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2007.11.22

[書評]なぜ若者は「半径1m以内」で生活したがるのか?(岸本裕紀子)

 「なぜ若者は「半径1m以内」で生活したがるのか?(岸本裕紀子)」(参照)が出版されたのは9月中旬。それから1か月以上たち、この本がどう読まれているかと思ってぐぐってみると、グーグルのせいかもしれないけどあまり手応えがない印象だ。自分ではけっこう面白かったのでちょっと意外でもある。

cover
なぜ若者は
「半径1m以内」
で生活したがるのか?
 最近の新書の読まれかたというのもよくわからないがブログの世界での反響はあまりなさそうだ。とのっけから中心課題につっこむと、この本のテーマ層はブログみたいな層より若いケータイ文化の層だからなのかもしれない。でも、自分が見る限り、けっこうはてな村の深層と関連がありそうな感じもするし、twitter文化なんかもべたに関連しているでしょとも思う。とか言ってもうまく通じませんね。
 ちょっと話を戻して、本書のタイトルをぐぐると毎度ながら書評ブログというか献本ブログというか小飼弾さんの”404 Blog Not Found:書評 - なぜ若者は「半径1m以内」で生活したがるのか?”(参照)が上位にくる。他に、産経の”【書評】『なぜ若者は「半径1m以内」で生活したがるのか?』岸本裕紀子著 - MSN産経ニュース”(参照)があるにはあるけど帯書き以上のものではない。で、どちらもキーワードである「半径1m以内」をテーマにしているのだが、そのあたり私はけっこう違和感があった。
 たしかに本書の表題としては「半径1m以内」をキーワードにするのは売り手の創意があるかなという印象はあるのだが、読んでみるとわかるが、このキーワードは論旨のピヴォットにはなっていない。はじめに部分に言及されているが、どうも新書タイトルが決まってからか、マーケット用にコンセプトを調整したふうでもある。いずれにせよ、こじんまりと身近な人間関係というのを「半径1m以内」という比喩で表現したというのだが、比喩の適切性は低い。
 というところで、こじんまりと身近な人間関係を結ぶ若い人の生活様式という問題は、ある意味で曖昧に印象的につづられる。だがそれが外しているというわけでもない。著者は私より年上で団塊世代に近いせいか、その世代のスタンスとプラス、若者文化への理解というあたりの自分語りに読めないこともない。
 つまり、テーマが現代社会と若い人の生活様式のある種の特徴を描きつつあるのだが、その「なぜ」の部分が見えてこない。あるいは見えるような方法論は提示されていない。そして、ちょっと踏み込んで言うと、グーグル検索の結果の薄さだけでもないのだが、当の若い世代もまた、団塊世代にもこの問題はあまり響いていないように見える。
 テーマ自体の感触がないわけではない。それどころか若い人への上の世代のある違和感は、世代スタンスを離れてもかなりあると言っていいだろう。このあたりのテーマ性は、なんとなくだが、マスメディアやネットでは「失われた10年」や「ゆとり世代」のような国家と連想された制度の側で答えを見ようとしている形骸化した傾向がありそうだ。が、むしろ本書はそこには距離を置いている。
 なにが本質的な課題なのか。つまり、小さい生活圏内ということではないとしたら。
 こうした疑問との関連で、私が本書で一番強い印象を受けたのは、いわゆる身近に限定された行動様式というより、人間の連帯についての、現代の若者特有の奇妙な疎外意識の表出だった。本書はもっと簡単に「ありがとう現象」として言い当てている。感動のスポーツ番組などに対しての若い人のリアクションについて、こういう現象を描き出している。

 選手のみなさんは僕らに勇気をくれました。
 試合を観て、元気とパワーをいっぱいもらいました。
 感動をありがとう、といいたい!

 ちょっとずっこけた言及をすると村上春樹もそうらしいが、私は球技とかゲームとか人が群れて熱中するものの大半に関心がないというかチーム意識で高揚するものにまるきり関心がないという人なので、そもそもこういう感動している人の横でマンゴーラッシーとか頼んで飲んでいるくらいなものだが、それでもそれって奇妙だなとは思っていた。若い人の素直な情感のありかたというより、うひゃなんだろこれというどんびく感じだ。
 著者はもう少しアグレッシブに直接的な、多分に世代的な印象をこう語っている。

 この言葉自体は素直な賞賛の気持ちから出てくるものだとわかるし、選手たちが大変な練習の末に勝ち取った成果については称えたいと思う。がしかし、である。
 どうしても気になるのは、人から勇気や、元気や、パワーや感動をもらうという発想と、それで満足という姿勢なのである。
 それを受けて、自分も人に勇気や、元気や、感動を与える人間になりたい、なります、というならまだいいのだが、そんな言葉はあまり聞こえない。

 それは程度の問題かもしれないなとも思うが、続く言葉には説得力がある。

 今から十数年前になるが、ある一流サッカー選手の引退試合のあとのことだ。マイクを向けられたサポーターの男性が、彼は30代半ばで2~3歳のくらいの子供と一緒に来ていたのだが、「選手たちがくれたこの感動を子供にもずっと伝えていきたい」と涙ながらに語っているのを観て、「感動は自分が何かをやることで、子供に見せていくものじゃないの」とちょっとしらけた気持ちになった。

 このしらけ感は私などもわかる。世代の感覚かもしれない、留保は必要だが。

 もちろん、彼らにしても、深い意味まで考えていっているわけではなく、よく聞くフレーズだし、流行っぽい表現だから口からふと出てしまうだけかもしれないが。が、それにしても、勇気とか、感動とか、日常生活ではめったに経験することがないような感情の表現を、あまりに安易に使いすぎているとは思う。

 私はもうちょっと思うことがある。こういう若い人たちは、そういう感動を仲間と頷きあって感動の輪を限定してそこでまったり安全を感じたいのではないか。つまり、それは何かしら外側への無感動な寒い世界に怯えた防衛の反応なのではないか。
 というかそういうものがネットでも機能しはじめているように思う。もうちょっというと、この感動は根の部分に恐怖感やネガティブな情感があり、感動による領域設定と排除の機能を持っている。だから、この感動の疑似集団は感動をコアにしていながら、その外部にむしろ悪意を放出するのではないだろうか。
 筆者はこの感動を「ありがとう現象」に失恋の歌の動向を重ねて見ている。

 勇気で思い出したが、最近流行している歌では、失恋の歌が少ない。失恋ではなく、単なる別れになっている。
 だからかつての歌のように、「付き合って大好きだった相手に捨てられた。悲しい、寂しいし、まだ未練がある。逢いたくてたまらない」などとは間違っても歌わない。自分か相手かどちらが振ったのだかわからないが、別れた相手に対し、「君は勇気をくれたね、大切なことを教えてくれたね」などと歌っている。

 中村中の歌など聴くとそうでもないと思うが、ほいで、吉本隆明も若い人の恋愛が自分をさらけださないなみたいに言っていたが、著者も「彼らの恋愛は、自分をさらけ出さない醒めたものである」と言っている。私はといえば、別に恋愛に自分をさらけ出す必要もないのではないかなと思うあたりで、ネットで爺だの罵倒されるわりに、むしろ若い方の感性にずれている。別に自分の心が若いんだとか言いたいわけではないよ。
 結局、これはなんだろう?と思うのだが、小さな世界で自足する新しい生き方として見るより、現実のべたなリアルと、リアルとされた仮想の世界の軋轢というかその回避の社会構造がある程度到達した結果なのではないか。その意味で、若い人の行動パターンというより制度的なもので、どうにもならない。しいて言えば、たぶんこの感動をありがとう集団は外部には悪意しか放出しないのではないかと思うので、「その感動うざいんですけど」シールドで各様な人を守れるような制度みたいなものも必要かなと思う。

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コメント

そう言わないと罵倒されるかも、という脅迫概念からきてると思うんですけどね。
受け手がいないと物事が成り立たないことを前提とする傾向。
タマゴがないとニワトリの存在意義ないみたいな。

投稿: 無粋な人 | 2007.11.22 11:49

自衛能力が低いのと、
経験上、守ってくれる人がいなかったことによる不信感だろうね。

自衛能力は様々な方法で身につけることも、
自然に悪癖として身についてしまうものの両者がある。
後者の代表は、平気で嘘をつけるようになること。
「自分は悪くないから気にしない。」とか。

守られる経験は、他力なので、どうしようもない。
本来なら親から受ける。次は仲間から受ける。
ところが、現代の子供は、子供のうちから競争社会。
親も仲間も敵。

なので、守ってあげるといいのに。
ところが、何かあると、突き放すわけで、とくにネット社会。
自衛能力が低いのだから、しょうがねーな。

投稿: 宮元 | 2007.11.22 18:20

踊る阿呆に見る阿呆つーことで。
まあ、踊ってるとつまづいて怪我したり、
次の日に筋肉痛になったりするので、
見る阿呆もいいですよと。

まじめに考えると、たぶん携帯やネットが発達することによって、
今まで仲間を探そうにも探せなかった人達が簡単に同士を発見できるようになり、
居心地の良い集団内で人間関係的自給自足ができるようになったのも一因だろう。
ただ果たしてそう言う人間関係が、従来の人間関係に比べて
狭いのかどうなのかは疑問の余地がある。

投稿: うps@見る馬鹿 | 2007.11.22 19:47

電車の中で無礼者や無法者に毅然と注意する人を見ると勇気と感動と元気とパワーをもらえることがある。

投稿: ina | 2007.11.23 22:31

アニミズムってヤツですよね? コレ。

けっこう伝統的なパターンのような。
著者の「父性の袋小路」みたいな書き方が不当、とまでは言いませんが……「ヤレバ出来る」感を滲ませるのはどうなんでしょう?

そこまでは言ってない?
けど、何か圧力を感じるんですよねぇ。
私は幻滅感への対応として、「ありがとう現象」は無しとまではいえないと思うんですけど。

投稿: 夢応の鯉魚 | 2007.11.24 17:58

孤独と言うのは自分が当たり前に知ってることを誰も知らないことに気づいてしまった瞬間から始まる事なんだけども、その知ってる事について私はいつもよく分からなくなる。行動範囲を極限まで、狭めれば、孤独になり、世界と繋がる。
そして全てが敵になる。ただこの時分からなくなる。これは一体何なのか。私は普段は他人と「あ、それ分かる」とか「いやーそれは違うでしょ」とか言ってる極平凡な人なんだけども、ふとした瞬間、がらっと世界が変わるときがある。
あれは何なんだろうか?気の合う人や合わない人がいるいつもの世界から、誰とも共有できない世界へとシフトするとき、一体何が起こってるのか?あーあ、困った。

投稿: itf | 2007.11.27 06:29

村上春樹の話とか、本論と全然関係ない事が多すぎて読むのがめんどう。どうしても書きたいならいいけど。
それより本論の「孤独」の話とか「制度」って何のことを言ってるのかを詳しく書いて欲しいなぁ。
ちゃんと書かないから、コメントも独りよがりの気持ち悪いコメントばっかりついてるし。

投稿: いつもはROM | 2007.12.02 07:46

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