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2008.01.31

中国製毒入り餃子、雑感

 昼飯を食った帰りにスーパーマーケットを覗いたら、冷凍食品のコーナーにいろいろお知らせが貼ってあった。対応が速い。それと店にもよるだろうが、けっこう冷凍食品が姿を消したなとわかるくらい減っていた。これだけの騒ぎなので、事件についてブロガーの一人として雑感を簡単にまとめておきたい。
 まず当のこの事件なのだが、今日付けの中国新聞「なぜ消費者に伝えない」(参照)によると、実際の事件から一か月は事実上放置されていたらしい。


 厚労省などによると、最初の発生は昨年十二月二十八日。冷凍ギョーザを食べた千葉市内の母子が下痢や嘔吐おうとなどの症状を訴えた。こうした事態が表に出ないまま、一月五日と二十二日に、兵庫と千葉の八人に同様の症状が起こっていた。


 今回の食中毒は中国製ギョーザによるものとされるが、発生直後は原因がはっきりしなかったことから、自治体から厚労省への連絡はなかった。
 最初の発生地となった千葉市。当初段階でギョーザを販売したコープ側から「食べ残しの微生物検査をしたが、通常の食中毒を疑わせる結果は出なかった」との報告を受けた。症状を訴えたのも二人だけだったため厚労省への届け出も公表もしていなかったという。

 コープ側としても多数の被害ではないことと、想定外という思いはあったのだろう。結果的にはコープは社会的に非難されることになるのかもしれないが、したがないなという印象もあるし、この事件が広域に起きたものでもないことはわかる。だが、逆にそこまで重篤でなく広範囲に起きていた可能性もないわけではない。

 警察庁によると、兵庫県警と千葉県警の科学捜査研究所(科捜研)が有機リン系農薬のメタミドホスを検出したのはいずれも同二十九日。三十日になってそれぞれ警察庁に報告があったため、厚生労働省に連絡、被害が広がる恐れがあるとして公表を決めた。

 メタミドホスが検出されて、いわゆる事件となった。経過を見るとそこに社会が考慮しなければならない問題があることは確かだが、具体的にどうかとなるとはっきりとはしない。たぶん、中国製食品への警戒感の閾値があがるだろうから、ノイズ的な騒ぎも増えることになるのだろう。
 メタミドホスが検出されたということで、「有機リン系農薬」という報道から、また残留農薬という話の展開がある反面、そうではないでしょうという識者の指摘がある。よくまとまっているのが今日付け毎日新聞「中国産ギョーザ:どこで殺虫剤混入? 中国での包装段階か」(参照)の記事だ。

 推定できるのは、▽原料である野菜などにもともと残留農薬として付着していた▽工場での製造過程で入った--の2ケースだ。農林水産省によると、メタミドホスは、加熱調理することで分解され毒性も弱くなる。ギョーザは冷凍前に加熱処理されており、残留農薬の可能性は低いとみられる。

 つまり残留農薬という話ではなさそうだ。

 工場での製造過程での混入の可能性が高いが、厚生労働省の担当者は「限られた商品で被害が出ていることを考えると、個々の商品になる直前に混入したのではないか」とみる。両県警の捜査では、メタミドホスは商品のパッケージから検出されている。この担当者は「包装段階が最もあり得る」と話している。

 この推定には説得力がある。現状では限定された製品からしか出ていないことと、その濃度が著しく高いことだ。この推定の意味合いについて記事では触れていないが、妥当に推測すれば人為的な混入か、ミスによる混入だろう。ただ、ミスによる混入なら、なんのミスなのかよくわからない。人為的な、つまり、意図的になされた犯罪なのではないかと考えるのが現状一番妥当のように思われる。であれば、相応の対応をすればいいのではないかということにもなる。
 ただし、先にも触れたが、同様のケースが薄く広がっている可能性もあり、そしておそらくこれで全国で中国製食品を食べて気分が悪くなる人は続出するだろうから、そのあたりの見極めには手間取るだろう。毒性食品が薄く広がっている可能性があるとすると、すでに一部で疑念があるが、小麦にも注目せざるをえない。ただ、話の順序はまず広域な調査からだろう。
 私の個人的な印象では、冒頭のスーパーマーケットの光景がやや異様な、生活に迫る感じがして一種の恐怖感のようなものがあるが、妥当に推測していくとこれは個別のケースのようにも思われる。
 以上で、雑感は終わりなのだが、蛇足で思ったことがある。餃子を食べるのは、日本人だけなのだということ。いや、中国人だって餃子は食べるわけだが、彼らが食べるのは水餃子が多い。また基本的に、中国人にとって餃子というのは小麦を食べるための食品だ。冷凍食品も普及しているだろうが、餃子の場合は、日本人の家庭が米を自然に備蓄するように、備蓄した小麦粉で作ることも多い。
 いや、中国人も焼き餃子を食べるが、形状が違うのと、あとは水餃子の残りを温め直すついで焼くというもの。残り物ということだ。そこで最初から焼く場合は、ぴっちり包まないのだそうだ。つまり、残り物じゃないですよというしるしにする。
 中国人にしてみると、「日本人、不思議なもの食べるものだな」と思っているのかもしれないし、広い中国、いろんな食事があって当たり前と思っているかもしれない。

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2008.01.26

捕鯨問題のわからない話

 私は捕鯨問題にはほとんど関心がない。過去には一度やや関連のエントリとして「極東ブログ: くじらバーガーの伝言ゲーム」(参照)を書いたが基本的に情報の伝達に関心があったくらい。現在騒がれているフレームワークに適合するような意見はなにも持ち合わせていない。なので黙ってろと言われそうだし実際黙っているのだが、まあ、そんなスタンスのエントリもあっていいかもしれないという程度なので、白黒バッシングのネタにはしないでね。
 最初に自分が一番疑問に思っていることを書いておくと、捕鯨というのはしないでいると増え過ぎてその捕食によって他の魚、海洋資源の減少につながる論があるが、あれは科学的に正しいのか?というところだけ。
 素人風に思うのだが、地球の生態系、しかも海洋の生態系に人間が介在することは想定しがたい。というのも伝統的捕鯨法というのはあるにはあるが、あの程度だと生態系への影響はゼロに等しい。むしろ、鯨を絶滅に近く至らしめたのはよく知られているように日本が商用捕鯨を始める前の、欧米、それとその後のソ連による鯨油獲得のための乱獲の捕鯨だった。むしろ、一世紀ほど前の、日本以外の国の乱獲のおかげで、人間にとって利する海洋の生態系が一世紀くらい保たれていたという帰結になるのだろうか?
 書いていてバカなことを書いているような気がするが、そのあたりが依然わからない。ちなみにエントリ書くにあたってちょっと調べてみたら、コククジラについてはDNAによる研究があって19世紀には現在の数倍生息していた可能性があるらしい。いずれにせよ、現状のまま鯨を保護していくと、海洋における王者の存在で現在の海洋の生態系は変わるのではないかと思うが、それが地球にとって自然な傾向というものなのだろう、と書いていてふと思ったのだが、陸上のほうは人間種が増えすぎというのはあり、しかもこの数世紀で爆発的に増えてしまった。陸上のほうは人間種が占有し、海洋のほうは鯨種が占有するという冷戦的構造というのを人類は無意識的に求めているのだろうか。であるとした場合、人間種の未来の内在的な危機のようなものが海洋にも存在するのではないかとつい与太話の連想に向かうところが私がこの問題に関心がない証拠のようなもの。
 少し話を戻して。捕鯨についての議論、日本人だから日本語リソースを読みがちというのはあるが、議論と科学性の点においては、日本国の主張は正しいように思える。そして、国際的な場でも日本の主張の、議論と科学性においては、きちんと一定の理解が得られているように思われる。ので、するとさて何が問題? と考えるのだがニュースを見ると問題のようだ。そのあたりの話題のずれみたいのがよくわからない。
 同種のわからないなと思うのは、捕鯨というと日本がバッシングされるフレームワークを持つようなのだが、そうなのだろうか。06年のIWC(国際捕鯨委員会)総会では、IWCの正常化を求める宣言が賛成33、反対32、棄権1で採択された。この宣言の提案国は日本だけではないが、この傾向を見ると、国際的にも日本はまるで孤立しているふうはない。もちろんこれには日本が裏で小国を画策しているという意見もあるだろうが、それを言うなら反捕鯨国も同様。得られる妥当な見解としては、捕鯨問題は別段日本というフレームワークの問題でもないか、あるいはコアとなる数国の問題で世界の諸国はそれほど関心のないことか。そんなあたりだろうか。ただ、後者であっても国際的な合意の手順としてはきちんとしているので、やはりこれは日本の問題ではないように思う。
 さて。とはいつつ、ニュースを見ると、依然、日本を中心としたコントラバーシャルな話題に見えるし、私はあまりニュース映像は見ないのだけど、たまに見ると過激な日本バッシングが目に映り、ほぉと思う。このあたり言っていいのかわからないけど、他国から日本に向けられる感情的なバッシングはある程度可視であったほうがいいとなんとなく思っている。日本人は世界から愛されているみたいな暢気な幻想に陥らないためにいい薬ではないかと。ただ、映像をぼんやり見て思ったのだけど、国際化が進むなか、日本バッシングって実際の民族とかで考えると、日本人と韓国人と中国人、さらにベトナムとかタイなんかでもそうだけど、別に区別は付かない。そのあたりいろいろ思う外国人も増えているのではないかな。

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2008.01.25

米国のインフレ懸念とか日本の団塊世代への歳出抑制が問題とかちょっと言いづらい

 サブプライム問題に端を発した経済不安だが、さすが株価に及んでくると事態は深刻度を増している。ただし、バーナンキ僧正耐久力テストとしてはこのくらいの事態になるだろうということは想定していたシナリオどおり。ざっと見た感じではまだ耐久力がありそうだ。問題はたぶんインフレのほうだし、そしてもう一つの大きな問題がある。そこがこのエントリのテーマなのだが、いやさらにもう一つあるか。そちらは中国の問題。端緒のように中国の銀行もサブプライム問題を抱えているのではないかという懸念がわき上がったら、すかさず鎮火した。よかったと言えるのだろう。他に言いようがない。
 ブログをさぼっている間に状況は刻々と変化しているのだが、米国で景気刺激策として1000億ドルが検討されたおり、コラムニストのロバート・サミュエルソンがこれは子供だましと言ってのけた。政権側はこれにもう少し上乗せという流れになったが、これはバーナンキ僧正の上限の示唆どおりなので、市場としてはいちおう耐久力テストとしては合格っぽかったのかもしれない。
 サミュエルソンのコラムだが、日本版ニューズウィーク(1・23)”子供だまし経済学にご用心”というもの。先週の号だ。要点は以下。


 とはいえ、アメリカの経済規模は14兆ドル。たかが1000億ドルでは少なすぎて大した効果はない。景気悪化が深刻ならもっと大規模な対策が必要だ。逆に深刻でないなら、その程度の対策は政治的な意味しかもたない。

 ざっくりと見て、そこに少し上乗せされても現状の景気刺激策には実質的な意味合いはない。そもそも住宅バブルがまるで世界経済の終わりかのように騒がれるのはやや珍妙という部分があるが、それを言うなら、なぜ石油が高止まりしているかなどの不思議にもつながる。結論はあっけない。世界にカネが余りすぎているのだろう。だから、余った部分のカネというは消える運命にあるのかもしれない、と言うのは暢気すぎるが。
 このところの日本の新聞社説などを見ると、「景気悪化が深刻ならもっと大規模な対策が必要だ」論がまかり通っているようだ。笑い話なんだろうが、日本を見習えというのまである。サミュエルソンは現状をヒステリックにすぎると見ている。

 今の経済論議にはヒステリックなところがある。住宅不況は確かにひどいが、住宅市場は最大でも経済全体の5・5%しか占めたことがない。しかも第二次大戦以降で4番目に悪い状態でしかないと、カリフォルニア大学ロサンゼルス校経営大学院の景気予測ディレクター、エドワード・リーマーは指摘する。

 とはいえ現在の金融の状況は過去と比較できない点が多すぎるので、こうした議論はややレトリックに流れがちだ。問題はすでに住宅バブルが本質ではなくなっている。
 今後の問題はおそらくインフレのほうにある。

 一方で、インフレは脅威だ。消費者物価は07年11月までの1年間に4・3%上昇、ここ3カ月は年率換算で5・6%上昇した。原料費が高騰している。コンサルティング会社グローバルインサイトのエコノミスト、ジョン・マザーソールによると、銅は06年前半に1トン=4900ドルだったが、07年後半には7300ドルになった。景気減速や後退はこのような価格上昇に歯止めをかけ、インフレ心理をおさえる方向に働くだろう。

 ふつうそう考えるのだが、その後にバーナンキは大幅利下げを行った。これがインフレをブーストするかよくわからない。この程度ではそれほどでもないのかもしれない。いずれにせよ、事態にマジックワンドの解決策はないのだろう。
 で、私がサミュエルソンのコラムで一番気になったのは、その結語の指摘だった。こうした子供だまし、飴玉経済政策をやっていくとどうなるか。

するとコストがふくらんで長期的な財政政策が犠牲になる。つまり、ベビーブーム世代の引退で増大する歳出を抑制するという課題に逆行することになる。

 これ、米国の話なのだが、日本も同じというか、日本はもっとひどいことにずぶずぶと進んでいるのではないか。こう言い換えていいのではないか。

年金問題や各種保証の問題の解決を政府にだけ期待していくと、コストがふくらんで長期的な財政政策が犠牲になる。つまり、団塊の世代の引退で増大する歳出を抑制するという課題に逆行することになる。

 団塊世代より上の世代、つまり老人になるほど貧富差が激しい。また団塊世代までは豊かな年金を得る人達は多い。でも、その尻尾、ちょうど団塊世代が終わったところにいる自分から日本の未来を眺めてみると、今の日本の財政政策だと、私の老後に利するまでには息切れして、後はなんにもないんだろうなという感じがする。
 なんだかんだ言っても米国は人口が増大し、出生率も維持できている。そういうことが、ようするに経済的な意味での「信用」というものを支えている。とすれば、逆の日本にはそういう未来はないなと思う。
 というか、いかにも正義で語られている政治の話が、今の40代が日本で死ぬころ何をもたらしているだろう。

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2008.01.19

NHKインサイダー事件でまたモラルとかちと思う

 ブログを書かないことが定着しそうなので、近況めいた雑談でも書いておこう。当初、そういう部分の話は別所に書いておき、ブログではある程度再読性のある話(軽いけど季節がら「極東ブログ: チョコレート・フォンデュ」とかもね)、あるいは時代のログのような資料性のある話と思っていた。そういうネタのないときや、あるいはあえて世間やネットの空気に言及したくないときは、書籍のこととか料理のこととか書いてきた。現状、ネタがないわけでもない。手間がないというのはあるかな。自分のなかでのブログも変わってきたかもしれないというのはある。また、時事や世界情勢、経済問題で気になることがないわけではないが、振り返るとそれなりに予言的に言及していてそれほど足すことはないように思える。
 じゃということで気分を変えて、このところ気になることと言えば、いわゆるモラルということかな。モラルを持ちなさいという説教めいた話とは少し違う。「極東ブログ: モラルの低い人を傍観する時」(参照)と被るかなとも思うが、よっこらしょ、書いてみる。
 一昨日だったかNHKの記者がインサイダー取引をしていたというニュースがあった。ひどい話だなと思ったが、以前日経の記者もやっていたし、だいたいこういうジャーナリズムに関わる人間だと、関わりかたにもよるかな、たまに「あ、これは株買うと儲かるな」という話はころっとしている。私もある情報分野とか継続的に覗いていたときインサイダーではないけど開発動向から次の手が見えるときがあった。
 でも、それで株を買うとかは、しない。しないのはモラルもあるのだろうが、損得勘定があるからだ。儲かる話は儲からない。いや、ちょっと違うか。そんな儲けをしてもその上のフレームワークで損をするということかな。目先の得の限界や影響を考えるというか。
 NHKの記者の例でいうと、儲けはたかだか50万円くらいのようだし、さっと儲けが出た時点ですっこめたということで、端から小遣い稼ぎだったようだ。が、50万円というのはNHK記者の年収にすればはした金と言っていい。いや、50万円をはした金とかいうとネガコメレッドにすかさず悪口言われそうだが、いやいや私や彼女のような貧乏人じゃない。NHK記者ならねということ。
 それでも50万円ならはした金ではないでしょという考えもあるだろうか。NHK記者の年収といったって1000万円くらいかな。としてもなんだかんだ手持ちのお小遣いは月額20万円あるかないか。ないかな。そう、そこがこの話題の要諦か。たぶん、インサイダーNHK記者は、50万円、うほっ、いいお小遣い、だったのだろう。
 というあたりで、モラルというより、なんか人生設計というかNHK記者をあと何年やってどう生きていくというビジョンが、お小遣いでぐらぐらしてしまうということだった。そのぉ、後の千金の事、じゃないや、その逆か。後の千金的な社会的ステータスというのがその人に課した安定性というものの意味を見失っていたのだろう。
 今回のNHKインサイダーの詳細を知らないのだが、こういうのは常態だったのではないかと思うし、日経の時でもそうだが、他の記者でもあるだろう。当面の対処としてはそういうポジションにある人は株全面禁止というか委託投資という措置しかないようにも思うが、それでもこのしょぼさというのは世間とはそういうものだから残るだろう。お小遣いとか短期的な人生ビジョンにぐらぐらという人は絶えない。
 それって、あれかなと思う。あれというのは、昔宮台真司先生だったか、終わりなき時代は今の強度を生きるというか、そういうのが言葉として語られる時代が終わると、それがある種、あたり前になるだろうし、それに希望格差社会というか、希望が見えない社会になると、長期ビジョンというのは見えないから、今の強度、今のワクワク気分だけで生きるということになるだろう。今の若い人の恋愛とかもすでにそれっぽいし。いや、私より年上の団塊の世代はそれでつっぱしってきたか。

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希望格差社会
 自省してみるに、お小遣い悪魔はさておき、そうした今の強度や今のワクワクということで生きている自分というのはいるわけで、他人のことをモラルとかでとやかく言えるものではないな。
 そういえば年末、スェーデンボルグの本とか読みながら、こうした関連のことをいろいろ思った。彼の教義に納得するということではない。結論だけ言うと、なるほどこれがカントの最大の問題かもね、ということだがそこを縷説するとめんどくさいのでとばして、奇妙に感心することが二つあった。一つは大宇宙は人の形をしているということ……それもとばして、もう一つは、人は好んで地獄に堕ちるということだ。
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理性の不安
カント哲学の生成と構造
 普通のキリスト教だと審判があって、はいはいゾロリさんあなたは地獄行きとか、胡麻煎餅を食いながら閻魔大王とか正塚婆とか、おっとキリスト教じゃないやね、でもそうした審判を想定するのだが、スェーデンボルグだと、バーナンキ僧正の経済指針のように自動的に決められるというか、いやそれも違うな、人は自分の意志で地獄を選択していくのだということだ。
 普通のキリスト教はさておき、普通に考えると、地獄を自分で選択していくというのはアルカナ、つまらんダジャレはさておき、地獄とわかって自分で選択していくというのはないでしょ。つまり、自分が選択している生き方が地獄行きだとは思ってないから自分で選択しているということだろう。
 スェーデンボルグのこの考えは気に入ったというか、歩道で自転車にひっかけられたり、横断歩道に突っ込む自動車とか見ると、この人たちはモラルが低いとかじゃなくて、そういう選択の人生なんだろうな、さて、それは地獄行きだろうか? 確率的に見ると、そういう行動パタンは長期的に見て人生を利さないとは思うが、地獄行きかどうかは、私にはわからない。
 もちろん、スェーデンボルグのいうような地獄なんてものは、偽科学批判をするまでもなくカントを悩ませることもなく存在しない。というか比喩にすぎない。問題は、そうした自分の自由意志の結果を自分で始末を付けるというのは仏法の定まれるならいなりみたいだが、さて自分はどう免れうるだろうか。つまり、自分がよいと思って選択している生き方が地獄行きじゃないとどうやって自覚しうるのか。
 自分なりの結論を言えば、人や社会を愛するということじゃないかと思うが、それだけ言ってもアレなんで、気が向いたらまた書きます。ブログだし。

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2008.01.13

新テロ対策特別措置法関連の雑感

 ブログを一週間空けてしまったことは初めてなので、自分でも不思議な気がする。別のオンライン日記はつけているので、ネットからそれほど離れているわけでもない。が、今朝、作家の月本裕が亡くなり、その最後のブログを見ながら、ブログってこうして終わるものかなと、自分のブログを死後の自分が見るように少し見つめた。
 ブログに書くべきか気になっていたテーマは、当然といっていいのかもしれないが、新テロ対策特別措置法についてだ。私は今回の衆院通過に矛盾した思いをもった。うまく整理がつかないのだが、そのまま書いておくのもブログならではのことかもしれない。
 どこから書いていいのかわからのだが、これが一年期限の、事実上の暫定的な法案だったことに、私はそれなりに政府と与党に信頼ができた。小泉が残した圧倒的な衆院の勢力でなんでもごりごり押していくというものでもないのだ、と。
 それとこれもネットで書くと反感を持たれるだけになりそうなのでためらうのだが、一連の小沢の心情も理解できた。もちろん、勝手な理解ということかもしれない。小沢は小沢で矛盾した心情を持っていたのではないかと、思ったのだ。
 新テロ対策特別措置法が日本にとって死活問題となるほど重要だったかというと、そこがついに見えなかった。そして、とりあえず向こう一年はそれは問題としないということにした。ドラッカーは日本流先延ばしというのはよい知恵であることもあると、どこかで言ってたように思うが、現状ではこうする他はなかっただろうし、米国側も、おそらく衆院の状況を知って取りあえず待っていたのかもしれない。
 この間、つまり、日本の給油活動が停止している間、ぞっとする事態が起こらないわけではなかったと思うのは、れいのホルムズ海峡におけるイランの威嚇だ。13日付け日経新聞”米海軍、イラン船に警告射撃・ホルムズ海峡で昨年12月”(参照)より。


ペルシャ湾のホルムズ海峡で昨年12月、米海軍艦船が接近してきたイランの小型艇に警告射撃していたことがわかった。米国防総省当局者が明らかにした。ホルムズ海峡では今月6日にも船艇同士が接近して緊張が高まる事態が発生しており、米軍はイランの戦術の変化に懸念を強めている。

 今月6日の事態については、8日付朝日新聞”イラン船、米軍艦船を挑発 ホルムズ海峡”(参照)を引いておく。

米国防総省は7日、ペルシャ湾要衝のホルムズ海峡を航行していた米海軍の艦船3隻に対し、イラン革命防衛隊所属とみられる小型高速船5隻が航行を妨害するように危険な距離まで接近するなどの挑発行動をとってきた、と発表した。米メディアによると、米艦船では艦長が発砲を命じる寸前で、一時緊張したという。

 この事態は、流れから見て、情報戦の陰影もある。13日付けAFP”ホルムズ海峡の威嚇事件、脅迫は無線荒らしの仕業か”(参照)より。

ホルムズ海峡(Strait of Hormuz)でイランの高速艇が米軍艦艇を威嚇したとする証明として先に米国防総省が公開した威嚇を含む音声が、「フィリピーノ・モンキー(Filipino Monkey)」と呼ばれる現地の無線荒らしによって発せられた可能性が持ち上がっている。米海軍の機関紙Navy Timesが伝えた。

 つまりイランによる徴発ではないというのだ。

 これに対しイラン政府は13日、米政府は「面目を失った」とし、イランに謝罪するべきだと述べた。イラン外務省のムハンマド・アリ・ホセイニ(Mohammad Ali Hosseini)報道官はジョージ・W・ブッシュ(George W. Bush)米大統領の中東歴訪に触れ、「中東地域をだますために」誇張したと非難。「米国はまたもや面目を失った」とし、「米国はこの1件を大統領の中東歴訪と同時に持ち出すことでわが国の悪い印象を植え付けようとしたが、その計画は失敗した」と述べ、さらに「米国は中東の人々をだます政策を取らないよう忠告する。米国は中東と米国の人々に陳謝すべきだ」とした。

 私の印象に過ぎないが、フィリピーノ・モンキーの可能性はすでに米軍で当初から理解されていたのではないか。そして、イランもまたまったく無関係というわけでもないようにも思える。そうした印象を持つのは、気になることがあるからだ。
 9日ニューヨークタイムズ”A Dangerous Game in the Strait”(参照)での提言だ。その前にこの時点だからということかニューヨークタイムズはある程度慎重に事態を見つつもイラン関与の印象を得ている。

Iran played a reckless and foolish game in the Strait of Hormuz this week that -- except for American restraint -- could have spun lethally out of control.


On Tuesday, the Pentagon released a recording of the interchange that appears to substantiate Washington’s narrative.

 もちろん、留意はしている。

It is not clear what game the Iranians were playing or even who was giving the orders.

 重要なのはこの先の議論のほうだ。

At a minimum, the administration should use this incident to engage Iran in formal talks on conduct in the strait.

 つまり、ホルムズ海峡についての会議にイランも関与すべきだということだ。別の言い方をすれば、イランは現状関与してないのであり、先の米国を嘲笑するアナウンスもその関与の拒否という意味を持っている。
 話が前後するのだが、ニューヨークタイズムがこの提言をしているのは、前段にこういう含みがある。

Iran must also get the message about the risk of future provocations. As the 2000 attack by Al Qaeda on the Navy destroyer Cole proved, American forces must be vigilant about defending themselves. Feints by Iran, or anyone else, to bait America can go dangerously awry.

 表向きはアルカイダの文脈のようだが、ここで重要なのは、"American forces must be vigilant about defending themselves"という点、つまり、ホルムズ海峡の安全について米軍は尽力せよということだ。
 なぜ? この点については、「極東ブログ: [書評]石油の隠された貌(エリック・ローラン)」(参照)でも触れた。大きな問題となれば日本をも巻き込むだろう。
 私が大ボケしているのでなければ(しているのかもしれないが)、新テロ対策特別措置法はアフガニスタンでの戦争というローカルよりも、こうした大枠でのテロとの戦いにおける日本の位置を示している。そのことをどう日本は、また日本人は考えるべきだったか。
 この海域での米軍活動で、考えようによっては些細なことだが、連想したことがある。日本でも多少報道されたがネットソースとしては中央日報”「北朝鮮船を救出しろ」…米海軍の特別な作戦”(参照)がわかりやすい、この事件だ。

米軍が30日、アフリカ北東部ソマリア海域で襲撃された北朝鮮船を救出する作戦を展開した。 米海軍は支援要請を受けた後、直ちに駆逐艦を派遣するなど速かに行動し、負傷した北朝鮮船員を応急治療した。 これまで北朝鮮貨物船を監視・検索の対象としてきた米軍のこうした行動は、6カ国協議の進展が反映されたもので、今後の朝米関係改善にも寄与するはずだと観測されている。

 韓国報道ということもあり、6カ国協議の進展の文脈に置かれているし、そう読んでもよい些細な事件だが、ディテールは興味深い。

 米海軍ニュース(Navy News)によると、30日午前、バーレーンにある連合海洋軍司令部はマレーシア・クアラルンプールの国際海事局(IMB)から「北朝鮮船デホンダン号がソマリアの首都モガディシオから北東に110キロほど離れた海域で海賊に襲撃されたから救出してほしい」という連絡を受けた。
 米軍・英国・フランス・ドイツ軍で構成された司令部は直ちにデホンダン号から90キロほど離れたところで作戦中だった米駆逐艦「ジェームスウィリアムス」が救出命令を下した。 「ウィリアムス」はまずヘリコプターを急派し、正午ごろ現場に到着した。

 これも私のボケの可能性はあるのだが、「米軍・英国・フランス・ドイツ軍で構成された司令部」というのは、日本から給油を受けていた対象ではなかったか。
 私が知らないだけで勝手な読みをしているのかもしれない。そうためらう気持ちはある。それゆえに、「だから日本のためには新テロ対策特別措置法が必要だ」というふうには直結はしない。
 率直に言えば、わからないことが多すぎるとは思える。

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2008.01.06

ケニア暴動メモ

 ケニア暴動は沈静化の方向に向かっているようだ。すでに300人からの死者を出し、避難民は25万人とも推定されているが日本国内報道は薄く、大手紙も社説では扱ってはいない。ブログなどでもあまり話題にはなっていないように見受けられる。ミャンマー暴動とは種類が違うもののその関心には落差があるものだという印象が強い。
 日本語で読める報道として詳しいのは4日付AFP”ケニア暴動、このまま国家崩壊か?”(参照)だったように思われる。表題はやや先走った印象があるが、本文は国際的な関心の焦点でもある、ルワンダ虐殺(ジェノサイド)のような事態が進展する可能性についてポイントを絞って言及している。


 観光業で繁栄し安定した国家というケニアのイメージは、大統領選の結果をめぐる混乱で壊れ始めている。ただ、専門家の中には、大量虐殺の悲劇が起こったルワンダのような事態には発展しないとの見方もある。
 なたを振り回し、民族間で殺害が繰り返され、対立する政党からは「大量虐殺」や「民族浄化」だとの声が挙がる中、ケニアが「血の海」と化すシナリオも現実味を帯びてきた。
 強硬政治にいら立ちを覚えた住民が暴徒化、国全体が「炎上」している。同国のメディアは、政治的解決がなされなければ、多くの隣国を破滅に追いやった民族紛争に発展する可能性があると警告した。
 これに反して専門家は、同国内の治安部隊が、東アフリカの大国ケニアを混乱から救うことができると分析する。

 AFP報道では、ルワンダ虐殺のような事態になる可能性について双方の意見を載せてバランスさせているが、反対意見の識者コメントにやや重心を置いているようだ。

 ケニアの弁護士で政治評論家のJohn Otieno氏は、「皆が民族間の争いとみているが、そうではない。絶対権力を有する政府は存在しないという事実を含めた、国民の権利を実現している社会の問題なのだ」と強調する。
 Bellamy氏は「キバキ氏も選挙で敗れたルオ(Luo)出身のライラ・オディンガ(Raila Odinga)氏も、民族紛争をかき立てようとはしていない」と語る。

 他報道から見ても幸いにしてそうした見解が外れてもいないだろうが、民族的な対立の構図はある。ただし多元的であるとして記事は展開される。

 2003-06年、駐ケニア米大使を務めたMark Bellamy氏は、「ケニアの民族構成の特徴は多様性。ルワンダやブルンジとは異なる」と指摘する。
 1990年代に民族紛争から数十万人が犠牲となったルワンダとブルンジは主にフツ(Hutus)とツチ(Tutsis)から成るが、ケニアでは少なくとも42の民族が存在している。
 不正操作の疑惑を持たれながらも前週再選を果たしたムワイ・キバキ(Mwai Kibaki)大統領は、キクユ(Kikuyu)出身。ケニアでは最近、キクユが政財界を支配してきた。
 キクユは、人口3700万人のケニアにおける最大民族であるが、全人口の22%を占めるにとどまっている。これは、ほかの民族を差し置いて完全に支配できる民族はないことを意味する。

 ケニアはルワンダとは異なり二つの民族が対立しているのではなく多民族構成だということで、その構成をもってジェノサイドの抑止になるだろうという推測もあるのだろう。この観点については後で再度触れる。
 AFP記事の焦点は以上で終わり、背理法的に政治的な状況がクローズアップされるのだ、その前にもう少し現状に近い状況を別ソースで見ておきたい。5日付け毎日新聞白戸圭一記者による”ケニア:襲撃恐れ避難民25万人 野党は再選挙求める”(参照)が詳しい。

昨年末の大統領選挙を巡るケニアの暴動は4日、沈静化の様相を示したが、襲撃を恐れて国内避難民となった住民に対する人道支援が急務となっている。国連人道問題調整事務所(OCHA)は4日、国内避難民が約25万人にのぼるとの推計を発表。赤十字国際委員会も同日、ケニア西部リフトバレー州を中心に困窮生活を強いられている避難民約10万人に対する緊急食糧援助を国際社会に要請した。

 OCHAの推定である25万人の避難民情報が正しいなら、潜在的にジェノサイドの危険性は暗示される。
 政治的な状況、および今回の暴動の経緯について話を戻そう。
 暴動のきっかけは、昨年12月30日発表された大統領選挙だ。与党国家統一党(PNU)現職ムワイ・キバキ候補が、最大野党オレンジ民主運動(ODM)のライラ・オディンガ候補を小差で破り再選したとされる。が、この選挙には不正があったとして、ODM側が反発して各地で暴動が発生した。
 重要なポイントの一つは不正が本当にあったかなのだが、あったと見てよい。5日付けCNN”ツツ元大司教、ケニアのエリート層を批判”(参照)より。

挙管理委員会は与党・国家統一党(PNU)の現職、ムワイ・キバキ候補(76)が得票率51.3%で再選されたと発表。しかし同48.7%と小差で敗れたODMのオディンガ候補(62)は、選挙で不正があったと主張し、国際監視団体も不正を指摘した。3日には司法当局者が、第三者によって票集計を調査するべきだとの認識を明らかにした。

 政治的な状況からは、民主化に対する弾圧という構図も取り出せる。その意味で、先日のミャンマー暴動と類似点もあるが、そのような国内外の関心は現実は低い印象を受ける。
 こうした政治的な構図からすれば、選挙の見直しや連立の政権など、政治的な落とし所が見えないわけでもなく、各国がそうした暫定的な解決に向けて動き出している。その意味で、現状暴動は小康にあり、まったく展望が見えないわけでもない。当面の話としては一段落ついたとも言える。
 が、民族対立という構図は潜在的に大きい。そのあたりに踏み込んだ報道はあまり見かけなかったのだが、3日付けニューヨークタイムズ”Ambition and Horror in Kenya ”(参照)は、わかりやすかった。

Tribal resentments have long played a role in Kenyan politics. They flared anew after Mr. Kibaki and Mr. Odinga fell out over the spoils of the 2002 election. Mr. Kibaki comes from the long-dominant Kikuyu group, Kenya’s largest. Mr. Odinga comes from the Luo, a smaller but politically important tribe. Much of the violence of recent days has involved these two groups. In rural Eldoret, some 50 Kikuyu were burned to death inside a church where they had sought refuge. In the vast and tribally mixed urban slums of Nairobi, rival militias have been waging open warfare.

 問題の根にはキクユ族とルオ族の対立があり、これは2002年の大統領選時点の不和に根を持っている。AFP記事では単にケニアの民族人口比を挙げたが、現実の政治状況では単純な民族構成比が問題となるのではなく、民族間の優位が問題になる。その意味で、ルオ族を"a smaller but politically important tribe"として捉えている点はニューヨークタイムズの視点の深さがある。また、民族間対立で引き起こされた悲劇的な事件についても触れている。
 こうした点から今回の暴動を見直すと、政治的な構図の背景に民族的な対立の構図が大きく横たわっており、問題の根はそれゆえに深い。
 なお、今回の暴動があったとき、私が気になったもう一つの視点は印僑の存在だった。結果からすれば印僑への暴力はなかったようだが、インド関係の報道がすぐにこの視点を取り上げていたのは印象的だった。

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2008.01.03

2008年世界はどうなるか、って言われても

 明けましておめでとうございます。2008年世界はどうなるか。いろいろ考えてみたがわからない。一番の問題は北京オリンピック以降の中国の経済だろうが、その時点でクラッシュしますよ、世界経済オワタ、日本オワタとすっきりと私が言えるものでもない。
 というか今年前半はチキンゲームとその他いろいろな勢力のどうしようもないメディア操作の大騒ぎが始まるのではないか。そう思うとなんだか情報にお付き合いするのもうんざりしてくる。え? 国内? どうにもならないでしょ。総選挙? やれるものならやったら、くらいだろうか。それでメディア操作の大騒ぎが始まるとしたらすでに日本自滅の兆候だろう。
 話を世界に戻す。中国終了の前に米国終了が先になる可能性はないか。という雰囲気も日本国内から見るサブプライム問題騒ぎからは気になるところだが、それは米国の株価の動向を薄目で見ていけばいいだろう。それほどたいした変化はないように思う。が、ドルはどうなるのか? という話題はあるにはある。というあたりで、またまたフィナンシャルタイムズを枕にエントリを進めよう。ネタは昨年末26日付けの社説”It’s a multi-currency world we live in”(参照)。表題どおり、我々が住んでいる世界はマルチカレンシーなのだ、ということだ。つまりドルの支配は終わったみたいな空気読め、と。


It does not seem so very long ago that foreign currency traders nicknamed the euro “the toilet currency”, because it was going down the pan. That is true no longer. The euro is soaring high, while the dollar is flushed away.

So is this the end of the dollar’s reign as the world’s dominant currency ?


 ユーロなんてトイレットペーパーみたいなもんでしょと悪口言われたのはそう昔のことではないが、今や高値となり他方ドルはといえば衰退している。ではもう、ドルっていうのは世界の主要通貨とはいえないのではないか? ってな話で社説は始まる。
 ドルはどうなるか? ところで私も若干ユーロを持ちながらユーロなんてダメでしょと思っていた。ロバート・サミュエルソンが昔そう言ってたし、たしかクルーグマンもそう言ってたはず。違ったかな。
 ドルはもうダメなのか? 民放番組のCM前後みたいに問いをかぶらせる。

So is this the end of the dollar’s reign as the world’s dominant currency ? The answer is almost certainly “no”.

 ドルは主要通貨ではないのか? その答えは、否。
 つまり主要な通貨のまんまだよ、と。ただし、この先フィナンシャルタイムズはそれでも過去90年間で最初の競合相手を持つようになったとしている。つまり、ユーロ。いや、どうも元もそうだと言ってる臭い。勇み足が過ぎた。
 元ネタでは、ユーロが活発でそれに比してドルがどんだけ落ち込んだかというありきたりな話が続き、それでもドルは死んでないと続く。ありがちな作文だが。

None of this means the dollar is yet on its death bed. The decline in its external value is, instead, a necessary part of the adjustment of the trade imbalances of recent years. US capital markets remain large and liquid, even if the reputation of Wall Street has been damaged by the credit squeeze.

 ドルの価値は落ちてきても死んではいない。衰退したかに見えるのは貿易不均衡調整の必然的なプロセスにすぎない。米国の長期金融市場は信用収縮と言われていても依然巨大だし活動的だ。
 そりゃそうだ。私みたいな経済音痴でもそのくらいわかる。経済音痴だからわかるのかもしれないし、ゆえにフィナンシャルタイムズの芸風を楽しむこともできる。
 ドルが今後も安定的ということはない。当然ないと話は続く。というかここからがいよいよ社説の本題。2008年はどうなるかのキモ。

Yet the primacy of the dollar is no longer to be taken for granted. Should wealth-holders (both foreign and domestic) come to doubt the determination of the Federal Reserve to preserve the dollar’s domestic purchasing power, they might dump it, with devastating effects on its external value, long-term US interest rates and the US economy.

 ドルの優位は自明ではなくなった。ではどういうワーストストーリーがあるのか。
 バーナンキ僧正率いるFRB(連邦準備制度理事会)がドルの国内購買力を保持しつづけようとする画策に対して、米国内外の資産家が疑念を持つようなことがあれば、彼らはドルを放り出しかねない。その結果、ドルの威信、長期金利、米国経済が壊滅するかもしれない、ぞー、と。
 いや面白いといった不謹慎だが、なかなか含蓄が深い。ここはちょっと置いて先に進む。

When wealth-holders look at the scale of indebtedness in the US, they might conclude that the Fed is indeed going to be under vast pressure to choose inflation.

 米国内外の資産家が米国対外債務規模に着目すれば、バーナンキ僧正率いるFRBの本音はインフレ志向なんじゃないかと疑いを持つようになるだろう、と。
 面白い。ちょうど今朝ロイターで”FOMC、信用収縮で大幅な利下げ必要となる可能性を認識”(参照)を見たところだった。

米連邦準備理事会(FRB)が2日公表した12月11日の連邦公開市場委員会(FOMC)の議事録によると、信用収縮が経済成長を鈍化させ、大幅な利下げが必要となる可能性が懸念されていたことが明らかになった。

 なんとなくちゃくちゃくと布石が打たれているような。
 フィナンシャルタイムズの社説に戻る。結局、結論は何?

What Charles de Gaulle called the dollar’s “exorbitant privilege” can no longer be taken for granted. The US will have to earn it on a daily basis, instead. That may be unwelcome for the US. But it will be good for nearly everybody else.

 ド・ゴール将軍がドルを法外な特権と見なした終わったが、それはそれで世界にとっていいことなんじゃないか、というのがフィナンシャルタイムズの結論。
 ちょっと待った。
 その前に少し戻る必要がありそうだ。

One big fact is that foreign governments can now credibly peg their currencies against a basket of currencies or even just the euro alone. Another one is that both they and others with liquid wealth now have a choice of two currencies.

 社説の要点は表題通りここにある。つまり、ドルがダメでもマルチカレンシーの時代だし、各種通貨まぜて通貨バスケットにすればいいじゃないか、と。
 いや、「ちょっと待った」はこのちょっと先だ。

When the renminbi is at last made convertible, they will have another one.

 人民元が最終的に外貨交換可能になれば、人民元で資産保有しておくこともできる、だとさ。
 いや、率直に言おう、私の脳内で「ハイホーハイホー♪ フィナンシャルタイムズ、踊ろうよ♪」と小人が騒ぎ出した。それって何? いや失敬。私のような糞ブロガーがそこまで言えるわけはない。
 いったいこのフィナンシャルタイムズ社説の意図はどこにあるのだろうか?
 という以前にドルに疑念を持つかも知れない国内外の資産家って誰? 日本と中国じゃないの。でもキンタマを失った日本は米国様に疑問なんか持たない。するとやはり中国様。そして、先日のドル防衛の動きからみて産油国っていうか、サウジか。
 すると中国とサウジがドルを支えている限り世界は安定だというべたな話の確認だったのか、この社説。
 それとも、中国元で資産を保有したままにしとけという示唆は、深慮遠謀というか欧米資産家が中国に望む最大の願望という意味なのかもしれない。
 そんな願望の未来は来ないだろうな。

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