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2007.02.03

機械は意識を持つか。コンピューターは意識を持つか。インターネットは意識を持つか。

 結論を先に書くと、機械は意識を持つか。イエス。コンピューターは意識を持つか。イエス。インターネットは意識を持つか。イエス。
 昨日「極東ブログ: デカルト的な考えによれば人間の身体は機械である」(参照)を書いたおり、私は意図的に機械主義についてオートマトンから始め、デカルトとその後継の機械主義を分け、「デカルト的な考えによれば人間の身体は機械である」とし、けして「デカルトの考えによれば人間は機械である」とは書かなかった。デカルト自身は人間の総体については機械とは考えなかったからだ。
 デカルトは、雑駁に言えば、人間の精神は別に存在し松果体によって身体と結びついていると考えていた。また、その精神こそが動物と人間との差異として考えた。このような人間の超越性についての考えの延長には現代ではチョムスキーの思想が存在する(彼はUGの構成性をピアジェが知性の基底を扱うような進化論的な獲得のプロセスモデルとして示さない)。また、非常に微妙なのだがベルクソンの思想もこの延長にある。が、その話は今回は触れない。

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意識する心
脳と精神の
根本理論を求めて
デイヴィッド・
J. チャーマーズ
 デカルトの松果体についての考えを今日支持する人はいないだろう。だが、デカルトが象徴的に端緒となった、人間をその精神を含めて機械と見る考えかた、つまり、オートマトンと見る考えかたは、現代科学の基礎にある。人間はその精神機能である脳を含めて機械として見られる。
 さてではその機械主義から、必然的に出てくる問いは機械は意識を持つかという問題だ。現代的には脳という機械は意識を持つかとしたほうがわかりやすいかもしれない。
 答えはイエスである。簡単な説明を選べばこうなる、なぜなら機械である我々は意識をすでに持っていることが前提とされるからだ。我々人間は機械である。脳も機械である。そして人間または脳には意識があるとされている。では、機械は(機械の有りようによっては)意識を持ちうると言うほかはない。そうでなければ、人間は機械ではない生気論的な要素が加わるというのだろうか。
 機械が意識を持つかという問いは、ロボットが意識を持つかという問いにしてもいい。こうすればさらに簡単に説明しやすい。ロボットは意識を持つのは、鉄腕アトムやドラえもんを想定してもいいだろう。彼らは意識を持っている。例外もある。鉄人28号はそうでもない。しかしジャイアントロボは最終的に意識を獲得したようでもある(テレビ版)。あるいは鉄人28号の意識は実は正太郎の意識のクローンであるロビーが担うことになっていた。
 ロボットの意識は、その脳であるコンピューターに問われる。その意味で、機械が意識を持つかという問題は、そのままコンピューターは意識を持つかという問題になる。この考えはソフトウェアエンジニアに問うてみるとはっきりするだろうか。コンピューターは意識を持つのは当然であり、ソフトウェアはその意識を表現したものだ、となるだろうか。いずれにせよ、意識をプログラムできるか?
 人間存在とその脳が機械であり、それらが進化の過程によって形成されたのなら、言わば発見的な手順によってプログラムされたことは自明である。であれば、意識はプログラム可能だとしかいいようがない。これを否定するには初期条件に神か何か知的存在よる意匠(デザイン)を想定するしかない。するかね?
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ウィトゲンシュタインは
こう考えた
哲学的思考の
全軌跡1912‐1951
 こうした問題領域には一定の、超越をもって解としたくなるような、陥穽的なアポリアがあるようだ。例えば、一般に話題とされる初期ヴィトゲンシュタインとは違い後期というか最晩年の彼は「私」という意識にある特権性を見ていたようだ。ゲーデルも、彼自身オートマトン理論の援用で不完全性定理を編み出したとも言えるが、後年のライプニッツへの傾倒も含め神の実在を確信しており、かなり雑駁に言えば、特殊な神秘論に傾倒したふうでもある。この問題はアポリアの回避、あるいは問題の意味の問い直しが起点になるかもしれない。
 この問題について、私は大森荘蔵の考え方を理解しようと努め、大筋彼の考え方に近いものを持つようになった。機械は意識を持つか。持つ、当然である、と。
 「物と心」(参照)で彼はこの問題の理路を振舞いから説明する。

 ロボットの意識の有無もまたこれらと同様、ロボットの振舞いがいかなる相貌で見えるかという問題であり、いかなる相貌で見るかはわれわれの知的、道徳的等々の素養に根ざし、逆にロボットに対するわれわれの知的、道徳的等々の態度の一表現なのである。


(前略)だがそのようにロボットに対してきた人が、ロボットと交渉が密接になり、ロボットのつきあいの歴史が積み重なってきた場合にはどうであろう。心のかたくなな人でないかぎり、いわば情が移るのではあるまいか。教え、教えられたり、いっしょに泳いだり、忠言を受けたり、看病をしたりされたり、危急を救われたり、同じ釜の飯を食べたり、つまり、深い「人」づきあいをした後には、彼のロボットに対する態度は変わってくるだろう。彼はロボットを傷つけようとはせず、その苦しげな振る舞いにはいたく心を動かされ、彼に対して愛情を持つだろう。このとき、彼はロボットを「無意識」の相貌では見ていないのである。少なくとも「迷い」の相貌で、あるいは「ロボット的な意識がある」相貌で、ときには「人なみの意識がある」相貌で見ているのである。

 ロボットと一緒に釜の飯を食うといった大森らしいシュールなドラえもん的な文体が愉快だが言っていることは単純で、我々の振る舞いが意識の有無を決定しているとしか言えないのであり、また人工知能はそのように発展するしかない。別の言い方をすれば意識の有無あるいは各様態を含む諸意識の存在は、リトマス紙のようなもので検出できるわけではない。蛇足ながら、繰り返しになるが、その意識の検出の志向は超越を志向する陥穽のアポリアとなるのだろう。
 大森はこうした振る舞いは彼らとの付き合いの歴史性に寄るとしている。

同じように、ある人にとっては「猫的意識」や「馬的意識」があり、虫めづる姫君にとっては「昆虫的意識」の相貌すらあっただろう。これらさまざまな派生的な相貌が、中核となる人間意識の相貌にコングロマリット的に連なってきている。ロボットの意識がこれに加わるとすれば、その連なり方は犬や猫の意識が人間意識に連なるしかたとは別系統のものとなるだろう。しかし、ロボットの振舞いがますます洗練され、ますます生き生きとしたものになるにつれ、その「意識をもつ」相貌はますます人間意識に連なるにちがいない。

 機械は意識を持つか。イエス。コンピューターは意識を持つか。イエス。コンピューターに知性の振る舞いを期待すれば人間知性を拡大した意識を持つようになるだろう。
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大森荘蔵著作集
(第4巻)「物と心」
  しかし大森の指摘で重要なことはロボットが意識を持つか持たないかという問題より、それがどのような意識を持つかという点だ。つまりこうした存在の意識のあり方は人との関わりの歴史が決定するとしている。この含蓄は興味深い。動物など諸生物の意識は人との関与の関係性や進化的な発現によって限定されており、当然ながら動物としての人間の意識のあり方もその進化過程による類縁の性格を帯びる。これに対して、ロボットやコンピューターは最初から人間がそれらに対して求める道具的な関係性、あるいは拒否されない欲望の関係性のなかでその意識が発生することになる。この示唆は最後の問い、インターネットは意識を持つかにも関連する。
 インターネットは意識を持つか。イエス。これは一面では簡単というかトートロジーだ。なぜなら、インターネットの情報性は人の意識の断片の参与を含みこんでいるからだ。むしろこう問わなくてはならない。インターネットは人の意識を総合した上位の意識を持つか、あるいは、インターネットはどのような意識を持つか。
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ようこそ地球さん
星 新一
 答えはその上位のレイヤーを自己組織化する情報システムへの創発性による。ここで創発にグーグルの進化を比喩にしてもいいかもしれない(特に学習による検索を越えて知的処理を加えたコーパスベースのオントロギーが採用されつつある)。人間がインターネットで何をしているか。それは、人がその新しい関係性の歴史として、人が求める神の意識というものを出現させようとしているのだろう。


追記
 ブログらしくおふざけも入れた議論をしたせいで不要な誤解や揶揄・罵倒のつけいる余地を与えたかもしれない。またそもそも粗雑な議論であったかもしれない。
 コメント欄にて私の考えが大森哲学とかけ離れているといった指摘を受けた。コメント欄に返信してもいいのだが無用な議論を避けることと、この問題は基本的に他我論の構図を持っているということを示す意味でも、彼の晩年思想に近い「時間と自我」(参照)の序文を引用しておきたい。昨今の流行でいえば「マリーの部屋」問題にも関連するのだろうが。


 今一つの主題である自我の概念についての探求では、それとペアになる他我概念を避けて通るわけにはゆかず、本書では自我よりも他我が主題であるかの如き観を呈している。周知のように他我については他我問題(Other Mind)という名で主として英米の分析哲学の中で公認の難問とされてきた。私はそれを難問とする原因を取り出すことから始め、つでその原因を回避する様に他我概念の意味をいわば設計し、その設計に従って他我を製作するという方法をとった。この過程で最も参考になったのは、全盲の達っちゃんという子供が青眼の子供たちと自然な交信ができたという幼稚園の報告であった。それは視覚経験を全く異にする、それゆえ極端に隔絶した他者同士の間で相互理解が可能であることを示すことで哲学者の哲学的議論を嘲笑するものだからである。それゆえ私のとった方法は、現実の日常生活の中で実用されている他者の意味をお手本にしてそれにできるだけ近い意味を意識的に制作してみせることであった。

 この文脈でという限定になるが、ここで記載されている盲児をロボットに置き換えれば、エントリ中に引用した「物と心」における大森の考えに一致することは明らかであろう。応答のメカニズムが意識の有無ないし諸意識の様相の有無を規定するのではなく、我々人間社会の経験的な歴史的な応答のありようから他者の意識が制作されるのであり、ロボットであれ変わることろはない。
 余談だが同書の大森の議論では結果的に「クオリア」を無用とすることになるのも興味深い。

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2007.02.02

デカルト的な考えによれば人間の身体は機械である

 柳沢伯夫厚生労働相が先月二七日、松江市で開かれた島根県議の会合の講演で「産む機械、装置の数は決まっている。あとは一人頭でがんばってもらうしかない」と発言し、その場で本人が失言に気が付いて「機械と言ってごめんなさい」と謝罪しさらに「産む役目の人」と訂正し、会合では特段問題もなかったものの、その後なぜだか、一度たりともは女性を「産む機械」に喩えた発言をした事実は許し難いということなのか、政局を左右する大問題になり、野党は柳沢厚労相の辞任を求めるに至っている。
 まったくもって女性を機械に喩えるといったことは人間の尊厳を踏みにじる許し難い考えかたであり、そのような思想を持った人間は政治の場から即刻取り除かなくてはならない……ということなのだろう。違うかな。
 私にはよくわからないが、まあ、そういうものだろうと思うことにしておく。ここで疑問とか抱いて、どうなんでしょね、とか書いたら、変なとばっちりとか罵倒のコメントを山のように戴くことになるかもしれない。それは嫌だな。やっぱ、黙ってよ。
 ところで、機械といえば、人間の身体は機械であると考えられる。
 私がそういう考えを持っているわけではない。西洋哲学的には、そういうもんだということで、ウィキペディアのAutomatonを読んでみよう(参照)。
 まず、Automaton(オートマトン)とは何か。


An automaton (plural: automata) is a self-operating machine.
(試訳)
オートマトンとは、自律的に動作する機械である。

 つまり、他に操作者(operator)を必要としない機械を指す。
 さて、我々近代合理主義、つまり似非科学や偽科学を否定した現代文明の人間観の基礎を築いた、あるいは表現したとされるデカルトはこう考えている。

A new attitude towards automata is to be found in Descartes when he suggested that the bodies of animals are nothing more than complex machines - the bones, muscles and organs could be replaced with cogs, pistons and cams. Thus mechanism became the standard to which Nature and the organism was compared.
(試訳)
オートマトン(自律機械)に対する新しい対応はデカルトによって見いだされた。それは彼が、動物の身体とは複雑な機械以外の何物でもないと示唆した時のことだ。つまり、骨、筋肉、諸器官は、歯車、ピストン、カムなどに置き換えることが可能である。よって、その機械としての働きは、自然と生物体が比較される標準となる。

 こうした我々の似非科学や偽科学を否定した現代文明の考えかたも哲学的には一つの立場に過ぎないのかもしれないということで、この考えかたを哲学的には機械主義(メカニズム)と呼ぶ。ウィキペディアの項目にはこうある(参照)。

In philosophy, mechanism is a theory that all natural phenomena can be explained by physical causes. It can be contrasted with vitalism, the philosophical theory that vital forces are active in living organisms, so that life cannot be explained solely by mechanism.
(試訳)
哲学において、機械主義という理論は、すべての自然現象が物理学的な原因によって説明できるとするものである。これは、生気論と対立している。生気論の哲学的な理論では、生命力は、生命器官内で活性する。それゆえ、生命というのは、単純に機械主義によっては説明できないとするのである。

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生気論の歴史と理論
ハンス・ドリーシュ
 読んですぐにわかるように生気論とは似非科学であり偽科学であり、ブログの世界にあっては許し難いものである……まあそんな雰囲気。空気を読めと。ほいで、正しい科学的な機械主義的な見地からすると、生命現象はすべて機械として扱えることになる。例外はないと思われるので、たぶん、まあ、ああしたこうしたこともすべて機械と見なされるはず。
 この考え方はデカルトよりもさらに、医学者でもあり哲学者でもあるジュリアン・オフレ・ド・ラ・メトリー(Julien Offray de La Mettrie)(参照)の「人間機械論」に顕著だ。

37歳の時に著した『人間機械論』は、霊魂の存在を否定し、デカルトの動物機械説を人間にも適用し機械論的な生命観を提唱した。ラ・メトリーはその著作で、足は歩く筋肉であり、脳髄は考える筋肉であるとした。100年近く前にデカルトが唱えていた人間を精神と肉体とでできた機械(デカルト的二元論)とみる発想よりも「機械論」に徹していた。

 インターネットを見ていたら、ジュリアン・オフレ・ド・ラ・メトリーの「人間機械論」の英訳があった(参照)。著作権ももう切れているだろうしあって不思議ではないのだけど、便利な時代になったものだ。

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2007.01.30

埼玉県の競輪事業とか

 あれは何だったのだろうか。社会党か共産党の集会だったのではなかったかとも思う。なぜそんなところに自分がいたのかも思い出せない。私が小学生のころだから昭和40年代である。映画を見せられた。話は、父親がギャンブルに狂って家庭が破壊していく悲惨と人情と社会正義の物語だが、子供心にその雰囲気が異様に怖かったことと、その諸悪の根源が西武園だということで、子供心に楽しい遊園地裏というのは怖いんだと理解した。ありがたいトラウマである。おかげで私はこの歳までギャンブルというのをやったことがない。抑圧がものすごくて関心ももたない。ついでにスポーツにも関心がないのはなぜだろうかと思うがネタな話はさておき、今朝のラジオで所沢市が競輪事業からこの三月いっぱいで撤退するという話を聞いた。へぇ。
 所沢市の競輪事業は昭和二十五年から始まっていて、西武園競輪場で年二回都合十二日間競輪を開催していたのだそうだ。公営ギャンブルというやつだ。胴元であるな。上がりは市財政になるはずだが、平成十年度を境に赤字が目立つようになり、十七年度は五千五百万円の赤字。十八年度も四千万円の赤字見込みとなり、それ以前の利益の繰越金で補填ができなくなり、同市は埼玉県に撤退を申し込んでいたとのこと。簡単に止めるわけにもいかないのだな。
 市と県の話し合いで市は県に対して従業員の離職に伴う慰労金・損失保証金として二億六千万円を払うことで合意した。追い銭と言ってはいけないのだろうが、損失が年間四千万円であるのに停止に二億六千万円というと六年分くらいということか。ふーん。
 西武園競輪場(参照)についてはこう。


1950年(昭和25年)5月22日に開設。開設当初は村山競輪場だったが1954年(昭和29年)5月から西武園競輪場に変更となった。1992年(平成4年)6月から大規模な施設改修工事が開始され、1997年10月に完成。客席がすべて屋根で覆われた、独特の形状へと変貌した。

施設の所有者は西武鉄道。実施は関東自転車競技会。主催は後述。1周は400m。電話投票での競輪場コードは26#。


 所有は西武鉄道ということだ。そりゃね。
 所沢市サイドのこの問題の経緯を調べると、へぇってな話がある。〇一年のものだが読売新聞”競輪開催告示 経済産業省、所沢市を削除=埼玉”(2001.4.4)より。

 競輪事業の赤字対策で、所沢市が日本自転車振興会へ納める交付金の不払いを宣言したことを受け、経済産業省は今年度の自治体の競輪開催回数を定める告示(二日付)から、同市を削除した。不払いに対して開催権をはく奪する事実上のペナルティーで、同省は「支払えば告示を見直して開催を認める」としている。

 経済産業省が日本自転車振興会との関係で所沢市を恫喝していたわけですね。というかいろいろもめていたらしい。知らなかった。
 交付金回りについては、読売新聞”[大手町博士のゼミナール]岐路に立つ、公営ギャンブル 税金で赤字補てんも”(2001.9.4)ではこう説明されていた。

 日自振への交付金は、自転車を含めた機械工業の振興に売上金の1・7%が充てられるほかに、その他の公益事業の振興にやはり1・7%が使われている。自治体側には自転車関連産業以外に交付金が利用されることへの反発が根強く、二月には西武園競輪を開催する埼玉県所沢市が、交付金の一部の支払いを一時、拒否する騒ぎも起きた。

 世の中の仕組みってやつですね。
 関連してだが、二七日付け日経”埼玉県の競輪事業、来年度からの包括委託業者決定”(参照)ではこんな話があった。

埼玉県は26日、競輪事業の運営を包括的に委託する民間業者を発表した。車券などのコンピューターシステムを開発・販売する日本トーター(東京・港、福島晋社長)で、委託は来年度からの5年間。県が年間売り上げの0.85%(最低でも3億7000万円)の収益を受け取り、赤字補てんをしない「収益保証型」の契約で、極めて県に有利な内容となった。

 対象は大宮競輪場(さいたま市)と西武園競輪場(所沢市)で開催する県内の全24レース。競輪事業は県以外のさいたま市、川口市など開催自治体が累積赤字を理由に相次いで撤退を表明したため、来年度からは県が一括で開催を引き受けることを決めていた。


 胴元は埼玉県になり運営は日本トーターということだ。これって昭和を懐かしむ親孝行爺さんじゃなかったっけと見るとそうだ(参照)。

日本トーター(にっぽんとーたー)は東京都品川区に本社を置く、公営競技の業務委託やトータリゼータシステム製造を主な業務とする企業。

競艇の生みの親笹川良一の子である笹川尭が設立に関わり、ほとんどの競艇場での設備運営に携わり約半数の公営競技場で同社の製品が使用され、運営を行っている。特に船橋オートレース場と浜松オートレース場では車券発売、従業員管理、開催広告に至るまでの完全委託を受けており、その重要性は高い。


 別にきな臭い話があるわけではないが、世の中ってそういうもんかな、と。
 公営ギャンブルも運営次第では儲かるという展開になるのでしょうかね。団塊世代が昭和を懐かしんで興じるとか。

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2007.01.28

自転車は歩道を走れと、では歩行者を何処を歩くべき

 まいった。朝日新聞が学校給食費を「払わない」は親失格だ(参照)とか言っているのは毎度ながら世間も人情も統計の見方もわからんやっちゃなと思うのでどうでもいのだが、こっちの話にはまいった。こっちの話というのは、自転車は歩道を走れ、だ。さて、では、歩行者はどこを歩けばいいんだよ。
 まいった理由は、結論を先に言うと、じゃ、自転車はどこを走ればいいんだよという反論で議論がめちゃくちゃになるからだ。車道を走って事故れってかとか批判されるわけだ。
 つまり、つまりだね、この問題は、歩道で自転車事故に遭うリスク+人様に向かってチャリンとか鳴らすんじゃねー不快感、に対して、これから膝の痛むよろけた老人自転車やケータイメール中・無灯火・二人乗り若者自転車が車道で事故+自動車業界の都合、という二極のリスクを社会がどう選択するかということだ。
 ちょっと話が急ぎすぎた。
 教えてもらった情報からなのだが、ブログ「松浦晋也のL/D」エントリ”よびかけ:自転車を歩道に閉じこめる道路交通法改正に反対のパブリックコメントを”(参照)が詳しい。


 警察庁が、次期国会の道路交通法改正で、自転車を原則車道通行から、原則歩道通行へと変更しようとしている。
 これはとんでもない暴挙だ。こんな無理筋の法改正を許してはならない。
 この問題については、“自転車ツーキニスト”で有名な疋田智氏が精力的に反対運動を組織している。
 
疋田氏のメールマガジン「週刊 自転車ツーキニスト」
 
 疋田メルマガから、現状を簡単に簡単にまとめると、警察庁は、自動車の車道における制限速度を引き上げようとしている。そこで邪魔になる自転車を歩道に上げようとしているのだ。
 ところが現在の統計では自転車の事故は出会い頭の衝突が多い。つまり歩道を走行していた自転車が車道を横断する時に自動車と衝突するのだ。もちろん歩道の歩行者は自転車に脅かされている。
 普通に考えるならば、自転車を車道オンリーにしてもおかしくはない状況なのに、逆をやろうとしているのである。
 どうやって逆の話を通すか。
 警察庁はその部分を隠蔽して隠蔽して、いかにも官僚的な言葉遣いで、一見強制ではないように読めるが、実は警察が自由に自転車の車道走行を禁止できる条文を作ろうとしている。

 この話を私が知ったのは昨晩である。パブリックコメントの締め切りは今日なので、率直に言って焦ったし、この問題の構図を私が十分に理解しているとはいえない。なので、ホワイトカラー・エグゼンプション問題を残業代ゼロにマスメディアがすり替えたような問題のすり替えを私がしている可能性もある。その点は関心ある方は資料に当たって考慮して欲しい。
 私個人は、歩道を自転車が走るのは大反対であるし、基本的に、それが許可されていない歩道での通行はべたな違法なので、数年前までことあるごとに自転車をしかりとばしてきた。そこから得た教訓はいくつかある。特に二つある。
 一つは、違法に歩道を走る自転車の運転者に何を言っても、どう言ってもほとんど無駄だということ。お巡りすら違法に歩道を走っているのを数度しかりとばしたが逆に不審者のごとく扱われたこともある。
 なぜダメなのか。私の個人的な観察での結論だが、そもそも市中、違法に歩道を走っている自転車の大半は自転車に乗る必要がないのに乗っている輩ばかりなのだ。もっと単純に言えば、自転車で二十分以上の距離に利用されているわけではない。大半は三十分も歩けばいい距離をちんたら自転車で走行しているのだ。歩けよと思う。だがそれができない人たちなので、その時点で何を言っても通じないのはしかたないんじゃないかと思うに至った。また、自転車走行が認可されている歩道でも歩行者が優先され、歩行者の歩行を自転車はじゃましてはならないのだが、後ろからチリンと鳴らす馬鹿がいる。日本語しゃべれないのか以前に、人間と人間が向き合う基本ができてない。こういう人に何を言っても無駄だとしみじみ思った。
 なのでせいぜいの妥協点で私の主張は、以前に書いたように、「極東ブログ: 自転車に課税しろ」(参照)くらいに留まる。
 もう一点は、私は個人的にこの問題を警察と話し合ったことがあり、警察は口頭でだがしぶしぶというかいやったらしく自分たちの違法性や取り締まり怠惰を認めた。そこでなにが起こったか? 呆れたことに自転車通行禁止の歩道を許可に変更したよ。煩い市民をさっさと黙らせろだ。やるなぁと思った。
 この一件はしみじみ考えさせられた。警察もすげーことするなというのではない。しかたがないのだろうか、ということだ。
 老人がふらふら歩くような自転車走行で幼児にぶつかって怪我を負わす自転車事故と、その老人が車道で事故る自動車事故と、どっちか選択、という判断を公的にするなら、自転車事故が軽視されるのはしかたないのだろう。それに、日本はさらに自動車社会にしなければならない圧力がある。
 かなり逡巡する。
 パブリックコメントは私は取り敢えず控えることにする。問題の構図がよくわからないのと、重症事故と軽傷事故では後者を選ぶしかないかという暫定的な私の判断からだ。ただ、正直言ってその私の判断を人に勧めることはできない。
 しいて言えばこのエントリをもって私の取り敢えずのパブリックコメントにしたい。つまり、急いで法改正しないでほしい。


関連資料

●道路交通法参照


第54条
車両等(自転車以外の軽車両を除く。以下この条において同じ。)の運転者は、次の各号に掲げる場合においては、警音器を鳴らさなければならない。
 1.左右の見とおしのきかない交差点、見とおしのきかない道路のまがりかど又は見とおしのきかない上り坂の頂上で道路標識等により指定された場所を通行しようとするとき。
 2.山地部の道路その他曲折が多い道路について道路標識等により指定された区間における左右の見とおしのきかない交差点、見とおしのきかない道路のまがりかど又は見とおしのきかない上り坂の頂上を通行しようとするとき。
2 車両等の運転者は、法令の規定により警音器を鳴らさなければならないこととされている場合を除き、警音器を鳴らしてはならない。ただし、危険を防止するためやむを得ないときは、この限りでない。

第63条の4
普通自転車は、第17条第1項の規定にかかわらず、道路標識等により通行することができることとされている歩道を通行することができる。
2 前項の場合において、普通自転車は、当該歩道の中央から車道寄りの部分(道路標識等により通行すべき部分が指定されているときは、その指定された部分)を徐行しなければならず、また、普通自転車の進行が歩行者の通行を妨げることとなるときは、一時停止しなければならない。

●警視庁のホームページ 「交通安全広報用テープを作成しました」参照


 自転車のマナーが大変悪くなっています。
 信号無視、スピードの出し過ぎ、二人乗りなどは交通違反です。
 歩道は歩行者優先です。ベルを鳴らす前に、降りて下さい。
 交通事故を起こしてからでは、遅すぎます。
 交通ルールを守りましょう。


●ウィキペディアより 日本の自転車参照


自転車の通行路と位置づけに関する問題
さらには歩道における徐行と歩行者優先の義務が遵守されないことも多い。ベルで歩行者をどけようとする行為は、原則として禁じられているにも関わらずよく見受けられる。これにとどまらず、歩行者を巻き込んだ事故も発生しており、時として重傷や死亡という重大な結果を引き起こす。自転車といえども人を死傷させた場合は重過失致死傷罪(5年以下の懲役若しくは禁錮又は100万円以下の罰金)に問われうる。また自動車等における自動車損害賠償責任保険にあたる自転車総合保険については、強制加入もなく普及しているとは言い難いうえ、近年は損保会社の取り扱いも減っている。保険が付帯するTSマークも一般的とはいえない。無保険状態では、人を死傷させた場合、巨額の損害賠償金を自己負担し、あるいは自己破産することもありうる。


●(交通)視覚障害者 自転車にヒヤリ/東京 (参照


視覚障害者の多くが歩道を走る自転車にヒヤリとした経験を持つことが、NPO法人「コミュニケーション・スクエア21」(東京都新宿区)のアンケート調査でわかった。車道では、交通弱者の自転車が、歩道では逆に、障害者を脅かしている実態が浮き彫りになった。


質問と回答の主なものは以下の通り。

歩道などを歩いていて、「ヒヤリとした体験があるか」(複数回答)
 全員が「ある」と回答。
  自転車関連が最も多く25人と4分の3を占めた。
  「自転車と接触して白杖が曲った」放置自転車にぶつかり、軽い怪我をした」等の深刻な事例も有り。
  横断歩道で横断中に、すぐ前を自転車や自転車が横切ったなどと答えた人が13人。
  歩道のない道路で、トラックなどの荷台や、ミラーにぶつかるという答えも目立った。
自転車の接近が察知できるか
  「音や雰囲気でなんとなくぼんやり判る」16人。
  「全く分からない」との回答が4分の1にあたる8人。
自由回答
  「自転車の人はどんな狭い歩道でも、ほとんどスピードを緩めてくれない」など、マナー違反を問う声が強かった。


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