[書評]さまよう魂(ジョナサン・コット)
邦訳「さまよう魂 ラフカディオ・ハーンの遍歴」(参照)が出版された1994年にざっと目を通していた記憶があるが、この年沖縄出奔など私事いろいろなことあり、そうした記憶に埋もれてしまっていた。ラフカディオ・ハーンほどではないが、自分もさまよう人生になりそうだなと思っていた。先日「極東ブログ: [書評]転生 古代エジプトから甦った女考古学者(ジョナサン・コット)」(参照)でも触れたが「転生」を読んだ後、こちらの本も続けて読んだ。非常に面白かった。
![]() さまよう魂 ラフカディオ・ハーンの遍歴 ジョナサン・コット |
引用というのは長すぎる随所のラフカディオ・ハーンのコラムだが、読み続けていくうちに、コットがラフカディオ・ハーンの霊とインタビューでもしているような錯覚にも襲われる。詩人のコットならではの感受性によってしか掬い取れないラフカディオ・ハーンの魂が結果的によく描かれている。が、その分、学術研究ないし歴史的な人物評論しては描かれていない側面も多いのだろう。それでも、単純に人種差別主義だったかような浅薄な理解を排する力は十分に込められている。
本書は、ちょっと年寄りめいた言い方になるのでためらうのだが、二十代から三十代の、文系的な感受性も持ちながら現代性にも適合する感覚も持っている男性が読むことで深い感動というか得難い読書経験をもたらすだろうと思う。たとえば、ラフカディオ・ハーンが28歳のときニューオーリンズで無一文かつ病を得たときに、知人に充てた次の手紙の一節は、若い現代日本人にも痛切に響くだろう。
しかし、自分を改めない限り、この苦い二十八年――着実に悪化の一途をたどったように思える歳月――の向こうに未来はありません。自分を改めるのは不可能に近いことです。そう思いませんか。大きな意志も気力もない小男がこの素晴らしい国でできることなどないのではないか、そう思うこともあります。成功する者はかならず大きな肩と優れた品行の持ち主であるようです。私が追随しようとむなしくあがいてきた分野で成功した青年たちの軌跡を見ると、だいたいは首吊りか自殺か飢え死にで終わっています。発行人たちが巨万の富と世界的な評判を得るのは、不幸な理想家の作家たちが死んだあとなのです。二、三の例外はありますがそれは作家に並はずれた個人的な気力と生命力がそなわっている場合のことです。私の全本質は始まったことを続けろと訴えていますが、その先には飢えと病気しか見えません。人為的な要求を多少なりとも満足させるだけの財力もなく、最後は失意の底に落ちていくのでしょう。私はまだ完全に自信を喪失したわけではありませんが、自分のなかに潜んでいる価値のある何かを成し遂げる能力を伸ばす手段や暇があるかというと、はなはだ心許ないところです。
ラフカディオ・ハーンの人生はその後もなんども無一文、野宿のような経験を経て、放浪の最後に、40歳で日本にたどり着いてまだ無一文のような状態になる。それは彼の生き方や性格にもよるとしか言えないところも多いが、本書のオリジナルタイトル"Wandering Ghost"、彷徨っているゴースト、としか言えない放浪の魂の必然が根幹にある。こういうと適切ではないのかもしれないが、ラフカディオ・ハーンは黒人やアジア人といった有色人種にしかおそらく性的な感興を覚えなかったようだ。異人や異世界でなんども自分を破滅させたいという欲望に駆られていたとしか見えない。
本書の後半三分の一は、ラフカディオ・ハーンが日本に至ってからの話になる。この部分で描かれるラフカディオ・ハーンの像はこれまでよく流布されてきた小泉八雲像とそれほと変わっているものではないし、日本人からするとその日本賛美を勘違いしそうになる。だが、この日本時代へのある種の変化に、コットの視線は少しズレのようなものを描いている。
コットは強調していていないが、工藤美代子「夢の途上 ラフカディオ・ハーンの生涯」(参照)のようにあるいは工藤の理解とは違うのだろうし「知られざるハーン絵入書簡 ワトキン、ビスランド、グルード宛 1876‐1903」(参照)のようにそのつながりは精神的なものであったことは否定しないが、40歳を過ぎてのラフカディオ・ハーンの精神的な意味での恋人はエリザベス・ビスランドと言っていいだろうし、妻セツとの関係は、恋愛とはまた違ったものだったのだろう。
もちろん、ラフカディオ・ハーンはセツを愛していたし、その間に生まれた一雄の存在によって救われたとは言える。
昨晩、私の子供が生まれました――黒い大きな目をしたとても元気な男の子です。
(中略)
もしあなた〔エルウッド・ヘンドリック〕が父親になって赤ん坊のか細い泣き声を聞いたら、きっとあなたの人生で最も奇妙で最も強い印象を受けることでしょう。しばらくのあいだは、まるで自分の分身が現れたようなおかしな感じがすると思います。でも、それ以上に分析などとてもできないようなこともあります。――過去において似たような状況であらゆる父親と母親が感じたことの、人間の心の反響とでもいいましょうか。それはとても優しく、同時にとても精神的な感覚です。――
人生の意味や、世界の意味や、あらゆるものの意味というのは、子供を持ってその子を愛するようになるまでは誰にもわからないでしょう。子供を持ったとたんに、宇宙全体の意味が変わるのです――何もかもがそれまでとは違ってくるのです。
どこかのはてなダイアリーでも引用しているような感じもするが、汚辱と異世界を愛した放浪者ラフカディオ・ハーンが変わっていくのは、日本という世界より、セツと子供ということ、つまりは年齢といっていい何かによる影響でもあっただろうし、それは彼の人生の一つの到達的な結実でもあっただろう。
しかし、コットの視線はそうした大団円を微妙にズラしている。コットがその地点で自分の感性をラフカディオ・ハーンに重ねられなかったからかもしれないし、その違和感がむしろ、日本に向かうラフカディオ・ハーンの印象的な後ろ姿のイラストで象徴したものかもしれない。
本書の結末の言葉をここに記すのは未読者にスポイラーになりかねないが、コットが次のラフカディオ・ハーンの言葉で締めくくった意味は大きい。
私は個人――個人の魂だ! いや、私は全市民――十億の集団さえ越えた全市民だ! 私は数え切れないほどの世代、永劫の永劫だ! 何度となく私をつくっている群衆が離散させられてきた。としたら、次の分裂にどんな不安があるというのだ? そおらく、それぞれ違った太陽の王朝で一兆年も燃え続けたあと、私の最良の部分がまた集まってくるだろう。
人はこれを詩と読むだろう。コットはここで沈黙する。「極東ブログ: [書評]奪われた記憶(ジョナサン・コット)」(参照)でふれたように、本書オリジナル刊行1991年を思うと、コットはその後、ラフカディオ・ハーンとの出会いの記憶を失った。詩でなければそこにとてつもない神秘が、まるでラフカディオ・ハーンの左眼の視界のように、現れている。
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コメント
精神的な意味での恋人…のくだりをよんで、そういえばハーンは、日本の読者に向けてルポや小説を書いてないなぁ、なんてことも思いますね。
欧米の読者のみを想定して書いたものが、まさか日本語に「翻訳」されて「国民文学」のような扱いをされるとは、彼にとっては想定外なことかも。
明治のころを現代の日本人がみる目は、かなりハーンよりに成ってしまった、というか欧米が混じってきてるのかも、などと思う今日この頃。
ほぼ最新の日本語に翻訳されて、明治時代のことを読めるのは有難い。
ハーンと同時代の日本人が書いたモノを読むより読みやすいからなぁ(苦笑
投稿: 倫敦橋 | 2008.02.16 18:44