« 2007年10月14日 - 2007年10月20日 | トップページ | 2007年10月28日 - 2007年11月3日 »

2007.10.27

[書評]アリはなぜ、ちゃんと働くのか(デボラ・ゴードン)

 先日twitterで蟻についての話題があって、そういえばと思って、「アリはなぜ、ちゃんと働くのか 管理者なき行動パタンの不思議に迫る(デボラ・ゴードン、訳:池田清彦、池田 正子)」(参照)を書庫から取り出して読み直した。

cover
アリはなぜ、
ちゃんと働くのか
管理者なき行動パタンの
不思議に迫る
デボラ ゴードン
 たしかこの本は新潮OH!文庫として初めて出版されたもので単行本からの文庫化ではなかったと思う。アマゾンを見たらそれどころか新潮OH!文庫自体がなくなっているようだ。そういえば見かけない。どうなっているのだろう。なにより、本書はすでに絶版らしく、古書でプレミアがついていた。当時600円だったのに、古書では1140円から2500円まで。残念な気がする。この本は高校生でも読めて、科学というものについて強いインパクトを受けるに違いないのに。普通の読書人の大人にとっては、蟻の生態といった科学分野に関心のある人ならやはり面白いだろう。そしてある種の創造的なプログラマーにとっても刺激的なのではないか。当時の倍値とはいえ大人買いで買ってもいいかもしれない。もちろん、英語の原書のペーパーバック「Ants at Work: How an Insect Society Is Organized(Deborah M. Gordon,Michelle Schwengel)」(参照)は現在でも普通に販売されている。
 本書の話の前に少し関係情報を当たっていたらウィキペディアにゴードンの項目(参照)があり、学部時代はフランス語専攻だったというのも興味深いがもっと、興味深い話があった。

Gordon studies ant colony behavior and ecology, with a particular focus on Red harvester ants. Her views have brought her into public conflict with E.O. Wilson.

 エドワード・O・ウィルソンと対立していたというのだ。ウィルソンといえば「生命の未来」(参照)や「知の挑戦 科学的知性と文化的知性の統合」(参照)があるが、ゴードンはどう対立していたのだろうか。訳者で生物学者でもある池田清彦も解説でエドワード・O・ウィルソンに言及してはいるのだが、あたかもウィルソンの影響でゴードンもネオダーウィニズムだとしている(ように読める)。しかし対立があったなら、池田がそのことを知らないわけはない。ウィルソンの著作の邦訳が出たのは本書以降とはいえゴードンの背景としてはあったはずだろう。気になる。ちなみに、池田の近著をアマゾンで調べると与太話みたいなものばかりで、むしろなぜ本書の訳者を買って出たのかさえ気になる。実際には池田正子による翻訳のようにも思える。そして彼女は池田清彦の奥さんでしょ?
 本書の内容だが、蟻の生態研究を一般向けに説明したものなのだが、蟻全体についてではなく、基本的にアカシュウカクアリという一種類の蟻についての17年かけた研究である。そんなことで何がわかるのか? 

 アリのコロニーについて最も不思議なことは管理不在ということである。管理担当者がいないのに機能している組織を想像することは、人間のそれとはあまりに似ていないのでとても難しい。中心的な統制機関がない。相手に、命令したり、物事をこのようにやりなさいと教えたりするアリはいない。コロニーの仕事を完成するには何をすべきか、ということに気づいている個体はいない。


 私は生物に見られるさまざまなレベルがどのように関係するかに興味を覚えてアリを研究している。生物の世界は分子から始まり、細胞、組織、個体、個体群、生態系へと階層状に構成されている。生物学における根本的な問題は、これらの異なるレベルの出来事がどうやって関係するかということである。

 いわば、システム論であり、情報論であるとも言える。あるいは進化とは実際になんであったかということの探求だ。どうも日本のネットの風景では浅薄なイデオロギーをかぶせた進化論がID論バッシングして終了のようなつまらない臭気が漂っているが、進化論は本書のような詳細な生物研究において位置づけられるものであり、そう簡単なテーマではない。
 本書はアカシュウカクアリの非常に不思議な驚嘆すべき事実を解明していくのだが、結語でゴードンは疑問の核に戻る。

 アリたちを熱心に真似ても私たちの特性は改善されない。アリと同じ道徳上の特質を持つ人は恐ろしく無価値であるに違いない。アリを観察することで人について学ぶことはあまりない。


 しかしおそらくアリたちは、自然がどのように作用するかについて、少なくともアナロジーによって私たちに教える一般的ななにかを持っている。それ自身だけはどんな同一性も機能も発揮することはできない単位からなるシステムで、構成要素の相互作用によって活動するものはどんなシステムでも、アリコロニーと共通する何かを持っている。アリたちとコロニーをつなぐ関係性と同種のものが、ニューロンをして脳の活動を生み出し、幾多の異なる細胞をして免疫反応を引き起こし、数個の分裂細胞をしてついには成長した胚を作り出すのを許すのだろう。

 ただしこの先ゴードンはその一般解を急速に求めるでもなく、各システムはまったく個別かもしれないとも考察している。しかし、そうではあっても、自然がもたらしたという点で、その得意な情報システムにはある一般性が存在するだろう。
 アリについて戻れば、ゴードンの言葉ではないが、個体が存在しつつもコロニーが一つの生命体のように振る舞う現象が興味深い。そしてコロニー自体が独自の寿命のパターンを持つことも指摘されている。たとえば、働き蟻はどれも一年ほどの寿命しかもたないのに、若いコロニーと経年したコロニーとでは行動が異なる。
 本書の実際の面白さは、しかし、そうした抽象的な大きな課題ではなく、3つあろうだろう。1つは、アリそもののがめちゃくちゃに面白い存在だということだ。なんでこんな不思議なものが生存しているのだろう。しかもそれは生存のために生存しているだけなのにどうして緻密な行動パターンを持つのだろうか。2つ目には、先に高校生にも読めると書いたが、高校生に読んで科学を知ってほしいという含みがあった。この本こそ自然科学のとても基本的な部分が数多く描かれている。特に重要なのは、ゴードンが一人の教師となって学生を指導していくようすがかいま見られることだ。アリを観察するためにはアリゾナの砂漠に慣れる必要がある。そういう徒弟訓練的な熟練技術が学生に仕込まれる。仕込まれた学生の幾人かは生物学者になるが本書によれば証券界に出た人もいるようだ。きっと証券界で科学を徒弟的に学んだ成果を得ていることだろう。私は本書を読みながら、なぜ経済学はこの蟻の生態研究のようにならないのか疑問にも思った。数式やモデルは後から来る。だが、ネットなど見かける経済学の断片はそれが逆になっていることが多い。
 3つめは、進化論の巨大さだ。ダーウィニズムを批判するといったことはちょっと知的な人にとってはまるで盆踊りの型のように習得可能かもしれないし、またその擁護はあたかも科学を宗教のように信奉して他者を断罪すればいいかのようだ。しかし、進化論というのはまったく異なる。ゴードンは、訳者の池田が解説でちゃかすようにべたなダーウィニズムを信奉しているのだが、ダーウィニズムこそが科学的説明の輪郭を与えていることを如実に示している。
 そのあたりの対比は反面教師的に池田の解説がくっきりさせている。本書でゴードンは、成熟した蟻のコロニーに3000匹の外働き蟻がいるとすれば、無駄としか思えない数の、7000匹の内部蟻がいるとして、そこにこう疑問を持つ。

 これは多分、進化の時間スケールでは、余分な1000匹のアリが急遽必要になる出来事が、そのために予備兵を養うに値するほどたびたび起きるのだろう。私はそのような出来事を見たことはないが、しかし私がアリの観察をした17回の夏はアリの進化の何百万年に比べれば無に等しいのだ。

 これに対して、池田はこう言う。

 一見非適応的に見える行動にも、きっと適応的な意味があるに違いないというゴードンの希望はしかし、残念ながら無いものねだりの空手形だと私は思う。構造主義生物学者としての私は、生物は元々すべて適応的には出来ていないのだという言う他はない。

 池田の理屈が、昨今の与太話本のように通るかのようにも思えるが、それは科学的な説明にはなっていないだろうし、本書全体を読めば、池田の考えは一貫性を持ち得なず、毎回ジョーカーを繰り出すトランプ遊びにも比すことになりかねない。
 また、アリのついての特定行動に池田は本能でしょとわりきるが、ゴードンはそうした安易な回答を丹念に拒絶しているので、訳者が本書をどこまで読み込んだのか少し疑問にも思える。
cover
NATIONAL GEOGRAPHIC
日本版2007年 07月号
 構造主義生物学なりが正しいなら、ゴードンのような具体的な生物システム対象として具体的な研究が必要になるだろうが、そうした傾向は見られないように思う。逆に、ゴードンの研究は知性にいろいろなものを具体的に投げかける。例えば、今年のナショナルジオグラフィック7月号に「群れのセオリー」の記事(参照)があり、ここでもゴードンの研究のインサイトの一貫が見られる。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2007.10.26

[書評]走ることについて語るときに僕の語ること(村上春樹)

 村上春樹の書き下ろしエッセイ「走ることについて語るときに僕の語ること」(参照)は買ったその晩に読みふけって読み終えた。読みやすい本だったからとはとりあえず言えるのだが、奇妙な、苦いような後味が残った。たぶん、エッセイとは違う何かがあるのだろう。後書きで彼は「メモワール」だと言っている。


 僕はこの本を「メモワール」のようなものだと考えている。個人史というほど大層なものでもないが、エッセイというタイトルでくくるには無理がある。前書きにも書いたことを繰り返すようなかたちになるが、僕としては「走る」という行為を媒介にして、自分がこの四半世紀ばかり小説家として、また一人の「どこにでもいる人間」として、どのようにして生きてきたか、自分なりに整理してみたかった。

cover
走ることについて語るときに
僕の語ること
 村上は「メモワール」というフランス語の語感に思い入れがあるようでいて「エッセイ」のフランス語の語感を知らないのも奇妙にも思われるのは、むしろ英語での語感を大切にしているからかもしれない。と、どうでも皮肉のようなことを書く必要もないのだが、本書の凝ったタイトルが示唆するように、走ることを語りつつ、小説家としての内面を語るという趣向になっている。そして、そのように読める。読めないことはない。
 だが後味の苦みのような部分は、私が一人の「どこにでもいる人間」として半世紀ばかり彼の愛読者だった何かに関わっているのだろう。彼はサリンジャーのように20代の終わりから30代に向かうころ小説家となりやがて50代を終えようとしている。

 僕は今、五十代の後半にいる。二十一世紀などというものが実際にやってきて、自分が冗談抜きで五十代を迎えることになるなんて、若いときにはまず考えられなかった。もちろん理論的にはいつか二十一世紀は来るし(なにごともなければ)そのとき僕が五十代を迎えているというのは自明の理なのだが、若いときの僕にとって五十代の自分の姿を思い浮かべるのは、「死後の世界を具体的に想像してみろ」と言われたくらいのと同じくらい困難なことだった。

 かつて40歳までにきちんとした小説を書きたいと言っていた彼は60歳に近づき、そしてそうなるころにノーベル文学賞も得ることになるのだろう。長い年月だったか。そう、長かったかもしれないし、近年空白があったとはいえ、新作を待ちわびる読者として裏切らずに過ごした短い日々だったようにも思う。だが、やはりそこは直線的なものではなかった。
 彼は「走る」ことについて語ると言っている。そしてそのように書かれている。だが、私は、「走れない」過程を走りつつある彼という存在を読む。もちろん、世界超一流の作家としてしかも作品の力にほとんど衰えすら感じさせない彼だが、走るこのなかにもはや肉体の自然として衰退が浸蝕している。どれだけ頑張っても、もう向上はしない。もちろん、70歳過ぎても走る人はいるし、彼もそうなるのだろう。「少なくとも最後まで歩かなかった」となるのではないかと思う。

 タイムは問題ではない。今となっては、どれだけ努力したところで、おそらく昔と同じような走り方はできないだろう。その事実を進んで受け入れようと思う。あまり愉快なこととは言いがたいが、それが年を取るということなのだ。

 身体は衰退の過程にある。だが、それは身体だけではなく、存在の衰退でもあるのではないかと私は思うが、村上はそうは考えていないかに見える。それだけ身体を堅固なもの研鑽しているからかもしれない。しかし私は、村上が嘘を言っているとは思わないが、彼が意識で語っている以上の部分を、このメモワールのなかで不思議に重い不協和音のように、あるいはスコアをハズした音にように聞く。

 身体が許す限り、たとえよぼよぼになっても、たとえまわりの人々に「村上さん、そろそろ走るのをやめた方がいいんじゃないですか。もう歳だし」と忠告されても、おそらく僕はかまわず走り続けることだろう。たとえタイムがもっと落ちていっても、僕はとにかくフル・マラソンを完走するという目標に向かって、これまでと同じような---ときにはこれまで以上の---努力をつづけていくに違いない。

 たぶん、彼はそうするだろう。そしてこう続く。

そう、誰がなんと言おうと、それが僕の生まれつきの性格(ネイチャー)なのだ。サソリが刺すように、蝉が樹木にしがみつくように。鮭が生まれた川に戻ってくるように、カモの夫婦が互いを求め合うように。

 それはネイチャーではないだろう。なにか奇妙な---文学というものがおよそ奇妙であるように---何かが彼を追い込んでいく。そしてその追い込みの先の軽い比喩の連鎖の最後に「カモの夫婦が互いを求め合う」というのが象徴的なように、このエッセイではいつになく、心と存在の支えとしての彼の妻の存在が要所に現れる。私は、彼が無意識で知らないだろうその理由をなんとなく感じることができる。
 彼が走る理由をネイチャーに比すのは本書の後半だが、前半ではむしろより正確にこう洞察している。一時期走ることに倦んだという文脈でこう語る。

 いずれにせよ、僕はもう一度「走る生活」を取り戻している。けっこう「まじめに」走り初め、今となってはかなり「真剣に」走っている。それが五十代後半を迎えた僕に何を意味することになるのか、まだよくわからない。おそらく何かを意味しているはずだ。それほどたいしたことでもないかもしれないし、たいした量ではないかもしれないが、そこには何かしらの意味合いが含まれているはずだ。

 その意味は、本書ではあたかも物語のオチのように先のネイチャーに流れ込むかのようだが、そうではあるまい。その何かはぱっくりと彼の老いと存在の衰退に対峙して現れた、ある種文学の本質に近い何かだろう。
 むしろそれは、意志やネイチャー(本性)といったものではなく、人として生きることのどうしようもない不条理みたいなことをあえて苦(サファリング)として受けることに近いのではないか。
 走りたくないこともあるという文脈でその苦(サファリング)に彼はこう直面する。

 個人的なことを言わせていただければ、僕は「今日は走りたくないなあ」と思ったときには、常に自分にこう問いかけるようにしている。おまえはいちおう小説家として生活しており、好きな時間に自宅で一人で仕事ができるから、満員電車に揺られて朝夕の通勤をする必要もないし、退屈な会議に出る必要もない。それは幸運なことだと思わないか?(思う)それに比べたら、近所を一時間くらい走るくらい、なんでもないことじゃないか。満員電車と会議の光景を思い浮かべると、僕はもう一度自らの志気を鼓舞し、ランニング・シューズの紐を結び直し、比較的すんなりと走り出すことができる。

 人によってはあるいはネガコメ5、左翼の赤い炎・ネガアルージュなら速攻で、労働者をバカにしている軽薄な小説家とぶコメするかもしれないくらいバカにとって誤解されやすいことを言っているようにも思えるが、たぶん逆なのだ。
 彼はむしろ走ることを通して語っているのではなく、文学という生の総体が表す苦(サファリング)に言語で参与するために、走り出しているのだ。おそらくそれが先の何かを暗示しているのだろう。
 それがいいことか悪いことかわからないし、それが継続できることかどうかもわからない。ドストエフスキーは「カラマーゾフの兄弟」の後編を書き遂げる意志を運命によって途絶するしかなかった。
 一読者の私としては、村上さん無理しているなと思う。でも、村上さんの生き方は正しいと思う。大筋で正しく、そしてディテールで正しいと思う。

| | コメント (5) | トラックバック (3)

2007.10.25

イラクのテロ件数が減少しているらしいのだが知ってた?

 イラク情勢についてちょっと気になることがあるので簡単にメモしておきたい。気になるなというくらいで特に深い意味はないので、そこんとこ、よろしく。
 どう切り出すかも少しためらう。あまりいいソースではないのだけど、切り出しが面白いのでNews-Leader.comの”'No news' in Iraq bad news?”(参照)を借りてみよう。


Last week, ABC's Charles Gibson introduced a segment about Iraq on "World News Tonight" with this curious remark: "The news is (pause for effect) that there is no news. The police told us today that, to their knowledge, there were no major acts of violence. Attacks are down in Baghdad and today no bombings or roadside explosions were reported."

先週、ABCのチャールズ・ギブソンは、ちょっと変わった言い回しで、「今晩の世界ニュース」のイラク部分を切り出した。いわく、「ニュースは、(間を取って)、ニュースがないということです。今日の警察によると、知られている限り、主要な暴力行為はありませんでした。バグダッドの攻撃は減少し、今日は爆弾も道脇での爆発も報告されていません。」


 米国の場合、軍人など米人が実際にイラクの軍事活動に関わっていて、イラクのテロ活動は身近に関わることなので、ニュースではかならずイラクを報道する枠があるのだろうが、その日は平穏だったようだ。
 さて、この平穏さはどうもこのところの傾向らしい。
 日本でもこのところイラクのテロ活動のニュースをほとんど聞かない。試しに、現時点でグーグル・ニュースで「イラク テロ」で検索しても、具体的なテロ事件はリストされない。「イラク」だけで検索しなおして、なにかテロ事件はあるかと眺めてみたが、ない。まったくニュースがないとは言わないが、目立ったテロ事件はイラクで発生していないかのように見える。
 もっとも、まったくなくなったわけでもないだろうし、私のニュースの読み違いかえもしれない。それでも、テロ事件は明白に減少しているのではないだろうか。そして、そのことは、どうやら日本ではほとんど報道されていないのではないだろうか。
 もし、そうだとしたら、それはなぜなのだろうか。
 関連して、ニューズウィーク(10・31)Periscopeに”イラク テロ件数減少を喜べない理由”という興味深い記事があった。

 米政権にとっては、待ちに待った朗報かもしれない。最新の米政府統計によれば、イラクにおける各種の攻撃件数が05年以前のレベルに減ったという。


 本誌が入手した未発表の軍事統計によると、9月中旬の1週間に発生した攻撃件数は約900件。6月の約1700件から大幅に減少している。

 イラクにおけるテロ事件は確実に減少していると見てよさそうだ。そして、最近のイラクからの各国の軍の撤退動向も考えてみればそれに見合っていそうだ。
 なぜテロは減少しているのか。普通に考えれば、米軍増派によるテロ対策が功を奏したということだろう。ブッシュもそれを強調しているのだが、メディアを通して伝わった情報からなかなかそういう印象は持ちがたいのではないのだろうか。
 ここでふと22日付の朝日新聞社説”パキスタン 「対テロ戦」が招いた混迷”(参照)を思い出して読み返してみた。この社説の趣旨は表題からもわかるように、パキスタンの混迷は米軍による対テロ戦争が引き起こしたというものだ。
 対テロ戦争において、アフガニスタンでの戦闘では国連での合意のもとに欧州も参加している。なので、以下の朝日新聞の主張は「米軍などによる」というのは国連と言い換えてもそれほどハズしていない。小沢民主党ですら、手順は踏まえるにせよ、この軍事活動に日本も参加すべきだと主張している。

 アフガンでは米軍などによる軍事作戦で住民被害が広がり、逆にタリバーンが勢いを盛り返す一因にもなっている。パキスタンでも、それに呼応してイスラム原理主義や反米感情が強まっている。
 「テロとの戦い」といいながら、ひたすら武力で相手を根絶やしにするかのような作戦は、地域を不安定化させるばかりではないか。

 端的に言えば、朝日新聞の主張がめちゃくちゃなだけで無視していいのだが、ふと思い出した理由は、なんとなく、後段でイラクが暗示されているような印象をもっていたからだ。そうした点で読み返すと、この社説、テロ戦争が混迷を深めているかのように主張していながら、イラクにまったく言及していないという高度な文章技術の上に成り立っていたことに気が付いた。
 朝日新聞が間違った報道しているわけではない。なのに、こうしたメディアから受けるある種の催眠術のような印象はいったい何に由来しているのだろうか。

| | コメント (1) | トラックバック (2)

2007.10.24

中国共産党大会人事の不安

 中国共産党の党大会が終わった。眼目は端的に言えば、胡錦濤派と江沢民系上海閥との人事の戦いで、私は焦点を曽慶紅の引退に当てていた。結果から言えば甘い読みだった。流れ的に胡錦濤側が優勢だと見ていたのだが、結論から言えば、曽慶紅とバーターのように江沢民系上海閥の勝利に終わったかのようにさえ見える。
 私の読みはすでに昨年「極東ブログ: 胡錦涛政権の最大の支援者は小泉元総理だったかもね」(参照)で書いておいた。率直に言って内部抗争に私が詳しいわけもないので、NHK系の解説員の見解に同意したに等しいものだった。


具体的に政治局常務委員会のメンツを並べるとこうだ。

胡錦濤 中共中央総書記、中華人民共和国国家主席、中共中央軍事委員会主席、中華人民共和国中央軍事委員会主席
呉邦国 全人代常務委員長
温家宝 中華人民共和国国務院総理
賈慶林 全国政治協商会議主席
曽慶紅 中華人民共和国国家副主席 中共中央書記処書記第一書記
黄菊  国務院常務副総理
呉官正 中国共産党中央紀律検査委員会書記
李長春 意識形態を主管。
羅幹  中央政法委員会書記

 で、来秋にはこういう構図になるだろうと推測されている。

胡錦濤 バッチグー
呉邦国 全人代常務委員長
温家宝 中華人民共和国国務院総理
賈慶林 引退か?
曽慶紅 引退か?
黄菊  引退
呉官正 引退
李長春 意識形態を主管。
羅幹  引退

 温家宝はすでに胡錦涛寄り。李長春はむしろアンチ上海閥。上海閥は呉邦国だけといってもこのオッサン・エンジニアみたいな人。残るはあと一年足らずで、江沢民派の賈慶林とべたな江沢民派の曽慶紅の追い込みか、と。
 ほいで、上海閥の穴ですでに事実上埋まっているのはこのあたり。

李克強 遼寧省委書記
劉延東 中共中央統一戦線部部長
李源潮 江蘇省委書記

 他の穴も中国共産主義青年団(共青団)など胡耀邦チルドレンで固めることになるだろう。
 ということは、今見ておくべきことは。来秋の中国共産党の第17回党大会まで、上海閥が窮鼠猫を噛むの行動に出てくるか?


 ハズしたのは上海閥欠落に胡錦濤派が埋まるくらいに思っていたことだ。
 なので、党大会前産経新聞中国総局記者福島香織が”江沢民さん、まだ若い?:イザ!”(参照)で賭けたときほおと思った。(ところでブログ本はどうなったんでしょ。)

さて、党大会において、国内外メディアの一番の注目は、政治局常務委員の人事です。とくに曽慶紅副主席の去就についての報道が、前触れでもりあがりましたが、「留任」と打ったのは、日本メディアでは産経新聞と東京新聞だけ?ふふふ、ギャンブラーですね。でも、私も曽慶紅留任に1000元(ぶんのご飯)くらいかけています。

 というわけで、福島記者がハズして、またハズした(またというのは段ボール肉)けど頑張れとか微笑んでいたのだが、曽慶紅のバーター人事みたいのを見ると、江派の強さをきちんと読んだとも言えるかもしれない。というのも、実際はこうなった。ついでに、比較的直前の5日付”中共政治局員9人体制維持 曾慶紅氏ら3人引退へ”(参照)による香港紙明報読みは正確だった。
 なお、江派とした今回の抜擢だが必ずしも江派ではないという意見もあるだろう。

胡錦濤 バッチグー →ショッペー(64)
呉邦国 全人代常務委員長 (66)
温家宝 中華人民共和国国務院総理 (65)
賈慶林 引退か? →残留 全国政治協商会議主席 (67) ハズレ
曽慶紅 引退か? →引退
黄菊  引退  →死去
呉官正 引退  →引退
李長春 意識形態を主管(63)
羅幹  引退  →引退

胡錦濤派から1名
李克強 遼寧省委書記(52)  →常務委入
劉延東 中共中央統一戦線部部長(61)  →ハズレ
李源潮 江蘇省委書記(56)  →ハズレ

江派から3名
習近平 上海市党委書記 (54)  江派・太子党
賀国強 党中央組織部長 (63)  江派
周永康 公安相 (64)  江派


 いやひどい図柄だなと私は思うものの、中国に未来があるすれば、江派上海閥派の先にあるわけないと思っているので、なるようになれというウンザリ感がある。しかし、今回の中国権力配置で日本の対日外交もまたショッペーことになってくることは確かだ。
 それにしてもこの人事、これから来る中国ハードランディングに中国一丸というか北京主導で対応する気があるのかおまえら、みたいな感じもしたのだが、実際の経済クラッシュではカネのある部分に衝撃がくるので、なかなか微妙な意味合いもあるかもしれない。それと、”極東ブログ: 遼寧省の鳥インフルエンザ発生からよからぬ洒落を考える”(参照)で触れた問題も以前好転しているとも思えないし、どうも微妙に日本が絡まってきている感じがする。
 さて、今回のハルマゲドン党大会を日本のジャーナリズムはどう報道したか。
 率直に言って見ものだったのは、朝日新聞の不気味な沈黙だった。人事決定以前に読売・毎日・朝日がどうでもいいような儀礼的な社説を繰り出してきたので、その流れでひとまずなにか朝日新聞も言うのかと思ったらだまり込んだ。朝日新聞を腐すつもりはないが、こういうところが朝日新聞の有り難いところで、すでに今回の人事の荒れ具合を独自ルートで織り込んでいたのだろう。そうした中、”極東ブログ: ブット帰国後のパキスタン情勢メモ”(参照)で触れたが、パキスタン関連でとんでもない社説を出してきたので、もしかすると朝日新聞内で江派・太子党路線みたいのが出てきたのかという不安もあった。
 こうした流れで、正直意表を突いたのが昨日の毎日新聞社説”中国新指導部 上海派巻き返しなら…=論説委員・金子秀敏”(参照)だった。金子論説委員はチャイナスクールじゃんみたいな声も聞くがこれは、私にしてみれば、ここまで書けるのか日本の新聞はと目が覚める思いがした。引用が長くなるが、まさに今回の人事の問題はここにある。

 総書記代理格の筆頭書記として中央書記局を握ったのは、共産主義青年団で胡氏の後輩である李氏ではなく、北京勤務の経験もないダークホースの習氏だった。李氏は筆頭副首相で次期首相候補だ。習氏が政治局の実務を取り仕切り、事実上、次の総書記となる準備をする。
 両氏ともこれまでの政治手腕は高く評価されている。問題は、次の総書記が胡氏の人脈でなくなることではない。まったくのダークホースの抜てき人事の背景に、一般の中国人は、きっと党規約を超えた「天の声」が作用したのだろうと思うだろう。太子党の起用に、共産党はまだ「人治」の党なのだと失望するだろう。それが党の信頼度、統治力の根源にかかわる問題なのだ。

 「天の声」をべたに書く必要はない。まさにそういうこと、つまり、「党の信頼度、統治力の根源」に疑問符が付く。
 もう一点、金子論説委員が胡錦濤系の権力闘争のこれまでの主砲が崩れたことをくっきり述べた。

 もう一つの眼目は、規律検査委員会書記の人事である。前の第16期政治局常務委員会も4対5で江氏系が多数だったが、それにもかかわらず胡総書記が上海市ぐるみの汚職や、聖域といわれた海軍の汚職を摘発できたのは規律検査委を押さえていたからだ。
 ところが今回、公安・検察部門を押さえる政法委員会書記だけでなく、規律検査委書記も胡派がとれなかった。江氏の腹心、曽慶紅国家副主席は定年で常務委を引退したが、賀国強、周永康の江系2氏が規律検査委書記、政法委書記として常務委に入った。

 端的に言えばもうトップの悪者退治的な権力は振るいづらくなってきた。
 こうして昨日の時点で毎日新聞社説がほぼ決定打を出してしまった後、朝日新聞はどう出るのか? それが今朝の社説”中国共産党 新指導部に寄せる大波 : asahi.com:朝日新聞社説”(参照)だったのだが、意外と言ってはなんだが、穏当なあたりに出てきた。

 胡カラーでは側近の李克強氏のほか、共青団系から新たに3人を政治局員に起用した。同時に、何かとあつれきが伝えられる江沢民前総書記系も常務委員など重要ポストに残り、発言力を保った。
 江氏の人脈は、政府から地方幹部まで幅広く連なっている。2期目の政策を進めるにあたって、今後も慎重な利害調整を求められることになりそうだ。
 胡氏は人事で妥協したものの、党の憲法ともいえる党規約に自らが提唱する「持続可能な発展」戦略を盛り込んだ。この意味は小さくない。任期途中に自分の路線を書き込むのは異例のことだ。

 結果論からすれば、そういう見方もできないわけではないし、党規約という言質が重要なんだというあたりは、「この厄介な国、中国(岡田英弘)」(参照)ではないが、日本人とは思えない中国人的な発想だ。
 というわけでこれなんかもさらりと読ませてしまうのだが。

 共産党独裁という体制を維持しながら、国民の声を政策決定に反映させる道を広げていく。至難の業というよりないが、それ以外に胡氏の描く「持続的発展」を実現する方策はないことを覚悟すべきだろう。

 つまり、金輪際中国は民主化できないですぅ、軍曹さん、ということだ。朝日新聞とも親和性の高い見解なのかもしれない。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2007.10.22

ブット帰国後のパキスタン情勢メモ

 パキスタン情勢について、最高裁の動きが今一つ読み切れないのでためらっていたのだが、今朝の朝日新聞の変てこな社説”パキスタン 「対テロ戦」が招いた混迷”(参照)を読み、現時点でもとりあえずメモ書きしておくべきもしれないと思った。ちなみにこの朝日社説だがどこをどう突っ込んでいいか困惑するほどめちゃくちゃな代物に私は思えるので、個別の批判は省略したい。大手紙の社説としては、20日付け日経新聞”混迷の度増すパキスタン”(参照)が穏当なところだろう。
 当面の話としては、ブット元首相の8年ぶりに帰国に際してのテロがあり、自爆テロと報道されている。過去の経緯としては、このブログでは、”極東ブログ: パキスタン情勢、微妙なムシャラフ大統領の位置”(参照)と”極東ブログ: パキスタン・モスク籠城事件、雑感”(参照)があるが、さらに中国との関連で”極東ブログ: 中国とパキスタンの反テロ合同軍事演習「友情2006」”(参照)もある。パキスタンと中国の関係は微妙で、かつ現在開催中の中国共産党大会でのパワーゲームなどもあり、そうした影響が日本の報道にもあるかもしれない。
 日経社説ではこうさらりと説明しているが、ムシャラフとブットの調停はおそらくライスがお膳立てしたものであろう。


 ムシャラフ大統領は今年に入って最高裁判所長官の更迭を図ったり、モスク襲撃を強行したことなどから多くの国民の支持を失った。
 1999年にクーデターで権力を握って以来最大の政治危機に直面しており、政治基盤を強化する必要に迫られている。
 大統領は有力野党のパキスタン人民党を率いるブット氏とは水面下で長年協力のあり方を模索してきたが、今ほど彼女の協力を必要としている時はない。
 一方ブット氏は88年から96年にかけ2度首相を務めながらも汚職と失政で退陣、事実上国外に追放されていた。パキスタン政治に復帰するにはムシャラフ大統領の協力が不可欠で、両者の思惑が一致した。

 冒頭にも書いたが現在情勢の判断で重要なのは、最高裁の動向になる。というのも6日に実施されたほとんどフェイクともいえる大統領選に対して、最高裁が無効の審判を下す可能性がある。パキスタンの憲法では軍の最高実力者の地位である陸軍参謀長の肩書を持ちながら大統領選挙に立候補することはできないとされているからだ。ただし、この点については議会での承認の経緯もあることや、最高裁が強く反発するなら、選挙自体の実施を認めなかっただろうから、違憲判決がでる可能性は少ないと見られている。また、ムシャラフも表向きは軍を引く形を取る可能性もある。
 とはいえ、法というのは政治とは別の論理で動く可能性もあるし、あるいはその逆に現在のパキスタンの内政の動向を反映するかもしれない。端的に言えば、ムシャラフもブットも広く支持されないという流れになるかもしれない。
 日経社説では次の結語を導いているが、妥当な見解だろう。

 違憲であるとの判断を出すと、どのような事態になるか予測しがたい。ムシャラフ大統領は非常事態を宣言するかもしれない。パキスタン政治の安定の道筋は見えない。

 またそうはいっても日経社説が、ブットとムシャラフに次のように期待せざるを得ないのもしたかたがないところだろう。

 パキスタンは核兵器を保有し、アフガニスタンにおけるテロとの戦いでも重要な役割を果たしている。不安定化は国際社会に大きな影響を及ぼす。ムシャラフ大統領とブット氏は政情安定のため協力すべきだ。

 この流れの背景に、日本ではあまり報道されなかったが、10日、8年前に国外追放されたナワズ・シャリフ元首相がロンドンからパキスタンに帰国したものの、空港を出ずして4時間後に再追放された事件がある。なお、シャリフの帰国を承認したのは、最高裁である。
 シャリフは11月に再度帰国を検討しているらしい。夏以降の流れから見ると、ムシャラフはシャリフの復権を恐れてブットと組んだと見ることもできるだろう。ニューズウィーク日本語版9・19”嫌われ首相の凱旋帰国(The Comeback Artist)”では、現在の情勢の流れからみるとやや滑稽な感もあるが、次のように解説していた。

 確かに、シャリフは勝つかもしれない。大統領の与党、パキスタン・イスラム教徒連盟(PML)の議員の大半は、同連盟シャリフ派からの離脱組だ。専門家の予想通り彼らが寝返れば、シャリフは年内か年明けに行われる総選挙で最有力候補になるだろう。「私の直感では、流れはシャリフにとってかなり有利だ」と、元パキスタン陸軍中将のタルト・マスードは言う。

 シャリフ復権の目というのがどのくらいあるのか私にはまるで勘が働かない。ただ、ムシャラフとブットのラインが親米で、シャリフが反米ということでもないのは、亡命生活の状況や98年クリントンによるアフガニスタン空爆のミサイル通過を認めたことでもわかる。
 また、米国はムシャラフとブットのラインをこのままサポートしないかもしれない。ニューヨークタイムズ”In Pakistan Quandary, U.S. Reviews Stance”(参照)で話題になったように、米国によるパキスタン政策の見直しがほのめかされている。というか、ムシャラフを切るのでもなく、ブットもシャリフも繋げる可能性を米国を探っているところだろう。となれば、中国はどうかという流れがあり、もしかするとそのあたりの中国様のご不快を朝日新聞が察してあの社説が出てきたのかもしえれない、というのはさすがに冗談だが。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2007.10.21

私が木原光知子をテレビで見ていたころ

 18日に木原光知子(本名、木原美知子)が亡くなった。59歳だった。死因はくも膜下出血ということだが、この年代の女性に多い。ネットを見ると「いであ株式会社, バイオウェザーサービス」というサイトの”脳卒中, くも膜下出血の患者数はどれくらい? 性・年齢別比較”(参照)のページに、平成11年の厚労省データがグラフ化されて掲載されているが、一目でその多さがわかる。中年期以降の女性なら乳ガンとともにくも膜下出血の危険性はよく知られているだろうが、中年期以降の男性で知っている人は案外少ないかもしれない。
 木原光知子は水泳選手なのでスポーツは十分に行っていただろうし、指導員でもあったから食生活も十分に配慮されていたに違いない。それでも、こうした突然死は免れえないのだろう。
 ウィキペディアを見ると(参照)、こうまとめられている。


高校在学時に東京オリンピックに出場し「ミミ」の愛称で一躍アイドル選手となった。100m自由形が主であったが、400mや個人メドレーなどでもトップクラスのオールラウンダーであった。競技を引退後は東レの水着モデルを務めるなどタレントに転向。その後、東レ関連会社の役員や自らの水着ブランドや水泳教室を運営するなどビジネス界に進出。40歳を超えてからマスターズ競技に復活し日本記録を樹立している。

 私は木原光知子の40歳以降の活動についてはほとんど知らない。結婚もされなかったのだろうか。私が彼女をよく知っているような気がするのは、昔、NHKの連想ゲームを見ていたからだろう。ウィキペディアには言及がないが、彼女はこの番組の常連の一人だったと思う。
 NHKの番組「連想ゲーム」(参照)をいつから見ていて、いつから見なくなったのかはっきりとしない。知り合いの外人がよく見て、日本語の勉強になりますとか言っていた。ウィキペディアを見ると、開始は1968年とのこと。終了したのは91年ともある。90年代以降はテレビそのものをあまり見なくなったように思う。私の連想ゲームの記憶は、加藤芳郎・坪内ミキ子キャプテンからだろうか。坪内ミキ子は坪内逍遙の縁者だよとか大人たちによく聞かされた。ああ中村メイコキャプテンの記憶もあるし、その後の水沢アキ、中田喜子の記憶もある。
 私の勘違いでなければ、檀ふみはこの番組で登場した。檀一雄の娘さんだよと聞かされた。中井貴恵は佐田啓二の長女だよとも。と思い返すと、すでに昭和の終わりの時期、昭和を回顧するためのこの番組はあったのかもしれないと気が付く。
 私より一つ年上の岡江久美子はこの番組が縁で大和田獏と結婚した。何年だっただろうかと、調べるにウィキペディアには情報がない。ざっと見渡すと、1983年(昭和58年)のようだ。自分の記憶でもそんな感じだ。してみると、私が連想ゲームを見ていたのは、70年の終わりということで、高校生の時代だったか。
 ところで全然知らなかったのだが、大和田ご夫妻に娘さんがおられ、大和田美帆(参照)とのこと。83年8月22日生まれとあるが、結婚が83年だとちょっと計算が合わないようでもあるが、それはさておき、娘さん、24歳か。私より一つ年上の岡江久美子の娘がもう24歳。それよりなにより、私はアニメ以外ほとんど民放テレビを見ないので、つまりはなまるとか見ないでその後の岡江久美子とかほとんど知らないのだが、私が知っている岡江久美子は大和田美帆より若いんだよ。なんか、くらくらして来そうだ。そういえば、草刈正雄の娘も出てきたな、最近。
cover
激写
135人の女ともだち
(1979年)
篠山紀信
 かくして時は流れる。加藤芳郎も昨年正月に亡くなった。水沢アキについては、あの時代の醜聞を聞くようにもなった。恥ずかしながら、私は実家の書庫のどっかにこっそり「激写 135人の女ともだち」(1979)を持っているはずだ、捨てた記憶もないので。ただ、探す勇気も、見つけたとしても開く勇気もない。開ければ、シェリーとかけっこう好きだったかとか見るだろうか。いやいや見なくても花畑でシッコしている姿が脳裏に刻まれているのがちょっと痛いぜ。みんなシェリーなんて知らないだろ?と思ったら、LISSAという娘さんが芸能界にいるとのこと(不確か情報)。

| | コメント (7) | トラックバック (0)

« 2007年10月14日 - 2007年10月20日 | トップページ | 2007年10月28日 - 2007年11月3日 »