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2007.07.07

ありがちに参院選の予測など

 参院選にはあまり関心ないが、まずごく基本からちょっとだけまとめてみよう。
 参院の全議席数は242。内訳だが、与党が自民112プラス公明24で136。残りは野党で106議席。
 現状では、与党が30議席分強いが、自民党で単独過半数は取れないので、参院では自民党は公明党との妥協を強いられるというか、公明党っていうかそのぉ……鼻息ふんっ状態。
 参院において現状の自民・公明体制を崩すには、自公から16議席削ればいいことになる。そうなれば、つまり与党120、野党122となって野党が優勢になる。オール野党で意思の合意ができるわけはないにせよ、与党について大きな歯止めになるし、そのあたりの雲行きで公明党の動向も変わってくるだろう。
 参院選は半数改選なので、今回の選挙で改選議席は121議席。内訳だが、与党の改選議席は78、野党は43。なお、区分で見ると、選挙区が73、比例選が48。
 非改選議席は与党58、野党63。これが今回の選挙で影響しない部分。
 ここで今回の選挙で与党が過半数を維持するには、全体で122議席が必要。この場合、野党は120議席。
 今回の選挙で変動する改選議席に限定すると、与党は64議席が最低必要で、この場合、野党は57議席。
 この最低の過半数状態をシナリオとして見ると、与党は14議席減らしても大丈夫(つまり野党は14議席以上増やさないと過半数は取れない)。
 話を与党側に引き寄せてると、与党の最低目標64議席のうち、公明党の組織票がどこまで鉄板かだが現状の13議席を維持したとすると、自民党のみで51議席取ればよい。
 自民党総裁安倍ボクちゃん……違った安倍晋三さんの命運だが、51議席行けるかなというところ。公明党が鉄板割れするときついし、自民が50を少し割るとなると、スジの悪い野党の抱き込みというシナリオになる。
 総裁の首が飛ぶのはもうちょっと下だが、9年前の橋本元総理が当時の参院選で44議席という栄光のどん底でワイプアウトした実績があるので、安倍総理の命運もだいたいそのあたりということになる。
 さて、ちょいとだけ素人予測をしてみよう。
 安倍総理の首がふっとぶ可能性だが、現状の与党78議席中自民65議席から44議席(橋本ライン)へのダウンってことで、21議席減るかなのだが、ちょっとそれはなさそうだ。安倍政権続行はすでに織り込み済みなのではないか。
 次に、自民党が51議席を割って、与党が参院過半数が維持できないシナリオがあるかなのだが、どうか。
 参考に、ちょっと古いが5月時点での読売ウィークリーの予想(参照)では、まず29個ある1人区については。


29選挙区のうち、自民が議席を固めつつあるのが群馬、富山など15選挙区、逆に民主優位なのが岩手、三重など6選挙区。残りの8選挙区はほぼ互角の戦いだ。

 複数区では。

選挙区ごとに優位に戦いを進めている党派を並べると、次のようになる。
▼改選議席(5)=東京(自・自・民・民・公)
▼改選議席(3)=埼玉(自・民・公)、千葉(自・民・民)、神奈川(自・民・公)、愛知(自・民・公)、大阪(自・民・公)
▼改選議席(2)=北海道(自・民)、宮城(自・民)、福島(自・民)、茨城(自・民)、新潟(自・民)、長野(自・民)、静岡(自・民)、岐阜(自・民)、京都(自・民)、兵庫(自・民)、広島(自・民)、福岡(自・民)

 よくわからん。
 比例選については。

比例選の場合、自民党の獲得議席は直前の報道各社の世論調査の自民党支持率が参考になる。自民vs民主の構図で戦った過去3回の獲得議席との相関(数字は読売新聞調査)を見ると、2004年(32.7%)→15議席、01年(41.0%)→20議席、1998年(31.4%)→14議席。直近調査(3月17日)の自民党支持率は36.4%だから、現段階で17議席程度が見込まれる。

 これはまあそんなところか。
 5月時点での読売ウィークリーの予想をまとめると。

選挙区選、比例選の数字を集計すると、自民党は選挙区選で34議席を固めつつあり、比例選の17議席を足せば、勝敗ラインの51議席にギリギリ届く勢いだ。

 とのことで与党過半数という線を出している。その後、安倍自民党バッシングのような状態は続いて、5日付読売新聞”安倍内閣支持率32%に下落、不支持率は53%…読売調査”(参照)ではさらに落ち込んでいるが、それで比例選に大きな影響を出すほどのものでもない。また複数区のほうもそれほど変化はないだろう。
 勝敗を決めるのは、読売ウィークリーの読みの線でいうと、1人区の8議席とかかなという感じがするし、そのあたりで小沢どさ回りがどのくらい威力を持っているかだ。
 が、小沢力も大したことはないんじゃないだろうか。
 ということでまとめると、安倍内閣支持率から見れば自民党の票はかなり減るだろうけど、参院選与党過半数という構図が崩れるまでもないのではないか。
 この読みに確固たる自信があるなら私は投票くだらねと思うが、そこまでは言えないかな、投票に行こうかなという気になった。

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2007.07.06

最近の北のお便り、どんより編

 先日ちょこちょこと北朝鮮がミサイル実験をしていた。固定燃料だったらしいので、すわっとも思ったが直接的には日本の安全保障には影響はなさそうだし、国内でもそれほど問題視されてもいないようだった。ただ、気になることはあった。これも微妙な話なんでどう書くか迷うのだけど、ブログをやっているなら時事で気になることは書いておくという程度に書いておく。
 話を単純にすると、今回の一連のミサイル実験は北朝鮮が韓国を狙ったものかもしれない。もっともそれを言うなら一年前の、日本が大騒ぎした実験にもそういう面はあったかとも思うのだが。そのあたりはどうなのかとぼんやり疑問に思っていると、三日付の朝鮮日報社説”北のミサイルはソウル以南の都市を狙うためのもの”(参照)で、この件にふれたバーウェル・ベル在韓米軍司令官の講演を扱っていた。


 バーウェル・ベル在韓米軍司令官は2日、寬勲クラブで講演を行い、「北朝鮮が先月27日に(咸興近辺から)試験発射した短距離弾道ミサイルは、韓国軍と韓国の国民を攻撃するために開発したものと判断される」とし、「北朝鮮は発射試験に成功した」と語った。またベル司令官はこのミサイルについて「旧型の地対地フロッグミサイルを改良・改善した現代型で、固体燃料を使用して迅速な発射と移動を可能にしている」とするとともに、「北朝鮮は射程距離を延長することでソウル以南の都市を狙ってくるはず」と語った。


 射程距離が120キロということは、韓国軍の基地はもちろん、平沢の米軍基地をも狙えることになる。ベル司令官が説明したように迅速な発射や移動が可能だとすれば、韓米連合軍が迎撃するのも容易ではない。北朝鮮が同ミサイルに生物兵器や化学兵器を装てんした弾頭を装着すれば、危険は一層拡大する。

 朝鮮日報としてはこれで韓国の安全保障はどうなるのだという問題提起でもあるし、大統領選に関わる政局の文脈もあるのだろう。
 韓国国内でのこの問題の受け止め方については私はわからない。概ね、また、ふかしてやがんなという程度ではないだろうか。その雰囲気は多少この社説からも感じられる。また、これは米軍のおねだりでしょというふうな理解も当然あるだろう。同じく同日の朝鮮日報”在韓米軍司令官「韓国側が防衛費5割負担を」(下)”(参照)では露骨にカネの話が出てくる。

 また、在韓米軍の防衛費の分担金の問題について、ベル司令官は「50%程度は韓国が負担してくれることを望んでいる。交渉が順調に進まなければ規模の縮小は避けられない。有事の際に備えた態勢に問題が生じる兵力削減や、韓国人労働者の解雇はしたくないので、あと残された道は組織改革と基地の移転しかない」と述べ、米軍基地の再編計画を調整する可能性についても示唆した。

 ここでオチとしてもいいのかもしれない。ただ、私はこの問題の構図はむしろ、次の部分にあると思う。

 ベル司令官は、戦時作戦統制権が韓国軍に移管された後、有事の際に戦争を勝利に導く上で重要な役割を果たすことになる米軍の戦力増強について、「多くの数を確保するのは難しいだろう。地上戦は韓国軍が主導し、最初の攻撃も韓国軍が中心になって行うことになるはずだ」とし、戦力増強の規模が縮小されるとともに、海軍・空軍は米軍が支援するが、地上戦は韓国軍が責任を持って行わなければならない、という点を強く示唆した。

 要点は二つあると思う。一つは、戦時作戦統制権が韓国軍に移管されるということ。もう一つは、先の記事のほうがわかりやすいが、北朝鮮の射程はソウルを超えて、在韓米軍を威嚇していること。このあたりの行為は北朝鮮と利害を一にする国家や勢力にもメリットがあるかもしれない。
 戦時作戦統制権については、「極東ブログ: 朝鮮半島有事における戦時作戦統制権が韓国へ返還される予定」(参照)や「極東ブログ: 韓国の戦時指揮権問題」(参照)で少しふれた。また、後者については、「極東ブログ: 在韓米軍基地移転の裏が読めない」(参照)や「極東ブログ: ソウルが軍事的空白になる」(参照)でも少しふれた。
 率直に言ってよくわからないことも多いのだが、大枠でいえば、在韓米軍は北朝鮮が引き起こすかもしれない問題に関わりたくないというのがあるだろう。特に、米兵に犠牲者が出るような事態については、今の内から退路を取っている印象がある。その場合、韓国はどうなるのかということについては、米国としては韓国が考えればよいだろうくらいな。
 当然、この構図のなかで日本はどうかという問題がある。が、ちょっと書く気力がない。というかブロガーが考えるこっちゃないか。大枠だけ言えば、日本の安全保障に米国が関与するだけの、米国側のメリットというのを米国がどの程度意識しているかに関わっている。それを言うなら、日本側のメリットも議論されるべきだろうが、そのあたりは実際にはほぼタブーなのだろう。

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2007.07.05

民医連→東京新聞→ロイター(国際)に流れる東京の老人問題

 ちょっと微妙な話題かもしれないのでできるだけ誤解を避けるべき前口上をあげるべきかもしれないのだが、どうもその手の前口上を逆手にとられることが多くなってきたので、それもどうかなとちょっと戸惑う。まあ、なんとなく気になるので書いておこう。
 話は4日付けのロイター記事”Tokyo's isolated elderly risk dying alone -survey”(参照)からだ。


TOKYO, July 4 (Reuters) - Thousands of elderly people who live alone in Tokyo have little social contact and face the prospect of a lonely death, according to a survey by an association of hospitals published this week.
(東京7月4日(ロイター)今週発表されたとある病院協会の調査によると、東京に住む何千人も一人住まいの高齢者に社会的な交流がなく、孤独死の予測に直面している、とのことだ。)

 東京に住む一人として、そして青春の日々からの時の速さを思えば遠からず高齢者の私にも気になるニュースではあるのだが、その前に、「とある病院協会」というのがなんだろと調査団体に関心が移った。これは次のパラグラフでわかる。東京民医連だ。

Tokyo is home to some 2.3 million people over the age of 65, and according to the Tokyo Min-Iren association, more than 30 percent of them live alone and need urgent help, the regional Tokyo Shimbun said on Wednesday.
(水曜日のローカルな東京新聞の報道では、東京には65歳を越えた230万人が住むが、東京民医連によると、その30パーセントが一人住まいであり、緊急の支援を要するとのことだ。)

 というわけで、老人の一人住まいは約70万人ということだ。そのこと自体は、他の国際都市と比べて多いと言えるのかよくわからない。老人には意外と一人で暮らしたい人も少なくないし、それ自体はどうということでもないはずだ。というか、ロイターはいったいどういうつもりでこのニュースを流したのだろうか。ロイターの問題意識はこうらしい。

The survey of almost 2,000 people aged 65 or over in the capital last year found 37 percent had little or no contact with their neighbours and 30 percent almost never went out, except to buy food or visit the doctor.
(昨年首都に済む65歳以上の人2000人を対象とした調査では、その37パーセントが隣人との接触がなく、食品購入などを除けば30パーセントが外出したこともないとのことだ。)

 このあたりから、ちょっと違うような感じがして、どういうサンプリングだったのか、気になりだした。それはちょっと置くとして、ロイターの結語はこうだ。

Japan has the world's highest proportion of elderly to the population as a whole, and many experts have expressed concern about the fate of the urban elderly, who often have fewer social ties than their rural counterparts.
(日本は世界有数の高齢者人口比を抱えている。多くの専門家が指摘したことだが、地方より社会的な絆が薄い都市高齢者の今後に懸念を表明している。)

 いま一つロイターの趣旨がわからない。
 この話題日本ではどうなっているかざっと探すと、ロイターの参照にもあったが東京新聞の記事にある。だが、他紙では見かけないようだ。
 元記事はこれらしい。”東京・独り暮らしの高齢男性 『相談相手なし』4人に1人”(参照)。

近所との付き合いがまったくないか、あいさつ程度という人が四割近くを占め、三割は日常の買い物や通院以外ほとんど外出しない―。東京の高齢者のそんな実態が三日、東京民主医療機関連合会(東京都豊島区)の調査で分かった。独り暮らしの高齢男性の四人に一人は相談相手が「いない」と回答。東京民医連は“孤独死予備軍”にあたるとして「行政と住民の協力による対策が急務」と指摘している。

 ロイターの記事と比べると、トーンがかなり違う印象があるが、全体を比較すると大きな違いがあるわけでもない。気になる調査方法だが、同記事には明記されていた。

 調査は全日本民医連が昨年十、十一月に全国の約二万人を対象に実施した「高齢者医療・介護・生活実態調査」の一環。東京民医連が六十五歳以上の高齢者のうち、医療生協組合員など都内の千九百五十六人から聞き取り調査した。

 つまり、東京での調査対象者は医療生協組合員がベースになっているようだ。よくわからないのだがそれって、この手の統計調査としてどの程度有意味なのだろうか。
 もう少し実態が知りたいので、東京民医連と全日本民医連のサイトを見たのだが該当調査報告はなさそうだ。もしあったらコメントなどで教えていただきたい。追記 全民医連サイトに概要についてはレポートがあった。「高齢者医療・介護・生活実態調査/貧困 孤立/2万人の声が伝えたこと」(参照)。
 ところで元になる全日本民医連、全日本民主医療機関連合会だがウィキペディアの関連項目はこう(参照)。

関連項目
日本共産党 - 全日本民医連内、各地方の民医連内には同党の党員が多い。また加盟医療機関内に党支部(所謂職場支部)や有志後援会が組織されているケースもある。

 共産党と強い関わりはあるとはいえるのだろう。03年の読売新聞記事”「民医連系の病院、共産の集票マシン化」と指摘/自民・西野氏”(2003.2.7)にはこうある。ベタ記事で短いのと事実を記載したものなので全文を引用する。

 自民党の西野陽氏は六日の衆院予算委員会で、民医連(全日本民主医療機関連合会)系の複数の医療機関で起きた医療事故を取り上げ、「本業の検査では手抜きしていながら、あらゆる選挙で共産党を支持し、集票マシン化している」などと指摘した。共産党は西野氏の発言に対し、「医療ミスの問題を特定政党の誹謗(ひぼう)中傷と結びつけるのは卑劣だ」と反発しており、議事録からの削除を求める方針だ。

 たしかにそれは誹謗中傷のようにも思える。
 地域レベルでは共産党と民医連の選挙のつながりは比較的硬いようにも見える。例えば、”鹿児島市長選 「つくる会」の園山氏が無所属で立候補表明=鹿児島”(2004.10.30読売)より。

 十一月二十八日投開票の鹿児島市長選挙で、共産党や民医連など十一団体が作る「市民の市政をつくる会」の常任幹事で農業の園山一則氏(61)が二十九日、同市役所で会見を開き、無所属で立候補すると表明した。

 とま、話は以上で、こういうエントリの書き方をすると、情報の流れ、民医連→東京新聞→ロイター(国際)の背景に共産党がとか誤読されそうだが、別にそういう意図ではない。ので、そんなバッシングはしないでね。そうではなくて、調査の信頼性についてロイターが伝聞記事ということで放棄しているけど、他のジャーナリズム的にはこの問題どうなんでしょというののほうが気になる。なんとなく、シカトなのだろうか。

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2007.07.03

東京大気汚染訴訟、雑感

 東京大気汚染訴訟についてちょっと心にひっかかることがあるので簡単に書いておきたい。まず、東京大気汚染訴訟についてだが、二日付け読売新聞”東京大気汚染訴訟 原告、和解受諾を回答”(参照)を借りる。


 自動車の排ガスで健康被害を受けたとして、東京都内のぜんそく患者らが国や都、自動車メーカーなどに損害賠償を求めた東京大気汚染訴訟の控訴審で、原告側は2日午前、東京高裁の和解案を受け入れるとの書面を同高裁に提出した。メーカー7社も同日午後、受諾を高裁に伝え、共同見解を発表する。これにより、訴訟の全当事者が和解に合意。訴訟は提訴から11年を経て、全面決着する。

 つまり、都、国、首都高速道路会社は既に和解案を受諾しているが、これに今回メーカー七社も加わった。
 また、和解案と国については。

 同高裁が提示した和解案は、〈1〉ぜんそく患者のための医療費助成制度の創設〈2〉公害対策の実施〈3〉メーカー7社による計12億円の解決金支払い――という内容。
 医療費助成制度について、国は当初、資金負担を拒否していたが、安倍首相の政治決断で60億円の拠出が決まった。また、解決金については、原告、メーカー双方で最後まで折り合いが付かなかったが、原告団は、医療費助成制度や公害対策の実現により、原告以外の患者も広く恩恵を受けられることなどを理由に、受諾を決めた

 国ついては、安倍首相の政治決断が重要だった。
 新聞各紙の社説としては今日の読売新聞では”大気汚染訴訟 和解を環境改善につなげたい”(参照)、また毎日新聞では”大気訴訟和解 企業も国も重い責任負った”(参照)があるが、両者ともにこの和解を高く評価していると理解してよいだろう。
 大手紙では、日経はこの間の社説では触れていない。朝日新聞は先月二十五日付けの社説”大気汚染訴訟―高裁の和解勧告を生かせ”で前もって触れている。
 産経も今日この問題を社説”大気汚染訴訟 評価したい和解での解決”(参照)で扱っているのだが、他紙と少し異なる指摘がある。

 とくに医療費助成制度の創設は、石原慎太郎都知事が、国に強力に要請したもので国、都など当事者がそれぞれ資金負担することになっている。原告側は、解決金の額には不満を示したものの、同助成制度を高く評価、これが和解案受諾の要因となった。

 和解の重要なキーに医療費助成制度の創設があり、この発案は石原都知事によるという点を産経は重視している。
 エントリ冒頭、心にひっかかるとしたは、この問題における石原都知事の政治的決断の評価についてだ。率直に言うと、この東京大気汚染訴訟の和解を決定づけたのは、石原慎太郎都知事の政治手腕であり、その点をきちんと評価すべきなのではないか、そう私は思った。
 ただ、これも率直に言うのだが、マスコミやネットの空気では、石原都知事をバッシングこそすれ、評価するという意見をあまり見かけない。今回の件でも、そうした例なのだろうかと疑問に思った。あるいは、石原都知事は右派であり産経も右派だから、今日の社説で好意的に取り上げたにすぎないということなのだろうか。
 私の率直な意見は、石原都知事がどのようなイデオロギーを持っていても、今回の件においての政治的な決断は評価されるべきだし、それをきちんと評価することで、他の行政の長がこの件で学ぶことができるのではないかということだ。
 ただ、こういう意見をブログで言うと、お前は石原シンパだろうという批判になるのだろうか。そういう予感はするので、口ごもってしまう。私は石原都知事の支持者でもなければ前回の都知事選で彼に投票もしてない。それ(石原都知事のイデオロギー的な見解)とこれ(東京大気汚染訴訟でのリーダシップ)は別だろうと思うだけなのだ。
 もっとも、今回の件について、石原都知事の功と理解するのは間違っていて、別の背景があるのかもしれない。むしろ、そうであれば、誰がこの問題を評価すべき今日の和解に導いたのか、それをどこかで的確にまとめるほうがよいのではないか、それは今後の日本の市民社会に有益なのことなのではないか。そのあたりの言論が、どうも私には見えてこない。
 少し今回の問題を、石原都知事の文脈で振り返りたい。まず、00年12月2日の読売新聞”[青空を]尼崎公害訴訟和解(下)追い詰められた国 石原都政“反乱”より。

 一九九六年に提訴された「東京大気汚染訴訟」は、国と都などに汚染物質の排出差し止めと約百十七億円の損害賠償などを求めて係争中。記者会見で、石原知事は「(大気汚染は)東京は尼崎よりもひどい。全部、国の不作為だ。裁判に負けて賠償金を払わなければならなくなったら、国を訴える」とまで言い切った。
 尼崎訴訟の和解にも「行政が車両規制をできるだけ早期にすると約束しても、なかなかそうはいかないんじゃないか」と国への根深い不信をのぞかせた。
 こうした都の強硬な姿勢に、環境庁大気保全局の桜井康好企画課長は「汚染のひどい所が進んだ施策を取るのは当然」と言う。だが、〈独走〉する石原都政に警戒と不快感を示す幹部は多く、「反乱」と呼ぶ声も。

 ここには、国の不作為に対して都というローカルな行政から強く異を唱える行政の長としての石原都知事の意志があるように思える。
 02年10月24日読売新聞”東京大気汚染訴訟29日判決 車メーカーの責任問えるか 未認定患者も原告団に”の記事は、今振り返ると、やや意外ともいえる印象を私は持つ。記事は、同月29日の東京地裁における「東京大気汚染訴訟」判決を前に、判決を予想してして書かれたものだ。

 判決後に、もう一つ注目されるのは、ディーゼル車規制に積極的な石原都知事の動向だ。
 知事は国の対策を強く批判しており、スタンスは原告に近い。判決が原告に軍配を上げた場合、「都は控訴を断念するのでは」と、原告側は期待する。


 こうした姿勢が「控訴断念」の推測を呼ぶ根拠だが、都庁内では否定的な空気も強い。先月から関係部署が集まり、判決後の対応を協議しているが、「責任を認めることは、賠償など様々な問題が生じる」(環境局幹部)と慎重論が大勢だ。「最終的には知事の判断次第」という状況になっている。

 この時期の空気を回顧するに、石原都知事の主導で都が控訴を断念するかどうかは、マスメディア側からは明確に読めていなかった。むしろ、否定的なトーンが感じられる。
 しかし、結果は、石原都知事の言葉をそのまま借りれば、「控訴はしません。国の対応を見ていると、心情的には私も原告団に加わりたいくらい」ということだった。そして、「行政の対応がこれまで不十分であった点を重く受け止め、心からおわび申し上げます」と石原都知事は明確な謝罪をした。
 国は当然といっていいだろうが控訴した。これに対して、石原都知事は国に翻意を促していた。02年11月9日読売新聞”東京大気汚染訴訟で国が控訴 石原都知事、小泉首相に取り下げ要請”より。

都の石原慎太郎知事は八日、官邸で小泉首相と会い、東京大気汚染訴訟で東京地裁から損害賠償の支払いを命じられた国と首都高速道路公団が控訴したことについて、取り下げを要請した。石原知事が持参した要求書によると、「大気汚染をここまで放置した国の責任を自ら認め、控訴を取り下げるよう要請する」としている。

 安倍首相になってからもこの件についての石原都知事の行動は変わらず、ついに安倍首相を動かしたと言ってもいいだろう。5月31日読売新聞”東京大気汚染訴訟 国60億円拠出「大きな壁クリア」 原告団と都が歓迎”では、30日の石原都知事と安倍首相の対談に触れこう記している。

 この日夕、石原慎太郎知事と会談した安倍首相は「長い間、ぜんそくに苦しんでこられた方々のことを思えば、早期に解決しなければならないと思う。私の判断で決断した」と語った。

 それが本当なら、安倍首相もまたリーダシップして決断したのだろうし、それらを評価してよいように思える。
 以上でこのエントリのコアの話は終わりなのだが、参院選が近づき、安倍首相バッシングのような空気も醸し出される中、あたかも安倍首相支援のようなエントリを書くなよバカみたいな気後れ感もある。また、私がこれで安倍首相支持派のように誤解されてもなといううんざり感もある。
 ただ、それとこれとは違うだろと思う。石原でなくても安倍でなくてもいい、都という大きな地域行政と国の行政の責任者が、大気汚染の原告を理解し決断した教訓として正しく評価されるべきだとだけ思う。

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2007.07.01

[書評]ウェブは資本主義を超える(池田信夫)

 現在のインターネットのシーンでこれを読まなければ先には進めないよという一冊があるとすれば本書だろう。ただし、すでにブログシーンのコアなところに漬かっている人なら、知っている話ばかりであるという印象を持つかもしれない。あるいは、ある種のボックスに分類されるべき視点からの思索ノート群に見えるかもしれない。私もどちらかというと当初ざっと目を通したときにそう思った。再読して大いに反省した。

cover
ウェブは資本主義を超える
「池田信夫ブログ」集成
 個々の点においては重箱の隅をつつくような批判も可能だが、この書籍全体が示唆するものは相当に長い射程を持っている。最初にここから引用し紹介するのは反って誤解を招きかねないが、次の指摘は一見すると柄谷行人あたりが言いそうなごく当たり前のことのようにも思えるが、この要点を思索の根幹に据えて、ITの未来を正確に見ている人は少ないのではないか。

 マルクスの未来社会像としては『ゴーダ綱領批判』の「各人はその能力に応じて働き、各人にはその必要に応じて与える」ばかりが引用され、「無限の富を前提としたユートピアだ」と批判されることが多い。しかし、『資本論』では、未来社会は共産主義とも社会主義とも呼ばれず、「自由の国」とか「自由な個人のアソシエーション」などと呼ばれている。その自由とは、ヘーゲル的自由ではなく、自由時間のことである。


マルクスにとって未来社会とは、必要(必然)に迫られて労働する社会ではなく、自由に活動する社会であり、共産主義の目的は「自由時間の拡大」(=労働時間の短縮)なのである。

 マルクスはえてして資本主義や社会主義といった制度から人間の自由を見つめ直す思想家として理解されてきた。それが間違いというのではないが、マルクスの哲学が重視していたのは経済制度や階級的な権力の装置より、人間個々人の自由であり、その自由とは自由時間であった。労働が自由と自由時間のなかに置きなおされる状態が、人間の本質を捉え解放する思想の極点に据えられていた。
 その視点から、現在資本主義やあるいはウェブを中心とするITテクノロジーはどう見えるだろうか。つまり人間を取り巻く歴史の巨大なトレンドや状況といった外的な運動から未来を捉えるのではなく、人間の側の、その本質となる自由から逆に資本主義やITテクノロジーを見つめたとき、どのように考えられるだろうか。

 資本主義とは、現代の企業理論でも、資本家が物的資本の所有権をテコにして労働者を支配するシステムであり、その有効性は人的資本や知的労働の重要な情報産業では低下する。だから、資本が経済システムの中心であるという意味での資本主義の時代は、終わりつつあるのかもしれない。この意味でも、マルクスは正しかったわけだ。

 なぜ情報産業でそう言えるのか。ITテクノロジーがどう関わるのか。池田はこう説明する。

 資本主義の前提は、資本が希少で労働力は過剰だということだ。工場を建てて多くの労働者を集める資金をもっているのは限られた資本家だから、資本の希少性の価格として利潤が生まれる。これは普通の製造業では今も正しいが、情報の生産については状況は劇的に変わった。ムーアの法則によって、1960年代から今日までに計算能力の価格は1億分の1になったからである。
 これは建設に100億円かかった工場が100円で建てられるということだから、こうなると工場に労働者を集めるより、労働者が各自で「工場」をもって生産するほうが効率的になる。


 つまり情報生産において、資本主義の法則が逆転し、個人の時間を効率的に配分するテクノロジーがもっとも重要になったのである。だからユーザーが情報を検索する時間を節約するグーグルが、その中心に位置することは偶然ではない。資本主義社会では、希少な物的資源を利用する権利(財産権)に価値がつく。情報社会では膨大な情報の中から希少な関心を引きつける権利(広告)に価値がつくのである。

 おそらくマルクス経済学を学んだり資本論をある程度精読した人なら、「資本の希少性の価格として利潤」といったフレーズに首を傾げるかもしれない。そしてその上に立てられた議論には本質的な誤謬が潜んでいるのではないかと警戒するだろう。むしろマルクス経済からすれば地代論に相当するのではないかとも。
 しかし、そうした細かい点を捨象し、生産手段と資本家の関係で資本主義を捉えるとする割り切った視点に立ち、情報社会にあって生産を情報の産出とするなら、そのインフラ(池田はここではハードウェアのみを便宜的に強調しているがソフトウェアや基本的なデータベースも含める含意があるだろう)さえ整備されているなら、生産手段としての情報機器・環境は労働者の側に戻される。つまり、情報の生産者は生産手段を持ち合わせうるようになる。であれば、その労働者のインセンティブとなるものが、その自由の本質である時間だと考えることにそれほど無理はない。池田のこの視点はかなりくっきりと、現在進行中の世界変化の様相の一部をうまく表している。
 以上引用が多くなったし、私の理解は池田の好むところではないかもしれない。だが、この根幹とも思える思索者として池田の立脚点が見えたとき、本書の表題「ウェブは資本主義を超える」が私にはすっきりと理解できたし、また副題『「池田信夫ブログ」集成』ということからも、各方面の雑文集にも見える本書に一貫した思想が流れていることが理解できた。
 このコアの部分から、著作権問題や彼が得意とする放送の問題、規制緩和による生産性の向上など各種の議論が一つの全体につながってくる。なお、本書は池田信夫ブログの内容を含んでいるとはいえ、私の読む限り『「池田信夫ブログ」集成』とはまったく異なるものであり、むしろ書籍によって池田信夫ブログ(参照)を理解する援助となった。
 思想的なコアに加えて、本書についてもう一つ述べておきたいことがある。ある種の政治的情熱とも言えるものかもしれないのだが、本書を読みながら、池田が資本主義の限界とITの可能性について理路正しく議論を展開していくなかに、理路の持つ情熱とは異なる、ある種のパーソナルな情熱のようなものが感受できる。それはなんだろうかと気になっていたのだが、本書の最終部、第7章「官治国家」の病理、5産業の亡霊の節を読んでようやくわかった。私が失念していただけのことでもあるのだが、池田は自身が言うように「私は2001年から3年間、RIETIに上席研究員として勤務した」。RIETI、独立行政法人・経済産業研究所に彼は深く関わっていて、それが経験に刻印づける情念を生み出したのだろう。
 RIETIの問題については、池田の視点のみから判断することは公正とはいえないだろうが、その内側から彼がどのように実際経験したか、あるいは実際の政治に巻き込まれて思考していたが、ある程度察しが付くと、彼がかつて働いたNHKとの関係についても、ある種の情念のようなものが見え隠れするように思えた。
 こうしたある種の情念が見えてしまう著作というのは、それ自体当然ながら対応する反感の対象ともなるだろうし、またそうした情念から手繰り寄せられた強烈な批判にはそれに相応した反対者も生み出さざるを得ない。その意味で、本書は読者にある種の立場の選択を強いる部分もあるように思える。もちろん、そう受け止めなくてよいほど十分に筆法は理性的に抑えられているのだが。
 私がぼんやり知る限りだが、池田が戦ってきた、あるいは戦いつつある存在は、幸いにしてか未だこの日本の小さなブログシーンには見えない。だが、そのブログシーンのなかでにすでに池田信夫ブログがくっきりと見えるようになっている。些細だったブログシーンになにかが接近する、あるいは何かが発生する兆しなのかもしれないとも思う。が同時に、現状のブログシーンでは池田は(彼のせいではないのだが)十分に見合うだけの力を発揮しているとも思えない。

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