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2007.02.10

鯵のバジル風味ホイル焼き

 先日GIGAZINEに”ふわふわの鯖の味噌煮を30分で簡単に作るレシピ”(参照)が掲載され、Web2.0世界の人気エントリ藁メーターであるはてなブックマークは200を越えた。いや300を越えたのか、よくわからんが(参照)。この状況をいち早く察知したネット界の情報韋駄天・出会い界伊達男栗先生が”GIGAZINE予報ならぬ「finalvent予報」”(参照)を立てた。


こういう料理レシピ物には必ず彼は食いつくよ。ネタでくるか本気で来るか。明日の極東ブログで食いついてくれば面白いんだけど。でも極東メソッド的にはこう指摘されると食いつけないところ。さて、どう出る?

 つうわけで、ネタに食いつくことにしたよ。とはいえ昨日のエントリは、このところ考えていることの最終部でもあるのでそっちを優先した。
 でだ、鯖味噌かよ。
cover
魚料理いろは
野口日出子
 GIGAZINEのネタ見ましたよ、と。いやはやなんつうか、私だって鯖味噌くらい作れますよ。しかし、これが料理ネタなのかと小一時間ってほどではないけど、元ネタのAll About男の料理「簡単! フライパンで作る 鯖味噌煮」(参照)もな。だいたいが鯖味噌喜んでいるようじゃオッサンじゃないですか、ってかオッサンか俺。
 鯖味噌のコツ? 鯖を選ぶことですよ。他に何か?
 ってことで、当方では、鯖味噌の話はしない。あるいは別の機会に。
 ワタシ的には、料理というのは、シンプルで、エレガントで、え?と驚くようなのを紹介したいんですよ。でないとネタにならないじゃないですか。日本人が普通それはしないでしょみたいのだったら特にイイ。で、シンプルな調理のなかに、finalventさんの感性がきらりと光るような光るような光るよう……光り物だな、じゃ、鯵だ。ちと旬が違うが、このところよく出回っている。
 というわけで、すごくシンプルな鯵のホイル焼き、バジル風味。
 必要なのは、鯵、塩、ドライバジル、ホワイトペパー、フライパン、アルミホイル。
 難しいポイントがあるとすれば一つだけ。魚屋で鯵を買え。GIGAZINEのレシピみたいに発泡スチロールの皿に切り分けてあるような魚を買うんじゃないよ。
 魚屋で鯵を買え、というのは魚屋を選べということ。魚は魚屋さんが知っているのだ。日本男児いや御妙齢でも、旨いものが食いたければ、魚屋と懇意になるしかないてな説教はさておき、魚屋で鯵をおろしてもらう。いや恥ずかしい話、ヴェジタリアンの私は魚がおろせないのである。
 魚店さんが必死の時間でなく親切な感じだったら鯵くらいちょいとおろしてくれるものなので、「塩焼き用に」と声をかける。
 ここまでクリアできたらもうあとは簡単。
 鯵の片面にすーっと包丁を入れる(両面入れてもいいが)。塩を染ませるためだ。そして全体に塩をまぶす。一尾に小さじ一強くらいか。そして、しばらく置いておく。つまり、塩を染ませるため。二十分くらい置くのいいが十分くらいでもいい。
 染み出した水をキッチンペーパーで軽く吸い取る。そして、鯵の全面にドライバジルとホワイトペパーをかける。ぱらぱらと少量を全体に。ドライバジルはけっこう普通のスーパーでも売っているのでよい。
 これをアルミホイルできっちりくるむ。きっちり。
 フライパンに乗っけて弱火、つうか、とろ火で十分から十五分ほど焼く。このときフライパンは簡易に蓋をして熱効率を良くすること。
 オーブントースターでも普通のオーブンでもできる。200度くらい。汁がこぼれないように注意。

鯵のホイル焼き

 これで上がりでもいい。
 これにオリーブをかけてもよいが、かけないほうが鯵が味わえる。
 ホイルから取り出して皿に載せ、ホイルに残る汁にバターを溶かし、レモンかワインビネーガーを少し垂らして簡易ソースにすると、あれま、おフランス料理。
 つうことで、あとはシャルドネがあるとなおよい。QbAとかでもよい。

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2007.02.09

社会システムとルール社会を越えていくもの

 世界と「私」はどのような関係にあるのか。その関係はどのように変遷し、今、どう変わろうとしているのか、といった、青臭いネタを書く。話を簡素にするために、叩き台的に哲学者竹田青嗣「『自分』を生きるための思想入門」(参照)を使うが、話の本筋は竹田の議論にそれほど依存しなくてもいい。ただ、その場合は議論が煩瑣になるというくらいだろうと思う。

cover
「自分」を生きるための
思想入門
竹田青嗣
 同書については、ちょっと哲学志向のある高校生や大学生は読んでおくとその後人生が楽になるかもしれない。哲学プロパーな人は些細な点でいろいろひっかかえって途中で放り投げてしまうかもしれない。竹田の著作史的には、初期の現象学とこの時期特有の橋爪大三郎との交流の影響がある。それでも本書の大枠は比較的近著「人間的自由の条件―ヘーゲルとポストモダン思想」(参照)までの射程を持っている。というか、むしろ先の本書のほうが竹田思想のコアが見やすい。
 まず古典的な世界象は未だ国会の馬鹿騒ぎや各種のブログなどもよく見られるが、次のようなものだ。仮にフェーズ1としておく。

ひと昔前多くの人が抱いていた社会像は、大きな権力がまずあって、その権力が一般の民衆を支配し抑圧している、というものでした。民衆はそれぞれの生活の欲望を持っているけれど、この民衆の生活の欲望を、大きな権力が抑圧し、支配しているという図式が基本的にあったわけです。
 したがって、このときには、この大権力をどうすればひっくり返すことができるかということが思想の中心問題だった。マルクス主義は基本的にこういう問題の立て方をして、それなりの支持を得ていたわけです。
 ところが、最近では、大きな権力ということは推定できなくなった。たとえば、かつての強力な天皇制権力といったものは今では見当たらないし、日本の政治権力がさほど強力な一枚岩ではないことは誰でも知っています。諸悪の根源としての大権力があってそれを倒せばいいという図式は、人々の生活実感からひどくかけ離れたものにならざるをえない。するとマルクス主義の図式では、現代社会を批判したり、攻撃する目標が成り立たないのです。

 本書が書かれた十五年前に比べれば、そうした世界認識はごくあたりまえのことではあるが、それでも、日本社会には歯止めのない恣意的な検察正義が存在したり、この古典的な洒落にもならない「諸悪の根源」をかき立てるレトロな人々がいる。露骨な大衆扇動でもなければこんなバックラッシュは捨て置いていいだろう。
 これに対して「社会システム」論が登場する。これをフェーズ2としよう。

 日本に輸入されたポスト・モダンの「社会システム」の考え方は、要するに、新しい批判の「目標」を設定する理論として受け入れられたわけです。
 つまり、今や批判の対象は目に見える大権力ではなく、高度消費社会という「社会システム」そのものだ、ということになります。(中略)ある権力という中心があって、それがピラミッド的に人々のさまざまな欲望を支配しようとしてるのではなく、むしろ民衆の欲望そのものがルールの網の目を通して延び広がっていって、全体として大きなシステムを作っているととらえるのです。

 網の目がネットワークと同義であることに留意したい。さて、社会システムにおいて権力とは、「欲望の網の目の流れの中の要所要所」に作られ、多様な欲望を調整する機能を持つとされる。これがフェーズ2の特徴でもある。

 この「社会システム」の考え方では、個々の人間の欲望とシステムを支える小さな権力は「互いに支え合っている」ことになります。システムは人々の欲望(消費欲望)をうまくあやつって決して不満が出ないようにシステムに加担させている、ということになるわけです。

 ここで、竹田は(あるいは竹田と限らず)、欲望が「消費の欲望」に無前提に結びつけれている。ここに現代人はある違和感を感じるかもしれない。なぜなら、ネット社会おける欲望はそのような形態から逸脱しつつあり、しかもその逸脱性がシステムによるカネの統制に結びつかないからだ。
 では、なぜこのポストモダン的な世界論において、欲望が「消費の欲望」に無前提に結び付けられたのか。私はこう考える。つまり、「社会システム」の考えは、高度消費社会、つまり、高度資本主義批判という構図を取りたいからだ。その意味で、フェーズ2の大枠にあるのは、リヴァイズドなマルクス主義そのものであるし、実際にこの議論はうっすらとした社会主義的な倫理の脅迫性を伴っている。
 さらに言えば、生産性として議論されているネタは、実は高度資本主義社会においては、それが消費によって逆に規定されていることにも、現代の視点では気づくことができるだろう。生産性向上といった議論は現実には消費の関数に過ぎない。では、「消費とは、欲望とは何か」というとき、その消費される対象は物ではなく、使役快楽としてのサービスになっている。ネタとして言えば、おそらく経済学の根幹に誤りがあるのだろう。一個のリンゴの価値は、もやは、それを取るための労働に依存するのではなく、美少女が取りに行くか、オッサンが取りに行くか、機械で採集するか、の差異である。
 竹田の議論の時代ではまだ社会システムの考えが意味を持っていた。しかし、現時点では、単純に言えば、このフェーズ2もフェーズ1同様、すでにナンセンスだとしていいだろう。では、何が現代の意識を変えているのか。あるいは、欲望の方向性を変えているのか。
 竹田は社会システム論を批判し、これに対して「ルール社会」を提起する。あるいは、人と社会の根源的な関わりはルールだとする。

 欲望論の考え方では、社会とはいつのまにか人間が作ったルールの体系です。このルールを変える力は人間の集合的な「エロス原理」です。どんな社会制度も、この欲望の本性と原理を変えることはできません。資本制そのものがルールを作っているという考え方はあの抑圧感や不全感を説明するための”神話”にすぎません。
 そもそも資本制は、人間の欲望の本性が経済的な領域で表現されたものであって、資本制は欲望の形を変えますが、欲望の本性を作るのではありません。ほんとうはその逆で、欲望の本性が資本制を作り出しているのです。

 ではルール社会はどのような世界象を描くのだろうか。
 その理想像の要件を彼はこうまとめる。ここから描けるルール社会論がフェーズ3だとしよう。

 これを実現するために考えられる前提は、まず、すべての人間があらゆるルールの下に対等であること、次に、ルールを変更するルール(またはこれを変更するルール……)に対してやはりすべての人間が対等な権利を持っていることです。社会が、「エロス原理」に基づくゲームであるとすると、このことが、社会とルールの関係において目指されるべき唯一の公準なのです。
 近代国家(社会)がこの公準をなかなか実現できない根本の理由は、国家間対立による国家権力の集中という要請によります。

 このあたりは現在の竹田思想に繋がってくるのだが、こうしたルール社会は可能なのだろうか。その障害は国家権力なのだろうか。もちろんそれは明確にあるし、それ以上の極めて困難な問題の萌芽もある。
 私は、このルール社会、フェーズ3の可能性は、歴史段階の可能性としてもう終わっているのではないかと考える。理由は単純だ。竹田のいうエロス原理は「集合的」な特質に拘束されているのだが、現在、個がエロス原理から隔絶するほどに抑圧されていくと見るからだ。現在において個人はその非匿名性によって売買される商品のような存在ではありえても、エロスの単位とはなりえない。
 この辺りの議論は、もう少し丹念にすべきなのだが端折る。
 我々は、個人としてのスタンスでその人生の目的たるエロスを開花することはもはやできない。ネタ的に言うと、非モテは美少女を欲望することなく、ヤラせてくれそうな評価の経済学に嵌って行動するしかない。そしてそのエロスはその個人であることの特性を越えて幻想に辿り着く他はない。
 ここで新しい世界像を得るために、人間の欲望というものの基本像を竹田から借りてみる。

 つまりわたしの言いたいことは、日常の愉しみは美やロマンを消費する愉しみですが、同じ美やロマンを味わう欲望でも、恋愛の場合は日常という境界線を越えて出て「超越」へ踏み出すような性格を持つということです。
 人間の欲望は煎じ詰めると、自我を維持保存し、拡大しようとする欲望と、逆に自我の枠を解き放って自我に掛かっている緊張を解き放ちたいという欲望の二つに分かれる。後者の欲望はまた追い詰めると、「超越」への欲望に近づいていくと言えます。

 この欲望の現象学的な認識は時代性に拘束されない。
 現在の私たちは、個人、あるいは実存たる個の原理性を奪われている。あるいは、その個とは非匿名の名前という商品のようにしか存在しえない。個が名前を持つということは、社会という形態の市場において交換可能な価値を得ることだ。それは、おそらく超越の欲望を買うための基本的な貨幣のような役割を持つ。
 同時にそうした超越を買い取る社会という市場も解体されつつある。あからさまな非匿名あるいは名を貨幣的にするより、ネットを前提として個を解き放つ空間にエロスを見いだすようになる。つまり、私たちは「私」であることを棄てて無名のエロスを希求するようになっている。そうした相互の無名の使役と隷属が快感のパーツになっていく社会が出現している。これが私が考えるフェーズ4である。
 フェーズ4を支えているのは、いわゆるネットの匿名性ではない。そんなものはちょっとネット技術を囓った人間ならありえないことがわかるだろう。というのはその匿名性の議論は常にフェーズ1的な国家権力の相関のなかにあるからだ。匿名性は、「私」の解体の超越的なエロス性のなかにある。
 ではなにがその解体を進めたのか。私は理性の最終的な志向からだと考える。そして、私は理性が非個性の欲望の本源的なエンジンだと考える。
 ここで議論が粗くなるのだが、竹田のカント理解を援用する(ただしこのカント理解は怪しい)。

 カントの考え方をひとことで言うと、人間の理性は、必ず、「世界像」を作り上げ、また「全体性」とか「完全性」といった理念を作るような本性を持つということです。カントはここから彼にとって重要な問題を引き出します。つまり、人間がこの「全体性」や「完全性」という理念を持つことが、人間的な「自由」の根源だというのです。

 この「自由」にエロスの臭いかぎ分けることは容易だろう。竹田はこれを現象学的にこうパラフレーズする。

 つまり現象学的に考えれば、理性の能力が人間に「全体」や「完全」を求めさせるからというより、この世界を生きることが幻想的なゲームであるからこそ、人間はどうしても大きな自由を必要とするのだ、ということになります。目標のないゲームなど面白くも何ともないわけです。人間は言葉によって共通のルールを立て、このルールを複雑にすることで生というゲームに幻想的なエロス(面白さ)を付け加えているのです。

 竹田はカントのいう理性の原則としての自由への希求を、個のエロスの条件として理解していく。
 しかし、2点、そうではないだろう。カントのいう自由はそのままにエロスであり、むしろ超越のエロスだということ。もう一つは、この理性なりエロスなりが想定される個は、理性の運動とエロスの希求のなかに解体されること(完全は個において達成されない)。
 こう言い換えるといい。我々は何かの経緯で、理性を完全とするために、あちら側に信頼し売り渡したのだ。およそ「私」という「個」が不可能である状況のなかで、エロスが最適化されるためには、私というこちら側の個があちら側に移転した。
 そして当然ながら、あちら側に移された人類の理性は、個を失った人間にただエロスだけを授乳のように与えるのである。

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2007.02.08

グーグルは何かを知ろうとしている

 雑記でもないのだがちょっと散漫な話になる。ので、一応結論的みたいのを先に言っておくと標題どおり「グーグルは何かを知ろうとしている」ということだ。何かとは取り敢えず人々の欲望としておく。誤解されるかなと思うのは、私がここで「グーグル」というのはシステムのことであって、その会社の経営者とか開発者という人間を指しているわけではない。
 話の起点は先日のことだ。本田健(著)「ユダヤ人大富豪の教え」(参照)の引用が多いあるブログのエントリについて、はてなブックマークが多数付いたことに、私は奇異な感じを持った。該当のはてなブックマークは「はてなブックマーク - ユダヤ人大富豪の教え : akiyan.com」(参照)である。はてなダイアリーでの引用を含めると四百点近いブックマークとなった。
 私はこの書籍についてフィクションだと思っているしあまり関心はない。が、はてな利用者がこの書籍についてこんなに関心を持っているということに関心を持ち、「本田健」というキーワードを単純にグーグルで調べてみた。
 現時点での結果はこんな感じになる(参照)。少し長くなるが引用する。


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www.amazon.co.jp/きっと、よくなる-本田-健/dp/476319531X - 79k - 2007年2月6日 - キャッシュ - 関連ページ


 先の本の著者本田健の公式サイトがトップになり、それにそのセミナーの紹介のようなリンクが続く。先日のNHKスペシャル「グーグル革命の衝撃 ~あなたの人生を“検索”が変える~」(参照)のように、まさにグーグルの結果リストがビジネスに影響するような結果となっている。しかし、NHKの番組も含めそのことはけっこうどうでもいい。私にとってあれ?と思ったのは、この結果ページの末尾にある関連検索のほうだ。

本田健 プロフィール   本田健 経歴   本田健 生年月日
本田健 セミナー   本田 健 写真   きっと よくなる! 本田 健

 なぜこんな関連検索をグーグルが呈示するのか最初は違和感を持った。まず前提となるのは、この関連検索の候補はグーグルという会社の人間の操作によるものではなく、グーグルというシステムが機械的な手順で表示したということだ。
 人々は「本田健」というキーワードについて知りたいのは、そのプロフィールであり、経歴であり、生年月日であり、写真なのだということだ。
 多少修辞のきつい言い方になるが、グーグルというシステムは、「本田健」というキーワードについて特定の関心を持っている。厳密性を期すならその関心は比喩的な意味としてもいい。
 私としてはグーグルに問いかけられたように思い、人々の意識を反映したグーグルの「意識」に関心を持った。つまり、私も、「本田健」というキーワードについてそのプロフィール、経歴、生年月日、写真に関心を持つように促された。そうしてみてわかったのだが、その情報がグーグルのデータベース、あるいは、グーグルというシステムの記憶に含まれていない。
 グーグル以外の手法で「本田健」というキーワードを頼りに情報を収集してみてわかったのだが、単著もあるというのに、書籍奥付などで公開された経歴のなかに生年、出身地、学歴、資格、公的所属といった基本要素が含まれていない。さらに探すと、写真を含めた情報は韓国東亜日報の記事に存在した(参照)。私は韓国語が読めないので自動翻訳を使って記事を眺めてみたのだが、早稲田の法学部を出ていることがわかった。たぶん、トップリストに見える「韓国語版はこちら」というテキスト断片も韓国語情報となんらかの関係があるのかもしれない。
 それにしても繰り返しになるのだが、「本田健」というキーワードについてグーグルが特定の関心を持っているというふうに私には思えるといった状態がここにある。
 ここでふと最上位の検索結果項目の参照情報が気になった。グーグルは、「本田健」というキーワードに対して、オントロジカルに結合するインターネットの情報をどのように理解(組織化)しているのだろうか。結果は私には意外というか少し驚きを伴うものだった(参照)。

「ビジネスの成功」と「人生の成功」神田昌典のサクセス ...これまで年会費6万円のゴールド会員向けに発行していた幻のファクス情報をなんと無料で、電子メールにて定期的にお届けします。業績アップの即効策が満載! さらに神田昌典の新刊情報、講演会情報、無料イベント等のご案内も差し上げます。 ...
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叶う夢だから心に宿る-夢を叶える宝地図望月俊孝公式サイト、フォトリーディング公認インストラクターとしてのセミナー案内、ホームスタディ講座の案内、宝地図セミナー、レイキの紹介。宝地図公式サイト「幸せな宝地図であなたの夢がかなう」著者.
www.takaramap.com/ - 36k - キャッシュ - 関連ページ

船井幸雄.com|TOP外反母趾のカサハラ ・ IRC株式会社 IRC株式会社 ・ 元気が出るセミナー(鹿島隆正氏) 元気が出るセミナー ・ デトックス「イオナミン」 デトックス「イオナミン」 ・ 美味しとんかつ 弥盛亭(いやしろてい) 弥盛亭(いやしろてい). 船井会長写真 ...
www.funaiyukio.com/ - 19k - 2007年2月6日 - キャッシュ - 関連ページ


 いったい何がグーグルのオントロジーを決定しているのだろうか。明らかに通常のオントロジーでモデル化される規範的な辞書を使っているのではない。インターネットという情報に加え、ウェブ2・0的な人々の参与や関心・行動のトレースをコーパスとして、グーグルのオントロジーが形成されている。
cover
オントロジー工学
 うまく説明できた感じはしないが、繰り返したい。グーグルは何かを知ろうとしている。

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2007.02.07

欲望を監視する社会の可能性

 雑記。先日出先のセブンイレブンに久しぶりに行ったのだが入り口で、おやっと思った。自動ドアになっている。セブンイレブンのドアは基本的に手動だったはずだが(しかも両方から「押す」だけで「引く」はない)、このところ自動ドア化が進んでいるのだろうか。と、気になって中に入るとなにやら明るい。改装したのか。床も滑りにくいような工夫がしてあるようでもある。
 上を見ると毎度毎度のコンビニお得意の監視カメラなのだが、気のせいか増えている。いったい何を監視しているのだろうと少し考える。監視カメラは二種類ある。いわゆるカメラと魚眼なのだろうかカプセル入りみたいなやつ。レジのところに四台くらいある。犯罪防止なのだろうが、案外店員の監視なのかもなとか意地悪い連想が働く。
 昼飯の弁当を買う。小さいカップラーメンをスープ代わりにと思ってあたりをきょろきょろ探す。いつも使っている店でないとレイアウトがわからないものだ。うろうろ見て回る。ちょっと俺って不審者みたいだなとか思う。ようやく発見。それにしても、なんで弁当とカップ麺と棚の距離が離れているのだろうと少し考える。もしかして、客層が違うのか。
 そういえばコンビニを使う客はそのタイプごとに店内巡回の行動パターンが違うはずだろうなとぼんやり思い、そのあと弁当を食いながら、もしかしてあの監視カメラっていうのは客層の行動パターンの検出に使っているのではないかと思いつく。あれだな、実験動物の行動研究みたいな感じだ。
 グーグルの検索結果リストはF字に読まれるみたいに、特定の客層のコンビニ内での行動パターンがわかれば、新製品とかその客層ターゲットの商品配置の効率を上げることができるはずだ。そんなことってあるのだろうか。さらっとネットを見て回ったがそういう情報はない。新聞の過去記事を監視カメラとコンビニであたってみると、犯罪ばっかり。というか、コンビニでこんなに頻繁に犯罪が起きているのかと考え直す。
 そういえば監視カメラが実にあちこちに増えてきた。私が沖縄から東京に戻ってきた四年前はこんなことはなかったんじゃないかと思うがどうなのだろう。犯罪の監視というより、人々の行動パターンを監視しているんじゃないかとしか思えない。

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1984年
ジョージ・オーウェル
 まあ、そうだという確信はまるでないのだが、仮にそうだとすると、監視者というのはいわゆる監視というより、人々の欲望の行方が知りたいのだろう。古典的な意味での監視社会というのは、ジョージ・オーウェルの「1984年」(参照)のように、人々の自由の暴発を権力者たちが恐れるが故に監視するということだった。だが、どこかで権力のあり方が変わり、自由を抑制するための監視というより、人々の欲望の行方を、システム(あるいは国家)が欲望するが故の監視になってきたのではないだろうか。なんというかジラール的な他者の欲望のように、システムあるいは国家や超国家が、人間の欲望を欲望するといった構図に変化しているのではないか。
 人間をシステムなり権力が支配した時代はいわば、特定の主体としてシステム中核に傀儡師のような「人間」が想定できた。そしてこれらは被支配の「人間」に照応していた。これが次にフーコー的なパノプティコン監視というシステムによって「人間」への内在と外部の権力が結びついた。しかし現在は、こうした「人間」つまり個の内在倫理に忍び込む権力は、「人間」を解体し、類的な匿名的な人間の欲望に馴致されるように変質しつつある、ということはないか。
 そういえばネットの世界でもブラウザーのクッキー情報などもうあちこちでしこたま蓄積されているはずだが、それがどういう結果を産出しているのかまるで聞かない。
 古典的な監視者はビッグブラザーでもあったが、未来の監視者は我々の欲望と引き換えにビジネスを行うビッグシスターみたいなものなのかもしれないと、まるでコラムの締めのようなことを書いて締めとする。

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2007.02.06

アジアにおけるイスラム教化・キリスト教化

 先日はてなの人気ブックマークのリストから、日本がなぜイスラム化しないのかということのレポート「アラブイスラム学院での講演」(参照)を読んで興味深く思った。以下、関連の雑文である。
 問題提起はこう。


調査の結果わかったことは、日本においてイスラム普及の障害になっているものは二つのタイプに分けることができるということです。―環境的な理由によるものと、ダアワ活動自体によるものです。ダアワ活動が個々の講演において扱われているため、環境的な理由を説明するためにこの講演会を開きました。

 環境にはいわゆる日本文化や日本人の民族性、歴史などが含まれているようだ。「ダアワ」は簡単には「布教」と言っていいのだろうが、イスラム教には布教がなく英訳的には「招待」とされているようだ。
 なぜ日本にイスラム教が普及しないのか。このレポートでは触れてないようだが、キリスト教が普及しないのと類似の理由だろう。あるいは、日本においてキリスト教が普及せずにイスラム教が普及するような可能性というのがあるとすればなんだろうか。まったくないわけでもないようには思えるが、想像しづらい。
 台湾でも韓国でも沖縄でもそうだがキリスト教徒の比率は日本本土より高い。あまり知られていないのだが中国本土のキリスト教人口は少なくない。もちろん正確な数値はわからないのだが、とウィキペディアを見ると興味深い指摘がある(参照)。

Estimates of Christians in China are difficult to obtain because of the numbers of Christians unwilling to reveal their beliefs, the hostility of the national government towards some Christian sects, and difficulties in obtaining accurate statistics on house churches. However, some analysts have estimated the number of adherents to be about 16% of the Chinese population, 10% of which are Roman Catholic.

 総人口の一六パーセントというのはあり得ないようにも思う。仮に一〇パーセントとすれば日本の総人口に近くなる。BBC”China's Christians suffer for their faith ”(参照)ではこう。

Getting reliable numbers about the number of Christians in China is notoriously difficult. Estimates vary between 40m to 70m Protestants, only 10 million of whom are registered members of government churches.

 最大で七千万人。ただ、これも抑制していてこの数値と見ることができるので、例えば布教に熱心な米国キリスト教派にしてみると中国はとても魅力のある布教予定地にはなるだろうし、その推察は実際の政治的な局面に今後さらに強く反映されるのではないだろうか。
 話をイスラム教に戻すと、世界最大のイスラム教国は言うまでもなくインドネシアである。総人口が二億人で、その多数がイスラム教徒である。また、バングラディシュやパキスタンなども強固なイスラム教国なので、イスラム教はアジア的な浸透力を持っているともいえる。
 ただ、実際には各ナショナリティがこれらをイスラム教のバリエーションを基底的に拘束しているのではないか。先のイスラム布教のレポートでは特に明言されていないがスンニ派であろう。これに対して同じイスラム教といってもシーア派はイラン文化というかペルシャ文化の歴史風土を強く反映しているように見える。その分、シーア的なイスラム教のアジアへの伝搬は弱いのではないだろうか。
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イスラーム文化
その根底にあるもの
井筒俊彦
 話が散漫になるが欧州はこのまま移民が流入していけば将来的にはイスラム圏になるという話をソースを忘れたがテレグラフか何かで読んだ。スンニ派的な穏健なイスラムが西洋近代化の枠組みと調和していけばいいように思うが、教義における柔軟性の鍵とも言えるイジュティハード(参照)においてスンニ派が一番保守的でもあるので、そうした穏和な未来世界を想定するのは難しいのかもしれない。
 この機に八一年刊行の井筒俊彦「イスラーム文化 ― その根底にあるもの」(参照)を読み直したが、ポパー説を援用しながら、この時点で文化の衝突とイスラムの重要性に触れていたことに驚いた。同書は現在のイスラム圏理解の基本的な書籍となるだろうし、講義録らしく井筒の書籍のわりには読みやすくわかりやすい。

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2007.02.05

線維筋痛症と産後鬱病のことを僅かに

 昨日知人と食事をしたおり女子アナが自殺したという話を聞いた。私はその分野に関心がなく、ふんふんと聞き過ごしていたのだが、産後というのと身体が痛む病気だということでよもやと思い、後でネットのニュースで確認した。

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線維筋痛症とたたかう
未知の病に挑む
医師と患者のメッセージ
 女子アナというので私は二十代の女性を想像していたが、四三歳のベテランとのこと。産後一年以内。病気は線維筋痛症(Fibromyalgia)とのことだ。自殺原因については子細にわからないし、あまり関心も持つべきではないだろう。ただ、産後一年以内ということと線維筋痛症という点に心は引っかかった。女性は産後一年以内に鬱になりやすいし、線維筋痛症は米国の患者数から考えると日本にも潜在的にかなり存在するだろうが、あまり日本社会では問題になっていないように以前から考えていたからだ。
 このエントリでは別段変わった見解を書くわけでもないし、現在苦しまれているかたに役立つ情報を提供するということにもならない。が、以前から気になっていたことでもあるのでこの機会に簡単に触れておきたい。
 線維筋痛だが、メルクマニュアル家庭版の情報が詳しく信頼がおける(参照)。線維筋痛には各種あるが、全身性線維筋痛については女性に多い疾患だ。

全身性線維筋痛は、女性が男性よりも約7倍多く発症し、痛みとこわばりが広がり、全身が痛む病気です。原発性線維筋痛症候群は、全身性線維筋痛のバリエーションの中では最も多く、若いまたは中年期の女性に起こり、基礎疾患がありません。

 原因はわかっていない。

全身性線維筋痛の原因は通常は不明です。原発性線維筋痛症候群も原因は不明です。全身性線維筋痛は、肉体的または精神的ストレス、睡眠不足、反復する疲労、外傷、慢性的に湿気や寒冷にさらされる気候、などによって悪化します。

 この疾患に私が関心をもったのは化学物質過敏症となんらかの関係がありそうな点だ。もっとも強い関係とは言えないし、まして原因であるというわけではない。同じくメルクマニュアル家庭版の多種類化学物質過敏症候群の項目より(参照)。

 多種類化学物質過敏症候群は、自然環境にごく普通に存在する多様な低レベルの化学物質にさらされることで誘発される病気です。
 この症候群は男性より女性に多くみられます。慢性疲労症候群患者の40%、線維筋痛患者の16%が、多種類化学物質過敏症候群を併発します。

 線維筋痛患(FM)、化学物質過敏症候群(MCS)、慢性疲労症候群(CFS)、にはなにか関係があり、さらにこれら全体に心理的な問題も関係しているように見える。ただし、心理的な原因で起きるというわけではない。あるいは心理的な症状は神経系の問題の副次的な表現なのかもしれない。また、遺伝的な要因も考えられるようだ。
 話が少し逸れるのだが、私の化学物質過敏症への関心は、嗅覚への関心に連なっている。ごく個人的な関心なのだが私は子供のころからなぜ嗅覚というのはこんなに人によって違うのだろうと疑問に思っていた。いわゆる味の感覚は嗅覚との総合でもあり、人の味覚の差異というものも不思議に思っていた。
 さらに微細な嗅覚が人間の無意識的な記憶と強く連結しているとしか思えないのに、あまり語られることがないようなのはなぜなのだろうか。嗅覚をトリガーする物質はほんの僅かなのに我々の無意識は実際にはかなり強く反応しているように思える。いわゆる恋愛といった人間関係においても嗅覚は少なくない比重を持っているように思える。だがあまり体系的に語られたことはないのではないか。
 話を少し戻して、もう一つの点、産後鬱病だが、これは一般的にはマタニティ・ブルーのように扱われることがあるが、そうした延長だけではないようだ。同じくメルクマニュアル家庭版の同項目より(参照)。

産後3日以内に生じる悲しさや惨めさなどの感情は、マタニティーブルーと呼ばれ、多くの人が経験します。こうした感情は通常は2週間以内に治まるので、あまり心配することはありません。産後うつ病はこれより重症の気分の変化をいい、数週間から数カ月間続きます。このタイプのうつ病は女性の約1%にみられます。さらに重症で、ごくまれなタイプの産後うつ病は、産後精神病と呼ばれ、精神病的な行動を伴います。

 線維筋痛症も産後鬱病も、一般的な人の生活では病気であると認識しづらい面があり、そうこうしている内にそれが深刻な人間関係の問題に波及することがある。そうした不幸にはある程度社会の側から予防が可能だろうが、私が無知なだけかもしれないが、あまりメディアで語られることがないように思える。

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2007.02.04

母に成りたい未婚女性

 先日レコーダーに貯めてある番組からNHK BS世界のドキュメンタリー「子どもがほしい」(前編) というのを見た。後編も少し見たのだが、前編のインパクトを自分が消化できないで頭が混乱している。こんなときはブログにでも書いてみるか。
 番組の制作は英国チャンネル4でちょうど一年前のものらしい。概要についてはグーグルのキャッシュに残っていた。ついでなんで前編後編部分を結合しておく。


 女性ひとりでも経済的な自立が可能となった現代、イギリスでは結婚しなくても子供はほしいと願う30代後半の女性が増えている。女性は、35歳を境に妊娠の可能性が低下するためだ。2回シリーズの前編では、夫や恋人がいない30代後半の女性4人が母親になるという希望をかなえるため、その方法を模索し、自らの決断に立ち向かう姿を追う。2回シリーズの後編は、第三者からの精子提供による人工授精で、妊娠を目指そうとする3人の女性の姿を追う。

 前半はその三十代後半の女性四人なのだが、実質的には三人。その映像の追い方がすごい。すごいリアルな感じだ。日本人の女性ならここまで見せるだろうかというくらいその存在感と主張がある。欧米人ってこうなんだよな引くなぁというのが率直な印象。
 彼女らは未婚または離婚で男性パートナーはいない。番組では妊娠可能かの検査場面が全員にある。各種の医学的な検査でその女性が妊娠可能という観点での年齢を告げる。三十代半ばで本人は若いと思っていたけど検査したら四十代という女性が泣いていた。こういう検査は日本にあるのだろうか。いずれにせよ、日本だと高齢出産もいいよみたいな雰囲気なのでこういう切迫感的なメッセージは嫌われるだろうな。
 ちょっと記憶が混乱しているが、私のまとめでは四人はこう。いい男の出会いのチャンスはないかな(これはまあだから論外でもいいか)、男を探して妊娠したい(実際番組の終わりで妊娠したがその実際の経緯がよくわからない)、人工授精にしちゃおう、養子を貰いたい、といった四ケースである。
 いずれも、母に成りたい、母に成らなくて自分の人生は完成されないというメッセージががんがん伝わってくる。そこまで母に成りたいものなのか、女というのは、というあたりで中年男の私は圧倒される。
 次に圧倒されるのは、男と精子提供者との認識の位相というか、え゛っそうなのかという驚きだ。未だにうまく言葉にならないのだが、精子への要求レベルがけっこう高い。ちょっと言い方は悪いのだが、子供をデザインしたいのかなといったような印象も受ける。この点は後編の頭に出てくるアフリカ系女性のケースでもそうなのだが、ルーツに繋がる精子が欲しいというのがあるようだ。前編ではユダヤ人女性にその傾向があった。女性によっては自分の民族の血を自分でつなげたいと思うものなのか。そういう血統的な民族意識っていうのはなんなのだろうと思った。
 人工授精のシーンも私にはけっこう衝撃的だった。映像的には別になんの衝撃的でもない。あー、今日の精子は元気いいわよぉ、ぷすっ、っていう感じだ。局所は映像には出ないけど、最中の映像はある。え、今のシーンって挿入かよ、みたいに見ている私のほうが三十センチずんと引いた。
 人工授精はけっこうお金がかかるようで、その分、効率よくうまく妊娠したいという経過も、現実にこうして映像として見れば、ビジネスとして見れば、当たり前なのだが、私などには想像もできなかった。
 この人工授精にトライしている女性は番組終わりでは恋人ができるのだが、恋人も人工授精を続けたらみたいに話していた。そういえばこの母親も、人工授精でも子供があるといいわねという感じだった。このあたりの感性と先の民族の血統を求めるというのと、そりゃ考え方の違いでどっちもあり、ということなのだが、私はけっこう頭が混乱した。
 ネットを見ると関連してこんな記事もあった。”Big Brother company's latest plan: 'sperm race'”(参照)である。あえて試訳は添えない。

Television producers were criticised yesterday over reports that they are developing a reality show in which men would compete for a chance to father a child and then take part in an on-air "sperm race".

In the show, which has been mooted by the company that makes Channel 4's Big Brother, up to 1,000 men would attempt to convince a woman to pick them as the father of her first child by impressing her with their intelligence, sex appeal and fitness.

A second sperm donor would be chosen on the basis of genetic compatibility, and the two finalists would then take part in the sperm race in which the insemination process could be filmed using new technology.


 これが今回の番組と関連しているのかよくわからない。
 番組に戻って、自分にとって何より意外だったのは、と言うこと自体本当に恥ずかしいことなのだが、養子が人工授精より難しいようにとらえている点だった。
 私は養子というのは、世界意識のはっきりしてない乳幼児が得られるのかと思っていたが、そうではない。いろいろ厳しい手順があって、彼女は六歳の女の子を貰うことになった。が、結果はダメになる。その理由が、彼女の姉の恋愛というものだった。何故それが理由?とか、当の女性も思うし私もそう思うのだが、いろいろ理由があるらしい。
 養子を受け入れる体制のなかでこれも意外だったのだが、父親像となる男性との交流が求められる点だった。未婚でも養子を得ることができるのだが、その子の父親像となる男性が生育環境に必要となるらしい。言われてみればそうだが。
 番組はNHKで放映されたため、NHKの解説員のコメントが番組の前後に入っていたのだが、ようするに日本では未婚女性は人工授精も養子も取れませんが参考になるでしょうみたいな感じだった。
 解説を責める気持ちはない。だが、番組を見ていて、後半途中で私は、どうよどうよ日本ってどうよと全員この番組見れぇとか頭がパニックになった。

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