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2007.02.22

日本版ニューズウィークのコラムで思ったことなど

 雑記。昨日届いた日本版ニューズウィークにデジタル版の話があり少し興味をもったのだが、該当サイトを覗くと閲覧には専用ソフトが必要らしく、引いた。デジタル化によって紙媒体より格段に安価になるのかもよくわからなかった。総じて雑誌というのは新聞と同じように実質は広告媒体なので、その効率性というかリーチャビリィティで最適化されるものだろうと思うので、デジタル化というのはペイするのだろうか。
 ニューズウィークには時折まったくの素人というかあるいはローカル新聞くらいのコラムニストが書いた、なにげない一ページもののコラムが掲載される。日本版の創刊頃から読み続けた読者である私は、その手のコラムがなんとなく心に残る。そんななかで最近三つほど心に残るコラムがあった。記憶によるのであまり正確ではないのだろうけど簡単に。
 一つめは、身体障害者の親族の思いというものだ。重症で長年看病した親族がいざ死なれてみるとほっとしたという感想だった。看病から解放されて自由になって単純によかったというのではない。ただ、そういう奇妙な解放の思いに向き合った話だった。こうした情感というのは、人間を五十年もやっていると誰でも遭遇するし、少なからずは親というものがそういう存在になる。そしていろいろと思うものだ。が、ブログも含めて公開的な場所でそういう情感が語れることは少ない。逆にブログなどではより語れない領域になりつつあるのかもしれない。「これはひどい」とかブックマークされたりすると想定されれば増田とかに書くしかない(参照)。と考えながら、そうした微妙な情感は以前は小説などで語られていたものだろうか。小説というのは時代のメディアとしての意味もあったのだろうかとついでに少し考えたが、現代の小説ではどうなのかよくわからない。いずれにしても愛していた人でも死なれてみたら悲しくても解放されたような情感がある、というものは人の世とともにありつづけるだろう。
 二つめは自身をリベラル派と思っていた中年女性が銃を購入して、家に被害をもたらす野鳥を撃ち殺したという話で、銃を持ってしまったら人生観が変わったというものだ。コラムではどう変わったのかということがくっきりと描かれていないので、翻訳の際にぼかしたのかもしれない。原文に当たって調べるのも難儀に思って過ごしてしまった。そのコラムでは銃で撃ち殺した対象は鳥だった。生活の場によってはそういう必要性もあるかもしれない。つまり、なにか生物を銃殺しないと生存しづらいということもあるのかもしれない。日本の状況に置き換えれば熊だろうか。日本では熊を銃殺することにそれほど違和感もなく報道されるが、おそらく銃がそれほどの意味を日常生活に持っていないからだろう。逆にこの自称リベラル女性は銃と社会の関係において銃を支持してしまう感性の変化について何か発言したかったに違いない。そのあたりの微妙な感覚がわかるようでわからないとも言える。話は少しそれるのだが、以前NHKのドキュメンタリーで米国のキリスト教右派がその主義のみで固めた全寮制の大学を作り、その信念のエリートを養成して政界に送るという話をやっていた。私はこの手のクリスチャンというのはあまり違和感が少ないほうだが、その学生のインタビューで銃については解禁するのが当然だという主張があり、少しばかりへぇと思った。日本の場合クリスチャンは銃に対して違和感を持つほうが多数ではないだろうか。学生が言うには、現状の民主主義というのは独裁者を産みえるのだから、その抵抗の権利として銃を持つべきだというものだった。そういう理屈も成り立つのかとも思ったが、むしろそういう理屈のほうが米国という国の原理に近いものがある。このあたりは私もブログでスターウォーズに関連して少し触れたことがあるが変てこなコメントを貰ったな。
 三つ目は今週号のコラムで、何年も前に死んだ息子に未だにダイレクトメールが届くという話だった。私も父に死なれてもう随分経つのだが、実家に父宛のダイレクトメールが届くことがあり、母がことさらに騒いで大切なものであるかのように私に見せるので困惑する。死者宛の手紙とは不思議なものだなとは思う。ダイレクトメールのアドレスは個人情報の漏出なのかわからないが、ご本人が死んだという情報だけは項目化されないのだろう。というか、死亡フラグというのは個人情報においてそもそも属性なんだろうか。そういえば、と話がずっこける。時たまでもなく電話によるセールス勧誘を受けて困るのだが、話者が中年女性の場合よく「お母さんはいらっしゃいますか」と聞かれることがある。私の応答を聞いて二十代くらいの青年だと思っているのだろうか。この手のことにも慣れてきたので、いませーん、とか答えて終わりにする。

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2007.02.21

若い女性の自傷行為はめずらしいものではないらしい

 若い女性の自傷行為はめずらしいものではない、とするニュースを先日ロイターで見かけた。日本で報道があったかどうかわからない。どうだったのだろうか。
 ロイターの記事”Self-harming behavior common among young women”(参照)はネット上の各所でまだ読むことができる。調査はイタリア、パドヴァ大学で行われた。オリジナルの調査は”Self-injurious behavior in a community sample of young women: relationship with childhood abuse and other types of self-damaging behaviors.”(J Clin Psychiatry. 2007 Jan;68(1):122-31.)であり、PubMedで概要を読むこともができるし、オリジナルへもアクセスできる。
 ロイター・ニュースの強調点は、意外に多数(二四パーセント)の若い女性が自傷行為を行うこと、こうした自傷行為が、アルコール中毒、薬物乱用、自殺試行、摂食障害と強い関連があるということだった。こうした問題行動は自傷行為の一環と見てよいという示唆があるようだ。
 自傷行為について調査者は、強迫性(compulsive)と衝動性(impulsive )に分け、前者が二一・三パーセント、後者が五・二パーセントと報告している。
 こうした自傷行為を行う若い女性は自身の身体性への親近感が欠落しているとも示唆されているが、各個人の生育史における問題も大きな要因ようだ。
 調査者たちは、若い女性の自傷行為について、動物行動の"pathological grooming behavior"との関連も見ている。この用語は、直訳すると「病的な身づくろい行為」となるのだろうか。
 私にはこのあたりの動物行動学の背景よくわからないが。いずれにせよ、若い女性特有の自傷行為は動物行動学的な説明も可能な領域のようだ。
 こうした問題は日本では、青少年問題として、社会的、あるいは心理的な問題として扱われがちだし、そうした扱い方が間違いでもないのだが、このニュースを読みながら、これだけ広範囲な行動形式には、なんらかの霊長類の行動上の意味が強いのではないかという印象を持った。それはなんだろうとも少し考えてみたが、ちょっとブログのエントリに書くには熟していないので、以上メモ程度に書いて終わりにする。

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2007.02.20

家計って株式投資で儲かってんの?

 十三日の朝のラジオで評論家内橋克人が、株式を保有している世帯と銀行・郵貯などに貯金している世帯とでは家計の収入に大きな差が出てきて困ったものだという話をしていた。ぼんやりと寝惚けた頭で話を聞き流していたのだが、え?と思って目が覚める。そうなのか? というかどのくらい差があるのか。話を聞いているとけっこうな差がありそうだ。まあ、差があっても別によいわけで、それを格差問題だとも思わないのだが、気にはなっていた。その後、十七日付けの日経新聞に同じ話が載っていたので、ざっくり確認し、あらためて、へぇと思った。
 話は内閣府発表〇五年度の国民経済計算(SNA)によるらしい。ソースは”17年度国民経済計算(93SNA)”(参照)ではないかと思う。が、データばっかりで私のような素人からは内橋の話は読み取れない。というわけで、ざっくり聞いた話をまとめるのだが、二〇〇五年度の国民所得の内、家計に回った所得(賃金+財産)の分配率は七五・三%で前年度比で〇・四ポイント上昇。七年ぶりのことらしい。ただ、上昇の率を見ると大した変化でもないとは思う。
 内橋の話では、家計収入を構成する賃金、財産、賃料・利子所得のうち、賃金は伸び悩み利子所得は減少傾向にあるなか、財産に含まれる配当所得が五一%増と急増したとのこと。配当所得は金額で七兆四千億円。つまり、家計は資金を銀行・郵貯の貯金から株式投資に振り替えて成功している、ということだ。内橋の意見は、これではいけない、賃金が上がるべきだし、投資をしない庶民にも預貯金金利のメリットがなくてはならない、といったものだったかと思う。
 しかし、ちょっと考えればわかるように、銀行・郵貯の貯金というのは結果的に投資と別物ではないのだから、むしろ庶民はもっと直接的に企業から投資の利益を得られるようになってめでたしめでたしということになるはずだ。まあでも、それはけっこうどうもでいい。
 ラジオでは突っ込み役のアナウンサーも「私も株式投資してないんですが、日本の家計の実態はそう変化しているのですか」と訝しげであった。私も同感。なんか変だなと。なんかからくりがありそうだがよくわからない。
 そういえばそもそも家計が約千五百兆円金融資産を持っているというのも、よく言われるわりに実感できない。ちなみに、日銀の資金循環統計ではこの内、株式・出資金の占める比率は、〇四年度末の八・八%から〇五年度末には一一・六%に上昇したとのこと。すごいなと思うがやはり実感はない。
 そういえば昨日の日経新聞記事”サラリーマン世帯の貯蓄率、06年に8年ぶり上昇”(参照)だと、サラリーマンは貯蓄に励みだしたようだ。


 総務省の家計調査ベースの貯蓄率は、毎月の収入から税金や社会保険料を差し引いた可処分所得のうち消費に充てず、手元に残したお金(貯蓄)の比率。06年の平均貯蓄率は27.5%と前年比で2.2ポイント上昇した。1カ月あたりの可処分所得は44万円と前年比0.1%増えたが、消費は2.8%減らし、貯蓄は8.6%増やした。

 簡単に言って、消費を減らしている、と。読売新聞記事”06年の家計調査、月平均消費支出は2年連続減少”(参照)はもっと実感がある。

総務省が13日発表した2006年の総世帯の家計調査(速報)によると、一世帯当たりの月平均消費支出額は25万8086円で、物価変動の影響を除いた実質で前年比3・5%減と2年連続で減少した。

 同記事では少子化の影響などにも言及があるが、消費の減少はそれが大きな原因でもないのだろう。
 現状の日本のGDPだが産経の記事”経済成長率示す「GDP」 求められる速報値の精度向上 ”(参照)によるとこう。

 計算のベースとなるのは家計調査や法人企業統計といった政府のさまざまな統計で、17年度のGDPは物価変動の影響を除いた実質で540兆円。項目別には個人消費が302兆円と最大で、公共投資などの公的需要が119兆円、民間企業の設備投資も82兆円と大きい。名目だと503兆円に減るが、それでも世界のGDP総額の約10%を占める。

 ざっくりした感じだけど、日本人が消費を促進しないとこのまま日本はじんわりとしたデフレスパイラルが継続していくのでしょう。で、その実態というと、賃金所得に依存している若い世代の世帯は貯金をし、おそらく株式投資もできてるほどおカネに余裕のある年配の世帯ではさらに株式投資の利益を得ていく、という構図なのだろうか。あまりしっくりしないのだが。

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2007.02.18

[書評]〈つまずき〉のなかの哲学(山内志朗)

 以前は人に勧められた本をよく読んだし、そうしたことで自分の視野の狭さを知るきっかけとなったものだが、いつからかそういうことが減ってきた。本書「〈つまずき〉のなかの哲学」(参照)は、久しぶりにそうした契機で読んだものだ。一読して、なるほどな、私に勧めたくなる本だな、ということがよくわかった(ありがとう)。「私」とは何か、人生とは何か、そういうものに私は今四十九歳までぶつかり続けた。これからもそうだろうが。

cover
〈つまずき〉のなかの哲学
山内志朗
 筆者山内志朗については私は知らなかったが一九五七年生まれとのことで私と同年である。もしかしたら過去のネット世界のどこかでハンドルとハンドルで遭遇していたかもしれないと思った。
 本書は率直に言うと私には読みにくい本だった。理由は私にある。私が思考の柔軟性を失いつつあり、哲学書に対してまず哲学史的な特定の枠組みを求めてしまうことと、また、本書で多く言及されているヴィトゲンシュタインについて顕著なのだが、かなり類似した見解を持ちつつも異なるがゆえに、そうした部分について、あちこち留保して読むことになるからだ。その留保作業は朱註ではないが鉛筆で書き入れつつ読み進めた。とはいえ、私の読解力が弱いのか、あるいは少し批判めいた評価になるのかもしれないのだが、読後、留保部分を再考すると本書の本筋にはそれほど関連していないようにも思えた。
 そういう私の読みに自信はない。ウィキペディアの山内志朗の項目(参照)を見ると、「彼の講義の聴講者は必然的に人文学部の学生が多いが、彼の講義は学生の興味関心を引くものが多く、口コミなどで知る者もおり、彼の話を聞きたい為に他学部の学生も多く集まることで知られている。」とあり、むしろこうした叙述のスタイルは、現代の若い人にフィットしているのかもしれない。
 本書の前半、筆者が「謎」とする部分には私は基本的な共感を持って読み進めた。文献学的な部分を除けばひっかかりはない。その分、軽い大衆向け哲学入門書かなと思っていたが、後半の「つまづき」とする部分は、知的なチャレンジを受けた。私は自身の哲学的な考えを系統立って開陳したことはないが、関心領域はほぼ重なるように思えた(ちなみに私なりの結論を先に言うと、山内が「私性」を欲望の契機としているのに対して、私は欲望は匿名性のいわば暴虐なエネルギーであり「非私性」を志向し、現代科学はそれを解放してしまうというふうに現代性の危機としてとらえている)。
 山内の視点で一番チャレンジングだったのは、「ハビトゥス」という考え方だ。彼はこれを日本語的に言えば「立居振舞」だとする。そして「私」というものを「ハビトゥス」として捉えていく。強調部分は同書のママ。

 「私」ということは、もしそれを霊的な実体として捉えたいのであれば話は別だが、ハビトゥスであると言い得るであろう。反復学習によって沈殿し、表に現れ続けているもの、人となりとしてそこに常に現前化し、現実化しているもの、〈体〉によって覆われ隠されている「私」ではなくて、肉体を座としてそこに現在化し、安定した行動の「型」のなかで、穏やかな同一性を保ち続け、反復されるものが「私」であるとすれば、それが「ハビトゥス」の一種であることは当然であろう。ヤマウチは「私」とは、精神でも肉体でも脳でも関係でもなく、「ハビトゥス」であると考えたい。

 ここで「私」とは、精神・肉体・脳・関係といったものから否定される。が、その総合故に否定されると読んでもよいだろう。私の誤読の可能性はあるが、身体行為において他者との関係性におかれる主体を救出したいがための措定ではないかと思えた。つまり、この措定には極めて倫理的な要請があるのだろう、と。
 現実問題として恋愛関係や夫婦関係、職場の関係などにおける、「私」と「他者」はこのような「ハビトゥス」(立居振舞)の相互的な了解(予測)の上にのみ成り立っていると言えるだろう。
 ここに本書の優れた点が同時に見られる。起点において倫理性を問うている姿勢だ。特に、若い時代の悩み・躓きといったものを現実において人は抱えて生きなくてならないのだから、そのような存在を、取り敢えずという言い方は拙いが、前提的に肯定する倫理の光が求められる。極めて倫理的な人間哲学であるとも言えるだろう。
 このような肯定の措定は現代哲学的にはやや拙いものでもあるかとも思う。が、実際的であるし、まさに現代は倫理が問われる、という問題性をうまく浮かび上がらせる意味で、山内の考え方は極めてポスト・ポストモダンかもしれない。
 私の知的な関心としては、「ハビトゥス」という考えの起源が山内の独自の思索にのみ帰着するのかそれとも別の哲学史の根を持っているのか気になり、雑駁にサーチしてみた。どうやらこれは「天使の記号学」(参照)で提起され、スコラ哲学中でもヨハネス・ドゥンス・スコトゥス(参照)における「存在」と「本質」の生成によっているらしい。同書を私が吟味していないのだが、この生成の概念は私の読書圏ではイスラム神学に類縁のユダヤ哲学に近いのではないだろうか。
 話を本書の実践的な流れに戻すと、そのような立居振舞としてのハビトゥスとして「私」が捉えられるなら、その「私」の人生の意味とは、山内が言うように「目的は後から徐々に付け加わる」ということになる。これは確かに若い人にとっては、簡明な希望になるだろう。摸索や躓きの過程において「私」のハビトゥスが明確になることは、まさに「私」の人生の目的でもあるわけだからだ。そして、さらにこのハビトゥスの延長により肯定的にかつ実際的に「希望」が打ち立てられる可能性も確保する。
 蛇足だが、山内のハビトゥス論の流れにおいて私の考えの差異を少し述べてみたい。批判というわけではなく、私はほぼ同じ枠組みでこう考えるということだ。
 まず山内のハビトゥス論だが、彼はこれを存在と本質の生成として捉えながらも、欲望論との関係においてジラール的な他者論に接合する。強調部ママ。

ハビトゥスとしての「私」を実質的に構成するのは、「私」が無から構築されたものではなく、他者から移入したものだ。それは隠蔽されなければならない。フロイトが、無意識について、抑圧され、隠蔽され、顕在意識に昇り得ないようになったものだけをそう呼んだように、意識にとって隠されたままであり続けるものが、「無意識」と呼ばれ、意識を突き動かす原動力となり得たのと同じように、〈謎〉として隠れ続けるものだけが、「私」の核となり得る。

 ジラールの三角図式とユンクの悪の個性化を合わせたような思想に私には受け取れるし、それゆえに否定されえない説得力もあるのだが、私はそうした「私」への暴力的とも言える個性化への情動は、「私」の核ではなく、個性化の契機としてしてのみ存在すると私は考える(森有正の言う「内的な促し」に近い)。むしろ、人の生き様に現れるハビトゥスは、ジラール流の他者でなく、本居宣長が考えたように、言葉の姿に人の情動を整えていくところにあると私は考える。山内の思索では、本書が簡明叙述するという当たり前の限界性もあるのだろうが、言葉=民族語の歴史が、人の人生の振る舞いから経験の意味性(荻生徂徠の言う「道」)を開示していくあり方を明らかにしていない。あるいは、人と民族語の歴史という課題は、本書の延長にまったく新しく切り開かれるのかもしれない。

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