勧められていた「中国動漫新人類 日本のアニメと漫画が中国を動かす」(参照)を読んだ。当初思っていたより読み応えがあった。アマゾン読者評では「意外な読後感」という声も聞かれたが、私の現代中国観・中国人観からはそれほど違和感はなかった。
当初、本書はサブカルチャー的な内容で筆者も若いのではないかと想定していた。だが、そうではなく私より年配のかたの落ち着いた筆で、実際に中国で生まれ戦後史や中国生活も経験されたかただった。その点福田和也のような生活面の歴史的感覚の欠落といった齟齬はなく、安心して読めた。経歴を見ると女性の物理学者らしくなるほど理系的な筆致だ。しいて言うと多少論理の運び方に危うい点もあった。
書籍全体の論旨は明瞭で、出版社の解説も簡素にまとまっている。併せて目次も簡単に紹介しておく。
「たかがマンガ、たかがアニメ」が中国の若者たちを変え、民主化を促す--?
日本製の動漫(アニメ・漫画)が中国で大流行。その影響力は中国青少年の生き方を変え、中国政府もあわてて自国動漫産業を確立しようとやっきになっているほど。もはや世界を変えるのは、政治的革命ではなく、大衆の意識や行動を生活レベルで動かすアニメや漫画のようなサブカルチャーなのだ!
しかも、日本動漫が中国で大人気となったのは、「悪名高き」海賊版DVDやコミックのおかげ。「ただ同然」のコンテンツがあったからこそ、日本の動漫は中国の貧しい若者や子どもたちに消費してもらえ、知名度を確立できた。
日経ビジネスオンラインでの連載中から大反響の本企画がいよいよ単行本化。
現代中国論としても、日中関係論としても、サブカルチャー論としても、比較文化論としても、これまでにない論点を提示し、かつ、膨大な取材に基づき驚くべき事実を掘り起こした中国ノンフィクションの決定版!
第1章 中国動漫新人類―日本のアニメ・漫画が中国の若者を変えた!
第2章 海賊版がもたらした中国の日本動漫ブームと動漫文化
第3章 中国政府が動漫事業に乗り出すとき
第4章 中国の識者たちは、「動漫ブーム」をどう見ているのか
第5章 ダブルスタンダード―反日と日本動漫の感情のはざまで
第6章 愛国主義教育が反日に変わるまで
第7章 中国動漫新人類はどこに行くのか
本書は、戦後海賊版の日本アニメのビデオやVCDが事実上無料に近い低価格で中国に大量に流れ込んだことで、その内容が成人に達した世代や若い世代の現代中国人のメンタリティーに大きな影響を与えたとしている。さらに日本のアニメは、高品質であることに加え、米国コンテンツとは異なりイデオロギー性が少なく、人類愛、友愛、民主主義といった、あっけらかんとした明るい倫理性をもっているため、ストレートに若い中国人に浸透したと見ている。共産党政府側がその影響力の強さや市場性に気が付いたときにはすでに遅く、中国のサブカルチャーに熱い親日的な傾向ができてしまったというのも頷ける。本書はそのように現代中国への日本のアニメーションの関わりを見ている。
この視点でよいかと私も思う。ただしこの現象はアジアや中近東、欧州、南米を含め、アメリカにも見られる。現在世界の若者の大半の感性はすでに日本のサブカルチャーによって、洗脳といえば言い過ぎだが、それに近い状態にもなった。もっとも国家的な色合いで親日的傾向をもたらしているとはいえない。世界の子どもたちは日本製アニメをそれほど日本と関連づけて見ているわけではないからだ。
そういえば以前私が沖縄で一回り年下の米兵と話したおりにわかったのだが、彼は「Speed Racer」こと「マッハGoGoGo」が日本のアニメであることを知らなかった。同アニメは日本人が見れば主人公は日本だが、米人が見ればラティーノくらいにしか見えない。また表面的には日本文化は強調されていない。とはいえ米兵の子どもたちに至ってはポケモンのギャグのセンスまで日本のアニメに浸蝕されている感じだった。
日本製アニメーションによって、日本のサブカルチャー的な価値観の浸蝕を受けた現代中国人だが、反面現在の日本のメディアから見ると極めて反日的にも見える。その矛盾はなぜか。その考察が本書のテーマになる。
ごく簡単に私の理解で言えば、矛盾は矛盾として「それはそれ、これはこれ」といった中国人の内部での意識の分裂がある。つまり、「日本のアニメを通して見る日本人や日本文化は評価するけど、南京大虐殺を認めない一部の日本人は困ったものだ」というふうな割り切り方だ。この分離は「日本人は基本的によい国民だけど悪い人もいる」というふうでもあったり、あるいは「同一の日本人側にそうした矛盾した面があるのだ」とそのまま理解しているということもある。著者がインタビューした中国人教授はこう説明する。
中国人の民族感情を「A」と表記し、日本電化製品と動漫を含めての評価の感情を「B」とするなら、80年代初期はAとBが結びついていました。日本人が嫌いだから、日本製品さえ使わない、という者がたしかにいました。
しかし今の中国では違います。AはA、BはBです。AとBの感情は何の関連性も持たず、独立し中国人の心の中に存在している。しかも両方とも強烈な存在感をもって。
遠藤はこうした心理のありかたを現代中国人特有としているが、そうではない。中国の歴史が生んだ中国人特有のごくあたりまえの思考法である。史学者岡田英弘は「妻も敵なり」(
参照・リメーク「この厄介な国、中国」・
参照)で、類似の心性をこう説明している。
台湾で研究中、私をかわいがってくれた人に、中華民国行政院内政部長をしていた林金生という人がいる。この人から聞いた話で、いまでも耳に残っていることがある。それは、次のようなことであった。
「日本人はいつでも白か黒か、イエスかノーか、右か左か、正しいか間違っているかということを決めたがりますね。ところが、中国人は違う。何事においても白とも黒とも決めない。中国の場合は、一割が白、一割が黒、あとの八割は灰色なのです」
この言葉の意味がすぐに分かった人は、バルネラビリティの原理のオーソリティである。
絶え間ない闘争が繰り広げられる中国人社会においては、今日は白であったものが、明日には黒になるという例はけっして珍しくない。そして、その翌日になると、ふたたび白にあっていたということだって、充分にありうる。
岡田は中国人の矛盾した二極の価値観の併存を総じてグレーとしているが、私の実感としては、オーウェルの「1984」(
参照)のダブルシンク(double think)(
参照)に近い。
もっともそう言うと中国人を貶めているかのように聞こえるかもしれないと懸念するが、思考様式の奇妙さとしては、日本人も類似で、日本人の場合は、対する他者の目の好悪を自己定義の基準にしてころころと価値観が変わるメンタリティもっている(日本人は敗北や過去叱責から精神的に逃避したいがために過剰に相手に迎合する)。要するに、歴史・文化的な思考様式にはいろいろあるということでしかない。当然、中国人にも日本人にもそこから相対的な「誠実」といった価値観はありうるし、日本人のステレオタイプな中国人観とは逆に、商慣例において中国人商人はある意味徹底的に「誠実」でもある。これは実感してみないとうまく通じない難しい点である。
余談を戻す。本書の主張のように、日本人からすると、それでも中国人・中国政府は反日的に見える。それはなぜなのか?
この問いの一面は簡単といえば簡単だ。現在の反日的な中国及び中国人の特質は、基本的に江沢民時代の影響に絞られるからだ。それゆえ江沢民の時代背景と彼を取り巻く政治的な配置が問われる。その時代背景については天安門事件が当然上げられるし、この点の遠藤の考察はごく妥当なものだ。
後者、江沢民を取り巻く政治的な配置についてだが、本書の考察はやや弱い。本書にはよく噂にのぼる彼の父親の漢奸話があり、遠藤自身はそれを信じてはいないものの、反日的感情を江沢民の個人的な特性に還元している。遠藤は中国論の専門ではないため、詰めが甘いのはしかたがないだろうが、中国における政治権力の構図は本書ではごっそりと欠落している。
同様の欠落と言ってよいと思うのだが、後半登場する、従軍慰安婦問題の提起や先日の2005年の反日暴動についても類似の構図がある。あの暴動がが中国国内起源ではなく、米国華人社会の影響だとする点について、私の考えでは半分以上は正しいと思う。確かに反日暴動については当時のニュースでも起点が米国であることはわかっていた。
前項でも書いたが、当時、私はデモに参加したと思われる学生を取材したが、彼は私に「政府が(反日に)立ち上がらないのなら、僕らが立ち上がる。僕らの力を見せつけてやる」と、いまいましそうに吐き捨てた。この意見を聞けばわかるように、彼らはすでに政府のコントロール下から外れようとしている。ゆえに政府は彼らを警戒しているのだ。このときは政府の力を見せつけ、彼らを押さえ込んだが、政府の懸念は払拭できていない。
遠藤にしてみると、反日暴動に中国政府は加担していない。民衆の反政府的な動向が、米国華人勢力によって誘導されたのだと見ている。
私はこれに半分以上同意してもよいのだが、もう半分は、あの暴動は大枠ではやはり中国国内の権力闘争の一面だと考えている。あの暴動は極めて統制されており、それゆえにある意味で胡錦濤政権と日本をトラップに嵌めるための罠だっただろうと私は考えている。
とはいえ半分以上は遠藤のいうように、中国人の反政府的なエネルギーが溢れたものでもある。そしてその背景には、日本版ニューズウィーク日本版3・19で取り上げられていた、現代中国の人口構成的な社会変動の要因が大きい。いわく「一人っ子政策の崩壊と高齢化が招く人口パニックと社会の空洞化」であり、小皇帝たちの台頭だ。日本でいえば、2ちゃんねるなどで見られる(最近は増田で見られる)学歴ルサンチマンみたいな屈曲したエリート主義の層がある。これが中国の場合、これのルサンチマンが軍部と不用意に結びつくとろくでもないことになる。
遠藤はまた中国の反日的な特性について、「大地のトラウマ」という説明上の概念でも提示している。
「反日を声高に叫ばないと売国奴と罵られるかもしれない」という心理状態は、大地に染みついた病理に近い現象だ。ネットに見られた若者たちの悲痛な叫びだけではなく、実は国家指導者たちも恐れおののいている「大地のトラウマ」なのだ。反日は、叫んだ者が勇者となり勝者となり英雄となる。それを阻んだ者は売国奴として社会的な「死刑」を受けるに等しいような攻撃を受ける。これが大地の鉄則だ。共産中国が自ら作り上げてしまった怪物なのである。特に江沢民以降はこの傾向が強まっている。
この説明も微妙で、遠藤の考えはやはり半分は正しいと私も思う。あるいはこうした中国人の特質は、中国史・中国文化を見てきた人間なら別にごく普通に理解できるものだ。先の岡田英弘の書籍にも詳しく書かれているが、ごく簡単に言えば、日本人のように白黒決めつける本心を持たない人間の集団(中国人社会)において恐怖に結びつく権力が発生する場合、その統制には、シュプレヒコールのような言葉の看板を使わざるをえない。毛沢東語録といった、およそ対外的に翻訳した失笑しか買わないような貧弱な内容の小冊子を文革時の中国人が皆で持ち歩いたのも同じ原理だ。
まただからこそ中国人同士で謀略があるなら、この原理が応用される。たとえば為政者が政治的にある施策を巧妙に行いとき、その反対勢力は言葉で陥れる状況を作るべく謀略を仕掛ける。今回のチベット暴動についてはその言葉は「祖国分裂」と決まっていた。この手の中国人謀略のパズルは慣れるとそれほど難しいものでもないし、近代史の各種の謎もすんなり解けるのだが、いろいろわけあって現状では解明されていない。さらに余談になるが、ユン・チアンの「マオ 誰も知らなかった毛沢東」(
参照上・
参照下)などもそうした観点からみると、目から鱗が落ちるといった類の本なのだが、日本では史学的にトンデモ本として実質葬りさってしまった。あるいは反中勢力の視点から恣意的に読まれるだけだ。そもそも「マオ」は、「ワイルド・スワン」(
参照上・
参照中・
参照下)の続編としての意味があり、その文脈で見直せばユン・チアンの意図が見える。それでも「マオ」ついてはそれをサポートする欧米での学術研究がまだまだ十分に出て来ていないので、これ以上の言及は難しい。
著者遠藤誉について私は少し意地悪なことを言ったかも知れないし、糞ブロガーの分際で噴飯・夜郎自大なことを言ったのかもしれない。だが私は、本書を読みながら筆者遠藤の歴史感性を実は深く受け止めてもいた。
例えば、先の説明でなぜ「大地のトラウマ」という造語になったのか。そこはすんなりわかった。本書だけ読めば、これが中国の「農民革命」に結びついているのだが。
一つは中国人の群集心理『日本動漫』の著者である白暁煌氏も指摘していたが、中国人は一群の誰かが何を叫び出すと自分も同様に叫ばないとまずいという群集心理が働きやすい傾向がある、と彼自身が認めている。
実は、この心理ほど、中国を分析するのに重要なファクターは他にない。そう言っても過言ではないほど、見逃してはならない心理状態だ。これこそが中国を読み解くキーポイントなので、注意していただきたい。
かつてのソ連のように都市労働者を中心としたプロレタリアート革命と違い、中国は農民を中心として展開された「農民革命」によって誕生した国だ。家もなく結婚もできない農奴たちを一つにまとめ、「誰が飯を食べさせてくれるか」を選別の基準として蒋介石と区別し、毛沢東は革命の炎を中国全土に燃え上がらせた。だからこそ成功したのだ。人口の90%が農民だったからである。
このとき、地主に反逆し、地主を祭り上げるのは、農民にとって自分の命と引き換えの行為。失敗すれば今度は自分の命が消える。
つまりこの考えかたが、遠藤の「大地のトラウマ」という造語の背景にある。
だが端的に言うと、遠藤の脳裏にはパールバックの「大地」(
参照)があり、このキーワードは戦中世代の進歩的日本人のごく当たり前の中国観だった。
しかも彼女の場合、社会革命の背景理論にも精通していないし、同世代の知的日本人が暗黙に同様なのだが、雰囲気的に親ソ連的な傾向にあり、スターリンが農民を虐殺したことについてはあまり本質的に考察していない(同様に遠藤は毛沢東による中国民衆の虐殺の歴史についても礼節上、沈黙している)。
それでも遠藤は日中の戦後史の生活空間を良心的な日本人インテリとして生きたことで、その歴史的な感性が本書に深みを加えているし、遠藤の年代から全共闘世代に至るまでの日本人知識人の中国への共感も本書によく表現されている。
そのある意味健全な生活歴史の観点から、共産党中国がどのように国民党中国と拮抗したのかも、実感的に理解されていることは、次のような懐疑からも伝わってくる。
たとえばアヘン戦争時代に侵略国と戦ったのは、現在の共産党ではなかった。英国と戦ったのはあくまで清朝政府であり、しかも漢民族の政府ではなく、満州族の政府だった。だからアヘン戦争は「中華人民共和国」という国家の礎として位置づけられず、現在の中国政府の国家構築の礎となったのはあくまで「抗日戦争」、と中国も中国人も考えている――そうとらえることもできる。
無論、このロジックには矛盾がある。
そもそも「抗日戦争」に勝利して主権を回復したのは、国家主権という観点でいうならば「中華民国」である。現在の「中華人民共和国」ではない。もちろん、「中華民国」というくくりの中にに、「中国共産党」もあり「国民党」もあった。すべての中国民族が犠牲になり戦った。その中でも内部対立があり、国民党は一時期、日本に対して融和的に迎合し、中国共産党に対して激しい攻撃を加え続けたこともある。それは事実だ。しかし、国際的視点でいうならば現在の中国、すなわち「中華人民共和国」が新しく建国されたのは、日本との戦いに勝ったからではなく、もちろん、その前提はあったとしても、「国民党との内戦にである国共内戦に勝利したから」だ。
このロジックをきちんと用いるなら、国家建設の礎は、「抗日戦争」ではなく、「国共内戦」ということになりはしないのか。
仔細に読むといろいろツッコミ所があるのが、ざっくりとして見ればそういうことであり、これは全共闘世代の前の世代の日本人にとってはごく当たり前の観点だった。毛沢東・周恩来ともごく共通に理解できる土台でもあった。今の若い人は意外に思うかもしれないが、毛沢東ですら親日的であったし、日中戦争を抗日戦争としてのみでは捉えていなかった。
このあたりの、少し古い日本人なら普通にわかる縦糸たる歴史観が本書には自然ににじみ出ていて安堵感を覚える。歴史学プロパーではない物理学者という普通のインテリだからこそ、歴史的な制約はあるにせよ、普通に日中の歴史を見ることができるし、そういうふうに見ることが日本人に可能であることをごく普通に知らせる良書となっている。