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2007.04.07

[書評]10倍売る人の文章術(ジョセフ・シュガーマン)

アフィリエイト・ブログの文章術

 山ほどあるアフィリエイト・ブログで商品を買う気も起きなかったのには、なるほどこんなわけがあったのか。

 アフィリエイト・ブログの文章がダメだからです。読ませません。買う気も起こさせません。世の中儲けたいと思っても文章が下手な人が多いからなのだろうと思っていました。違いました。文章が上手とか下手とかの問題ではなかったようです。重要なのは、売るための文章技術なのです。

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全米NO.1の
セールス・ライターが
教える
10倍売る人の
文章術
 そう気が付いたのは、本書「全米NO.1のセールス・ライターが教える 10倍売る人の文章術」(参照)を読んだからです。全米ナンバーワンと言われるセールス・ライターでも、ただ書いただけの文章では売れないと謙虚に言っています。重要なのは本書のポイントを理解し、見直し、編集していくことです。

なるほどそうだったのか

 アフィリエイト・ブログを読む人の立場になってみることが重要だと思っても、実際にはなかなか難しいものです。売る立場にいると、購入者の気持ちがわからなくなります。でも本書の著者シュガーマンはそこをうまく言い当てています。


 読者が宣伝文を読みながら考えることのひとつは「本当にこれを買ってもよいのだろうか?」です。繰り返します。必ず出るその疑問を解決しなければなりません。そうしないと見込み客のあらゆる質問に答えることができず、結局は「いや待て」と考え直す口実を与えてしまいます。そうなれば買ってもらえないのはもちろんです。
 宣伝文のどこかで買い手に購入の大義名分を提供することにより、いかなる異論・反論にも対処しなければなりません。

 購入者は賢いものです。例えば、ブログに不味そうなキャベツ炒めの写真が載っていても、これって不味そうなんじゃないとコメントをくれたりトラックバックをくれるような親切さはそう持ち合わせていないのです。不味そうと思ったら最後読み逃げしてしまいます。
 でも実際、写真は見るからに不味そうです。どうにかならないのでしょうか。うまく購入者に、大丈夫これでもいいんだよと大義名分を与えるのにはどうしたらいいのでしょう。
 そこからブログ文章術の第一歩が始まります。いろいろな対処があるでしょう。私は正直に謙虚な立場を取ります。私は料理が下手だけど、みなさんならきっとうまく行きますよ、そこがうまく伝えられるならどんなに不味そうな写真を掲載しても大丈夫です。

………ギャグはここでおしまい。

 以下はいつもブログのノリで。
 本書は、一九九八年に米国で刊行された”Advertising Secrets of the Written Word: The Ultimate Resource on How to Write Powerful Advertising Copy from One of America's Top Copywriters and Mail Order Entrepreneurs ”(参照)の翻訳で、オリジナルの標題を読むとわかるように、メールオーダー(通信販売)でビジネスする人が雑誌などにどう広告文を書くかということを解説した書籍だ。セミナーもベースの一つになっているせいか、とても実践的な臨場感もある。この分野の書籍の古典でもあるようだ。
 今でもこうした通信販売向けの文章術が必要かというと、必要ともいえる。ウェブが発達した現代でも米国の雑誌には、いまだに昔ながらのメールオーダー的な広告文が多い。(私の場合、ネットが興隆する以前から米国の雑誌などが好きなので、この手の文章主体の広告をよく見てきたから、本書は読んでいてとても懐かしい感じがした。)
 すでにインターネット時代になるとメールオーダーよりもウェブを経由した販売やアフィリエイトのほうが主流になっていると思うし、本書の訳本が直接的に価値を持つのもそのあたりかなと思って、上のギャグを書いてみた。
 日本の場合、従来は、読ませるタイプの広告や、メールオーダー的なビジネスというのは盛んではないが、ウェブが興隆してからは多少流れは変わって、むしろ今でこそ、この手のB級コピーライティング文章術が注目されるようになってくるだろう。考えようによっては、団塊世代向けの通販の広告文ってこんな、昔の米国の通販広告文みたいななものになるかもしれない。
 本書を購入してマジでこのセオリーで広告文を書こうとする人は少ないだろうが、B級広告文の出来方や、B級カルチャーの文章がどのように形成されるかという背景を知るにはとても面白い。読みながら、「な、なるほど」とか頷く箇所がけっこうあったし、単純に笑えて面白い話もいろいろあった。アメリカ人にはなりたくないもんだと、しみじみ思える点も秀逸である。
 もっともただのギャグ本ではない。多少なりともこうしたB級広告的な世界を覗いた経験のある人なら、本書のなかに、けっこうマジな販売促進のヒントが溢れているのも見つけるだろう。たとえば、「解決策を売る、予防策を売らない」といったあたりの説明は参考になる人も多いに違いない。
 本書の価値をもっとマジに考える人もいるのだろう。本当かどうかわからないが、本書の広告にはこうある。


この本の英語版が日本で5万円もの高値で売買。幻の名書が初めて日本語で読める!

 本当にこの本の翻訳書が五万円くらいで販売されていたのか私は知らないが、この手のノウハウ本が数万から数十万するというのはよくある話だった。今でもそうなのだろうか。
 さて、本書のセオリーどおりなら、エントリーの末には、今すぐ購入を促すようなプッシュの一言が必要になる。でも、私のブログはそれだけが目的ではないので、気取るわけではないが、そこまで真似しないことにするが、1400円分の損はないですよ。いやいやつまんないとお感じなら3ヶ月後に代金を返却しますっていかないのでその点はよろしく。(べたなアフィリエイト・トラバも洒落にならないんで、すぐ消すからね。)

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2007.04.06

非回鍋肉、そは回鍋肉に非ずして、「豚肉とキャベツの味噌炒め」

 回鍋肉の作り方は簡単といえば簡単で、ロース肉の塊を小一時間煮て、一旦鍋から取り出し、冷やして薄切りにしたものを、葱とかニンニクの茎とか椎茸とかと合わせて炒める。

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単純がうれしい
北京のおかず
ウー ウェン
 ナマのキュウリで炒めるのもある。味付けは甜麺醤・豆板醤が多いけど、決まっているわけではない。あれです、煮肉を用意しておけば、適当な旬の野菜で炒めて味を付ければいいだけのもので、ポイントは煮肉の固まり備蓄にあるのだけど、その本格的な作り方についてはウー・ウェン先生の「単純がうれしい北京のおかず」(参照)に各種レシピがあるし、まあ、機会があったらここでもご紹介。
 ウィキペディアの説明に(参照)。

豚肉の塊をゆで、冷ましてから薄切りにしたものをラードで炒め、いったん鍋から取り出す。

 とあり、語源に触れていないが、「いったん鍋から取り出す」というのは、当然調理のときに鍋に戻すわけで、戻す=回す、というとこから、鍋に回し戻す肉料理で、回鍋肉(ホイグゥオロゥ)と呼ばれる。ついでに。

尚、元々の回鍋肉はキャベツではなく葉ニンニクを使う。肉も皮付きの豚肉の塊を茹でるか蒸してから使うのだが、陳建民が回鍋肉を日本に広めた際にキャベツが材料に含まれ、それが日本で標準となった。

 それはそうかな。現代では先に触れたように、葉ニンニクとは限らない。
 それはそれとして。
 今日紹介する非回鍋肉は回鍋肉じゃない。もっともっとべたに「豚肉ときゃべつの味噌炒め」のけっこう誰でもできる版である。すごい簡単。すごい貧乏臭い。でも味はたぶん、美味しいと思いますよ。じゃ。
 必要な素材は、バラ肉100g、キャベツ半分くらい、味噌大さじ1、砂糖大さじ1/2。油少々。
 用具は、鍋(テフロン鍋でもいい)。包丁不要だが、そのときはキッチン鋏があるとよい。
 下拵えだが、バラ肉は食べやすい大きさにキッチン鋏で切る(包丁より切りやすい)。キャベツは食べやすい大きさに手でちぎる(芯は取り除く、というかそのまま囓ると甘くて美味しいよ)。味噌と砂糖は合わせて大さじ一杯の水で溶いておく。

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 調理だが、まずフライパンに油を引き、そこにバラ肉をできるだけ広げて並べ、とろ火で加熱する。丁寧に慌てず。

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 なにをしているかというと、バラ肉から脂を引き出しているのだ(脂を引き出すのに呼び用の油が必要になるから最初に油をひいておく)。この料理、この脂が青菜であるキャベツに行き渡るところにうまさのポイントがある。
 豚肉をかりかりにする必要はないので(かりかりもまた美味しいが)、適当に脂が出たらキャベツを入れて、よく混ぜる。
 ここで強火。
 てきぱきと炒める。キャベツが、脂でつやっとして少ししなっとして、うまそうじゃんのツラになったら、味噌と砂糖をまぜた調味料を加え、ちゃっと混ぜて火を止める。この間、ばたばたしそうな人は火を止めてから混ぜてもいい。

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 盛りつけて終わり。

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 味噌の種類にもよるけど、ちょっと甘いかなと思ったら、醤油を一回しする。
 甜麺醤を使えよという人は、どうぞ、使ったら、というか、調味はご自由に。オイスターソースとか混ぜてもいい。私はしないけど。
 野菜もキャベツだけじゃなくて、葱も入れたいというなら、どうぞどうぞ。肉を加熱するとき、ニンニクのみじん切りをいれてもいい。
 ところで、ニンニク系の香りのある食べ物を食べるときの注意。それは、一人で食べるか、愛する人と一緒に二人で食べること。

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2007.04.05

[書評]西遊記(斉藤洋・広瀬弦)

 ちょっと西遊記を読み直してみるかと思い、念頭には中野美代子訳の「西遊記」(参照)があった。が、自分の心のなかの西遊記は手塚版や夏目雅子とカトちゃんのとか、なにか心ワクワクする物語の回想が先立ち、知的な読み方より、楽しく読みたくなった。
 すると昭和懐かし邱永漢・西遊記(参照)かとも思った。たしかこれは……これこれ、”毎日読む小説「西遊記」 : ほぼ日刊イトイ新聞”(参照)にある。復刻とどう違うのだろうか。
 そういえば、手塚治虫の西遊記、つまり私とってはテレビ・アニメ版だが、あれには手塚自身の作品そのままではなかったようにも聞いたことがある、ジャングル大帝と同じように。アマゾンを見ると、元になったはずの「ぼくの孫悟空」(参照)がこれも復刻というのだろうか、あるにはある。調べてみると、私が子供の頃見たアニメは「悟空の大冒険」(参照)のようだ。ウィキペディアにも解説があった(参照)。


劇中の各キャラクターの"大げさな表現"は現在も評価が高いが、時代を先取りしすぎた部分もあり、4年間続いた「アトム」の後番組にもかかわらず、9ヶ月(39話)で放映を終了した。

 一種の打ち切りだったのかと思い起こす。しかし、エンディングに向かって妖怪が合体していく感じは無性に面白かった。
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西遊記
〈1〉天の巻
斉藤洋
広瀬弦
 とかしてうちに、斉藤洋版「西遊記」(参照)に遭遇した。まあ、読んでみるかと読んでみて、ずぼっと嵌った。おもしろい。
 これはお子様向け作品なのだろうか。それはそうだ。なので子供向けにそれなりの配慮もある。だが、物語の緻密な計算や文章のうまさが実に際だつ。挿絵も美しい。これはちょっとすごいんじゃないかと、結局、今で出ているところまで、「〈1〉天の巻」(参照)、「〈2〉地の巻」(参照)、「〈3〉水の巻」(参照)、「〈4〉仙の巻」(参照)、「〈5〉宝の巻」(参照)と読み進め、新刊はまだかぁ、とか思うようになった。
 たぶん、この本は一巻読んだら最後系の面白さだと思う。そして、ちょっとお勧めだけど、できたら最初の「〈1〉天の巻」をよく読んでおくといい。つまり、繰り返して読んでおくと、後の巻の含蓄が深まる。
 とはいえ、最初、おもすれーとか読んでいながら、しかし、こういうのが昨今のファンタジー小説の手法のお手本みたいな応用なんだろうなと高をくくっていた。キャラとか戦闘シーンとか、話の連続性とか。私はこの分野に詳しくないので、読む人が読んだらテンプレとか思うのではないかと。
 しかし、「〈4〉仙の巻」から「〈5〉宝の巻」に読み進むにつれ、私は考えを変えてきた。この作者、斉藤洋という人は、マジで西遊記の本質を描こうとしているんじゃないか、と思えてきたのだ。というのは、ある種の物語の理不尽さと作者の思索の展開が見られる。固い言い方になるのだが、私は、西遊記なんてゲテモノというかお好きな方のアレ、みたいに思え、まして仏教なんかとまるで関係ないと思っていた。せいぜいシンクレティズム(syncretism)と言ったところか、と。だから、むしろ世俗的な道教思想くらいに考えていたのだが、この斉藤洋・西遊記を読みながら、それは違うのかもしれない。まじで仏教なのかもしれない、と思えてきた。
 そもそもが「斉天大聖」ということが道教の否定であり、この物語は道教がなぜ仏教の傾倒を持ったのかという道教批判の意味をもっているのかもしれない。というあたりで、この小説の主人公は観音菩薩なのかと思えた。
 現代日本だと仏教についてはあーだこーだいろんなエロい人が五月蠅いほどいるのだが、そうした喧噪とは別に、中華世界の伝統的な仏教というものもある。斉天大聖と観音菩薩の弁証法のなかには確実にある種の仏教というものがあるのだ。
 とはいえ、そんな私の印象などお構いなしに、これは、かなり面白いですよ。今の小学生で読めるとしたら、日本の小学生の学力はばっちりですよ。

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2007.04.04

伝えたいことが伝わるわけじゃないとか

 NHKの番組情報誌ステラの来週号をめくっていたら、八日の番組枠が変なので、ああ、そういえばこの日に選挙があるんだと思い出した。すっかり忘れていた。そういえば先日、街を歩いていたら駅前になにやら人混みというか適度な群衆があって、何か事件でもあったのかと思ったら、石原慎太郎がこれから来るということらしい。桑原桑原。その場を立ち去って買い物。小一時間ほどして戻ると、ご本尊とかその他有名人はもういないみたいだけど、人がまだなんとなく集まっていた。どれほどの人が集まっていたのか、後になって少し気になったが、それほどたいしたことはなかったんじゃないか。選挙期間なんだなと思ったのはこの一例だけで他には無風という感じ。静かなもんだ。
 ネットも統一地方選について静かな感じだけど、と思い直して、静かそうじゃないブログとか覗いてみたら静かそうじゃないどころかあまりの過激さに、引いた。桑原桑原。
 そんな感じでいたので、今日のはてなブックマークの人気のエントリーにはてなダイアリー「kmizusawaの日記 - なぜ石原を支持しちゃうオバサンがいるのか(もしくは左派に関する考察)」(参照)という話に共感した。


左派(右派にもいるが)のダメなところのひとつは、自分と同じ考えを持たない人たち、自分と違う価値観にしたがっている人たちの「センス」を馬鹿にしまくる(自覚はないのかもしれないが)ことだと思う。「石原を支持するやつはダメだ」ってなことをすぐに言っちゃう。時には石原本人を批判するより楽しげにそう言っちゃう。

 そういうのって内容以前に引くんだよなと思う。しかし、私もそうしたうきうき罵倒組と同じようなものかしらねとしばし自省した。
 話を一般論にすると、何かを一生懸命、啓蒙するというか、他者の考えを変えようとしてプレゼンテーションされたものって、しばしば、まーったく逆の結果を生むもんだよな、と。そんな話をそういえば見かけた。思い出した。これこれ。ちょっと古いのだけど、三月九日付けのロイターのニュース。日本では報道されただろうか。”Eating-disorder education shows unintended effects”(参照)。標題は、「摂食障害教育は意図せざる結果をもたらす」とか。

Teaching teenagers about eating disorders can make them more knowledgeable about the problem, but it may also have some inadvertent effects, a new study suggests.
十代の子供たちに摂食障害を教えることでその問題についての知識を増やすことができるものだが、同時に逆の結果をもたらすことがあると、最新研究が示唆した。

Yale University researchers found that when they presented female high school students with videos on eating disorders, it met the intended goal of boosting their knowledge about anorexia and bulimia.
イェール大学の研究者が明らかにしたところでは、摂食障害についてのビデオを女子高校生に見せることで、食欲不振や病的飢餓感について所定の知識を付けさせることができる。

However, the team saw that the students didn't necessarily find the results of eating disorders unappealing. Teens who watched a video featuring a woman recovering from an eating disorder became more likely to view girls with eating disorders as "very pretty," and some thought it would be "nice to look like" the woman in the video.
しかし、研究者たちは、学生たちが必ずしも摂食障害の結果が魅了的ではないと理解しているわけではないこともわかった。摂食障害から回復する女性を描いたビデオを見た十代の子供たちは、摂食障害の少女に対して、「とてもかわいい」と見がちであり、子供によっては、ビデオに描かれた女性に対して「あんなふうになれたらすてき」と考えるかもしれない。


 言い古されたことだけど、映像的なメディアとかは、言語的に意図されたものとまったく違うメッセージを送ることがある。だからこそ、むしろ映像的な無意識のメッセージを凝らすことになるのだろう。
 とか適当に書いらココログ終日メンテナンス中だもんで、舞い落ちる桜のなかを散歩に出る。街中の都知事選の写真をぼんやり見ながら、この顔写真の無意識的なメッセージってなんだろなと思った。
 そういえば、今日のニュースの”選挙ポスターにヒゲ…70男逮捕「一度書いてみたかった」 ”(参照)が面白かった。

調べでは、河内容疑者は3日午前3時半ごろ、江戸川区の都知事選の公設掲示板に張られた候補者のポスターにマジックでひげなどを書き込んだ。河内容疑者は「一度書いてみたかった」と供述しているという。

 容疑者は七〇歳だったそうで、人生終わりにちかいと思ったか、写真の老人たちをライバルと思ったか、やっぱし、ひげくらいないとねと思ったか。しかし、ひげの落書きで逮捕かぁ。眼鏡もダメだろうな。鼻毛なんか論外だろうな。

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2007.04.03

[書評]マンガ音楽家ストーリー

 すでに五〇歳にもなって懐古するのもなんだが、大人になったなと思う機会はいろいろあるが、それでも一様に感慨にふけることがあるとすれば、大人買いをした後の自己嫌悪みたいなものだろう。そうひどい自己嫌悪っていうこともないことも多いのだけど。ってな前振りで、先日の大人買い報告。「マンガ音楽家ストーリー」全八巻。上達もしないが、ときおりキーボードを叩きつつ、お子様向け名曲もええもんだわいと思っていくうちに、意外と名作曲家の人生とか知らないことに気が付き……それにあの怖わーい音楽室の肖像画が懐かしく……てな次第。


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バッハ
 「 バッハ(岸田恋)」は無難に面白い。マンガがマンガっぽくてよい面もあるし。読んでいて、バッハって若いころもあったし、マンガだからそう思えたのか、けっこう過激な人だったなと思うようになった。インヴェンションとか聞いているとあるバッハのイメージを持つけど、実際にはけっこう諧謔精神もありまた柔軟な精神もあったのだろうと思う。この本はけっこうマジで学校の副読本にしていいのではないか。



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モーツァルト
 「モーツァルト(岸田恋)」は二巻目ということでバッハの延長みたいなのだろうけど、モーツアルト自身がどう描いていいのか研究がありすぎてちょっと難しい。コンスタンツェは当然出てくるが、アロイジアへの言及はなかった。お子様向けにはそう悪くはないのだろうけど。特に勧めない。




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ベートーベン
 「ベートーベン(加藤礼次朗)」もモーツアルトに似たところがある。なので、という感じ。作画が岸田恋から加藤礼次朗という人になったのだが、これが、なんつうか、ケロロ軍曹に出てくる宇宙刑事556みたいでなかなか面白かったっていうか、べたに子供時代のマンガを思い起こして、ワロタ。




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ショパン
 「ショパン(岸田恋)」だが、お子様向けにショパンの人生なんて説明できるのかと思ったが、サンドとかの話も含めて、おやっというくらい踏み込んでいた。まあ、現実の現代の中学生が読んでいるマンガはもうもうすごーいレベルなんでそれに比べれば微笑んでしまうかもだが。あと、ショパンという人は時代のなかにいたのだなというのがよくわかる。これは意外に佳作。



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シューベルト
 「シューベルト(朝舟里樹)」はへぇ、だった。シューベルトの生涯というのは早世くらいしか知らなかったので、なにかとへぇへぇと思って読んでしまった。今でいったらオタとか非モテとかいう感じの人だったのではないか。それといやはや知らなかったのだが死因は梅毒とのこと。この時代ってそうだったのだろうなといろいろ時代感覚を思ったのだが、ウィキペディアを見たら、「死因は後期梅毒であるともいわれているが、記録から見るとシューベルトは梅毒の第2期(発疹、脱毛など)止まりであったことがわかっており、症状(発熱、吐き気など)の記録から腸チフスと見るのが妥当であろう。シューベルト生誕200年の1997年には、改めて生涯の再確認が行われ、彼の梅毒罹患をテーマにした映画も公表された」とあった。


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シューマン
 「シューマン(志生野みゆき)」は印象薄い。シューマンというと、音楽を離れるならどうしてもクララのほうに関心が向くのだが、これも知らなかったのだが、梅毒でしたか、はぁ。当然、物語として見ていくとブラームスと混じってしまうのだが、そのあたりは、お子様っぽくまとめてある。




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ブラームス
 「ブラームス(葛城まどか)」の表紙があれですが、これはけっこう面白かったですよっていうか、ブラームスはマンガとして読むべき。若い美男子のブラームスというのはよいです。どうしてもブラームスというとあの怖い爺さん顔しか浮かばないのだけど、あれって生涯においてはほんのちょっとのことだったらしい。まずい写真ってことはないんだろうが、あれでイメージを固定されていたとは。



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バイエル
 「バイエル(加藤礼次朗)」はすごい珍本だった。実はこの大人買いで一番期待していたのはバイエルの生涯だった。これだけ馴染まれた音楽家なのに、ほぼなーんの情報もない。いったいどういう人だったのだろう。で、読んで唖然。この一冊だけは全部フィクションなのでした。創作というか。で、読んでいてもちろん、爆笑してしまうのだけど、芦塚陽二原作の思い入れと加藤礼次朗作画の暑苦しさが、ここれは!という絶妙のハーモニーを醸し出していて、これは竹熊先生も一読のことみたいな雰囲気ですよ。お子様に読ませてどうかわからないですが。


 大人買いで、馬鹿なことしちゃったかと思ったけど、マジで考えさせれたのは、こうした西洋近代の音楽家というのは西洋近代の歴史のなかにきちんと埋め込まれていたのだなということ。そして今回は触れないけど、同時代の科学者というのもこの音楽家と似たような位相にあった、というか、芸人だったのか、と。市民社会とブルジョワジーがどのように芸人的なものを産みだし、そしてその音楽や科学という知識がどう、近代人というのをでっちあげていったのか……とか考えさせられた。

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2007.04.02

昭和三〇年代生まれには理系爺さんが懐かしい

 雑談。話は標題通りで、昭和三〇年代生まれには理系爺さんが懐かしい、ということ。雑談にありがちで、自分がそうだから他の昭和三〇年代もそうでしょという、論理も糞もない話だが、そうはいっても昭和三二年生まれの私が子供だったころ、学校やメディアにも理系爺さんはけっこういた。とかいう以前に私の父親がそうだった。小学校五年生のときに「電気磁気」を教えてもった。共振回路の設計にルート計算が必要なので解き方を教わった。で、よかったか? 学校が退屈になった。理系の学習が暇なのと思春期特有のなんたらで高校生のころ詩とか書き出して、吉本隆明がいうところの文学の毒で瀕死。まあ、それはどうでもいいんだけど。
 実家の書棚を整理すると、小学生のころや中学生のころの理科・科学・数学関係の、子供向け啓蒙書とか、ブルーバックスの都筑卓司の本とかごそっと出てくる。電気や化学の実験器具とかも出てくる。あはは。っていうか懐かしい。初等になるほど懐かしさがこみ上げてきて、なんというか、ららら科学のぉ子ぉ♪みたいなもので、世界に希望もって生きていたなと思う。そして、あのころの理科系爺さんたちは、今思うとわかるけど、戦争っていう難儀な世間から解放されてとても未来に生き生きとしていた。
 現代でこういうとなんだけど、私のデフォっていうか原点では、原子力ってのは自然に対する科学の勝利なんで原発によって人類は無限のエネルギーを持つ可能性ができた、あとはシズマドライブだけだみたいなそんな感じで、滅法明るい。原発事故とあっても、セキュリティの科学というのはしっかりしているからだけっこう大丈夫だよ、もっと人類の明るい未来を見ようよ、みたいなランラン少年だった。
 自分が世代的に取り残されたかなとなんとなく思ったのは、ノストラダムスの大予言あたりだろうか。あれね、私には、く、くだらねー、非科学ぅ、みたいなものでしたよ。ありえないじゃんで終わり。でも、それをけっこうマジ信じている若い子たちが一群いて、へぇと思ったことがある。二〇代に入ってからか。ああ、こいつら自分と世代というか、科学的世界っていうもの基本的な感性が違うなと。科学が身近じゃないんだ、こいつらとも思った。私たちの世代は科学爺たちのせいだけど、科学っていうのがもう身近極まるんですよ。お風呂のなかのおならがプーでも、アルキメデスの原理とかパスカルの原理とかそういう世界。もっとも、こういう科学好き好きというのはどの世代にも一定数はいるのかもしれないので、単純に世代論では切れないのだろうけど。
 そういうレトロな科学少年の世界にはそれなりのロマンもあって、手塚治虫とかそうかなと思う。特に生化学とか医学的な部分とか、もっとべたに言うと、生殖関連の科学知識と倒錯したといってもいいかと思うがそのあたりのロマンというか。サイボーグ009とかもそうで、私なんかの感じだとけっこうサイバーパンクっていうか生臭い感じがある。で、そういうなかで倫理的な問いというのは神話的なもので、後のガンダムとかエヴァンゲリオン的な言葉が際だつ倫理でもない。スターウォーズとかはレンズマンとかの、あれっぽいSF伝統の感じもあるけど。
 そういう自分が今年は五〇歳。若い人からは老人に見えるだろうし、自分の上の団塊世代は自身をうまく老人と認識してないから五〇代なんか見えてない。世代論はどうでもいいけど、団塊世代もまた、きちんとした科学知識がない人が多い。もっとも反面べたに科学的な人たちがいて面白いけど。

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算数おもしろ大事典 IQ
 とかたらたらと書いたものの、最初思っていたのは「算数おもしろ大事典 IQ」(参照)。これをたまたま発見して中をめくってみたらもうもうこの雰囲気が懐かしくて泣けそうで買ってしまったよ。話は、算数をベースにして科学を面白くまとめたコラムみたいなもの。
 アマゾンの素人評にこうあるけど、復刻らしい。

長らく絶版でしたが、プレジデントファミリーで紹介されて中古市場で大ブレイクし、再版されたようです。類書があまりなく、いずれまた絶版になるおそれがあるので、書店にあるうちに買っておくべきでしょう。

 プレジデントファミリーというのはよくわからないが、雑誌らしく、その06年12月号の「頭のいい子の勉強部屋」という特集記事に、国際数学オリンピックで金メダルを受賞した高校生が小学生のときに愛読した本として紹介されていたらしい。それで親たちが、我が子も国際数学オリンピックのセンスをと思ったのかもしれない。あほかね。国際数学オリンピックっていうのは、まじな数学のセンスが問われるのにね。つうか、秋山仁とかピーター・フランクルとか荻野暢也とかまあ、変人になってしまいますよ。
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ふしぎふしぎ200
ふしぎ新聞社
 そういえばこの手の本で最近面白かったのは、「ふしぎふしぎ200(ふしぎ新聞社)」(参照)だ。もうタイトルからしてレトロなのだが、中身ももう昔の子供ワクワクの話ばかり。

「ヒエログリフで自分の名前を書いてみる」「トノサマバッタを上手に釣る方法」「大きなシャボン玉をつくる方法」など、一度はやって、誰かに自慢してみたくなることがいっぱい。人間もゾウもネズミも一生の間に心臓が打つ回数は同じくらいなんだという話や、アラスカの大地を撮り続けた星野道夫さんのエピソードなど、興味深いテーマも多く掲載されている。また、こだわりや誇りをもって自分の仕事をしている人たちの話なども多彩に盛り込まれている。
 本書は月刊「たくさんのふしぎ」通巻200号を記念して出版された。これまでの「たくさんのふしぎ」1冊1冊のメインとなっている「ふしぎ」があらためて取り上げられ、ぎゅっと詰め込まれている。クイズ、なぞなぞ、パズル、一筆書きをはじめ、本をぱらぱらとめくると動いて見える絵まで、いろいろな楽しい遊びが満載だ。

 そういえば、先日ってか昨年の夏の終わりだったか、公園でぼけっとしていたら、草むらで小学生とかがぎゃーぎゃーわめいているので、なんか事件でもあったのかと、オッサン28号は起きあがって見に行ったのだが、なんのことはない、カマキリだよ。カマキリが怖ーいとかぬかしてやんの。もう、あれですよ、スイッチ入っちゃいましたよ。「大丈夫、こんなの怖くない。やられても手にちょっと傷ができて血が出るくらい」……やば、そういうのが今の子はダメなのかもしれんな……「あのね、かまきりというのは持ち方があるんだよ。こうやって」……と背と腹の接点をちょいと摘む。「ほらね、こうすると、大丈夫。ははは、がんばれ、あばれろカマキリ」とか、つぶやく私はすっかり変なオッサンでしたよ。「おい、帽子持っているか。もっていたら、こいつにかぶせて、二〇分くらい暗いところに置くと、目の色が黒くなるんだぞ……」
 とか思い出すと、こういう時はけっこう幸福感がある。私が子供の頃のあの理科系爺さんたちもほんと幸せそうだったよなと思い出す。

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2007.04.01

三角合併攻防戦の背後にある動き

 日本国民が汗水垂らして貯めた財産を組織的に巻き上げるグローバリズム経済の魔の手がまた伸びてきたようだ。だが、日本にはそれを迎え撃つ民族の知恵がある。

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黒字亡国
対米黒字が
日本経済を殺す
三國陽夫
 日本を愛するという一点で従来右派と左派に分かれていた政治勢力が連帯し、過激ともいえるノーモア小泉運動によってグローバリズムの手先小泉純一郎と竹中平蔵を日本政治の表舞台から手段も選ばず引き下ろし、危険な一手「三角合併」をかろうじて一年間凍結した。日本国経済を支える諸団体も、「三角合併」の実質的な手続きを完膚無きまでに骨抜きすることに専念し、さらに小泉支持勢力による王子製紙によるTOBもなんとか阻止し、製紙業界の株価も国内的に妥当な水準に安定させた。なのに、その善戦の陰で次なる恐るべき一手が進められていたのかもしれない。
 三月二八日付け日経新聞”三角合併の課税繰り延べ、外資の「準備会社」容認・財務省方針”(参照)で報道されたように、封じておいた悪魔の三角合併封印である課税繰り延べ禁止措置があろうことか外されることになりそうなのだ。

 財務省は、5月に解禁になる外国企業が自社株を対価に日本企業を買収する三角合併で、外国企業が日本に設立し広告宣伝などを手掛ける「事業準備会社」には、課税繰り延べ措置を認める方針を固めた。

 事態がどれほど深刻であるかについては、三國陽夫「黒字亡国 ― 対米黒字が日本経済を殺す」(参照)が詳しい。諸悪の根源はやはり小泉行政である。

 小泉内閣は二〇〇四年、日本経済を活性化させることを目指し、対内直接投資を倍増させる方策として会社法の改正を打ち出した。
 二〇〇七年から株式公開買い付け(TOB)制度を利用して、海外の企業が自らの株式を日本企業の株式と交換することで買収できるようになる。これが実現すると、アメリカ企業による日本買収は、従来に比べてはるかに容易になる。

 日本買いが容易になるのは、株式時価のからくりを使うからだ。日本は米国の巧妙な策略により長期デフレに沈み、その間、日米間の企業の時価総額に大きな開きが出てしまった。この差分を使い、グローバル勢力が日本の主要企業をすべて支配する日が迫っている。

 一九八〇年代後半のバブル経済全盛期、日本の上場企業ベースの株式時価総額は約六〇0兆円とアメリカのそれを若干ながら上回るほど膨らんだ。それがいまや、日本の株式時価総額はアメリカの五分の一程度まで差が広がってしまった。追い打ちをかけるように株式交換による日本企業買収の道が開かれるとすれば、もはや日本企業はバーゲンセールに出されたようなものではないか。アメリカの主要企業がそろって自社の発行株数の二〇%分の株式を発行すれば、日本の産業の主要企業を支配することは計算上、可能となる。

 この野望に日銀バッシャーと見られるリフレ派も加担していた。なんとなれば、リフレ派が支持する低金利とそれがもたらす対外金利差の是認はグローバル経済にホットマネーを供給していたからだ。三國は言う。

アメリカ企業は日本から低い金利で大量に流入する資本を借り入れて日本の優良企業の実物資産を購入できる。

 この国難に対処すべく、三角合併を実質的に不可能にする諸案が目論まれた。なかでも譲渡益課税の繰り延べ禁止は重要だったのだ。この点も三國は的確だ。

また、買収企業の株式を取得した時、株主に生じる譲渡益課税を繰り延べる税改正がされていないため、株主はTOBに応じにくい。

 ニューズウィーク日本語版(4・4)でも指摘されている。なお、同誌はグローバリズムのプロパガンダとも言えるので敵の手の内を知るのに役立つ情報が多い。

 このままいけば、三角合併は誰にも使えないしろものになりそうだ。日本経団連は、さまざまな骨抜き策を求めてきた。いくつかは政府・与党が退けたが、最大の焦点である外国株を対価として受け取った場合の課税繰り延べの扱いは不透明なままだ。フタを開けてみるまで課税されるかどうかわからない状態では、「怖くて使えない」と在日米国商工会議所(ACCJ)のニコラス・ペネシュ対日直接投資委員会委員長は言う。

 だが、最大の防衛でもあり日本の伝統的な美学にも通じる曖昧で不透明な権力の行使を、こともあろうか官僚の大本営財務省が取り崩す決定に傾いているかに思えるニュースが流れたのはなぜだろうか。ヒントはやはり同ニュースの中に隠されている。

ペーパーカンパニーには繰り延べを認めない方針は変えないが、準備会社は容認することで、日本に製造拠点や販売網を持たない外国企業にも三角合併による買収の道を開く。

 一読すると緩和の方向のように向かっているかのようだが、財務省の発表はその裏まで読む必要がある。なかでも留保条件にどれだけの恣意性が込められているかが官庁の意向を読むポイントだ。今回のケースでは、日本国に楯突くような買収が出た時点で難癖をつけて「お前らはペーパーカンパニーではないか」と判定すればよいということのようだ。ホリエモンを豚箱に入れ日興の不正見逃すのに比べれば、あからさまに検察を動かすまでもない簡単な行政手段で三角合併を無効にすることができるのだ。まだ、日本には希望がある。
 同論点については三月二九日付け読売新聞”日本での事業実体、条件…三角合併の課税繰り延べ”(参照)のほうが詳しい。

買収側が三角合併のために日本で子会社を設立する場合は、事業実体のないペーパー会社に終わらないことを明確にするため、日本に事業所を持ち、従業員を雇用したり、関係省庁への許認可申請や広告・宣伝を始めているなど具体的な活動の開始を求める。同省は4月中旬に省令を公表する。

 三角合併を推進するための代理店にはペーパーカンパニーではない証明が求められるのだが、その三点を解説するとこうなる。
 (1)「日本に事業所を持ち」というのは、「事業税をたんまり納めろ」ということ。(2)「関係省庁への許認可申請や広告・宣伝を始めている」というのは「官僚や業界の掟に従え」ということだ。
 しかし、こうした日本の美しい慣例はすでに欧米でも知られているのでそれほど新味はない。重要なのは、(3)「従業員を雇用したり」という点にある。未公表の段階だが、財務省は、日本に増え続けるニートの雇用促進を想定しているらしい。つまり、ニートの雇用と外国企業による日本企業買収はバーターになるというのが新しい日本国の国策なのだ。
 ニート問題プラス三角合併問題解消のために、メディア情報もこれから統制されることになる。従来のように「ニートは使えない」とか「ニートは国内問題である」といったマスメディアのキャンペーンは今後沈静される。代わりに、「ニートや失われた世代と呼ばれる若者は、実はグローバルでチャレンジ精神溢れている」というキャンペーンに取って代わることになる。
 このようにして見ると、グローバリズム問題の本質は情報戦またはイメージ戦でもあることがわかるだろう。
 もっとも、日本支配を目論むグローバリズム側も日本の固有の文化や言語についてより深い理解を得るべく研究を進めていることに注意を促したい。この点で、顕著な例を挙げよう。米系投資ファンドのスティール・パートナーズ・ジャパン・ストラテジック・ファンドによるアデランスの買収工作がそれだ。三月二九日付けFujiSankei Business i”アデランス防衛策 スティールが反対”(参照)より。

 米系投資ファンドのスティール・パートナーズ・ジャパン・ストラテジック・ファンドは28日、投資先のアデランスに対し、昨年12月に導入した買収防衛策の廃止を求める株主提案を行ったと発表した。

 不思議に思う人もいるかもしれない。なぜハゲタカ・ファンドがアデランスを求めるのか? なぜハゲタカが、カツラのアデランスを?
 繰り返して呟いてみるとよい。なぜハゲタカが、ハゲタカが、ハゲタカハハゲタカ……すると気が付くだろう。ハゲタカ・ファンドは、日本人から、ハゲタカ、ハゲタか、禿たか? と言われ続けてハッと頭髪の必要性を理解したのである。まさかと思うような駄洒落のなかに、つまり日本文化や日本語の本質に、グローバリズムがまるで四月馬鹿みたいにすでに忍び寄っているのだ。

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