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2008.02.11

[書評]転生 古代エジプトから甦った女考古学者(ジョナサン・コット)

 「転生 古代エジプトから甦った女考古学者」(参照)のオリジナルを読んだことはないがけっこう古い本なので復刻かなと思ったら、後書きに訳者田中真知が「本書をルクソールの本屋で見つけたのは十数年以上前である」と書いていて、そうかと思って奥付を見ると、昨年11月20日の初版だった。ついでにこれが新潮社刊だったのかとあらためて気が付いた。

cover
転生
古代エジプトから
甦った女考古学者
 オリジナル”Search for Omm Sety: A Story of Eternal Love”(参照)は紅渡が生まれた1987年だ。最近、古い本でも訳者からこれ絶対に面白いっス的な企画が大手出版社に登るようになったのかもしれないな。そう、これ、絶対に面白いっス。
 とまで言っていいか、ちょっとためらうところもある。ネットでご活躍中の19世紀的科学的社会主義者諸賢とかには気持ち悪いのではないだろうか。アマゾンの紹介はこれだものね。

内容紹介
私はファラオの愛人だった! 3000年前の記憶を持った女性の驚くべき人生。

20世紀前半、英国に生まれたドロシー・エディーは、自分の前世が古代エジプトの巫女であったことを知り、昼は厳正なエジプト学者としての評判を高めてゆく一方、夜になると幻視を通じて過去の記憶に入っていった。ついにナイル渓谷にあるアビドス神殿に住みつき生を終えた女性の特異な転生体験を辿る異色ノンフィクション。


 間違いではないし、率直に言って、現代日本で出版するとなるとマーケットとしてはその当たりを狙わざるを得ないのだろうとはいうのもわかる。そして、新潮社売りの枠組みがなく何の予備知識もなく第一章から読み出すとけっこう面食らうというか、これって、角川書店「ザ・シークレット」(参照)かよというか、講談社「江原啓之 本音発言」(参照)かよとか、文藝春秋「冥途のお客」(参照)かよとか、大手出版までハート出版なのかよ的状況に圧倒されるというか、いや芹沢光治良最晩年の「神の微笑」(参照)シリーズを出版させちゃったさすがは新潮社というか。なんだかアフィリリンクだなこりゃ。
 冗談はさておき。本書「転生」については、そういう昨今の、オウム事件もすっかり忘れましたなという世相のオカルト循環の文脈で読まれるのは仕方ないし、米国でも本書は、Reincarnationサブタイトルが強調されることもある。だが、本書はそうアチラの世界だけの関心で読んで面白い本ではない。むしろ、腐女子というかオタク少女というかそういう幻想に突っ走ってしまう系の女性の物語としても読めるし、いや女性というのは案外理念型としてはみんなドロシー・エディーみたいなもんよとも読めるし、女性本質の文脈を除いても人が内面に従って生きる気魄の物語とも読める。英国人というかアイルランド人気質の女性ドロシー・エディーが後半生エジプト国籍を取得し、オンム・セティなり、名声もカネも一切拒絶してただ自分の個性化だけに生きて死んだ物語りとしても読める。というか私はそう読んで圧倒されましたよ。立って半畳、寝て一畳ならぬ、砂漠のわずかな砂となる。
 オカルト的な文脈が読書の障害になるなら、本書は、むしろ訳者後書き、そして第七章エピローグから読まれてもいいと思う。特にこの第七章では、転生したされるドロシー・エディーことオンム・セティについて著者ジョナサン・コットが、どう考えたらよいのかというのを冷静に扱っていて、普通の近代人にとっても受け入れやすい、妥当な見解が導かれている。単純に言えば、ドロシー・エディーの生涯の意味は、転生を信じなくても十分に理解できるものではないかということだ。もちろん、それはすべてを短絡的な合理性に還元するものでもない。ジョナサン・コットがインタビューした、マイケル・グルーバー博士の次の提言はわかりやすい。

 オンム・セティを「虚言症」や「統合失調症」といって片付けてしまえば彼女の経験を切り捨てることになります。ご存じのように、オンム・セティの経験は、彼女の人生に充実した意味をもたらしました。健康あるいは正気を示す基準が、仮にその人が創造的で、思いやりをもち、規律正しい生き方をしているかどうかと関わっているとすれば、オンム・セティはまちがいなく、この条件を満たしていました。彼女は社会にたいして、多くのきわめて有意義な貢献を行っています。

 私もこの考え方に同意する。オンム・セティを「虚言症」や「統合失調症」といって片付けてしまいそうな、いわゆる科学的な批判ほうが偽臭いのは、そもそもこうした内的な体験の領域が科学の問題ではなく、また体験の外的な表出が社会のルールの問題であることを隠蔽にする点にある点だ。社会のルール、あるいはさらにその社会的な貢献や規律において律せされるべき問題に、倫理でありえない科学を擬似的に倫理を変形して持ち込み、本来なら社会の融和たるべき倫理性に断罪的な属性を強いるのは欺瞞だろう。
 とはいえ、このこと、つまりオンム・セティの転生ということが、簡単に片付くわけでもない。単純な話、オンム・セティはいいけどエハラーが間違っているとはいえないということになるし、前世を信じる少女や外面的にはおばさんにしか見えないけど内面は少女たちの、前世確信を、おそらくオンム・セティの生涯という物語は鼓舞することになるだろう。それでいいのか、私は少し違うだろうという思いもある。
 第七章ではユングも登場しているし、夫人も。特にユング夫人によって、ユング派では、それは言わないお約束がぽろっと語れてもいる。死や前世といった神話は、私たちの人生の意味的な了解の必然的な形態の一つのなのかもしれないし、私がおちゃらかしている19世紀的科学的社会主義者諸賢の活動も実際には同次元の神学的な、宗教的な闘争にすぎないのかもしれない。そしてこの問題は、お前はどう生きるのさ? どう死ぬのさ?という問い掛けをやはりオンム・セティの生涯が持っていることを示しているし、おそらくオンム・セティの強烈さはそこに、ある種の普遍的な宗教性を暗示させるところにある。さらに、およそ人類に文明というものが数千年の規模で残存されている意義についてもちょっと奇っ怪な理解を強いる。
 私はこの本を読みながら、ユング夫人が内緒のお約束をぽろっと述べたように、小林秀雄だの本居宣長だのも、それほどオンム・セティと変わらない人生の意味了解をしていただろういう奇妙な確信を深めた。
 もうちょっと私も踏み出して言えば、この書物は、著者や訳者が意図していたかどうかわからないが、オンム・セティの直の言葉の系列がもたらす、ポリフォニックな奇っ怪な意味合いがあり、その系列をある種の直感力のある人なら読み解いてしまいかねない。
 本書は、1987年に出版されたときは、副題が”A Story of Eternal Love”(永遠の愛の物語)とされた。つまり、愛の物語の側面を持っており、オノ・ヨーコも「オンム・セティの三千年の愛の強さを感じる魅惑的なラブストーリー」(訳者後書きより)としていた。だが、この物語は、死を渡る罪と許しの物語という枠組みがある。

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コメント

finalventさんが何故そこまで偽科学批判を批判するのかよくわかりません。なにが問題なんでしょうか?

投稿: 山田 | 2008.02.11 11:34

あ、この人の話、テレビで見ました。
明らかにオカルトの人なのに、学識豊かなので問題なかった、というのがなんとも面白かったです。
本も買おう。

投稿: goro | 2008.02.11 11:44

> 偽科学批判

それが「19世紀的科学主義」に基づくものだとしたら、批判されて当然という気はします。
20世紀前半に、あらゆる基礎付け主義が頓挫した教訓をもう忘れてしまうのかと、科学主義という名の宗教に閉じこもってしまうのかと・・・

投稿: でもクラっと | 2008.02.13 15:20

 現在の科学は、科学の定義を、一意的に/一義的にかつ客観的にかつ明確にかつ確定的にすることが出来ません。
 自然法則について、物理学事典には、単独の説明項目がありません。
 自然法則とエネルギーとの関係についても、科学基礎論的な説明がありません。
 一言で言えば、疑似科学の批判をしている科学自体が、未だ疑似科学なのです。
 本物の科学については、次のブログ。
 http://blog.goo.ne.jp/i-will-get-you/
 一般法則論 

投稿: 一般法則論者 | 2008.07.15 00:45

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■『転生』とは ジョナサン・コット氏著、田中真知氏訳の『転生』を読んだ。 転生―古代エジプトから甦った女考古学者 作者: ジョナサン・コット, 田中真知 出版社/メーカー: 新潮社 発売日: 2007/11/21 メディア: 単行本 6歳で自分の前世が古代エジプトの巫女であったこと... [続きを読む]

受信: 2008.07.12 12:10

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