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2007.08.25

同級生、小河内ダム君

 意外な同級生というのがいるもので、昭和32年生まれの私には、ああ、誰かな、東国原英夫宮崎県知事? 浅田彰京都大学経済研究所助教授? 彼は学年的には一つ上か、ついでに、漫画家柴門ふみと国谷裕子ニュースキャスターも学年的には一つ上のお姉様。女優だと、大竹しのぶ、名取裕子、かたせ梨乃、泉じゅん……ああ、夏目雅子。で、忘れてはいけないのが、小河内ダム君だな。久しぶりに会いに行った。

 竣工はこの年の11月26日なので、ジャストのハッピーバースデーというわけでもないが、ダムコンクリート打込開始が3月19日、打込終了が7月21日というから、今頃夏の山間に英姿を現していたのだろう。それから、半世紀か。特設サイト「小河内ダムはしゅん工50周年を迎えます」(参照)によると、9月28日に新宿で記念のイベントがあるらしい。しかし、行くなら現地だろうな。
 小学生のとき二度ほど来たことがある。今思うとダムもその頃はまだ私と同じで若いころだったのかなと思い返す。青梅線の終点というかなにかしら東京の果てみたいでもあり、私はときたまダムの光景を見に行く。物心ついてから自分の意志で靖国参拝をしたことはないが、その慰霊碑では殉職した87名に黙祷する。そして湖底に沈んだ旧小河内村945世帯約6千人の移転を思う。ありがとうございました。
 東京市が後の市民の水源ダム建設候補地の調査を開始したのが1926年(大正15年)。私の父が生まれた年だ。同年は、小河内ダムの水源と関連のある多摩地域の歴史を振り返ると、箱根土地株式会社が東京商科大学を中心にした学園都市構想によって放射状の道路を整備して分譲を開始した年でもある。翌年大学ができる。
 小河内村にダム建設の知らせがあったのは1931年(昭和6年)。村民は当初反対を表明する。いろいろ紛糾することはありこの歴史はきちんと顧みられるべきでもあるがここでは触れない。着工は36年、起工式は38年。43年に戦争によって工事は中断し、戦後に再開された。ダムコンクリート打込開始は1953年。
 村民の思いの一端が06年10月8日読売新聞「秋祭り ダムに沈んだ古里思う 湖底に届け、89歳の篠笛」掲載されていた。


 ダム建設が再開されれば移転しなければならない。だが、村にいる間は祭りに参加したいと思った。村の古老に習って笛を覚え、祭りで吹くようになった。
 戦時中に結婚した妻と4人の子どもを伴い、約30キロ離れた八王子市に移転したのが53年。補償金で建てた家の近くで畑を耕すなどして一家の暮らしを支えた。

 その後祭りは復元しているようでもある。
 工事で殉職した87名中6名が朝鮮人とのことで、01年8月1日朝鮮新報「今年もやってきたサマースクールの季節」(参照)によると。

 東京(6~8日)では、奥多摩の小河内ダム工事慰霊碑を参観し、強制連行された同胞の歴史を学ぶ。
 慰霊碑には、工事に動員され強制労働を強いられて犠牲になった6人(実際はもっと多いと推測されている)の朝鮮人の名が刻まれている。

 とのことだが、戦前の死者であろうか。また日本人労働者と区別されていたのだろうかと気になるが、よくわからない。
 小河内ダムには興味深い歴史もある。奥多摩山村工作隊だ。元になるのは「山村工作隊」(参照)である。

山村工作隊(さんそんこうさくたい)は、1950年代、日本共産党の武装闘争を行った非公然組織。毛沢東の中国共産党が農村を拠点としているのに倣ったもの。


 レッドパージ後、中国に亡命した徳田球一らは軍事方針を指示する。1951年10月の第5回全国協議会(五全協)では「農村部でのゲリラ戦」を規定した新たな綱領「日本共産党の当面の要求」を採択し、「山村工作隊」「中核自衛隊」など非公然組織が作られた。
 各地で列車を爆破したり、交番の焼き打ちや、警察官へのテロを敢行するなどの武装闘争が展開された。そして、共産党の武装闘争を取り締まるため破壊活動防止法が1952年7月に制定・施行された。直接的な火炎瓶闘争は1952年夏頃から下火になったが、軍事方針は続き、農村部での活動が継続された。

 もちろんというべきか現在の共産党はこう扱っている。

 この運動方針は世論からも批判を浴び、1952年10月の総選挙では全員が落選し敗退。1955年7月の第6回全国協議会(六全協)で議会主義に転換し、軍事方針は否定された。
 
共産党の“正史”では「五全協の方針は一部の極左冒険主義者(所感派)による誤りで党本体(国際派)とは関係ない」とされている。

 このあたりの蹉跌感は文学としては柴田翔「されどわれらが日々」(参照)が興味深い。冷やりとした気分で読むと、ここで描かれていた若者と、はてなでぶいぶい非モテ・童貞議論をしている半世紀後の若者とそれほど違いがないようにも思えるし、その後大学の先生になった柴田翔は長い沈黙の後「詩に誘われて」(参照)いるようだ。
 この山村工作隊の一部に小河内山村工作隊があった。実態の一部は「“『五一年綱領』と極左冒険主義”のひとこま」(参照)で伺える。

 六月になって、上部からは独立遊撃隊の問題が提起された。中核自衛隊だけでは活動に限界があり、山岳・農村を根拠地にしたパルチザンが必要だというわけだ。日本の革命をロシア型の都市労働者のゼネスト蜂起と中国型の農村から都市への結合とえがいているわけだから当然の帰結である。中核自衛隊は蜂起の中核となるものであるが、独遊は人民軍の萌芽であり、やがては軍隊ということになる。地区内の各隊からひとりずつ、五人で編成し六月中に出発することになった。


 小河内には人家から一・五キロほど山道を登ったところにコジキ岩とか八丈岩と呼ばれる岩があった。山の中腹の岩の下に八畳はどの広さがあり、コジキが住んだこともあったとかで雨露はしのげた。一次の弾圧のあとの工作隊の住いである。工作隊には、その地に骨を埋めろといわれた定着と呼ばれる者と、十日から半年ぐらいまでの一定の期間で思想教育的側面を重視して送られてきた者とがいた。いずれにしてもほとんどは党派性の欠如などを理由にした懲罰的なものがからんでいた。


二人が闇の中でぼそぼそ話していると、いきなり警官隊がふみ込んだ。飯場への不法侵入と暴力行為で逃げた者を追っているといい、るす番だけということで引き上げた。このあと様子を見に行き、用心棒につかまって警察に引きわたされた私をふくめて逮捕者は九人。いったんは逃げたが後日キャップも逮捕された。これが三次の弾圧である。私は二三日の拘留だけだったが、数名が起訴され、岩崎は半年たらずに二度目ということになった。独遊に数日前に配置されたばかりの朝鮮人の同志もやられ、彼はそれ以前の都内の事件と密入国容疑ということで警視庁に移送されたが、すでに南への強制送還を覚悟していた。

 引用が長くなったが、このスラップスティックな状況は40年後に若者が起こした悲惨な事件の内在に潜むスラップスティックにも似ているようにも思えた。
 さて、同級生、小河内ダム君、どうだい、50歳になった感じは? なに? 最近来てくれるのは中国人や韓国人ばかりなのは何故かって? 別に君だけがそうじゃないんだよ。

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2007.08.23

[書評]カラマーゾフの兄弟(亀山郁夫訳)

 爽快に読める亀山郁夫新訳が全巻揃うまで読書開始は待とうと思っていたが、最終巻を期待していた春頃、なかなか出ないので、よもやまたかという懸念があったが、7月に5巻で完結した。訳者の苦労に感謝したい。そして50歳になってこの本が読めたことを深く自分の人生の喜びとしたい。
 大げさな言い方だと自嘲もするし、私など些細な存在だが、この書籍に呪われたような人生だった。私はある意味では早熟でクラソートキンの歳でこの作品に挑んだ。旺文社文庫箕浦達二訳で読み始めたのだった。ロシア語はわからないが(それでも大学で学んだっけと思い出す)良い訳だった。が、二巻までしか出版されなかった。その後旺文社文庫自体が消えた。魯迅もプラトンも鴎外も漱石も私は旺文社文庫で読み、学んだ。
 いつの日か箕浦訳が出ると確信していて3年が過ぎ、5年が過ぎ、10年が過ぎた。アリョーシャの歳にもなった。そしてその歳も過ぎた。しかたなく継ぎ接ぎのように江川訳でも読んだ。米川訳も読んだ。それはそれで良かったのだが、箕浦訳のある現代性というかロシア性というか、そこがうまく馴染めないでいた。いつか解消しよう。それに、小林秀雄がたしか、ドストエフスキーは40歳、50歳になって読み返しなさいと言っていた。30歳を過ぎて、私も自分なりの運命に翻弄されながら、「そうだな50歳になったら、カラマーゾフの兄弟を読み返そう」と思っていた。私のアリョーシャとしての人生もその頃は完全に終わっているだろうし、と。
 私は自分の予言を叶えた。
 「私のアリョーシャとしての人生」というのは言うまでもなくイカレた物言いである。そのくらいはわかっているが、私は自分の人生にアリョーシャを重ねてきた。ゾシマ長老は私の守護神でもあり呪いでもあった。世俗に生きなさい、と。キリスト教に傾倒しつつ、ゾシマの声を聞き死臭を嗅いだ。今にしてみると、それがなんであったのかはうまく言い難い。だが、何かはわかった。人生で三度目にこの本を読み終え、深い感動と狂気に浸った。
 新訳を気が狂ったように読み、率直なところ、過去の思いが去来するところもあるが(些細なところではストロベリー・リキュールとか)、初めて読むように思えるところも多かった。なぜこんなに面白く、魂をゆさぶられるのだろう、この小説は。
 アリョーシャもかつて自分に思い重ねた人とは違うようにも思えた。と同時に、もう引き返せないほど実は自分と同化している部分を確認した。私の魂のなかにはアリョーシャ・エンジンみたいなものがある。
 現実は、私もフョードルに近い歳になり、また、ドミートリーのような女狂いも理解したし(罪深い!)、そして率直に言えば彼らのカラマーゾフ的汚辱の情熱をも普通に携えているようになった。アリョーシャの中にカラマーゾフ的な力もきちんと読み込めたし、そしてそれが自分の生き方の根幹にあったなと確認した。
 理性をもって理性を吹っ飛ばす一冊(大冊)が存在することが無性に嬉しい。読み返して、感動もだが、この歳こいて文学の狂気にどっぷりと漬かれた。悪徳なのかもしれないが、幸せだ。文学というのはここまで恐ろしいものか。
 これをきちんと世界の人は読み継ぐのだ。これが人類の意識を定義している。これを読んだ人たちは私の友であり、この世界には国境を越えてもたくさんいるに違いない。なによりロシアの魂というのはこの書物のように不滅のものだ、そう気が滅入るように思った。現在ロシアはある意味でソ連回帰を始めているが、それでもあの堅固にも思えたソ連をロシアの魂はぶち破ったし、「カラマーゾフの兄弟」を今読み返せばそれが当然のように見えるし、もっと恐い未来も見えないわけでもない。
 私も歳を取り、それなりの愛欲の罪に落ち、ゆえにカテリーナもグルーシェニカのような女性たちも蠱惑的に思えるようになった。女という存在は美しい。その美と魅惑にフョードル的な救いというかフョードル的な理性というか、そういうものを自分の中に覚える。読み返して私はフョードルがとても好きになった。
 リーズには恐怖と汚辱感を覚えた。以前読んだときは、自分を若いアリョーシャに重ねていたせいか、リーズに初恋のときめきや少女らしい心の動きを読み、思慕のようなものを感じていたが、今回はつくづく、こいつは悪魔だ、女というのは悪魔でもあり得ると思った。率直に言えば、アリョーシャも幾ばくかは悪魔だ。たぶん書かれなかった物語はそこに触れていくはずだったのだろう、ちょうどこの物語において兄イワンが幾ばくか悪魔であったように。
 終わり近く、リーズが悪魔を見るあたり、自分はそういうものを幻視したことはないが、ああそうだ、そんなふうに悪魔はいるのだと思ったし、イワンと悪魔の対話は、そうそう悪魔というのはこういうふうに語る存在だと自然に思った。そいつが50歳のこざっぱりとした男して現れるあたり、神様が私の人生を見透かしてこんな冗談を残したのかという狂気にも陥りそうだった。
 もちろん悪魔なんか実体的に存在するわけはない。今回読み返して、しみじみとドストエフスキーが徹頭徹尾奇跡も信じていないこともわかった。アリョーシャもまったく奇跡を信じていない。この小説は、奇跡など信仰にとって邪悪な迷いでしかないことを告げるための、なんというのか、世界と神の感触を解き明かしている。神もまた私たちが思うようには存在していない。
 悪魔といえば、訳者の示唆を受けている部分もあるのだが、スメルジャコフの父がフョードルではないことは、自然にすんなりと確信できた。では誰か? 江川卓の推理(参照)を亀山郁夫も踏まえているし、ここはあまり踏み込んで言ってはいけない領域なのだろうが、ええい、グリゴーリーなのだろう。
 そのことは私にとってこの物語の意味を決定的に変えることにもなる。苦笑されてもいいが、そのことがグリゴーリー証言に関わってるのではないか。もちろん、グリゴーリーが嘘をついたとまでは思えない。イザヤ・ベンダサンが「日本教について」(参照)で日本人には一人のグリゴーリーもいないと言ったように。
 ではなぜグリゴーリーはドアが開いていたのを見たのか(そう証言したのか)。悪魔(スメルジャコフ)もそれを知らない。物語は一見、グリゴーリーの錯誤に帰しているのだが、そうだろうか。ドストエフスキーはそこに何か深い謎――たぶん奇跡に関係する何か――をかけているのだろう。たぶん私はこの後の人生でそこが気掛かりになり続けるだろう。
 そういえば30代のころだったか、ゾシマがドミートリーに跪く謎が忽然とわかったことがあった。もちろん今回読み直してみれば、べたにわかることでもあるが、ドミートリーが無実の罪を負うこともだが(ドミートリーはイエスである)、神の恩寵がドミートリーを父親殺しから救い出していることだ。その意味でこの小説は実は奇跡を真正面から描いてもいる。父親殺しは、イエスに命じられたレギオンのように悪魔たちが実現している。その仕立ては福音書そのままである。
 この気の振れたエントリはもう終わりにするが、文学的な趣味を少し。今回「カラマーゾフの兄弟」を読み直して、漱石が晩年これを読んだのではないかと私は思えてならない。強い確信というほどではないが、「明暗」(参照)のポリフォミックな構成と倫理的な求心力と、どうしようもない馬鹿げた事件の趣味というのは、妙に似ている。それとイワンと悪魔の対話を読みながら、これは村上春樹そのままじゃないかとも思った。「羊を巡る冒険」(参照)から「海辺のカフカ」までべたに「カラマーゾフの兄弟」の影響がある。いや、「海辺のカフカ」(参照)はかなり「カラマーゾフの兄弟」と近い位置にあり、これはむしろ日本国外の読者のほうがわかりやすいことだろう。

亀山郁夫訳「カラマーゾフの兄弟」


  1. 「カラマーゾフの兄弟1 (光文社古典新訳文庫)」
  2. 「カラマーゾフの兄弟2(光文社古典新訳文庫)」
  3. 「 カラマーゾフの兄弟3(光文社古典新訳文庫)」
  4. 「カラマーゾフの兄弟4(光文社古典新訳文庫)」
  5. 「カラマーゾフの兄弟5 エピローグ別巻(光文社古典新訳文庫)」

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2007.08.22

住居は賃貸か購入かというネタからさらに与太話

 雑ネタ。というか、雑にしか書けないのだが、古典的なアポリア、つまり「住居は賃貸か購入か」という話。先日、はてなダイアリー「不動産屋のラノベ読み - 『賃貸よりも、実は買ったほうがトク!』を批判してみる」のコメント欄(参照)を見かけて読むと面白かった。いろいろなかたがいろいろ損得計算をされていた。たぶん、ネットを見渡せば、いろいろな意見があるのだろう。ということは、この問題は、ディフィニティブな結論はなく、ある状況下でそれなりの理屈が成立し、その理屈を楽しむといった類の議論だろう。おそらく誰もがベットしている点で話題にもなりやすいのだろう。ブログのネタ的じゃん。
 その議論を読んでいて、でも、私はちょっと違ったことを考えていた。実家や親戚の今の住居のことだ。簡単に言うと、子供がいなくなった「マイホーム」。
 昭和30年代から40年代、あるいは50年代もそうだろうか。男は正規雇用で働き、主婦は家と子供を守る。家計をやりくしてマイホームを持つ、そういうライフスタイルがあったのだが、いずれ子供は家を出て、あとは老夫婦がマイホームに残った。子供と暮らすには狭い家だったのだが、老夫婦には手持ち無沙汰な風情となりかつての子供部屋は顧みられることのない倉庫の一室となる。そんな家が多くなったなと、実家の街を訪れると思う。老夫婦だけだろうと思われる家を通り過ぎながら、この人達は子供が巣立ったあとの住居を考えていたのだろうかと思う。わからない。実際に中に入る機会があって見渡すと、かつて家族だった記憶のようなものがべっとりと家の臭いのように染みついて圧倒される。それが老人たちの夢でもあるような。
 子供がいなくなったら、そういうマイホームは要らないではないだろうか。そうすると、マイホームみたいな家が必要なのは長くても25年間くらいか。私の世代(昭和32年生まれ)だとモデル的には25歳で結婚。すると50歳で子供がいなくなる。というところで自分が50歳という歳であるのに気がついて唖然とし、「モデル的には」なんて言えないなと思う。現実的には、子供がいて賃貸というのは公務員宿舎みたいのでないと無理なのではないか。だからマイホームが夢というか。どうなのだろう。
 通称パラサイト(30歳過ぎて親と同居)というのがあるのも、マイホームがあるからなのではないか。父母いてマイホームがあるというお子様の状態が延々とカンファタブルに続いている。というとき、その根にあるのは、やはりマイホームという呪いか。結婚しない30代40代はマイホームに呪われている? まさかね。
 マイホームの呪いといえば、離婚した知人の苦労譚を聞いたことがある。書かない。よくある典型的な悲惨な話にしかならないからだ。が、呪いという感じはした。マイホームというのは一生の買い物というが、離婚というのはその最大の危機になるのか。いや最大は子供か。
 とたわいなく考えていて思ったのは、住居というのはライフサイクルに依存するものなのだろうが、そういうライフサイクル、若くして伴侶を見つけ子供を産んで巣立たせ年老いていく、そういう人生の規範みたいなものがなくなってしまったのだろう。そして、ライフサイクルの消失に随伴的に起きるのが、各種の社会問題なのではないか。住居は賃貸か購入かというのもそうした派生に過ぎず、金銭的な議論はたとえば離婚リスク、あるいは生涯未婚リスクでかなり確実に不確実にしか議論でないものではないか。
 話がだらけてしまうが、このところミルトン・エリクソン関係の本を読んで、特に「アンコモンセラピー―ミルトン・エリクソンのひらいた世界」(参照)に顕著なのだが、各種の心理的な問題は、ライフサイクルの危機として説明できるのかもしれない。もっとも、ミルトンの思想をそう見るべきかは異論は多そうだし、ミルトンを読み直したのはどうもNLP的なバイアスで彼を私は基本的に誤解していたなという反省があった。
 同書でもそうだが、ミルトンは人の生き様のなかに、ちょっとユング的な言い方になるが、ライフサイクルへの元型のようなものをさっと見取っていることある。ミルトンの時代と場所によるのだろうが、あの時代の米国で「結婚できない」という悩みは基本的に女性に表れるもののようで、そうした事例があるのだが、ミルトンは、なんというのか、お節介ばあさんよろしく、彼女たちが結婚するように「介入」していく。事例を読みながらこれって今のはてな世代の非モテ論の人が読んだら、論破しまくるとか、あるいはちょいフェミなお姉さんが「( ゚д゚) 、ペッ!」しまくるんじゃないかと思った。
 が、ミルトンの直感を支える何かは正しいように私には思えた。それは、ライフスタイルにはある種の規範、あるいは、心理的な問題をスタビライズする基底的な構造があるのではないか。いや、そう思う私の感性がミルトンのように古い世代なのか。
 現代の言説では、ライフサイクルというのは経済学的なモデルとしては出てくるが、個人の生き方には問われない。個人には生き方の尊重なり主体があってライフサイクルを選択することになっている。もっとも、その個人といいながら、あるいは恋愛にカモフラージュされているが他者や子供の関係というのが必然的に含まれている。でも、そこは言わないお約束。
 私のような世代はどこかにライフサイクルの規範の意識を薄ら持ちながらも、私より上の世代がマイホームの呪縛に固まったように、きれいな形で倫理的なり道徳的にはなりえないだろう。なにより、言説としてはもはやそんなものはあり得ない。生む生まないも個人の自由ですよはいはいということなり、アプリオリに議論は終わっている。
 そうそう議論は最初から終わっているのだったな。

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