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2008.02.15

[書評]奪われた記憶(ジョナサン・コット)

 先日のエントリ「極東ブログ: [書評]転生 古代エジプトから甦った女考古学者(ジョナサン・コット)」(参照)の訳者後書きに、コットを評して「……、自らの鬱病と記憶喪失体験をめぐる『記憶の海の上で』など、多面的な好奇心を生かした緻密な仕事が特徴的である」とあり、気になってコットの最近の作品をアマゾンを見直したら、『記憶の海の上で』は、本書、「奪われた記憶 記憶と忘却への旅」(参照)という邦題でほぼ同時期に出版されていた。オリジナルは「On The Sea Of Memory: A Journey From Forgetting To Remembering」(参照)であり、05年の作品だ。有名なインタビューの復刻を除くと、比較的最近のコットの作品のようだ。

cover
奪われた記憶
記憶と忘却への旅
ジョナサン・コット
 邦訳副題が「記憶と忘却への旅」とあるがオリジナル副題の直訳は「忘却から想起の旅」となる。「転生」後書きからは、鬱病と記憶喪失が関連し、そしてそこからまたある想起に至ったのだろうかという印象を得た。そしてそはどこかしら「転生」のオンム・セティの生き方と共鳴する部分があったのだろうか。そんな思いににも駆り立てられ読んだ。感想に結論というのもなんだが結論はとても微妙な感じがする。エントリなりでも書いてみないとその感触がくっきりとしてこない。
 まず本書の構成だが、インタビューが中心になっている。そして、希代のインタビュー名手ジョナサン・コットだから、どういう対話と切り込みがあるのか、そこに期待が寄せられて当然だろう。だが、そこがなんとも不思議というか、通常優れたインタビューというのは対象者の本音というか、対象者を含む裏や社会背景までさりげなく引き出したり、対立する緊迫感を伴うものになるのだが、本書のコットは非常に内面的だ。自己主張的ということではない、対話が総合してコットの苦悩や懐疑に音楽的な調和を示しているような不思議さがある。
 そのあたりは、出版社からこてこてと書かれているアマゾンの紹介とは、かなり違う印象がある。

 『ローリング・ストーン』誌 創刊時からの敏腕インタビュアー、ジョナサン・コットは、危険性を知らされないまま、鬱病治療のため、計36回の電気けいれん治療--ECTを受け、その結果、過去15年間分の記憶を失った。本書は、いちじるしい記憶障害に苦しむ著者が、各界の専門家との対話を通して、忘却と記憶について多様な視点から思考を試みるノンフィフィクション。前半では、神経生物学者、老年学者、神経精神医学者などとの対話を通して、医学的、肉体的、物理的アプローチを試み、後半では、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、チベット仏教の宗教家たちなどとの対話を通して、哲学的、精神的、神秘思想的アプローチを試みている。最終章の「追記」では、自分を知る親しい人たちと、自分と同じ境遇の作家との対話を通して、自分のこれからの生き方について探ろうとしている。記憶をなくした経緯が完全な一人称で語られる1章以外、ほぼ全編が対話形式となっている。


 超高齢化社会にともない、認知症の問題がますます深刻になっています。
 また、これは高齢者だけの問題ではありません。若年性のアルツハイマーを題材にした、現在放映中の長瀬智也主演のTVドラマ『歌姫』渡辺謙主演の『明日の記憶』、韓国映画の『私の頭の中の消しゴム』などがヒットするなど、若年の記憶障害も注目されるようになってきています。一方、人間の思考を科学的に理解する脳科学への関心も高まり、茂木健一郎氏などの本もよく読まれています。本書は「記憶と忘却」について、科学、医学、宗教、音楽、演劇など、フィールドを超えて考察した稀少な本で、読み物としてもおもしろく読めます。ロック雑誌の名インタビュアーで、本書の著者であり、患者本人でもあるコットの文章は一般の読者にも容易で、一気に読み進められるものです。人間にとって「記憶とは何か」を考える手がかりになります。

 出版社の意図がわからないでもないし、そういうふうな売り路線を見るのも誤りではない。が、一見日垣隆でもやりそうな啓蒙的なインタビュー集とはかなり違うのは、コットの内面から読者、おそらくある一定の人生経験における記憶の神秘に触れた読者の内面に呼応する不思議な部分だ。
 あえて単純に言えば、私たちの記憶はなぜ存在するのだろうかという本質的な問いに迫まってくる何かだ。記憶が今の自分そのものを示すプロセスであることについては本書の最新科学研究者の指摘が興味深いとして、消し去りたい記憶やあるいは基調な記憶の喪失ということがなぜ存在するのだろうか。
 出版社紹介にも触れているがコットは、ECTつまり電気痙攣療法(参照)によって、彼の才能の最開花期ともいえる1985年から2000年までの15年間の記憶を失った。彼の説明を読むかぎり喪失の原因はECTであるようにも思われる。そして「カッコーの巣の上で」(参照)のような非人道的な療法が現在でも行われているのかと、つい思いがちだが、ウィキペディアの項目にもあるように、現代でもこの療法は有効で安全だとされている。

術前の全身状態の評価を適切に行い、無けいれん電気けいれん療法を行った場合、安全で有効な治療法である。薬物療法による副作用での死亡率よりも少ないという報告もある。米国精神医学会タスクフォースレポートによれば、絶対的な医学的禁忌といったものも存在しない。[1] しかし、以下のような副作用が起こることがある。

 一応そういう医学評価が出ているし、薬剤がらみでもないのでナニワの浜六郎医師が登場する場面でもなさそうだが、コットの事例を見ていると私はこれは一種の高次機能障害ではないかという印象も持った。
 話を非科学的な部分に誘導したいわけではないが、神経生物学者ジェームズ・L・マッガの次の指摘は中立的なのではないだろうか。

― お話ししたように、私は何年分もの記憶を永久に失いました。
M 脳の損傷の研究では、逆向性健忘が数年間に及ぶことが報告された複数の症例がありますが、ECTがそのような影響をもたらすのは珍しいことでしょう。そういう記憶はかなり長い間固まっているように見えるという他に、長期間の逆向性健忘を説明できるうまい解釈はありません。
― 子どの頃の記憶と、人生の大半の記憶はきちんとあります。
M それは臨床的な記憶研究において、多数の証拠にもとづいて提唱されている一般的な結論と一致します。しかし、あなたが経験したと思われる類いの長期の記憶喪失を、ECTが誘発するのは異例でしょう。

 本書を読みながら、自分の記憶を失い、その記憶を親しい友人に頼って他者のように過去の自分に出会うコットの内面の動揺に親近感を覚えながらも、コットの記憶喪失はECTが原因だとだけは言い難いのではないかということと、「転生」という奇妙な作品に続けて読んだせいもあるが、コットの記憶喪失は87年刊行の「転生」との時間的な系列があるような印象を覚える。つまり、「転生」を書き終えたときコットは長い記憶の喪失の期間に入った……もちろんそこが話を非科学的な部分に誘導したいわけではないと前置きした部分でもあるのだが。
 本書はコットのある種の記憶というものの、人間存在の痛切な思いからいろいろと共感的に魂に突き刺さってくる部分が多い。さらに違和感のようなそれでいてさらに強く訴えかけてくる部分もあった。長く心に残る問い掛けのように残るのはユダヤ教ラビ、ローレンス・クシュナーの話だろう。

― 哲学者アヴィシャイ・マルガリートは著書『記憶の倫理』の中で、ユダヤ教の伝統において、許すことと忘れることをどう区別するかについて書いています。また、エレミア書にある神の言葉、「私は彼らの咎を許し、彼の罪を忘れるであろう」を引用します。そしてマルガリートは、神が許したことを神が忘れることはあるかもしれないが、われわれは許すことはあっても、忘れることはないと言っています。
K その言葉は好きだけど、嫌いでもありますね。ユダヤ人はこの概念に固執しています。これはアマレクに関する命令にまで遡るわけですが、人びとがあなたに対してやったことを思い出さなければならない、でないと人びとは同じことを繰り返す、という考え方です。でも、たとえば、虐待されてきた人がすべてを忘れるためには、何が必要なのかも考え合わせなければなりません。なぜなら、覚え続けていると、それがその人を虐待し続けるからです。残念なことに、今日多くのユダヤ人の中にその傾向が見られます。私個人は、ワシントンのホロコースト博物館への特別招待を何度もお断りしました。思い出したくないからです。また、私のことを犠牲者として思い出すなんて、世間の人にとっては時間の無駄だと思います。私がその恐ろしさを覚えておきたいのは、あのようなことが私にも、他の誰にも、二度と起こらないようにするためだけです。


 明らかにユダヤ人は、ホロコーストによって、狂気に駆られた技術主義国家の強大な力の犠牲になることの意味について、恐ろしい教訓を得ました。しかし、現在同じ状況で苦しんでいる他の人びとをどのように助けるかを忘れてしまったように思われます。そのことを問題にしたい。
 以前所属していた教会で、「大量虐殺に反対するユダヤ人」をスローガンに掲げるグループを作るのに私は手を貸しましたが、そのグループの名前は「われわれでなければ、誰が?」でした。そのようなやり方で、私はホロコーストの記憶に応えようと思います。私はガス室の写真を見たいとは思いません。ですが、大量虐殺が現在行われているルワンダやその他の地域の写真は、関心をもって見ています。私はそのことをひとりのユダヤ人としては心の底から知っています。ですから、そのことが私なりの社会的責任を負わせているのです。そのことは忘れたくありません。

 クシュナーの話はそこで終わり、これを受けるコットの言葉は記されていない。

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