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2007.11.23

その後の三つの事と二つの買い物

 ちょっとばかしアフィリっぽい話なんでうへぇなかたはスルーが吉ですよ。では、その後の三つの事と二つの買い物。
 水泳の話。前回は「極東ブログ: バタ平泳ぎと背面平泳ぎ」(参照)だったかな。その後も週二回くらいのペースで泳いでいる。あまり進歩しない。このまま飽きてしまうかなと自分に懸念を持っていたがそうでもない。単純な話、裸で水のなかでばちゃばちゃというのは楽しい。が、外気が寒くなるとプールの人も減る。そしてなんというかマジ泳いでいる人とマジ歩いている人が残る。水中ウォークというのか。健康にいいのでしょうかね。痩せる? 水泳というのは体脂肪は落ちづらいと思うが、でも私はしだいに落ちてきましたが。スポーツマン風の若い人も歩いているのでリハビリなのかも。こういう風景も面白い。いろいろトライしていたバタフライだが、「極東ブログ: バタフライが自然にできた」(参照)の「ゆっくり長く泳ぎたい! 背泳ぎ&バタフライ編 ゼロからの快適スイミング」(参照)のフラット型も普通にできるようになった。というか、かなり低速なバタフライができる。クロールでもブレストでもそうだけど微妙にいろいろなフォームがありそうだ。先日NHK「アインシュタインの眼」でフィンスイミングというのを見て、ああ、これこれ、とか思った。あのお魚やイルカのようなウェービングが快感だよな、と。専用プールでないとフィンは利用できないし、フィン的に足とコアをどう効率よく動かすか……ってな関心はあり。精進精進。
 ペリエの話。「極東ブログ: 炭酸水の夏」(参照)の続き。その後アマゾンでマレーシア品をぼこぼこ買うようになった。で、品質なんだが、飲んだ感じは国内品と同じ。炭酸のきつさも同じでした。ただ寒くなったので飲む量は減って、なぜか最近はハーブティとか飲んでいる。昔からセレッシャル・シーゾニングは好きだったのだけど最近のお気に入りは、「ベンガル・スパイス」(参照)。シナモンきっつぅカルダモンもかよの香りなので日本人向けじゃないところが大好き。あと国産だけど「ウィルキンソン ジンジャーエール」(参照)もよく飲む。うひひ。
 コーヒーの話。「極東ブログ: 普通に人が知っていることで私が知らなかった三つのこと」(参照)の続き。たんまり買ったコーヒーも切れてさてリニューということで「ドリップ徳用コーヒーマニアコク深焙煎165袋」(参照)を買った。これがうまい。激ウマとはいかないし、さすがに本格派からはこんなんでうまいんですかとか失笑されそうだけどこれよりうまい茶店に行くのが難儀なくらいうまい。スタバとはちょっと質が違うので比べづらいが。で165袋って多過ぎるし、実際頼んだらげげげという人もいるかもしれない。そのあたりは、賭けですかね。私の騙されますか? ちなみにこれ私の飲み方だと一回で二杯分。ドリップ時にもキャリーマグを使うけど、保熱性のいいキャリーマグがあるとさらに便利。
 で、三つの話は以上。
 あと二つの買い物の一つは「ハタ バランスディスク DK380」(参照)。よくあるバランスデスクでもっと安価なのもあるけど、これが買ってみたらなかなかグッド。別所にも書いたけど、空気を弱めに入れて、仰向けに寝て背中や腰の下に入れて金魚体操みたいにふにゃふにゃしているとマッサージ的。気持ちいい、というそんだけの品物。中年にグッドな製品ですっていうか、意外と若い人のほうが背筋や腰の筋肉はこっていそうだけど。アマゾン評には臭いとあるけど私は特にどってことなかった。ああ、いかん、忘れた。バランスディスクなので、もちろん腹筋とか鍛えるのに使える。座禅とかにも使える(後ろにひっくりかえる危険性はありなので曹洞宗式には向かない)。
 もう一つは、「充電式気泡浴器 スパリゾート EH2901」(参照)。詳しい話は「コラム:家電製品ミニレビューナショナル「スパリゾートEH2901」」(参照)にあるけど、ここで書かれているほどの強力なもんじゃなくて、泡出てるあわ、みたいな脱力感なのであまり期待しないこと。でも私はけっこう気に入ってしまった。買った理由は、先日ジャグジーの歴史というか、Jacuzzi(参照)に関する話を読んでいてそういえば実家に泡風呂器があったなと思いだし、今ではもっと進化しているかもと探してこれを衝動買い。最初から大して期待してなかったせいもあるが、へぇみたいな製品だった。泡風呂が楽しかった子供の頃の記憶も関係しているのかもしれない。これでバスソープがあれば完璧!とか少し思っている。

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2007.11.22

[書評]なぜ若者は「半径1m以内」で生活したがるのか?(岸本裕紀子)

 「なぜ若者は「半径1m以内」で生活したがるのか?(岸本裕紀子)」(参照)が出版されたのは9月中旬。それから1か月以上たち、この本がどう読まれているかと思ってぐぐってみると、グーグルのせいかもしれないけどあまり手応えがない印象だ。自分ではけっこう面白かったのでちょっと意外でもある。

cover
なぜ若者は
「半径1m以内」
で生活したがるのか?
 最近の新書の読まれかたというのもよくわからないがブログの世界での反響はあまりなさそうだ。とのっけから中心課題につっこむと、この本のテーマ層はブログみたいな層より若いケータイ文化の層だからなのかもしれない。でも、自分が見る限り、けっこうはてな村の深層と関連がありそうな感じもするし、twitter文化なんかもべたに関連しているでしょとも思う。とか言ってもうまく通じませんね。
 ちょっと話を戻して、本書のタイトルをぐぐると毎度ながら書評ブログというか献本ブログというか小飼弾さんの”404 Blog Not Found:書評 - なぜ若者は「半径1m以内」で生活したがるのか?”(参照)が上位にくる。他に、産経の”【書評】『なぜ若者は「半径1m以内」で生活したがるのか?』岸本裕紀子著 - MSN産経ニュース”(参照)があるにはあるけど帯書き以上のものではない。で、どちらもキーワードである「半径1m以内」をテーマにしているのだが、そのあたり私はけっこう違和感があった。
 たしかに本書の表題としては「半径1m以内」をキーワードにするのは売り手の創意があるかなという印象はあるのだが、読んでみるとわかるが、このキーワードは論旨のピヴォットにはなっていない。はじめに部分に言及されているが、どうも新書タイトルが決まってからか、マーケット用にコンセプトを調整したふうでもある。いずれにせよ、こじんまりと身近な人間関係というのを「半径1m以内」という比喩で表現したというのだが、比喩の適切性は低い。
 というところで、こじんまりと身近な人間関係を結ぶ若い人の生活様式という問題は、ある意味で曖昧に印象的につづられる。だがそれが外しているというわけでもない。著者は私より年上で団塊世代に近いせいか、その世代のスタンスとプラス、若者文化への理解というあたりの自分語りに読めないこともない。
 つまり、テーマが現代社会と若い人の生活様式のある種の特徴を描きつつあるのだが、その「なぜ」の部分が見えてこない。あるいは見えるような方法論は提示されていない。そして、ちょっと踏み込んで言うと、グーグル検索の結果の薄さだけでもないのだが、当の若い世代もまた、団塊世代にもこの問題はあまり響いていないように見える。
 テーマ自体の感触がないわけではない。それどころか若い人への上の世代のある違和感は、世代スタンスを離れてもかなりあると言っていいだろう。このあたりのテーマ性は、なんとなくだが、マスメディアやネットでは「失われた10年」や「ゆとり世代」のような国家と連想された制度の側で答えを見ようとしている形骸化した傾向がありそうだ。が、むしろ本書はそこには距離を置いている。
 なにが本質的な課題なのか。つまり、小さい生活圏内ということではないとしたら。
 こうした疑問との関連で、私が本書で一番強い印象を受けたのは、いわゆる身近に限定された行動様式というより、人間の連帯についての、現代の若者特有の奇妙な疎外意識の表出だった。本書はもっと簡単に「ありがとう現象」として言い当てている。感動のスポーツ番組などに対しての若い人のリアクションについて、こういう現象を描き出している。

 選手のみなさんは僕らに勇気をくれました。
 試合を観て、元気とパワーをいっぱいもらいました。
 感動をありがとう、といいたい!

 ちょっとずっこけた言及をすると村上春樹もそうらしいが、私は球技とかゲームとか人が群れて熱中するものの大半に関心がないというかチーム意識で高揚するものにまるきり関心がないという人なので、そもそもこういう感動している人の横でマンゴーラッシーとか頼んで飲んでいるくらいなものだが、それでもそれって奇妙だなとは思っていた。若い人の素直な情感のありかたというより、うひゃなんだろこれというどんびく感じだ。
 著者はもう少しアグレッシブに直接的な、多分に世代的な印象をこう語っている。

 この言葉自体は素直な賞賛の気持ちから出てくるものだとわかるし、選手たちが大変な練習の末に勝ち取った成果については称えたいと思う。がしかし、である。
 どうしても気になるのは、人から勇気や、元気や、パワーや感動をもらうという発想と、それで満足という姿勢なのである。
 それを受けて、自分も人に勇気や、元気や、感動を与える人間になりたい、なります、というならまだいいのだが、そんな言葉はあまり聞こえない。

 それは程度の問題かもしれないなとも思うが、続く言葉には説得力がある。

 今から十数年前になるが、ある一流サッカー選手の引退試合のあとのことだ。マイクを向けられたサポーターの男性が、彼は30代半ばで2~3歳のくらいの子供と一緒に来ていたのだが、「選手たちがくれたこの感動を子供にもずっと伝えていきたい」と涙ながらに語っているのを観て、「感動は自分が何かをやることで、子供に見せていくものじゃないの」とちょっとしらけた気持ちになった。

 このしらけ感は私などもわかる。世代の感覚かもしれない、留保は必要だが。

 もちろん、彼らにしても、深い意味まで考えていっているわけではなく、よく聞くフレーズだし、流行っぽい表現だから口からふと出てしまうだけかもしれないが。が、それにしても、勇気とか、感動とか、日常生活ではめったに経験することがないような感情の表現を、あまりに安易に使いすぎているとは思う。

 私はもうちょっと思うことがある。こういう若い人たちは、そういう感動を仲間と頷きあって感動の輪を限定してそこでまったり安全を感じたいのではないか。つまり、それは何かしら外側への無感動な寒い世界に怯えた防衛の反応なのではないか。
 というかそういうものがネットでも機能しはじめているように思う。もうちょっというと、この感動は根の部分に恐怖感やネガティブな情感があり、感動による領域設定と排除の機能を持っている。だから、この感動の疑似集団は感動をコアにしていながら、その外部にむしろ悪意を放出するのではないだろうか。
 筆者はこの感動を「ありがとう現象」に失恋の歌の動向を重ねて見ている。

 勇気で思い出したが、最近流行している歌では、失恋の歌が少ない。失恋ではなく、単なる別れになっている。
 だからかつての歌のように、「付き合って大好きだった相手に捨てられた。悲しい、寂しいし、まだ未練がある。逢いたくてたまらない」などとは間違っても歌わない。自分か相手かどちらが振ったのだかわからないが、別れた相手に対し、「君は勇気をくれたね、大切なことを教えてくれたね」などと歌っている。

 中村中の歌など聴くとそうでもないと思うが、ほいで、吉本隆明も若い人の恋愛が自分をさらけださないなみたいに言っていたが、著者も「彼らの恋愛は、自分をさらけ出さない醒めたものである」と言っている。私はといえば、別に恋愛に自分をさらけ出す必要もないのではないかなと思うあたりで、ネットで爺だの罵倒されるわりに、むしろ若い方の感性にずれている。別に自分の心が若いんだとか言いたいわけではないよ。
 結局、これはなんだろう?と思うのだが、小さな世界で自足する新しい生き方として見るより、現実のべたなリアルと、リアルとされた仮想の世界の軋轢というかその回避の社会構造がある程度到達した結果なのではないか。その意味で、若い人の行動パターンというより制度的なもので、どうにもならない。しいて言えば、たぶんこの感動をありがとう集団は外部には悪意しか放出しないのではないかと思うので、「その感動うざいんですけど」シールドで各様な人を守れるような制度みたいなものも必要かなと思う。

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2007.11.21

豪州ハワード時代の終わり

 24日に予定されているオーストラリアの総選挙だが、オーストラリアン紙による世論調査では、現ハワード首相率いる保守連立政権の支持率は46%に対し、ラッド党首率いる労働党は54%とのこと。もう少し僅差に見ている世論調査もあるが、労働党の優勢は崩れそうにない。つまり政権交代が実現し、ハワード時代が終わることになる。
 ハワード時代の終わりは、なんとなく朝日新聞が浮き立っているようにも思えるが、20日付け記事”豪総選挙、与党が劣勢 敗北ならイラク撤兵も”(参照)の表題のようになる可能性は高い。もっとも記事には書かれていないがラッド党首の主張はあくまで段階的な撤退である。


ブッシュ米大統領の「最後の盟友」となった首相が退陣すれば、豪州のイラク派兵や地球温暖化対策も見直しを迫られる。

 同記事は朝日新聞的にありがちな偏向がないのは、それが選挙の争点ではないことも特記している点だ。

 1500人規模を派兵するイラク問題をめぐり、かつての盟友に背を向けられた形だが、主な争点はむしろ減税や雇用法制など内政問題だ。
 ハワード首相は総選挙実施を発表した翌10月15日、総額340億豪ドル(約3兆5600億円)の大規模減税を発表、支持率浮上を狙った。首相は「労働党が政権を取れば今の好況は終わる」と危機感をあおる。

 イラクの内政は落ち着きを取り戻しつつあり、また米軍が強化されている現状、米軍の百分の一規模のオーストラリア軍の重要性は低くなっている。余談めくが、オーストラリア軍も日本の自衛隊派兵と同様に死傷者を出していない。
 経済面での保守陣営の政策もそれほど受けてはいないようだ。同記事では、むしろラッド党首に焦点を当てている。

 その追い風を受けるのが、労働党のケビン・ラッド党首(50)。「豪州には若く、新しい指導者が必要」と訴える。

 もっともネットではちょっと違った見解もあるにはあったようだ。ラッド労働党党首の顔を知るのにもいいかもしれないが、ちょっとお下品な映像というか、別段盗撮されたわけでもないからいいのだろう。ラッド党首が自分の耳垢食っているの映像が話題になった。”Kevin Rudd picks his ear and eats it - the worms verdict”(参照)だ。この映像、野党党首になる03年以前のものらしく選挙に備えていたのだろう。
 ということでラッド労働党党首の人柄がわかったかというと、重要なのは彼が中国通という点だ。普通語がしゃべれる。先月30日付けAFP”オーストラリア総選挙は中国が争点、親中派のラッド党首が優勢に”(参照)より。

ラッド党首は1980年代、北京に外交官として滞在した経歴を持つが、89年の天安門事件以前に帰国している。中国語が堪能で、胡錦濤(Hu Jintao)国家主席の9月初頭の公式訪問時には、その達者な中国語で胡主席を魅了した。


演説の中でラッド氏は「妻もわたしも、中国には特別な愛着を抱いている。中国の国民も文化も大好きだ」と述べた。また、2人の息子が中国語を習っていたことや、娘が今年、オーストラリア国内の中国系男性と結婚したことも明かした。

 それを言うならプーチンの娘さんは日本語を学んでいるが、与太話はさておき。中国系移民の影響は今回の選挙に大きくなりそうだ。というのも、同記事にもあるように、ハワード首相の地元ベネロング選挙区は中国系移民が17%も占め、これがらラッド労働党首に大きく傾けばハワード首相自身の議席すら失う可能性がある。
 さて、ラッド首相が実現してどうなるか。対外的に直接的な変化があるわけではない。イラク撤退は穏和な段階的なものになるだろうし、日米豪三カ国戦略対話も継続される。日本への外交面ではというと案外調査捕鯨が以前より風当たりが強くなりそうな感じもする。彼は以前、軍艦を使ってでも調査捕鯨を阻止すると言っていた。

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2007.11.20

[書評]人生は負けたほうが勝っている(山﨑武也)

 あまりブログを書く気がしない。なら書かなくてもいいのだろうが、思うことがないわけでもない。またあまりストレートなことを書くのもなんだしと逡巡して時は過ぎる。そんなことを思いながら雑多に読んだ本の山を見ていると、「人生は負けたほうが勝っている 格差社会をスマートに生きる処世術 (山﨑武也)」(参照)を見つけた。

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人生は負けた
ほうが勝っている
 今年の年頭に出たもので書店で表題を見て惹かれて読んだ。私も、人生っていうのは負けたがほうが勝ちだよな、と思っているくちなので、同意見だなとそれだけの理由で読んだものの、いろいろ啓発されることがあった。ただ、こういうのは若い人にはわからないことが多いだろうしとこれもまた時が過ぎ去った。が、さらりと再読してやはりこれは良書というか、30代くらいのビジネスマンなら今読んでおくとおかないとで20年後に違いがでるかもしれない大人の知恵が詰まっているなと思った。ので、ちょっとエントリに書いてみる。くどいけどこの手の本は向かない人には向かないので、ネガティブな印象を持ちそうだったらそのままこのエントリを含めてスルーしたほうがいい。
 山﨑武也という筆者を私は知らない。人生は負けたほうが勝ちみたいな人生観というのは、私みたいに人生負けた人が持つものだろうと思ったが履歴を見るとシャッチョウさんでもあり茶道にも造詣が深そうだ。なーんだ勝ち組の爺じゃんという印象もあるが、それはさておき1935年生まれというともう古稀を越えていらっしゃるわけで、人生の総括的な視点に立てる時期でもあるのだろう。いや、そういう人の卓見に満ちている。
 読み返してぐっと腹の底に来たのはここだ。「放棄する」というテーマで相続の争いの話が出てくる。

 一生のうちの少なからぬ日時を、相続に関する泥仕合に費やすのは、賢明な人がすることではない。何とか食べていける仕事があれば、欲深い兄弟姉妹を持ったのが不運であると諦める。少しでも分けてもらったら、それでよしとするのだ。

 世の中格差社会とかいろいろ言われているが、人生出発点で不平等がある。まして、家に資産があると、それは自分のものだと争いが起きる。こういうのは目の前でどんぱち起きているのを見るとものすごいもんだなと思う。で、結局こうした問題はこの引用のような結論に至るのが正しい。「欲深い兄弟姉妹を持ったのが不運」とはよく言ったものだし、しょせん自分で稼いだわけでもないカネに拘泥するのは愚か者。なのだが、あのカネは俺のものなのになという思いもまた消えない。こういうあたりに、奇妙な人生の味わいがある。
 「金を捨てる」もさらりとすごいことが書いてある。いや、正義漢はこういう話は嫌いだろう。離婚などの話の文脈だが。

 受け取る権利のある金をもらわないというのは、その金を相手に与えるのと同じ結果になる。その女性としては、「手切れ金」を支払うにも等しい行為である。夫婦であれ何であれ、それまでの関係を断つには、そのための金を相手に与えるという便法がある。金で決着を付けるのである。一般的には、人間の心や人間関係は金で買うことはできないといわれているが、最後の手段としては金が効果的な役割を果たす場面は、あちこちで見られる。

 このあたりもそういう場面を実際に人生の局面で見てないと理解しにくいものである。貰えるはずの金をもらわない。金を捨てる気になれ、というわけだ。
 この手のダークな話がてんこもりかというとそうでもない。また、何ごとも負けるが勝ちというわけでもないのがこの筆者の人間的な面白さにもなっているようだ。
 筆者は財務関係の経験もあり、捨て印なんていう制度は納得がいかないから一度もしないと言っているところがある。誰もがそう思うがそう貫くことはできない。そういう奇妙な意固地さも面白い。また筆者は名前を「山崎」と書かれるのはいやで「山﨑」と書いてほしいとあるが、ネットの書籍紹介の文章としては現状ではあえて「山崎」としておこう……と思ったがああやっぱ「山﨑」としておこう。
 そういえば「有名人」についてはこうある。

 有名人になっても、よいことばかりではない。有名である度合いに応じて、累進的な「有名税」を納めなくてはならない。ちょっとしたことでもゴシップの種にされて、世の中の慰み者にされる。妬み半分の人達に、言動の揚げ足を取られて攻撃されたり嫌みを言われたりする。
 また、もてはやされすぎて、心身に無理をしてまで働き、病に倒れる羽目になる人も少なくない。身の安全のためには、半有名人や隠れ有名人くらいがよいではないか。

 これをテンプレに「アルファブロガー」と「ネット」のネタでも書こうかと思ったが、そういう目立つネタを書くもんじゃないよというのが本書の趣旨のようでもありそうだ。

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