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2008.02.02

[書評]高学歴男性におくる弱腰矯正読本(須原一秀)

 表題に釣られて読んだわけではない。表題が内容を反映していないとも言い難い。「高学歴男性におくる弱腰矯正読本 男の解放と変性意識(須原一秀)」(参照)は奇妙な本だった。面白かったかと言えば面白いのだが、一種の奇書の類でどう評価していいのかわからない困惑を覚える。いわゆる「トンデモ本」かというと、取りあえずはそうではないというぎりぎりの臨界の内側にあるようでいて、変性意識(非日常で狂気に近い状態の意識)というテーマを扱う学問的フレームワークがほとんど独断的に無視(著者は喝破のつもりかもしれない)しているように見える点ではトンデモ本と言っていいだろう。初版日付は2000年の1月31日。7年前だ。この7年の意味はもしかするとまた別のエントリで書くかもしれないし、もしかすると察しの良いコメントを頂ける可能性もゼロでもないかもしれない。

cover
高学歴男性におくる
弱腰矯正読本
男の解放と変性意識
須原一秀
 専門スジにはトンデモ本でしょうと言ったものの、そのスジの人、つまり精神医学などの専門ないし関連分野に関心ある人にとっては、興味深い本だろう。というのは、珍妙な事例が豊富に掲載されているからだ。たとえば、刃物の刃先を見ていたら足に突き刺したくなって刺したその時の気分(つまり変性意識)の話みたいなものが多数収録されている。そしてそうした事例を読むだけで、変性意識を誘うような奇妙な幻惑感がある。9年間をかけて年間接する2000人もの学生から集めたとのことだ。
 奇妙な書題、「高学歴男性におくる弱腰矯正読本 男の解放と変性意識」は著者によるものかもしれない。それだけ読むと不可解だが、ようは、現代の弱腰な男性(特に高学歴男性)を、フェミニズムが女性を解放したように解放するなら、変性意識のなかで生命を捨ててもいいほどの価値を身体的に獲得しなければならない、とするものだ。その獲得のため、著者のいう男性解放のために、哲学者であった著者らしい手順でステップ的に書かれている。
 キーワードの変性意識というのは、先に触れたように刃物の刃先に魅入られるような、そういう魅入られる対象の意識の陶酔がある。そしてそのなかで生命を捨ててもいいという価値性に目覚めることを著者は、「ウヨク」と呼ぶ。由来は「右翼」であり、フランス右翼と三島由紀夫が当面のモデルの年頭にあるようだ。話を読んでいくと別段「ウヨク」でなくても「任侠」とか「ヤクザ」としてもいいのかもしれないように思うが、そういう不合理だが身体のなかで確信できる価値性に目覚めなければ男性は解放されない、というのが筆者の主張だとしていいだろう。アマゾンなど書籍紹介ではこのような文章が掲載されている。

真の「優しさ」と「強さ」は自己破壊である。そのことがわかっていないから、中途半端なのだ。日常がつまらないのは、自己保全意識が強すぎるからだ。男性解放のための基礎理論を説く。

 こうした筆者の、珍妙とも言えるような、根拠もなさそうな主張をどう受け止めたらいいのだろうか。という以前に、弱腰男性はそのように解放されたいものなのか?
 現代の弱腰の男性に向けて「そうだろ」と著者が問い詰めていく過程が本書の前半を占めていると言ってもいいだろう。君たちが人生の虚無感を抱えているのは事実であり、君たちは苦悩しているはずだというような問い詰めである。

 変性意識も価値意味も、右翼もオウム真理教も、怖いものです。だからこそ、現代人は、マンガとかドラマの形でしか、「正義」も「純愛」も、「価値意味」も「ヤクザ」も、自分に近づけないようにしているのです。それはある意味で賢明なことです。
 それなのに、「昔のように生きる意味が見つからない」と言って騒いでいるのは、青春を共有した彼を捨てて、《体》目当てのオヤジと《金》目当てに結婚した女が、ヌクヌクとした生活の中で「愛」も「夢」も見つからないと言って嘆いているのに似ています。現代人に総じて、「意味」など見つかるはずありません。これが現代ニヒリズムの一つの様相です。
 このような視点から見ると、「生きがい」という言葉も矛盾語です。なぜなら、価値意味が見つかることは、即自己保全意識が低下することです。場合によっては、自分の命も幸せも犠牲にすることです。地獄行きを覚悟することです。

 こうした現代人の欺瞞的な意識が生の充溢感を覆っているし、男性は弱腰なのだということだ。
 こうしたウヨク性をいかに獲得すべきか、その獲得に変性意識がどう関わるかということで、ある意味当然のように現代の不抜けた欺瞞的な市民社会にどう対峙するかという展開に本書は進む。このあたりはある意味で凡庸な展開にすぎないとも言える。だが、終章の具体的な提案で、さらに奇妙な陰というか異質な射光が感じられる。
 このような話題の展開には、ある意味で、一つのモデルとして三島由紀夫の亡霊のようなものが潜んでいるし、その三島自体の情念や変性意識を扱うのではなくその原理性を扱うのだとしても、基本的に死の乗り越えという契機を持つはずだ。余談だが、この思想こそはバタイユがヘーゲルから継いだものでもあったが、筆者はその領域の知識を持っていなかったのかもしれない。
 しかし、そういう死の乗り越えの価値観ということではなく、社会との対峙だからだろうか「罰」が突然抽出される。男性の解放には横着さが必要だという文脈だがこう続く。

 そこで、横着さを養成するための方法が問題となりますが、そのための基本としては、第一講と第二講の変性意識の事例、そして第六講の覚醒欲求と突発性危機の事例を何度も読んでみることです。そして、「危険で非合理な自分」を腹の底からシッカリと確認すると同時に、「罰系優位の神経システムと罰系優位の社会システムの両方を破壊する潜在力」を常時意識しておくことです。死を覚悟するのではなく、罰系システムをナメルのです。これが基本です。

 罰系システムという考えはこの章になってやや唐突に登場する。が、註があり認知心理学が参照されている。つまり心理学用語から来ているのだが、それが社会システムとの対峙というのはすでに心理学のフレームワークにはないだろう。
 簡単に言えば、男たるもの社会・国家の処罰システムを舐めてかかって生きろ、ということだ。もちろん、それが反社会的なメッセージであることはこの文脈ではとくに問題とはならないというか愚問だ。
 筆者にはおそらく自覚はないのだろうが、この問題は、国家と禁忌、そして、共同幻想と対幻想という、一連の吉本隆明思想に通底している。しかも、吉本がそれを原理的に捉えようとしたのに対して、本書の著者須原一秀はそのままに埋没しているにすぎない。吉本的に言うなら無自覚な逆立のようなものであるし、より端的に言えば、「お前さんの対性の問題だろう」ということになりかねない。
 ここで私を突然登場させたい。私は吉本隆明のようにスーパに買い物籠さげていくような男だが、吉本も私も自己の女性性について無自覚ではないものの、自己の対性に対する男性性にはびたの揺らぎもない。悪魔の羽根をばたばたさせて生きているのはその言葉の吐き出す毒のなかに現れている。では、吉本や私は解放されているのか。あるいはそれは男性の解放なのか。吉本なら問題にもしないだろうし、私もそこが根底的にわからないところだ。
 かくして私は、須原の示唆には根幹に倒錯的な生命時間の認識があるように思える。彼は「死を覚悟するのではなく、罰系システムをナメル」いうが、それは失われた生に対する失望とニーチェの言うルサンチマンが形を変えているだけなのではないか。一見すると話が逆で、須原はニーチェ的な生の肯定があるように見えるし、いわゆるウヨク性がニーチェに接近しているようでありながら、ニーチェこそは死を永劫回帰によって封じ手とした。そしてどうやらこの永劫回帰も変性意識に関わるのだがこのエントリでは触れない。
 なんと言ったらいいのだろうか。それは緩慢というような何かだ。それはやや悪魔的何かであり次のような独白の通底にあるように感じられる。

 とにかく、「馬鹿ウヨク」になると同時に、「馬鹿ウヨク」になってはいけません。徹底して横着になると同時に、あまり横着になってもいけません。また、可能なら「自分の死」を徹底して引き受けると同時に、そんなことはどうでも良いのです(放っておいても、どうせ何時かはキッチリと死ねます)。
 あるいは「自分は百歳前後までもダラダラと生き続けるかもしれない。そして、介護を受けなければならないかもしれない。そのためには貯金が何千万円必要かもしれない。保険制度は大丈夫か!」なんていう不安心理はあっさりと放棄するのも手です。
 つまり、自分の寿命スケデュールをきっぱりと策定しておく方法もあるということです。そうすれば、自己防衛意識が低下して、意味を見つけて、もっと勢いよく生きられそうです。

 私はここにいずれそう遠からず自分が直面するかもしれない単なる絶望の声を聞く。そして私は自分の変性意識のなかで、いやもちろん比喩だが、死霊に向かってこう語り出す。いや、須原さん、死というのものは私たちの手中には入らないものではないのですか。惚けなお生きている吉本隆明が明晰に言ったように、死というものは別物ですよ。私たちが生かされている他律的な存在の根底において私たちの自己が他者を包括する社会をまだ夢見るべきなのではないですか。ニーチェが子どもたちの国を語ったように、ドストエフスキーが子どもたちを語ったように。

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コメント

寺山修司の短歌で「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨てるほどの祖国はありや」という歌った彼は、さらば箱舟と言い残してこの世を去りました。確か、あの遺作の映画では、最後はありきたりの現代の日常が描かれていたような記憶があります。
死が自分の領域ではないとすれば、やはり、「子供たちの国」という「自己が他者を包括する社会」を夢見なければ、自由意志を持つ人間にとっては耐えられないのではないでしょうか。死から生を定義できないことの耐えられなさが、人間を人間足らしめているというか、人間の最後の希望というか。
惚けてなお生きる吉本さんの明晰さは、いいなと思うんですね。すごい人だな、と思います。自分の領域ではない死から自分の生を定義するという破綻への誘惑、ドラマティックな生という幻想を断ち切るものは、子供たちの国への想像力なんでしょうね。なんか的外れでまとまりのないコメント、すみません。考えさせられるエントリ、ありがとうございました。

投稿: mb101bold | 2008.02.03 05:29

「或いはD・H・ロレンスの狂気」とも言えましょうか?

『黙示録論』の序に配された、訳者・福田恆存さんの解説が思い出されます。

僕は“現代人は愛しうるのか?”と問われたら、
妹を思うことにしていますが(「こればかりは間違えていない」と信じるからです)、
彼女にイデアルな何かを透かして重ねていない、とは……

投稿: 夢応の鯉魚 | 2008.02.03 15:34

 須原氏は、昨年一昨年4月に自死していますね。
 その遺稿が「自死という生き方」として、出版されています。

投稿: 酔仙 | 2008.02.05 16:28

はてなに一日だけ日記を残されています。
http://d.hatena.ne.jp/KANTAN/
ご冥福をお祈りします。

投稿: mb101bold | 2008.02.05 17:27

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