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2007.03.17

中年男性のメタボリック・シンドロームと自殺を再考する新しい視点

 先日ロイターニュースを漫然と見ていたら、ちょっと面白い話があった。これは考えようによっては、中年男性のメタボリック・シンドロームと自殺を再考する新しい視点となるのではないかというブログ向きのネタになるぞ。
 日本語訳のニュースがあったか知らないが、ニュースは”Heavy men may be less apt to commit suicide ”(参照)である。標題でもわかるように、「デブ男性は自殺しにくい」というのだ。ニューヨーク・タイムズ”On the Scales: Suicide Found to Be Less Likely in Heavier People”(参照)にもあった。
 ということは、昨今日本でも話題になっている中年男性の自殺を防止するにはデブを増やせばいいのではないか。しかし、デブそのものが問題かということになるかも。なぜデブ問題かというと健康に良くないからだ。となれば、自殺リスクと健康の選択ということになる。そうなれば、健康のためには死んでもいいという一部の人を除けば、これは、つまり、デブがよいぞ、というのはけっこう説得力ある視点ではないか。


As body weight increases in men, the risk of death from suicide falls markedly, new research hints.

男性の体重が増加するにつれ、自殺による死亡率は目に見えて減少するということが新研究によって示唆される。


 ネタ元は、ちゃんとした医学誌”Archives of Internal Medicine”でその概要もネットで読むことができる。”Body Mass Index and Risk of Suicide Among Men”(参照)がそれだ。

Background Body mass index (BMI; calculated as weight in kilograms divided by height in meters squared) has been linked to depression and the risk of suicide attempts and deaths in conflicting directions.

背景 ボディマス指数(BMI;体重を身長の二乗で割って求める)は、憂鬱と自殺試行リスクと相反しつつ関連している。


 単純に言うと、太ると、自殺しない、となる傾向がありそうだ。
 しかし、こんな結果出してちゃっていいのか?

Conclusions Among men, risk of death from suicide is strongly inversely related to BMI, but not to height or to physical activity. Although obesity cannot be recommended on the basis of its detrimental effects, further research into the mechanisms of lower risk among overweight and obese men may provide insights into effective methods of suicide prevention.

結論 男性では、自殺リスクはBMIと強く反比例し、身長や身体活動とは関連していない。肥満の有害な影響を元にすれば肥満が推奨されるものではないが、体重超過で肥満男性において自殺リスクが軽減される仕組みは、自殺予防の効果的な手法に新しい視点を与えるだろう。


 ようするに、太ると自殺が減るというメカニズムについてはもう少し研究したほうがええんでないの、ということだ。
 なぜ太めの男性が自殺しにくいのか、ということについての今回の研究ではあまり触れていないが、インシュリンの循環量が気分に影響しているからと示唆されている。
 私の印象だが、コレステロールも関係しているかもしれない。コレステロールは各種ホルモンの材料になる。たしか、高齢女性については、コレステロール量の低さは死亡率に相関していたはずだ。
 ネタはそのくらい。
 太ったかたには失礼なエントリになってしまったかもしれない。申し訳ない。多少太っていても気にしなくていいんじゃないかと個人的には思う。
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弥勒信仰のアジア
 太っているほうが幸せというのは、日本の伝統でも布袋様とかで理解できるものがある。あのデブ腹の布袋様だが、中国ではあれが弥勒菩薩とされている。日本人の弥勒菩薩のイメージとというと広隆寺や中宮寺にあるちょっとバイ?っぽい半跏思惟像を想像する人が多いだろうし、オウム真理教でも弥勒菩薩の聖名マイトレーヤを持つ人もそう太ってないので日本的なのかこれから太るのかよくわからないが、東洋では弥勒菩薩はデブである。沖縄でも弥勒菩薩は「みるくゆがふ」のみるくである。やわらか戦車の世界なのであろう。

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2007.03.16

団塊パーンチ、ナツメロパーンチ

 「団塊パンチ4」(参照)を買ってもうた。表紙のアグネス・ラムに惹かれて衝動買いしたわけではない。まして、その巨乳とかに惹かれたのでは断じてない。その証拠にアグネス・ラムってこんなに巨乳だったかとあらためて思ったくらいだ。本当だ。そこに関心があったわけじゃないんだ、と昭和三十二年生まれ団塊後世代のオッサンは熱く熱く弁解する。

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団塊パンチ4
 「団塊パンチ4」は4というからにはこれまで三巻あったのだろう、知らんかったとは言わない。あったことは知っていたけど一回こっ切りのネタだと思っていた。隔月刊だとは思ってなかったので、あれ?こんなのあるんだと表紙で意外に思った。ちなみにちょっと調べてみたらこれまでの号の表紙はなんかださいというかなんというかカルチャーっぽいというか。
 ありがちなムック形式で紙質がよいのがちょっと泣ける。ホール・アース・カタログみたいな、"Stay Hungry. Stay Foolish."のノリのほうがいいのにと思いつつ、捲る。グラビア。ラムちゃん、ドーンである。
 どれも一度は見たことのある写真ばかりなのだが、記憶にゆがみがある。こんな巨乳だったかはどうでもいい(本当にどうでもいいんだ)。表情が、私の記憶ではもっと外人外人していた。フローニングの険しい表情が印象的だった。その距離感がなんとなく少年だった私はカフカだった、違う、好きだった。「団塊パンチ4」に掲載されているアグネス・ラムの写真は間違いではないのだけど、なんか甘い印象があるし、その甘さの距離感は、率直に言うのだけど、私が団塊世代に感じる嫌悪感と繋がるので、引く。
 めくっていくと吉永小百合と浅丘ルリ子の特集がある。うまくできた特集だとは思うし、吉永小百合の清純さというのは確かに時を越えたものだし、JRの駅にあちこち貼ってある老年期の彼女との差異はサブリミナルというか奇妙に無意識をかき立てられる。〇七年、禄でもないことが始まるなの悪寒。
 浅丘ルリ子については、ああ、あれが見たいな、横尾忠則のあれ。で、そう言っているならあれもこれも見たくなる。そういえば、先日実家を整理したら、自由国民社のガッツとか、集英社だったかヤングセンス(ヤンセン)とか数冊出てきましたよ、わーお。カルチャー的には俺はあっちにも足を突っ込んでいたよな。
 以上は前振り。このムックを買ったのは、花っちの再婚話が載っているからだ。花田紀凱、六十四歳が、二十六歳年下の嫁をもろたという話。

テレビやラジオのコメンテーターとしての活躍中で、出版業界では名物編集長として知られる花田紀凱氏(64)。論壇誌『WiLL』の編集長でもある。前妻を四年前に亡くした後は「快適な独身生活」を送っていたはずなのに、電撃再婚していた。お相手は学生時代は文学座の研究生に身を置いていた女優志望で、現在は民主党・光谷三男代議士の公設秘書神田一恵さん。二人の年齢差はナント! 二十六歳ということだ。

 「ナント!」のあたりの口調が団塊世代らしくて某ブログの文体を自然に連想させるところがぐふぇひでぶなのだが、それにしても民主党GJ。違うか。
 二十六歳、年下かぁ。宮台先生もそのくらいだったか。ぅへへへみたいな思いが団塊世代から私の世代の男の脳裏を掠めないといったら嘘だろてかそれって全然嘘だろうぉーらすていんっていうくらいなものなのだろう。しょうもない。
 花田のインタビューはどうってことないといえばどうってことない。うひゃと読めるところもないわけではない。でも、ようするにこれが団塊パーンチ、ナツメロパーンチ、ワン・ツー・パンチ、あなたはいつも新しい希望の虹を抱いている♪の希望の星がここにあるし、そういう希望の虹を求めてしまうのだ。死が裏にあるからだ。
 虚栄の予感に鈴木ヒロミツが死んだ。今日が告別式らしい。六十歳だった。私は中学生のとき、彼ヴァージョンの月光仮面を歌ったクチである。人生だなと思った。と言いつつ、彼の人生は知らない。新聞の過去ログを見ると、子供が生まれたのは四十歳だったらしい。そして「できるだけ一緒にいてやりたい」と三年間芸能活動を休んで子育てに専念したという。
 よい選択だったのだろう。団塊世代とか団塊チルドレンとか言われるし、私も放言してしまう。しかし、中にあるのは一人ひとりの人生ではある。

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2007.03.15

[書評]アフターダーク(村上春樹)

 もう少し間をおいてから読むつもりだったのだが、なんとなく夜というものにつられて「アフターダーク(村上春樹)」(参照)読んでしまった。日本では長編という扱いになっているのだろうか。しかし長編というほどの重さはなく、さらっと数時間で読める。私は朝を迎える前に読み終えてしまったのだが、できたら、そのまま渋谷の深夜でぶらぶらと彷徨して読みたかったようにも思う。街の深夜が、いとおしいというのでもないが、とてもキーンに感じられた。

cover
アフターダーク
 この作品も従来の春樹らしい作品だと言える。あるいは言えると思う。冒頭の「私たち」の映画的な、あるいは無人称的で超越的な(吉本隆明のいう世界視線のような)視線を維持する文体が少しばかり従来の村上春樹とは違った印象も与えるが、展開されているエピソードと会話はむしろ初期の村上春樹の短編を特定の主人公に寄りあわせたようになっており、その意味では短編集という趣も感じられる。
 作品の統一性を与えているのは、眠りのなかの、そして眠りのなかで目覚めたように隔離された空間に置かれた浅井エリという女性の存在だ。この女性がこの作品にとって、なんと言うべきか、ラカンの言うファルスをマイナスにしたような象徴として、物語の、暴虐とFlavor of Lifeとでもいうような人の香りの二極を統合している。あるいは、みみずくんとかえるくんを統合したように深く存在している。「私たち」という視線は都市と闇を作り出すことで、このマイナスのファルスに魅了されている……そのことが仮面の男として導出されているのだろう。私たちは都市の闇のなかにあって仮面を剥ぐときに、白川でもあり高橋でもある。あるいはその関係性において郭冬莉であり浅井マリでありうる。
 この両義的な奇妙な構造のなかで、かろうじて世界を分節しているのが、おそらくエリを閉じこめるテレビ映像に象徴される「情報」と、無名の視線としての「私たち」による「逃げろ」と叫ぶ「ルール違反」だ。おそらく後者の「ルール違反」のなかにこの時期の村上春樹のぎりぎりのコミットメントがあるのかもしれないが、おそらくそのコミットメントは、中国人売春組織の「わたしたち」とひらがなで書かれる存在の、携帯電話という情報装置を介した脅迫のコミットメントとバランスしている。あるいは、そうさせているところが、村上春樹が凡百の文学者と異なるところだろう。別の言い方をすれば、彼は文学の中に逃げてはいないし、薄っぺらな倫理のなかにも逃げていない。
 作品のディテールも非常に面白いものだった。村上春樹は国際的な作家であり、高橋の、まるで翻訳を想定したようなぎこちない会話の不自然さは際だつ。しかし反面、現代日本人でしか理解しえない、日本都市の屈曲した、あるいは倒錯した細部が多彩に描かれている。例えば、なぜ「タカナシのローファット牛乳」なのか。私は高橋のようにコンビニで牛乳を選ぶ人なのでそこに込められた細部を読み取ることができる。また、私はイヴォ・ポゴレリチのファンなので白川のようすの細部を読み取る。
 こうした細部は作品を単純に豊かなものしているかというとそうではない。逆説がある。その一番顕著な例がライアン・オニール主演の「ある愛の詩」についての断片だ。

「貧乏もさ、ライアン・オニールがやっているとそれなりに優雅なんだ。白い厚編みのセーターを着て、アリ・マッグロウと雪投げなんかして、バックにフランシス・レイの感傷的な音楽が流れる。


「で、そのあとはどうなるの?」とマリが尋ねる。
高橋は少し見上げて筋を思い出す。「ハッピーエンド。二人で末永く幸福に健康に暮らすんだ。愛の勝利。昔は大変だったけど、今はサイコー、みたいな感じで。ぴかぴかのジャガーに乗って、スカッシュして、冬にはときどき雪投げして。一方、勘当した父親の方は糖尿病と肝硬変とメニエール病に苦しみながら、孤独のうちに死んでしまうんだ」
「よくわかんないけど、その話のいったいどこが面白いの?」

 村上春樹は高橋に話をよく覚えてないと一応言わせるのだが、作為である。ここで語られる「ある愛の詩」はまったくでたらめであり、「アフターダーク」という作品の「いったいどこが面白いの?」という批評性を逆手に取っているのだ。言うまでもなくこの冗談のようなゆがみが村上春樹にとって意図されていたことはライアン・オニールが強調されていることでもわかるだろうし、おそらく、英米圏の批評家の視線を読み込んでいる。余談だが、最近ライアン・オニールはロサンゼルス近郊の自宅で息子のグリフィン・オニールに拳銃で発砲したとして地元警察に逮捕された。彼ならやりそうなことであり、それゆえに「アフターダーク」に選ばれている。

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2007.03.14

[書評]アルジャーノンに花束を(ダニエル・キイス)

 え、読んでなかったのとか言われそうだが、この本との関わりもいろいろ因縁のようなものがあった。先日「極東ブログ: [書評]海辺のカフカ(村上春樹)」(参照)を読み返し、その登場人物のナカタになにか心がひっかかるなと思って書架を見ると、「アルジャーノンに花束を(ダニエル・キイス)」(参照)がおあつらえ向きにあった。今なら読めるかと読んだ。読めた。

cover
アルジャーノンに
花束を
 この本は考えようによっては随分昔から私の元にある。七〇年代からあったかもしれない。この間何度も引っ越ししても蘇生してくる、といって同じ本ではない。今回読んだのは九九年版の文庫だ。購入した記憶がない。貰い物かもしれないが誰に貰ったかの記憶もない。以前の本も、お前これ読めみたいなことだったと思う、というか、なんかよくわからないが私の回りの人が私にこれを読ませようとしてきた。長年書架にあるので、たまたま書架を見た人が、これいいんですよねとか私に共感を求めるのだが、その都度困惑する。読めてないのだ、私。チャーリーが知能アップするあたりで、くだらねとかいつも放り出してしまう。
 今回読んでみて、いろいろとわかった。その理解にちょっと泣けるものがいろいろあるし、あまりディテールには書きたくないので、アバウトに言える点だけ言うと、私という人間は知能アップしたチャーリーのように人を傷つけまくっていたのだろうなというのはある。ごめんな。
 そういえばキイスと宇多田ヒカルが文藝春秋で対談をしていたのはいつだっただろうか。なぜ対談してたんだっけと、調べてみてなんとなくわかったのだが、この物語の本案か何かがテレビドラマだったのだな。へぇである。ちなみにあの対談はと調べると、00年一月か。とすると宇多田ヒカルが一六歳くらいか。「アルジャーノンに花束を」読後に先日NHKの対談番組に出た彼女とその歳の彼女のことを考えるといろいろ思うことはある。Blueという曲からもその思いが察せられるが、さておき。
 「アルジャーノンに花束を」の基本的な解説は不要だろう。あるいは、ウィキペディアの項目にあらすじがあるにはある(参照)ので、未読の人は参考にするといいかもしれない。私としてはちょっと違和感があるが。
 というのも、この物語、ようやく読めて、面白かったのだが、これまで読めなかった理由、頓挫していた理由、もなんとなくわかった。今回読めたのは、頓挫地点を越えて、私なりにこの物語の主題がわかったからだ。「私なりに」という大きな限定を謙遜の意味でつけておくのだが、この物語は母子の物語なのである。ウィキペディアとかのあらすじにある仕掛けとか、知性によって思いやりが云々とかそういうのは、たぶん、それほどどうという話でもない。
 普通の若い夫婦がいた。普通に生きられるはずだった。ところが知的障害児の男の子が生まれた。その悲劇に翻弄されるようすがこの本でよく描かれている。若い妻は自分に問題があるのではないかと思いつつ次の子供を産む。健常児の娘である。そしてその娘と知的障害の兄と母との関係は複雑になる。この複雑さが刃傷沙汰に及ぶのだが、こうした悲惨な展開は実はそう不思議でもない。偽悪的に言いたいわけではないが、同じような境遇にある人にとってこんな悲劇はよくあることなのだ。そして一生その悲劇を負って生きていく。こうしたことはあまり世間では語られない。語れない領域だ。世の中にはこんな悲惨があっていいのかと思いながら世間では語れないことがいろいろあるものだが。
 「アルジャーノンに花束を」はそうしたとてつもない世間の悲劇というのを暴露するのにチャーリーという仮構を使った、と私は読んだ。その意味で、チャーリーが知的障害児であるという設定は装置としては面白いし、おなじ装置がキイスお得意の多重人格的なフレームに流れ込むのはそうした点から当然のことでもあったのだろう。
 この物語が基本的に母子の物語であるというのは、チャーリーに付きそうアリス・キニアンとフェイという二人の女性との性関係にも強く陰影を落としている。恋愛というものの中に病理として現れる母子関係についてもかなり洞察が込められている、が、そこには救いはない。いや、知能を失ったチャーリーがキニアンに最後の思いを残しているがそれは、彼という母子関係の中の不幸の、いや、ある救済であるかもしれない。
 チャーリーが、老いて他人のような父母と再会するシーンは、なんというのか、人間五十年も生きていると、いろいろじんわりくる。ぶっ殺したいほど憎んでいた肉親もこんなに弱い人間にすぎなかったのかと知ることは、つらい。
 アマゾンの素人評にはこの書籍の感想が百を越えて掲載されていた。私は私のような読み方をする人がいるのか全部読んでみた。作品というのは、多様に読まれうる。正しい読みがあるわけではない。ただ、私のような読みの人はいなかったようだ。でも、それはそれでいいのだろうと思う。

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2007.03.13

ゴルゴンゾラチーズのはちみつがけ

 「やあ、元気かいマルコ少年」
 「やだな、少年じゃないですよ、三十過ぎてますよ」
 「嫁は見つかったかね、バレンタインデーはどうだった?」
 「そうだ、そろそろホワイトデーじゃないですか。手作りのホワイトデーのなんかレシピやってくださいよ。簡単なやつを。お願いします。」
 「じゃあ、ゴルゴンゾラチーズのはちみつがけ」


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 作り方は簡単。ゴルゴンゾーラチーズをスライスして、くるみのチップとレーズンをぱらぱらと載せて、そこにはちみつをかけるだけ。スプーンで食べる。
 デザート、というか、ドルチェ。でも、赤ワインにも合う。
 適当に作ってもそれなりに美味しいと思うが、人によってはゴルゴンゾーラを受け付けないので、そのあたりはちょっと好みの探りを入れておくといいだろう。でも、「青カビチーズって好き?」とかべたに聞くのはどうかな。というか、この手のものを受け付けるかどうかは食の傾向を見ているとわかるものだけど。
 経験的に言えば、このあたりの味覚を好む女性はなにかとモアベター(激しく死語)。
 食べてみるとわかるけど、青カビチーズから想像したのとは違った、えっ?という味わいがある。チーズとクルミとレーズンの食感のハーモニーも楽しい。
 いくつか補足。
 ゴルゴンゾーラはピカンテ(辛い)とドルチェ(甘い)がある。普通に作るなら、ドルチェがいい。乳質が決め手なのであまり安くないのがよい。ゴルゴンゾーラ・ドルチェ自体がとても美味しい場合は、はちみつとトッピングスは控えめに。
 ピカンテでもできるが薄くしてはちみつをやや多めに。この場合はトッピングスは多くてもいい。
 最大のポイントははちみつ。これだけはできるだけ上質なものを選ぶこと(当然ちと高い)。ちなみに私はオレンジはちみつが定番。
 クリーム系のチーズとはちみつはけっこう合う。
 くるみはスーパーのお菓子コーナーにある。レーズンも同様なんだけど、これも実は凝るといろいろある、けど、そのあたりはバランス。
 くるみもはちみつと合う。というか、ナッツは意外とはちみつに合う。はちみつ漬けにしてもよい。

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シェフとマンマで
イタリア料理
 このレシピは私のオリジナルではなくて、「シェフとマンマでイタリア料理―レストランの味わい、家庭料理の温かさ」(参照)より。
 応用編。
 バゲットにゴルゴンゾーラを塗るようにつけて、それにはちみつをたらすというか軽く塗る。これはちょっと変わった前菜に。
 ゴルゴンゾーラでピザにしてサーブするときにはちみつをたらす。
 このチーズケーキバリエーションもあり。

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2007.03.11

[書評]海辺のカフカ(村上春樹)

 ようやく読めたということに個人的な感慨がある。長いこと読めなかった。私事めくが私は村上春樹の熱心な読者で十年前までは初期の作品のほぼコンプリートなライブラリーを持っていた。後に「回転木馬のデッド・ヒート」(参照)にほぼ収録された『IN・POCKET』も全巻持っていた。が、ごく僅かを残して捨てた。彼が国分寺で経営していた喫茶店ピーターキャットにも行ったことがある(もっともそのときの店主の記憶はない)し、その他、彼が住んでいた地域や「遠い太鼓」(参照)の異国の町まで見聞したこともある。それほど好きだった村上春樹の文学がぱったりと読めなくなった。

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海辺のカフカ (上)
 私に二つの事件が起きた。一つは期待していたというかあまりに期待していた「ねじまき鳥クロニクル」(参照)の第三部「鳥刺し男編」(参照)にぶっち切れしてしまったことだ。私はこの作品は二部までの力量で最低でも五部まで続くと信じていた。ひどく裏切られた。その後、読み返してこの三部完結もありかなとは思ったが、先日読んだジェイ・ルービンの「ハルキ・ムラカミと言葉の音楽」(参照)でこの「ねじまき鳥クロニクル」第三部の英訳のいきさつを知り、当然だろうなとは思った。あのころちょうど私が沖縄に出奔した時期でとにかく荷物を減らそうとしていたのに当時出ばかりの大部二冊をこれだけは別だと宝物のように扱っていた。思い入れが強くて裏切られたというかありがちな馬鹿な恋愛みたいな感情だった。
 その後東京(地下鉄)サリン事件が発生し、ある意味で「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」(参照)の予言のようなものが的中した。神戸の震災といいサリン事件といいそれが春樹の文学に決定的な意味を持つことはわかった。だが、「アンダーグラウンド」(参照)と 「約束された場所で」(参照)に奇妙な違和感は残った。他方震災の影響作である「神の子どもたちはみな踊る」(参照)は春樹への期待を復活させるすばらしい作品だった。
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海辺のカフカ (下)
 もう一つの事件はまさに「海辺のカフカ」に関係する。これが出たとき体調を崩してというか主観的には死にかけていたこともあり、特定のジャンルの読書ができなくなった。特に、「海辺のカフカ」がまったく読めないことに愕然とした。もちろん、文字面はなんとか読むことができる。だがまったくと言っていいほど意味をなさない。くだらないファンタジー小説を無理矢理読まされているような感じだった。当時を思うと、自分にとって春樹文学はこれで終わった、少なくとも自分にとっては消えたと思った。その後はなんとなくエッセイなどは他の作家のように読むことがあっても、彼の読者であることはないだろうと思った。ライブラリーを破壊した。それは今もそれほど後悔してない。
 ところが先日、自分が今年は五十歳になるということで漱石の「明暗」を読み返したのと同じ理由で、春樹さんはどうやって五十歳に成りえたのだろうかということが奇妙に気になりだした。私が追っていた彼の文学はだいたい四十代までである。そんなことから今なら「海辺のカフカ」が読めるかもしれないと思い直した。
 呪いが解けるように読めた。
 もともとこの作品は「ハードボイルド・ワンダーランド」の後続的な位置づけの作品だからなのだろうからある程度読書のノリができれば、以前愛読者だった心が蘇る部分がある。ただ、読後、率直にいって、この文体と、あまりに悪ふざけ的な超自然的な展開のご都合主義、メタ批評的な知性主義、その三点はいただけないなと思った。
 ディテール的には、佐伯さんの描き方が薄すぎるのが残念だった。しかし、春樹の長い読者からすれば佐伯さんの消された過去が、おそらく春樹自身の結婚生活の関連もあっていつかテーマになるのだろうという予感はもった。ナカタさんは単的に羊男であろう。そしてクロニクルの間宮中尉の陰影も多少持っている。そうしたスジでいうのなら「僕」は初期三部作の「鼠」であろうし、佐伯さんは「鼠」を空しく待っていたその恋人だろう(描写のディテールが呼応している)。しかし、こうした解読はそれほどどうというものでもない。
 作品系列的には「ハードボイルド・ワンダーランド」の後続としてどう読むかで、具体的には「影」と失われた「私」としてのナカタさんの関連がある。佐伯さんが同じく影が薄いことも「ハードボイルド・ワンダーランド」との関連があるのだろう。が、たぶんその後続的な主題は失敗したと見てよいのではないか。「ねじまき鳥クロニクル」で象徴をとっちらかしておきながらそれを批評というか出版界というか特に海外の批評が甘くしすぎていることの悪いツケが「海辺のカフカ」に集約されたようにも思える。
 作品中出色なのが星野青年で、「海辺のカフカ」のビルドゥングスロマンは「僕」よりも星野青年にある。このあたりからまた次の文学が生まれるのだろう。大島さんについてはちょっと間違ったキャラクターだろう。彼または彼女の闇のような部分はうまく表現されていないし、使いこなせていない(例えば大島さんにとって佐伯さんの死・喪失の意味)。
 全体としてオイデプス神話のパロディのフレームを持っているのだが、父を殺し母を犯すという点までは、ある意味でありがちなべたな展開なのだが、文学的にはむしろ「姉と交わる」という点であり、「さくら」との関係が重要になると思う。単純に言えば、「海辺のカフカ」という作品は謎解きをしたくなるようなだまし絵でありながら、その表象の構造的な部分というのは、ただのがらくたなのだ。なんの意味もない。およそ文学者に良心というものがあれば、このがらくたは廃棄されるべきものであり、その廃棄の倫理性のなかで「姉と交わる」という予言と「さくら」への近親相姦幻想が置かれている。この点はかろうじて春樹が倫理的な作家だということになる。誤解されやすいのだが、近親相姦を幻想に返したことが倫理性なのではなく、その幻想性が作品の幻想性より強く描かれている点が倫理的なのだ。
 そして各種象徴が象徴の戯れを越える臨界にあることを示す指標が「血」であり、この小説のテーマは「血」であると言ってもいいだろうし、もし各象徴を解くなら「血」から解かれるだろ。
 シンプルな読者として個人的な思い入れには、「世界の縁」がある。

 比重のある時間が、多義的な古い夢のように君にのしかかってくる。君はその時間をくぐり抜けるように移動を続ける。たとえ世界の縁までいっても、君はそんな時間から逃れることはできないだろう。でも、もしそうだとしても、君はやり世界の縁まで行かないわけにはいかない。世界の縁まで行かないことにはできないことだってあるのだから。

 この予言のような言葉は単純な真理だと私は思う。私は思春期ではないが「僕」のように出奔する前に「世界の縁」のような異国の断崖の海岸に立ってみたことがある。それから沖縄では糸満の断崖をよく見に行った。もちろん、ごく小さな私のとってということだが、世界の縁のようなものがそこにあった。「海辺のカフカ」という作品は、ようやくパーソナルに受容できる。

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