[書評]反哲学入門 (木田元)
率直に言うと暇つぶしくらいの気持ちで木田元「反哲学入門」(参照)を買った。というのも、たぶんまたいつもの木田先生の著書と同じ内容なんじゃないかなと高をくくっていた。が、比較的新刊書っぽいし、見開いたところにちょっと気になる話(subjectという言葉の歴史の解説)があったのと、前書きを見るとまたぞろ口述筆記本らしいが木田先生だからいいかと思った。夜、眠くなるかもなと読み始めたが、やばいやばすぎる。すごい面白い。二時間くらいで読めるが、もったいなくて読書速度が遅くなる四時間くらいかかる。すると徹夜になると思ってとりあえず閉じた。
単行本 反哲学入門 木田 元 |
反哲学入門 (新潮文庫) |
またこれは自分の無知の表明でもあるのだが、「極東ブログ: 「自然」という言葉を愚考する」(参照)あたりの考察もかなり整理できた。
ソクラテス、プラトン、アリストテレスの三者の微妙な関係についてもかなり腑に落ちた。特にソクラテスについては孔子なんかでもそうなのだが思想家というより史実の人物としての理解も必要になるのでそのあたりは少し勉強しなおそうかなとも思った。
読みながらはっとしたというか、「そうなんです、木田先生!」とうなるのは次のようなところだ。
しかし、デカルトの「理性」とわたしたち日本人の考えている「理性」の違いを意識している日本の哲学研究者はほとんどいないのではないでしょうか。デカルトを読みながら、当分自分たちも同じ理性をもっていると思い、そのつもりでデカルトを理解しようとしているようです。
小林秀雄の愛読者である私は「方法序説」(参照)を高校生時代に読んだし、小林秀雄のいう「常識」くらいには理解していた。が、その後チョムスキーを体系的に読むことになり、特に「デカルト派言語学 合理主義思想の歴史の一章」(参照)と「言語と精神」(参照)でデカルトの言う理性の意味がわかり愕然としたことがある。と同時に、みんなデカルトを理解しているのか、チョムスキーを理解しているのか、と叫びたいような衝撃を受けたものだ。大げさといえば大げさなのだが、その思いはこっそり今でも抱いている。特に、昨今、チョムスキーがアメリカ批判の文脈でしかも先進的な科学者として語られているとき、チョム先生はデカルトと同じだよ、何を考えているのかみなさんわかってんのか、とかちょっと思う。いやちょっと理性を逸した書き方になってしまったが、木田元は本書でデカルトの「理性」をこう説明している。
たとえばデカルトは、この本の本文の冒頭、つまり第一部の冒頭でこう言います。「良識はこの世でもっとも公平に分け与えられているものである」。この「良識(ボン・サンス)は数行後に「正しく判断し、真と偽を区別する能力、これこそ、ほんらい良識(ボン・サンス)とか理性(レゾン)と呼ばれているものだ」と解説され、さらに「自然の光(lumiere naturelle)とも言いかえられています。そして、この「自然の光り(lumen naturale)は『哲学原理』(Ⅰ三〇)で「神からわれわれに与えられた認識能力」と定義されます。
要するにデカルトの言う「理性」は、神によってわれわれに分かち与えられたものであり、われわれ人間のうちにありながらもわれわれのもつ自然的な能力ではなく、神の理性の派出所とか出張所のようなものなのです。だからこそ、そこに個人差はなく「公平に分け与えられていて」、これを正しく使いさえすれば普遍的な認識ができるのであり、のみならず、世界創造の設計図である神の理性の出張所なのだから、これを正しく使いさえすれば、世界の奥の奥の存在構造を捉えることもできるのです。
わたしたち日本人も、「理性」という言葉を使うことはあります。「あまり感情的にならないで、理性的に話し合おうよ」といった言い方をすることは珍しくありません。しかし、そうしたばあい、私たちが考えているのは、やはり人間が持っている認知能力――生物として環境に適応するための能力の一種――の比較的上等な部分のことなので、わたしたちのもつほかのさまざまな能力と同じように個人差もあれば、その時どき働き方にも波があります。こんな「理性」の概念でもって、デカルトのいうような神的理性の派出所としての「理性」を理解しようとしても、できるはずはありません。
とてもではないが、これは「分別」などと訳せるような概念ではない。そしてこの木田の解説からうっすらチョムスキーが見えてくる不気味さをなんと言っていいのかわからない。もちろん、チョム先生は「神」なんてことは言わないのだが、彼が説く人間の尊厳の根拠性としての創造力というのはほぼユダヤ教的な「神」に等しく、またその理性が進化論的な説明を拒絶しているのは往年のピアジェをコケにした議論からも理解できたものだった。
チョムスキーの言う言語能力というのもこの理性の数学的な表現になる。言語能力とは構文能力であり構文の同値を維持しつつ変換する数学的な演算群なのだ。このあたりも本書の木田の説明が呼応する。ここでいう数学を言語に置き換えてみるとわかりやすい。
ところが、数学的諸観念、たとえば数の観念や幾何学的図形の観念は、感覚的経験に与えられたものから獲得された経験的観念ではありません。2や3といった数の観念に対応する対象や、純粋な二次元の平面に幅のない直線で描かれた三角形の観念に対応する対象が、われわれの感覚的経験に与えられることはけっしてないのです。にもかかわらず、われわれの精神のうちにはそうした観念がある。しかもすべての精神に普遍的にそうした観念がそなわっていて、それによって普遍的な数学的認識をおこなうことができる以上、こうした観念はわれわれの精神に生得的なもの、神が精神に等しく植え付けた「生得観念」だと、当時の人たちは考えたのです。
チョムスキーの言う言語の生得性はこれとたいして違いはしない。
他にもいろいろ啓発される指摘があるが、後期ハイデガーについて、次の説明はごくあたりまえものだが、木田が説明している以上の含みをもつと思った。いわゆるサルトルとの対比されるヒューマニズム論なのだが。
ここでハイデガーは人間よりも〈存在〉の方が、そしてその存在の住まいである〈言葉〉の方が先だと主張します。ただ〈存在〉と言われても、雲をつかむような感じですが、『存在と時間』の時代には〈存在了解〉(〈ある〉ということをどう了解するか、〈つくられてある〉と了解するか、〈成りいでてある〉と了解するか)と言われていたものを思い出せばよいと思います。その後ハイデガーは、〈存在〉というものは、現存在(人間)がああ了解したりこう了解したり、現存在に左右することのできるものではなく、むしろ存在自体の方から現存在に、ああ現れてきたりこう現れてきたりするもので、現存在はそれを受け容れるしかないと考えるようになり、それを〈存在の生起〉と呼ぶようになりました。彼の考えでは、その〈存在の生起〉は〈言葉〉のなかで起きるのであり、だからこそ〈人間〉より〈言葉〉の方が先だと言うのです。
(中略)
しかし、ハイデガーのこうした考えた方が、人間より構造が先だと主張し、やはり反ヒューマニズムを標榜することになる二十世紀後半のフランスの構造主義やポスト構造主義の思想家たち、デリダやラカンやフーコーやドゥルーズといった人たちに大きな影響を与えたことは、ご存じの方も多いと思います。
木田はこうして人間を越える構造や、人間主義的なものや形而上学の解体という思想史の理路を眺望させるのだが、それよりも、ハイデガーが戦争との関わりで見せた、民族主義化した情念的な政治実践傾向に、むしろ民族言語という経験=歴史の、人(現存在)への優位という奇っ怪なイデーが存在したのだろう。つまり〈存在の生起〉は民族言語として意識化された言語の内部から発生する。
そこにある意味でファイナルな問題が存在する。それは小林秀雄の『本居宣長』(参照)のテーマである。後期ハイデガーと本居宣長の奇妙な連携のようなものも見えてくる。
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コメント
ハイデガーは、〈存在〉というものは、現存在(人間)がああ了解したりこう了解したり、現存在に左右することのできるものではなく、むしろ存在自体の方から現存在に、ああ現れてきたりこう現れてきたりするもので、現存在はそれを受け容れるしかないと考えるようになり、それを〈存在の生起〉と呼ぶようになりました。彼の考えでは、その〈存在の生起〉は〈言葉〉のなかで起きるのであり、だからこそ〈人間〉より〈言葉〉の方が先だと言うのです。
以上は引用。
以下は、一般法則論の見解。
この世界は、私たちがこの世界の中に生まれる前から存在していた。
この世界は、偶然に出鱈目に造られているのではなくて、天然自然の存在の創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働きで全て造られている。
全てのヒトは、創造主である神の化身・分身の存在。
天然自然の存在の創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働き=この世界の成り立ちと仕組みを造っている原理=創造主である神の化身・分身のヒトの心の中身とその働き=この世界の成り立ちと仕組みを認識し理解する原理=ヒトの生き方の原理=引き寄せの法則の活用法。
言葉は、現地=存在=創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働きで全て造られているこの世界の成り立ちと仕組みを地図化する方法。故に、言葉は存在の後。
神の存在証明は神自身にさせるし、これ以外の神の存在証明は無い。
いわゆる神の存在証明がもたらす意味について
天然自然の存在の創造主である神の存在証明をして、神が造ったこの世界の成り立ちと仕組みについて説明し、人類史のリセットと再構築を試みる。
http://blog.goo.ne.jp/i-will-get-you/
一般法則論者
投稿: 一般法則論者 | 2008.02.24 01:34
子安宣邦の『本居宣長』(岩波新書)を読んだとき
この本は後期ハイデガーと全体主義について書かれているのではないか、と錯覚しかけました
かんながらを希求するあり方と
森のステールで照明を待つあり方が
共に要求する帰結点があって
それは、とても危険なものであると同時に
ある種の人間には抗いがたく魅力的に映るようです
投稿: z | 2008.02.24 15:09
哲学の本はこれまで何度か手にして数ページで降参しておりました。70を超えて深夜便を聴くようになり2/4の朝4時木田元と言う人が、ヒューマニズムも、???(ここ忘れた)も白人の思想であると,僕には驚くべき言葉が出てきて、目が覚めてしまい、木田元を頼りに検索して今やっと反哲学入門を読み始めたところであります。
ヨーロッパで起きた哲学は日本人にはなじまないと言うことは,僕にはこの歳まで哲学書が読めなかった理由になるから,そうだったのかとゆうきもしますが、サイエンスはそう言う哲学を踏まえてヨーロッパで起きて、僕のような理系はその辺りに疑問を感じたこと無く定年して年金生活を始め、そろそろあの世が来ないかな、山田風太郎が国立大往生院の設立をせっかく言い出したのにいつの間にかどこかへ消えてしまったようなので、昔在ったに違いない『うば捨て山』とか今の言葉で言うならばひどくは苦しまないで済む、其れもあまり費用がかからない方法つまり死ぬ方法を、指導することにどんな障害があるのかなあ。
投稿: Y.simomura | 2009.02.08 17:32