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2007.10.26

[書評]走ることについて語るときに僕の語ること(村上春樹)

 村上春樹の書き下ろしエッセイ「走ることについて語るときに僕の語ること」(参照)は買ったその晩に読みふけって読み終えた。読みやすい本だったからとはとりあえず言えるのだが、奇妙な、苦いような後味が残った。たぶん、エッセイとは違う何かがあるのだろう。後書きで彼は「メモワール」だと言っている。


 僕はこの本を「メモワール」のようなものだと考えている。個人史というほど大層なものでもないが、エッセイというタイトルでくくるには無理がある。前書きにも書いたことを繰り返すようなかたちになるが、僕としては「走る」という行為を媒介にして、自分がこの四半世紀ばかり小説家として、また一人の「どこにでもいる人間」として、どのようにして生きてきたか、自分なりに整理してみたかった。

cover
走ることについて語るときに
僕の語ること
 村上は「メモワール」というフランス語の語感に思い入れがあるようでいて「エッセイ」のフランス語の語感を知らないのも奇妙にも思われるのは、むしろ英語での語感を大切にしているからかもしれない。と、どうでも皮肉のようなことを書く必要もないのだが、本書の凝ったタイトルが示唆するように、走ることを語りつつ、小説家としての内面を語るという趣向になっている。そして、そのように読める。読めないことはない。
 だが後味の苦みのような部分は、私が一人の「どこにでもいる人間」として半世紀ばかり彼の愛読者だった何かに関わっているのだろう。彼はサリンジャーのように20代の終わりから30代に向かうころ小説家となりやがて50代を終えようとしている。

 僕は今、五十代の後半にいる。二十一世紀などというものが実際にやってきて、自分が冗談抜きで五十代を迎えることになるなんて、若いときにはまず考えられなかった。もちろん理論的にはいつか二十一世紀は来るし(なにごともなければ)そのとき僕が五十代を迎えているというのは自明の理なのだが、若いときの僕にとって五十代の自分の姿を思い浮かべるのは、「死後の世界を具体的に想像してみろ」と言われたくらいのと同じくらい困難なことだった。

 かつて40歳までにきちんとした小説を書きたいと言っていた彼は60歳に近づき、そしてそうなるころにノーベル文学賞も得ることになるのだろう。長い年月だったか。そう、長かったかもしれないし、近年空白があったとはいえ、新作を待ちわびる読者として裏切らずに過ごした短い日々だったようにも思う。だが、やはりそこは直線的なものではなかった。
 彼は「走る」ことについて語ると言っている。そしてそのように書かれている。だが、私は、「走れない」過程を走りつつある彼という存在を読む。もちろん、世界超一流の作家としてしかも作品の力にほとんど衰えすら感じさせない彼だが、走るこのなかにもはや肉体の自然として衰退が浸蝕している。どれだけ頑張っても、もう向上はしない。もちろん、70歳過ぎても走る人はいるし、彼もそうなるのだろう。「少なくとも最後まで歩かなかった」となるのではないかと思う。

 タイムは問題ではない。今となっては、どれだけ努力したところで、おそらく昔と同じような走り方はできないだろう。その事実を進んで受け入れようと思う。あまり愉快なこととは言いがたいが、それが年を取るということなのだ。

 身体は衰退の過程にある。だが、それは身体だけではなく、存在の衰退でもあるのではないかと私は思うが、村上はそうは考えていないかに見える。それだけ身体を堅固なもの研鑽しているからかもしれない。しかし私は、村上が嘘を言っているとは思わないが、彼が意識で語っている以上の部分を、このメモワールのなかで不思議に重い不協和音のように、あるいはスコアをハズした音にように聞く。

 身体が許す限り、たとえよぼよぼになっても、たとえまわりの人々に「村上さん、そろそろ走るのをやめた方がいいんじゃないですか。もう歳だし」と忠告されても、おそらく僕はかまわず走り続けることだろう。たとえタイムがもっと落ちていっても、僕はとにかくフル・マラソンを完走するという目標に向かって、これまでと同じような---ときにはこれまで以上の---努力をつづけていくに違いない。

 たぶん、彼はそうするだろう。そしてこう続く。

そう、誰がなんと言おうと、それが僕の生まれつきの性格(ネイチャー)なのだ。サソリが刺すように、蝉が樹木にしがみつくように。鮭が生まれた川に戻ってくるように、カモの夫婦が互いを求め合うように。

 それはネイチャーではないだろう。なにか奇妙な---文学というものがおよそ奇妙であるように---何かが彼を追い込んでいく。そしてその追い込みの先の軽い比喩の連鎖の最後に「カモの夫婦が互いを求め合う」というのが象徴的なように、このエッセイではいつになく、心と存在の支えとしての彼の妻の存在が要所に現れる。私は、彼が無意識で知らないだろうその理由をなんとなく感じることができる。
 彼が走る理由をネイチャーに比すのは本書の後半だが、前半ではむしろより正確にこう洞察している。一時期走ることに倦んだという文脈でこう語る。

 いずれにせよ、僕はもう一度「走る生活」を取り戻している。けっこう「まじめに」走り初め、今となってはかなり「真剣に」走っている。それが五十代後半を迎えた僕に何を意味することになるのか、まだよくわからない。おそらく何かを意味しているはずだ。それほどたいしたことでもないかもしれないし、たいした量ではないかもしれないが、そこには何かしらの意味合いが含まれているはずだ。

 その意味は、本書ではあたかも物語のオチのように先のネイチャーに流れ込むかのようだが、そうではあるまい。その何かはぱっくりと彼の老いと存在の衰退に対峙して現れた、ある種文学の本質に近い何かだろう。
 むしろそれは、意志やネイチャー(本性)といったものではなく、人として生きることのどうしようもない不条理みたいなことをあえて苦(サファリング)として受けることに近いのではないか。
 走りたくないこともあるという文脈でその苦(サファリング)に彼はこう直面する。

 個人的なことを言わせていただければ、僕は「今日は走りたくないなあ」と思ったときには、常に自分にこう問いかけるようにしている。おまえはいちおう小説家として生活しており、好きな時間に自宅で一人で仕事ができるから、満員電車に揺られて朝夕の通勤をする必要もないし、退屈な会議に出る必要もない。それは幸運なことだと思わないか?(思う)それに比べたら、近所を一時間くらい走るくらい、なんでもないことじゃないか。満員電車と会議の光景を思い浮かべると、僕はもう一度自らの志気を鼓舞し、ランニング・シューズの紐を結び直し、比較的すんなりと走り出すことができる。

 人によってはあるいはネガコメ5、左翼の赤い炎・ネガアルージュなら速攻で、労働者をバカにしている軽薄な小説家とぶコメするかもしれないくらいバカにとって誤解されやすいことを言っているようにも思えるが、たぶん逆なのだ。
 彼はむしろ走ることを通して語っているのではなく、文学という生の総体が表す苦(サファリング)に言語で参与するために、走り出しているのだ。おそらくそれが先の何かを暗示しているのだろう。
 それがいいことか悪いことかわからないし、それが継続できることかどうかもわからない。ドストエフスキーは「カラマーゾフの兄弟」の後編を書き遂げる意志を運命によって途絶するしかなかった。
 一読者の私としては、村上さん無理しているなと思う。でも、村上さんの生き方は正しいと思う。大筋で正しく、そしてディテールで正しいと思う。

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コメント

春樹さん、渋くていいですね。冗談抜き、ギリシャまで追っかけしたくなるです。それは、生き方に賛同するというか、自分のよき理解者にめぐり会った震えのような。

投稿: godmother | 2007.10.27 08:51

お久しぶりです。
昨日、スティーブン・キング作品の映像化で最高傑作とたたえられるトビー・フーパーの『死霊伝説』(原作は角川文庫に訳書のある『呪われた町/上・下』)を観賞したのですが、以下に通じる観念を感じました。

>そう、誰がなんと言おうと、それが僕の生まれつきの性格(ネイチャー)なのだ。サソリが刺すように、蝉が樹木にしがみつくように。鮭が生まれた川に戻ってくるように、カモの夫婦が互いを求め合うように。

>いずれにせよ、僕はもう一度「走る生活」を取り戻している。けっこう「まじめに」走り初め、今となってはかなり「真剣に」走っている。それが五十代後半を迎えた僕に何を意味することになるのか、まだよくわからない。おそらく何かを意味しているはずだ。それほどたいしたことでもないかもしれないし、たいした量ではないかもしれないが、そこには何かしらの意味合いが含まれているはずだ。

吸血鬼バーロウの不死に対比された、主人公ベン・ミアーズの人間性への(一敗地に塗れた)期待とかが、
また執念と紙一重のものとして継続されていくあたりがなんとも苦々しい。私にはベンと村上さんが重なって見えます(ベンは作家という設定)。

しかし、改めて、観賞後の印象として、キングはアメリカの小説家なんだと得心しました。

投稿: 夢応の鯉魚 | 2007.10.27 17:07

「私が一人の「どこにでもいる人間」として半世紀ばかり彼の愛読者だった何かに」の
半世紀は四半世紀のミスタイプでしょうか?

投稿: eric | 2007.10.27 20:23

そういえば、今生きてるのは不思議だが、自動的にスーッと流れて自然と今があるような気もする。これからどうなるかはわからないが、未来の私は、偶然的な今を、淡々と当たり前のように生きてるのだろう。

投稿: itf | 2007.10.29 11:09

カメさんとウサギさんの話がありますね。
歩いている人が、走っている人を追い越してしまう、
ということもあるのでは?
70歳にして書き始めた作家が、
20代から書き続けている作家を追い越してしまう。
日本人の寿命が長くなって、
団塊世代の主婦たちが、
子育てを終えてからカルチャーセンターに通い、
様々な技術を身に付けている、今日。
男どもも、退職したら急にボケちゃった、
なんてことにはならないでしょう。
今はまだブログ書きでウサを晴らしているのが現状でしょうけど、
老人力が発揮されるのはこれからかも。
なにせ専業作家とは人生経験の質が違います。
春樹さん、走らずに歩いてきた人に追い越されないように、
気をつけてほしいものです。

投稿: オルフォー | 2007.10.29 11:29

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» [なぜぼくが合同会社を作ったのか]村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』を読んで [合同会社翻訳オフィス駒田]
正直なところ村上春樹さんが走っても、走らなくても、どちらでもいい。でも村上春樹さんは走ることをやめない。そのことについては、かなり前から感じていたし、その意味では『走ることについて語るときに僕の語ること』というタイトルを見て、読む前から内容は想像がつくよ... [続きを読む]

受信: 2007.10.27 01:20

» 『走ることについて語るときに僕の語ること』を読んで [小さなことを喜ぼう!             〜女42歳の「ちょいハピ」な日々〜]
この本を読んで、感じたことなど。 走ることについて語るときに僕の語ること 村上 春樹 まずはタイトル。 「これぞ村上春樹」なタイトル、まさしく村上春樹的なタイトルである。 かつ、村上春樹であるからこそ許されるタイトルでもある。 (ちなみに、彼が日本に紹介した作家レイモンド・カーヴァーの書名に由来する。) 書かれている内容。 一般読者としての立場からは(って、変な言い方ですが)、こんなレビューが書けそうだ。 「村上春樹という、作家を生業とする一人の生身の人間が、どんな... [続きを読む]

受信: 2007.10.29 01:17

» 「走ることについて語るときに僕の語ること」   [営業の良識を問う]
書名の意味にただただ困惑、辟易 [書評]走ることについて語るときに僕の語ること(村上春樹) http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2007/10/post_2c50.html  僕はこの本を「メモワール」のようなものだと考えている。個人史というほど大層なものでもないが、エッセイというタイトルでくくるには無理がある。前書きにも書いたことを繰り返すようなかたちになるが、僕としては「走る」という行為を媒介にして、自分がこの四半世紀ばかり小説... [続きを読む]

受信: 2013.01.31 11:56

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