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2007.12.22

最近ちょっと考えていたキリスト教のこととか

 キリスト教でも平信徒には現実的にはそれほど問題にはならないのが三位一体論だろう。難しすぎるからだ。が、これは異端排除のための信条とも関係していて、歴史を知る上ではなかなか避けがたい部分もある。まあ、こんなエントリではそれほど突っ込まないのだが、昨日エル・グレコのエントリを書いてから、映画とは別として彼は正教の信仰だっただろうかとつらつらと考えた。というか最近つらつらと考えていた。個人的には青春が残した課題でもあった。
 正教とカトリックの違いは通常フィリオクェ問題(参照)として知られている。エル・グレコなども平信徒だろうし普通平信徒はこうした問題に悩むことはない。が、そういう信仰の話ではないので、ウィキペディアを借りて話を進める。


フィリオクェ問題(フィリオクェもんだい)は、キリスト教の神学上最大の論争のひとつである。ローマ・カトリック教会と正教会の分離、いわゆる大シスマ(東西分裂)の主要なきっかけとなった。

この時期のキリスト教では、東地中海沿岸ではギリシャ語が、西地中海沿岸ではラテン語が主に用いられていた。教義は主に東地中海で理論的発展を見たため、神学理論は主にギリシャ語で著述された。『新約聖書』は原文がギリシャ語で書かれていたし、公会議で採択されたいくつかの信条もギリシャ語を原文とする。ローマ教会をはじめとするラテン語地域では、聖書や信条といった宗教文書をラテン語に訳して用いていた。


 間違いというわけでもないし、ローマ人の言語がギリシア語であったというとそれはそれで違うということになるが、そういう側面はあった。なにより、ローマ教会は司教区の一つに過ぎなかった。
 このあたりから面倒な話になるが、関心のある人もいるかもしれない、というくらいで続ける。

ニカイア・コンスタンティノポリス信条の原文では、「聖霊は父なる神から発する」としていた。ローマ・カトリック側がそのラテン語訳に9世紀になって一方的に「子からも(発する)(Filioque フィリオクェ)」と付け加え、これを正文であると主張したためにコンスタンティノポリス教会側が反発した。さらに当時のコンスタンティノポリス総主教フォティオスと前総主教イグナティオスをめぐるコンスタンティノポリス教会内部の政治的争いにローマ教皇が介入し、イグナティオスを支持した。こうして、東西のキリスト教会を二分する深刻な対立状態がもたらされた(「フォティオスの分離」)。

 キリスト教徒で神学とかに関心を持つ人か歴史に関心を持つ人でないと、これがどんな意味を持つかよくわからないだろうと思うし、もちろん私もわかっているわけではないとか言ってお茶を濁すことにしている。いや今日は特別に濁さないでおくかな。これは私の青春を賭けた問題でもあった。正教が正しいかもしれないと思っていたのだった。ただ、青春は過ぎ去り、宗教とかにも関心を失った。が、なんとなく残した課題のようには心にひっかかっている。
 大シスマ後どうなったか。あるいは現在ではどうなったか。大シスマ自体はウィキペディアを見ると、東西教会の分裂1054年(参照)と教会大分裂1378-1417年(参照)を分けている。確かに歴史的にはそうしたほうがいい。だが問題は狭義というか教会としてはどうなったか。ウィキペディアを借りる。

正教会と聖公会はロシア革命が起こるまで、「教皇首位権に否定的かつ伝統的な教会である」「ロマノフ朝とハノーヴァー朝の姻戚関係」等の要因によって、特に英国国教会とロシア正教会の主導の下で関係深化が進められていた。しかしながらソ連邦成立以降はこの試みは頓挫し、現在、正教会と聖公会の関係は特に深いものではなくなっている。

 アングリカンとの関係は深くはないとも言えるが、現在ロンドンでロシアを巡って怪奇な事件が起きている背景には両国の長い関係の歴史がある。ロシア革命から冷戦も影響を与えていた。
 この間、エキュメニズムも起きる。

1965年、エキュメニズムが大きなテーマとなった第2バチカン公会議においてローマカトリック教会の中で東方正教会との和解への道が再び模索され、正教会への働きかけが行われた。その結果を受けて1965年12月7日、公会議の席上まずローマ教皇パウロ6世によって「カトリック教会と正教会による共同宣言」が発表され、続いて正教会側もイスタンブールでこれを発表した。これによって1054年以降続いていた相互破門状態はようやく解消され、東西教会の対話がはじめられることになった。但し先述の通り、この相互破門はそもそも破門として有効であったのか疑わしい程度のものであり、解消することはそれほど難題ではなかったと解釈することもできる。

 この記述はウィキペディアの原則違反の勇み足をしている印象もあるが、表面的な和解にはなった。が、神学的にはフィリオクェ問題は残されたままだろう。さらにその後のプロテスタントの問題が関係してくる。なお、ウィキペディアはこの先にいろいろ重要な指摘をしているので関心のある人にはよいまとめになっているだろう。
 私の知見が狭いせいもあり、議論されたのを見たことはないのだが、フィリオクェ問題は、構造上ニカイア・コンスタンティノポリス信条の改訂になってしまう。つまり、改訂ニカイア・コンスタンティノポリス信条がカトリックであり、原ニカイア・コンスタンティノポリス信条が正教ということになる。そしてそこで信条が揺らぐということは、キリスト教か異端かという問題が、カトリックと正教がともに正統であるなら、384年の第1コンスタンティノポリス公会議(参照)以前までトラックバックしてしまうことになる。つまり第1ニカイア公会議(参照)のニカイア信条(参照)までがカトリックと正教の合意点から異端が判別できる起点になりそうだ。
 ニカイア信条が難しいのは例のダジャレのようなホモウーシオスとホモイウーシオスの問題がある。この点については神学的には本質的なのだがあえて踏み込まない。
 話が奇妙なものになりつつあるが、先日スウェーデンボリについて考えることがあり、私はごく単純に彼は異端だと思っていたし、そのありかたについてはカントの「視霊者の夢」くらいに考えておけばいいかと思っていたのだが、どうもカントのこれは意外に大問題を含んでいそうだし(後年カントは持論が破綻していると考えたようだ)、またスウェーデンボリが異端だとすると、どこで異端なのかと考え込んでしまった。多分に知的なパズルといったものだが。ウィキペディアではあっさりと書かれている(参照)。

その神概念は伝統的な三位一体を三神論として退け、サベリウス派に近い、父が子なる神イエス・キリストとなり受難したというものである。ただし聖霊を非人格的に解釈する点でサベリウス派と異なる。聖書の範囲に関しても、正統信仰と大幅に異なる独自の解釈で知られる。

またスヴェーデンボリはルーテル教会に対する批判を行い、異端宣告を受けそうになった。国王の庇護によって異端宣告は回避されたが、スヴェーデンボリはイギリスに在住し生涯スウェーデンには戻らなかった。

彼の死後、彼の思想への共鳴者が集まり、新エルサレム教会(新教会 New Church とも)を創設した。


 この記述は正しくないのではないかと思うが具体的にどう書き換えればいいのかよくわからない。また、異端はここではルーテル教会からのもので、カトリックや正教とは関わりがない。そして、私は知らなかったのだが、新エルサレム教会は現在日本にもあるらしい。そしてさらに無知だったのだが、「極東ブログ: [書評]あなたは生きているだけで意味がある(クリストファー・リーヴ )」(参照)で触れたユニヴァーサリズムの教会も日本にあるらしい。
 となると、プロテスタントの日本での合同である日キ(日本基督教団)はこれらをどう扱っているのか気になった。が、わからない。日キはたしか無教会も異端排除していたはずだが、塚本虎二の著作を読むとカトリックへの批判は多いものの正統的な三位一体論を保持しており、無教会は狭義的に異端ではなさそうだ。
 といあたりで、いろいろ昔のことを思い出し、いろいろ考え直してみると自分のなかでこれもいろいろな線がつながりだし、奇妙な感慨があった。
 まず、日キの戦中・戦後の歴史だが。

そのため、戦時中はもっぱら戦時体制に貢献せざるを得ず、戦後、戦時下の合同をよしとしなかった諸教派・諸教会が分離したのち、あらためて、平和と和解のために仕える合同教会としての再形成を図るべく、「日本基督教団信仰告白(1954年)」や教団総会議長名による「第2次大戦下における日本基督教団の責任についての告白(通称:戦争責任告白)」(1967年)」の制定・発表を通じて、その実現を期そうと試みた。

しかし、1945年の敗戦により本土と切り離された沖縄の教会である沖縄キリスト教団との合同(1969年)、あるいは大阪万博(1970年)における万国キリスト教館の出展問題に端を発する「反万博闘争」などを通じて、教会の社会的役割を重視するグループ(社会派)と、教会の形成や伝道を重視するグループとの対立が深まり、いわゆる「教団紛争」と称する状況が現在にいたるまで継続している。


 ウィキペディアでは触れていないがこの背景には米国からの圧力もあったのではないかと思うし、歴史的には語りづらいのだが原爆を使ってしまったことの米人の罪責感もあったようだ。
 ここで気になるのは、「沖縄の教会である沖縄キリスト教団との合同」なのだが、やはりというべきかスウェーデンボリの教派が関係していたようだ。先の項目より。

一例として、日本キリスト教団の沖縄における前身である沖縄キリスト教団では、スウェーデンボルグ派牧師(戦時中の日本政府のキリスト教諸教会統合政策の影響からこの時期には少数名いた)が、戦後になって教団統一の信仰告白文を作ろうとしたところ、米国派遣のメソジスト派監督牧師から異端として削除を命じられ、実際削除されるような事件も起きている。

 ここでの異端は米国側の問題なのだが、しかし考えてみると日キ側のグリップはなかったかのようにも見える。
 仮に日キ側から見た場合、スウェーデンボリの教派は異端なのだろうか。ということで鈴木大拙への再考もかねてスウェーデンボリの著作を読みかえすと、彼自身はアタナシウス信条から離れていないというふうに述べている。さらに読み込むと、実質フィリオクェ問題に近いようだ。アタナシウス信条はニカイア・コンスタンティノポリス信条のさらに後代にあり、この問題はむしろ正教的な揺り返しとも考えられないことはない。が、正直私はここでギブアップした。あまりに不毛だ。
 日キではウィキペディアにあるように、ニカイア信条よりさらに古い使徒信条が採用されている。

教団の信仰内容を言い表す信仰告白として、1954年に「日本基督教団信仰告白」(以下、教団信仰告白)が制定されている。その形式は、教団の基本的な信仰理解を言い表した部分に続いて使徒信条が告白される簡易信条であり、合同教会の信仰告白として、聖書の権威、三位一体、十字架と復活、信仰義認、聖化、教会の務めなど、各旧教派の伝統を少しずつ継承しつつも、ほぼすべてのプロテスタント教会が共有できるような、ゆるやかな信仰理解を内容としている。


日常の礼拝の中では、教団信仰告白をそのまま告白する教会は必ずしも多くなく、使徒信条のみが告白されることも多い。伝道的配慮などの理由で、教会教育用(口語体)のものを用いる教会もある。また、旧教派や教会の伝統により、ニカイア・コンスタンティノポリス信条や他の歴史的信条を告白する教会や、信条の告白そのものを行なわない教会も存在する。

 書きながら、エントリとしては整理が付かないものの、自分の青春の問題はなんとなく違ったアウトラインで見えてきたような気がしている。戦後の米国側のグリップと近代日本人のキリスト教受容の関係はかなり再考を要するのではないかというあたりだ。
 ただ、こうした問題は日キの歴史がそうであったように、政治的な問題に還元する傾向はあるだろうし、いわゆる個人の信仰の問題とは関係ないだろう。また、率直に言って、この問題をきちんと解くことは私の任でもないだろう。

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コメント

いやあ、今年も終わり。小銭稼ぎに明け暮れた一年。(笑)
一生せこせこ、やせやせぶりは変わらないね!
はははー。

投稿: 上迫秀樹 | 2007.12.23 09:45

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受信: 2007.12.26 19:33

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