連と米国が仲裁に入り、解決策を模索している。

 この問題だが国際的には、3月30日付けニューヨークタイムズ”The Republic Formerly Known As ... ”(参照)のように、どちらかといえばなんとかなる類に見られていた。

Tiny Macedonia poses no threat whatsoever to Greece under any name; on the contrary, its economy is highly dependent on substantial Greek investments. Bringing it into the NATO fold is good for Europe, good for the Balkans, good for Macedonia and good for Greece. The name is something Athens and Skopje can work out on the side.
(ちっぽけなマケドニアがどのような名前を持とうとギリシアの脅威にはならない。逆に、経済面では実質ギリシアの投資に依存する。NATOに含めることは西欧にも、バルカン半島にも、マケドニアにも、ギリシアにも利点がある。国名の問題は両政府が本題から外して解決が可能だ。)

 残念ながらそういかない。
 なぜこの問題が紛糾しているのか、先の毎日新聞記事は近代史的な背景をこう説明する。

 バルカン戦争(1912~13)までオスマン・トルコ支配下にあったマケドニア地域は戦後、ギリシャとブルガリア、旧セルビアに分割され、セルビア側の領土だけが91年に独立。米国やロシア、中国などは「マケドニア共和国」として国家承認した。
 これに対しギリシャは、「マケドニア」の復活による領土要求を懸念。93年のマケドニアの国連加盟時には、両国は「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」の暫定名称を使うことで妥協していた。

 さらに根深い背景がある。
 冒頭たらっと書いたが、ようするにアレキサンダー大王の歴史を両国民が自国史のように見なしているので、その古代の栄誉の名前を譲りたくはないというのと、ギリシア側にはある種の恐れの感覚がある。
 毎日新聞の記事の書き方が悪いわけではないが「オスマン・トルコ支配下にあったマケドニア地域」とあると、その地域とギリシアとの関係がわかりづらいが、サロニカもオスマン帝国の一部であり、トルコ建国の父(アタチュルク)ことケマール・パシャも、サロニカの生まれだったし、当時そこはマケドニア州でもあった。
 国際問題としては、「マケドニア」という名前だけのこだわりだけで、ギリシアが拒否権(veto)を行使しようとしているようにも見えるが、BBC”Greece to veto Macedonia Nato bid”(参照)などを読むと、ややこしい背景がもう少し見える。

Territorial claims
Greece's foreign minister, Dora Bakoyannis, says the dispute is not just over a name.

She says the government in Skopje regards the Greek province of Macedonia as occupied territory and has refused to remove such claims from textbooks speeches, maps and national documents.
(領土の主張:ギリシア外相ドーラ・パコヤニスは、国名だけの問題ではないと言う。マケドニア政府はギリシアのマケドニア州を占領地と見ているし、教科書や地図、国家文書にそのような主張があるのを拒絶していると、彼女は言う。)


 つまり旧「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」が国家として「マケドニア」を名乗ることで、現ギリシア共和国内地域への領土的拡大を回復の名目でもくろむのではないかとギリシアは懸念している。
 面白いといってはいけないかもしれないが、アレキサンダー大王時代の古代史意識がやはり関係している。まるで白山伝説を南韓の人までが民族起源伝説と思いたがるように国家は起源伝説に捕らわれる傾向はあるのだろう。

The Americans say a dispute over who are the descendants of Macedonia's legendary king Alexander the Great cannot be allowed to derail Nato's expansion.
(米国にすれば、誰が伝説のアレキサンダー大王の子孫という議論でNATO拡張を頓挫させるわけにはいかない。)

 そういえば当時、ギリシアの北部国境近くの川沿いを走っていると、ところどころにテントがあり、ギリシア人のお婆さんはロマの旧称を叫んでいた。この地域には民族問題も潜んでいるのだろう。

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2008.04.02

シーア派内抗争が深まるイラク情勢

 イラク情勢が大きな曲がり角に達しているようだ。備忘もかねて簡単に記しておきたい。
 話はやや込み入っている。まず、日本語で読める報道からアウトラインを描いてみよう。今日付の朝日新聞”イラク「6日戦争」で治安懸念 撤退シナリオに影響も”(参照)が取りあえずスキーマティックに事態を伝えている。


 イラクのマリキ首相が率いる治安部隊と、イスラム教シーア派の民兵組織マフディ軍との戦闘は、3月25日に始まって以降、イラク全土で400人ともいわれる死者を出した。「6日戦争」とも呼ばれる今回の戦闘は収束に向かいつつあるが、改善傾向にあるとされてきたイラクの治安のもろさを見せつけた。米英軍の本格撤退シナリオにも影響を与える可能性がある。

 イラク情勢というと日本のジャーナリズムではつい対米軍の構図を描きがちで、朝日新聞の記事ではつい米英軍を焦点に置いてしまっている。だが、対立の焦点は、イラク政府軍対シーア派民兵マフディ軍である。
 やや勇み足の懸念もあるが、ここでいうイラク政府軍とは実質シーア派である。これはシーア派対シーア派の構図が基本にある。朝日記事には補助でトリアーデに見せかけた解説図があるが誤解の印象を与えかねない。
 朝日新聞記事では、南部の対立を、「サドル師派とイスラム最高評議会(SIIC)とのシーア派」として捉えている。正しいのだが、これもまたシーア派対シーア派である。よく読むとその構図がわかるが、やや読みづらいうえ、実態はシーア派として見てよい政府の関与もやや曖昧になっている。

 大油田地帯を抱えるバスラなどでは、サドル師派とイスラム最高評議会(SIIC)とのシーア派同士がしのぎを削り、傘下の民兵組織が抗争を続ける。マリキ政権で軍や警察の治安当局を握るSIICが首相と結託し、南部で根強い支持があるサドル師派をつぶしにかかったと、同派内では受け止められている。
 サドル師派は06年5月のマリキ政権発足に貢献。マリキ首相の出身母体のダワ党、SIICとともに、シーア派与党会派「統一イラク連合(UIC)」を構成した。しかし、サドル師派は首相が米軍撤退日程を示さないことや、米ブッシュ政権が首相に実現を求める石油法案に反発。昨年は閣僚の政権離脱、国民議会ボイコット、与党離脱とゆさぶりをかけた経緯があり、首相にとっては悩みの種となっていた。

 朝日は米軍に関心をおきすぎるが、対立の根幹にあるのは石油の利権である。
 この点、フィナンシャルタイムズ3月27日付け”The Basra fight for Shia supremacy”(参照)がわかりやすい。今回の政府軍の動きはあたかも統治主体の正当性があるかのようにも見えるが、フィナンシャルタイムズは否定的に見ている。

But the Shia-dominated administration of Nouri al-Maliki is a national government in name only. In practice it has ceased even pretending to pursue a communalist agenda, preferring the even narrower sectarian interest of the prime minister’s faction of the Da’wa (Call) party and that of its allies in the Supreme Islamic Council of Iraq led by Abdelaziz al-Hakim. The Iraqi national army, moreover, is really rebadged militia: in this instance mostly the Badr brigades of the Supreme Council.
(しかし、マリキ政権がイラク政府であるというのは名目上に過ぎない。実質は、国家自立の大義追求の虚構も止め、首相のダワ党とそれに同調する、ハキム師率いるイラク・イスラム最高評議会の党派的な利益への偏向がある。イラク政府軍もまた実態は民兵の言い換えに過ぎず、今回の事態についていえば、その大半は最高評議会指揮下のバドル旅団である。)

 さらにその闘争目的が石油利権であることも示している。

That is why the offensive is targeting Moqtada al-Sadr’s Mahdi army. The Hakims, backed by Tehran as well as Washington, want power in Baghdad, but underpinned by an oil-rich mini-state made up of the nine mainly Shia provinces of southern Iraq. Another local militia, a Sadrist splinter called Fadhila (Virtue), mainly wants to control the lucrative oil-smuggling trade. It has buttressed these aims through rough control of the oil ministry and a project for a three-province mini-region that would contain most of Iraq’s oil.
(攻撃対象がサドル師派民兵マハディ軍である理由は以上の通りだ。イラク政府内の権力を求めるハキム派はイラン政府と米国政府の支援を受けているものの、支持しているのは豊富な原油を持つ主にシーア派の南部9地方だ。その他の地域の民兵はサドル派分派のファディラ派であり、彼らの主目的は原油密貿易の支配だ。石油省の緩やかな支配とイラク大半の原油を持つ三地域プロジェクトによってこの目的が強調されてきた。)

 フィナンシャルタイムズの論点は明快と言えば明快なのだが、ハキム派とサドル派の背景がわかりづらい。この点は、ニューズウィーク日本版4・9”シーア派内紛と血の因縁”が簡素にまとまっている。

 シーア派の指導者として尊敬されていたサドルの父は、フセイン独裁時代もイラク国内にとどまったが、ハキム一族はイランに亡命した。以来、両陣営は相手を卑怯者とみなしている。そこには階級的な対立も感じられる。サドル派の多くは貧困層だが、ハキムの組織は比較的学歴の高い層を引きつけている。
 イラクのシーア派とスンニ派強硬派が戦っている間、ハキムとサドルの対立は一時的に目立たなくなっていた。だがサドルが昨年夏に一方的に宣言した停戦で、国内が平穏になった。それ以来、シーア派内部の対立は表面下でくすぶることになった。

 こうした構図のなかで、イラクの治安回復がどのように進むのか、率直なところ皆目わからない。
 印象にすぎないのだが、米軍が撤退すれば、混乱からサドル派が勢いづき、またスンニ派やクルド人との対立が激化することになるのではないか。

追記
 政府とSIICの関係についてワシントンポストは”Battle for Basra”(参照)で異なる見解を出していた。


Critics claim that the prime minister's only intention was to favor one Shiite faction, the Islamic Supreme Council of Iraq, over another, but Mr. Maliki does not belong to either group and gained his office with the support of Mahdi Army leader Moqtada al-Sadr.

 私は依然シーア派内部の問題だろうと見ている。また、以下のワシントンポストの視点は米軍を重視過ぎていると考える。

What the end of the fighting demonstrated is that Mr. Maliki's government and army are not yet strong enough to decisively impose themselves by force in areas controlled by the Mahdi Army or other militias, at least not without the full support of U.S. ground forces. The fact that such support remains available to the government no doubt contributed to Mr. Sadr's embrace of a cease-fire.

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2008.04.01

グルーバル・メタボリックシンドロームの時代

 昨日の産経新聞社説”メタボ健診 世界をリードする先例に”(参照)を当初さらっと読んだときはそれほど気にも留めていなかった。だが、これは今後の世界の動向を考えるうえでとても重要なことになるかもしれないと気になりだした。


 生活習慣病につながるメタボリックシンドローム(内臓脂肪症候群)予防の概念を取り入れた厚生労働省の特定健診・特定保健指導が4月1日から始まる。40歳から74歳までの男女5600万人を対象に、企業の健康保険組合など医療保険者に実施を義務付け、受診率などで目標に達しなければペナルティーを科す。

 メタボリックシンドローム予防は健康に寄与するだろうと思われるが、問題はむしろこの「ペナルティー」、つまり罰則にある。さらっと同社説を読んだかぎりでは、罰則の対象は、企業健康保険組合や医療保険者であり、基準は受診率だ。しかし根幹にある問題はメタボリックシンドロームであることから、罰則対象は診断される人に向く傾向があるだろう。つまり、メタボリックシンドロームの人の存在が罰則対象となり、簡単に言えば、デブは犯罪だということになりかねない。いやそうした世界が迫ってきている懸念がある。
 産経新聞社説では、実質社会的なデブ処罰を「予防医学の取り組みとしては世界をリードする壮大な試みだけに成果を期待したい」として、日本が世界をリードするかのように認識している。確かに予防医学という視点からすると、日本のメタボリックシンドローム基準は国際的な医学の水準を凌駕しているかもしれないが、デブの処罰という点では、どうだろうか。やはりデブの多い米国で先進的な対策が進められているようだ。
 特に全米でもっともデブの多いミシシッピ州では、デブ取締法とも呼べる法案「House Bill 282」(参照)が成立に向かっている。まさかこれが法律なのかとぞっとするような内容の一部を紹介しよう。

Any food establishment to which this section applies shall not be allowed to serve food to any person who is obese, based on criteria prescribed by the State Department of Health.

下記項目に関連する食品業者は、州健康部門が定める肥満基準において、肥満と見なせるいかなる者にも食事を提供してはならない。


 レストランに入ってきたデブに食事を出すのは違法であり、デブに食わせることは犯罪になる。
 当然ながら、こうした状況に危機感を持つジャーナリストも増えてきている。ニューズウィーク日本版4・2「世界に広がるメタボ狩りの波(No Country for Fat Men?」では次のように懸念が訴えられている。

 ファーストフード店の接客マニュアルには「注文前に笑顔でBMI値を聞くこと」という項目が加えられ、高級レストランはエントランス近くに独ツェーレン社のおしゃれな体重計を用意し、ハンバーガーは禁酒法時代のウイスキーのように闇で取引される――そんな日がやってくるのだろうか。

 「デブ狩り」は人権問題の視点からも反対の声が上げられている。
 NAAFA(National Association to Advance Fat Acceptance)という組織による”Stop Mississippi House Bill 282! by Peggy Howell”(参照)というアピールでは、「デブ狩り化社会」の反対運動を盛り上げようとしている。

Oakland, CA - The National Association to Advance Fat Acceptance, a civil rights organization fighting discrimination against people of size strongly opposes the Mississippi House Bill 282.

カリフォルニア・オークランド 米国高度肥満受容協会(NAAFA)こと、市民権により、体重による差別と戦う団体は、ミシシッピ州州法 House Bill 282 強く反対の意を表明する。



Depriving people of food does not cause them to lose weight in the long term and only increases the risk of ill health. Is our end goal good health and increased longevity or superficial appearance?

長期間に渡り食事を取り上げることで、体重が減らせることはなく、健康を害するリスクを高めるだけのことになる。我々が求めるゴールは、健康であって、寿命をすり減らしたり、表面的な見てくれにこだわることではないのではないか。


 人権や差別撤廃の観点から「デフ狩り」批判をする民間団体が存在する反面、過激な環境団体のようにデブそのものを社会的にバッシングしていく反肥満活動家も存在する。
 先のニューズウィーク記事ではミーミ・ロス(Meme Roth)を取り上げている。彼女はユーチューブを使って果敢に反デブ活動をする点で、ウェブ2・0的世界においても注目されている。

 昨年5月には、フィラデルフィアで行われた地元のYMCAのイベントに「反肥満活動家」が乱入。来場者に配るために用意されたアイスクリームとシロップを勝手に廃棄しようとして、警察が呼ばれる騒ぎになった。
 乱入したのは「反肥満のために活動する会」の設立者であるミーミ・ロス。肥満は病気ではなく、生活習慣にのみ原因があると主張する彼女は、今やCNNやFOXニュースが肥満関連の話題を取り上げる際には欠かせないコメンテーターとなっている。

 彼女は、ゲームをやってデブになった子どもがいる家庭には課税を増やせとも主張しており、そのようすは「YouTube - MeMe Roth- NAAO- New Mexico Video Game Tax Child Obesity」(参照)でも見ることができる。
 こうした反肥満活動家の矛先は、サンタクロースにも及ぶようになった。言われてみるまでもなく、たしかにサンクロースは太りすぎだ。同じくニューズウィークより。

 太った女性でも着られる服を取り上げた雑誌のファッション特集、ガールスカウトが資金集めのために売るクッキー、サンタクロース……彼女が批判したりボイコットを呼びかける対象は幅広い。

 反肥満運動家の活動はグローバルなつながりも見せている。興味深いのは、アジアでの反肥満運動家の活動では文化的な偏見にも深い批判を投げかけていることだ。アジア、特に中華圏でサンタクロース系のデブとして問題視されているのは弥勒菩薩だ。
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弥勒菩薩
 日本では弥勒菩薩といえば広隆寺・中宮寺のスレンダーな仏像が連想されるが、中華圏の弥勒菩薩は布袋様のように腹を出したデブだ。これはもうメタボリックシンドロームといった次元を越えているうえに、こうした仏像を崇拝することが大衆のデブ容認をもたらすとして反肥満運動家の恰好の攻撃対象となっている。
 日本も例外ではない。残酷な闘技ゆえにボクシングを無くそうとする人がいるように相撲も格闘技というにはあまりに不健康でデブすぎるという声が起きている。BBC”What health problems can sumos suffer?(相撲取りの健康上の問題は?)”(参照)では、こうばっさりと切り捨てている。

What health problems can sumos suffer?

Because sumo wrestlers are very big and over weight, they can suffer from diabetes, heart, bone and joint problems.

相撲取りの健康上の問題は?
相撲取りは巨体かつ体重超過ゆえに、彼らは糖尿病、心臓病、骨格上の問題に苦しむことになります。


 今後の対応としては、相撲も健康志向のグローバル化の流れにそって、スレンダーな体型の相撲取りを主流にしていくか、あるいはあの体型に隠された軽快な身のこなしを活かした新分野に取り組むことが求められるだろう。後者の可能性については、デブ促進サイドとして批判されがちなペプシがすでに取り組んでいることは以下の動画で確認されたい。

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