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2007.12.09

[書評]わたしたちはなぜ「科学」にだまされるのか(ロバート.L.パーク) その2

 明け方最近少しダイエットしたんだけどという大天使ガブリエルがやってきて、どう、最近?とか聞くので、いやちょっと今年のクリスマスはみんな財布のひもが固いんじゃないかな、とか世間話をしていたが、どうもガブの顔が暗い。ちょっと言いにくそうな話がありそうだ。なんかバッドニュースとかあるんじゃないの、俺の人生今朝で終わりって知らせとかさ、と水を向けてみる。ガブはようやく少し笑っていや些細ことなんだよ、と言う。昨日の極東ブログのエントリはちょっとフェアじゃないなって思ったんだけどさ、天使がそんなことを言ったとかいうのはそれもちょっと変じゃないかと思って。ガブの目線がオカマっぽい。私は、そうか、と頷く。お気遣いありがとう。大丈夫だよ、アルファブロガーとか言われているやつはキチガイFAってことなんだから。

cover
わたしたちはなぜ
「科学」にだまされるのか
 というわけで、昨日の話、ちょっとフェアじゃなかった。反省エントリを書こう。というか、あれは実際にはネタで書いたものだった。最近あれだ、どなたか反語が通じねえなとか書いていたがが、ギャグとかネタとかユーモアも通じなくなったな。あれかな読解力の低下なんていうのはブログの世界にもあるのか。っていうか、読解力ない人に避けてただくためにわざと長文(これで長文かよ)で読みづらく書いている親切心も通じない←ってなねじくれたギャグは通じない。ネットの世界だとあれだよな、サヨク的に既存権力を上面で腐しているくらいのブログのほうがいいんだろう。わかりやすくて。
 さてと。どこがフェアじゃなかったか。簡単にいうと、「わたしたちはなぜ「科学」にだまされるのか(ロバート.L.パーク)」参照)は良書ですよ。パークみたいな人は得難い。アライグマ観察のユーモアもだけどというより、ずけずけときちんと妥当な科学の水準を、社会的バッシングなどものともせず述べている点をきちんと評価しなかったことだ。パークをおちょくりたい気持ちになったのは、科学というのは細分化しているので、科学者といえども他分野のことはわからないし、科学という一般性を大衆に対峙させるとき必然的に疑似宗教化してしまう傾向がありそうだということだ。このあたり、いただいたトラバを見ると理解されていないっぽい感じもした。単純な話、これが偽科学のリストですよぉみたいのを信じちゃったら偽科学への対応と同じ盲信だし、そのリストが微妙にイデオロギー的な偽科学を排除していたら、変でないのと思うしかない。
 今朝方「わたしたちはなぜ「科学」にだまされるのか(ロバート.L.パーク)」をまたつらつらと読み返して、その宇宙ステーション関連の話に、少ししんみりくるものがあった。ディスカバリーのグレン飛行士に関連してこうその章を締めている。

 記者会見でグレンは、前回の旅と比べて変化を感じた点について語った。もちろんスペースシャトルは、狭苦しいマーキュリーの宇宙カプセルとは似ても似つかない。だがこのミッションの本当の象徴的意味は、三十六年が過ぎても、ジョン・グレンは前回より一二〇キロ程度しか遠くに旅ができなかったことである。アメリカの宇宙飛行士は低地球軌道に取り残されており、廃線となった鉄道のレール脇でけっして来ない列車を待つ乗客のように、科学の進歩に迂回されている。

 このあたりの吉田兼好的なわびさびな陰影が実は本書のよいところのひとつだ。
 政治と科学は違う。科学というのは描いた夢のうえにHTMLのdel要素のように打ち消し線を引くものだ(いや打ち消し線かどうかはCSSが決めることとか些細なツッコミすんじゃねえよ)。

 ところが反対に、政治家は未来を約束したがり、そこにわれわれを連れていく政策をたてようとする。宇宙開発において、科学者と政治家が達成しようとする目的は根本的に異なる。双方のあいだに広がる溝は深まるばかりである。政治家に押しつけられ、世界一六カ国が<国際宇宙ステーション>に参加しているが、この一大科学プロジェクトは各国の科学者の嘲笑の的である。

 そういうことだ。
 だが、本書の出た2000年から時代が少し変わったかもしれない。溝は別の方法で埋められているのかもしれない。つまり科学者が政治家になったり、巧妙に科学者の総意とかで政治が語られたり。そして科学者ならかつては嘲笑した対象が嘆息に変わっている。
 私はパークに、MDってどうすっか?と聞いてみたい感じがした。ミサイル防衛システムって偽科学でしょ?
 偽科学を批判するなら日本国家が加担している、こういうふざけたしろものを批判すべきなのだが、だが、なかなかそういかない現状はある。私は自分では他人がそう思っているほど気違いではなく常識人の振るまいをして密かに内面の狂気に戦っている凡庸な近代人と思っているのだが、MDは偽科学だと思っている。でもそれを信じさせようとする政治的な意味が理解でないわけではないし、またそれをそのレベルで反発している勢力も同様に愚かな人々だと僅かに苦笑する。マジで苦笑はしない。自分が苦笑的な存在だから。そしてブロガーなんてお笑いじゃないですか。アルファブロガーとかの選定条件に気違いおkが入った時点でお笑いやるしかないじゃないですか。
 以上はまたしても前振り。
 実は、ガブのフェアネス指摘でずきんときたのは、本書を買うに至る90年代のことを思い出したからだ。本書のクライマックスは「第7章 恐怖の電流」にある。この部分だけ、一学期かけて中学校で勉強したらどれだけ日本はよくなるだろうと思う。
 不思議だなと思うのだが、メディアやネット、いやリアルと言われている世間の空気を感じていても、みんな90年代のことを忘れているんじゃないかと思うことがある。私は95年には東京を離れていて七年後に東京に戻った。最初の二年くらいは東京に馴染めずそしていまでも馴染めないということに馴染めるようになった。別の街だ、と思うようにしている。が、それでもなんか大がかりなトリックにあっているような気がする。それは個人的な印象の比喩なんだが、そんなふうに、なぜみんな90年代の記憶が欠損しているのだろうかと思う。いやもちろん、そんなことはない。ある程度の年代の人なら記憶が抜けているわけではないのだが、徐々にある何かに慣らされているのではないか。
 脇道にそれそうだが、そう思うのも90年代には電磁波がもたらす健康被害がけっこう話題になっていた。話は米国からも流れていた。理性的と思われている大手メディアから偽科学が発信されていた。

そもそも、送電線とガンの関係について国民のあいだに不安が広がったのは、この記者会見の七年前、一九八九年にブローダーが《ニューヨーカー》に連載した衝撃的な記事が原因だった。すべての事の発端は、ブローダーであった。
 ポール・ブローダーがいなければ、科学アカデミーが三年ものの歳月をかけて綿密な調査を実施することもなかっただろう。

 90年年代にはこの問題がまことしやかに語られた。今では忘れ去られている、不思議なほど。まるで記憶の欠損のように。私はこの結末が知りたくて本書を読んだものだった。

 「電磁場が危険ではないという、決定的な結論は書かれているのですか?」と、ひとりの記者が質問した。「否定の命題を証明をするのは、困難なものです。長期にわたり送電線の電磁場にさらされることと、ガンとのあいだに明白な関係が見つからないとしても、ある種の人々が生まれつき電磁場から悪影響をうけやすい可能性はないのでしょうか? ほかの環境要因がからむと、電磁場が危険性をおびる可能性は?」
 だが、そうした可能性をいいたてればきりがない。新しい疑問が生ずるたびに、科学者がひたすら調査を重ね、答えを見つけるしか方法はないのだ。そして調査を終えたとたんに、「もっと感度の高い測定器を使用し、もっと広い範囲を調査すれば、ちがう結果がでるのではないか」と質問の矢が飛んでくる。いったい研究者はどの時点で関係を見極めればよいのか? 関係があっても、立証するにはデータが小さすぎるのか? 危険性があるとしても心配がないほど影響は微々たるものなのか?


 「送電線とガンとの統計関係が説明できないのなら」と、ある記者が食いさがった。「『慎重なる回避』という本心が、あてはまるでしょうか?」
 「慎重なる回避」とは、カーネギーメロン大学のグランジャー・モーガン教授による造語である。モーガンは、電磁場がわが子の健康に悪影響をおよぼすのではないかと心配する親たちに向かって、「慎重に、懸命に避けなさい」と説教しながら国中を回った。おかげですこし名を売ったが、それは解釈の仕方により、どうとでもうけとれる言葉だった。電機製品の使用をやめ、ろうそくを使えということか?


 送電線は人体に害をおよぼすと信じこみ、送電線を糾弾する「送電線活動家」と化した人たちから圧力をうけ、環境保護局(EPA)は人体が電磁波にさらされる「安全の限度」を設定しようと、調査委員会を招集した。たしかに、どんな環境要因――放射線、化学製品、微粒子――を設定しようと、その安全の限度を設定するだけなら、いとも簡単だ。限度を低く設定すれば、害があるとはとうてい思えないからだ。だが、その限度をすこしでも超えれば、その定義は「安全でない」に変わる。


現実に即していない安全限定――やたらに低い安全限度――を設定すれば、社会に経済的な負担がかかる。それどこか、新しい危険が生ずる可能性がある。なぜなら、人間はひとつのリスクをほかのリスクとすり替えようとしているからだ。

 引用しながら、ガブの気持ちがわかってきた。偽科学は信じなくても天使の言うことは信じるものだな。パークの話は電磁波だが、これを日本のBSE騒ぎや、昨今の食の安全に置き換えても同じことが言える。いや正確にいえば、かなり同じことが言える。違う部分もあるにはあるが。
 私は、パークの勇気を借りて、もうちょっと率直に言うべきかもしれない。偽科学をバッシングするなら、なぜこういう問題、BSE騒ぎや食の安全とかの馬鹿騒ぎの偽科学性をバッシングしないのだろうか、と。水の結晶が何かを語るかどうかは、私と大天使ガブのおつきあいのようなもので害のない気違いというだけのことだ。恋人が社会的にブ男でもブスでもどうでもいいみたいに個人の生き方の選択。そんなの関係ない。関係のあるのは、社会の関わりのなかで偽科学がなにをしているかだ。そして、私が危惧するのは、どうでもいいバカネタが偽科学バッシングになることで、偽科学への健全な批判性が覆われてしまうことだ。
 あたかも記憶の欠損のように。

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コメント

師走なのに、2ヵ月前の記事に長文で来た批判コメントにじっくり対処したり、紅葉の三光院に行ったりしてしてごぶさたしてたのですが、久しぶりに読みに来ました。

科学は、仮説を立てて、事実で否定していくというとてもシンプルな営みをモデルに、なかなか単純にはいかないことにも、その基本姿勢を貫こうとする営みだと思っています。そして成功をおさめました。戦争に勝ったり、お金が儲かったり。ある意味、凄いエースだったので、それにあやかりいろいろと出てきますよね。そこへのリテラシー作りは、理科の先生の役割だったりしますが、リストつくって、お前ら潰してみろみたいなのはどんなもんでしょうかと思います。最後は少し妄想が入っています。ぴったり2ヵ月後に、宿題書くみたいなコメントが来たものですから。

投稿: SeaMount | 2007.12.09 19:50

とりあえずタミフル祭りも加えといてやってくださいorz。

投稿: | 2007.12.12 12:31

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新語提唱。 天使の証明「悪魔の証明(Wikipedia)」からの派生語。自分個人または民衆にとっていろんな意味で都合のよい話は、その証明に確たるソースや実証等を必要としない様。 関連語:「ヘンペルのカラス」 アヒャーΣ(゚∀゚)スガーン!! 極東ブログ:[書評]わたした... [続きを読む]

受信: 2007.12.13 10:40

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