« [書評]2日で人生が変わる「箱」の法則(アービンジャー・インスティチュート) | トップページ | 短編小説 2008年のダライ・ラマ6世 »

2008.03.17

[書評]2日で人生が変わる「箱」の法則(アービンジャー・インスティチュート) その2

 昨日のエントリ「極東ブログ: [書評]2日で人生が変わる「箱」の法則(アービンジャー・インスティチュート)」(参照)の補足。同書を読み返しながら、ここは解説したほうがいいのではないかと思われる重要点が2点あるので、それに触れておこう。解説といってもできるだけ恣意的な解釈はさけて、原典にそって翻訳書ではわかりづらい点を扱うことにしたい。

 一点目は「共謀の図式」について。
 本書では、「平和な心」ではない「敵対心」がどのように現実の悪循環を引き起こすかということを、「共謀」という概念で、さらに図式化して説明しているのだが、訳書では図が少ないのと図があまり適切ではないように思われるので、ここの理解は難しいのではないだろうか。もっともよく読めば理解できないわけではないので、お節介な感じもしないではないが、その点は自分自身の復習もかねて書いているということでお目こぼしを。
 まず、「共謀」という言葉だが、「共謀罪」というときの共謀ではない。つまり、Conspiracyではない。英語では、Collusionなので「談合」に近いし、その訳語を当てることもある。ただ、ここではもっと辞書的な意味合いが濃い。Merriam-Websterより(参照)。


secret agreement or cooperation especially for an illegal or deceitful purpose

 「不法的・欺瞞的な行為の密約」といったふうに理解できるだろう。本書でCollusionは、そうした協議のニュアンスはなく、双方が知らず知らずに共同して悪循環をもたらしているという含みがある。共依存(codependence)という概念に近いかもしれない。
 オリジナルでは、このCollusionを4段階にわけて説明しているのだが、邦訳書では2枚だけで実質以下の1枚に凝縮されている。

 

共謀の図式
photo

 見方としては右下の1番から時計回りに4番まで巡るのだが、邦訳書の図では独立の4項目に分かれているが、これは3と2がアヴィ、4と1がハンナというまず大枠では二者を意味する二項として見るほうがよい。
 また、中央に箱に入った人物図があるが、これは編集サイドがおそらく箱を理解していないためで、箱はつねに個人にあり二者を囲む箱はない。箱に入った二者の関係は二つの箱の関係になる。おそらく、邦題の「箱」に引かれてしまったのだろうが、間違いだろう。
 ややわかりづらいのは、「私の行動」「私の見方」「彼女の行動」「彼女の見方」というところで、これらは、DOとSEEに対応している。働きかけとそれが相手にどう見えるかということだ。
 一番わかりづらいのはSEEにおける「一つのもの」だが、この「一つのもの」とは、つまりここで「我-物」の関係になっているということだ。
 まとめる。
 まずハンナの行動の1からだが、「尋ね・不満をもらし、しつこく頼んで私(つまりアヴィという他者という物)が行うことを強く要求する」というDOがあると、これを、2アヴィのSEEではそれを「物」として見てしまう、ということ。
 物として見ると、物としての理解として「要求がきつい、理不尽、小うるさい、じゃまもの」となる。そしてそこから、アヴィのDOである3、「抗議する、彼女に教える、傲慢な態度で応じる」となる。
 このアヴィのDOが、ハンナのSEEにおいて、また「物」として見える。だから、相手という物が「自己中心的、思いやりがない、未熟」という理解になり、そこから1のDOが惹起され、悪循環に陥る。
 つまり、この悪循環作成と敵対関係の増強に貢献しているのは、二者そのものであり、だから、共謀(Collusion)なのだということ。
 昨日のエントリでアリッグ教授が若い日のユースフに言った言葉はこの「共謀」を意味している。


『虐げられた人たちが反撃しているんですね』私はさり気なく言いました。
『そうです、双方とも』彼は光景から目を離さないまま、答えました。
『双方とも?』
『ええ』
『どうして? 催涙ガスを使っているのは一方だけじゃないですか』
『よく見て。どちらの側も催涙ガスを欲しがっているのがわかる』

 アリッグ教授は、暴動を理念的に断じるのではなく、そこで「共謀」が発生している事態を詳しく観察していたのだ。
 そして、この共謀の原点にあるのは、「敵対する心」であり「平和な心ではない状態」だ。だから、その心的状態にあるユースフに対してアリッグ教授は哀れんだ。

私もまた乱闘のほうに目をやった。『彼らの気持ちがわかりますよ』暴徒と化した黒人たちをあごで示した。
『それはお気の毒だ(Then I pity you)』
私は面くらいました。
『私が気の毒? なぜですか?(Pity me? Why?)』
『あなたは、自分自身の敵になっている(Because you have become your own enemy)』彼は静かに、しかし、きっぱりと答えた。

 「共謀の図式」の中に捕らわれた人は、自分自身を自分の敵にしている。
 ここで少し話がずれるのだが、「自分自身を敵にする」ということは、迫害・抑圧者になるという意味ではないかと思う。すると。

『でもあるグループの人々が別のグループを虐げているとしたら?』私は尋ねました。
『その場合、虐げられているグループは、自分たちが虐げる側にならないように気をつけなければいけない。それは陥りやすい罠だよ。過去の虐待という正当化の手段が手元にあるわけだからね(Then the second group must be careful not to become oppressors themselves. A trap that is all too easy to fall into,’ he added, ‘when the justification of past abuse is readily at hand.)』

 "to become oppressors themselves"は、関係性にあっては、自身を他者との関係で迫害・抑圧者に変質させるというのが一義であるとして、内奥においては、自身に対する迫害・抑圧者となることを意味している、と理解すると本書の各部での主張が整合するように私には思える。たとえば、蔑まれるより蔑むほうがつらいのだといったことなど。

 二点目に移る。
 「虐待された女性が虐待者を憎むのは間違いだと言う?」(邦訳書p135)という問題だ。
 パレスチナ人ユースフは父をユダヤ人(正しくはイスラエル国家)に殺され、そのことでユダヤ人であるモルデカイという老人に接する難しさが生じたということで、ユースフはこう言う。


モルデカイを人として見ていたから苦難にこだわっていなかったんです。苦難にこだわる必要があったのは、モルデカイに無情な仕打ちをしたことを正当化する必要があったから。苦難は言い訳だったんです。言い訳する必要がなかったら、私は苦難のことは考えもしなかったでしょう」
「じゃあ、虐待された女性が虐待者を憎むのは間違いだと言うの? 申し訳ないけど、ついていけないわ」グウィンはあざ笑った。
 ユースフはすぐには答えず、深い息をした。「私にもわからなかったんですよ、グウィン。一つ話を聞いてもらえますか?

 そして、性暴力にあった女性の手紙を読み、彼女が暴力を振るう夫を「人」として見たときどうなったかについて話が進む。ここはこの書籍を購入して読むべき部分なので割愛するとして、こう続く。

 ユースフは手紙から目を上げると、咳払いをして言った。「もし誰かひどい目にあっている人がいたら、私は心をいためます。なんとむごい重荷を負わなければならないことかと。その人の心の中が荒れ狂っていたら、私は意外に思うでしょうか? もちろん、思いません。そうした状況で、そうならない人がいるでしょうか。
 しかし、いまのような話に、大きな希望を感じます。再び平和を見いだすことができるということを示唆しているからです。私の人生の大部分は戦争地帯での生活だったのですが、それでもそう思いますね。

 そして、ここから私が解説が必要なのではないかという部分に続く。

 現在何もできないということで、過去のひどい扱いが消え去るかもしれないけれど、現在のふるまい方によって、その記憶を持ち続けるかどうかが決まります。

 端的に言って、この意味が通じるだろうか?
 この言葉こう続く。

人を物として見れば、自分を正当化するために自分が被った不公正にこだわるようになる。ひどい扱いと苦しみをよみがえらせて。反対に、人を人として見れば、正当化する必要がなくなります。すると、自分が被った最悪のことにこだわらなくなり、最悪のことは忘れ、他人の中に悪いところだけではなく、よいところを見ることができます。
 しかし、私の心が敵対的だったら、それは不可能です。敵対的な心は、それを正当化するために敵を必要とする。平和よりも敵と虐待を必要とするのです。

 この部分はそれほどわかりにくいものではない。
 だが、それと、前段のこの言明の関係がわからない。

 現在何もできないということで、過去のひどい扱いが消え去るかもしれないけれど、現在のふるまい方によって、その記憶を持ち続けるかどうかが決まります。

 この意味はなんだろうか?
 現在なにもできないでいると過去のひどい扱いが消えるか消えないか不明だが、現在の振る舞いかたを変えると、記憶の維持が変わる。つまり、人を人としてみると、過去の記憶の最悪のことを忘れる、ということだろうか?
 英文は次のようになっている。

Although nothing I can do in the present can take away the mistreatment of the past, the way I carry myself in the present determines how I carry forward the memories of those mistreatments.

 最初の英文の文法構造は次のようになっている。

nothing can take away the mistreatment of the past

 ここだけ訳すと。

 どのようにしても過去の不当な扱いを取り消すことはできない。

 となる。
 修飾構造を戻すと。

nothing I can do in the present can take away the mistreatment of the past,

 訳すと。

私が現在できるどのようなことでも過去の不当な扱いを取り消すことはできない。

 となるはずだ。すると。

Although nothing I can do in the present can take away the mistreatment of the past, the way I carry myself in the present determines how I carry forward the memories of those mistreatments.

(finalvent訳)
私が現在できるどのようなことでも過去の不当な扱いを取り消すことはできないとしても、私自身の現在の処し方が、これらの不当な扱いの記憶を持ち越すかどうかを決めています。

(現訳)
現在何もできないということで、過去のひどい扱いが消え去るかもしれないけれど、現在のふるまい方によって、その記憶を持ち続けるかどうかが決まります。


 どうだろうか。
 この部分の全体を訳しなおしてみよう。

Although nothing I can do in the present can take away the mistreatment of the past, the way I carry myself in the present determines how I carry forward the memories of those mistreatments. When I see others as objects, I dwell on the injustices I have suffered in order to justify myself, keeping my mistreatments and suffering alive within me. When I see others as people, on the other hand, then I free myself from the need for justification. I therefore free myself from the need to focus unduly on the worst that has been done to me as well. I am free to leave the worst behind me, and to see not only the bad but the mixed and good in others as well.

私が現在できるどのようなことでも過去の不当な扱いを取り消すことはできないとしても、私自身の現在の処し方が、これらの不当な扱いの記憶を持ち越すかどうかを決めています。私が人を物として見るとき、私自身を正当化するために、私が苦しんできた不正に安住し、その不正を保持し、私の内面で苦しみつづけます。逆に、私が他者を人間としてみるとき、私は自己正当化から自分を自由にすることができます。すると同様に、自分に降りかかった最悪の事態に過度に注意する必要性から自分自身が解放されます。私は自分の後ろに最悪の事態を捨て置き自由になり、悪だけを見るのではなく、良い面もあり悪い面もある他者をも見るようになります。


 再び、この意味はどういうことなのだろうか?
 こう言い換えてもいいだろう。過去のことは現在どうすることもできない。だが、(民族間の歴史の憎悪や加害者へ憎悪を越えて)人を人として見るなら、自分が正しいのだと主張するために憎悪の記憶を維持して自分を苦しめることはなくなる。
 そうなのだろうか。それは各人が本書の思想をどう受け取るかにかかっているし、それは自由だ。私は受け入れたいと思う。
 この考えは、くどいけど「極東ブログ: [書評]奪われた記憶(ジョナサン・コット)」(参照)でふれたローレンス・クシュナーの考えに近い。

たとえば、虐待されてきた人がすべてを忘れるためには、何が必要なのかも考え合わせなければなりません。なぜなら、覚え続けていると、それがその人を虐待し続けるからです。残念なことに、今日多くのユダヤ人の中にその傾向が見られます。私個人は、ワシントンのホロコースト博物館への特別招待を何度もお断りしました。思い出したくないからです。また、私のことを犠牲者として思い出すなんて、世間の人にとっては時間の無駄だと思います。私がその恐ろしさを覚えておきたいのは、あのようなことが私にも、他の誰にも、二度と起こらないようにするためだけです。


以前所属していた教会で、「大量虐殺に反対するユダヤ人」をスローガンに掲げるグループを作るのに私は手を貸しましたが、そのグループの名前は「われわれでなければ、誰が?」でした。そのようなやり方で、私はホロコーストの記憶に応えようと思います。私はガス室の写真を見たいとは思いません。ですが、大量虐殺が現在行われているルワンダやその他の地域の写真は、関心をもって見ています。私はそのことをひとりのユダヤ人としては心の底から知っています。ですから、そのことが私なりの社会的責任を負わせているのです。そのことは忘れたくありません。

 民族の虐待の記憶を忘れないとして、その苦しみを特定の民族のメンバーとして個人が意識し続けることはその人の内面を虐待し続けてしまうとクシュナーはいう。つまり、民族の虐待の歴史を忘れないということは、特定の民族の虐待の歴史を顧みて民族意識を高揚させることより、現在世界で進行している虐待を止めようと努力することだとしていることになる。
 私は、それも正しいと思うようになった。

|

« [書評]2日で人生が変わる「箱」の法則(アービンジャー・インスティチュート) | トップページ | 短編小説 2008年のダライ・ラマ6世 »

「書評」カテゴリの記事

コメント

箱は個人にありますが共謀を図式化したという点では二者を囲む箱でもいいんではないでしょうか。紛らわしいですが。

投稿: | 2008.03.20 20:15

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: [書評]2日で人生が変わる「箱」の法則(アービンジャー・インスティチュート) その2:

« [書評]2日で人生が変わる「箱」の法則(アービンジャー・インスティチュート) | トップページ | 短編小説 2008年のダライ・ラマ6世 »