[書評]2日で人生が変わる「箱」の法則(アービンジャー・インスティチュート)
本書「2日で人生が変わる「箱」の法則(アービンジャー・インスティチュート)」(参照)は昨日のエントリ「極東ブログ: [書評]自分の小さな「箱」から脱出する方法(アービンジャー・インスティチュート)」(参照)で扱った書籍の続編にあたる。
2日で人生が変わる 「箱」の法則 |
こう言うのは少し大げさなのかもしれないが、本書は前書の十倍近いインパクトがあった。私は打ちのめされたと言ってもいい、辛うじてそうでもないとすれば、本書の思想に対して私は、「極東ブログ: [書評]奪われた記憶(ジョナサン・コット)」(参照)のローレンス・クシュナーの思想からかなり接近していたので、受容できる素地があった。あるいは、クシュナーの思想をある程度受け入れようとしていたから、本書のインパクトを受け入れられたのかもしれない。
邦訳書はその表題や装丁、イラストなどからして、前書「自分の小さな「箱」から脱出する方法」の柳の下のドジョウ的な売れを狙ったか、日本のアービンジャー・インスティチュート・ジャパンのセミナー活動のパンフレット的な思惑で出版されたのだろうと推測する。つまり、できるだけ前書のビジネス・ハウツー的なノリで読めるようにマーケット的に配慮したのだろう。
だが、本書はビジネス書としても読まれうるが、どうも作者はそう読まれないようにある程度ゴツゴツとした知的な障害物を意図的に配置しているように思える。冒頭十字軍の歴史を配してあるあたりは、軽薄な日本のビジネス・ハウツー本ならさくっと削除するだろう。だが、この挿話は本書の本質に関わっている。著者は現代という時代を、ある意味で十字軍問題の延長として見ているし、教官に初老のパレスチナ人ユースフと中年のユダヤ人アヴィを配置していることからもわかる。
前書で一度だけ触れたマルチン・ブーバーについては比較的記述が増えている。ブーバー哲学やその人生に触れた人間なら、読者がブーバーの後年の活動を著者が意識していることは明確にわかるだろう。
9・11が隠されたテーマであることは、米国現代史の流れで見れば、ベトナム戦争を初老に至る世代がどう受容するかという問題にも関わっている。この関わりが未だに米国の現代的な問題であることはマケインの存在からも比喩されるだろう。この点は、本書では、主人公のルー(海兵隊)とペティス・マリ(空軍)を配置していることからわかる。なお、彼らのことをこの訳書では「ベテラン」というカタカナを当てているが、veteranは退役軍人の意味があるのでやや誤訳に近い。他、随所、こなれていない訳がある。
さらに現代の比喩でいえばオバマが示しているような黒人問題も本書には反映されている。この部分にはトリックがあるので深くは触れないものの、あとで少しスポイラーとなるかもしれない核心には触れたい。
読後に気が付いたのだが、本書は女性問題の書籍でもある。そこは意図的ではなく表面からは隠されているのだが、ルーの妻キャロル、英国人エリザベスに反映されている。ある意味で本書の主人公はルーではなくキャロルであるかもしれない。日本人でもある程度人生というものが見えてきた中年の女性なら、本書を読みながら愕然と泣き出してしまうかもしれない。
いずれにせよ、このように本書は、あたかも読みにくくする障害のように、登場人物にかなりの作り込みをしていてるし、その部分についてある程度腰を据えて読まないとわからないようにできている。速読はできないし、要点をまとめてリストにするような書籍ではない。私の思い入れが強いすぎるのだが、本書は、その登場人物一人一人を大切に思いつつ読むことが強いられる。というまさにその意味で、人を人として見る=箱から出る、ということをメタ的に構造化してある驚愕すべき仕組みがある。私はカラマーゾフの兄弟でも読むように、人物関係を図にしたしおりを作って読んだ。ついでなので掲載しておく。
主要登場人物図
本書の主要な課題は、「箱」とはいいがたい。実際、オリジナル・タイトルもそこは意図されていない。オリジナルは「The Anatomy of Peace: Resolving the Heart of Conflict」(参照)であり、直訳すれば「平和の解剖学:心的葛藤を解く」というものだ。人々の心の葛藤が敵対心を生み出すそのプロセスを平和=平安の視点から解剖学的に見ていく、というのが本書の哲学的な枠組みである。「2日で人生が変わる「箱」の法則」という表題は、やや失礼な言い方にもなるが、本書をよく読まれてない人がマーケットやセミナー戦略に媚びてつけた失敗だろう。
The Anatomy of Peace: Resolving the Heart of Conflict |
アービンジャー・インスティチュートのこの2冊の思想的な起源はどこにあるのか? 隠されたモルモン教なのか。その点はわからなかった。書籍のフィクションの内側としては、ルーに起源をもつのだが、ルーの転機は、パレスチナ難民ユースフに由来する。では、ユースフはどのようにその思想を得たか。それはイエール大学で哲学を教えている、黒人の哲学者ベンジャミン・アリッグだとしている。私はアリッグが現実の哲学・思想史で誰を指しているのか、不覚にもわからない。ブーバーではないだろう。ご存じのかたがいたら教えていただきたい。この思想をもう少し深めたいと思うからだ。連想としては、シェルビー・スティール(Shelby Steele)の「黒い憂鬱 90年代アメリカの新しい人種関係(翻訳:李隆)」(参照)がふと浮かぶが、「A Bound Man」(参照)のようなオバマ評価をもつ思想とはまったく異なる。あるいはキング牧師のような系統かともふと思うがまったく違うだろう。
物語のなかでユースフは1976年6月5日を回想して、こう自分を語る。彼はパレスチナ難民としてファタハに所属していた。
ファタハのネットワークは、新しい現実を踏まえて、急いで基盤を立て直そうとしましたが、われわれは自信を失い、同時に希望の光も勢いを失っていた。どんな戦いが行く手にあろうと、期待したよりはるかに長引くだろうと思われました。とにかく、私はこれからもそうした戦闘で主導的役割を努めることはなさそうだったので、私は他の戦闘を探しはじめました。一民族としてのわれわれの失敗を、日々、思い出させるものからも、そしてまた、自らの権威を失墜させ、われわれの大きなチャンスを無駄にしてしまった自分自身に対する自己嫌悪からも、私を解き放ってくれる戦闘を」
ユースフは米国にやってきた。ベトナム空軍歴のあるペティスはユースフに問う。
「それで、いったいなぜ合衆国に来ることになったのですか?」ペティスが聞いた。
「暗殺です」
「暗殺?」ペティスはたじろいだ。
ユースフの転機はベンジャミン・アリッグ教授との出会いだった。ユースフは催涙弾を使った黒人暴動を傍観しているとき、その傍観群衆のなかのある黒人に気が付く(一部原文を補う)。
ちょうどそのとき、同じように引きつけられているらしい黒人――そう、彼がベン教授でした――に気がつきました。彼はほとんど白人ばかりの見物人の中にいて、私は好奇心をそそられ、彼を見つめました。その場に引き込まれそうな危険な状況にもかかわらず、彼は抗議に加わることも、恐怖で逃げることもなく、落ち着いた様子で静かに立っていました。ただ、心配そうな深刻な表情ではありましたが。
その黒人がこの闘争をどう思っているのか知りたくて、私は彼ににじり寄っていった。虐げられたパレスチナのアラブ人として、彼の考えを理解できる気がしたのです。いま、ここで戦っているのは、ファタハの同胞たちと同じような人々なのだ。その群れの中に知っている顔があったら、私は身を挺して催涙ガスを妨害しようとしただろう。例の黒人に近づきながら、私は同情を示すつもりでした。
『虐げられた人たちが反撃しているんですね』私はさり気なく言いました。
『そうです、双方とも』彼は光景から目を離さないまま、答えました。
『双方とも?』
『ええ』
『どうして? 催涙ガスを使っているのは一方だけじゃないですか』
『よく見て。どちらの側も催涙ガスを欲しがっているのがわかる』
私は、怒りに荒れ狂う暴徒を再び見て、この男の真意は何なのか、たとえ彼の言葉が本当だとしても、それに気が付く人がいるだろうかと考えていました。
『どちらのご出身ですか?』彼は騒ぎを見つめたまま、聞いていました。
『エルサレムです、パレスチナの』
彼は何も言いません。
私もまた乱闘のほうに目をやった。『彼らの気持ちがわかりますよ』暴徒と化した黒人たちをあごで示した。
『それはお気の毒だ(Then I pity you)』
私は面くらいました。
『私が気の毒? なぜですか?(Pity me? Why?)』
『あなたは、自分自身の敵になっている(Because you have become your own enemy)』彼は静かに、しかし、きっぱりと答えた。
『私が反撃したがっているからですか? 私と同胞がこうむった不正を正したいと思っているからですか?』
彼は黙っていました。
『私が催涙ガスを欲しがるのも当然の状況なら、どうですか?(What if circumstances are such that I'm justified in desiring tear gas?)』(I retorted, returning to his earlier comment.)
『まさしく(Exactly,)』
『まさしく? どういうことですか?(Exactly?’ I repeated in confusion. ‘What is that supposed to mean?’)』
『あなたはあなた自身の敵になっている(You have become your own enemy)』
――こうして、私はベン・アリッグ教授に師事することになったのです」
それから3年間、ユースフはアリッグ教授のもとで学び、人種偏見を解いていくことになった。ただ、この部分については思想的には、先のスティールの議論ではないが異論はあるだろうと私は思う。
アリッグの思想は若いユースフとの対話でこう簡素に語られている。ある意味で簡素過ぎるのだが。なお、この部分は微妙なので、関心のある人はできたら原文も留意していただきたい。
『他者を人として見るようになると、人種、民族、宗教などに関わる問題もそれまでと違って見えたり、感じられたりするようになる。つまり、希望や夢や恐れを抱いている人々、それにきみ自身と同じように自己正当化している人々も見えてくるはずだ。(When you begin to see others as people,’ Ben told me, ‘issues related to race, ethnicity, religion, and so on, begin to look and feel different. You end up seeing people who have hopes, dreams, fears, and even justifications that resemble your own)』
『でもあるグループの人々が別のグループを虐げているとしたら?』私は尋ねました。
『その場合、虐げられているグループは、自分たちが虐げる側にならないように気をつけなければいけない。それは陥りやすい罠だよ。過去の虐待という正当化の手段が手元にあるわけだからね(Then the second group must be careful not to become oppressors themselves. A trap that is all too easy to fall into,’ he added, ‘when the justification of past abuse is readily at hand.)』
『彼らが単に不正をなくそうとしているだけだとしたら、どうして彼らが迫害者になるのですか?(How would they become oppressors themselves if they simply try to put an end to injustice?’ I asked.)』
『不正をなくそうとしている人々の大半は、自分がこうむった思っている不正のことしか考えないからね。つまり、彼らが本当に関心があるのは不正ではなく、彼ら自身のことだよ。自己中心の考え方を、表向きの大義の陰に隠しているのだ(Because most who are trying to put an end to injustice only think of the injustices they believe they themselves have suffered. Which means that they are concerned not really with injustice but with themselves. They hide their focus on themselves behind the righteousness of their outward cause.)』そうベンは答えました。
本書でアリッグ教授が語る思想はそれだけだが、私はこれだけで圧倒され、考え続けた。
ユースフとは誰だろうか? アリッグとは誰なのだろうか?
物語では、アリッグ教授はこうした平和の思想を持ち、実践しながら、最後は飲酒運転者によって死に至ったとしている。つまり、その死にはなんら意味はなかった。人生の思想と行動は死の結実を表面的には得ないし、私たちはそれに向き合っているとしている。
そう語るのは誰か。
私はアービンジャー・インスティチュートに身を隠し、匿名化した(参照)テリー・ウォーナーその人だろうと思う。テリー・ウォーナーにはユースフとの符帳が隠されている(参照)
Warner holds a Ph.D. from Yale University and is a professor of philosophy at Brigham Young University.[1] In 1967 he joined the faculty at Brigham Young University, where he has served as chair of the Philosophy Department, director of the Honors Program, and dean of the College of General Studies.[2] He was a visiting senior member of Linacre College, Oxford University.
テリー・ウォーナーはユースフと同じように、イエール大学で哲学を学んだ。物語でアリッグ教授がいたとされる大学である。それから、ウォーナー教授はモルモン教コミュニティーと関連の深いブリガムヤング大学の教授となる。普通に考えれば、ウォーナー自身もモルモン教徒ではないかと思われて不思議ではない。
ブリガムヤング大学の教授陣の紹介では、Specialtiesとして"Education In Zion Exhibit"が上げられている。シオニズム関連の専門ということだろうか。確かに本書はその背景知識が生かされているし、ブーバー哲学との接点もそこにあるのではないかと思われる。
ウォーナーの思想は、最大限好意的に見てブーバーがそうであったようなシオニズムの一種なのだろうか。あるいは、ユースフがファタハであることを思想的に解体したように、モルモン教徒であることの積極的な解体として彼の思想・活動の展開があるのだろうか。
わからないと言えばわからない。だが私は、本書で語られているアリッグ教授の思想を正しいと思うし、この思想に馴化していくだろう、私自身が私の敵にならないために。
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コメント
自分が自分自身の敵にならないために、という言葉にひかれてこの記事に辿りつきました。
二つの点についてコメントしたいと思います。それは、テリー・ウォーナーが確かにモルモン教徒であることと、彼の言う Zion は「モルモン教会の確立した社会」を指しているのだろうと思われることです。シオニズムとは関係なさそうです。
BYUに留学し、私自身教徒であるので彼の名はずっと前から知っていて、彼が教会員であることは確信をもって言うことができます。「モルモン教徒であることの積極的解体」という示唆は興味を覚えます。
いずれにしても、書評を興味深く読ませていただきました。原著を丁寧に読んでみたいという思いがわきました。
投稿: 沼野治郎(NJWindow) | 2009.07.18 08:08
小生のブログに短く記事を紹介させていただきました。
投稿: 沼野治郎(NJWindow) | 2009.07.25 01:11