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2007.03.10

バタールでござる

 このところバタールをよく焼く。バタールというかフランスパン系は難しいといえば難しい。味的には自分が食う分にはまあいいかというか、旨ぇという感じなのだが、職人には遙かに及ばない。写真を上げておく。見ればわかるが、あはは、素人だね、である。特にクープの数についてはツッコミ禁止な。

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 バタールはフランスパンの一種。フランスパンについてはウィキペディアの説明が簡素(参照)。


本国フランスではパン・トラディシオネル(pain traditionelle)、または単にパン(pain)と言う。卵、乳製品、油類などの副材料を使わない事が特徴で、それゆえ作り手の技術が味を左右するため、パン職人になる上での難関であると言われる。

 そのとおり。そして、「同じくパン・トラディシオネルを使ったパンでも形や大きさにより名前が違う」ということで、バタールは「バタール(batard 中間の)350g 40cm」ということ。写真の手作りパンはだいたいそのくらい。市販のバタールはもっと軽いのが多いようだ。「中間の」というのは、普通「バゲット(baguette 杖、棒)350g 68cm 」と「パリジャン(Parisien パリっ子)650g 68cm 」の中間というか、いまひとつよくわからない。クープ(切れ目)の入れ方にも決まりがあるらしいが、私は適当。クープのカッターも持ってない。
 我流の作り方だが、そんなに難しいものではないが、簡単とも言えない。まず参考までにウィキペディアに製造例を引用。

小麦粉(フランスパン用粉):100% ドライイースト:1.2% 食塩:2%  モルトエキス:0.4%  ビタミンC:0.1%  水:68%
 
 ⇒ミキシング(スパイラルミキサー L4"-M3" 捏ね上げ温度24℃)  ⇒一次発酵(120分)  ⇒パンチ(ガス抜き)  ⇒二次発酵(60分)  ⇒分割  ⇒ベンチタイム  ⇒成型  ⇒ホイロ発酵  ⇒蒸気焼成(220度30分)

 ちなみに私はたいていはこうする。ビタミンCの量がやや多い。ビタミンCは原末が薬局で買える。

小麦粉(ハルユタカブレンド300g + ファリーヌ100g) ドライイースト:小さじ 1 塩:小さじ 1 グラニュー糖:大さじ 1/2 ビタミンC:耳かき 1 杯程度 水:250CC(+α)
 
 ⇒ミキシング(機械のドゥコースで)  ⇒一次発酵(60分)  ⇒パンチ(ガス抜き)+分割 ⇒二次発酵(30分)  ⇒成型  ⇒ホイロ発酵(度30℃・湿度75%)  ⇒蒸気焼成(220度30分)

 ウィキペディアに製造例とあるように、他にも製造方法はあり、「プロのためのわかりやすい製パン技術」(参照)に簡単な説明がある。パンの原理については「パン「こつ」の科学―パン作りの疑問に答える」(参照)が面白い。パン作りは理屈がわかるとわかる部分がけっこうある。
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プロのためのわかりやすい
製パン技術
 というわけで、こんな本を日頃読んでいる私はパン作りが趣味みたいな人だ。子供のころからパンを作っている。大人になって実家を出てからは食う分の大半のパンは自分で作っている。パンなんて原始的な食べ物だからということでけっこう自分で工夫してパン作りを始めた。パンというのは鍋で焼けるのだ。この鍋パンについて解説したい気もするが機会があれば。
 沖縄暮らしの初期に、三〇代も終わりになってさすがに手コネが難儀になってきたのでベーカリーマシンを買った(参照)。買ってみると便利(現在二機目)。ついでにオーブンも買った。東京に戻ってからは粉も選ぶようになった。昔の野蛮なお手製パンに比べると随分変わったものだなと思う。ちなみに、私の現在の独自パンでお気に入りはライ麦を混ぜるもので、これも機会があったらご紹介するかも。
 さて、バタールの製法だが、ホイロ発酵とか蒸気焼成というのが、普通はできない点。できないわけでもないのだが、そのあたりはかなり難しいと言ってもいいのだろう。蒸気焼成はオーブンを熱したあと庫内に霧を吹くとかする。めんどくさい。ので、パン・トラディシオネルはあまり作らなかった。チャーハンと同じでプロにはかなわないよと思っていたのだ。
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パン「こつ」の科学
パン作りの疑問に答える
 ところが野望がもたげてしまった。きっかけはオーブンが壊れたことだ。十年も使ったから壊れてもしかたないかと。買い換えようかと電器屋に行って見た。そこで、私は現代のオーブンがどのようなものになっているか知って、ちょっとショックを受けたのだ。
 ヘルシオ……塩が減るのか? そんなことはどうでもいい。問題は、これって蒸気焼成のマシンじゃないのか、ってことは、パン・トラディシオネルができるってことじゃないか。まいった。鳩摩羅什の前に現れたあられもないリア・ディゾンみたいに、すべて捨てたはずの欲望が、ずんと思春期のアレみたくもたげてしまったじゃないか。
 負けた。買った。悦楽。私は嘘つき野郎なので遺灰に舌が残ることはないが、このタイプのオーブンはアフィリエイト・リンクで買うもんじゃないよというくらいの良心がちと残っているのでアフィリなし。
 かくしてなんとかバタールも焼けてしまうのだった。子供の頃イーストで蒸しパンを作り、青春時代に鍋パンを作っていたこの俺がバタールかぁ。でも、旨ぇよ。

追記
 ちなみに、パンの全長を短くして一筋にクーペを入れるとクーペ(coupé)になる。これもパン・トラディシオネルの一つだ(パンの種類としてはバタールと同じ)。日本のコッペパンのコッペはこのこのクーペが語源であるらしい。

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2007.03.09

[書評]オーランドー(ヴァージニア・ウルフ)

 人生いつか読む気でいてなんとなく読みそびれた本がいくつかあるが、ヴァージニア・ウルフの「オーランドー」(参照)もその一つだった。
 私がウルフに関心を持ったのは神谷美恵子への関心からの派生だ。神谷美恵子についてはいろいろ複雑な思いがある。私が青春時代、みすずから神谷美恵子著作集が刊行されたことも影響を強くした。私はそれを全部読んだ。次々と刊行される著作集には月報のような冊子があり、そのなかで夫の神谷宣郎が美恵子には著作からはわりえないものがありますという奇妙な告白のようなコラムを書いていたのだが、それは今も痛みのように心に残る。
 この「神谷美恵子著作集4」(参照)が「ヴァジニア・ウルフ研究」である。彼女はヴァージニア・ウルフの研究者でもあり、精神医学者として、そしてある意味で彼女も特殊な女性としてウルフの精神のある何かを見つめていた。そしてその視座のなかに、フーコーの「臨床医学の誕生」(参照)や「精神疾患と心理学」(参照)もあった。フーコーとウルフを繋ぐことで見えてくるぞっとする何か、また、神谷がさらに繋ぎうる現在の悲劇の二人の女性のことは時折考える。それらを「めぐりあう時間たち」(参照)のように繋いでみたいようにも思う。そしてそれらを繋ぐ私はブログ空間のなかに永遠に綴じ込まれて「自省録」(参照)を書くのである。と、どうやら「オーランドー」にあてられたようだ。

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オーランドー
杉山洋子訳
 世界の奇書の十を集めるなら「オーランドー」はその一つに入りうるだろう。五指に入るかどうかはわからないが、まず奇っ怪な物語である。
 物語「オーランドー」の主人公、オーランドーは、一六世紀、テューダー朝末期のイングランドに生まれる。貴族でありエリザベス一世お気に入りの美少年でもある。そして、ロシア皇女とスラップスティックな恋の破綻と、詩人としての挫折を経てトルコ駐在大使となるも、三十歳のある日、七日間の昏睡の後、女性に生まれ変わる。相貌は変わらずだが、肉体は女体となった。特に違和感もなく。もちろん、読者としては違和感ありまくりというのが普通の感想であろうし、この変身譚は、そ・そ・ら・れる。
 そして彼女オーランドーはジプシー(訳語ママ)と共に暮らし、イングランドに戻り、十八世紀のロンドン社交界の話題のレディとなる……ちょっと待ったぁ、オーランドは何歳だ?
 三十を少し越えたばかりである。世間的に奇妙なのはその間、彼というか彼女、オーランドーは数百年を生きているということだ。それでは数が合わないではないかというのなら、オーランドーは人の世の十年に一つ歳を取るのだと考えるとよいだろう。って言われてもねなので、映画「オルランド」(参照)では、エリザベス女王による王は「決して老いてはならぬ」と永遠の若さと命を保つ仕命を与えられたといったストーリーを加え、よりファンタジー風味にしてある。
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オーランドー
ある伝記
川本静子訳
 まとめると、オーランドーは三六〇年間を三六歳(一九二八年現在)で生きて途中三十歳で男から女に変身した。この「オーランドー」という作品は、ヴァージニア・ウルフと同時代まで生きているオーランドーの伝記であり、ウルフはここで伝記作家ということになっている。
 支離滅裂でしょ?
 この物語はしかし、少なからず文学的な嗜好を持つ女性を、敢えて言うのだが、病的に魅了するところがある。その魅了のポイントは男性から女性への変身であり、その両性具有性にある種のフェミニズム的な依拠の感覚を求めてしまうからだ(あるいはもっと純粋に、ヤ・オ・イと言っていいかもしれない)。この訳書の解説をしている小谷真理もそうしたありがちな視点を起点においたせいか、映画「オルランド」との対比においてこう述べている。

(前略)映画版の打ち出す新解釈を鑑賞し、あらためて原作を再読してみて気づいたのは、ウルフの両性具有が最初から雌雄の完全性を備え時に応じてどちらかを使い分けるといった古典的なものではなく、時代の状況に応じて性が変化せざるを得ない点に着目していることであった。

 ウルフ研究者の多くが、オーランドーまたはウルフの視点に無前提に立ち、そしてフェミニズムの文脈に流し込む傾向があるようだが、小谷がここで指摘しているように、時代がオーランドーの性を変化させたと考えたほうがよく、この変化はたった一度のものであり、オーランドーとよばれる個人の性の意識ではなく、時代がそのように個人の性に反映してスキャンダラスに描ける……まさにそのような物語装置としてオーランドーが設定されているのだ。
 これはオーランドーが三百六十歳ということからも必然的に導かれるものだ。オーランドーとは、本書の挿絵写真からもわかるように、ウルフの同性愛対象であるヴィタ・サックヴィル家の家系の人々の総体であり、その家系の最後の悲劇的でもある残照としてのヴィタなのだ。
 オーランドーは、凡庸に描けば、サックヴィル家の人々であり、そしてその現代の女性ヴィタにその祖先を収斂させる仕掛けとして性転換がある。
 オーランドーは、そしてサックヴィル家を越えて、集合的な意識でもある。

(前略)オーランドーはほっと安堵の溜息を洩らし、煙草に火をつけて一、二分黙々とふかした。そして、呼んでもいいかもしれないな、とでもいうようにおそるおそる「オーランドー」と、呼んでみたのである。なぜといって、心の中で(仮に)七十六種類もの時間が同時に時を刻んでいるとすれば、人間精神にはあれやこれや――やれやれ――いったいどれほどさまざまな人間が宿っていることになるのだろう? 二千と五十二人だという説もある。だからひとりきりになったとたんに、オーランドー?(という名の人なら)と呼んでみるのはごくあたり前のこと、つまり、さあ、来てちょうだい! 私は今のこの自分に飽きてしまっったの。別の自分になりたい、というわけだ。われわれの友人がまるで別人になることがあるのも、このためである。とはいっても、そうやすやすと変身ができるわけでもなくて、オーランドーのように(都会から田園にやって来たのだがからきっと別の自分を必要したのだろうが)オーランドー?と呼んでみても、求めるオーランドーは来ないかもしれない。

 人がその人を包む逃れられない、選択不可能な時代というものを意識するとき、その時代の歴史根底は無数の人(死者)となって私を構成しはじめる。私はそのそれぞれにおいて、死者をよみがえらせ、変身する。肉体を得る。
 現代という時代においてその歴史を抱え込んだ意識存在が、肉体的、つまり性的な変身の臨界において女性になっている、という点にオーランドーの主題がある。
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オルランド
特別版DVD
 ではこの滑稽な「オーランドー」という仕掛け(つまりネタ)は文学のためであっただろうか? それともヴィタを面白がらせるための悪い冗談やめれ的な趣向だったのか。どちらかといえば後者であるだろうが、ウルフはここで英国史というものを文体、詩文のなかに流し込んでしまいたかったため(それは時代というものを言葉の象に写し取ろうしたため)、文学の趣向が濃くなってしまった。
 さらに文学というオタ的なものにならざるを得なかったのは、現代的にいえば、「オーランドー」はコミケな作品だったこともある。同人誌である。この作品の序文にずらずらと名前が挙げられている当時のパンクなイカレた知識人が愉しむための文学的な冗談として閉じられて作成された作品であり、現代の携帯電話のチェーンメール的な趣向でもあった。そしてこのチェーンメールのなかにこっそりケインズが潜んでいることも注意してよいだろう。
 ここでヴィタに触れざるを得ないのだが、この部分についてはいわゆる地道な文学研究が進められているので割愛したい。三十六歳はヴィタの年齢である。ウルフは十歳年上だった。

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2007.03.07

[書評]明暗(夏目漱石)

 昨年末”極東ブログ: 漱石のこと”(参照)で漱石が、今の私の年齢である四九歳で死んだことを思い出し、うかつだった、しまった、「明暗」(参照)をまだ読み終えてないぞ、と焦り、手前が五十になる前に読まなくてはと決意していた。そんなふうに本を読むもんじゃないのかもしれないが、先のエントリでも書いたように漱石の文学は自分の人生に決定的な意味をもっていたし、人生の航路に合わせて読んでいこうと決意していた。なにより今「明暗」を読まなくては。そして、読み終えた。

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明暗
夏目漱石
 無性に面白かった。なぜ今まで読まなかったかと悔やまれるかというと、それほどでもない。自分と同い年の漱石と一緒に思索しつつ、対話しつつ読む実感があり、これはかけがえのない喜びでもあった。漱石先生、そうです、五十歳を前に死を覚悟して、この人間世界を見つめたとき、これだけが問題ですね、と。実際の読者の幅としては、三十代前半で読むと、夫婦関係や親族関係などのどろどろがリアルになってよいかもしれない。女性なら二十代で読むと共感するところが多いだろう。
 無性の面白さという点だが、ユーモアがベースになっていることだ。前作「道草」には救いがない。人生何も変わりゃしない、生まれついた運命てふものはある、女なんてものはそんなものだ、といった途絶の感覚があった。「明暗」もその延長にあるのかとなんとなく思っていたのだが、そうではない。「道草」のような独自の中年男的な暗い内省もあるにはあるが、全体としてはトマス・ハーディ的な運命と不幸の仕掛けが、しかしその劇的な光景においてスラップスティック的などたばたとなることで、人間存在そのものの喜劇性がふんだんに開示されている。読みつつ、何度も何度も爆笑した。すげーです、漱石先生、GJ!
 この悪い冗談やめれ的な爆笑の面白さは、ひどく矮小化すれば「鬼バカ(渡鬼)」だと言っていいくらいだ。新聞小説だから大衆を意識して書かれたというのではない。人間関係の悲劇というものにあまりに冷徹に直面してそれを描き上げると、運命と化した筆致が滑稽に極まるものだ。その意味で「明暗」は「我が輩は猫である」と近い作品という要素もあるなと思った。
 特に、主人公津田を見舞いに来る人々の運命の采配に模された部分の小説の企みが巧緻極まっている。これだけ仕組まれた作品なら、未完とはいえ残された断片から最終ピースが完成できると思いたくもなる。最終シーンを決定づけるのはお延の勇気であることは間違いない。また、そのクライマックスは小林の勝利を逆説的に喜劇、つまり喜ばしきものと転じ、津田が蘇生するところにあるのも、ほぼ間違いないように思える。まあ、そのあたりはいろいろな読みがあるのだろうし、未完の唐突が残したプレゼントでもあろうが。
 かつて漱石の作品を読んだように、この小説が私の心にジンと訴えかけてくるものは、漱石の意図そのものでもあるように、世間の人間の醜さとそれに順応すべく本心を隠蔽して生きる大人の権力闘争である。その意味で、この小説は極めて人間関係の醜悪さに満ちているのだが、そこに五十年生きた人間経験の裏打ちがある。漱石は人間関係の虚偽を暴き出すために、真実と運命の鉈をあちこち振り回すのが滅法面白い。そうした小説的な人間の真実というものの、世間ずれした凶暴性は、なんのことはない日常性のなかに隠れているのだし、この小説では津田の思い人清子の転心は、むしろ実験小説的な仕掛けでもあっただろう。が、小説上の仕掛けとして見れば、書かれなかった結末に関係するだろうが、対津田というより、吉川夫人への反意かな。
 現実の一人の中年男としてこの小説を読むと、私自身が津田に近いメンタリティがあるせいか、いつまで経っても青春へのケリの付けられなさや女との関係性みたいものが、胸にちくちくくる。いやぁ、これは痛い、と。
 それにしても、これはすごい小説だ。こんなものを近代日本人は読み続けながら、大正・昭和初期があったのだろうなという歴史の感覚も再考させられた。特に女たちはこの小説をどう読んできたのか気になった。「明暗」に描かれる女は現代の女とほとんど変わらないように思える。あるいは西洋人の心性にも近い。余談だが、お延の相貌は寺島しのぶに思えてしかたなかった。
 あと数点。
 この小説は非常に色彩に満ちている。なぜこんなに絢爛なのだろうかと不思議にすら思った。漱石の美観というのを考え直したくなるほど。
 「明暗」はインターネット上では現在青空文庫に収録されている(参照)ので無料で読むことができる。難しい言葉や言い回しは字引に当たれば粗方わかるだろう。が、新潮文庫版は註の良さとしてお勧めできそうだ。あと、小説慣れしてない人なら、登場人物のリストをウィキペディアから取り寄せて栞にしておくと読みやすいかも。ちょっと手を入れておく。

津田由雄
 主人公。三十歳の会社勤め。美男子だが痔主。会社の上司が吉川。
お延
 津田の妻。二十三歳。新婚半年。夫に愛されているか疑念を持つ。お嬢様育ち。
お秀
 津田の妹。美人。津田と兄弟らしい愛憎の心理を持つ。
吉川夫人
 津田の会社の上司の妻。四十代。デブ。津田に清子を紹介、後にお延を紹介する。
岡本家
 お延の親代わり(つまり事実上実家)。伯母はお住。夫は吉川と友人関係にある。
藤井
 津田の叔父。文筆家。津田の親代わり。子に真弓、真事らがいる。
小林
 津田の悪友。津田のようなプチブルからするとうさんくさい人間の象徴。
清子
 かつて津田と愛し合ったが、一年ほど前に別れ、関という男と結婚した。

 私は新潮文庫を購入した。巻末解説が柄谷行人なんで、うげと思い岩波文庫を手にしたらそっちの解説のほうがドンビキだったので、結局新潮文庫にした。新潮文庫のは注解が煩くない程度に入っているのだが、要所でさりげなくきちんと読者を指導するメモが含まれて驚いた。柄谷が入れたのだろうか。
 清子の流産について津田の子供という可能性はないかちと考えた。

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2007.03.06

バイラルアドってマジっすか

 昨日の日経新聞のニュースにバイラルアドの参入とニフティが運営するブログの関連の話があり、え?それってマジっすか、ニフティが運営するブログってここの、ココログだよね、とちょっと引いた。詳細がわからないまま、ぼけっと一日が過ぎてもなんとなく気になるのでメモ書き程度だけど書いておこう。
 まず、バイラルアドって何よ?だが、この手の用語ならたいていはある、はてなキーワードにもなさげ。ぐぐっても「インターネットが持つ伝達スピードを利用して企業の商品やサービスに関する広告を消費者による口コミで広がることを目的としたマーケティング手法」と、なんですかぁ?みたいなものしか出てこない。
 これって、まずもって、viral advertising の略でしょと推測するのだがなぜか解説がなさげに見えるのは、直訳して「ウイルス広告」とされるのがまじーと思われているからだろうか。でも、これはウイルス広告である。ウイルスのようにインターネットを使って人々に感染していくように広まる広告ということだ。というあたりで、そうだウィキペディアにはあるかもと引いてみると、あった(参照)。


Viral marketing and viral advertising refer to marketing techniques that use pre-existing social networks to produce increases in brand awareness, through self-replicating viral processes, analogous to the spread of pathological and computer viruses. It can often be word-of-mouth delivered and enhanced online; it can harness the network effect of the Internet and can be very useful in reaching a large number of people rapidly.

 つまり、ミクシみたいな既存SNSで感染するというのが一義的なイメージのようだ(そのわりにはミクシがそのように活用されているふうでもないな)。word-of-mouthともあるが、そういえば、日本語的には「クチコミ」っていうのに近いのだろう。

Viral marketing sometimes refers to Internet-based stealth marketing campaigns, including the use of blogs, seemingly amateur web sites, and other forms of astroturfing, designed to create word of mouth for a new product or service.

 ステルス・マーケティングとも言われるとあるが、敵からは見えないように広める広告でもあり、ここではブログも使われるよとある。ということころで、バイラルアドはブログにも関連している。
 話を戻して、昨日の日経新聞の記事だが、ネットを探すと”クチコミで広げるネット広告「バイラルアド」参入相次ぐ”(参照)がそれだ。が、これだと、動画CM配信っぽいのがバイラルアドのようでもある。

ユニークな動画広告をネットに掲載、個人のブログ(日記風の簡易型ホームページ)へ簡単に転載できるようにする。

 別に動画と限らないと思うのだが。で、問題の核心だが。

 ニフティが500万以上のブログサイトの書き込み内容を分析して、広告主のファンや影響力が強い人を抽出。ロカリサーチがその人たちに広告掲載を依頼し、紹介記事を自由に書いてもらう。視聴回数などを測定し、広告掲載前後で広告主への評判がどう変化したかも報告する。料金は1カ月間に10万回視聴で500万円程度が目安。2―3年後には20億円以上の事業に育てる。

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口コミ2.0
正直マーケティング
のすすめ
 というわけで、このココログの運営をやっているニフティがブログを広告媒体として、つまりファームのように見なして、ビジネスをしようということなのか。気になったのは、「広告主のファンや影響力が強い人を抽出」ということであり、それに選ばれてウイルス広告を掲載すると広告料がゲットできる、ということだ、ウッシッシ(死語)。広告の影響力だが、一か月間で一〇万回というなら、ちょっと有名ブログサイトでクリアできそうでもある。ほいで五〇〇万円、いや、その何割かが入るとする。仮に一〇パーセントだと月五〇万円、ちょっとブログに転職しようかなくらいになる。そーいくもんかいなたこかいな。
 二つ気になったのだ。一つは、これっていわゆる無料ブログが対象なのだろうか。ちなみに、このブログは私がココログにお金を払って運営しているのであって無料ではないです。もう一つは、その広告媒体に例えばこのブログが選ばれるか? 前者については、よく考えると別に無料ブログだろうが有料だろうがあまり関係ないか。後者については、どうなんだろ。べたに言って、どのくらいの金銭インセンティブで資本主義に魂を売り渡すのか……オレ。いや、冗談。
 けっこうマジで考えたのは、仮にこのブログにバイラルアドが付くとして、その場合、私はエントリをどのように書いたらいいのだろう、ということ。私の率直な印象だが、「これは広告貰って書いたエントリです。松山猛が偉そうに文春に書いているあれみたいなもんす」とか前書きというかコーションを入れるしかないだろうなと思う。
 で、そんなもの読みますか? つまり、広告が意図で書かれたエントリ。
 それ以前に、そう言明(これは広告エントリだよーん言明)したらステルス・マーケティングにはならないわけだ。つうことは、もし効果的にやるなら、finalventさんブランドみたいので閲覧者を騙すしかないということになる。いや、それはちょっと、や・だ・な。(っていうか、無理だろ。)
 現実問題として、そんなオファーは来てないし、来るとも思えないので、悩むほどの問題でもないかもしれないが、が、というのは、そういうステルス・マーケティングのブログというのは増えるだろうし、そういうブログの場合は、ブロガー自体の人気がブランドにならざるを得ないのだろう。
 そんなブログが興隆するだろうか? 
 特定の分野にならないわけもないか。
 ところで、このロカリサーチってどんな会社かと思って調べてみて、ちとびっくり。というのは、”ロカリサーチ | 会社概要”(参照)を見たら、「代表取締役 伊藤直也」ですてばさ。えええぇっ!
 いや世の中そーゆーことになっていたのかとさらに調べたら、ロカリサーチの代表取締役さんは”DIGITAL HOLLYWOOD PARTNERS / フォーラムの詳細”(参照)にお写真があり。

インターネットコンテンツ企画会社にて勤務後、2003年より、慶応義塾大学SFC研究所訪問所員として、メディア報道・インターネット掲示板における企業・商品へのジャーナリスト・消費者の評価を定量的・定性的側面から研究。

 だそうで、あれ?
 私が当初思ったこのかたは、切込隊長BLOG(ブログ)エントリ” - 本当に技術が必要とされる現場にgeekがいない”(参照)の。

伊藤直也氏というと、顔はゴツいけど著名で実力のあるネット技術者であり、彼をDISりに来た人がDISる前に「あー、どうせ俺もうだつの上がらないIT技術者ですよ」とか萎えてしまうほどの力量の持ち主である。

 はてなキーワード”伊藤直也とは ”(参照)を見ても別人っぽい。

ニフティ株式会社を経て平成16年9月株式会社はてな入社。青山学院大学物理学修士。

 別人のようだ。んなことは業界では当たり前でしょうし、ご本人の名刺交換などもお済みかと、「はじめまして、伊藤直也です、はじめまして、こちらこそ、伊藤直也です」てな。

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2007.03.04

配偶者や恋人に癒して貰いたいのは中年男

 天気がよいので少し遅いのだが梅を見に行った。お目当ての梅はいいのだが広い公園に辿り着くと犬が多いのにあきれた。野犬ではない。ペットである。ペットとお散歩族というのはこんなにも多いものなのか。家族連れというよりペット連れという世界にいつからなっていたのだろうか。

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家族ペット
やすらぐ相手は
あなただけ
山田昌弘
 私は犬が嫌いというわけでもないが、公園を歩くのに犬に気をつけるというのは妙なものだなと思いつつ、一休みということで暖かい缶コーヒーをベンダーで買ってベンチで座り、少しむこうにある子供の遊具を見ていたのだが、いや、正確に言うとそうではない。大人の人集りがあり、なんだろう蝦蟇の油でも売っているのかという雰囲気なので覗いてみたら、子供の遊具であった。子供より周りで見守る大人の数のほうが多いのである。
 そして子連れの雰囲気を見ていると、どうもペットの延長のようにも思えてきた。まあ、それがいけないわけでもないのだけど、なんだか変なもの見ちゃったなという感じがして、早々に散歩を切り上げることにした。
 そういえばと心に何かひっかかるものがあり、しばし考えてからNHKの番組案内誌ステラの記事を思い出した。日本のマジョリティとかいう番組らしい。私はその番組は見たこともないのだが、二月二七日のテーマ「ストレス」のアンケートがまとめられていた。項目は五つある。①ストレスのいちばんの原因は? ②いちばんストレスを感じる「待ち時間」は? ③最も癒してくれる相手は? ④ストレスを感じているときあなたは? ⑤最も働きやすそうなオフィスの形態は? 
 ストレスの原因は人間関係、そして仕事や勉強、というのはわかる。言うまでもない。待ち時間のストレスはレストランとATMだそうだ。そういえば、ATMに並ぶ人を見掛けることが多くなった。銀行統合のせいだろうか。レストランで待たされるのほうはあまり実感はない。ストレスを感じてどうするかというと、やけ食いより食欲減退だそうだ。という感じでふーんそうだろみたいな回答が多いのだが、え?というのは③だった。
 誰が癒してくれる? 単位はパーセント。対象は四千七百三十六人。

配偶者や恋人     31
子供         17
親や兄弟       8
友人         13
ペット        26
観葉植物       5

 癒してくれるのは、一番は、配偶者や恋人かぁ。まあ、そうかなと思う。そりゃよかったねである。で、次がペットなのか。しかも、配偶者や恋人にやや劣るくらいか。子供や友人はあまり大した効能はなさげ。
 ここまでは、え?なんて驚きはないじゃないかみたいだが、真理の残酷な響きはこの先なのである。補足がある。

配偶者や恋人と答えた男性は30代25、40代28、50代31、60代以上34、女性は30代27、40代28、50代19、60代以上18。

 つまり、男にとって女は歳を取るにつれていっそう癒してくれる対象となるだが、女にとっては40代までは似たようなものだけど、50代からがくんと男癒し度がペット以下に下がるようだ。そ、そうだったのか?
 繰り返すけど、男はいつまで経っても妻に癒してほしいのだけど、妻のほうが50歳を過ぎると、ちょっと少し引くわ、みたいなものなのだろう。
 で、疑問が沸く。これっていうのは、いつの時代でもそんなものなのだろうか。つまり、一通り子育てが終わると夫婦関係は変わるみたいな。それとも、これっていわゆる団塊世代の特徴なのだろうか。
 どうなんだろう。あるいは、団塊世代と限らず、団塊世代以降もこんなものというか。
 加えて、団塊世代まではというか団塊後世代の私の世代まではまだまだ普通は二十代で結婚しているから五十代にもなれば子離れする。が、現在は晩婚化していて、子離れも十歳は上にシフトする。
 すると、どうなんだろ。いや、なにがどうなんだろっていう問題でもあるのだが、どうも、奇妙な光景という感じはする。というか、ざっくばらに言えば、女性は中年以降、心の癒しはペットという世界になっているのではないか。

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