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2007.11.29

[書評]マックス・ヴェーバーの哀しみ(羽入辰郎)

 怪著と表現していいのかわからないがスゲー本である。「マックス・ヴェーバーの哀しみ 一生を母親に貪り喰われた男(羽入辰郎)」(参照)。新書だし文体はのりのり。爆笑すること幾度。面白かった。

cover
マックス・ヴェーバーの
哀しみ
 マックス・ヴェーバーを知らない人にとっても面白いかどうかというと、それなりにすごく偉い社会学者がいたというのをそのまま鵜呑みにすれば、おk、おっと2ちゃん語使うなよ、大丈夫大丈夫。このド偉い学者さん、浮気はできるのに妻との性交渉はできず、その原因はマザコン、というお話だよ、お立ち会い。マックス・ヴェーバーの夫婦関係ってそこまでおセックスレスだったのかというのは知らなかったので驚いたぜ、というレベルの面白さてんこもり。これ、劇画の原作にしてもすごい面白いと思う。弾小飼さんに献本したら説教十倍返しくらいのリアクションはきっとある。

 ここに一人の哀しい男がいる。
 彼はおのれの職業をまっとうし、多数の著作を残した。それらは百年たった今でも各国語に翻訳されて研究されている。人はその人を「知の巨人」と呼び、尊んだ。


 『倫理』論文という一見学術論文の体裁を取った論文の裏に隠されている事情、即ち、現実のヴェーバー家で何があったのかを本書では探っていきたい。知の巨人ヴェーバーではなく、不和の父母の間を揺れ動き、そのあげく見事なまでにマインド・コントロールされ、苦悩の末に破綻し、死の前年まで、精神疾患をわずらい続けるまでに苦しんだ一人の生身の人間として見ていきたい。

 ね、面白そうでしょ。
 この先、え、この本何の本なの? というくらいの人生指針まで出てくる。親から愛されず青年期に達した人に対して、青年期にすべきことは。

(前略)この時代に出来ることと言えば、子供時代の酷かった親を意識化し、親に絶望し、親に見切りをつけ、もう親とは全く関係のない世界で今後自分が生きてゆくことを決意するということでしかない。

 本書を読むことで、もう童貞なんて言わせないぞ、あ、話題違うか。ま、似たようなもんだが、本書の効能は絶大である。

(前略)本書を読むことによって、望んでいなかった意識化が始まってしまう可能性があるからである。ヴェーバーの一生と自分の一生とが読んでいくうちに不意に重なり合ってしまい、そんなつもりは全くなかったのに、自分の親の実像を垣間見てしまう、ということが起こりかねない書物だからである。前もって警告しておくなら、その意味では、本書は危険な書物である。人畜無害な書物では決してない。

 なんかぞくぞくするよね。で、読んで、この手の面白さにはまることができる人なら次は「唯幻論物語(岸田秀)」(参照)や「愛という試練(中島義道)」(参照)もある。いずれも40歳すぎて母親の呪縛に閉ざされたインテリの哀しい物語だよ。それってどうしてこんなに面白いんだろぉぉ、俺にとって。痛いな。
 で、内容はなんだけど、まあ、この路線でディテールがてんこもりですよ、奥さん、いや旦那。私もけっこうマックス・ヴェーバー・ヲタクな人なんでそれなりにいろいろ知ってはいたけど、へぇ、そこまでは知らなかったということが、恥ずかしながらいくつもありましたよ。読んでお得。
 さて、冗談はさておき。
 本書は「マックス・ヴェーバーの犯罪 『倫理』論文における資料操作の詐術と「知的誠実性」の崩壊」(参照)に続く書籍だが、こちらはやや専門的。お値段も一般書の倍。しかも、アマゾンでは「あわせて買いたい」としているが、まさに「ヴェーバー学のすすめ(折原浩)」(参照)が必須なセット。合わせて6300円だよ。ぜひ、俺のアフィリで買っていただきたくらいのお値段。まあ、学生さんなら後者だけ買ってもいいのだけど、学生だとつい前著だけ買いそうな若気の至りはあるでしょう。
 何が話題かというと、羽入本の副題のとおり「『倫理』論文における資料操作の詐術と「知的誠実性」の崩壊」ということ。簡単にいうと、ヴェーバーのプロ倫こと「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(参照)は学術書としてはでたらめ、に加えて、まあこれも言っていいかと思うけど、大塚史学の学統の「知的誠実性」への反論ということ。そのあたりが、そのリングを覗くと面白いといえば面白い。けど、さらに単的に言うと、不毛、かな。
 前者の「プロ倫」って糞じゃね?論について言えば、実証学的にはそのとおりと言っていいだろう。ただ、それを言うなら、フーコーとかレヴィ・ストロースとかこの手は五万といるのであって、つまり、そういう次元の問題じゃない。
 で、本書、「マックス・ヴェーバーの哀しみ」でも「プロ倫」がいかに酷いかという例が載っているのだけど、まあ、これで納得しちゃったら普通はアウト。どうアウトなのか、もう「プロ倫」を百回嫁、おっと2ちゃん語使うなよ、だけど、そんなもの。なんせ大塚大聖人だって数回読んでわからなかったのだし、安藤守護天使も30年の修行で少しわかってきたという秘儀の世界、ってちゃかすのもなんだが、難しい。
 困ったことに、このプロ倫の難しさは、羽入による本書のヴェーバーの精神疾患と大きく関わっているのは否定しがたい点だ。というわけで、それなりに「プロ倫」を読んだ人にとっても本書は意義があったりするというか、意義は大きい。
 本書のあとがきには、先ほどセットで勧めた「ヴェーバー学のすすめ(折原浩)」への反論本が近日出版とある。いわく折原へ「次に出る本で貴兄の論理に対しては逐一反駁してあるので、楽しみに待っていらして頂きたい」と、なんとなく、ネットバトルの不毛さのような醍醐味が期待されてwktk、おっと2ちゃん語使うなよ。

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2007.11.26

韓国で軽自動車が普及するのかなっていうか、他の国では?

 先日ラジオ深夜便の韓国便りを聞いて、韓国では軽自動車が普及しないという話題に関心を持った。このあたりの実態についてはなんとなく聞いていたが実感が伴っていなかったので、ちょっと調べてみたら興味深かった。というだけのエントリで、韓国がどうのという話ではなく、原油が高止まりする今後、すでに日本って軽自動車が普及しているけど、中国や他の国ではどうなんだろうということに関心がある。
 ネット見ると、すぐに朝鮮日報”軽自動車が売れない韓国、日本に見習うべきこと”(参照参照)の記事が見つかった。話はまず日本の現状から入る。


日本における昨年の軽自動車販売比率は乗用車全体の32.5%で、ここ3年間、乗用車の市場規模そのものが小さくなりつつある中にあっても、軽自動車の販売台数はむしろ増える傾向にある。販売順位でも、軽自動車・小型車がトップ10のうち7‐8割を占めている。車体が大きく燃料を多く消耗する大型セダンや大型SUV(スポーツタイプ多目的車)はほとんど売れていない。

 日本人としてまあ、そんな感じかなというふうに生活感覚としてもこの状況は違和感はない。対して、韓国はというとこうだ。

 一方韓国では、原油高により小さくて燃料費が少なくて済む車に対する必要性が切実であるにもかかわらず、軽自動車の販売比率が極めて低い。2000年の乗用車販売全体の8.8%から、昨年は半分以下の4.2%にまで落ち込んだ。また、販売順位トップ10圏内に入る車種も、ほとんど中・大型車や準中型車以上が占めている。

 この書き方はちょっと誤解を招くのではないかという感じもするが、とりあえず話を先に進めると、日本の軽自動車販売比率は32.5%であるのに対して、韓国は4.2%と格段の開きがある。単純になぜなのだろうかと疑問が沸く。と、同時にガソリン高騰や環境問題について韓国政府はどのように考えているのかも気になる。
 ところがこの朝鮮日報の記事、後半を読んでも今一つピンとこない。いちおうこういうふうにまとめているが。

急騰している原油価や都心の交通事情を勘案すれば、軽自動車の販売比重が現在よりはるかに高まることは正しい。消費者がもっと多様な軽自動車を選ぶことができるよう、自動車メーカーが販売車種をさらに増やす必要もあるが、現在の市場規模で販売車種を直ちに増やすことは難しい。韓国自動車工業協会のカン・チョルグ理事は、「軽自動車に対する政府のさらなる支援、自動車メーカーの車種拡大も重要だが、何よりも軽自動車を愛用する消費者の意識拡大が切実な問題だ」と指摘した。

 韓国でも軽自動車を増やすべきだという認識はある。だが、それができないのは、政府支援がないことや車種が少ないことより、消費者意識だというのだ。消費者意識ということは、つまり、軽自動車を買わないという意識なのだろう。
 ここで矛盾する。軽自動車を増やすべきだという意識と、でも、軽自動車を買わないという意識はどういうつながりになっているのだろうか。
 単純に「軽自動車 韓国」でグーグルを検索すると、Allabout韓国ネットビジネス事情”自尊心を満足させる、まずは「見た目」が大切”(参照)が出てくる。こう切り出されている。

韓国では、人であろうと企業であろうと他人に対して自分がどのように見えるのかということが重要なようだ。したがって少しでも良く見せようと、まずは「見た目」を整える。

 表題から考えると、自尊心のために軽自動車は買えないという含みがありそうだ。
 しかし、読み進めるとより詳細な事情が描かれている。

それはGM大宇自動車からでている「マティス」が、唯一の軽自動車となっているためだ。一時は現代自動車からも「アトス」(2002年10月から国内の販売中止)、起亜自動車からも「ビスタ」(2003年12月生産中止)が出されたが、人気を得ることはできなかった。軽自動車が人気がない理由としては、安全や力不足などいろいろな指摘はあるが一番重要なのは、やはり軽自動車が持つ他人から自分に対する「見た目」のイメージ、「大きいものがいい」という意識などが働いて購入にブレーキをかけさせているのだろう。

 この点はラジオ深夜便の話にもあったが、実際は軽自動車は韓国では一種類しかないらしい。またラジオ深夜便の話では、そもそも軽自動車用の駐車場もないらしい。
 話は以上で、当の疑問の回答にはなっていない。というのは、自動車産業と政策の関係がいま一つわからないからで、ただ自尊心や見栄えということでもないだろうと私は思う。
 とすれば軽自動車の売り込みということもあるのだろうかと調べると、中央日報”日本軽自動車、近く韓国市場上陸…三菱「i」来年市販”(参照)にそういう話があった。

 日本三菱の軽自動車が来年に韓国に上陸する。 販売は大宇(デウ)自動車販売が担当する。
 大宇自動車販売によると、三菱は最近、大宇自動車販売の販売担当者を日本に招請して車種品評会を開き、投入モデルについて議論したという。
 大宇自動車販売営業企画担当者は「ガソリン価格の高騰で軽自動車を購入しようという国内消費者は多いが、国産車種がほとんどないため成功すると確信している」とし、「トヨタ・ホンダなど日本車が韓国でよく売れ、三菱も期待している」と述べた。
 まず上陸する車種は「i(アイ)」だ。 ボックスカースタイルの「eK(イーケイ)」も候補に挙がっている。 2車種の日本消費者価格は800万ウォン(約100万円)台。 大宇自動車販売は輸入関税・ディーラーマージンなどを勘案し、1200万-1500万ウォン台で国内で販売する計画だ。

 日本の軽自動車の韓国輸出が増えるのか、それを機に韓国でも軽自動車の車種や販売が増えるのか。どういう風景になっていくのか、他国の今後の変化を考える上でも気になるところだ。

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2007.11.25

[書評]センスを磨く 心を磨く(ピーコ)

 ピーコの本を読んだことがない。名前は知っていても単に関心がなかった。でも先日立ち寄った書店で新刊書のところで「センスを磨く心をみがく(ピーコ)」(参照)を見かけ、なんとなく気になったというだけの気分で買って読んだ。挿絵も懐かしいトーンだった。
 話は存外に面白かった。そう大げさなものでもないけど生きる指針みたいのを得られた。自分より一回り年上の人の感覚がよく表現されていて、ああ、もう一回り生きてこんなふうになれたらいいものだな、と思った。こんな言葉が身に染みる。


 30代より40代の方が時の流れが速いと思ったものでした。でも40代より50代の方がもっと速く感じました。


 過去の自分を振り返ってみても、若い時の苦労や飢餓感が人間を深く大きくしてくると思っています。
 苦しかったことや、足りなかったことが60も過ぎると楽しく感じられるのです。


 父は、ちり鍋をつまみながら熱燗の辛口を3合ほど飲むと、額のあたりがポッと赤くなって、炬燵の中でよく寝てしまっていました。あのころは、それが幸福だなんて思ったことがなかったのに、そのころの父と同じような年になって、幸福だったんだろうな!と思えます。

 ウィキペディアを借りると、ピーコは、日本の男性タレント、「おすぎとピーコ」のうち服飾評論家のピーコとのこと。

ピーコ(本名:杉浦 克昭 すぎうら かつあき、1945年1月18日 - )は、日本のタレント、ファッション評論家。神奈川県横浜市出身。

 終戦の年の1月に横浜で生まれたのかというのも感慨深いし、本書に出てくる両親の話も興味深い。こう言ってはいけないのかもしれないが、これもウィキペディアを借りるとピーコは「双子のオカマであることをその当時から売りにしている」という芸人というかタレントである。75年にデビューとあるがそのころの彼を私はテレビとかで見ていて、あの手の人にありがちだな、というくらいに思っていた。ただ、オカマという人たちには独自の痛みや悲しみを持っている人が多いのでその内面は複雑かもしれないというのと、そうなったのは少年期の環境の影響とかもあるだろうとも思っていた。本書を読んではっと気が付いたのだけど、少年期の影響というとき、悪影響というより、両親がリベラルな人でその愛情と素直な自己表現ができてこうなったいう良い影響のようだ。
cover
センスを磨く
心をみがく
(ピーコ、宇野亜喜良)
 ピーコが大病したことはなんとなく知っていた。話を端折るためにまたウィキペディアを借りると、「1989年、悪性黒色腫により手術で左目を摘出し現在に至るまで義眼を入れている(その関係で公共広告機構の『アイバンク』のCMに出演経験がある)。その頃からトレードマークとなっている黄色いレンズの眼鏡をかけるようになる」とのこと。もう随分たつ。なので癌も克服してすっかり健康になったものかと思っていたが、本書を読むと病気との付き合いはその後もいろいろあるようだ。大病を抱えて生きていくというのもいろいろしんみりくるものがあった。
 季節への感覚もいろいろ共感するところが多い。うまく言えないのだが、自然の季節のなかで生きているという深さの感覚というのは人によってかなり違うものだろうか。いわゆる音感のないオンチ、運動の苦手な運動オンチのように、季節感オンチみたいな人は少なくないのかもしれない。が、こうしたことは人それぞれだろう。
 ピーコは私よりも一回り古い人らしく、失われていく日本人のマナーにはうるさい。若い女性への手厳しい批判も本書には多い。

 どうして日本の女はあのように気持ちの悪い音をたててミュールを履くのでしょうか。
 まず歩き方でしょう。前を真っすぐ向いて、背筋を伸ばして歩けば、あんな音はしないのです。足が前にサッと出るからです。
 近ごろの若い女は猫背のような前屈みで、ゾンビのように足を引きずっています。それが音の原因です。地下街や駅の構内のように音が反響するところでは騒がしくていたたまれなくなってしまうのです。

 そうだなと私も思う。ただ、こうしてブログを書きつつネットなどの空気を読んでいると、若い女性にしても、そう言われても、というか反って反感を持たれるだけなのだろう。苦言は若い女性だけでなく、同じ年代の大人への苦言もある。私も以前ブログに書いたことがあったが、傘のマナーや自転車のマナーなどについてだ。
 同じ年代の大人といえば、東京オリンピックの話なども興味深かった。私も先日東京都が配布している東京オリンピック誘致のためのパンフみたいなものをもらい、なんだろこれといぶかしく思ったが、その先がうまく言葉にならない。でも、ピーコのこうした思いには、かろうじて東京オリンピック以前の風景を見た私には共感できる。

 あの東京オリンピックの前と後では、東京の景色ががらりと変わってしまったのも、同じようにありありと頭の中に刻み込まれています。


 それでも”これで世界の有名都市と肩を並べることができる。敗戦の惨めな思いを抱えた国民の心を高めることに役に立つ”という思いで我慢したのです。
 東京オリンピックは大成功で、そのために作った新幹線で長距離の移動は便利になり、高速道路のおかげでモータリゼーションは急速に進歩して、現在の東京の姿、いえ日本の姿の礎になったものでした。でも、その陰で失われたものへの総括は40年以上たってもされていないといっていいでしょう。

 こうした指摘はブログのような空間では回顧趣味やあるいはオリンピック誘致の政治マターに還元してしまうに違いない。でも、そういうことではなくて、「その陰で失われたものへの総括は40年以上たってもされていない」という40年以上生きてしまった人の思いの重さのようなものを私は感じる。どう言っていいのかわからないが。
 本書が良かったので、ついでに「ピーコ語録(ピーコ)」(参照)も読んだ。というか語録なんでさっと読める。若い人でもこれはけっこう人によってはかなりインパクトがあるだろう。

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2007.11.23

その後の三つの事と二つの買い物

 ちょっとばかしアフィリっぽい話なんでうへぇなかたはスルーが吉ですよ。では、その後の三つの事と二つの買い物。
 水泳の話。前回は「極東ブログ: バタ平泳ぎと背面平泳ぎ」(参照)だったかな。その後も週二回くらいのペースで泳いでいる。あまり進歩しない。このまま飽きてしまうかなと自分に懸念を持っていたがそうでもない。単純な話、裸で水のなかでばちゃばちゃというのは楽しい。が、外気が寒くなるとプールの人も減る。そしてなんというかマジ泳いでいる人とマジ歩いている人が残る。水中ウォークというのか。健康にいいのでしょうかね。痩せる? 水泳というのは体脂肪は落ちづらいと思うが、でも私はしだいに落ちてきましたが。スポーツマン風の若い人も歩いているのでリハビリなのかも。こういう風景も面白い。いろいろトライしていたバタフライだが、「極東ブログ: バタフライが自然にできた」(参照)の「ゆっくり長く泳ぎたい! 背泳ぎ&バタフライ編 ゼロからの快適スイミング」(参照)のフラット型も普通にできるようになった。というか、かなり低速なバタフライができる。クロールでもブレストでもそうだけど微妙にいろいろなフォームがありそうだ。先日NHK「アインシュタインの眼」でフィンスイミングというのを見て、ああ、これこれ、とか思った。あのお魚やイルカのようなウェービングが快感だよな、と。専用プールでないとフィンは利用できないし、フィン的に足とコアをどう効率よく動かすか……ってな関心はあり。精進精進。
 ペリエの話。「極東ブログ: 炭酸水の夏」(参照)の続き。その後アマゾンでマレーシア品をぼこぼこ買うようになった。で、品質なんだが、飲んだ感じは国内品と同じ。炭酸のきつさも同じでした。ただ寒くなったので飲む量は減って、なぜか最近はハーブティとか飲んでいる。昔からセレッシャル・シーゾニングは好きだったのだけど最近のお気に入りは、「ベンガル・スパイス」(参照)。シナモンきっつぅカルダモンもかよの香りなので日本人向けじゃないところが大好き。あと国産だけど「ウィルキンソン ジンジャーエール」(参照)もよく飲む。うひひ。
 コーヒーの話。「極東ブログ: 普通に人が知っていることで私が知らなかった三つのこと」(参照)の続き。たんまり買ったコーヒーも切れてさてリニューということで「ドリップ徳用コーヒーマニアコク深焙煎165袋」(参照)を買った。これがうまい。激ウマとはいかないし、さすがに本格派からはこんなんでうまいんですかとか失笑されそうだけどこれよりうまい茶店に行くのが難儀なくらいうまい。スタバとはちょっと質が違うので比べづらいが。で165袋って多過ぎるし、実際頼んだらげげげという人もいるかもしれない。そのあたりは、賭けですかね。私の騙されますか? ちなみにこれ私の飲み方だと一回で二杯分。ドリップ時にもキャリーマグを使うけど、保熱性のいいキャリーマグがあるとさらに便利。
 で、三つの話は以上。
 あと二つの買い物の一つは「ハタ バランスディスク DK380」(参照)。よくあるバランスデスクでもっと安価なのもあるけど、これが買ってみたらなかなかグッド。別所にも書いたけど、空気を弱めに入れて、仰向けに寝て背中や腰の下に入れて金魚体操みたいにふにゃふにゃしているとマッサージ的。気持ちいい、というそんだけの品物。中年にグッドな製品ですっていうか、意外と若い人のほうが背筋や腰の筋肉はこっていそうだけど。アマゾン評には臭いとあるけど私は特にどってことなかった。ああ、いかん、忘れた。バランスディスクなので、もちろん腹筋とか鍛えるのに使える。座禅とかにも使える(後ろにひっくりかえる危険性はありなので曹洞宗式には向かない)。
 もう一つは、「充電式気泡浴器 スパリゾート EH2901」(参照)。詳しい話は「コラム:家電製品ミニレビューナショナル「スパリゾートEH2901」」(参照)にあるけど、ここで書かれているほどの強力なもんじゃなくて、泡出てるあわ、みたいな脱力感なのであまり期待しないこと。でも私はけっこう気に入ってしまった。買った理由は、先日ジャグジーの歴史というか、Jacuzzi(参照)に関する話を読んでいてそういえば実家に泡風呂器があったなと思いだし、今ではもっと進化しているかもと探してこれを衝動買い。最初から大して期待してなかったせいもあるが、へぇみたいな製品だった。泡風呂が楽しかった子供の頃の記憶も関係しているのかもしれない。これでバスソープがあれば完璧!とか少し思っている。

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2007.11.22

[書評]なぜ若者は「半径1m以内」で生活したがるのか?(岸本裕紀子)

 「なぜ若者は「半径1m以内」で生活したがるのか?(岸本裕紀子)」(参照)が出版されたのは9月中旬。それから1か月以上たち、この本がどう読まれているかと思ってぐぐってみると、グーグルのせいかもしれないけどあまり手応えがない印象だ。自分ではけっこう面白かったのでちょっと意外でもある。

cover
なぜ若者は
「半径1m以内」
で生活したがるのか?
 最近の新書の読まれかたというのもよくわからないがブログの世界での反響はあまりなさそうだ。とのっけから中心課題につっこむと、この本のテーマ層はブログみたいな層より若いケータイ文化の層だからなのかもしれない。でも、自分が見る限り、けっこうはてな村の深層と関連がありそうな感じもするし、twitter文化なんかもべたに関連しているでしょとも思う。とか言ってもうまく通じませんね。
 ちょっと話を戻して、本書のタイトルをぐぐると毎度ながら書評ブログというか献本ブログというか小飼弾さんの”404 Blog Not Found:書評 - なぜ若者は「半径1m以内」で生活したがるのか?”(参照)が上位にくる。他に、産経の”【書評】『なぜ若者は「半径1m以内」で生活したがるのか?』岸本裕紀子著 - MSN産経ニュース”(参照)があるにはあるけど帯書き以上のものではない。で、どちらもキーワードである「半径1m以内」をテーマにしているのだが、そのあたり私はけっこう違和感があった。
 たしかに本書の表題としては「半径1m以内」をキーワードにするのは売り手の創意があるかなという印象はあるのだが、読んでみるとわかるが、このキーワードは論旨のピヴォットにはなっていない。はじめに部分に言及されているが、どうも新書タイトルが決まってからか、マーケット用にコンセプトを調整したふうでもある。いずれにせよ、こじんまりと身近な人間関係というのを「半径1m以内」という比喩で表現したというのだが、比喩の適切性は低い。
 というところで、こじんまりと身近な人間関係を結ぶ若い人の生活様式という問題は、ある意味で曖昧に印象的につづられる。だがそれが外しているというわけでもない。著者は私より年上で団塊世代に近いせいか、その世代のスタンスとプラス、若者文化への理解というあたりの自分語りに読めないこともない。
 つまり、テーマが現代社会と若い人の生活様式のある種の特徴を描きつつあるのだが、その「なぜ」の部分が見えてこない。あるいは見えるような方法論は提示されていない。そして、ちょっと踏み込んで言うと、グーグル検索の結果の薄さだけでもないのだが、当の若い世代もまた、団塊世代にもこの問題はあまり響いていないように見える。
 テーマ自体の感触がないわけではない。それどころか若い人への上の世代のある違和感は、世代スタンスを離れてもかなりあると言っていいだろう。このあたりのテーマ性は、なんとなくだが、マスメディアやネットでは「失われた10年」や「ゆとり世代」のような国家と連想された制度の側で答えを見ようとしている形骸化した傾向がありそうだ。が、むしろ本書はそこには距離を置いている。
 なにが本質的な課題なのか。つまり、小さい生活圏内ということではないとしたら。
 こうした疑問との関連で、私が本書で一番強い印象を受けたのは、いわゆる身近に限定された行動様式というより、人間の連帯についての、現代の若者特有の奇妙な疎外意識の表出だった。本書はもっと簡単に「ありがとう現象」として言い当てている。感動のスポーツ番組などに対しての若い人のリアクションについて、こういう現象を描き出している。

 選手のみなさんは僕らに勇気をくれました。
 試合を観て、元気とパワーをいっぱいもらいました。
 感動をありがとう、といいたい!

 ちょっとずっこけた言及をすると村上春樹もそうらしいが、私は球技とかゲームとか人が群れて熱中するものの大半に関心がないというかチーム意識で高揚するものにまるきり関心がないという人なので、そもそもこういう感動している人の横でマンゴーラッシーとか頼んで飲んでいるくらいなものだが、それでもそれって奇妙だなとは思っていた。若い人の素直な情感のありかたというより、うひゃなんだろこれというどんびく感じだ。
 著者はもう少しアグレッシブに直接的な、多分に世代的な印象をこう語っている。

 この言葉自体は素直な賞賛の気持ちから出てくるものだとわかるし、選手たちが大変な練習の末に勝ち取った成果については称えたいと思う。がしかし、である。
 どうしても気になるのは、人から勇気や、元気や、パワーや感動をもらうという発想と、それで満足という姿勢なのである。
 それを受けて、自分も人に勇気や、元気や、感動を与える人間になりたい、なります、というならまだいいのだが、そんな言葉はあまり聞こえない。

 それは程度の問題かもしれないなとも思うが、続く言葉には説得力がある。

 今から十数年前になるが、ある一流サッカー選手の引退試合のあとのことだ。マイクを向けられたサポーターの男性が、彼は30代半ばで2~3歳のくらいの子供と一緒に来ていたのだが、「選手たちがくれたこの感動を子供にもずっと伝えていきたい」と涙ながらに語っているのを観て、「感動は自分が何かをやることで、子供に見せていくものじゃないの」とちょっとしらけた気持ちになった。

 このしらけ感は私などもわかる。世代の感覚かもしれない、留保は必要だが。

 もちろん、彼らにしても、深い意味まで考えていっているわけではなく、よく聞くフレーズだし、流行っぽい表現だから口からふと出てしまうだけかもしれないが。が、それにしても、勇気とか、感動とか、日常生活ではめったに経験することがないような感情の表現を、あまりに安易に使いすぎているとは思う。

 私はもうちょっと思うことがある。こういう若い人たちは、そういう感動を仲間と頷きあって感動の輪を限定してそこでまったり安全を感じたいのではないか。つまり、それは何かしら外側への無感動な寒い世界に怯えた防衛の反応なのではないか。
 というかそういうものがネットでも機能しはじめているように思う。もうちょっというと、この感動は根の部分に恐怖感やネガティブな情感があり、感動による領域設定と排除の機能を持っている。だから、この感動の疑似集団は感動をコアにしていながら、その外部にむしろ悪意を放出するのではないだろうか。
 筆者はこの感動を「ありがとう現象」に失恋の歌の動向を重ねて見ている。

 勇気で思い出したが、最近流行している歌では、失恋の歌が少ない。失恋ではなく、単なる別れになっている。
 だからかつての歌のように、「付き合って大好きだった相手に捨てられた。悲しい、寂しいし、まだ未練がある。逢いたくてたまらない」などとは間違っても歌わない。自分か相手かどちらが振ったのだかわからないが、別れた相手に対し、「君は勇気をくれたね、大切なことを教えてくれたね」などと歌っている。

 中村中の歌など聴くとそうでもないと思うが、ほいで、吉本隆明も若い人の恋愛が自分をさらけださないなみたいに言っていたが、著者も「彼らの恋愛は、自分をさらけ出さない醒めたものである」と言っている。私はといえば、別に恋愛に自分をさらけ出す必要もないのではないかなと思うあたりで、ネットで爺だの罵倒されるわりに、むしろ若い方の感性にずれている。別に自分の心が若いんだとか言いたいわけではないよ。
 結局、これはなんだろう?と思うのだが、小さな世界で自足する新しい生き方として見るより、現実のべたなリアルと、リアルとされた仮想の世界の軋轢というかその回避の社会構造がある程度到達した結果なのではないか。その意味で、若い人の行動パターンというより制度的なもので、どうにもならない。しいて言えば、たぶんこの感動をありがとう集団は外部には悪意しか放出しないのではないかと思うので、「その感動うざいんですけど」シールドで各様な人を守れるような制度みたいなものも必要かなと思う。

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2007.11.21

豪州ハワード時代の終わり

 24日に予定されているオーストラリアの総選挙だが、オーストラリアン紙による世論調査では、現ハワード首相率いる保守連立政権の支持率は46%に対し、ラッド党首率いる労働党は54%とのこと。もう少し僅差に見ている世論調査もあるが、労働党の優勢は崩れそうにない。つまり政権交代が実現し、ハワード時代が終わることになる。
 ハワード時代の終わりは、なんとなく朝日新聞が浮き立っているようにも思えるが、20日付け記事”豪総選挙、与党が劣勢 敗北ならイラク撤兵も”(参照)の表題のようになる可能性は高い。もっとも記事には書かれていないがラッド党首の主張はあくまで段階的な撤退である。


ブッシュ米大統領の「最後の盟友」となった首相が退陣すれば、豪州のイラク派兵や地球温暖化対策も見直しを迫られる。

 同記事は朝日新聞的にありがちな偏向がないのは、それが選挙の争点ではないことも特記している点だ。

 1500人規模を派兵するイラク問題をめぐり、かつての盟友に背を向けられた形だが、主な争点はむしろ減税や雇用法制など内政問題だ。
 ハワード首相は総選挙実施を発表した翌10月15日、総額340億豪ドル(約3兆5600億円)の大規模減税を発表、支持率浮上を狙った。首相は「労働党が政権を取れば今の好況は終わる」と危機感をあおる。

 イラクの内政は落ち着きを取り戻しつつあり、また米軍が強化されている現状、米軍の百分の一規模のオーストラリア軍の重要性は低くなっている。余談めくが、オーストラリア軍も日本の自衛隊派兵と同様に死傷者を出していない。
 経済面での保守陣営の政策もそれほど受けてはいないようだ。同記事では、むしろラッド党首に焦点を当てている。

 その追い風を受けるのが、労働党のケビン・ラッド党首(50)。「豪州には若く、新しい指導者が必要」と訴える。

 もっともネットではちょっと違った見解もあるにはあったようだ。ラッド労働党党首の顔を知るのにもいいかもしれないが、ちょっとお下品な映像というか、別段盗撮されたわけでもないからいいのだろう。ラッド党首が自分の耳垢食っているの映像が話題になった。”Kevin Rudd picks his ear and eats it - the worms verdict”(参照)だ。この映像、野党党首になる03年以前のものらしく選挙に備えていたのだろう。
 ということでラッド労働党党首の人柄がわかったかというと、重要なのは彼が中国通という点だ。普通語がしゃべれる。先月30日付けAFP”オーストラリア総選挙は中国が争点、親中派のラッド党首が優勢に”(参照)より。

ラッド党首は1980年代、北京に外交官として滞在した経歴を持つが、89年の天安門事件以前に帰国している。中国語が堪能で、胡錦濤(Hu Jintao)国家主席の9月初頭の公式訪問時には、その達者な中国語で胡主席を魅了した。


演説の中でラッド氏は「妻もわたしも、中国には特別な愛着を抱いている。中国の国民も文化も大好きだ」と述べた。また、2人の息子が中国語を習っていたことや、娘が今年、オーストラリア国内の中国系男性と結婚したことも明かした。

 それを言うならプーチンの娘さんは日本語を学んでいるが、与太話はさておき。中国系移民の影響は今回の選挙に大きくなりそうだ。というのも、同記事にもあるように、ハワード首相の地元ベネロング選挙区は中国系移民が17%も占め、これがらラッド労働党首に大きく傾けばハワード首相自身の議席すら失う可能性がある。
 さて、ラッド首相が実現してどうなるか。対外的に直接的な変化があるわけではない。イラク撤退は穏和な段階的なものになるだろうし、日米豪三カ国戦略対話も継続される。日本への外交面ではというと案外調査捕鯨が以前より風当たりが強くなりそうな感じもする。彼は以前、軍艦を使ってでも調査捕鯨を阻止すると言っていた。

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2007.11.20

[書評]人生は負けたほうが勝っている(山﨑武也)

 あまりブログを書く気がしない。なら書かなくてもいいのだろうが、思うことがないわけでもない。またあまりストレートなことを書くのもなんだしと逡巡して時は過ぎる。そんなことを思いながら雑多に読んだ本の山を見ていると、「人生は負けたほうが勝っている 格差社会をスマートに生きる処世術 (山﨑武也)」(参照)を見つけた。

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人生は負けた
ほうが勝っている
 今年の年頭に出たもので書店で表題を見て惹かれて読んだ。私も、人生っていうのは負けたがほうが勝ちだよな、と思っているくちなので、同意見だなとそれだけの理由で読んだものの、いろいろ啓発されることがあった。ただ、こういうのは若い人にはわからないことが多いだろうしとこれもまた時が過ぎ去った。が、さらりと再読してやはりこれは良書というか、30代くらいのビジネスマンなら今読んでおくとおかないとで20年後に違いがでるかもしれない大人の知恵が詰まっているなと思った。ので、ちょっとエントリに書いてみる。くどいけどこの手の本は向かない人には向かないので、ネガティブな印象を持ちそうだったらそのままこのエントリを含めてスルーしたほうがいい。
 山﨑武也という筆者を私は知らない。人生は負けたほうが勝ちみたいな人生観というのは、私みたいに人生負けた人が持つものだろうと思ったが履歴を見るとシャッチョウさんでもあり茶道にも造詣が深そうだ。なーんだ勝ち組の爺じゃんという印象もあるが、それはさておき1935年生まれというともう古稀を越えていらっしゃるわけで、人生の総括的な視点に立てる時期でもあるのだろう。いや、そういう人の卓見に満ちている。
 読み返してぐっと腹の底に来たのはここだ。「放棄する」というテーマで相続の争いの話が出てくる。

 一生のうちの少なからぬ日時を、相続に関する泥仕合に費やすのは、賢明な人がすることではない。何とか食べていける仕事があれば、欲深い兄弟姉妹を持ったのが不運であると諦める。少しでも分けてもらったら、それでよしとするのだ。

 世の中格差社会とかいろいろ言われているが、人生出発点で不平等がある。まして、家に資産があると、それは自分のものだと争いが起きる。こういうのは目の前でどんぱち起きているのを見るとものすごいもんだなと思う。で、結局こうした問題はこの引用のような結論に至るのが正しい。「欲深い兄弟姉妹を持ったのが不運」とはよく言ったものだし、しょせん自分で稼いだわけでもないカネに拘泥するのは愚か者。なのだが、あのカネは俺のものなのになという思いもまた消えない。こういうあたりに、奇妙な人生の味わいがある。
 「金を捨てる」もさらりとすごいことが書いてある。いや、正義漢はこういう話は嫌いだろう。離婚などの話の文脈だが。

 受け取る権利のある金をもらわないというのは、その金を相手に与えるのと同じ結果になる。その女性としては、「手切れ金」を支払うにも等しい行為である。夫婦であれ何であれ、それまでの関係を断つには、そのための金を相手に与えるという便法がある。金で決着を付けるのである。一般的には、人間の心や人間関係は金で買うことはできないといわれているが、最後の手段としては金が効果的な役割を果たす場面は、あちこちで見られる。

 このあたりもそういう場面を実際に人生の局面で見てないと理解しにくいものである。貰えるはずの金をもらわない。金を捨てる気になれ、というわけだ。
 この手のダークな話がてんこもりかというとそうでもない。また、何ごとも負けるが勝ちというわけでもないのがこの筆者の人間的な面白さにもなっているようだ。
 筆者は財務関係の経験もあり、捨て印なんていう制度は納得がいかないから一度もしないと言っているところがある。誰もがそう思うがそう貫くことはできない。そういう奇妙な意固地さも面白い。また筆者は名前を「山崎」と書かれるのはいやで「山﨑」と書いてほしいとあるが、ネットの書籍紹介の文章としては現状ではあえて「山崎」としておこう……と思ったがああやっぱ「山﨑」としておこう。
 そういえば「有名人」についてはこうある。

 有名人になっても、よいことばかりではない。有名である度合いに応じて、累進的な「有名税」を納めなくてはならない。ちょっとしたことでもゴシップの種にされて、世の中の慰み者にされる。妬み半分の人達に、言動の揚げ足を取られて攻撃されたり嫌みを言われたりする。
 また、もてはやされすぎて、心身に無理をしてまで働き、病に倒れる羽目になる人も少なくない。身の安全のためには、半有名人や隠れ有名人くらいがよいではないか。

 これをテンプレに「アルファブロガー」と「ネット」のネタでも書こうかと思ったが、そういう目立つネタを書くもんじゃないよというのが本書の趣旨のようでもありそうだ。

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2007.11.17

[書評]健康の天才たち(山崎光夫)

 表題が率直に言っていまいちというか誤解を招きやすい。確かに「健康の天才たち(山崎光夫)」(参照)は、日本人の健康を支えた天才たちの列伝といった趣はあるが、むしろ興味深いバイストーリーとしての日本近代史だった。おもしろいという点では、最近読んだ本のなかでは「西遊記6 王の巻(斉藤洋)」(参照)に並ぶ。歴史に関心ある人、あるいは私より年上の人なら読んで損はないだろう。

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健康の天才たち
 なぜこの本が近代史であり無性に面白いのか。いきなり飛躍した言い方をすると、日本の近代史とは疑似西洋的な国民国家日本の創出のプロセスであり、かつその意味は国民皆兵化にあったことに関係する。日本近代の歴史は太平洋戦争の敗北によって轟音を立てて崩れたかに見えるがそうではなく、戦後の国家工場化にすり替わっただけで、国民を皆兵化するという道が崩れたわけではない。軍事国家のシステム従軍慰安婦は戦後も経済マシンのなかで同構造を持っていたことは「極東ブログ: [書評]その夜の終りに(三枝和子)」(参照)で少し触れた。
 近代日本が崩れたのはむしろプラザ合意以降のことであり、そこから日本は面白いように衰退を始めたが、同時に皆兵化からは逃れることが可能になった。その国民皆兵化とは何か?
 国民皆兵化は軍事国家の制度として考察されるし、まあそうした視点は無難な歴史研究だろうが、本質はおそらくフーコーの晩年の思想「自己への配慮」に近い。ウィキペディアのフーコーの項目に簡素に興味深い示唆がある。

フーコーは晩年のどの著作においても、西洋社会が「生の権力」という新しい権力、つまり、伝統的な権威の概念では理解することも批判することもできないような新しい想像も出来ない管理システムを発展させつつあることをしめそうとする。従来の権力(国家権力など)機構においては、臣民の生を掌握し抹殺しようとする君主の「殺す権力」が支配的であったが、この新しい権力は抑圧的であるよりも、むしろ生(生活、生命)を向上させる。たとえば、住民の生を公衆衛生によって管理・統制し、福祉国家というかたちをとって出現する。フーコーは、個人の倫理を発展させ、自分の生活を他人が尊敬し賞賛できるようなものにかえることによって、この「生の権力」の具体的な現れである福祉国家に抵抗するようによびかける。

 国民皆兵化は、フーコーが感じ取っていたように従来のような国家権力ではなく、「住民の生を公衆衛生によって管理・統制し、福祉国家というかたちをとって出現する」という形態に近い。ただし、これは福祉国家ではなく、皆兵の健康という形で出現した。もちろん、フーコーの射程は現代、とくに昨今の日本の不気味な健康志向や食品統制のためのバッシングにも及ぶのだろうが、ここでは、健康というものが皆兵という形態で日本国家による機能だった点が重要だ。
 話が明後日に飛んだようだが、本書「健康の天才たち」は近代日本における健康が、きわめて軍国主義化の機能を持っていたその末端のようすをある意味で露骨なまでに描き出す。と同時に、その権力が国家的な制度とは異なる国家幻想に由来することや、奇妙な形で国家を越えていく力を内包している可能性も示唆されている。
 本書は6人の天才、岡本巳之助、遠山椿吉、江木理一、香川綾、西勝造、西尾正左衛門の列伝の形を取っている。新潮社のうたい文句を借りる。

腐らないコンドームを作った岡本巳之助、蛇口をひねれば安全な水が飲める日本を築いた遠山椿吉、計量カップで一流料理を家庭に普及させた香川綾、脂っこい西洋料理の汚れを簡単に洗い落とせる亀の子束子を発明した西尾正左衛門など……。明治維新以来、日本の近代化を支え、長寿大国の礎を築いたのは、西洋の新しい文化と日本古来の文化の狭間で、日本人の健康のために心血を注いだ六人の天才たちだった。

 6人のすべてが国民皆兵に直接的に寄与しているといった単純な構図ではない。むしろある時代精神がこうした天才をして日本国民を健康なる兵士を生み出すマシンを作り上げたというべきだろう。もちろんそこにはそう単純化されない歴史の機微や陰影がある。
 私は歴史の皮肉なトリビアルが好きなのでこの数名については本書より知っている部分があり、ある意味、おさらいような気持ちで読み進めたのだが、ところどころ、ああと思わず声を上げるような話もあった。
 岡本巳之助は言うまでもなくコンドームのオカモトの創始者なのだが、ちなみにオカモトにおけるコンドームの売り上げはすでに一割程度らしい。彼は苦心の末、軍需用のコンドーム「突撃」を作り出すのだが。

 軍事学によると、戦地で部隊が戦闘すると、戦死や怪我で約二割の戦力ダウンがあるという。兵力の温存は戦術のイロハである。戦闘で戦力を失うのはやむをえないとして、病気で兵隊を失うのは避けたい。軍が最も恐れたのは、結核と性病で、戦わずして戦力ダウンをきたす。結核患者はすぐ隔離するとして、性病の場合は、もっぱら予防のために軍がコンドームを支給した。”突撃”を持たなければ外出許可が下りなかった。

 現在この歴史は性奴隷に対する国家の組織的な関与が注目されているが、その組織関与にはこの引用が示唆する側面もあった。
 遠山椿吉は水道の衛生に努めた。彼は次のような歴史に埋め込まれている。

 環境の悪化を象徴する事件が明治一九年(一八八六)年に発生した。この年の夏、コレラが横浜で流行し、蔓延する兆しをみせていた。東京府は水際の防疫体制を敷いたが、七月上旬、日本橋に第一号の患者が発生、次いで浅草にも飛び火して瞬く間に区部から郡部に広がり、連日、数百名単位で患者の発生をみた。死者も続出し、火葬場で順番を待つありさまだった。結局この年、区群部合わせて患者は一万二一七名、死者は九八七九名に達した。
 このコレラ騒ぎはこれで終わらなかった。神奈川県の大流行の原因として、汚物にまみれた衣服を多摩川で洗濯したいう報道があった。その水で生活している下流の東京府民は恐怖を募らせ、市民生活の死活問題として議論が高まった。

 こうした大量の死者が突然訪れるという恐怖は市民の間に象徴的に埋め込まれたに違いないし、それは別の事件の背景を描いていたかもしれない。
 全国ではどうだったか。

 この明治一九年には、ひと夏のコレラだけで、全国で一〇万八〇〇〇余人以上が死亡している。明治時代を通して、日清、日露などをはじめとする戦死者の数より、国内の伝染病による死者のほうが圧倒的に多いのである。

 こうした死者のいる歴史風景の感覚を私たちは失っている。そしてそこから切り離されたものとして日清・日露戦争を描いたりもする。
 江木理一は初代のラジオ体操の号令者である。近代日本人の身体を皆兵化に変質さえた点でラジオ体操ほど不気味なものはない。この点は「「健康」の日本史(北沢一利)」(参照)のほうがやや詳しい。しかし、「健康の天才たち」は当時の空気を感じさせてくれる。当時の外国人、ニューズウィーク記者たちはその不気味さを示唆している。

『ニューズウィーク』に江木は次のように紹介された。
「世界中どの国でもまねのできない大きな仕事、といえるだろう。その仕事とは、国民の顔を一つの方向にむけることで、たとえラジオを通して、とはいえ、そのいわば指導者・江木理一氏の内面をさらに分析する必要があるだろう。

 ところが江木はニューズウィーク記者がいぶかしがったような内面などなにも無かった。むしろ、江木はできればフルート奏者として生涯を全うしたく、戦後は小学校に横笛の導入ビジネスを目論んでいた。が米国産のプラスチックリコーダーによって晩年は蹉跌した。
 皆兵化は軍国主義化でありながら、それが奇妙に越えていく瞬間もある。二・二六事件のその日も江木は律儀にラジオ体操の号令をかけに愛宕山に向かう。軍人が行く手を塞ぐと、「アナウンサーの江木だ。これからラジオ体操の号令をかけに行く」の一言で道が開いた。笑話のようだが事実であろう。この奇妙な神聖性こそ国民の身体を改造したなにかであり、またラジオ体操がその開始から昭和天皇と一体化していたことも、奇妙に呪術的な符帳になっている。
 香川綾は計量カップを家庭に普及させた女医として描かれているが、香川については本書の項目よりも私は詳しい知識があるので、いろいろ不満は覚えた。特に彼女はクリスチャンであること、戦後の給食に大きな関与をしている点だ。ウィキペディアの同項を見たがあまりこの点は書かれていない。ごく放言的に言うなら、彼女が脱脂粉乳を子供に飲ませたことで日本人の平均身長は14センチ伸びた。
 西勝造は西式健康法の創始者である。現代の各種健康法は西式健康法の亜流であることが多い。本書ではそうした健康法創始者よりビジネスマンとしての西を描き出している点が面白い。最後の一人、西尾正左衛門は亀の子束子の発明者だが、健康というより戦前のビジネスのありかたの話として読むとよいだろう。
 総じて、本書は健康という側面もだが、健康に関わって創始される戦前のビジネスとして見ても示唆深い点がある。

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2007.11.14

ベトナムの男女出生比率不均衡雑感

 秋なのかブログに飽きなのか、政局にも国際問題も経済にも関心が向かない。それなりに思うことはあるが、いくつかの局面の展開はすでにこのブログで予想した通りなので、特に書くべきこともないような気もしてくる。それと、ブログを書くということはどういうことなんだろ、そんな手間よりもTwitterでだべっていたほうが楽しいんじゃないかとも思えてくる。よくわからない、としているうちに3日空き、今晩からココログの長時間メンテらしい。なんかエントリ書こうかな、最近読んだ本の話、また息抜きに料理、と思っているうちに、ベトナムの男女出生比率不均衡のニュースのことを思い出した。
 ニュースとしてはAFP”男女比の不均衡が拡大、ベトナム”(参照)が詳しい。


新生児の男女比の国際平均は女児100人につき男児105人だが、ベトナムでは女児100人につき男児が110人、一部の地域ではこの差が100対120まで広がっている。この傾向は中国やインドでもみられるという。

 ニュースの出所は国連人口基金(UNFPA:UN Population Fund)によるもので、AFPには書いてないが分析の元のデータはベトナム政府によるものなので、ベトナム政府の意図に反してUNFPAが指摘したというような意味合いはない。
 AFPによると、UNFPAが今回指摘した背景には、今年が亥年、つまり中華圏では縁起の良い豚年(猪年)で男児が生まれることが望まれることが示唆されている。日本ではあまり報道されていないが、猪年のこうした呪術的な傾向は韓国や中国でも顕著で、結婚ブームもあった。
 男児が選別される背景には、中華圏特有の男尊女卑的な文化的要素がありそうにも思えるが、直接的には人口抑制策があるらしい。

 ベトナムでは長年にわたり「2人っ子政策」が実施されていた。中国の「1人っ子政策」ほど強制的に施行されなかったが、現在でも都市部から離れた地域や職場などでは子どもの数の制限が奨励されている。
 2003年には男女産み分けを目的とした中絶が法律で禁止されたが、経済発展により超音波検査が普及した今日のベトナムでは、医師から簡単に性別を聞きだすことができる。

 AFPは伝えていないが、「二人っ子政策」は1993年に始まり2000年には終了している。この間、女性が一生の内に産む子供の数は3・8人から2・09人に落ちた。政策としては成功であったとは言える。それから7年後もその傾向が続いているということなのかはよくわからない。
 男女出生比が狂うのは、AFPのニュースにもあるように、超音波検査を使った性判定による選択的な中絶が実施されているからだ。なお、中絶率自体34・7%と高い(日本は22%)。
 別ソース、ベトナムニュース” ベトナムの男女出生比率の不均衡 UNFPAが警告”(参照)には「およそ3分の2の妊婦が超音波装置を使って出産前に男女の別を調べている」とあり、検査の普及率は高い。
 ところでAFPニュースでは「この傾向は中国やインドでもみられる」とあったが、中国やインドでも深刻な問題となっており、UNFPAとしてはベトナムが中国の状態になることを懸念しているようだ。というのは、中国ではすでに男女比が100(女)対120(男)にある。2005年のソースだが中国情報局”人口13億:男女出生比率の不均衡が深刻化”(参照)ではこう伝えている。

 中国国家人口計画出産委員会によると、中国における男女の自然出生比率が119.9:100となり、男性比の正常値である106を大幅に上回っているという。5日付で新華社が伝えた。
 第5回全国人口普通調査の結果、中国全土の5省で女性100に対し男性が130を超えて、男女比率の不均衡が深刻化していることが明らかになった。

 これが中国では結婚難にも波及しているらしい。2007人民網”男性結婚難の原因 男女出生比率のアンバランス”(参照)より。

 人口学的統計から見ると、中国の人口男女性別比の差異は顕著である。20世紀70年代以降の出生率下降と80年代以降の出生人口性別比のアンバランスの影響を受け、1970年代以降に出生した男性は深刻な結婚問題に直面している。

 こうした問題が実際の社会に結婚難以外の影響を与えるかはよくわからない。今回のベトナムと同様の傾向は70年には韓国にもあったが是正されたものの、結婚への影響がないわけはないだろう。
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プリンセス・マサコ
 話は余談になるがおくればせながら、「プリンセス・マサコ 完訳 菊の玉座の囚われ人(ベン・ヒルズ)」(参照)をざっと読んだ。存外につまらないなという印象はもった。アマゾン評のこれに近い。

結果的に宮内庁批判, 2007/9/23
By てち - レビューをすべて見る
筆者がどこまで意図して書いたか不明だが、内容はこれまで流されたゴシップと変わらない印象。ただ、このレベルの本に、宮内庁からクレームを公式文書(?)として送ったあたり、宮内庁の閉鎖的・排他的な体質を露呈させてしまったというのが皮肉なところか。

 個人的に気になったのは、この本だと愛子内親王が人工授精で生まれたとか書いているのだろうかというあたりだった。私の感想だが、そのあたりが不必要にぼかして書いてあるように思えたが、全体としてはそのような誘導的な記述でもあった。こんなことに関心を持つのは、男児であろうと私は当時こうした背景で考えていたからだ。が、実際には女児であった。遠心分離法による選択の可能性は事実が排したのだと私は考えた。私は、日本の皇室は日本らしい近代性を備えていると信じることにした。

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2007.11.10

[書評]ウェブ時代をゆく(梅田望夫)

 「ウェブ時代をゆく(梅田望夫)」(参照)は当初思っていたより重厚で読み応えがあり、また提示されているいくつかのダイコトミー(二分法)が多少錯綜するかにも見えるので、図解的に整理してみたい気分にもなった。が、そうしていると読後の記録を逸しそうになるので、強引だが取りあえず自分の思いの側からエントリを書いておきたい。

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ウェブ時代をゆく
いかに働き、いかに学ぶか
 読者対象はIT系志向の30歳から45歳の働き盛りのビジネスマンだろう。彼らに今後進展するウェブ時代の傾向と、どのように働き生き抜くかという課題を提示し、著者の知識と経験から具体的な対処の手法を各種示唆している。いくつかの部分は昨今流行のライフハック的な箇条書きにもまとめられるだろう。
 本書の目論見は、twitterで対象範囲の読者たちの感想を私が散見した範囲では、正面から受け止めている。だが実践面で本書が説く「けものみち」、つまり大企業から離れて職業人として生きていく進路には、さらにきめの細かいノウハウも必要になるだろう。この年代のビジネスマンは、仕事と並行して、恋愛、結婚、出産、育児といった本書のテーマの範囲外の部分の負荷もかなり高くなり、職業的な側面だけに集中はできない。
 本書は書き手の側から想定された読者にはかなりの説得力を持っているが、その圏外から少し離れた読者層についてはどうだろか。圏外といっても30歳未満は捨象し、45歳以上の知的なビジネスマンとウェブ世界に関連が薄い30代のビジネスマンを想定してみたい。というのは、前著「ウェブ進化論」が強い支持を受けたのはこの層に思えるからだ。彼らが本書に期待するのは、今後の産業界や技術進歩の経済的な概観だろう。大きな改革が起きるとしても、それは金銭にしてなんぼ?ということ。ウェブの未来は、何兆円ビジネスで、どのくらい各種ビジネスに影響があるか。
 この問題は導入的に言及されているものの、当面の結論はあっけない印象も与える。ざっと読む限り、現状の延長から見るなら、グーグルに代表されるウェブの世界のビジネスは、広告収入が基本になるだろうという程度の話に終わる。現状の広告市場の世界全体規模は50兆円。近未来の2015年を想定して60から80兆円。内、ネット広告が10兆円程度だろうとしている。
 直接触れてはいないが、この10兆円のパイの大半はグーグル一人勝ちということになりかねない。グーグルはやはり現行の株価に見合った未来を先取りしている企業ということの確認にもなるが、逆に言えばそこで食える他社は想定されにくい。日本については、ヤフーがグーグルより上位に来るという特徴があるものの、それでも量的に見れば日本のネット広告のシェアはたかだか1兆円で、他産業に比べるとお話にならないほど小規模である。とすれば、本書の周辺的な読者にとって、ウェブへの期待自体少なくなるだろうか。
 この問題は、本書では「経済のゲーム」と「知と情報のゲーム」として切り分けられ、経済面での関心が薄れることもある程度想定されている。

 グーグルが何ものなのかをだいたい理解し、影響する経済についての規模観が「広告産業のサブセット」程度だとわかったとき、旧来型メディアの大半は「経済のゲーム」という観点からは興味を失っていくはずである。すでにその兆候は出始めているように思う。しかし、現実には、これから本格的に「知と情報のゲーム」が始まる。

 経済のゲームとしてのウェブ時代はこの程度の規模なのだろうか。この問題視点に私がこだわるのは、本書が精神論的な啓蒙書に終始するのではなく、若いビジネスマンに「けものみち」を説き、ウェブ時代に食っていく戦略を問うなら、「食うこと」イコール経済がもっと大きな規模で必要になるからだ。
 著者自身、先行したかたちでウェブ時代で食うことに成功した実例であり、本書では彼がいかに食ってきたかという手の内も詳しく語られているが、そうした「けものみち」を可能にするインフラとしての「経済のゲーム」の全体像はどうなるのか。本書はその部分の概括が薄いとはいえ、射程が届いていないわけではない。話題の展開上、グーグルに限定されているものの、広告産業としてのウェブ時代に対して、別の側面も想定している。

 「世界中の情報を整理し尽くす」という「存在意義」と表裏一体となった「広告業界の覇権獲得」という「一つ目の顔」がメディア産業を脅かすの対して、「コンピューター産業を作り直す」という「二つ目の顔」が競争を仕掛けるのはマイクロソフトが制しているIT産業の覇権であり、ひいてはIT産業全体の構造を脅かすのである。

 明白に触れられていない部分を勝手に敷衍するなら、ウェブ時代の「経済のゲーム」は、現行のIT産業構造の変化から生み出されうるものだ。
 それはEUによる独占禁止行政がマイクロソフトを変質させることになるように、やや大げさな言い方だが、超国家への人類の模索という大きな原動力に根を持っており、ウェブ時代もその派生の一つであるかもしれない。
 マイクロソフトのような占有的なITビジネスが解体するということは、どのようにその富が分散されるかということになる。その意味で、このマイクロソフトのビジネスモデルを理解しておきたい。それには生成の三つの段階で整理するとわかりやすい。(1) 4KほどのBASICをOEM販売し大企業からカネを得、(2)西和彦の示唆で買い取ったDOSを同様にOEM的に撒くことで実質パーソナルコンピューターという存在に人頭税をかけるモデルを作り上げ、(3)その上で他社ビジネスアプリケーション市場を食い尽くす(ひろゆきがマイクロソフトはオフィスで食っていると耳学問したように)。この三段階で現在のマイクロソフト帝国はできた。いわばこれは国家を閉じるように市場を閉鎖し人頭税のように収益を得る「国家の税モデル」だった。
 IT産業全体の構造変化というより、税的モデルが変化すれば現在の「経済のゲーム」が変わる。あるいは新しい税のモデルが勝利者となる。そうした大きな経済のゲームの変動が、個々人をどう食わせるようになるのか。現状まだその変動までは見えてこない。だがその変化から、食っていける「けものみち」が多様に見えてくるときになれば、多くの人が自然にその道を歩みだすだろうし、本書はその過程でさらに深い意味を持つようになるだろう。
 読後個人的にだが二人の思索家を思った。一人はおそらく著者が知っていて書くのを控えただろう森有正だ。ウェブの世界では好きなことへの没頭があるという文脈で彼はこう語る。

 同じ「好き」といっても、ただただ受動的にネットと付き合い、だらだらと受身で何かをし続けるだけでは、そういう変化は人生に訪れない。石黒やウェールズやクレイグの生活を見ればわかるように、主役たちはおそろしく勤勉である。しかもそれが誰かに「強いられた勤勉」ではなく「内からの促しに従う勤勉」だから強いのだ。

 「内からの促し」は森有正の思想を受けているだろう。たとえば「思索と経験をめぐって」(参照)でこう語られている。

 私どもはかならず内側の促しを持っている。それに応じて私どもには経験というものが提示されてくる。それに名前をつけるために言葉というものが出て来る。さらにその言葉自体が一つの体系を成してくるとそこには思想というものが生まれてくる。思想になった時に始めて、私どもが内側に促しとして持っていたものが、だれもが参与することができる思想というものになる。これが私は人間の一生というもので、彫刻家であろうと芸術家であろうと、あるいは商人であろうと、なんであろうと究極の人生で生きる意味はそれしかない。

 この先に森はある恐ろしいことを語る。

 そういう一種の内的促しによって、私どもは右にも左にも動く。その一番大事なことは、日本という国は昔から内的促しを殺しに殺し続けてきたのです。

 著者の心のなかにこの森の言葉が響きつづけていたと私は確信しているし、人生の収穫を得る時期になって、彼はその内的な証言を具体的に語ってみたかったのだろう。
 もう一人の思想家はマイケル・ポランニである。著者が直感として語る部分は、ポランニのいう「個人的知識(Personal Knowledge)」に隣接している。以下本書の引用の文脈は「群衆の叡智」についての批判である。

 「群衆の叡智」とは、ネット上の混乱が整理されて「整然とした形」で皆の前に顕れるものではなく(いずれウェブのシステムが進化すれば、そいうことも部分的に実現されるだろうが)、「もうひとつの地球」に飛び込んで考え続けた「個」の脳の中に顕れるものなのだ、私はあるとき強くそう直感した。「新しい脳の使い方」の萌芽を実感した瞬間でもあった。ネット空間と「個の脳」が連結したとき、「個」の脳の中に「群衆の叡智」をいかに立ち顕れさせるか。この部分は確実に人間の創造性として最後まで残ってくるところのように思えた。

 別の箇所ではウェブなどのIT技術に一人の人が人生を賭けるとき、道が開けるという話があるが、それこそポランニの言う「個人的知識」を特徴つける関与(commitment)の強い形態だ。
 ポランニは、知識や科学的知見と呼ばれるものが個々人の人格から独立・可換なものとして提示されることに疑問を持ち、知識というものは、人がその内的な直感と経験から「これが正しいに違いない」という関与の賭けが実現してたものと考えた。別の言い方をすれば、科学とはその創造的な生成において個人的かつ人格的な契機を持つ、と。
 著者の直感がすべてポランニ思想に内包されるわけではない。むしろ「群衆の叡智」が「個」に現れるというとき、ポランニのいう暗黙知(tacit knowing)のより明確な経緯が見えつつある。ポランニは探求者の社会(society of explorers)として個とそれを支援する形というか公正な社会制度に理想を見た。しかし、人類を推し進める力は、それを政治制度的な迂回を取らず、グーグル的な技術の手法によって(つまりゲシュテル的な力)、「群衆の叡智」に個が暗黙的に浸される社会を生み出すことになった。あるいは、ネットという空間がそれを可能にした。
 森有正とポランニとグーグル、飛躍の多い三題噺のような話になったが、本書「ウェブ時代をゆく」は、現在の30代以降の若いビジネスマンが、内的な促しによって生きること、食うこと、そしてそのためにネットの叡智のなかに浸り、自分を賭けてみること、そうしたことに直面したときに、その先駆者から強い援助のメッセージになっている。

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2007.11.07

小沢一郎民主党代表辞意撤回の感慨

 一昨日そういえば小沢の辞意撤回ってあるの?と訊かれた。ないよと即答した。「断言できる?」「いや、断言は、できない」。
 なにかは起きると確信していた。今回の件はどうも見えない部分がある。自分の書いたエントリも思い出した(参照参照


小沢ワッチャーの一人として私が思うのは、彼の命を支えているのは政権交代だけだろうから、そのために彼は最後まで忍耐するだろう、というあたり。


 私は今回の件では当初、小沢さんご苦労様でした感があり、小沢もがんばってもここまでかと思っていた。だが、たぶんまた小沢を中心として激震が続くのではないかと思うようになった。それを期待すべきかどうかはわからないにせよ。

 そして昨晩、辞意撤回の報を聞いた。驚いたといえば驚いたが、今の小沢は政策に関しては党議を優先し単独行動はしない(だがやや今回はグレーな部分はある)。今回の「大連立フカシ」にしても、そういう話があるなら党に持ち帰って検討します、というだけのことだ。辞意についても党に預けたのだし、その回答がこうなったのも、党の総意というだけのことだ、とも言える。昔の小沢ならこれを恥に思っただろうし、今の小沢も恥に思っていると言明した。そしてそれはまさに政治家としては恥としか言えないものだ。だが、そこまで党のために私心を捨てたのだと私は思うし、飛躍した言い方だが、渡部恒三さん、ありがとうと思った。
 マスメディアやネットを覗き見るに、小沢への風当たりは右派左派強い。そんな空気のなかでブログにべたな小沢支持を書くのも我ながら阿呆な気がするが、もう少し書いてみよう。今回の問題の本質は小沢ではないと私は思うからだ。
 辞意撤回に関して、特に今回の密談に至る経緯については、本人の言葉をやはり聞くべきだろう。産経新聞”「2カ月ほど前、さる人から呼び出し受けた」小沢氏会見の詳報(1)”(参照)より。

それから、事実関係について申し上げます。今まで私は、内々、政治家同士でも何でも、内々で話したことについてはいっさい外部に漏らしたことはありません。しかし、こと、こういうことでありますので申し上げますと、2カ月、正確な期日、調べればわかりますが、2カ月前後前だったと思います。さる人から呼び出しをいただき、食事を共にしながらお話をうかがいました。その内容は、もちろん、お国のため大連立を、というたぐいの話でありました

 「さる人」はナベツネだろうかわからない。いずれにせよ、その「さる人」は総理を動かしているフィクサーだ。

私も、大連立に対しての会話を別にして、私が申し上げたのは、われわれ民主党は、参院選でみんなで力を合わせて、大きな、国民のみなさんから議席をいただいたと。衆議院もみんなと力を合わせてがんばろう。勝てると。こういう雰囲気のなかで前途がありますと、いうことが1点。それから、そういうたぐいの話(大連立)は、現実に政権を担っている人が判断することであって、私どものほうからとやかく言う話ではありませんと。その2点、申し上げました。それから、しばらくしましてから、先月、半ば以降だったと思いますが、また連絡がありまして、福田総理もぜひそうしたいと、いう考えだと。ついては福田総理の代理の人と会ってくれと。いう話がありました

 「総理の代理の人」というのが出てくる。どんな人なのか。続く言葉では「むげにお断りできる相手の方ではない」というくらいど偉い人らしい。戦後軍服で国会に登場した中曽根康弘海軍主計元少佐さんだろうかわからない。追記 その後の報道で森元首相らしいとのこと。

そこで、私もとにかく、むげにお断りできる相手の方でもありませんでしたので。最初に私を呼んでくれた人ですよ。じゃ、参りますといって指定された場所に行きました。そして私は、ほんとに総理はそんなことを考えておるのかと質問をしました。総理も、ぜひ連立をしたいということだと。だから、あなたも本気ですかと。総理の代理という方に。あんたも本気なのかと、いう質問をしましたら、おれも本気だと、いう話がありました。いずれにしろ、総理がそういうお考えであるならば、どちらにしろ総理のほうから、直接お話を伺わなければ、というのが筋ではないでしょうかと返しました。そして、あの党首会談の申し入れとなったというのが、事実でございまして、それが誰であるとか、どこであったかとか、私の口からここで申し上げませんけれども、それが事実であり、経過であります

 いずれにせよ「さる人」と「総理の代理の人」の二段構えで総理との党首会談を受諾したということだ。
 これが小沢個人の独断判断であれば、党を無視したスタンドプレーとして小沢は責められるべきだろうと私は思う。だが、私は、この受諾には党幹部も合意しているのではないかと推測する。むしろ小沢はそうした党幹部の泥を被って事実上の政治生命の終わりとしたかったのではないかとも思う。
 この密談の経緯のなかに、今回の騒動の本質が潜んでいる。
 安倍元総理が命をかけて小沢との密談を望んでもなんの変化もないのに、福田総理に切り替わるともそっと人間モドキ(マグマ大使)のようにわいてくる「さる人」と「総理の代理の人」とはなんなのか? フィクサーと言う以外ない。こんなものが国策の根幹にぬっと現れるのが日本国なのだ。そこがこの騒動の本質だ。
 小沢自身もそうしたぬっと出てくる人間モドキのような政治に根を持っている。それをいうなら民主党も同じだ。だから、「さる人」と「総理の代理の人」を断れない。
 だから、そんな党は否定しろと小沢をバッシングする勢力がある。また小沢をからめとることに失敗した勢力も小沢を潰しにかかる。右派左派といったところだろうか。
 小沢も安倍ボクちゃんのように、右派左派の罵声のなかで、ぺちゃんと潰れるものだろうか。
 そうして潰れるものは「美しい国」みたいな金メッキだろうか。
 当の小沢は何と言っているか。今回も小沢は判を押したように同じことを言う(参照)。密談の経緯の文脈で。

まずはテロ対策特別措置法の話から入りましたので、その中で、安全保障政策、平和貢献のことについて首相が今までの政府の考えを180度転換する、憲法解釈を180度転換するということをその場で確約を致しました。もちろん、首相にとっては連立が前提ということだと思います

 私は小沢の捨て身で得たこの言質を評価している。大連立はなくても、自民党政権では「安全保障政策、平和貢献のことについて首相が今までの政府の考えを180度転換する、憲法解釈を180度転換する」と言ってのけた。
 極論すれば小沢なんか消えてもいい。その政治理念だけを継いでいけばいい。そこで忘れてはいけないのは、この言質をどう日本国家の中に樹立するか、その道はどうあるべきか、ということだ。

追記
 8日付朝日新聞”渡辺読売会長と森元首相が仲介 小沢氏に「大連立を」”(参照)によれば、「総理の代理の人」は福田所帯の首領森元首相とのこと。福田の立役者なのだから、森元首相と考えるのは妥当のように思える。ただ、私はそのウラで中曽根が動いていたように思う。


 しかし、小沢氏は首相との会談に傾く。しばらくして渡辺氏が「首相の代理と会ってほしい」と提案。小沢氏も「今の段階では首相とは会えない。首相が信頼し、自分も親しく話せる人が良い」と乗った。首相の代理は、渡辺氏と連立構想を語り合ってきた森元首相だった。
 10月下旬、都内で小沢氏と森氏は顔を合わせた。

 追記に併せて、昨日鳩山が出席するテレビ報道番組をなにげなく見ていたら、彼も某氏より大連立を打診されたと話していた。小沢を庇いたい心情かもしれないが鳩山もよく言ったなと思った。

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2007.11.05

小沢民主党辞任問題で些細な床屋談義でもしてみるか

 小沢民主党辞任がらみのウラについて少し素人の推測をしてみよう。あくまで一線踏み出した推測に過ぎないのでご関心のあるかたは適当に、つまり床屋談義程度に受け止めてほしい。
 今回のどたばた騒ぎには、福田と小沢に加えて、読売新聞という大きなプレーヤーが介在した。もちろんその背景の勢力も存在する。昨日の小沢の辞任発言では、朝日と日経以外という限定で日本のジャーナリズムに向けた怒りが含まれていた。なぜ朝日と日経なのか。怒りの対象として読売を名指ししなかった点も興味深い。詳しく見ていくと日経なども読売のフカシをフォローしており、報道に慎重だったのは朝日とNHKであったようにも見える。もちろん小沢の勘違いはあるかもしれないし、それほど考慮した名指しではなかったかもしれない。だが昨今の新聞再編成で、読売を基軸として朝日と日経が連合していく流れで見ると、そこに朝日と日経が追従していく姿勢に釘を刺したかったのかもしれない。
 読売のフカシだが、二段階構えになっていた。第一段は大連立を求めたのは小沢だという話。密談内の流れとしてそういう展開がなかったとは断言できないが、「極東ブログ: 自民党・民主党の大連立? はあ?」(参照)で見たように、従来から自民党側にその流れがあったことから考えれば、これはその勢力と読売の合作による誘導だろう。第二弾は今朝の読売新聞に上がっていた小沢副総理密約と民主党の閣僚送り込みがある。が、これは第一弾の変奏に過ぎない。
 当然、今回マスメディアをワッチしてきた人々の疑念は読売の報道姿勢に向かう。そこで、今朝の一面で赤座弘一政治部長署名で”小沢氏は真実を語れ”(参照)で反論が掲載されたが、一読すればわかるが、まるで反論にもなっていない。


 民主党の小沢代表は4日の記者会見で、辞任表明に続けて報道機関への批判を展開した。「私の方から党首会談を呼びかけたとか、私が自民、民主両党の連立を持ちかけた」などの報道は「全くの事実無根だ」というのだ。
 党首会談は小沢氏の方から持ちかけたもので、「大連立」構想も小沢氏の提案だった、といった点は読売新聞も報道した。小沢氏の批判がこれを指すのであれば、「事実無根」などと批判されるいわれは全くない。
 いずれも首相周辺をはじめ多くの関係者が証言しており、確実な裏付けを取ったうえでの報道だ。

 確実な裏付けとは自民党の一派であろう。確実であるためには、当人や他方の勢力からの検証も必要になる。一方が不利になる謀略に加担するのを避けるのはジャーナリズムの基本だ。その後ろめたさからこう続く。

 小沢氏は「どの報道機関からも取材を受けたことはない」とも反論している。しかし、「大連立」について、小沢氏は「考えていない」と記者団に答えていた。党首会談後も、そのやり取りをほとんど明らかにしようとしなかった。

 反論以前に話が噛み合っていない。
 だが、このフカシ話が仮に本当だったと仮定してみよう。するとどうなるか。福田総理がリークしたということになる。つまり、読売は、福田が小沢との密談をリークしていたと報道しているに等しい。であれば、それは福田の策略だったのか? つまり小沢を陥れる罠であったと。
 私はそこで吹き出す。その可能性はないと言っていいだろう。福田は安倍元総理と同じように、新テロ特措法案の問題が課題であり、小沢を陥れることがメリットをもたらすわけはない。福田には安倍元総理と同じように真摯な心情があったと思われる。
 小沢の辞任騒ぎから一夜明け、関心はもっぱら民主党と小沢に向かっているように見えるのも不思議だ。というのは密談には、読売のフカシより強力な福田側の爆弾発言が仕組まれているのに、あたかも看過されているからだ。少なくとも自民党はなぜこれを問題視しないのか。福田による爆弾発言は小沢の昨日の辞任の言葉に含まれている。

 そのポイントは、1、国際平和協力に関する自衛隊の海外派遣は、国連安保理、もしくは国連総会の決議によって設立、あるいは認められた国連の活動に参加することに限る。したがって特定の国の軍事作戦については、わが国は支援活動をしない。2、新テロ特措法案は、できれば通してほしいが、両党が連立し、新しい協力態勢を確立することを最優先と考えているので、連立が成立するならば、あえてこの法案の成立にこだわることはしない。福田総理は、その2点を確約された。

 福田は、ここで自衛隊の海外派遣は国連のグリップに限定し、新テロ特措法案を持ち出さない、と言っている。私には、これが自民党にとって爆弾発言でないことが不思議に思える。小沢が民主党で不信任の扱いを受ける以上に、福田が自民党で不信任扱いされない理由がわからない。自民党というのは、こういう政策をのむ政党だったのか?
 もちろん密談が破談した現在、福田はこの考えを撤回している。今日付のロイター”小沢代表の辞意表明に驚き、今後の民主との協議は白紙=首相”(参照)より。

 小沢代表は4日の会見で、党首会談において福田首相が、国際平和協力に関する自衛隊の海外派遣は、国連安全保障理事会もしくは国連総会の決議によって設立、認められた国連の活動に限ると安全保障政策の転換を確約したと述べた。
 この点について福田首相は「そういう話もあった」と認めながらも、「国連決議が出れば、何でもかんでもやることになるのか、よく詰めなければならない。国会でも議論しなければならず、時間がかかる」とした。
 さらに、党首会談において、連立政権が実現するならば新テロ特措法(給油新法)の成立にはこだわらないと首相が発言したとされる点については「(給油新法を)何とか可決してほしい。インド洋における給油活動は国際協力の一環として是非やりたい」と給油新法の成立に全力をあげる姿勢を示した。

 すでに態度を豹変させているもものの、福田は、自衛隊の海外派遣は国連グリップにすることと新テロ特措法案無効を模索していたことは否定しなかった。
 そもそも福田は、2001年のテロ特措法成立時点で、現行法の「周辺事態」の拡張解釈で派遣を急ぐ防衛庁に対して、外務省の立場から新法案成立によって握りつぶした当の本人である。単純に言えば、テロ特措法を作ったのが福田であり、その心情は「周辺事態」を無定型に拡張していく日本の国防の在り方に懸念を強く抱いていたからだ。では福田は自身が作ったに等しいテロ特措法でよしとしていたかだが、そうではないだろう。その限定的な構造や、対防衛庁としてあの時点ではやむなしとしていただけではないか。
 福田が懸念したのは「周辺事態」の拡大解釈だった。というところで、なぜ誰も疑問に思わないのだろうか。いや誰もが思ってもそれほど強い意見となって出てこないということなのだろうか。端的に言えば、福田のこの心情の背景にあるのは中国への配慮だ。そして、親中政治家という点で、福田と小沢は共通するし、まさに今回の対談の隠れたテーマは親中的な背景における対中国の国家戦略ではなかったか。もちろん、この問題は現存する日米軍事同盟との関係を持つ。
 ここで読売のフカシなど爽快に忘れて密談のコアを思い出してもらいたい。「自衛隊の海外派遣は国連のグリップに限定し、新テロ特措法案を持ち出さない」という国策で誰が一番喜ぶか? どの国がそれを一番望むか? 中国であることは明白だ。
 福田と小沢は対中戦略では共通の認識を持つ同士だとすら言える。とすれば、別の密約が潜んでいたのではないだろうかと疑問が沸く。
 このあたりの臭いは、今朝の産経新聞社説”大連立論 まず国益ありきが前提 民主党は成熟政党に脱皮を”(参照)でも感じ取っているようだ。

 詳細は発表されていないが、党首会談では自衛隊の海外派遣のあり方を普遍的に定める恒久法に関し、首相と小沢氏との間で大きな歩み寄りが生じた可能性がある。
 それ自体はきわめて有意義だが、十分な説明がなされないまま、ストレートに大連立論につなげようとすることにも無理があろう。

 産経の暢気な口調からすれば産経一流の国益的な流れで読んでいるように思われる。私はこれは対中戦略の枠組みではないかと思う。
 ここで今回の小沢辞任について中国はどう見ているのかが気になる。昨日の共同は”「新たなパイプ」期待外れ 中国、政局行方に関心”(参照)として報道している。非常に重要だと思われるのであえて全文引用したい。

 民主党の小沢一郎代表が4日、辞任を表明したことについて、中国は小沢氏に対し、日中関係での新たなパイプとしての期待感もあっただけに、国営通信、新華社が同日、至急電で速報するなど高い関心を示した。今後は日本政局の行方を注視していく方針だ。
 小沢氏は、先月の中国共産党大会で政治局常務委員となり、胡錦濤指導部入りを果たした李克強氏と極めて親交が深い。李氏は小沢氏の岩手県奥州市の自宅にホームステイしたこともあるほどだ。
 先の党大会では、日本政界との太いパイプを誇った曽慶紅国家副主席が常務委員から引退。中国側には、胡国家主席に続く第5世代指導者の有力候補の1人である李氏と小沢氏との関係を、日中関係改善のために活用したい思惑もあった。

 誰がこのように「期待はずれ」というストーリーを流したのか不思議にも思えるが、いずれにせよ、李克強と小沢には太いパイプがある。この意味するところは、”極東ブログ: 中国共産党大会人事の不安”(参照)が参考になるだろう。簡単に言えば、北京の胡錦濤はその権力の後継として李克強を選んでいたが、今回の共産党大会で上海閥の習近平に負け形になった。すると、小沢の失脚で李克強はさらにしょっぱい目に合うということだろうか。
 外務省のチャイナスクールと福田のつながりは深いが、これは中国の権力構造とどう関わっているのだろうか。また、実質北京の東京代理人的にも思えるほど心情シンパ的報道をする朝日新聞の関係はどうだろうか。現状では、朝日側からはどちらかと言えば小沢を支持するがゆえの失望で福田にも期待をつないでいるといった曖昧な印象がある。そのあたりが北京側の心情なのだろうか。
 私の中国人観にすぎないが、中国人はこの程度の失脚で一度信頼した人の信頼を失うことはない。胡錦濤と李克強は小沢の復権をある意味で確信しているし、そのサポートも行うだろう。
 私は今回の件では当初、小沢さんご苦労様でした感があり、小沢もがんばってもここまでかと思っていた。だが、たぶんまた小沢を中心として激震が続くのではないかと思うようになった。それを期待すべきかどうかはわからないにせよ。

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2007.11.04

小沢民主党代表辞任、と来ましたか

 時計代わりにtwitterに流れる空気を読んでいると昼過ぎ小沢辞任という話が飛び込んだ。驚いた。ニュースを見ると産経が流し、読売が流しという順序のようで、NHK、朝日、毎日、日経は少し出遅れた感じがした。日経では鳩山幹事長が翻意を促しているという話もあったようなのでそのあたりが発表のズレなのだろうか。記者会見もあるとのことだが、さてと考えてテレビで会見を待つより水泳に行くことにした。
 会見は見ていない。現状では小沢氏が代表辞任の意向表明ということで、民主党執行部としては4日には辞任を認めず保留の扱いとし党内の意見を聞くらしい。しかし、そこでひっくり変えるものでもないだろう。
 なぜ小沢が辞任なのか。毎度ながら本人の言をべたに書き起こした資料がいいのだが見当たらない。朝日新聞記事”小沢代表会見の主な発言1 「不信任受けたに等しい」”(参照)をあえて全文引用する。


 民主党・小沢代表の辞意表明会見での主な発言は以下の通り。
 民主党代表としてけじめをつけるに当たって私の考えを述べたい。総理から要請のあった連立政権を巡り、混乱があったことに対してけじめをつけ、民主党の代表を辞するため、辞職願を提出し、党に私の進退を預けた。
 福田総理は、安全保障に関する重大な政策転換を決断された。自衛隊の海外派遣は国連安保理、総会の決議で認められた活動に参加することに限る。特定の国の軍事作戦は支援しない。新テロ特措法案にはできれば賛成してほしいが、連立が成立するなら法案成立にこだわらないと言われた。これまでの我が国の無原則な安全保障政策を根本から転換することから、私個人は、それだけでも政策協議をするに値すると判断した。
 民主党は、年金改革、子育て支援、農業再生などの法案を参院に提出しているが、衆院では自民が依然、圧倒的多数を占めている。これらの法案をすぐ成立させることはできない。ここで政策協議をすれば、国民との約束を果たすことが可能になる。
 民主党は、次の衆院選を考えた時、様々な面で力量が不足している。自民党もだめだが、民主党も政権担当能力があるのか、国民から疑問を提起されており、次の選挙も情勢はたいへん厳しい。国民のみなさんの疑念を一掃させるためにも、政策協議をし、生活第一の政策が採り入れられるなら、民主党政権を実現させる近道であると判断した。
 以上のような理由から、党の役員会で福田総理の考えを説明し、政策協議を始めるべきではないかと提案したが、残念ながら認められなかった。それは、私が民主党代表として選んだ役員から不信任を受けたに等しい。民主党代表として、また、福田総理に対しても、けじめをつける必要があると判断した。

 辞任理由については、自民党福田代表と連立政権を目指す政策協議を行い、党に持ち帰ったが認められなかったので、これは不信任を受けたことと同じことだから、辞任する、ということだ。
 論理的かというと、これは変だろう。党が認めないならそれは認めないというだけでのことだ。代表がごり押しできるもののでもない。ということで常識的に見て、不信任はスタンドプレー的に密談を行ったことにあると考えたほうが自然だろう。
 今回のどたばたで大連立が話題になるし、結局小沢の辞任も直接的にはその線になる。このままでは国会運営がスムーズには進まないからという構造面が前面に出た。
 しかし、安倍政権沈没からの文脈で見るなら、問題はインド洋沖給油特措法案の延長であり、そのために、安倍元総理は政治生命のすべてを賭けて失った。この経緯については、小沢との線で「極東ブログ: 安倍首相辞任で思い出すこと」(参照)にも書いた。安倍は小沢との密談にすべてを託していた。そして同じことが福田総理でも継続した。
 だがこの間、日本の政治は軍事同盟的には空転し特措法は終了した。問題は、新テロ特措法案の成立に移行したのだが、この成立も困難は予想される。福田が切り出したのは、「新テロ特措法案にはできれば賛成してほしいが、連立が成立するなら法案成立にこだわらない」という点だ。大連立の提示は小沢が先だったかという噂を読売系のソースだけが執拗に流しているが、たとえそうであっても、ナベツネがフカしてた大連立が先にあるのではなく、新テロ特措法案を包括する形としての大連立なので、起点はあくまで新テロ特措法案にある。
 単純な疑問が浮かぶ。インド洋沖で自衛隊が給油活動することが、日本国家の命運を決めるほど重要なことなのだろうか? 
 さらに単純に問うてもいいかもしれない、日本は米国と軍事同盟を維持していかないと、国政が進まないのだろうか?
 私は問題の根幹はそこにあるのであって、大連立や政局のどたばたは二次的なものだろうと思う。
 小沢信奉者の一人として私が思ったことも加えておきたい。今回の事態に驚いたかといえば驚いた。これで民主党はぼろぼろになるだろうとも思う。ただ、その点についていえば、私は小沢という政治家を長年フォローしているのであって、彼がもし民主党を抜ければそれはそれだけのことだなとは思う。ただ、抜けないだろうとも思う。
 一番の疑問点は、「小沢さん、それはどう政権交代の道につながるのですか?」ということだ。福田総理との密談は、日米同盟を背景にした大きなものがあるのだろうと思う。だが、大連立構想は、どう政権交代につながるのだろうか。小沢の答えは「政策協議をし、生活第一の政策が採り入れられるなら、民主党政権を実現させる近道であると判断した」とのことだ。私はそれで納得するかと言えば、納得しない。私もまた今の小沢の政治姿勢がわからない。
 ただ、民主党がこの路線で進めるとは思わない。昨日のエントリ「極東ブログ: 自民党・民主党の大連立? はあ?」(参照)で、「早晩の衆議院解散から総選挙への流れはあるだろうか。率直にいうと私はないと思う。今の情勢では民主党が負けるだろうと書いた。この認識は、小沢の言う「民主党は、次の衆院選を考えた時、様々な面で力量が不足している。自民党もだめだが、民主党も政権担当能力があるのか、国民から疑問を提起されており、次の選挙も情勢はたいへん厳しい」ということと同じだった。そこまでは私は小沢が理解できる。
 その先はわからない。

追記
 「中傷報道に厳重に抗議する」というコメントがあったことを補足。
 ”小沢氏辞任会見詳報(2)「中傷報道に厳重に抗議する」」政治も”(参照)。


 中傷報道に厳重に抗議する意味において、私の考えを申し上げる。福田総理との党首会談に関する新聞、テレビの報道は、明らかに報道機関としての報道、論評、批判の域を大きく逸脱しており、私は強い憤りをもって厳重に抗議したい。特に11月3、4両日の報道は、まったく事実に反するものが目立つ。私のほうから党首会談を呼びかけたとか、私が自民、民主両党の連立を持ちかけたとか、果ては今回の連立構想について、小沢首謀説なるものまでが社会の公器を自称する新聞、テレビで公然と報道されている。いずれもまったくの事実無根だ。
 もちろん党首会談および会談に至るまでの経緯と内容について、私自身も、そして私の秘書等も、どの報道機関からも取材を受けたことはないし、取材の申し入れもまったくない。それにもかかわらず、事実無根の報道が氾濫(はんらん)していることは、朝日新聞、日経新聞等をのぞき、ほとんどの報道機関が政府・自民党の情報を垂れ流し、自らその世論操作の一翼を担っているとしか考えられない。それにより、私を政治的に抹殺し、民主党のイメージを決定的にダウンさせることを意図した明白な誹謗(ひぼう)・中傷報道であり、強い憤りを感ずるものだ。
 このようなマスメディアのあり方は明らかに報道機関の役割を逸脱しており、民主主義の危機であると思う。報道機関が政府・与党の宣伝機関と化したときの恐ろしさは、亡国の戦争へと突き進んだ昭和前半の歴史を見れば明らかだ。また自己の権力維持等のために、報道機関に対し、私や民主党に対する誹謗中傷の情報を流し続けている人たちは、良心に恥ずるべきところがないか、自分自身によくよく問うてみていただきたい。各種報道機関が1日も早く冷静で公正な報道に戻られるよう切望する。以上だ。

 私の印象でも今回の件では読売新聞をメインに「政府・自民党の情報を垂れ流し、自らその世論操作の一翼を担ってい」たと思う。

追記
 会見についても産経ソースがより詳しいようだ。”「小沢氏辞任会見詳報(1)「けじめをつけるに当たり」」政治も”(参照)より。


 その国民みなさんの疑念を払拭(ふつしょく)するためにも政策協議を行い、そこでわれわれの生活第一の政策が取り入れられるならば、あえて民主党が政権の一翼を担い、参院選を通じて国民に約束した政策を実行し、同時に政権運営への実績も示すことが、国民の理解を得て民主党政権を実現する近道であると私は判断した。
 また政権への参加は、私の悲願である政権交代可能な二大政党制の定着と矛盾するどころか、民主党政権実現を早めることによって、その定着を実現することができると考えている。

 政権参加が政権交代可能な二大政党制の定着につながるだろうか。私の印象では、つながらない。私なりに小沢の心情を汲めば、政権参加によって政治家を育てたかったのではないか、くらいだ。

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2007.11.03

自民党・民主党の大連立? はあ?

 結論からいうと大連立なんてありえないと思うが、責任政党として民主党は国政の運営に寄与していかないといけないので、昔の社会党みたいな万年野党で安閑とした立場ではいられない。いろいろ政策面で摺り合わせが必要になるし、そういう機会が増えるだろうから、一山でおいくら?みたいなパッケージ化もあってもいいだろう。それが大連立に見えるということもあるかもしれない。
 大連立といえば、ドイツの現メルケル政権がひな型になるが、その前に気になったことをメモしておきたい。
 自民党の当面の問題は対米同盟の問題で、単純に言えば米国から見て自民党に政権運営能力があるのか疑問符が付いた。ただし米国としても日本をそこに追い込んだ負い目のようなものと、また次期は民主党政権で日本パッシング(無視)してもいいかもみたいな流れもある。
 大連立という珍妙な話がどこから出てきたのか。朝日新聞は今朝の社説”「連立」打診 まず総選挙が筋だ”(参照)で「びっくりするような提案が、福田首相の口から飛び出した」と驚いてみせるのだが、流れ的に見るとこの話題は小泉時代からくすぶっていた。例えば、2006年4月12日読売新聞”「小沢氏が大連立仕掛けるかも」 小泉首相が警戒感”より。なお、べた記事については事実のみなのであえて全文引用する。


 小泉首相は11日夜、都内のホテルで参院議院運営委員会の溝手顕正委員長らと会談し、民主党の小沢代表について、「仕掛けるのが上手だ。党内の旧社会党系を追い出し、自民党の本流でない人と組むよう、自民党に手を突っ込んで大連立を仕掛けてくるかもしれない」と述べ、小沢氏の動向に警戒感を示した。

 昨今の大連立話と、昨年の春のこの話題とそう変わらないので、朝日新聞のように驚くには独自の能力というか政局感が必要だろう。しかも今秋からは活発なフカシが進行していた。読売新聞もおつかれ様ですねというように。9月1日読売新聞”「大連立へ向け、努力が大事」/自民・二階総務会長”では、二階の発言としてこう引き出す。

 自民党の二階総務会長は31日、読売新聞社などのインタビューで、自民党と民主党の大連立構想について、「基本は、連立が組めれば、組んでいきたい。そうした方向について、お互いに努力することが大事。焦ってはならない問題でもあるので、情勢を見極めながら、しっかりした方向を見いだしていきたい」と指摘した。

 小泉の盟友山崎も9月27日読売新聞”自民党・山崎氏「大連立ありうる」”でこう。

自民党の山崎拓・前副総裁は26日、千葉市で講演し、自民、民主両党による大連立構想について、「社会保障費は消費税で支える以外に方法はない。次の総選挙で自民党が過半数を維持できたとしても、参院でのマイノリティー(少数)は解消しない。消費税(の税率引き上げ)を一つの結節点として、大連立が行われることもありうる」との見方を示した。

 御大も10月19日読売新聞”衆院選後の大連立 中曽根元首相「政治家は考えよ」”でこう。

 中曽根元首相は18日、都内のホテルで講演し、自民、民主両党による大連立構想について、「こういう(国会の)状態は少なくとも6年は続く。大事な点は大連立をつくることだ。民主党は『大連立は反対だ』と言うが、何が国益かを話し合うことが必要ではないか」と述べ、大連立の実現を促した。連立の時期については「衆院選挙前はないだろうが、選挙が終わった後に政治家は考えなければいけない」と語った。

 自民党側の流れで見ると、大連立構想は自然に見えるので、今日の読売新聞の愉快な記事”民主・小沢氏、早い段階から連立に前向き…自民関係者”(参照)もやや浅薄に思える。

民主党の小沢代表が、首相から連立の打診を受ければ、民主党内を説得する考えを首相に伝えていたことが2日、明らかになった。

 これだけ読むとへぇと思うが、話の出所はこう。

 自民党関係者によると、小沢氏は早い段階から自民党との連立に前向きで、民主党内を説得する考えだったという。

 政治って愉快ですね。
 現実的に見れば小沢民主党代表は福田総理・自民党代表の提案を受けたので、持ち帰って党で検討するというだけのべたな手順だろう。ただ、他にもお土産はありそうだが。
 面白いのはよだれのようにだらだら続いてきた大連立フカシ話の背景だ。これにはいくつか別スジの思惑の統合がある。昨年の小泉の流れはそらく、昔懐かし抵抗勢力と公明党への対応だろう。今回のどたばたにもそのスジはありそうだ。特に公明党あたりがじりじりしてきた。
 中曽根あたりのスジは、安倍政権に期待していた憲法問題ではないだろうか。この懲りを知らないナベツネ的情熱というのもなんだか未来の老人大国日本のパワー炸裂を予感させる。
 実際上の問題は、山崎あたりから聞くのも変だが、消費税アップだろう。ここはひな型のメルケル政権でも重要なポイントだった。そこで少しおさらい。
 2005年9月18日総選挙の結果は、中道保守キリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)は226議席、対する中道左派社会民主党(SPD)は222議席だった。通常ならそこまで僅差にならないので、どちらかが他の少数政党と連立して政権を担う。当然、連立する少数政党がキャスティングヴォートを握る。日本でいうと小泉総選挙前の自民党に対する公明党がこうした位置にあった。
 ドイツではこの際、通常の連立はできないため、同盟と社民の大連立が模索されて実現し、同盟側だったメルケルを首相とした政権になった。大連立に恥じない規模で、連邦議会614議席の448議席(約73%)を獲得。そこまであれば、日本でお馴染みの「大政翼賛会」風になりそうなものだが、というか常識的に考えればわかるが、政権は妥協に妥協を重ねることになる。
 メルケル政権樹立には2か月を要し、連立協定合意が結ばれた。この時点での協定の主軸となるのが、付加価値税3%の値上げだ。このあたりの背景も日本と似ている。消費税アップを狙っている官僚様ご一行などの要請に大連立は与しやすい。
 消費税なんか上げた日には日本終わりでしょとか思いがちだが、ドイツの場合は政府財政が黒字化した。このあたりも、大連立ウマー勢力の希望なのだろう。威勢のいい声はやはり読売新聞から聞こえる。8月16日社説ですでに、いちにさん大連立だぁの声を上げている。

 予算案は衆院が優先するといっても、予算関連法案が成立しなくては、予算が執行できない。国民生活にも重大な影響が及ぶことになる。
 仮に、与党が次の解散・総選挙以降も衆院での多数を維持し続けられるとしても、3年後の参院選でも過半数を回復するのはきわめて難しい。6年後も難しいだろう。
 となれば、国政は長期にわたり混迷が続くことになりかねない。
 こうしたいわば国政の危機的状況を回避するには、参院の主導権を握る野党第1党の民主党にも「政権責任」を分担してもらうしかないのではないか。つまり「大連立」政権である。
 自民党は、党利を超えて、民主党に政権参加を呼びかけてみてはどうか。

 そしてメルケル政権を都合よくこう引き合いにする。

 メルケル政権は、日本の消費税に当たる付加価値税の16%から19%への引き上げを実現し、増収分の3分の2を財政再建に、3分の1を雇用保険料の引き下げに充てた。また、所得税の最高税率を42%から45%へと引き上げたが、これはSPDの主張を受け入れたものである。
 これにより、財政再建に一定のメドがつき、08年から法人税率の引き下げを実施することになっている。
 大連立内部では、時に両党間の議論が過熱することもあるが、全体としては、国政運営は効率的で安定している。

 めでたしめでたしみたいに聞こえるが、国際的にはメルケル政権には警告ランプが点灯しはじめている。ニューズウィーク日本版(10・31)”メルケルが進める「逆構造改革」”より。

 気前のいい失業手当にせよ、家庭への補助金ばらまきや最低賃金の見直しにせよ、「政府が提案するすべての政策にエコノミストはぞっとしている」と、バング・オブ・アメリカ(ロンドン)のチーフエコノミスト、ホルガー・シュミーディングは言う。
 政策の行方によってはドイツ経済は再び暗黒時代に入るかもしれないと、シュミーディングはみる。いずれにせよ、改革経済の短い「ベルリンの春」は終わった。

 この風景が日本でも見られるかといえば、まあ、大連立という形式は別としても、実質は大連立のような妥協の繰り返しで同じようなことになるだろう。日本人の世論が望んでいることなのだ。この実現の先にまた長い暗黒時代が来るかもしれない。
 そうなるだろうか。という以前に小沢はどう考えているのだろうか。わかるといえばわかる。わからないといえばわからない。ただ、考えの道筋はそれほど難しくない。単純な算数だからだ。
 民主党の参議院会派は112人。過半数の122人対して10人足りない。大連立以前に通常の連立的な方策が採られるなら、共産党・社民党を組み込み、そこにキャスティングヴォートを握らせることになる。そうでなければ、国民新党だとかみたいのをまぜて10人できるか。そこがどうにも足りない。共産党・社民党を立てつつも自民党からもう少し勢力を引きたいという戦略は出てくる。実際、自民党側としてもそのあたりの揺さぶりが嫌だというのもあるだろう。
 早晩の衆議院解散から総選挙への流れはあるだろうか。率直にいうと私はないと思う。今の情勢では民主党が負けるだろう。
 では民主党内の小沢おろしはあるだろうか? というかそのあたりが自民党のけっこうまとまった意図なのだろう。小沢を降ろせば民主党は解体するか、解体しないまでもなく社民党や共産党のような愉快な政党に縮小するだろう。
 小沢ワッチャーの一人として私が思うのは、彼の命を支えているのは政権交代だけだろうから、そのために彼は最後まで忍耐するだろう、というあたり。

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