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2007.10.31

[書評]魚料理の本三冊

 時事的な話題に関心がないわけでもないが書き出す気力がない。気が付くとブログが三日欠になる。なってもいいのだけど、気楽な埋め草話があってもいいかもしれないし、魚料理の本のご紹介も兼ねて。
 昨日行きつけというほどでもないけど魚料理の上手な店で煮魚を食べた。「今日の魚は何?」と聞くとカワハギとのこと。そりゃありがたいということでカワハギの煮魚を食べた。しみじみとした味わいだった。私は魚食いのほうだと思うが情けないことに魚が捌けない。カワハギは捌きがむずかしいのを知っているので、ありがたいと思ったしだいだ。カワハギの肝も添えてあったが、苦いなと敬遠してしまった。これじゃ魚食いとは言えないか。

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魚料理いろは
 魚料理の本でこれはすごいなと思うのが、「魚料理いろは(野口日出子)」(参照)だ。いろはとあるように魚料理の基本から書かれているのだが、私にはからっきしダメ。それでもこの本は類書のように魚料理の初歩に終始してないで、かなり高度と思える料理まで踏み込んでいる。なにより、どれもうまそうなんだ。人生ってなんだかわからないけど、うまい魚が食えたら幸せじゃないかという、幸せ感に浸れる本にもなっている。手元の同書ぱらとめくると太刀魚の背びれのはずし方がきちんと解説されているが、私にはできない。でも魚屋さんに、頼んで背を抜いてもらった切れ身を買っているときに思い出す。
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フライパンで
切り身魚料理
 実際に私が作るという段で便利なのが「フライパンで切り身魚料理 焼く・煮る・揚げるも簡単に(松田万里子)」(参照)だ。表題のとおり使う調理器具はフライパンだけ。しかも、魚は切り身ときている包丁ワザは一切不要。それでいて各種の代表的な魚に合う調理法がいろいろ掲載されている。調理方法は魚の種類ごとにいくつか掲載されているのだが、当然その調理方法は別の魚にも適応できるというのがある。たとえばムニエルなんかだとほとんどどの魚でもできるみたいな。そうした、掲載分以外の調理の対応表が巻末に一覧になっているのでこれが特に便利だ。アマゾンの読者評に「例えばその日スーパーで特売だった切身を買ってきて、それからおもむろにこの本を見る・・・好みの調理法が何かしら見つかる、そういう感じです」とあるがまさにその通りで、とりあえず魚の切り身を買ってきて、さてどう調理するかなという感じで使える。調理法によってはちょっと懲りすぎかなと思えるものもあるが慣れてくると自分なりのアレンジもできるようになるし、調理器具もフライパンにこだわることもなくなる。
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NHKためしてガッテン
魚のすごいコツ
 三冊目は「NHKためしてガッテン 魚のすごいコツ」(参照)だ。最近はあまりこの番組も見なくなったが、一時期録画してよく見ていた。率直に言って、私なんかにしてみるとこの番組は10分でいいのにしょうもない引きが長くて苦痛になってきた。ただし、その10分くらいには、たまにへぇと思うことがあるし、魚料理の特集はちょっと気になっていたので、書店で見かけて中身も見ずに買った。ある程度料理の心得のある人なら、それほどすごいコツでもないなという話題もあるし、健康効果などそれど気にしているわけでもないが、こうした情報は本になってまとまっていると便利なものだ。

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2007.10.28

最近の米価下落についてのメモ

 先日NHKの朝のラジオで農政学者大泉一貫宮城大学教授が、最近の米価下落について話していて興味深かった。備忘を含めてメモ書きしておこう。
 まず現状だが、公設の米入札機関、米価格センターでは、米価は今月に入って昨年比で8%下落しているとのこと。従来も米価下落はあったが3%前後だったので今年は異例ということになる。なぜ米価は今年がくんと下がったか? 豊作だから下がるという単純なことではないらしい。
 大泉によれば、問題の基軸は米価に市場の需給動向が反映されるようになったということだ。従来は、生産調整政策や、米価格センターが希望価格・入札制限で高値誘導をしていてその影響が強かった。しかし生産調整効果は薄れ、米価格センターの改革も進んだために市場が機能しているらしい。
 生産調整の背景には3つの要因があるとのこと。(1)消費量の減少速度が速い、(2)今年は適性需要より20万トン上回っていた、(3)海外から義務的に輸入する7.2%の米があるがUSAライス連合会によるサラダ感覚のコメの市場で圧迫を受けた。
 売れる米と売れない米の問題も関連しているらしい。売れる米を作っている人は最初から生産調整とは距離を置いていてもっと増産したい。が、売れない米のほうは当然市場からはじかれ、これが過剰感を出している。
 具体的に今年の米価下落問題の背景として見ると、この夏の全農概算金7000円ショックと呼ばれる事件が大きいらしい。全農概算金の仕組みはこうだ。農協は夏頃に概算金を農家に渡し、一、二年後実際の販売価格との差額を精算する。だが、実際には近年のその差額が小さくなり、実質概算金がイコール価格になっているとこと。つまり、全農概算金はお金の先渡し制度と言っていいだろう。なお、現実には7000円は低すぎるということで、1万円程度になっているらしい。
 大泉は、こうした状況でもっとも厳しいのが専業農家だと主張する。兼業なら他の収入がありそこれで緩和されるからだ。さらに、米の専業農家の救済することを検討しなければならないと論じ、その対策として、輸入米を減らすことや、販売強化、専業農家への補助金を多くすべきという話になる。
 私は話を聞いていろいろ学ぶこともあったのだが、奇妙な感じもした。
 単純に言えば、この問題は売れる米を作る農家の問題ではないのではないか。むしろ、比較的容易にできる兼業農家が従来どおり作れば入金されるから作ってみたら、え、そんなに価格が少ないのということに見える。ちなみに7000円という金額はどのくらい少ないのかよくわからないが、「全農 内金」で検索すると例年の半額というような意見も見かけた。
 ところでこの「全農米内金ショック」だが7月末日のニュースだったらしい。そこでふと参院選を思い出したのだが、だいたい時期が重なる。正確にいうと参院の蓋を開けて以降のショックなのだが、がというのは、このショックはまったく想定されていないわけでもないから、内金が低いぞというのは参院選挙に大きな影響を与えていたのかなと思った。
 こうした背景で、政府によるコメの買い入れを考えるとまた味わい深い。27日西日本新聞”余剰米44万トン買い入れ 800億円 自民、農水省と合意”(参照)より。


 米価下落問題で自民党は26日、備蓄用と飼料用合わせて44万トンの余剰米を政府が買い入れる方向で、農水省と基本合意したと発表した。買い入れ額は約800億円とみられ、同省は今後、財務省と財源確保の方策を探るとしている。
 自民党は、余剰米買い入れによって市場が引き締まり、米価下落に歯止めがかかると説明。農業関係者からは「下落が続けば、農家の離農が進みかねなかった。食料自給率の視点からも危機回避につながる」と好意的な受け止めが聞かれる。
 だが、今回の米価下落問題では、今年から導入された新たな需給調整方式が機能していないことが指摘されており、財源確保とともに課題として浮上している。

 政府の買い上げで米価が上がり、内金との差額が出るということなのかなと思うがこのあたりは私はよくわからない。また、全農も1万円に引き上げる方針を明らかにしたが(参照)どういう対応があったのだろうか。ただ、「今年から導入された新たな需給調整方式」が問題らしいということは、よくわかった。なお、同記事にもあるが、現食糧法では米価対策を目的とした政府の買い入れが認められないので、備蓄が目的となる。
 この話は物騒なんでブログなんぞであまり言及しないほうがいいようだ空気をすーっと吸い込む、と。それと私は農家の補助金は仕方ないんじゃないのと考えている、というか、兼業農家の農地転用で土地の資産性を高めてもっと兼業農家のかたにお金を使ってもらうといいんじゃないかと30%くらい真面目に考えている。じゃ、そのくらいで。

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2007.10.27

[書評]アリはなぜ、ちゃんと働くのか(デボラ・ゴードン)

 先日twitterで蟻についての話題があって、そういえばと思って、「アリはなぜ、ちゃんと働くのか 管理者なき行動パタンの不思議に迫る(デボラ・ゴードン、訳:池田清彦、池田 正子)」(参照)を書庫から取り出して読み直した。

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アリはなぜ、
ちゃんと働くのか
管理者なき行動パタンの
不思議に迫る
デボラ ゴードン
 たしかこの本は新潮OH!文庫として初めて出版されたもので単行本からの文庫化ではなかったと思う。アマゾンを見たらそれどころか新潮OH!文庫自体がなくなっているようだ。そういえば見かけない。どうなっているのだろう。なにより、本書はすでに絶版らしく、古書でプレミアがついていた。当時600円だったのに、古書では1140円から2500円まで。残念な気がする。この本は高校生でも読めて、科学というものについて強いインパクトを受けるに違いないのに。普通の読書人の大人にとっては、蟻の生態といった科学分野に関心のある人ならやはり面白いだろう。そしてある種の創造的なプログラマーにとっても刺激的なのではないか。当時の倍値とはいえ大人買いで買ってもいいかもしれない。もちろん、英語の原書のペーパーバック「Ants at Work: How an Insect Society Is Organized(Deborah M. Gordon,Michelle Schwengel)」(参照)は現在でも普通に販売されている。
 本書の話の前に少し関係情報を当たっていたらウィキペディアにゴードンの項目(参照)があり、学部時代はフランス語専攻だったというのも興味深いがもっと、興味深い話があった。

Gordon studies ant colony behavior and ecology, with a particular focus on Red harvester ants. Her views have brought her into public conflict with E.O. Wilson.

 エドワード・O・ウィルソンと対立していたというのだ。ウィルソンといえば「生命の未来」(参照)や「知の挑戦 科学的知性と文化的知性の統合」(参照)があるが、ゴードンはどう対立していたのだろうか。訳者で生物学者でもある池田清彦も解説でエドワード・O・ウィルソンに言及してはいるのだが、あたかもウィルソンの影響でゴードンもネオダーウィニズムだとしている(ように読める)。しかし対立があったなら、池田がそのことを知らないわけはない。ウィルソンの著作の邦訳が出たのは本書以降とはいえゴードンの背景としてはあったはずだろう。気になる。ちなみに、池田の近著をアマゾンで調べると与太話みたいなものばかりで、むしろなぜ本書の訳者を買って出たのかさえ気になる。実際には池田正子による翻訳のようにも思える。そして彼女は池田清彦の奥さんでしょ?
 本書の内容だが、蟻の生態研究を一般向けに説明したものなのだが、蟻全体についてではなく、基本的にアカシュウカクアリという一種類の蟻についての17年かけた研究である。そんなことで何がわかるのか? 

 アリのコロニーについて最も不思議なことは管理不在ということである。管理担当者がいないのに機能している組織を想像することは、人間のそれとはあまりに似ていないのでとても難しい。中心的な統制機関がない。相手に、命令したり、物事をこのようにやりなさいと教えたりするアリはいない。コロニーの仕事を完成するには何をすべきか、ということに気づいている個体はいない。


 私は生物に見られるさまざまなレベルがどのように関係するかに興味を覚えてアリを研究している。生物の世界は分子から始まり、細胞、組織、個体、個体群、生態系へと階層状に構成されている。生物学における根本的な問題は、これらの異なるレベルの出来事がどうやって関係するかということである。

 いわば、システム論であり、情報論であるとも言える。あるいは進化とは実際になんであったかということの探求だ。どうも日本のネットの風景では浅薄なイデオロギーをかぶせた進化論がID論バッシングして終了のようなつまらない臭気が漂っているが、進化論は本書のような詳細な生物研究において位置づけられるものであり、そう簡単なテーマではない。
 本書はアカシュウカクアリの非常に不思議な驚嘆すべき事実を解明していくのだが、結語でゴードンは疑問の核に戻る。

 アリたちを熱心に真似ても私たちの特性は改善されない。アリと同じ道徳上の特質を持つ人は恐ろしく無価値であるに違いない。アリを観察することで人について学ぶことはあまりない。


 しかしおそらくアリたちは、自然がどのように作用するかについて、少なくともアナロジーによって私たちに教える一般的ななにかを持っている。それ自身だけはどんな同一性も機能も発揮することはできない単位からなるシステムで、構成要素の相互作用によって活動するものはどんなシステムでも、アリコロニーと共通する何かを持っている。アリたちとコロニーをつなぐ関係性と同種のものが、ニューロンをして脳の活動を生み出し、幾多の異なる細胞をして免疫反応を引き起こし、数個の分裂細胞をしてついには成長した胚を作り出すのを許すのだろう。

 ただしこの先ゴードンはその一般解を急速に求めるでもなく、各システムはまったく個別かもしれないとも考察している。しかし、そうではあっても、自然がもたらしたという点で、その得意な情報システムにはある一般性が存在するだろう。
 アリについて戻れば、ゴードンの言葉ではないが、個体が存在しつつもコロニーが一つの生命体のように振る舞う現象が興味深い。そしてコロニー自体が独自の寿命のパターンを持つことも指摘されている。たとえば、働き蟻はどれも一年ほどの寿命しかもたないのに、若いコロニーと経年したコロニーとでは行動が異なる。
 本書の実際の面白さは、しかし、そうした抽象的な大きな課題ではなく、3つあろうだろう。1つは、アリそもののがめちゃくちゃに面白い存在だということだ。なんでこんな不思議なものが生存しているのだろう。しかもそれは生存のために生存しているだけなのにどうして緻密な行動パターンを持つのだろうか。2つ目には、先に高校生にも読めると書いたが、高校生に読んで科学を知ってほしいという含みがあった。この本こそ自然科学のとても基本的な部分が数多く描かれている。特に重要なのは、ゴードンが一人の教師となって学生を指導していくようすがかいま見られることだ。アリを観察するためにはアリゾナの砂漠に慣れる必要がある。そういう徒弟訓練的な熟練技術が学生に仕込まれる。仕込まれた学生の幾人かは生物学者になるが本書によれば証券界に出た人もいるようだ。きっと証券界で科学を徒弟的に学んだ成果を得ていることだろう。私は本書を読みながら、なぜ経済学はこの蟻の生態研究のようにならないのか疑問にも思った。数式やモデルは後から来る。だが、ネットなど見かける経済学の断片はそれが逆になっていることが多い。
 3つめは、進化論の巨大さだ。ダーウィニズムを批判するといったことはちょっと知的な人にとってはまるで盆踊りの型のように習得可能かもしれないし、またその擁護はあたかも科学を宗教のように信奉して他者を断罪すればいいかのようだ。しかし、進化論というのはまったく異なる。ゴードンは、訳者の池田が解説でちゃかすようにべたなダーウィニズムを信奉しているのだが、ダーウィニズムこそが科学的説明の輪郭を与えていることを如実に示している。
 そのあたりの対比は反面教師的に池田の解説がくっきりさせている。本書でゴードンは、成熟した蟻のコロニーに3000匹の外働き蟻がいるとすれば、無駄としか思えない数の、7000匹の内部蟻がいるとして、そこにこう疑問を持つ。

 これは多分、進化の時間スケールでは、余分な1000匹のアリが急遽必要になる出来事が、そのために予備兵を養うに値するほどたびたび起きるのだろう。私はそのような出来事を見たことはないが、しかし私がアリの観察をした17回の夏はアリの進化の何百万年に比べれば無に等しいのだ。

 これに対して、池田はこう言う。

 一見非適応的に見える行動にも、きっと適応的な意味があるに違いないというゴードンの希望はしかし、残念ながら無いものねだりの空手形だと私は思う。構造主義生物学者としての私は、生物は元々すべて適応的には出来ていないのだという言う他はない。

 池田の理屈が、昨今の与太話本のように通るかのようにも思えるが、それは科学的な説明にはなっていないだろうし、本書全体を読めば、池田の考えは一貫性を持ち得なず、毎回ジョーカーを繰り出すトランプ遊びにも比すことになりかねない。
 また、アリのついての特定行動に池田は本能でしょとわりきるが、ゴードンはそうした安易な回答を丹念に拒絶しているので、訳者が本書をどこまで読み込んだのか少し疑問にも思える。
cover
NATIONAL GEOGRAPHIC
日本版2007年 07月号
 構造主義生物学なりが正しいなら、ゴードンのような具体的な生物システム対象として具体的な研究が必要になるだろうが、そうした傾向は見られないように思う。逆に、ゴードンの研究は知性にいろいろなものを具体的に投げかける。例えば、今年のナショナルジオグラフィック7月号に「群れのセオリー」の記事(参照)があり、ここでもゴードンの研究のインサイトの一貫が見られる。

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2007.10.26

[書評]走ることについて語るときに僕の語ること(村上春樹)

 村上春樹の書き下ろしエッセイ「走ることについて語るときに僕の語ること」(参照)は買ったその晩に読みふけって読み終えた。読みやすい本だったからとはとりあえず言えるのだが、奇妙な、苦いような後味が残った。たぶん、エッセイとは違う何かがあるのだろう。後書きで彼は「メモワール」だと言っている。


 僕はこの本を「メモワール」のようなものだと考えている。個人史というほど大層なものでもないが、エッセイというタイトルでくくるには無理がある。前書きにも書いたことを繰り返すようなかたちになるが、僕としては「走る」という行為を媒介にして、自分がこの四半世紀ばかり小説家として、また一人の「どこにでもいる人間」として、どのようにして生きてきたか、自分なりに整理してみたかった。

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走ることについて語るときに
僕の語ること
 村上は「メモワール」というフランス語の語感に思い入れがあるようでいて「エッセイ」のフランス語の語感を知らないのも奇妙にも思われるのは、むしろ英語での語感を大切にしているからかもしれない。と、どうでも皮肉のようなことを書く必要もないのだが、本書の凝ったタイトルが示唆するように、走ることを語りつつ、小説家としての内面を語るという趣向になっている。そして、そのように読める。読めないことはない。
 だが後味の苦みのような部分は、私が一人の「どこにでもいる人間」として半世紀ばかり彼の愛読者だった何かに関わっているのだろう。彼はサリンジャーのように20代の終わりから30代に向かうころ小説家となりやがて50代を終えようとしている。

 僕は今、五十代の後半にいる。二十一世紀などというものが実際にやってきて、自分が冗談抜きで五十代を迎えることになるなんて、若いときにはまず考えられなかった。もちろん理論的にはいつか二十一世紀は来るし(なにごともなければ)そのとき僕が五十代を迎えているというのは自明の理なのだが、若いときの僕にとって五十代の自分の姿を思い浮かべるのは、「死後の世界を具体的に想像してみろ」と言われたくらいのと同じくらい困難なことだった。

 かつて40歳までにきちんとした小説を書きたいと言っていた彼は60歳に近づき、そしてそうなるころにノーベル文学賞も得ることになるのだろう。長い年月だったか。そう、長かったかもしれないし、近年空白があったとはいえ、新作を待ちわびる読者として裏切らずに過ごした短い日々だったようにも思う。だが、やはりそこは直線的なものではなかった。
 彼は「走る」ことについて語ると言っている。そしてそのように書かれている。だが、私は、「走れない」過程を走りつつある彼という存在を読む。もちろん、世界超一流の作家としてしかも作品の力にほとんど衰えすら感じさせない彼だが、走るこのなかにもはや肉体の自然として衰退が浸蝕している。どれだけ頑張っても、もう向上はしない。もちろん、70歳過ぎても走る人はいるし、彼もそうなるのだろう。「少なくとも最後まで歩かなかった」となるのではないかと思う。

 タイムは問題ではない。今となっては、どれだけ努力したところで、おそらく昔と同じような走り方はできないだろう。その事実を進んで受け入れようと思う。あまり愉快なこととは言いがたいが、それが年を取るということなのだ。

 身体は衰退の過程にある。だが、それは身体だけではなく、存在の衰退でもあるのではないかと私は思うが、村上はそうは考えていないかに見える。それだけ身体を堅固なもの研鑽しているからかもしれない。しかし私は、村上が嘘を言っているとは思わないが、彼が意識で語っている以上の部分を、このメモワールのなかで不思議に重い不協和音のように、あるいはスコアをハズした音にように聞く。

 身体が許す限り、たとえよぼよぼになっても、たとえまわりの人々に「村上さん、そろそろ走るのをやめた方がいいんじゃないですか。もう歳だし」と忠告されても、おそらく僕はかまわず走り続けることだろう。たとえタイムがもっと落ちていっても、僕はとにかくフル・マラソンを完走するという目標に向かって、これまでと同じような---ときにはこれまで以上の---努力をつづけていくに違いない。

 たぶん、彼はそうするだろう。そしてこう続く。

そう、誰がなんと言おうと、それが僕の生まれつきの性格(ネイチャー)なのだ。サソリが刺すように、蝉が樹木にしがみつくように。鮭が生まれた川に戻ってくるように、カモの夫婦が互いを求め合うように。

 それはネイチャーではないだろう。なにか奇妙な---文学というものがおよそ奇妙であるように---何かが彼を追い込んでいく。そしてその追い込みの先の軽い比喩の連鎖の最後に「カモの夫婦が互いを求め合う」というのが象徴的なように、このエッセイではいつになく、心と存在の支えとしての彼の妻の存在が要所に現れる。私は、彼が無意識で知らないだろうその理由をなんとなく感じることができる。
 彼が走る理由をネイチャーに比すのは本書の後半だが、前半ではむしろより正確にこう洞察している。一時期走ることに倦んだという文脈でこう語る。

 いずれにせよ、僕はもう一度「走る生活」を取り戻している。けっこう「まじめに」走り初め、今となってはかなり「真剣に」走っている。それが五十代後半を迎えた僕に何を意味することになるのか、まだよくわからない。おそらく何かを意味しているはずだ。それほどたいしたことでもないかもしれないし、たいした量ではないかもしれないが、そこには何かしらの意味合いが含まれているはずだ。

 その意味は、本書ではあたかも物語のオチのように先のネイチャーに流れ込むかのようだが、そうではあるまい。その何かはぱっくりと彼の老いと存在の衰退に対峙して現れた、ある種文学の本質に近い何かだろう。
 むしろそれは、意志やネイチャー(本性)といったものではなく、人として生きることのどうしようもない不条理みたいなことをあえて苦(サファリング)として受けることに近いのではないか。
 走りたくないこともあるという文脈でその苦(サファリング)に彼はこう直面する。

 個人的なことを言わせていただければ、僕は「今日は走りたくないなあ」と思ったときには、常に自分にこう問いかけるようにしている。おまえはいちおう小説家として生活しており、好きな時間に自宅で一人で仕事ができるから、満員電車に揺られて朝夕の通勤をする必要もないし、退屈な会議に出る必要もない。それは幸運なことだと思わないか?(思う)それに比べたら、近所を一時間くらい走るくらい、なんでもないことじゃないか。満員電車と会議の光景を思い浮かべると、僕はもう一度自らの志気を鼓舞し、ランニング・シューズの紐を結び直し、比較的すんなりと走り出すことができる。

 人によってはあるいはネガコメ5、左翼の赤い炎・ネガアルージュなら速攻で、労働者をバカにしている軽薄な小説家とぶコメするかもしれないくらいバカにとって誤解されやすいことを言っているようにも思えるが、たぶん逆なのだ。
 彼はむしろ走ることを通して語っているのではなく、文学という生の総体が表す苦(サファリング)に言語で参与するために、走り出しているのだ。おそらくそれが先の何かを暗示しているのだろう。
 それがいいことか悪いことかわからないし、それが継続できることかどうかもわからない。ドストエフスキーは「カラマーゾフの兄弟」の後編を書き遂げる意志を運命によって途絶するしかなかった。
 一読者の私としては、村上さん無理しているなと思う。でも、村上さんの生き方は正しいと思う。大筋で正しく、そしてディテールで正しいと思う。

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2007.10.25

イラクのテロ件数が減少しているらしいのだが知ってた?

 イラク情勢についてちょっと気になることがあるので簡単にメモしておきたい。気になるなというくらいで特に深い意味はないので、そこんとこ、よろしく。
 どう切り出すかも少しためらう。あまりいいソースではないのだけど、切り出しが面白いのでNews-Leader.comの”'No news' in Iraq bad news?”(参照)を借りてみよう。


Last week, ABC's Charles Gibson introduced a segment about Iraq on "World News Tonight" with this curious remark: "The news is (pause for effect) that there is no news. The police told us today that, to their knowledge, there were no major acts of violence. Attacks are down in Baghdad and today no bombings or roadside explosions were reported."

先週、ABCのチャールズ・ギブソンは、ちょっと変わった言い回しで、「今晩の世界ニュース」のイラク部分を切り出した。いわく、「ニュースは、(間を取って)、ニュースがないということです。今日の警察によると、知られている限り、主要な暴力行為はありませんでした。バグダッドの攻撃は減少し、今日は爆弾も道脇での爆発も報告されていません。」


 米国の場合、軍人など米人が実際にイラクの軍事活動に関わっていて、イラクのテロ活動は身近に関わることなので、ニュースではかならずイラクを報道する枠があるのだろうが、その日は平穏だったようだ。
 さて、この平穏さはどうもこのところの傾向らしい。
 日本でもこのところイラクのテロ活動のニュースをほとんど聞かない。試しに、現時点でグーグル・ニュースで「イラク テロ」で検索しても、具体的なテロ事件はリストされない。「イラク」だけで検索しなおして、なにかテロ事件はあるかと眺めてみたが、ない。まったくニュースがないとは言わないが、目立ったテロ事件はイラクで発生していないかのように見える。
 もっとも、まったくなくなったわけでもないだろうし、私のニュースの読み違いかえもしれない。それでも、テロ事件は明白に減少しているのではないだろうか。そして、そのことは、どうやら日本ではほとんど報道されていないのではないだろうか。
 もし、そうだとしたら、それはなぜなのだろうか。
 関連して、ニューズウィーク(10・31)Periscopeに”イラク テロ件数減少を喜べない理由”という興味深い記事があった。

 米政権にとっては、待ちに待った朗報かもしれない。最新の米政府統計によれば、イラクにおける各種の攻撃件数が05年以前のレベルに減ったという。


 本誌が入手した未発表の軍事統計によると、9月中旬の1週間に発生した攻撃件数は約900件。6月の約1700件から大幅に減少している。

 イラクにおけるテロ事件は確実に減少していると見てよさそうだ。そして、最近のイラクからの各国の軍の撤退動向も考えてみればそれに見合っていそうだ。
 なぜテロは減少しているのか。普通に考えれば、米軍増派によるテロ対策が功を奏したということだろう。ブッシュもそれを強調しているのだが、メディアを通して伝わった情報からなかなかそういう印象は持ちがたいのではないのだろうか。
 ここでふと22日付の朝日新聞社説”パキスタン 「対テロ戦」が招いた混迷”(参照)を思い出して読み返してみた。この社説の趣旨は表題からもわかるように、パキスタンの混迷は米軍による対テロ戦争が引き起こしたというものだ。
 対テロ戦争において、アフガニスタンでの戦闘では国連での合意のもとに欧州も参加している。なので、以下の朝日新聞の主張は「米軍などによる」というのは国連と言い換えてもそれほどハズしていない。小沢民主党ですら、手順は踏まえるにせよ、この軍事活動に日本も参加すべきだと主張している。

 アフガンでは米軍などによる軍事作戦で住民被害が広がり、逆にタリバーンが勢いを盛り返す一因にもなっている。パキスタンでも、それに呼応してイスラム原理主義や反米感情が強まっている。
 「テロとの戦い」といいながら、ひたすら武力で相手を根絶やしにするかのような作戦は、地域を不安定化させるばかりではないか。

 端的に言えば、朝日新聞の主張がめちゃくちゃなだけで無視していいのだが、ふと思い出した理由は、なんとなく、後段でイラクが暗示されているような印象をもっていたからだ。そうした点で読み返すと、この社説、テロ戦争が混迷を深めているかのように主張していながら、イラクにまったく言及していないという高度な文章技術の上に成り立っていたことに気が付いた。
 朝日新聞が間違った報道しているわけではない。なのに、こうしたメディアから受けるある種の催眠術のような印象はいったい何に由来しているのだろうか。

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2007.10.24

中国共産党大会人事の不安

 中国共産党の党大会が終わった。眼目は端的に言えば、胡錦濤派と江沢民系上海閥との人事の戦いで、私は焦点を曽慶紅の引退に当てていた。結果から言えば甘い読みだった。流れ的に胡錦濤側が優勢だと見ていたのだが、結論から言えば、曽慶紅とバーターのように江沢民系上海閥の勝利に終わったかのようにさえ見える。
 私の読みはすでに昨年「極東ブログ: 胡錦涛政権の最大の支援者は小泉元総理だったかもね」(参照)で書いておいた。率直に言って内部抗争に私が詳しいわけもないので、NHK系の解説員の見解に同意したに等しいものだった。


具体的に政治局常務委員会のメンツを並べるとこうだ。

胡錦濤 中共中央総書記、中華人民共和国国家主席、中共中央軍事委員会主席、中華人民共和国中央軍事委員会主席
呉邦国 全人代常務委員長
温家宝 中華人民共和国国務院総理
賈慶林 全国政治協商会議主席
曽慶紅 中華人民共和国国家副主席 中共中央書記処書記第一書記
黄菊  国務院常務副総理
呉官正 中国共産党中央紀律検査委員会書記
李長春 意識形態を主管。
羅幹  中央政法委員会書記

 で、来秋にはこういう構図になるだろうと推測されている。

胡錦濤 バッチグー
呉邦国 全人代常務委員長
温家宝 中華人民共和国国務院総理
賈慶林 引退か?
曽慶紅 引退か?
黄菊  引退
呉官正 引退
李長春 意識形態を主管。
羅幹  引退

 温家宝はすでに胡錦涛寄り。李長春はむしろアンチ上海閥。上海閥は呉邦国だけといってもこのオッサン・エンジニアみたいな人。残るはあと一年足らずで、江沢民派の賈慶林とべたな江沢民派の曽慶紅の追い込みか、と。
 ほいで、上海閥の穴ですでに事実上埋まっているのはこのあたり。

李克強 遼寧省委書記
劉延東 中共中央統一戦線部部長
李源潮 江蘇省委書記

 他の穴も中国共産主義青年団(共青団)など胡耀邦チルドレンで固めることになるだろう。
 ということは、今見ておくべきことは。来秋の中国共産党の第17回党大会まで、上海閥が窮鼠猫を噛むの行動に出てくるか?


 ハズしたのは上海閥欠落に胡錦濤派が埋まるくらいに思っていたことだ。
 なので、党大会前産経新聞中国総局記者福島香織が”江沢民さん、まだ若い?:イザ!”(参照)で賭けたときほおと思った。(ところでブログ本はどうなったんでしょ。)

さて、党大会において、国内外メディアの一番の注目は、政治局常務委員の人事です。とくに曽慶紅副主席の去就についての報道が、前触れでもりあがりましたが、「留任」と打ったのは、日本メディアでは産経新聞と東京新聞だけ?ふふふ、ギャンブラーですね。でも、私も曽慶紅留任に1000元(ぶんのご飯)くらいかけています。

 というわけで、福島記者がハズして、またハズした(またというのは段ボール肉)けど頑張れとか微笑んでいたのだが、曽慶紅のバーター人事みたいのを見ると、江派の強さをきちんと読んだとも言えるかもしれない。というのも、実際はこうなった。ついでに、比較的直前の5日付”中共政治局員9人体制維持 曾慶紅氏ら3人引退へ”(参照)による香港紙明報読みは正確だった。
 なお、江派とした今回の抜擢だが必ずしも江派ではないという意見もあるだろう。

胡錦濤 バッチグー →ショッペー(64)
呉邦国 全人代常務委員長 (66)
温家宝 中華人民共和国国務院総理 (65)
賈慶林 引退か? →残留 全国政治協商会議主席 (67) ハズレ
曽慶紅 引退か? →引退
黄菊  引退  →死去
呉官正 引退  →引退
李長春 意識形態を主管(63)
羅幹  引退  →引退

胡錦濤派から1名
李克強 遼寧省委書記(52)  →常務委入
劉延東 中共中央統一戦線部部長(61)  →ハズレ
李源潮 江蘇省委書記(56)  →ハズレ

江派から3名
習近平 上海市党委書記 (54)  江派・太子党
賀国強 党中央組織部長 (63)  江派
周永康 公安相 (64)  江派


 いやひどい図柄だなと私は思うものの、中国に未来があるすれば、江派上海閥派の先にあるわけないと思っているので、なるようになれというウンザリ感がある。しかし、今回の中国権力配置で日本の対日外交もまたショッペーことになってくることは確かだ。
 それにしてもこの人事、これから来る中国ハードランディングに中国一丸というか北京主導で対応する気があるのかおまえら、みたいな感じもしたのだが、実際の経済クラッシュではカネのある部分に衝撃がくるので、なかなか微妙な意味合いもあるかもしれない。それと、”極東ブログ: 遼寧省の鳥インフルエンザ発生からよからぬ洒落を考える”(参照)で触れた問題も以前好転しているとも思えないし、どうも微妙に日本が絡まってきている感じがする。
 さて、今回のハルマゲドン党大会を日本のジャーナリズムはどう報道したか。
 率直に言って見ものだったのは、朝日新聞の不気味な沈黙だった。人事決定以前に読売・毎日・朝日がどうでもいいような儀礼的な社説を繰り出してきたので、その流れでひとまずなにか朝日新聞も言うのかと思ったらだまり込んだ。朝日新聞を腐すつもりはないが、こういうところが朝日新聞の有り難いところで、すでに今回の人事の荒れ具合を独自ルートで織り込んでいたのだろう。そうした中、”極東ブログ: ブット帰国後のパキスタン情勢メモ”(参照)で触れたが、パキスタン関連でとんでもない社説を出してきたので、もしかすると朝日新聞内で江派・太子党路線みたいのが出てきたのかという不安もあった。
 こうした流れで、正直意表を突いたのが昨日の毎日新聞社説”中国新指導部 上海派巻き返しなら…=論説委員・金子秀敏”(参照)だった。金子論説委員はチャイナスクールじゃんみたいな声も聞くがこれは、私にしてみれば、ここまで書けるのか日本の新聞はと目が覚める思いがした。引用が長くなるが、まさに今回の人事の問題はここにある。

 総書記代理格の筆頭書記として中央書記局を握ったのは、共産主義青年団で胡氏の後輩である李氏ではなく、北京勤務の経験もないダークホースの習氏だった。李氏は筆頭副首相で次期首相候補だ。習氏が政治局の実務を取り仕切り、事実上、次の総書記となる準備をする。
 両氏ともこれまでの政治手腕は高く評価されている。問題は、次の総書記が胡氏の人脈でなくなることではない。まったくのダークホースの抜てき人事の背景に、一般の中国人は、きっと党規約を超えた「天の声」が作用したのだろうと思うだろう。太子党の起用に、共産党はまだ「人治」の党なのだと失望するだろう。それが党の信頼度、統治力の根源にかかわる問題なのだ。

 「天の声」をべたに書く必要はない。まさにそういうこと、つまり、「党の信頼度、統治力の根源」に疑問符が付く。
 もう一点、金子論説委員が胡錦濤系の権力闘争のこれまでの主砲が崩れたことをくっきり述べた。

 もう一つの眼目は、規律検査委員会書記の人事である。前の第16期政治局常務委員会も4対5で江氏系が多数だったが、それにもかかわらず胡総書記が上海市ぐるみの汚職や、聖域といわれた海軍の汚職を摘発できたのは規律検査委を押さえていたからだ。
 ところが今回、公安・検察部門を押さえる政法委員会書記だけでなく、規律検査委書記も胡派がとれなかった。江氏の腹心、曽慶紅国家副主席は定年で常務委を引退したが、賀国強、周永康の江系2氏が規律検査委書記、政法委書記として常務委に入った。

 端的に言えばもうトップの悪者退治的な権力は振るいづらくなってきた。
 こうして昨日の時点で毎日新聞社説がほぼ決定打を出してしまった後、朝日新聞はどう出るのか? それが今朝の社説”中国共産党 新指導部に寄せる大波 : asahi.com:朝日新聞社説”(参照)だったのだが、意外と言ってはなんだが、穏当なあたりに出てきた。

 胡カラーでは側近の李克強氏のほか、共青団系から新たに3人を政治局員に起用した。同時に、何かとあつれきが伝えられる江沢民前総書記系も常務委員など重要ポストに残り、発言力を保った。
 江氏の人脈は、政府から地方幹部まで幅広く連なっている。2期目の政策を進めるにあたって、今後も慎重な利害調整を求められることになりそうだ。
 胡氏は人事で妥協したものの、党の憲法ともいえる党規約に自らが提唱する「持続可能な発展」戦略を盛り込んだ。この意味は小さくない。任期途中に自分の路線を書き込むのは異例のことだ。

 結果論からすれば、そういう見方もできないわけではないし、党規約という言質が重要なんだというあたりは、「この厄介な国、中国(岡田英弘)」(参照)ではないが、日本人とは思えない中国人的な発想だ。
 というわけでこれなんかもさらりと読ませてしまうのだが。

 共産党独裁という体制を維持しながら、国民の声を政策決定に反映させる道を広げていく。至難の業というよりないが、それ以外に胡氏の描く「持続的発展」を実現する方策はないことを覚悟すべきだろう。

 つまり、金輪際中国は民主化できないですぅ、軍曹さん、ということだ。朝日新聞とも親和性の高い見解なのかもしれない。

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2007.10.22

ブット帰国後のパキスタン情勢メモ

 パキスタン情勢について、最高裁の動きが今一つ読み切れないのでためらっていたのだが、今朝の朝日新聞の変てこな社説”パキスタン 「対テロ戦」が招いた混迷”(参照)を読み、現時点でもとりあえずメモ書きしておくべきもしれないと思った。ちなみにこの朝日社説だがどこをどう突っ込んでいいか困惑するほどめちゃくちゃな代物に私は思えるので、個別の批判は省略したい。大手紙の社説としては、20日付け日経新聞”混迷の度増すパキスタン”(参照)が穏当なところだろう。
 当面の話としては、ブット元首相の8年ぶりに帰国に際してのテロがあり、自爆テロと報道されている。過去の経緯としては、このブログでは、”極東ブログ: パキスタン情勢、微妙なムシャラフ大統領の位置”(参照)と”極東ブログ: パキスタン・モスク籠城事件、雑感”(参照)があるが、さらに中国との関連で”極東ブログ: 中国とパキスタンの反テロ合同軍事演習「友情2006」”(参照)もある。パキスタンと中国の関係は微妙で、かつ現在開催中の中国共産党大会でのパワーゲームなどもあり、そうした影響が日本の報道にもあるかもしれない。
 日経社説ではこうさらりと説明しているが、ムシャラフとブットの調停はおそらくライスがお膳立てしたものであろう。


 ムシャラフ大統領は今年に入って最高裁判所長官の更迭を図ったり、モスク襲撃を強行したことなどから多くの国民の支持を失った。
 1999年にクーデターで権力を握って以来最大の政治危機に直面しており、政治基盤を強化する必要に迫られている。
 大統領は有力野党のパキスタン人民党を率いるブット氏とは水面下で長年協力のあり方を模索してきたが、今ほど彼女の協力を必要としている時はない。
 一方ブット氏は88年から96年にかけ2度首相を務めながらも汚職と失政で退陣、事実上国外に追放されていた。パキスタン政治に復帰するにはムシャラフ大統領の協力が不可欠で、両者の思惑が一致した。

 冒頭にも書いたが現在情勢の判断で重要なのは、最高裁の動向になる。というのも6日に実施されたほとんどフェイクともいえる大統領選に対して、最高裁が無効の審判を下す可能性がある。パキスタンの憲法では軍の最高実力者の地位である陸軍参謀長の肩書を持ちながら大統領選挙に立候補することはできないとされているからだ。ただし、この点については議会での承認の経緯もあることや、最高裁が強く反発するなら、選挙自体の実施を認めなかっただろうから、違憲判決がでる可能性は少ないと見られている。また、ムシャラフも表向きは軍を引く形を取る可能性もある。
 とはいえ、法というのは政治とは別の論理で動く可能性もあるし、あるいはその逆に現在のパキスタンの内政の動向を反映するかもしれない。端的に言えば、ムシャラフもブットも広く支持されないという流れになるかもしれない。
 日経社説では次の結語を導いているが、妥当な見解だろう。

 違憲であるとの判断を出すと、どのような事態になるか予測しがたい。ムシャラフ大統領は非常事態を宣言するかもしれない。パキスタン政治の安定の道筋は見えない。

 またそうはいっても日経社説が、ブットとムシャラフに次のように期待せざるを得ないのもしたかたがないところだろう。

 パキスタンは核兵器を保有し、アフガニスタンにおけるテロとの戦いでも重要な役割を果たしている。不安定化は国際社会に大きな影響を及ぼす。ムシャラフ大統領とブット氏は政情安定のため協力すべきだ。

 この流れの背景に、日本ではあまり報道されなかったが、10日、8年前に国外追放されたナワズ・シャリフ元首相がロンドンからパキスタンに帰国したものの、空港を出ずして4時間後に再追放された事件がある。なお、シャリフの帰国を承認したのは、最高裁である。
 シャリフは11月に再度帰国を検討しているらしい。夏以降の流れから見ると、ムシャラフはシャリフの復権を恐れてブットと組んだと見ることもできるだろう。ニューズウィーク日本語版9・19”嫌われ首相の凱旋帰国(The Comeback Artist)”では、現在の情勢の流れからみるとやや滑稽な感もあるが、次のように解説していた。

 確かに、シャリフは勝つかもしれない。大統領の与党、パキスタン・イスラム教徒連盟(PML)の議員の大半は、同連盟シャリフ派からの離脱組だ。専門家の予想通り彼らが寝返れば、シャリフは年内か年明けに行われる総選挙で最有力候補になるだろう。「私の直感では、流れはシャリフにとってかなり有利だ」と、元パキスタン陸軍中将のタルト・マスードは言う。

 シャリフ復権の目というのがどのくらいあるのか私にはまるで勘が働かない。ただ、ムシャラフとブットのラインが親米で、シャリフが反米ということでもないのは、亡命生活の状況や98年クリントンによるアフガニスタン空爆のミサイル通過を認めたことでもわかる。
 また、米国はムシャラフとブットのラインをこのままサポートしないかもしれない。ニューヨークタイムズ”In Pakistan Quandary, U.S. Reviews Stance”(参照)で話題になったように、米国によるパキスタン政策の見直しがほのめかされている。というか、ムシャラフを切るのでもなく、ブットもシャリフも繋げる可能性を米国を探っているところだろう。となれば、中国はどうかという流れがあり、もしかするとそのあたりの中国様のご不快を朝日新聞が察してあの社説が出てきたのかもしえれない、というのはさすがに冗談だが。

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2007.10.21

私が木原光知子をテレビで見ていたころ

 18日に木原光知子(本名、木原美知子)が亡くなった。59歳だった。死因はくも膜下出血ということだが、この年代の女性に多い。ネットを見ると「いであ株式会社, バイオウェザーサービス」というサイトの”脳卒中, くも膜下出血の患者数はどれくらい? 性・年齢別比較”(参照)のページに、平成11年の厚労省データがグラフ化されて掲載されているが、一目でその多さがわかる。中年期以降の女性なら乳ガンとともにくも膜下出血の危険性はよく知られているだろうが、中年期以降の男性で知っている人は案外少ないかもしれない。
 木原光知子は水泳選手なのでスポーツは十分に行っていただろうし、指導員でもあったから食生活も十分に配慮されていたに違いない。それでも、こうした突然死は免れえないのだろう。
 ウィキペディアを見ると(参照)、こうまとめられている。


高校在学時に東京オリンピックに出場し「ミミ」の愛称で一躍アイドル選手となった。100m自由形が主であったが、400mや個人メドレーなどでもトップクラスのオールラウンダーであった。競技を引退後は東レの水着モデルを務めるなどタレントに転向。その後、東レ関連会社の役員や自らの水着ブランドや水泳教室を運営するなどビジネス界に進出。40歳を超えてからマスターズ競技に復活し日本記録を樹立している。

 私は木原光知子の40歳以降の活動についてはほとんど知らない。結婚もされなかったのだろうか。私が彼女をよく知っているような気がするのは、昔、NHKの連想ゲームを見ていたからだろう。ウィキペディアには言及がないが、彼女はこの番組の常連の一人だったと思う。
 NHKの番組「連想ゲーム」(参照)をいつから見ていて、いつから見なくなったのかはっきりとしない。知り合いの外人がよく見て、日本語の勉強になりますとか言っていた。ウィキペディアを見ると、開始は1968年とのこと。終了したのは91年ともある。90年代以降はテレビそのものをあまり見なくなったように思う。私の連想ゲームの記憶は、加藤芳郎・坪内ミキ子キャプテンからだろうか。坪内ミキ子は坪内逍遙の縁者だよとか大人たちによく聞かされた。ああ中村メイコキャプテンの記憶もあるし、その後の水沢アキ、中田喜子の記憶もある。
 私の勘違いでなければ、檀ふみはこの番組で登場した。檀一雄の娘さんだよと聞かされた。中井貴恵は佐田啓二の長女だよとも。と思い返すと、すでに昭和の終わりの時期、昭和を回顧するためのこの番組はあったのかもしれないと気が付く。
 私より一つ年上の岡江久美子はこの番組が縁で大和田獏と結婚した。何年だっただろうかと、調べるにウィキペディアには情報がない。ざっと見渡すと、1983年(昭和58年)のようだ。自分の記憶でもそんな感じだ。してみると、私が連想ゲームを見ていたのは、70年の終わりということで、高校生の時代だったか。
 ところで全然知らなかったのだが、大和田ご夫妻に娘さんがおられ、大和田美帆(参照)とのこと。83年8月22日生まれとあるが、結婚が83年だとちょっと計算が合わないようでもあるが、それはさておき、娘さん、24歳か。私より一つ年上の岡江久美子の娘がもう24歳。それよりなにより、私はアニメ以外ほとんど民放テレビを見ないので、つまりはなまるとか見ないでその後の岡江久美子とかほとんど知らないのだが、私が知っている岡江久美子は大和田美帆より若いんだよ。なんか、くらくらして来そうだ。そういえば、草刈正雄の娘も出てきたな、最近。
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激写
135人の女ともだち
(1979年)
篠山紀信
 かくして時は流れる。加藤芳郎も昨年正月に亡くなった。水沢アキについては、あの時代の醜聞を聞くようにもなった。恥ずかしながら、私は実家の書庫のどっかにこっそり「激写 135人の女ともだち」(1979)を持っているはずだ、捨てた記憶もないので。ただ、探す勇気も、見つけたとしても開く勇気もない。開ければ、シェリーとかけっこう好きだったかとか見るだろうか。いやいや見なくても花畑でシッコしている姿が脳裏に刻まれているのがちょっと痛いぜ。みんなシェリーなんて知らないだろ?と思ったら、LISSAという娘さんが芸能界にいるとのこと(不確か情報)。

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2007.10.19

素人風邪対策

 パキスタン情勢も気になるけど、ちょっと息抜きエントリというか、経験的素人風邪対策の話でも。自分もちょっと風邪気味だし、回りの人やtwitterの人も、風邪引きさんが目立つので。なお、あくまで素人風邪対策なんで、適用は自己責任で。

■ ホットドリンク

ショウガ湯
 ちょっと寒気がするかな、元気がないかなというときは、ショウガ湯。ショウガを擦って絞って黒糖で飲んでもいいけど、めんどくさいときは出来合ので。個人的には、今岡製菓の粉末のがグッド。

葛湯
 これもちょっと寒気がするかな。お腹がちょっと空いたかなというとき。葛湯は葛の香りで決まるので、本葛がいいのだけど、上級品は吉野とかの製造で直接買うしかなさそう。自然食屋さんにもそれなりに売っている。作り方にはコツがあるんで、調べてみるといいかも(あるいはいつか書くかも)。出来合の葛湯では、これも今岡製菓の抹茶葛湯が好きだ。あられが香ばしくて美味しい。

レモネード
 レモネードはホットで。レモンを搾って、砂糖かハチミツで。ハチミツの香りを活かしたいときはレモンは控えめ。逆にレモンを香らせたいときは、皮をちょっと削る。ビタミンCを1000mgくらい入れてもいいかも。出来合だとこれも今岡製菓がグッド。

カリン湯
 カリンはそろそろ季節になるかな。散歩道でも実っている。ハチミツ漬けにするといい。作り方は調べてみるといいかも。自然食屋とかに漬けたのが売っているし、それでもなんとか。これも今岡製菓で粉末のがあり、それなりに。

キンカン湯
 カリン湯と似た感じ。中華食材の店に行くと、キンカンの砂糖漬けのドライにしたのが売っているのであれ買ってきて、刻んでお湯を注ぐのもグッド。これも今岡製菓のがある。

ゆず茶
 韓国食材の店にいくと売っている。品質はいろいろ。これだったらママレード茶でもありかも。

レンコン湯
 マクロバイオティクスに凝っていたころ咳風邪で飲んでいた。マクロバイオティクスの専門店ならコーレンというのがあるはず。まあ、そういうのもありくらい。類似のでは黒豆の汁、大根の汁など。それなりに。

■ お酒入り

たまご酒
 夜、うー冷えるというとき、たまご酒をつくることがある。これは意外に難しい。カラザを取りよく溶いて湯煎すると失敗が少ない。私はお砂糖とシナモンを入れる。

グリューワイン
 昨年だったか、グリューワインとして販売されるのを飲んだけど、以前から自分で作っているのとあまり変わらなかった。というわけで、作り方だけど、赤ワインに砂糖とシナモンとクローブを入れて温めるだけ。沸騰させない程度に。

■ 漢方薬

葛根湯
 けっこう風邪で反射的に葛根湯を飲む人がいるけど、これは傷寒論的には太陽病ということで、なんじゃなんだけど、ようするに首から背のこわばりがポイント。なんで背中こんな凝っていんるだ感があるとき、よく効く。個人的には顆粒を白湯に溶かして飲む。あと、カコナールとか液状のはよく効くみたいだ。製造元によって有効成分量が違っているようなんで、安い製品はそれなりに。

駆風解毒湯
 喉がひりひりに腫れているとき、これを白湯に溶いて、うがいしながら飲むと、それなりに効くというか、けっこう効く。ただし、ちりちりに喉が腫れているときは全身ダウンなんでそれほどは期待できない。トローチ状の製品もある。あと似たのに銀翹解毒丸がある。

小青龍湯
 これは鼻水だらだらのとき。

麦門冬湯
 空咳のとき。ただ、最近は使っていない。これもトローチがあったはず。

板藍根
 日本では、板藍根茶として売っている。中国人の風邪対策定番。なんでもかんでも板藍根という感じ。効くか? それなりに効く感じがする。使い分けは、なにげに喉腫れたかなというときに、ちょっと濃いめにくぅと。

龍角散
 咳き込むときに。これは応急処置。トローチのほうが効く感じがする。ところで、昔の処方ではニンジンが入っていたと記憶しているのだが、いつからかない。なぜなんでしょ。

穿心蓮
 正確には漢方というよりアーユルヴェーダ薬。個人的にはこれをよく使っている。入手は難しいと思う。

■ その他民間療法

ヴェポラッブ(Vaporub)
 鼻づまりとか息苦しいとき、これは意外によいですよ。でも過大な期待を持たず、控えめに使ったほうがいい。老人や子供にもいい。あと、風邪でないときでも安眠効果がありそう。

ユーカリ・アロマ
 アロマな人は定番。それなりにいいし、加湿器に設置できるのもある。でも、めんどくさいのでヴェポラッブでいいかな。

足湯
 野口整体、「風邪の効用 (ちくま文庫)(野口晴哉)」(参照)的な処置。くるぶしくらいまでを温めると、上半身の炎症が引く。体験的には効果がある。

ビタミンC
 これは薬局でアスコルビン酸の原末で買っておくといい。私はオレンジジュースやグレープフルーツジュースになにげに1000mgほいっと加えることがある。フランスパンを焼くときにも使える。風邪の対処としては、2000mgを水にといてそのまま一日数回。医学的にはビタミンCの風邪対処は効かないとされているが、それなりに効く。ただし、漢方系と併用しないほうがよさそうなので、最近は使わない。お話的には、「ポーリング博士のビタミンC健康法(ライナス・ポーリング)」(参照)だが、読書人向けには、「ポーリングの生涯 化学結合・平和運動・ビタミンC」(参照)がバランスが取れていて面白い。ポーリングとかラッセルとかあの時代の面白いインテリだった。

ぬれマスク
 これもネットで検索するといろいろ情報があると思う。だけど、本格的なのはけっこう息苦しい。紙でできたウェットなマスクが販売されていたそれのほうが便利。本来のぬれマスクは予防だけど、風邪引いたあとでも喉を潤すのでいい感じ。

喉スプレー
 いろんなタイプがありそれなりにっぽいけど、ポビドンヨード主成分のが効くように思う。ただ、喉の炎症は一度炎症するとなかなか早急に治るというものではないから、しゅぽしゅぽやりすぎてもダメかと。

蔘鷄湯(サムゲタン)
 これは韓国の定番、ということなんだけど、人参鶏湯として中華圏ならどこでもある。こういうのもなんだけど、効くのはすごく効くという経験がなんどかある。ポイントは、蒸気で蒸したスープということみたいだ。

■ 大衆薬

小児用バファリン
 以前は風邪の鎮痛にはひたすら耐えていたのだけど、それで反って身体をこわしたことがあり、あまり痛みがひどいときには、アセトアミノフェンを飲むことにした。米人ならタイレノールなんだが、あれだと私には多すぎるので、小児用バファリンを使っている。1錠で33mg。私の場合は、100mgでけっこう効く。ちなみに日本の大衆薬の風邪薬はけっこういろいろ入っている。コディンなども入っていたりする。意図はわかるし、それほど危険というものでもないが、たいていの場合、アセトアミノフェンで対処できないときは、医者に行けだろう。追記 コメント欄でご指摘もいただきましたが、アセトアミノフェンとお酒は併用しないように。

 以上、ま、そんなこと。なんだか健康オタクみたいな話だけどご参考になるものがあれば。

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2007.10.18

[書評]マネーはこう動く-知識ゼロでわかる実践・経済学(藤巻健史)

 藤巻さん、ユーロも外したしサブプライムも外したなあ。おそらく内容は「極東ブログ: [書評]藤巻健史の5年後にお金持ちになる「資産運用」入門」(参照)と同じだろう。これは読む必要はないか、と実は素通りだった。「マネーはこう動く 知識ゼロでわかる実践・経済学(藤巻健史)」(参照)である。

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マネーはこう動く
知識ゼロでわかる実践・経済学
藤巻健史
 が、今月のVoiceで彼はこの新著についてこう触れていた。

本稿を執筆している九月十八日現在、サブプライムローンの問題が騒がれ、日米の株価が落ちたため、それまで絶好調だった本の売り上げが鈍り、「話が違うじゃないか」という読者のお叱りも受けた。しかし率直に申し上げて、私の判断はいまも変わっていない。

 へぇ。と思って、早速買って読んでみた。副題に「知識ゼロでわかる実践・経済学」とあるように、前半は経済学的な話が比較的わかりやすく書かれていてちょっと退屈かな、いやこういう基礎はしっかり復習しておくといいかな、ああ、そうだそうだとか思って読み進めた。中学生だと難しいかもしれないけど、高校生くらいならこの本を読んでおくといいと思うなとか、ふんふん読み進めた。
 「比較的わかりやすく」と留保したのは、信用創造のあたりで、具体的な数値をはめた例を示して書かれているのだけど、例えば。

 通常はベースマネーが増えると、この信用創造というメカニズムを数字手、マネーサプライが増えます。100万円入れると---この例では準備率は10%だから---理論上は1000円のマネーサプライが増えることになります。理論上はベースマネーの増加書ける1/準備率という式でマネーサプライの増加が起こるのです。

 経済学に親しんだ人なら頭に等比数列がすぐ浮かぶのだろうし、それほど難しい式でもないし、ケインズの乗数なんかと同じ発想なんだけど、ちょっとためらう人もいるかなと思った。他にもそういう箇所がいくつかある。値段と金利の関係などもそうかもしれない。なので、この1ランク下の解説書とかあってもいいかもしれない。それってなんだろとか少し思った。
 藤巻は経済学者ではなく現場の人なので、もろに現在の経済状況に立ち向かうところが面白いし、経済学者にすると突飛な発想でも、私など素人にはほぉと思うことは多い。ブログの風景の関連で言えば、リフレ政策に関係するあたりだ。藤巻はある種自動的に資産インフレになるだろうと見ている。その理路も面白いのだが、ほぇと思ったのは、ネットのリフレ派さんは「日銀っておバカ?」みたいな議論が多いように思えるけど、藤巻はむしろ日銀の行動を合目的に見ているしそれなりに評価もしているようだった。その結果がなるほどという線を描いている。
 先日の「極東ブログ: [書評]スタバではグランデを買え! 価格と生活の経済学 (吉本佳生)」(参照)でもそうなのだが、後半に入ると、ぐっとトーンが変わった印象を受ける。特に為替の議論からだ。
 私は経済学を知らないので外しているかもしれないが、為替の変動について妥当な経済学の理論は存在しないはずだ。そして本書でもごく基本の経済の仕組みは踏まえているものの、このあたりからかなり実践家としての藤巻の意見がずかずかと入り込む。それが面白いといえば面白いのだが、経済学の基礎を学ぶという点からはそれてきている。別の言い方をするとこれもネットのリフレ派さんに多いように思うのだけど、経済学に忠実でも実践的な示唆はなく理論の理解の審級に拘泥してしまう、といったことは藤巻にはない。
 ただなんともわからないなと思うのは、キャリートレードとかの解説だ。

 最近のトピックで、キャリートレードという言葉がよく出てきます。「キャリートレードが増えている」とか、「キャリートレードを解消する」とかよく聞きます。しかしこれがまたウソなのです。

 として実務経験からヘッジファンドはキャリートレードをせずドルの先物買いをするという話になる。説得力はあるのだが、こういう話はどう判断してよいのかよくわからない。
 個人的な関心事としては、中国経済の未来について知りたかったのだが、本書ではほとんど言及がない。多少のクラッシュはあっても、10年スパンで中国経済の膨張が続くと見ているというふうな印象を受ける。ただそれでも、藤巻は米国ドルの優位をがんと説いているので、その配置から中国経済の今後を見るとどうなのかとは思った。そういうことろが知りたい。
 藤巻のいうように日本にモデレートな資産インフレが起きるかどうか。その判断はモデレートなのでその兆候が見えてからでもいいかもしれない。私としては、ごく悲観的に、日本経済がこのまま現状硬直化してぐずぐずとして、10年したらこんなちっぽけな国家になってしまいましたとさとなるような気がするが、先日の「極東ブログ: 円天の詐欺ってどういうことだったのだろう」(参照)の事件が暗示するかもしれないように、カネはあるところにはあるので、浮かれ気分が世相を覆うと、カネ回りがよくなってということはあるのかもしれない。

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2007.10.16

韓国におけるベトナム人妻

 誤解されてもなんなので避けていた話題なのだが、昨日朝鮮日報で”【萬物相】ベトナム人妻”(参照)という日本語化されたコラムを読み、これはもしかすると日本語で書いてあっても現代日本人にはわからない話題か、あるいは東アジアの文化圏に同じく所属する日本にも通底する話題なのか、少し考え込んだ。この機に簡単に書いておこう。
 同コラムは冒頭こう始まる。


 ベトナムの女性は結婚する前、両親から「“四徳”を守れ」という話を言い聞かされるという。四徳とは、家事や農作業に精を出す「工」、身なりを整える「容」、気立て良くという「言」、目上の人によく仕え、夫によく従えという「幸」の4つを表している。

 端的に言えば、ベトナム女性は儒教的な道徳において優れている、すばらしいのだということが言いたいのであろう。が、この話の枕はベトナムにおけるベトナム女性の話ではない。

 「慎ましく、純潔で、夫の両親の世話をよくする」というのが、国際結婚斡旋所の説明する、ベトナム女性の長所だ。「儒教の影響が強く、王に接するような態度で夫に接する」という人もいる。

 ということで、韓国に嫁ぐベトナム人女性の話題であることがわかる。というか、現在の韓国人ならなぜこれが話題になるかはわかる。が、それは後で触れるかもしれない。さしあたって重要なのは統計だ。どんだけぇ~。

 こうした宣伝が功を奏しているのか、韓国人の男性と結婚して韓国にやって来るベトナム女性の数は、年毎に増加している。昨年韓国人男性と結婚した外国人女性3万1180人のうち、ベトナム人は5822人と、中国人の2万635人に続いて第2位を記録している。また農村や漁村の男性と結婚した外国人女性2885人に限って見ると、ベトナム人は1535人と圧倒的1位を占めている。

 これが多いのか少ないのか判断に迷うかもしれない。ちなみに韓国の人口は4800万人ほど。日本の約三分の一の国家と見ていいだろうとして、どうなのか。比較にウィキペディアに日本での統計があった(参照)。

厚生労働省の人口動態統計年報によれば、2006年の国際結婚数は、夫日本人・妻外国人が35,993組、夫外国人・妻日本人が8,708組で、4倍以上の差がある。但し、これらは日本政府が認識している国際結婚数のみであるため、外国政府にのみ手続をした場合のデータは含まれていない。


配偶者女性(夫が日本人)ではフィリピン(12,150)、中国(12,131)、韓国・朝鮮(6,041)、タイ(1,676)、ブラジル(285)、米国(215)、ペルー(117)、英国(79)、その他(3,229)となっている。

 ざっと見た感じでは、韓国のほうが外国人を妻にする率が倍近いにように思われる。中国人妻の比率は4倍くらいか。そしてベトナム人妻については、日本では統計的にはほとんど目立たないので、現代韓国特有の現象だと言っていいだろう。
 話を朝鮮日報のコラムに戻すと、最終部近くで次のように虐待への懸念がある。

 慶尚南道南海、全羅南道海南などの自治体では、ベトナム人をはじめとする外国人と国際結婚した夫婦に平均500万ウォン(約64万円)の手当てを支給している。だが故郷を遠く離れた異国の地で、夫からの虐待や暴力に苦しむ女性も少なくない。

 これは先日の事件を背景としている。日本で報道されたかどうかしらないし、日本語で読める韓国系ニュースサイトにあったかどうかもわからない。事件はベトナム側での報道がわかりやすい。8月26日付け日刊ベトナムニュース” 韓国に嫁いだベトナム人花嫁の「最後」の手紙”(参照)より。

 韓国人男性と結婚したベトナム人女性フィン・マイさん(20歳)の惨殺死体が自宅で発見された。ろっ骨を18カ所も骨折しており、発見時には死後8日間が経過していたという。今月9日に韓国のテレビで報じられたこのニュースは多くの人々を驚かせた。

 ニュースはベトナム側でも大きく報道され、その英語関連のソースから私はこの事件を知った。現時点で見渡すと、ベトナム・ネット8月24日”Murdering Korean husband to go on trial soon”(参照)や9月3日”Huynh Mai’s ashes given to family”(参照)などでそのようすを伺い知ることができる。
 先のベトナムニュースの記事に戻る。

 マイさんが韓国での生活について5枚にわたってつづった手紙が、韓国のインターネットニュースサイト「オーマイニュース」上で公開されている。「いい妻に、いい母になろうと頑張った。あなたともコミュニケーションをとろうと努力した。それなのにどうして私のことに関心を持ってくれないの? 温かい家庭を築きたい、そんなささやかな夢はかなえられなかった」。手紙からは韓国語が話せなかった彼女の憤りが感じられる。

 よくわからないのだが日本のオーマイニュースはまだ存続しているのだろうか。であるとしてこの問題はどのように触れられたか気になるが、ざっとサーチした範囲ではわからなかった。
 この問題は、ベトナム人妻が増えるにつれ生じた問題であって、社会システム的な背景は弱いと言えるのかもしれない。しかし、先の朝鮮日報のコラムに農村での集中があったことや、次のように仲介会社の問題がありそうだ。

 手紙は殺される前日に書かれたもので、引き出しの中にはいっていた。彼女のパスポートは引き裂かれてゴミ箱に捨てられていた。外国人支援センター長のキム・キ・シュー氏は「相談してくれてさえいれば、こんなことにはならなかっただろう」と語る。彼女の場合、結婚を仲介した会社が倒産していたため、誰にも相談できなかったものと思われる。地元の市は相談センターを設置しているが、彼女のようにその存在を知らない人は多い。

 こうした問題は韓国外のほうからのほうが見やすい。9月25日付けタイ発ニュース速報”韓国人にベトナム人花嫁あっせん、男性逮捕”(参照)では次のような違法のケースも報道されていた。

【ベトナム】ベトナム・ホーチミン市警察当局は23日、ベトナム人花嫁を求める韓国人の37歳と39歳の男性に対し、ビンタイン区内のレストランで中南部の各省出身の女性65人の「顔見せ」を行っていたベトナム人男性(46)を逮捕した。容疑者は2005年以降、同様の手口で結婚相手のあっせんを行い、1人当たり1500米ドルの報酬を受け取っていた。韓国に住むベトナム人花嫁もあっせん過程に関与しているもようだ。

 別ソースでは「顔見せ」についてやや詳細な報道もあるが、問題の本質ではないだろう。また、こうした不法な結婚仲介会社の存在というのも、別段韓国に限ったことではないだろう。ただ、日本と比較して顕著に、韓国がベトナム人妻への志向をもっていることは特徴的であり、その背景は、朝鮮日報コラムにあった、同じ儒教的な文化背景への好感があるのだろう。だが、その文化背景は、同時に伝統社会的な圧迫感ももたらすだろうことは推測しやすい。
 すでにそうした社会問題を意識してか、韓国のメディアでもこうしたテーマが大衆的なドラマになっているようだ。朝鮮日報”【フォト】「新ドラマ『黄金新婦』をよろしく!」”(参照)より。

 同ドラマは韓国人の父に捨てられたベトナムの少女(イ・ヨンア)が実の父を探して韓国を訪問し、結婚紹介所を通じて韓国人男性と結婚、餅の商売を成功させる物語。

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コリアン世界の旅
野村進
 餅はトックであろうか。このドラマがNHKなどでアジアを背景にした韓流ドラマとして放映されるなら、見てみたい気はする。

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2007.10.15

イスラエルによるシリア空爆の対象は北朝鮮設計の原子炉だったか

 先月6日の謎の、イスラエルによるシリア空爆については、「極東ブログ: イスラエルによるシリア空爆からシリアと北朝鮮の核コネクション報道のメモ」(参照)で触れたが、関連の重要ニュースが13日付けニューヨークタイムズの記事”Israel Struck Syrian Nuclear Project, Analysts Say ”(参照・要登録)で報道された。記事によれば、イスラエルによるシリア空爆の対象は北朝鮮設計の原子炉だったとのことだ。


Israel's air attack on Syria last month was directed against a site that Israeli and American intelligence analysts judged was a partly constructed nuclear reactor, apparently modeled on one North Korea has used to create its stockpile of nuclear weapons fuel, according to American and foreign officials with access to the intelligence reports.
(諜報活動報告を読む立場にある米国およぼ他国の高官によれば、先月のイスラエルによるシリア空爆の対象は、イスラエル及び米国諜報分析の判定による建設中の原子炉であり、これは一見して北朝鮮が核兵器燃料備蓄用に作成したモデルをひな型にしているとのことだ。)

 このニュースで私が気になったのは情報源であり、ご覧の通りその点が明白ではない。そこで他ソースはないか、二日待ってみたのだが、やはり他ソースはなく、ニューヨークタイムズ特ダネのようだ。が、他の信頼の高い英米の報道機関がこの間、ニューヨークタイムズ報道に疑念を投げかけることなく、事実上、このこの報道事実として見ているようすが伺えた。おそらく事実なのだろうと。ということは、先月極東ブログで書いたエントリ、特にボルトンの引用あたりはほぼ正確だったと言えるだろう(なおボルトンとニューヨークタイムズは仲がよいとは言えない)。
 ニューヨークタイムズの報道は日本でどういう扱いになるのか気になったが、ロイターや共同、CNN、AFPなどで流れていた。AFP”米紙が報道、イスラエルのシリア空爆は建設中の核施設が標的か”(参照)が、ニューヨークタイムズの孫引きとして詳しい。

【10月14日 AFP】米ニューヨーク・タイムズ(New York Times)紙は13日、9月6日にシリアを空爆したイスラエル軍の戦闘機は、建設中の核施設とみられる標的を攻撃したものだったと報じた。この核施設は、北朝鮮の施設をモデルに作られていた可能性があるという。
 匿名の米情報局員が提供した情報によると、イスラエル側は、隣国でのいかなる核計画も容認しないという意思表示のために空爆を行ったとされる。

 CNNも日本語で読めるソースとして補足なるだろう。”「イスラエルのシリア空爆、原子炉が標的」と米紙”(参照)より。

ニューヨーク 13日付の米紙ニューヨーク・タイムズは、米国および海外の消息筋の発言として、イスラエル軍が先月6日に行ったシリア空爆の標的が、建設途中の原子炉であったと伝えた。
 ブッシュ米政権が空爆前にイスラエル政府と激しく議論した際には、シリア空爆が時期尚早かをめぐって意見が分かれたという。
 シリアのアサド大統領は、イスラエル軍の空爆が「使用されていない軍施設」だと説明していた。イスラエル当局は空爆の報道を制限し、先日ようやく国内の報道を解禁した。

 いくつか現時点で整理すると、まず、空爆は事実として確定された。空爆対象は、北朝鮮と関連のある原子炉であった可能性はかなり高い。ただし、現時点での危険性は少なく、米国としては空爆に批判的だった。だが、イスラエルが空爆したのはイランへのメッセージだとも受け止められる、というあたりだろう。
 私の印象としては、イランへの威嚇は当然あるだろうと見てよいだろうが、それよりも、イスラエルという国は、1981年のイラク原子炉空爆でもそうだったが、対立国の原子炉建設を完全に許さないというのを国是としていると見ていいことの確認だ。そのことは米国でもどうしようもできないようだ。
 さて、この問題の日本との関わりは当然北朝鮮なのだが、その点ついての考察はれいによってという印象だし、私の見渡した範囲に過ぎないが、存在しない。毎度のことながら、日本のジャーナリズムの沈黙は奇っ怪だ。
 イスラエルが対立国の原子炉建設を許さないことが国是だとすれば、今回のシリアの原子炉のモデルと見なされる北朝鮮の原子炉はどうなのだろうか。当然疑問がわくのだが、これに呼応する奇妙なニュースもあった。ロイター”北朝鮮、核実験場の地域周辺で警備強化=聯合ニュース”(参照)より。

 北朝鮮は、昨年に核実験を行った地域周辺の警備を増強している。韓国の聯合ニュースが14日、匿名の韓国政府筋の話として報じた。
 それによると、実験場に警備兵が増強配備されたほか、地域周辺にはフェンスが新たに設置されているという。

 また時事では”北朝鮮、核実験場周辺に鉄条網=米韓が動向注視-聯合ニュース”(参照)で伝えている。

韓国の聯合ニュースは14日、同国政府筋の話として、北朝鮮が昨年10月に核実験を実施した咸鏡北道・豊渓里の実験場周辺で鉄条網工事を行っており、警備の兵力が増強されていると報じた。

 ソースとなる聯合ニュースだが日本語版にはこのニュースが見当たらないようだ(私が見落としているかもしれない)。英語版でも見当たらなかった。朝鮮日報でも日本語版には記事はないが、英語版には該当記事”N.Korea Tightens Security at Nuclear Test Site ”(参照)があり、衛星写真も掲載されている。
 この報道が事実だとすれば、なんのための警備なのか。このエントリで陰謀論ようなものを誘導したいわけではないが、話の流れからすればイスラエルからの攻撃だろうかという推測は多少なりとも浮かぶ。だが、北朝鮮で警備されているのは原子炉ではないとも言えるし、六カ国協議の対象ともいえる原子炉をこの時点でイスラエルが攻撃するわけもないとも言える。
 米国からの警備かというストーリーも浮かばないわけではないし、中国やあるいは北朝鮮内部の勢力ということも考えられないではない。
 ただ、妥当なところではこの警備がどの程度重要な問題か、またこの怪しげなニュースの出所も気になるところだ。

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2007.10.13

首都圏改札トラブル

 昨日12日早朝、首都圏のJR、地下鉄、私鉄各線の多数駅で自動改札機の電源が入らないトラブルが発生した。始発からのトラブルだった。JRに限定すると、大宮、川崎、横浜、宇都宮など、東京近郊の約160駅だったらしい。これから都心部へ向かう通勤客が、いわば入り口で故障改札機に遭遇し、システム的には非正規に通過した。社会的な問題はむしろ、首都圏の出口のほうで発生した。一部の通勤客がシステム的に正規通過できないため、混乱をさけるために全面的に改札機を停止することになった。事件は一応、同日の午前中には収束したが、解決したわけではない。
 JRなど鉄道会社には損害が出たし、多数の通勤客も不便だったという意味で社会事件なのだが、怪我人などが出たようでもなく一過性の奇妙な事件として忘れ去れるかもしれない。私は、なぜこんな事件が発生したのか、関心を持った。現時点ではあらかた解明されているので私の愚考など意味がないのかもしれないが、少し自分の発想をなぞり、そしてその後の解明ストーリーから推測される話を備忘にまとめておきたい。
 当初私がこのニュースに接したときは、入り口の改札機の電源が入らないとのことだった。なので、単純に電源系のトラブルだろうか、であればソフトウェアの関与は少ないか、と思った。しかしこの手の情報機器はパソコン同様電源系もまたソフトウェア制御下に置かれるので、つまりはソフトウェアのバグ(あるいは設計ミス)が原因だろうと考えた。
 どのようなバグがこうした広域のエラーをもたらすのだろうか? 私の最初の推測は、すでに多数のエラーがすでに発生していて、それが昨日ある一定の量を超えてしまったのではないか、というものだった。
 その時点でネットをサーチすると昨年末の改札機バグの話”「スイカ」改札通れないトラブル・説明責任を果たすべき”(参照)がすぐに見つかった。


 12月1日午前0時ちょうどに横浜、大宮など首都圏約180駅で、スイカを使って自動改札機を通過できなくなるトラブルが発生した。トラブルが起きたのは全て日本信号製の改札機で、「スイカ定期券」「ビュースイカカード」「モバイルスイカ」をかざした際に、正規のカードを誤って拒否したという。
 対策としてコンピュータープログラムの修正作業をしたところ、同日午前5時すぎに全駅で復旧した。スイカシステムの大規模な事故はサービス開始以来初めてである

 電源断ではないが同種の事故であり、即座に日本信号製が怪しいと目星を付けた。なお、同記事は昨日の事件を予想している。

 その際のトラブル対策として、1日午前0時から終電までと始発から午前5時くらいまで自動改札を開放したらしい。そのため、その時間帯に自動改札を通った人は無料で乗れたことになるが、トラブルのあった時間帯に入ったとしても、復旧後に出た場合は、自動改札の扉が閉まり無料にならなかったはずだという。幸い多数の人が乗降しない時間帯でのトラブル発生であったから良かったものの、ラッシュ時間帯にこのようなことが発生したら、大変な混乱となったであろう。

 その大混乱が昨日発生したわけで、おそらくそのドゥームズ・デーをJRや日本信号もある程度想定したと考えていいだろう。
 実は、このエントリを書くべきだと思ったは、同じく同記事の次の指摘に同意したからだ。

JR東日本のホームページのニュースリリースには、「スイカ電子マネーをご利用できる店舗を順次拡大しており…」などというのんびりした発表はあるが、今回のトラブルについては、障害が発生したことについては報道発表しているが、原因などについては何らのコメントも掲載していない。日本信号のホームページも同様だ。マスコミも、その後口止めされたわけでもなかろうが、何も報道していない。それとももう報道価値がないと思っているのだろうか。

 昨年末時点でこの混乱について、情報が公開され、またマスコミも報道すべきであっただろうと思う。
 だが、実際に大混乱が起きてみると、報道したからといってなんの益もないではないかという考えもあるだろうか。そこが難しいところで、今回の大混乱は、我々の社会の深層のある病理を暗示しているのだろうと私は思う。それゆえに、この問題は、やはり考慮すべきだろう。
 さて、昨日の私の愚考の経緯に戻るのだが、私が解けなかったのは、なぜ電源系なのか?ということだった。ちょうどその前日の午後に関東一円で広域の電圧降下が起きた。”関東一円で瞬時の電圧低下、午後1時半に茨城から波及”(参照)。またその状況はたまたま私がtwitterで各地のパソコンユーザーからの異常のメッセージを受信してたので、気になっていた。電圧降下が改札機に強い影響を与えて暴走した機械もあったのではないか、ととりあえず考えてみた。
 結論から言えば、私の推測は間違いだった。問題はそうした分散した小悪要素が一定の閾値を越えたというのではなく、もっと単純に、一元システムの一元性が関係していた。これらの機器はネットワークで集中管理されており、中心から「故障せよ」に等しいメッセージが送り込まれたようなことになった。もちろん、「故障せよ」といったメッセージをセンターシステムが送ったわけはない。正常メッセージなのに、バグのある端末の改札機が誤解して異常動作を惹起したにすぎない。つまり、端末の改札機のバグが原因なのだが、この事態は一元管理でなければ起こりえないという点も重要だろう。
 具体的に現時点に近い報道から仕組みをみていこう。
 産経新聞”パスモ、スイカ相互利用システムにトラブル?”(参照)より。パスモとスイカの相互利用に関して、

 相互利用にあたっては、それぞれの改札機のデータ許容量には限界があるため、改札機はホストシステムである「相互利用センター」との間でデータ交信を実施している。毎日深夜に、改札機の端末のデータと相互利用センターとのデータを一致させることで、改札機の電源が入る仕組みになっている。
 同社によるとトラブルが発生したのは12日午前3時ごろ。同社によると、「改札機のデータを管理する『相互利用センター』のデータと、改札機の端末のデータが一致しなかっために改札機の電源が入らず、改札機が作動しなかった」という。しかし、「データが一致しなかった理由は分かっていない」と説明している。原因解明には12日いっぱいかかる見通し。

 重要な点をまとめると、まず、電源の制御はネットワークで一元管理されていることがわかる。次に、このバグは昨年末のバグと同種類のものであることは色濃く推測されることだ。
 また毎日新聞”首都圏・自動改札機トラブル:プログラムミス原因、260万人に影響”(参照)より。

 トラブルがあった改札機は、16の鉄道事業者が使うICカード対応の全改札機の約4割に当たる計4378台に上った。
 自動改札機は3社が製造しているが、トラブルが起きたのは日本信号製のみだった。
 同社などによると、改札機には電源投入時、ICカード相互利用センターから▽不正使用▽期限切れ--など定期券やクレジットカードに関するデータが送信される。同社で調べたところ、改札機がクレジットカードに関する特定の長さのデータを受信すると、電源が入らないプログラムミスがあった。

 はっきりとわかりづらいのだが、バグ付き改札機は、センターからの正常メッセージを、「電源断せよ」と理解して動作したということなのだろう。率直に言えば、そんな電源断の機能が遠隔操作で可能なシステムとして設計されていたのかというのが、やや驚きだ。
 あと事件の顛末だが現状正常に動いているとはいえ、バグはまったく修正されていない。読売新聞”自動改札きょうは順調、ソフト未改修のまま”(参照)より。

 日本信号はこの日、始発前に改札機の作動テストを繰り返し、前日に起きたトラブルが再発しないことを確認できたとして、始発から使用開始に踏み切った。
 しかし、新しいソフトウエアができるまでは、問題のある現在のソフトウエアをそのまま使用し続けるため、同社は今後、毎朝、始発前に作動テストをして安全を確認するとしている。

 このままこのシステムが継続される可能性もありそうだ。IT Pro”【続々報】首都圏の自動改札障害は接続認証のエラー、「昨晩は保守をしていない」 ”(参照)より。

 日本信号によると「昨晩は自動改札機に関係するメンテナンス作業をしていない」(広報担当)という。早朝の復旧作業は、ネットワークを切断した状態で自動改札機を再起動することで実施している。

 メンテナンス作業によってバグ付きシステムを補助しつつ稼働させるのが、このシステムの正常稼働ということなのかもしれない。
 以下、そうした仕組みと対応の理解を踏まえての愚考。
 端末・改札機に不正があった場合、遠隔のセンターから電源断にするという設計は何を意味しているのだろうか気になる。そういう設計の指針なり哲学なりが私にはわからない。私の素人考えでは、不正といっても、単発事件としては巨額なカネの問題ではないのだから、異常を各駅に通知するだけで十分ではないか。むしろ、そこから不正をトレース(追求)すべきなのではないか。
 そう考えてみて、気になるのは、各駅のそうしたマネージメント的な対応という負荷をかけないセントラルなシステムであれ、というのがこのシステムの設計思想なのではなかったかということだ。なにか冷やりとした人間不信を感じさせられる。だが、今回の大混乱の顛末を見ると、結局のところ、各駅のマネージメント対応となっている。
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ヒトデはクモよりなぜ強い
 今回の大混乱を振り返って、先日読んだ「ヒトデはクモよりなぜ強い 21世紀はリーダーなき組織が勝つ」(参照)が気になっている。同書は組織のマネージメント論として描かれているのだが、もっと単純にシステム論として読むこともできるだろう。
この書籍では、センターを持ち、上位から下位を指令するトップダウンの構造の組織を「クモ型組織」と呼び、これに対して、権限が分散され、各部が知的に独立的に動作する組織を「ヒトデ型組織」と呼んでいる。
 システム論として見た場合、クモ型システムとヒトデ型システムは完全に対立するものではないだろう。クモ型システムの場合はセンターまたはセンターと端末交信にエラーがあれば、システム全体が誤動作してしまう。しかし、ヒトデ型システムであれば、システムの誤動作は局限できる。
 今回のケースに関連していえば、大混乱再発の可能性のシステムは、ヒトデ型システムをもつべきだろう。さらに、そうしたヒトデ型システムの要請は、今回のような改札システムだけには限定されないはずだ。

追記
コメント欄でエンジニア的な視点からいくつか有益なご指摘をいただいた。参照していただきたい。エントリでは「電源の一元管理」としたが、「管理」という表現は拙速だったかと思う。
 ume-yさんから教えていただたい記事は技術的により詳しいので参照していただきたい。
 ”260万人の朝の足を直撃 プログラムに潜んだ“魔物””(参照)より。

 調べたところ、ネガデータに「ある長さ、ある件数」といった条件が重なった時、データが読み込めなくなるプログラム不具合が判定部側にあることが判明。このため、判定部はエラーを返しながらネガデータ読み込みのリトライをひたすら繰り返す状態に陥り、起動処理が止まった。

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2007.10.10

[書評]スタバではグランデを買え! 価格と生活の経済学 (吉本佳生)

 面白い本だと思った。よく売れているようだ。ただ私は珍本に近いかなという印象も持った。たぶん、この本は、れいのベストセラー「さおだけ屋はなぜ潰れないのか? 身近な疑問からはじめる会計学(山田真哉)」(参照)のノリで企画されたのではないだろうか。あちらが会計学ならこちらは経済学ということで。そうしたノリ、つまり、難しい経済学とかを卑近な事例でわかりやすく説明するという枠組みがこの本の前半まで続く。

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スタバではグランデを買え!
価格と生活の経済学
吉本佳生
 ただ、さおだけ本がべたに会計学を指向しているのに対して、このスタバグランデ本のほうは経済学を指向しているのではなく、現実の価格現象にきちんと向き合ってしまっている。その意味で方向性がまるで逆だとも言える。筆者は経済学というものが社会にどうあるべきか、ある意味で実務的な感性がしっかりとある、あるいはありすぎるのだろう。
 ちょっと野暮なことを言うと、経済学は所詮は世間の現象を扱っているので、世間の現象に限定するなら、学の形態をしなければ理解できないというものではない。ある程度、社会とカネに向き合って、それなりの経験があれば、わかるものだろう。比較優位についても学問的に形式的に説明できなくても、具体的な現場の監督とかなら人の使い方で自然にわかっているものだし、実質金利についても、賢くタンス預金している人もいる。しかし、それがマクロ的に正しいかとなるとそうではないが、というあたりで、どこかしらこの学問が国家とマネーの権限に関わってくる胡散臭さの地点があり、そこで身を引いたりもする。そんな意味合いで言うなら、本書の前半は、ごく常識の学問的な確認という色合いを帯びている。
 が、後半、「100円ショップの安さの秘密は何か?」の章から、奇妙なトーンが現れてくる。微妙に経済学で現実をねじ伏せるような知的なチャレンジのシーンが多くなるのだ。さおだけ屋本のように「あんた本当は世間をなんも知らんでしょ、ぼっちゃん」みたいにツッコミしたくなるのとはまさに逆で、「あんたなぜそこまで100円ショップに関心を持つ?」といった、ある種の熱狂感だ。
 そしてこの熱狂感には学問モデルというものへの、モダンアート的な歪みのような感興もある。皮肉ではない。このあたりから、この本の抜群の面白さが始まる。少し長い引用になるが、このあたりにそうしたトーンが濃い。話は、「100円ショップで原価を気にする消費者は、じつは賢くない」というテーマで、具体的には、100円ショップで仕入れ価格が10円前後の商品を買うべきかという問いだ。いや、この問いに笑ってはいけない。

 確かに、仕入れ価格が10円前後の商品は、だから他の店でもっと安く(105円より安い価格で)売っているとすれば、そちらの店で買うべきかもしれません。しかし、100円ショップで買うのが一番安い商品であれば、たとえそれが原価10円の商品だとしても、必要なら100円ショップで買うべきでしょう。
 逆に、あまり必要でない商品が、原価120円なのに100円ショップで売られているのをみつけたとしても、それを大量に買って、確かに120円で売るという裁定取引をおこなって儲けることができないなら、無理に買ってもムダになるだけ(邪魔になるだけ)です。現実に100円ショップで売られている商品の原価が100円を超えていても、取引コストを考えれば、たぶん裁定取引で儲けることはできないと思われます。

 裁定取引の部分に説明が必要だろう。価格差があるときその差分で儲ける取引のことだ。
 さて、この部分を読んでどういう印象をもっただろうか。引用部分ゆえに前後から孤立してなんだかわからないというのは当然あるとしても、実際に、100円ショップに立つ自分を想定して、この状況と思考がフォローできるだろうか。単純な話、100円ショップで原価10円のものを購入する必要はどのくらい問われるか、原価が10円のような商品を買うシーンはなんだろうか、というあたりで、ある種シュールな感覚に襲われてくるのではないか。たぶん、経済学的な抽象化と具体的な生活のシーンの齟齬がある。
 こう続く。

 つまり、100円ショップでの買い物で、原価の高い安いをみて損得を判断する消費者は、一見すると、賢い消費者としての行動をしているようにみえるかもしれませんが、じつは賢くないのです。大切なのは、他の店で買うより安いか高いかであり、しかも取引コストを考慮して判断すべきです。

 もちろん、言わんとしていることはわかる。原価はどうでもよく同一商品が他店より安ければ買えだし、取引コストが低ければ買え、ということだ(このあたりでこの買えが金融商品のニュアンスを帯びていることに気づくだろう)。が、がというのはその「買え」の賢さ、つまり経済学的に合理的な購入の行動(これは裁定を前提とした卸商人の発想だろう)と、必要性(必要性というのは最終の消費者だろう)はどう関わっているのだろうか。実は、ここには複雑な関係が潜んでいるはずだ。
 こう続く。

 くり返しになりますが、原価が安い(原価率が低い)商品ほど、他の店での価格が安い可能性があるという点では、原価(率)はある程度参考になります。しかし、原価が安い商品でも、他の店でもっと高く売っている商品は、いくらでもあるでしょう。100円ショップでの買い物においては、あまり原価を考えないほうがいい、と筆者は考えています。

 悪口を言いたいのでも、無茶な批判をしたいわけでもないが、これはごく単純に論理的に破綻しているのではないだろうか。というのは、「しかし、原価が」というくだりだが、通常は、原価が安ければ他店では安く売っているのであり、マーケットのメカニズムを通して、「他の店でもっと高く売っている商品」は消える。
 くどいが筆者への批判ではない。なぜこういう書籍の展開になったかというと、筆者は、経済学のモデルの純粋性がそれゆえの応用性をもっていると想定しているからなのだろう。このくだりはさらにこう続く。本当にこう続くのだ。

 なお、一般的なモノの取引に比べて、取引コストを非常に低くしうるのが金融取引です。株をインターネットで取引するなら、かなり安い取引コストで売買できます。そのため、銀行・証券会社・保険会社などの金融機関が販売する金融商品(預金・投資信託・保険・個人年金など)を購入する場合には、原価をよく調べることが大切です。
 原価が安い金融商品なのに高い手数料が上乗せされている場合は、そういった金融商品できるだけ避けるといいでしょう。自分で、原価に近い価格の(手数料ができるだけ安い)金融商品を取引したほうが、ずっと得だからです。

 金融商品と100ショップが、原価の原理性で、同じモデルで論じられているのだ。もちろん、そのように論じることは不可能ではない。一連の結語はこうなる。

 つまり、消費者が賢く生活しようとするとき、いろいろなモノやサービスの原価に着目すべきかどうかは、取引コストの高さ(裁定取引の容易さ)によって異なります。100円ショップの商品の場合には、取引コストが高く、現実には裁定取引がむずかしいので、原価を考えないほうがいいと筆者は述べているのであり、どんな買い物にもあてはまる話ではありません。

 100ショップで買ったものを友人とかに高く売りつけるみたいなことをしない限り、裁定取引という場はないだろう。だが、裁定取引の潜在的な可能性は、マーケットの価格メカニズムの内部で働くだろう。そのメカニズムには「え?、これを100円で買わないでしょ、フツー、パス」という消費者の行動を媒介する(フツーの判断の中に他店が前提とされる)。という意味で、実はこの行動の内部に原価の意識が働いている。
 くどいけれど私はこの本をおちょくっているのではない。恐らく、経済学的には正しいことが書かれているのだが、筆者のある種の情熱が、すました経済学のモデルを逸脱してまで社会現象を説明しようとしている地点で、その情熱が奇妙な現れをしている。そこががとても興味深いのだ。
 本書はこの山場を越えて、後半になるといっそう面白い展開になる。手の込んだ冗談が書かれているわけではない。モデルとしてもこれは経済学的には正しいかもしれない。しかし、しかしこれは何か変だ、なにが変なのだろう?という知的チャレンジが多発する。面白い。
 私はこの筆者の情熱が非常に面白いと思うし、そこにぐっと引きつけられて、世の中どうなってんの?という多様な疑問を発するべきだと思う。

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2007.10.08

ブラックウォーター事件メモ

 ブラックウォーター事件は、日本でまったく取り上げられていないわけではないが、米国での扱いに比べると小さい。少なくとも大手紙の社説では取り上げられていない。日本の問題ではないということかもしれない。数日前赤旗でべた記事を見かけたが、日本のいわゆる平和勢力による論評もあまり見かけない。ニュースの引用に一言コメントというタイプのブログでは、ブラックウォーターが悪いのは当たり前で別段今回の問題は取り上げるほどでもないといった印象も受ける。もちろん、そうしたことは私の印象に過ぎず間違っているかもしれない。いずれにせよ、私はこの事件は重要だとも思うので時代のログとしてメモをしておきたい。
 ブラックウォーターは戦闘地域などで米国関連の要人の警護や輸送を行う民間警備会社だが、実態からは傭兵と見てよいだろう。イラクでの活動が目覚ましい。ウィキペディアでは、「民間軍事会社」(参照)とし、粗っぽく記載している。


 民間軍事会社(みんかんぐんじかいしゃ) "Private Military Company, PMC"または、"Private Military Firms PMF"と主に表記される新しい形態の傭兵組織。
 主な業務としては軍隊や特定の武装勢力・組織・国に対して武装した戦闘員を派遣しての直接戦闘業務に加え、兵站・整備・訓練など旧来型の傭兵と異なり提供するサービスは多域に渡る。民間軍事契約業者(Private Military Contractor)ともいう。

 ブラックウォーターが国際的に注目されたのは、ブラックウォーター社員4人がテロリストに殺害され、黒こげの遺体として橋に吊るされた、04年の事件だった。この事件は「ファルージャの戦闘」(参照)の背景となる。なお、この事件も今回の事件の関連で見直しされている部分がある。9月28日付CNN”ブラックウォーター、警備員殺害事件で調査妨害の疑い”(参照)より。

 事件では、損傷した遺体が橋からつり下げられ、その衝撃的な映像が全世界で報じられた。当時、米軍はこれを受けて、ファルージャで大規模な武装勢力掃討作戦を実施した。
 同委員会の報告によると、ブラックウォーターの内部文書から、殺された4人の所属するチームは、人員や装備が不十分なまま、地図さえ与えられずに同市へ送り込まれていたことが分かった。同社は米当局との正式な契約が成立していない時期に、見切り発車の形で業務を開始していたとされる。
 しかし、同社は今年2月の議会公聴会で、こうした文書について「政府が機密扱いとした」と偽ったうえ、国防総省に対し、実際に機密文書として指定するよう繰り返し求めていたという。

 今回の事件は、9月16日に起きた。3日付けCNN”ブラックウォーター事件、目撃者2人が惨劇を語る”(参照)より。

 米警備会社ブラックウォーターUSAの従業員が先月16日、イラクの首都バグダッド市内の銃撃戦で民間人を死亡させた事件で、当時現場で交通整理をしていたイラク人警官が1日、CNNに対して、民間人に発砲したブラックウォーターの警備員らが「テロリストに攻撃されていないにもかかわらず、テロリストと化した」と語った。

 結果、イラク民間人17人が殺害され、24人が負傷を受けた(参照)のが、今回のブラックウォーター事件だ。イラクはこれを受けて、足下にブラックウォーターのイラク国内の活動を禁止するとしたが、米政府から否定された。というより、現実的に不可能だろう。1日付けニューヨークタイムズ”Subcontracting the War ”(参照)より。

There is, conveniently, no official count. But there are an estimated 160,000 private contractors working in Iraq, and some 50,000 of them are “private security” operatives --- that is, fighters.
(わかりやすい公式統計は存在しない。だが、イラクには16万人の民間下請け作業員がいると推定され、うち民間警備員として携わっている5万人は実際は戦闘員である。)

 この機にブラックウォーターへの過去の問題も注目されるようになった。2日付ワシントンポスト”Other Killings By Blackwater Staff Detailed”(参照)より。

Blackwater security contractors in Iraq have been involved in at least 195 "escalation of force" incidents since early 2005, including several previously unreported killings of Iraqi civilians, according to a new congressional account of State Department and company documents.
(議会報告書及び同社文書でによれば、イラクにおける下請け警備員は2005年までに195件の逸脱武力行使に関わっており、これには未報告のイラク民間人殺害が含まれている、とのことだ。)

 同種報道だがフィナンシャルタイムズはもう少し手厳しい。3日付”Blackwater and the outsourcing of war”(参照)より。ちなみに、フィナンシャルタイムズが社説で扱うのだから、今回の事件は米国のドメスティックな問題でもない。

Blackwater, which has earned nearly $1bn from the Department of State for protecting its officials, is notoriously trigger-happy: opening fire first in 163 out of 195 shooting incidents since 2005, according to a report by Congress. A Blackwater employee killed a bodyguard of Adel Abdel Mahdi, an Iraqi vice-president Washington favours as a possible prime minister, in an argument last Christmas.

Neither he nor any other mercenary has ever been charged, under a 2004 US decree making them immune from Iraqi law.
( 要人警護で10億ドルを国務省から得てきたブラックウォーターは、むやみに銃をぶっぱなすことで悪名高く、議会報告によれば2005年以降の発砲事件195件中、163件で先に手を出している。昨年のクリスマスでは口論が元で、ブラックウォーター社員がアブドルマハディ・イラク副大統領の警護員を殺害している。
 だが、彼も他の傭兵も、イラク法に服さないとする2004年の米国法により訴追されていない。)


 ブラックウォーターはイラク国内で何をやっても法に問われないという状態であり、構造的にはここに最大の問題がある。このことがようやく米議会で問題となり、歯止めがかかる見通しとなった。5日の時事”イラクの「傭兵野放し」に歯止め=米国内法による訴追法案採択-下院”(参照)より。

イラクの首都バグダッドで米外交官らの警護を委託されている米民間警備会社武装要員の銃撃の巻き添えで、少なくとも11人のイラク市民が死亡した9月16日の事件を受け、米下院本会議は4日、政府請負業者が海外で犯罪を起こした場合に、国内法で訴追することを定めた法案を389対30の圧倒的賛成多数で採択した。

 ある意味で、これが今回のブラックウォーター事件の意味だろう。
 法案は民主党主導なので、選挙戦の文脈もあるが、それが主文脈と見ることはできない。
 ところで、2004年に出されたとされるブラックウォーターの不逮捕特権の由来だが、ニューズウィーク(10・3)”米兵より横暴なアメリカ人傭兵”ではこう説明されている。

 アメリカ軍法の適用外にある民間警備社が問題を引き起こす事態を、ブッシュ政権は以前から危惧していた。03年には、当時の国防長官ドナルド・ラムズフェルドが、「戦争の民営化」に必要な法規制を考える委員会を招集。だが委員会が出した勧告を実行するところまではいかなかった。
 そして04年6月、当時の連合国暫定当局のポール・ブレマー代表の判断が状況をより面倒なものにした。ブレマーはイラクを離れる2日前、イラクにいるすべてのアメリカ人の訴追を免除するという命令にサインをしたのだ。
 ブレマーの元側近は本誌にこう語った。イラクへの主権委譲後も「アメリカの軍人や民間人、請負業者がイラクの法律に縛られないようにしたかった」

 経緯は一応そうことなのだが、振り返ってみて、諸悪の根源のように言われている懐かしのラムちゃんだが、どうも彼自身いろいろ足をひっぱられてこんなはずじゃなかったがありそうだし、ブレマーはどうもわからない。
 イラク戦争をブレマーの視点から見直すとどうなんだろうか。つまらない陰謀論に落ち着きそうでウンザリ感が先行するが気になる。

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2007.10.06

パソコンは基本ソフト込みで販売してはいけない?

 話は昨日のエントリ「欧州裁判におけるマイクロソフト敗訴について」(参照)の続き。ただ、少しテーマが違う。EUは結局、パソコンは基本ソフト込みで販売してはいけないと言い出しているようだということ。
 まず、前エントリのまとめだが、3年に渡るEUの判定では、マイクロソフトはウィンドウズという基本ソフトにアプリケーションをバンドルして販売してはいけない、という主張を持っていることはだいたい明らかになった。そしてその背景にはコンピューターにおけるウィンドウズのシェアを減らしたいという意図があることもだいたい明らかになった。さらにぼんやりした線ではあるが、EU市場を制御する可能性のあるIT分野の知的財産に歯止めをかけようとする意図もありそうだ。私なりにまとめるとこの3点ということに、とりあえずなる。
 EUの主張をマイクロソフトが仮に丸呑みしたとする(実際には不可能だけど)。するとどんなウィンドウズが見えてくるか。まず、ウインドウズは基本ソフトだけのすっぴんになる。英語の世界ではnakedと表現されている。ということは、ハードウェア対基本ソフトという線がくっきりと見えてくることで、いわばパッケージのアプリケーションのような輪郭も与えられる。そしてそれは他のパッケージと並列されるというイメージもある。
 このイメージを敗訴に追い打ちをかけるようにEUは事実上出していた。というのは厳密にはEUから出たのではなく、その独立系シンクタンクとなるグローバル化研究所(Globalisation Institute)が、”Unbundling Microsoft Windows”(参照PDF)を打ち出した。


This paper’s recommendation is that the European Commission should require all desktop and laptop computers sold within the EU to be sold without operating systems.
(デスクトップ型コンピュータとラップトップ型コンピュータはEU内においては基本ソフトを抜いた状態で販売されるべく、欧州委員会が規制するよう、本稿は推奨する。)

 この提言の日時がよくわからないのだがPDF文書では9月20日となっており、事実上マイクロソフト敗訴と並んだスケジュールになっていたことがわかる。
 ジャーナリズムでの扱いは、ワシントンポストにも転載されたPCワールドの”Stop Preloading Windows, Business Think Tank Says”(参照)が簡素にまとまっている。次の点も興味深い。

The report is gaining attention partly because the Globalisation Institute usually advocates a hands-off approach to business regulation. It researches and develops policy options that are sometimes championed by politicians.
(このレポートが注目された理由の一つは、グローバル化研究所は通常ビジネスの規制には手心を加えるからである。同研究所はしばしば政治家に指導されて政治オプションを調査・開発する。)

 私が文脈を読み違えているのでなければ今回は異例だったということなのだろう。
 この報道だが、ワシントンポストを含め欧米では一応取り上げれたのだが、日本国内では今回の判決からしてそうなのだがあまりフォローされていないように思える。と調べ直すと、マイコミジャーナル「欧州では全PCをOS非搭載で販売すべし! シンクタンクが欧州委員会へ提言」(参照)があり、ファクツの線はきれいにまとまっている。

 同シンクタンクは、現在、EU域内のほぼ全てのPC販売店で、Windowsを搭載するPCが圧倒的シェアで販売ラインナップに並んでいる実態を憂慮。PCを購入したいと考える人に対しては、Windowsのソフトウェアライセンス料金を支払って、Windowsが搭載されたPCを購入する選択肢以外は用意されていない状況が当然のこととして受け入れられているものの、今回の提案が実施されるならば、無料または低価格の他のOSを導入する人が大幅に増加すると分析している。
 OS市場での競争促進によって、Windowsの圧倒的シェアの前に、新規参入が困難だった他の数々のOSにもチャンスが訪れ、技術革新が進むメリットは大きいとされている。また、これまで欧州企業がWindows購入のために支払っていた膨大なコスト削減につながり、欧州経済の発展にも寄与することになるとの判断が示されている。

 いくつか疑問点が自然に浮かぶのではないか。たとえば、マッキントッシュはどうか? この点についてはビジネス・ウィーク”Think Tank Calls for 'Naked' PCs”(参照)に示唆がある。

He said the institute's analysis excluded Apple's OS X because the Mac is a "premium, niche product, like a Bang & Olufsen television, which is difficult to justify in the business world outside of the publishing sector".
(グローバル化研究所所長によれば、この研究所の調査にはアップルのOS Xは含まれていないとのことだ。マッキントッシュは、プレミアムでニッチな製品であり、バング&オルフセンのテレビのようなものだ。この手の製品は、出版部門を除き、公平化の対象にしずらい。)

 マックはコモディティではないがウィンドウズはコモディティだろということのようだ。
 その先から考えるなら、マイクロソフトとしては、コモディティのラインをできるだけ拡大した地点で、EUについては基本ソフトから事実上撤退するしかないだろう。
 私はこんな疑問ももった。グローバル化研究所の言い分が正しいのはアプリケーションが社会的に正規化というか、適応可能な状態が想定されるからであって、その状態の意味はなんだろうか?
 私のようにパソコンを長く使ってきた者にしてみると、ウィンドズの登場はアプリケーションに統一プラットフォームを与える市場形成の点でプラスの要素だったなという思いが強い。しかし、現在、グーグルがMITなどと共同で推進しようとしている100ドルパソコンもだが、ようするに基本の通信機能と、世界にただ一つのCPUみたいなイメージでアプリケーションは保証できそうにも思える。という比喩は反って誤解されやすいか。
 別の言い方をすれば、ウィンドウズなんてなくてもいいでしょっていう世界でしょ、っていうことだ。
 技術的にはすでに世界はそういう水準にあるのかもしれないが、ちょっと微妙な違和感は残る。

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2007.10.05

欧州裁判におけるマイクロソフト敗訴について

 難しい話題なんだがこれも気になるところを書いてみよう。話は先月の17日、独禁法違反の訴訟について欧州第一審裁判所でマイクロソフトが敗訴したというニュースだ。単純な話、私は意味が掴みきれなかった。というか、以前の経緯が少しわかるのでなおさら、今回の敗訴の意味が難しい。
 その後、半月が経つのだが、このニュースの意味が依然よくわからない。産経新聞と組んだマイクロソフトだからということみたいな背景でもないのは明白だとしても、それほどニュースになっているふうでもない。日本ではあまり関係ない話なのか。すっきりとしたまとめにはならないだろうが、どう込み入っているのかくらいはブログのエントリにしておこう。
 まずファクツの整理からだが、同日の朝日新聞記事”マイクロソフト敗訴 独禁法違反事件で欧州第一審裁”(参照)は日本での報道でも無難なほうだろう。


 米マイクロソフト(MS)の欧州連合(EU)独占禁止法違反事件について、欧州第一審裁判所は17日、MSに約800億円の制裁金を科した欧州委員会の決定を支持し、MSの訴えを退ける判決を言い渡した。基本ソフト「ウィンドウズ」の独占的地位をMSが乱用していると認めた。独禁法違反に厳しい対応をとる欧州委の姿勢に弾みがつくのは確実だ。

 引用が長くなるが、このあたりはただのファクツの部類なので続ける。

 EUの行政機関である欧州委は04年3月、MSに対し(1)ライバルのソフト会社にウィンドウズについての必要な情報を提供していない(2)映像・音楽再生ソフト「メディア・プレーヤー」を抱き合わせ販売し、他社の参入を拒んだ、としてEU競争法(独禁法)違反と認定。4億9700万ユーロ(約800億円)の制裁金を科した。MSがこれを不満として提訴した。

 ファクツの部類と言ったものの、今回の判決がこのようにまとまるものかというのは実はそれほどクリアとも言えないかもしれない。
 今回のニュースの元になるのは、「MSに約800億円の制裁金を科した欧州委員会の決定」なのだがこの話が記事にはない。それはなんだったか。
 CNETが当時の記事をまだ公開しているので助かる(こういうところ新聞社サイトも見習ってほしいな)。”マイクロソフトへの制裁金、史上最高の6億1300万ドルに--EU裁定下る(2004/03/25)”(参照)より。

 欧州連合(EU)は現地時間24日、長期にわたって争ってきたMicrosoftの独禁法違反をめぐる訴訟に関する裁定を言い渡し、ヨーロッパにおけるこの種の訴訟では過去最高額となる、6億1300万ドルの制裁金支払いを同社に対して命じた。
 European Competition CommissionerのMario Montiは、Microsoftがサーバソフトウェア市場での公正な競争に必要な情報をライバル各社に提供せず、またWindowsの提供に関してもWindows Media Playerのバンドルを条件にして競争を妨げた、との判断を下した。

 一応そういうことなのだが、この記事に含まれていないが、私の記憶ではこれはリアルプレイヤーがらみの話だった。いずれにせよ、一つの焦点はウィンドウズ・メディア・プレーヤーだった。
 そしてこの2004年の時点でのマイクロソフトの対応は、対抗するということだった。

 一方、Microsoftはこの裁定に対する控訴の方針を重ねて強調した。Microsoftの法律顧問、Brad Smithは電話会議の中で、欧州連合の上級裁判所に当たる第一審裁判所の名を挙げながら、「この判断の再審を求めてEuropean Court of First Instanceに控訴する」と語った。

 つまり、このEuropean Court of First Instanceが今回の欧州第一審裁判所ということなのだが、が、というのはこの3年間の間に挟むべきことがある。マイクロソフトはEUの決定に従わなかったとみなされた。2006年のコンピュータワールドの記事”欧州委員会、マイクロソフトに制裁金3億5,700万ドルを追徴 ”(参照)が参考になる。

 欧州委員会は7月12日、2004年3月に裁定を下した競争法違反に関する決定に従わなかったとして、マイクロソフトに2億8,050万ユーロ(3億5,700万ドル)の制裁金を追徴すると発表した。
 マイクロソフトはすでに、同決定に基づいて4億9,700万ユーロの制裁金を支払っている。欧州委員会はその際に、マイクロソフトがPC用OS市場で独占に近い状態にあることを利用して、ワークグループ・サーバOSやメディア・プレイヤなどの市場で特選的な立場を確保したとする事実認定を行った。

 実は、2004年の判決以降、2006年のこの措置で、私としては問題の様相が少し見えてきた感じがした。つまり、EUが何をマイクロソフトに求めているかということだ。ウィンドウズ・メディア・プレーヤーだけの問題ではないのだ。

 また欧州委員会は、メディア・プレイヤを搭載しないバージョンのWindows XPをリリースするとともに、サーバ製品で使われている通信プロトコルの詳細な技術情報を競合他社にも提供するよう命じた。
 7月12日に発表された決定は、詳細な技術情報を適宜提供しなかったことに対するものであり、マイクロソフトが今後も命令に従わなかった場合、制裁金は日額300万ユーロの割合で加算されるという。

 問題の焦点は「詳細な技術情報を適宜提供」の部分にあると取りあえず見てもいいのではないかと私は思う。それと、この過程で私は問題の様相が少し見えてきた感じがしたと書いたが案外、マイクロソフトも別段裁判テクニックではなく、同じように困惑していたのかもしれない。ニーリー・クロエス欧州連合競争管理官の伝聞になるがこうあった。

  クロエス氏は、「欧州委員会が何を求めているのかわからなかったというマイクロソフトの主張は受け入れられない。われわれの要求ははっきりしていた。同社が提供した資料は、われわれの要求をまったく満たしていない」と指摘する。

 そして先月の欧州第一審裁判所の判決に次のようにつながる。

 一方、マイクロソフトは、今回の決定への対応とは別に、競争法違反の判断自体について控訴している。ルクセンブルクにある欧州第1審裁判所は、4月末にこの控訴を受理しており、2004年3月の決定について検討作業を行っている。

 それから約1年後に今回の敗訴になった。敗訴を受けての談話”欧州第一審裁判所判決に関するマイクロソフトの談話”(参照)からはマイクロソフトの困惑が読み取れないでもない。またこの談話ではマイクロソフトが欧州でのシェアを進めることが欧州のメリットになる点も強調されているようだが、むしろそこで欧州側にぶつかるものがありそうだ。18日の日経新聞記事”マイクロソフト独禁法問題、欧州委員「シェア低下期待」 ”(参照)より。

 米マイクロソフトの独禁法違反に絡んで、クルス欧州委員(競争政策担当)の発言が波紋を呼んでいる。17日の記者会見で「(マイクロソフトの)市場シェアの著しい低下に期待する」と語った。公正な企業間競争の条件を整える独禁当局が特定企業のシェア低下を求めた格好で、中立性を欠くという批判が集まりそうだ。

 そのあたりはEUの本音なのかもしれない。いや、普通はそう考えるだろう。
 さて、これで今回の欧州第一審裁判所判決に至ったわけだが、その前にこの司法の仕組みはどうなっているのだろうか? ベースとなるのは、欧州共同体競争法だ。ウィキペディアの同項目(参照)より。

欧州共同体競争法(おうしゅうきょうどうたいきょうそうほう)は、欧州連合 (EU) 域内における大企業や国家などの経済主体による市場に対する圧力を規制する法体系。競争法はアメリカ合衆国では反トラスト法、日本では私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律(独占禁止法)がこれに相当するが、EC競争法、EU競争法などとも称されるこの法体系はEUにおいて重要とされる政策分野とされ、域内市場の成功を確保し、これはすなわち国境線という障害のないヨーロッパにおいて労働者、商品、サービス、資本を自由に流れさせることを意味する。

 単純に言えばEU全体で適用される独禁法だが、と言ってみて、すげー巨大なもんだなとあらためて驚く。
 この下位の項目に「優越性と独占」がありここでマイクロソフトのケースへの言及がある。

またある商品に別の商品とあわせて販売することも不正とされ、これは消費者の選択肢を狭め競合相手の販売経路を奪うこととされる。この事例に挙げられるのはマイクロソフトと欧州委員会の間での紛争があり[22]、Microsoft WindowsプラットフォームにWindows Media Playerをバンドルしていたことに対して4億9700万ユーロの制裁金の支払いを命じた。

 これだけ読むと当たり前のことじゃないかと思えるのだが、ではEU外ではどうなのかということと、実際にそれを禁じるというとき、現代のIT技術の現場に何が起きるかというのはそう簡単ではない。
 次にその権限なのだが欧州委員会にある。

EU競争法を執行する権限を持つのは欧州委員会であり、運輸のような一部部門における政府補助はさまざまな部局が担当しているが、一般的に担当するのは競争総局である。2004年5月1日、EU競争法による取り締まりの機会を増やす目的で、反トラストに関する法制度の権限が各国の公正競争管轄庁や裁判所に分散化された。

 ここから欧州第一審裁判所への手順が私にはよくわからないのだが、欧州第一審裁判所についてはウィキペディアに簡素な解説項目がある(参照)。

欧州第一審裁判所(おうしゅうだいいっしんさいばんしょ、独:Europaisches Gericht erster Instanz、仏:Tribunal de premiere instance des Communautes europeennes)は、1989年に設立された欧州連合(EU)の裁判所。欧州司法裁判所に併設されており、特定の分野に関する紛争の第1審を行い、控訴された場合は案件を欧州司法裁判所に送る。


第一審裁判所の設立によって2審制が導入され、第一審裁判所で扱われた案件はすべて欧州司法裁判所に上訴することができるが、このときは法律の解釈のみが争点となる。

 マイクロソフトは今後どうなるのだろうか。今回、私にとって意外だったのは先の朝日新聞記事にあるビスタへの言及だった。

EUの裁判は二審制で、MSは欧州司法裁判所に控訴できる。一方、EU競争法では、違反が繰り返された場合に制裁金を倍増できる規定があり、欧州委はMSへの制裁金を10億ユーロ近くに引き上げる可能性がある。新基本ソフト「ビスタ」が競争法違反に問われることも考えられる。

 2004年の訴訟が「ビスタ」にまで影響するものだろうか。この部分の指摘は朝日新聞のフカシなのだろうか。なんとなくだが、流れをまとめてみると、EUはマジだぜっぽいので、あり得ないことではないだろう。というか、そのあたりも焦点のようでもあり、冒頭に戻るが、わからないなという印象になった。
 この点、コンピュータワールドの今回の記事も示唆深い。”マイクロソフト、欧州委との反トラスト法違反控訴審で敗訴”(参照)より。まず、この記事によると、多分に米国側の視点という偏向もあるのではないかと想像されるが、敗訴を想定していなかったようだ。

 今回の判決は多くの関係者にとって驚きだった。欧州で2番目に高位の裁判所である第1審裁判所は、同裁判における2つの主要ポイントについて、欧州の反トラスト法を担当する規制担当官を全面的に支持したからだ。大方の予想では、複合的な評決になると思われていた。

 今後の出方についてのマイクロソフト側の発言もある。

 マイクロソフトの主席顧問弁護士であるブラッド・スミス氏は、「判決には失望している」と語ったが、欧州司法裁判所に上訴するかどうかは未定だとして言及を避けた。上訴したとしても、先の判決を覆すことは難しく、単に法解釈をめぐる議論に終始する可能性が高いからだ。

 この点については、ウィキペディアでの解説と整合があり、見通しとしても正しいだろう。つまり敗訴決定。ただ、判決を覆すことが難しいということよりも、この判決のスコープのほうが問題になってきている。

 「17日の判決は、Windows OSに各種アプリケーションをバンドルするというマイクロソフトの戦略に影響を及ぼすだろう」と同氏は述べている。

 ここではビスタへの言及はない。だが、ビスタでもアプリケーション・バンドルは依然続いている。バンドルという手法が、技術開示の要請とともにクローズアップされている。
 話を米国での受け止めの一例に移す。同日付けでAFPに興味深い記事があった。問題はマイクロソフトだけではないとする反発だ。”マイクロソフトへのEU独禁法違反判決に米業界が一斉反発”(参照)より。

 業界団体Association for Competitive Technology(ACT)のJonathan Zuck会長は、判決について「知的財産権保護を不確定なものとした。大小に関わらず全ハイテク企業にとっての暗黒時代の幕開けだ」と非難する。
 米ロビー団体Citizens Against Government WasteとTaxpayers’ Allianceも、「判決は全世界における技術革新の流れに歯止めをかけるものだ」とする共同声明を発表した。
 全米商工会議所(US Chamber of Commerce)は、独禁法への対応が多様化することで多国籍企業の戦略が困難になるのではと懸念する。

 米穀業界での受け止めのポイントはバンドルというより、IT技術情報の開示の決定権をEUが持つことへの反発として理解していいように思う。が、私のそういう受け止め方でよいのか、あまり確信はない。
 つまり問題は何なのか。
 先の今回のコンピューターワールドの記事は、EU側の業界団体ECISの弁護士トーマス・ビンジの発言で締めている。

 ビンジ氏は、この判決がすべての成功企業にとって脅威になるのではないかという懸念に対し、マイクロソフトの場合は超独占企業という点で、きわめてまれなケースにすぎないと反論する。
 「裁判所の支持を取り付けたことで、欧州委員会は他のITベンダーに対しても法的措置を講じられるようになった。グーグルが検索市場を独占している点やダブルクリックを買収する計画についても何らかの対策がありうるが、マイクロソフトのケースとは細かな部分でだいぶ異なる。マイクロソフトの敗訴が本当に大きな影響を及ぼすのは、マイクロソフトに対してだけだ」

 この問題は、マイクロソフトという特定企業の問題なのだろうか。それとも情報技術産業の根幹に関わることなのか、あるいは、米国と欧州という大きな共同体間の齟齬なのだろうか。
 これまで米国においてマイクロソフトという一企業が同種の問題を抱えつつも切り抜けてきたということは、明確に欧州対米国という対立の構図も含まれていると見ていいだろう。その場合、どう考えたらいいのか。欧州が正しいのか、米国が正しいのか。あるいは共存できるのか?
 この件について、ニューズウィーク日本版(10・10)のPerscopeに、考えようによってはぞっとする記事があった。表題が物語るだろう、”米国ルールはもう通用せず”。多少荒っぽい話ではあるが大筋は正しいのだろう。

 経済だけでなく、法制度の分野でもアメリカは力を失いつつあるようだ。先ごろ、欧州委員会による独占禁止法違反の判断を不服とするマイクロソフトの訴えを、欧州司法裁判所が退けたのがその証拠だ。
 独禁法の生みの親はアメリカだが、今回、EU(欧州連合)の裁定が米ソフトウエア企業の世界市場支配を制止することになる。また、ヨーロッパは独禁法を巡る裁判の場としての地位も確立。カリフォルニアに本社を置くアドビシステムズは、マイクロソフトに対する訴えをブリュッセルで起こした。


 専門家によれば、アメリカのサブプライム問題で損害を受けた欧州の人々は、裁判をアメリカ以外で起こそうとしている。苦労するのはマイクロソフトの弁護団だけではないようだ。

 EU内の市場であれば、その利害の判定については、EUな俺様が強いんだぜということなのだろう。
 そんなことが可能なのは、EUがある一定の市場規模を持っているからであって、そうした俺様的正義は囲い込みできる市場の規模によるのではないか。なんだかグレートゲームみたいだ。
 話が荒っぽくなってきたが、日本の立ち位置についてはどうなる? いや、あまりに些細なことなので、別段コメントを要さないだろう。


追記(2007.10.23)
 マイクロソフトは上訴しないことでこの裁判はEUの勝訴に終わった。
 ⇒asahi.com:米マイクロソフト、独禁法違反で上訴せず EU勝利 - 国際


 米マイクロソフト(MS)による欧州連合(EU)独占禁止法違反事件で、EU欧州委員会は22日、MSがライバル社に技術情報を提供するなどEUの求めに従うことで合意したと発表した。MSもこの日、この件に関して欧州司法裁判所に上訴しないことを明らかにした。EUとMSの係争は04年から続いていたが、EU側の勝利で収束する。

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2007.10.04

円天の詐欺ってどういうことだったのだろう

 素朴な疑問シリーズ。というわけでもないし、べたな詐欺でしょ、こんなのに引っかかる人いるよな、くらいの印象しかなく、あまり関心もなかったのだが、円天事件、少し考えてみて、なんだかよくわからないことが多い。それでもどうでもいい事件なんじゃないかと思っていたら、被害額が一千億円とかいう話を聞いた。え?そんなに規模がでかいの、と驚いた。あるいは私がボケているだけで大した額ではない?
 一千億円とかいうニュースの例としては、東京新聞”L&G本社など捜索 出資法違反疑い 被害1000億円にも”(参照)がある。


 全国の会員約五万人から「協力金」名目で少なくとも五百億円超を集めたとされるが、今年に入り配当を停止し返金にも応じておらず、最終的な被害額は一千億円前後に達する可能性もある。捜査本部は集めた資金を協力金の配当に回す自転車操業の末、資金繰りに行き詰まったとみており、詐欺容疑での立件も視野に全容解明を急ぐ。

 5万人で500億円ということは、一人頭100万円。それで5万人というとそれほど大きな規模でもないような気がする。一千億円といっても総勢で10万人くらい。小さな小さなはてな村の郊外を含めたくらい。私の身の回り半径2クリックくらいでは円天なんて聞いたこともない。日本全体からするとそれほどでもない。でも比較に豊田商事事件を思い出すと(参照)、「被害者数は数万人、被害総額は2000億円近い」とのことだから、あの規模の半分くらいの事件か。その間のインフレ率を考えに入れると……いや、あまりあのころから日本経済変わってない、20年も前なのに。日本ってずっと停滞しているような。いやいやそれでもバブルを跨いでいるかなと関心がそれていく。
 話を戻して何の犯罪かというと、「詐欺容疑での立件も視野に」とあるので、最終的には当局は詐欺事件というふうに持ち込みたいのだろうが、切り口はというと「出資法違反(預かり金禁止)の疑い」らしい。こういうしょっぴきの手順って普通なんだろうか。というのと、こういうのって出資法違反なのか? と疑問に思うのは、当初ニュースを聞いたとき、カネがそんなに増えるわけないじゃん、バカみたいな話にひっかかる人が多いもんだという印象があったからだ。
 どのように出資法違反なのか。

 調べでは、L&Gは二〇〇一年ごろから一口百万円の協力金を募集。「三カ月で9%の配当が得られる」と年利36%の高利と元本保証をうたい、不特定多数の会員から違法に出資金を募っていた疑いが持たれている。

 そんなの虫のいい話あるわけないじゃん的常識は置いといて、べたに今回の状況を見ると、「3か月で9%の配当+年利36%の高利+元本保証」が仮にガチだったら、別になんの問題もない。疑問なのは、それって納期っていうか、その期日が来て初めて、嘘じゃんこれとなるはずなのだが、そうでもないらしい点だ。現実は、元本保証のほうのカネ返せが社会問題になってきたから、じゃってことでしょっぴいたっぽい。という理解でいいのか、このニュースがよくわからない。
 いずれにせよ「3か月で9%の配当+年利36%の高利+元本保証」ってあり得ないでしょというのが常識なんで、常識外れの人がしょっぱい目に遭うのは自由社会の自由の一部みたいなもので風船乗って夢の世界に逝った人もいた。本人の自由、ということなのかやや微妙だが。
 こんなの普通に考えれば詐欺でしょ。なのに一千億円の被害に膨れるまでほっておかれたという背景のほうが知りたい。とネットをざっと眺めると、5月ごろから、これはやっぱりタイーホでしょみたいな噂がある。そして半年近く経って国も動いたということなのだろうか。だいたいタイーホでしょという噂があってそのくらいのディレイがあるものだ、とすればあっちの件もワクテカかとかつい思うけど、まあ未来は夢のなか♪
 話がそれるが、ここまで悪徳商法が放置されたのは、どうしょっぴくかにテクニカルな問題があったということか、それほど大した事件でもないと国は見ていたか、ということなのだろう。
 話は冒頭に戻るのだが、カップラーメン食いながらぼうっと考えていて、他にもよくわかんないことがあるなと思った。
 この事件、どうも地方で問題になっているっぽい。

東京や静岡、沖縄などでは返金を求める訴訟が起こされ、一部で会員側勝訴の判決が出ている。

 東京は地方じゃないでしょは取りあえず置いておいて、なぜ静岡と沖縄なんだろ。我が第二の故郷沖縄の情報を見ていたら、9月23日沖縄タイムス社説”L&G、事実上破たん/配当停止 県内も被害”(参照)で取り上げられていた。

宜野湾市に営業所がある東京都の健康品販売会社「株式会社エル・アンド・ジー(L&G)」が、高利配当で出資を募って今年二月ごろから配当を停止させ、元金の返還にも応じなくなっていることが二十二日までに分かった。出資法違反の疑いが強く、被害は県内を含めて全国で明らかになっている。

 この社説からは沖縄だからという線は見えないには見えないのだけど、なんとなく雰囲気が想像できる感じがする。事件が全国規模というのはそうなんだろうけど、都市部というよりこの事件は地方というものの特性と関係があるのでは?
 もう一つわかんないのは、詐欺にあった人が、どちらかというと高齢者で、なんでそんなのにカネをつぎ込んでしまったのだろうか。というか、全体的に見れば、その層にこんな詐欺に注ぎ込めるカネがだぶついていたのだろうとしか思えない。やっぱりカネって、けっこう庶民に余っているんじゃないか、というか、余っているところには余っているというのが正確だろうけど。
 さらに、どうもこの円天というのは電子マネーで携帯電話から使うらしい。ということは、地方とか高齢層の人が携帯電話でショッピングとかしていたのだろうか。えー?
 いろいろ、わかんないなと思っているうちに与太まで思いついた。
 「3か月で9%の配当+年利36%の高利+元本保証」って、リアル円で考えるからありえないけど、円天という通貨で考えれば、「あかり世界」政府がシニョリッジというか通貨発行権限を持っていたわけだし、インタゲ自由自在だから、案外可能だったのではないか。いやもちろん、この奇っ怪なうたい文句が円天だからOKとかいうことが言いたいわけではない。あくまで与太話。
 ちょっと考えると面白いんでカップ麺食っている間だけ考えてみたが、通貨も自由だし、市場の製品まで支配できるというか、べたに商品価格まで思い通りに統制できるんだから、外部のリアル円とから遮断すれば、「あかり世界」政府側に物凄い利益が流れ込むようなしかけもできそうに思える。というか、そういう理念が「あかり世界」ということだったのだろう。
 顰蹙の与太話はそのくらいだが、カップ麺が底をついたむなしさで秋天を見上げるに、でも、この与太話ってドルの世界と本質的に違うのか? あるいはダイヤモンドの価格とか、石油市場の構造とか、そういうのと類似モデルなんじゃないか、とちと思った。むずかしそうなので、考えるのをやめた。

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2007.10.03

フジモリ元大統領のペルー送還メモ

 フジモリ元大統領のペルー送還について、率直なところ、わからないなと思っていた。わからないポイントを絞ると、二点ある。一点目は、他国に亡命した大統領を本国送還できるのだろうか、ということ。実際にこのケースではできたのだから、できるに違いないのだが、その理由は、チリの現政権とペルーの現政権の関係性をベースにしている特例ではないのか。であれば、それは国際慣例のようなものからは逸脱するのではないか。
 もう一点は、フジモリ元大統領には日本国籍があるはずでこのような送還を日本国は許すのだろうか。いや、許す許さない以前に日本国はこうした問題にどういう視点を持っているのだろうか?
 もうちょっと率直に言うと、この問題をブログで触れると不要に誤解されてもういやだなというのはあったし、黙っていようと思っていたのだが、日本版ニューズウィーク(10・10)のPerscope「強制送還されたフジモリの誤算」と「元独裁者たち、覚悟せよ」という関連記事があり、一点目については、一読なるほどそういうことかと思った。そのあたりから簡単にメモ書きしておきたい。なお、後者のコラムは米国MSNサイトの同誌記事”The End of Impunity”(参照)で英語で読むことができる。日付は10月8日なのでもう一か月も前のものだ。
 フジモリと限らず一般的に、亡命した独裁者は本国の司法で捌かれることがないと、私は思っていた。慣例かあるいは外交官についてのウィーン条約のような背景があるのではないかとなんとなく思っていた。
 例えば、イラク戦争開始の際、ブッシュ米大統領はイラク元フセイン大統領に亡命のオプションを与えていた。他にも、ふと思い出すのだが、GHQが天皇に接する前の想定シナリオとして天皇が亡命を言い出す可能性があったと聞く。いずれにせよ、独裁者が亡命することで事実上の免罪をするというのは、よくあることだ。日本隣国の独裁者もそういう末路の想定がある。なので、フジモリ・ケースに限って本国送還とはなぜなのだろうと疑問に思ったわけだが、コラムのほうを読むと私の素朴な疑問はそれほど外しているというものでもなかったようだ。


 69歳のフジモリは、有罪になれば残りの人生を刑務所で過ごす可能性が高い。だが判決がどうなろうと、フジモリをペルーに引き渡すというチリの決断は、すでに国際刑事裁判の世界に波紋を起こしている。

 ということで、波紋はあったらしい。やはりそうか、と思ったが、日本にはそういう波紋はないのか私が知らないのかあまり聞かなかった。
 コラムを読み進めると、フジモリ・ケースは、国際司法の見解としては特例ではないと言えるらしい。

 実はフジモリの本国送還は、世界の司法の潮流に沿った最新の事例に過ぎない。かつての独裁者や軍幹部が法の裁きを免れることがむずかしくなってきているのだ。

 ということで特例ではないのだという解説が続く。だがその解説は私にはこれも率直に言ってそれほど説得力を感じない。というのは、ピノチェット・ケースについてこう触れられているからだ。

最終的にはトニー・ブレア前首相が、健康上の理由でピノチェットを本国に送還する決定を下したため、イギリスで彼を追訴することはできなかった。
 それでも英上院は、他国の元国家元首がもつ不逮捕特権は本国で重大な人権侵害を行った場合には適用されないと判断。長年の司法の慣行を覆した。

 翻訳に問題があると言いたいわけではなく、用語として、元国家元首がもつとする「不逮捕特権」の部分が気になるので原文を添える。

While the attempt to prosecute him was ultimately blocked by then Prime Minister Tony Blair's decision to send the retired general back home on medical grounds, a House of Lords ruling overturned the longstanding judicial practice of granting former chiefs of state immunity from detention in foreign nations for serious abuses perpetrated at home.

 「元国家元首がもつ不逮捕特権」の部分については、"immunity from detention..."というように文脈で表現されている。追記 なお、私はこの部分で最初"state immunity"(国家免責)という用語があるかのように理解したが、コメント欄のご指摘を受けて変更した。
 くどいけど、ここを整理すると、フジモリ本国送還は、やはり元国家元首の免責に関わる問題であるということと、にも関わらず、「重大な人権侵害(serious abuses perpetrated)」の場合は適用されない、ということだ。
 話を先に進める。私があまり説得を感じない部分だ。
 英国におけるピノチェット・ケースの場合、法的には英国で捌かれる対象の可能性があり、また上院では「重大な人権侵害(serious abuses perpetrated)」と実際上認定されたに等しいのだが、フジモリ・ケースではどうなのか。チリとペルーの関係で見るなら、チリ側に、英国におけるピノチェットのような判定はあっただろう。それは了解しやすい。問題は、日本との関わりだ。
 日本はフジモリ元大統領について国家としてそうした認定はしていない。しかも彼は日本国籍をもっているはずなので、日本国憲法による保護があるのではないか。そのあたりがわからない。
 つまり、疑問の一点目は理解できたが、二点目はどうも腑に落ちないなと思う。
 それだけのこと。くどいけど、以上書いたのは、別にフジモリ擁護とかそういう政治的な文脈ではなく、単純な疑問だなというだけのこと。なので、単純にコメントなどですっきりした回答が得られたら(外務省のこのページを読めとか)、この疑問は、それでお終い。

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