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2007.04.21

[書評]中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズムについて(島田裕巳)

 大変な労作だと思うし、この一作をもって私は島田裕巳への評価を変えることした。粗方は想定していたことでもあり、驚きは少なかったとも言えるが、いくつかかねて疑問に思っていたことやミッシング・ピースをつなげる指摘もあり、貴重な読書体験でもあった。
 ただ、読後自分なりの結論を言えば、あの時代島田裕巳を批判していた人々と同じ地平に島田裕巳が立ってしまっているのではないか、そうすることで暗黙の大衆的な免罪の位置に立とうしているのではないかとも思えた。もっとも、彼の意識の表出としてはこれ以上はないというくらいきちんとした反省の思索の跡が見られるので、それは批判ということではない。

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中沢新一批判、
あるいは宗教的
テロリズムについて
島田裕巳
 
 本書がどのような本であるかについては帯書きがわかりやすいと言えばわかりやすい。

初期著作でオウムに影響を与え、麻原彰晃を高く評価し、サリン事件以後もテロを容認する発言をやめない中沢新一。グル思想、政治性、霊的革命、殺人の恍惚などの分析を通して、人気学者の"悪"をえぐる!

 帯書きなのでしかたがないといえばしかたがないのだが、本書が描くところは実際にはこの帯書きとは異なる。中沢新一が「初期著作でオウムに影響を与え、麻原彰晃を高く評価し」たということは概ね事実としていいし、本書はその経緯をよくまとめている。これだけの資料を読み込むのは大変なことだっただろうし、渦中にあった島田裕巳にもつらいできごとだっただろう。幸いにして島田にはこの手の思索家にありがちなどろっとしたルサンチマンの感性が欠落しており(それが欠点でもあるが)、中沢への批判の叙述にもそうした党派制は感じさせない(人によってその印象は違うかもしれないが)。しかし、本書の大半が中沢新一個人と古いタイプのコミュニズムにフォーカスし過ぎているきらいはある。恐らく、中沢の問題はそうしたイデオロギーと個性の問題より、島田が回想的に語る中沢の院生時代の生活にむしろ中沢という人間の本質的な問題がありそうに思える。
 帯書きに戻る。ここで難しいのは、「サリン事件以後もテロを容認する発言をやめない」というときの時間経緯のスコープである。本書に詳細に追跡されているが、サリン事件から世の中がヒステリックなバッシングに沸騰するまでの間、意外なほど中沢新一は語っていたが、その後表向きの語りは見えなくなる。問題はまずこの時点での中沢のメッセージというのがある。だが、島田が執拗に追ったように、さらにその後中沢は表向きの沈黙の背後でピア・グループ的な語りを継続しており、しかもそれが後のアレフにもつながっているらしい。このあたりが、現在的な視点で言えばかなり重要だろう。オウムの下っ端残党をネットで(目眩まし的に)バッシングしていることより、ネットから見えない部分の、中沢新一の、間接的であろうと思われるが、その影響をどう考えればよいのか。島田はその危険性を強調しているし、その強調の語りは、通常なら控えるべき想定まで踏み出している。
 もう一点、あえて出版者側のコメントを引用する。

「サリンでもっと死者が出ていたら、どうだっただろう?」と非公式の場で発言し続ける中沢新一。その真意はどこにあるのか? いまだにオウムに影響力のある彼の著作や言動から、テロを煽り続ける理由は何なのか、宗教的テロリズムとの関連で解き明かす。

 出版社の意図を知る上ではよいとして、「非公式の場で発言し続ける中沢新一」という書き方・表現方法は言論のありかたとしてはルール違反にも思える。この発言は島田が指摘しているように、単一のものではないがその核にあるのは、高橋英利への中沢新一への「指導」だ。
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オウムからの帰還
高橋英利
 ここで非常に微妙な問題が浮かび上がってくる。本書で島田が中沢を追求するときの、かなり大きな軸足となっているのが、元オウム信者の高橋英利の証言によることだ。だが、彼の「オウムからの帰還(高橋英利)」(参照)にはこの発言が含まれていない。ここまで私が言えるか自信はないのだが、島田のこの本が上梓されたのだから、高橋の手記にもそれを含めての増補版なり続編があってしかるべきではないだろうか。同手記は、事実の追求としては冷静に書かれており、今回の島田の作品の読後読み直すと随分印象が変わり真相への推測を深めることができるのだが、それでもこちらの作品全体は、「オウムと私(林郁夫)」(参照)同様、ある種大衆の意識迎合的な安全弁になっている。
 この関連で非常に微妙なのだが、島田の指摘に私にははっとさせられるものがあった。まずその前段として「憲法九条を世界遺産に(太田光、中沢 新一)」(参照)に関連して。

 憲法についての議論のなかに、恍惚という概念が登場するのは奇妙である。そこが、『憲法九条を世界遺産に』のユニークな特徴なのであろう。だが、殺人や自殺の魅力が語られ、そこに恍惚感が伴うことが強調されている点は無視できない。
 大田は、「幕間、桜の冒険」を書くにあたって、中沢の強い影響を受けただけではなく、彼の巧みなリードに導かれているようにも見える。


 しかも中沢は、すでに指摘したように、自分が直接発言した形になるとあまりに直裁すぎる部分にかんしては、太田に代弁させている。

 はっとさせられたのはこの先だ。

 こうした中沢のやり方は、彼がオウム真理教の元信者、高橋英利に、サリン事件の被害者が、一万人、あるいは二万人だったら別の意味合いが出てくるのではないかと問い掛けをしたときのやり方に似ている。中沢は、別の意味合いがある可能性を示唆しているだけで、その別の意味が何なのかを説明していない。その意味合いが何なのかを高橋に考えさせ、彼からことばを引き出そうとしている。高橋は、太田とは異なり、中沢に反発し、中沢の意図通りに導かれることはなかった。だが、高橋が反発しなかったとしたら、彼は、中沢の代弁者に仕立て上げられ、霊的磁場の劇的な変化といったサリン事件の意味を語っていたことであろう。

 高橋が反発したのは、二つの背景があるだろう。一つは先の手記でも明らかだが、当初から彼は疑念の(やや混乱した)認識をオウムに持っていたこと、もう一つは彼が安全弁の役を過剰に引き受けたことだ。中沢と高橋の関係は、あたかも杜子春の物語のように大衆に受け入れられている。
 本書は、宗教学的な文脈では、平河版「虹の階梯―チベット密教の瞑想修行(ケツン・サンポ、中沢新一)」(参照)と「改稿 虹の階梯―チベット密教の瞑想修行(中沢新一、ラマケツンサンポ)」(参照)が、オウム教団とどのような関わりを持ったかが詳細に議論されたことが貴重だろう。私もかなり納得できるものだった。特に、同書で中沢がターゲット・ビジョンを提示し、麻原がメソッドを提示したという島田の説明はかなり説得力がある。ただ、島田は麻原のメソッドの側のロジックは追っていない(たぶんそれは単一的に麻原に帰着する形では存在しないのではないか)。
 まとまりのないエントリになったのだが、私自身にこの問題について書くことにためらいがある。特に「ヴァジラヤーナ決意」に関連した部分について、島田はよく追求したなと思うし、私の印象ではまだこの部分について控えている思索があるとも思える。この問題は十年以上も考え続けてきた。私がブログの世界から消えていないのなら、島田の次考、あるいは島田を継ぐ人の考察を待ってみたい。あるいは、この問題について語りうる能力のある人が、消されることなく、事実と印象の系列よりも深いレベルにおいて、語り出すのを待ってみたい。

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2007.04.20

[書評]男は3語であやつれる(伊東明)

 男にとってこれほど楽しめる自虐系エンタ本ないのではないか。「男は3語であやつれる(伊東明)」(参照)を読みながら、おっ、これはイタイ、かなりイタイ、これはちょっと回復に一服必要系のダメージ、一晩ヤケ酒系のダメージとか、わくわくしながら読んだ。もっとも書籍としてはどうよなんだけど、エンタ本は笑ってなんぼでしょ。

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男は3語で
あやつれる
伊東明
 読みながら、これはブログ男の心理そのものではないかという感じもしてきて、ヒリヒリとイタイ。

「眠れる獅子」「身を潜める龍」「在野の大賢人」。男性が好きなイメージです。
 ほとんどの男は心のどこかで「オレはこう見えても眠れる獅子だぜ、ほんとうはタダ者じゃないんだぜ」という妄想を抱いて生きています。

 おお、そうそう (はい、そこのヤローさんたち合唱で、はい、「そうそう」ご一緒に)。特に、ブログなんて「眠れる獅子」「身を潜める龍」「在野の大賢人」が絢爛豪華じゃないですか。自傷じゃないや自称しているイタイのから、はてブに「この指摘はするどい」とか書いてもらいたいが一心でダイアリーもといエントリーに小難しいこと書いてみたり、オレはただの引き籠もりじゃないんだ以下略。

 ただ、眠れる獅子も、ときどき起きてその姿を見せたくなるときがあるようです。「タダ者じゃないオレ」を見せたくてたまらないときがあるのです。「よくいるタイプ」と思われるのは大変な屈辱。「血液型、いかにもB型って感じするよね」などと、枠にくくられるとガックリきてしまいます。「オレはあえて眠れる獅子でいるんだ、でもそれを見抜けない世間のやつらがバカなんだ」ぐらいに思っているのです。

 というわけで、これは恰好のお魚くんなんで、2ちゃんとかその他の雑魚メディア、もとい匿名メディアもとい釣りメディアの恰好の釣り対象となってしまうわけで、そこはもう「在野の大賢人」ブロガーなら、釣られると見せかけて釣るくらいの構えをもってないといけないものだなんて、ああ、なんてイタ過ぎ。
 本書はおじさん世代攻略にバッチグー(死語)。ちなみにおじさん世代というのは、だいたい三十五歳から四十五歳か。これもイタイぞお前ら。イタがってないで現代幇間の技術と心得るべし。

 おじさん世代には「諸葛孔明」も効きます。部長が会議でいい発言をしたり、知的なことを言ったら、「○○部長って孔明タイプですよね」。これで勝ちです。男で諸葛孔明みたいと言われてうれしくならない人は絶対にいません。お世辞とわかっていても、ちょっとニヤけてしまうでしょう。

 そりゃもう(例外ブロガーを一名知っているが)。
 このイタサはある程度実証できる。gooランキング”好きな「三国志」の武将ランキング”(参照)を見よである。ランキングを見ていると、劉備(玄徳)みたいなのも使えるかもだが、関羽(雲長)はちと中華街ぽいか。

 これが効くのは、プライドをくすぐられた喜びプラス、『三国志』という男の領域をこの女性は理解してくれている、といううれしさがあるからです。「信長」「家康」「秀吉」あたりは人によって好みが分かれるので、ちょっとリスクがあるでしょう。坂本龍馬、武田信玄あたりなら、ほぼ大丈夫だと思います。

 あと、ガンダムネタとか加えるときっとあのブロガーとあのブロガーとあのブロガーだって釣れますよ。
 つうわけでヤローやオッサン・ブログを俯瞰するにも使える書籍だということはご理解いただけたかと思いますというのはネタなんで、読者マーケット的に見ると、これっていわゆる女性が社会性のために知るべき基礎知識とかでありながら、読みつつ、いやちょっと違うかな。男が女につらく当たったというケースで。

 かといって、単純に「ごめん」と謝られるよりも、「ほんとはやさしいから言ってくれているんだよね」「私のためを思って厳しく言ってくれているんだよね」と言われたほうが、「そうだよ、わかってくれたな」と、思わず抱きしめたくなるほどグッとくるのが男性なのです。

 これね。著者心理学者なので、たぶん、ここには校正上のヌケがあると思うのだけど、つまり、「男性なのです」の前に、「DVの」がヌケ。そして、こんなふうに言う女あるいはそう思いこんで自己催眠的に○ナっちゃう女、オメー一生不幸から抜け出せないって。それってば傍から見ていると好きで自虐やってるだけだってば、というか、そこまでして何かを支配したい女の欲望って何?という文学的な領域になる。
 似たようなネタとしては。

男性が自分のワルぶりを披露し始めたら、笑ってはいけません。ここでうっとり尊敬のまなざしで見つめてあげてください。そして、「○○さんってかっこいい」とつけ加えられたら上級です。
 じつはみんな心のどこかで、自分は単なる群れのなかの子羊じゃないかと不安に思っているのです。だからこそ、「ワルなオレ」を認めてくれる女性には、とても好感を持ちます。きっと、堅実に仕事をがんばっている独身男性や、家庭を持って落ち着いている人ほど、「ワルなんでしょ」と言われたら大喜びです。

 ネタバレもなんだが、ちょいワルオヤジには二種類あって、一つはこの実は小心者というのと、もう一つはただのスケベというの。で、賢い女性としては後者はけっこう後腐れなくていいかなと前者と後者をTPO(死語)で選り分けているだけ。というか、あまりそういう賢さもどうかと思うが。むしろ。

普通に会話ができる男性がいたら、そのれだけで貴重品と思ってください。そういう人はつかまえておいて損はありませんよ

 ということになる。普通に会話っていうのは、コミュとか非コミュとかじゃなくて、もっとべたなものでしょう。問題解決型会話というか。
 以上、上目目線で書いてみたが、個人的には、これはイタイなこれをくらったら、オレもやられるながある(とか妄想しているあたりのイタさはさておき)。世代的な嗜好かもと思うけど。現代版雨世の品定めにて。

 それから、「大事なのは透明感」だねという話で盛り上がりました。もちろん、男は小悪魔っぽい女性とか、セクシーな女性にくらっときます。しかし、「口説きたい」じゃなくて「いつもそばにいてほしい」、「ちやほやしたい」でなくて「大切にしたい」。簡単に言えば、一晩を一緒に過ごす相手としてではなく、彼女にしたい・結婚したいと本気で思えるのは透明感のある女性です。

 というくだりでしょうかね。気になるかたはそのあたりのテクも載っているけど。
 本書の締めは、いずれ松下幸之助かというマジックワード、仕入先も道行く人もみなお得意先、じゃなくて、「ありがとう」。

「ありがとう」
ここまで読んできて、最後にに出てきたのがこのあまりにも平凡な言葉なので、拍子抜けしている人も多いかもしれません。でも、これだけ大事な言葉だと誰もがわかっていながら、実際は言えてない言葉が「ありがとう」ではないでしょうか。

 違うね。その言葉のせつなさから恋が始まる。

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2007.04.19

銃に関わる二つの事件に思う

 伊藤一長長崎市市長の暗殺事件と米バージニア工科大学の銃乱射事件について、あまりに心に重い事件でもありブログで触れる気もしなかったのだが、ブログは時代のログ(記録)だなと思い直し、半世紀を生きた一人の民衆の思いをメモしておこう。
 伊藤一長長崎市市長の暗殺だが、十七日の十一時過ぎだったか私はいつものようにハードディスク・レコーダーに貯まっている番組を見ようとし、その操作の途中にこの事件を知った。ざっと概要を聞くに助からないのではないかと思い、そして九〇年一月一八日の本島等元長崎市長の狙撃事件を連想し、また右翼がらみのテロリズムかもしれないと懸念した。その後の事件の推移を見ていると、以前の事件とは質が異なり、暴力団による計画的な暗殺のようだ。そこで、私は暴力団がそこまで(つまり政治的なテロリズムまで)するのだろうかという疑問を持った。彼らは、ある意味で社会の利害の上で合理的に行動する。今回のような事態はたいていは威嚇で終わるものではないか。世の中はそのあたりで何か変わったのか、私のこうした感覚が時代遅れとなったのか。もやっとした気持ちでいる。
 一つ気になったのは、城尾哲弥容疑の年齢だ。五九歳とのこと。ざっくり六〇歳と見ていいだろう。現状のニュースからは彼は殺人を企図していたらしいので、当然それに対応するムショ暮らしも想定しただろう。私はそのあたりの相場の感性はないが、一〇年はオツトメということではないか。だとすれば、娑婆に出てくるのは七〇歳。それで元の仕事に戻れるわけもないだろう。こうした場合、人生最後の賭けだったか、人生自体への一種の自暴自棄か、あるいは自暴自棄的な自我の肥大だったか(暴力団も社会が結果的に必要とする仕事に過ぎないのに)。私は、なにかしら、奇っ怪な老いの形を思った。
 加藤紘一・元自民党幹事長の実家が右翼団体幹部によって放火された事件でも堀米正広被告は六六歳で、一花咲かすには遅過ぎる。ここにも老いの奇妙な形があるように思えた。
 米バージニア工科大学の銃乱射事件についてだが、銃規制との関連ではここでは触れない。なお、銃規制については、このブログでは過去に「極東ブログ: 米国の銃規制法が失効したことの意味」(参照)や「極東ブログ: ブラジル銃規制国民投票失敗の雑感」(参照)で触れた。また微妙な関連としては、「極東ブログ: [書評]ウェブ人間論(梅田望夫、平野啓一郎)」(参照)もある。
 事件のその後の経緯を見ていると、チョ・スンヒ容疑者が韓国人であることにも、日韓では関心が寄せられているようだ。そのあたりの米国はどうだろうかといくつかざっと英文報道に目を通してみた範囲では、チョ・スンヒ容疑者の両親が移民で貧苦に悩んだというものがあり、境遇に対する同情もあった。
 現状のニュースからすると事件は周到に計画されていたようだ。そのあたりの心性はなんだろうかとも思うが、私は、七二年五月三〇日のテルアビブ空港乱射事件も連想した。奥平剛士、安田安之、岡本公三の三人がテルアビブ、ロッド国際空港(現ベン・グリオン国際空港)で民間人二四人をチェコ製自動小銃と手榴弾で殺害し、奥平と安田は自殺した。
 あの事件と今回の事件は、まったく異質な事件であるといえば言えるだろう。今回の事件は私的な怨恨がおそらく元であるのに対して、岡本らの事件には彼らなりの大義を持った戦いであった、と。しかし、私の心の中には、奇っ怪に欧米人には映るだろう東洋人という以外に何か重なるものがあり、そのあたりがもやっとしている。
 この感覚は、民間人死者十二人を出した九五年地下鉄サリン事件と、民間人死者八人を出した七四年の連続企業爆破事件への思いと重なる。質の違う事件だとも言えるが、類似性もある。
 今回の伊藤一長長崎市市長の暗殺事件と、本島等元長崎市長暗殺未遂事件の類似性と差異性。また、今回の米バージニア工科大学の銃乱射事件と、テルアビブ空港乱射事件の類似性と差異性。さらには、地下鉄サリン事件と、連続企業爆破事件の類似性と差異性。
 そのような類似性と差異性において考えられるべき課題ではないのかもしれない。また、それらを通底させるような世界の動的な把握というのは間違った問いかけなのかもしれない。だが、何かを連想したり、忘却している私や、歴史の中に生かされている私たちには、やはり何か深い思索を強いるものがあるように思える。つまり、個々の問題や、個々の正義の主張を越えた何かについて。

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2007.04.18

鬱とやさしい植物油

 一応裏はあるけど、まあ、ネタと言っていいだろう、鬱とやさしい植物油。植物油を摂ると鬱が緩和されるというのじゃなくて、逆。鬱がひどくなる、ら・し・い。
 話の出所はきちんとした医学誌Psychosomatic Medicine”Depressive Symptoms, omega-6:omega-3 Fatty Acids, and Inflammation in Older Adults”(参照)なので、気になる方はそちらを読んでおいて。
 話はロイター”Fatty acid tied to depression and inflammation”(参照)のほうが読みやすい。


The imbalance of fatty acids in the typical American diet could be associated with the sharp increase in heart disease and depression seen over the past century, a new study suggests.
(最新研究によると、この一世紀間でみて、典型的な米国人の食事における脂肪酸のアンバランスが心疾患と鬱を強く増加させているようだ。)

Specifically, the more omega-6 fatty acids people had in their blood compared with omega-3 fatty acid levels, the more likely they were to suffer from symptoms of depression and have higher blood levels of inflammation-promoting compounds, report Dr. Janice K. Kiecolt-Glaser and her colleagues from Ohio State University College of Medicine in Columbus.
(とくに血中でn-6系脂肪酸がn-3系脂肪酸より多い比率の人に、鬱に悩む人や血中炎症物質レベルの高い人が多い、とDr. Janice K. Kiecolt-Glaserらオハイオ医大学のグループが発表した。)


 で、n-6とかn-3ってなんだだが。

Omega-3 fatty acids are found in foods such as fish, flax seed oil and walnuts, while omega-6 fatty acids are found in refined vegetable oils used to make everything from margarine to baked goods and snack foods. The amount of omega-6 fatty acids in the Western diet increased sharply once refined vegetable oils became part of the average diet in the early 20th century.
(n-3系脂肪酸は魚、亜麻仁油、クルミに含まれるのに対して、n-6系脂肪酸は、植物油を使う全食品、マーガリンや焼き菓子、スナックに含まれている。欧米の食生活では、n-6系脂肪酸は二〇世紀初期に精製植物油が平均的な食生活に組み入れられてから増加している。)

 簡単に言うと、植物油の取りすぎで鬱が悪化している、と。鬱とやさしい植物油というわけだ。納豆とか豆腐とか豆乳とか、n-6系の脂肪酸が多いので、健康にいいと思いこんで食っていると……どうなんでしょね。
 では動物性の油脂のほうがいいのかというと、今回の発表には含まれていない。含みとしては、ええんでないのというのはある。しかし、今回の方向がどうニュースになったかというと、だから、西洋人、魚食えよ、ジャパニーズ寿司食えよ、という展開になっていそうだ。”Eating the right kinds of Fat can reduce risk for Depression and Inflammation”(参照)とか寿司の写真が掲載されているし。

Eating a diet with more omega-3 includes certain types of fish, such as salmon, trout. You can also get smaller amounts in white tuna fish. Because of potential mercury poisoning you should eat up to two servings each week. If you are pregnant you should ask your doctor first, and if you have children ask your pediatrician.
(n-3系脂肪酸を多くとるための食生活には、サーモンやトラウトなどの魚が含まれる。少量ではあるがマグロからも摂取できる。というのは、水銀中毒のおそれがあるため、週二皿以内に抑えるべきだからだ。あなたが妊娠中なら医者に相談し、子供がいるなら小児科と相談しなさい。)

 というわけで、魚はいいけどマグロなど水銀を多く含むのはだめよ、と。
 じゃ、どうしたらいいのか。欧米の報道では、植物油でも、正確にいうと、全植物油がダメというわけではなく亜麻仁油はよいとかいう話になっていく。
 なので、日本でもマジで亜麻仁油が健康食品とかで売られるようになって、びつくーりなのだが、日本の場合は荏胡麻油でしょ。
 とま、この手の話はこのくらいで、ふーん、てなリアクションがよろしいようで。

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2007.04.17

五十歳かあ

 ブログでは生年は公開しているが生年月日までは公開していないので、四月二日になったら五十歳ということにしている。なので現実の誕生日まではまだ日があるし、その当日はそれなりに愕然とするだろうなと思っている。

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J・S・バッハ
礒山雅
 昔、と言って十一年前だが、西洋音楽史家礒山雅が学生たちの交流のベースで気さくなホームページを持っていて、そこに彼が五十歳になったときヒューモラスな嘆きを書いて印象深かった。が、四十歳手前の沖縄のプーには五十歳はまだまだ遠い気がしていて、ただあははと笑うくらいだった。今になると、あの嘆きをもう一度読んでみたいとネットを探したのだが、無かった。無い理由もなんとなくわかった。一部残っていた部分を引用してもそれほど失礼にはなるまいと思う。

 これが悪夢なら覚めてほしいのですが、今年50歳になってしまいました。痛恨のきわみで、口にするのもはばかられます。誕生日の午後、失意を胸にあたりを散歩すると、気候はことのほかうららかで、半世紀前の今日私が生まれたなんて、まるで夢のようでした。人生、これからどうなるんでしょうか。

 ああ、まったくそんな感じです、五十歳になるなんて。
 希望となるのは、「人生、これからどうなるんでしょうか」と嘆かれた先生は昨年還暦を祝われていたことだ。私も、運よく、六十歳なんてものになるんでしょうかね。
 私は日本がネットを解禁した84年からのネットユーザーでアスキー以前にJADAというに参加していた。あれはアマチュア無線愛好家ベースだったようだが、よく覚えていない。同年くらいの京王線の運転手のかたとなんどか対話したが、その後彼は今でも運転手をされているだろうか。彼も五十歳か。あのころ、まだ二十代だったんだな、というあたりで、人生の半分近くがネット漬けか。いやはや。
 さすがに五十歳というのは若い人からは老人に近く見える。というかべたに老人に見えるかもしれない。まあ、そのノリで儂も爺さんじゃでみたいな話もするが、これが内面となると実際のところ二十五歳以上に成熟してきたわけでもないし(たぶん現在三十半ばの人でもあと二十年くらい気性というのは変わらないよ)、身体的にもあちこちがたついてもそれほど老人というわけでもない。この先はちょっとお下品になりそうなんだが、まあそっちもな。
 昨日だったか、NHKスペシャルで「“鉄人”にきけ あなたの老化を防ぐ」 (参照)というのをやっていた。途中見逃したところもあるが、ところどころへぇと思いつつ見た。

43歳で時速140㎞の速球を投げる横浜・工藤投手。39歳で連続イニング出場の世界記録を更新し続ける阪神・金本選手。女子マラソンの弘山選手は38歳。60歳になるレーシングドライバー・寺田陽次郎さんはル・マン24時間レースに連続出場中…。スポーツ界で、中高年になっても活躍を続ける鉄人アスリートが増えている。こうした中、彼らの肉体の秘密を科学的に解析し、一般人の老化防止に生かそうという試みが始まった。

 へぇとは思うこともあったが、基本的にスポーツ選手で四十歳ベースの話というのは、五十歳の肉体の感覚とは違う。そのあたりは、もうちょっとなんとかならないかな、番組制作側で思うことはなかったものかな、とは思った。言葉を足すと、五十歳というのは六十歳とは違って、まだちょっと肉体的に現役っぽいところがあるので、そのあたりの、じれったいような感じがうまく出てこないものか。
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ヘルシーエイジング
アンドルー・ワイル
 それから老化と健康を扱った「ヘルシーエイジング」(参照)という本を書架から取り出して、気になるところをぱらぱらと再読してみた。歳を取ることも自然の成り行きだみたいな慰めに富んでいるともいえるし、あらためてワイルの遺書(歳を取ったら書いておけということで書かれている)を読むと、こういう考えそのものが歳というものだなとは思う。老化というのがそれ自体が抗癌的な機構かもというあたりも示唆には富む。
 それでも率直に言えば、私は老化というものをうまく受け入れられない。ワイルは「肉体を衰弱させる力を利用して、精神的・感情的・霊的な側面を強化する」とか言うけど、身体が活動するときの精神的・感情的・霊的な側面というものがあり、その魅惑のようなものからうまく抜けられない。なんとなくだが、こりゃもう身体はダメだわというまで奇妙なあがきが続くのだろう。

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2007.04.16

最終炒飯

 火力は出ない?
   出ないわけね。わかったよ。平和でよろし。
 鉄製の中華鍋もない?
   あるのは小さなテフロンフライパンだけか。わかった。
 具は?
   冷や飯一人分と長ネギの端切れと卵一個。それだけあればいい。
 塩と油はある?
   ある。
 よろしい、最後の望みはある、最終炒飯だ。

 用意は簡単。長ネギを適当にみじん切りする。普通なら捨てちゃう緑の先っぽのほうだっていい。できれば円柱形の部分が8センチくらいあるといいのだけど。そしてみじん切りはその断面の丸に十字に切り込みを入れておいてから、横からからざくざくと切っていくといいのだけど、まあ、どうでもいいよ。
 卵はよく溶いておく。
 ご飯は常温ならよい。冷凍でかちこちだとダメだけど、ほかほかに温める必要はない。
 じゃ、始めるか。
 フライパンに油を入れる。大さじ2。慣れたら1でもいいけど。
 これに長ネギのみじん切りを入れ、飯の量を見て塩味が適当になるように塩をひとつまみ入れる。小さじ1/3くらい。塩は油に溶かすようにする。
 弱火でこれをじっくりローストする。
 焦げないように、慌てず、ここだけは時間を掛けて。

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 長ネギのみじん切りがほどよくローストできたら(茶色部分が少しできるくらい)、溶いた卵を入れ、その上に冷や飯を入れる。
 ただ入れればいい。タイミングとか何もない。

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 フライパンの温度が下がる? 気にするなよ。
 これをぐちゃぐちゃによくまぜる。ご飯がこの時点でほぐれるようにするとよい。
 うへーこんなの食えるのかよと思うが、とにかくよく混ぜろや。
 そして火力を中火にする。強火にしない。
 てろてろと、ちんたらちんたらと炒める。ふんふん♪
 しだいにぱらぱらとしてくる。
 そのうち、なんだかこれって見方によっては炒飯かもという気がしてくる。
 そして、これなら食ってもいいかという感じになったらおしまい。

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 ゲーテも言っている、涙とともに最終炒飯を食ったものでなければ、人生の妙味はわからない。

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2007.04.15

おつりのあったころ

 尾籠な話なので、場合によっては読まないほうがよいかも、と警告。
 話は昨日の「極東ブログ: 手水といえばバケツのようにぶら下がっていたアレ、ぶら下げ手水」(参照)の続きのようなこと。
 ところでアレの呼称は「吊り手洗器(つりてあらいき)」としてもよさそうだ。他にもいろいろ呼称があり、私の記憶だった「手水」でもよさそうだが、呼称の一つに「衛生洗浄器」がある。ふと考え込んでしまったのだが、あれで衛生なのか。というのはあれは基本的に掌を洗うのだが、衛生という観点では流水で甲も洗うべきだし、もっと衛生というのならアルコールを使うべきではないか……また、手拭いやハンカチも菌の滞留にならないのか……まあ、どうでもいいといえばどうでもいいのだが、吊り手洗器というのはそれほど効果的なものでもないかもしれない。
 効果的ではないとしても、水の節約にはなるだろう、と思いが移っていくなかで、そういえば水洗便所というのは私が子供の頃に切り替わったという印象がある。学校の帰りにバキュームカーをよく見かけたのは小学生くらいまでか。汲み取りとバキュームカーの風景は昭和四〇年くらいまでだろうか。もちろん、地域によっては違うのだが。
 そんなわけで私は自宅を含め、世間の便所が汲み取りから水洗に変わっていくのを子供ながらに見ていたのだが、あのころですら子供心でも、これって水の無駄だな、と思っていた。どうやらその思いは今も抜けない。エコロジーとかよく言われているが、水洗便所というのはかなりの水の無駄ではないのか。あれはなんとかならないのだろうか。あるいは日本は水が豊富な国だから、あれでもいいのか。日本はよくてもなあ……いろいろ思う。なにか安全なジェルとか使うほうがよいのではないか。
 ついでに思うのだが、誰か指摘しているか知らないが、日本人は抗生物質を大量に消費するのだがあれって、人糞として排出されるのではないか。とすると、日本は抗生物質を自然界にかなり膨大に廃棄していることにならないのだろうか。そのあたり、よくわからない。自然に分解されるのだろうか?
 汲み取り便所のことを思い出し、そしてそれが、本当に恐かったことを思い出した。今でもトイレにまつわる怪奇話は子供たちに流布されているだろうが、あの臭いアビスの怖さの比ではない。すべてを飲み込み消していく……いや、おつりが来た。
 あの、おつりというのがほんといやだった。怪談の怖さとは違った怖さだった。というあたりで、「おつり」の意味が辞書に載っているかいろいろ調べてみたが、ない。「釣り」を丁寧に言うとかある。文明が逆転でもしないかぎり、こういう言葉というのは忘れていくというか消えていくのだろう。まあ、ここで詳しく解説するのも尾籠なんで省略だけど、あれを知らない日本人が多いんだろうな。
 そういえば自分の記憶だけなんだけど、ゲバゲバ90分(参照)でも、おつりの話は多かった。シモネタはギャグの定番だしね。と、ウィキペディアを見ると、69年から71年の作品だった。あまり詳しく書いてないが、最後のほうはもうダメになっていた。ざっくりと70年の作品だし、あの70年かあと思う。もう四〇年も昔のことになるのか。「おつり」のギャグとか今見るとどうなんだろ。
 いろいろ思い出す。あの時代の国鉄のトイレというのもものすごいものだった。いや、これはものすごいとしかちょっと言えない。ビジュアルで思い出してPTSDになりそうだ。よくあんな時代に生きていたなと思う。

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陰翳礼讃: 谷崎 潤一郎
 そういえば池上季実子の爺さん八代目坂東三津五郎がフグ食って死んだのが75年。あの時代、けっこうな人がフグ食って死んでいた。統計がわからないが年間二〇人以上死んでたんじゃないか。すごい時代だったなぁ。なぜそこまでしてフグ食いたい?
 八代目坂東三津五郎は谷崎潤一郎と懇意だったが、彼の「陰翳礼讃」(参照)で美とされている便所も当然汲み取り式だ。原理的にはおつりがありそうだが。

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