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2007.09.24

[書評]よせやぃ。(吉本隆明)

 反省した。吉本隆明はもう耄碌してしまってほとんど終了かな、人間身体の限界だからしかたないでしょ、とも思っていたのだが、ぜんぜん違う。まあ読む人にもよるのだろうけど、この対談集に出てくる80歳過ぎた吉本の迫力は、私がむさぼるように吉本を読んでいた二十年前を思い出させた。この対談書はとにかく驚きだった。

cover
よせやぃ。
吉本隆明
 実際には、彼は自筆だと「極東ブログ: [書評]家族のゆくえ(吉本隆明)」(参照)のような優れた部分と限界も見える。これはざっくばらんに言ってもいいかと思うが、吉本隆明の対談書はほとんどがゴミだ。対談者の思い入れや編集者の思い入れが奇妙に自己露出的だったり倒錯的に自己禁欲的だったり、あるいは過剰に解説的だったりする。それでいてフーコーやボードリヤールとかだとまるで対談が成立しない。自筆の書籍になると、文章が彼も下手くそなんだろうと思うけど、普通に読んでいては何を言っているのか皆目わからない。と、悪口みたいだが、吉本のすごさはそうした言語による表出の奇妙なほつれの部分からある時閃光のように見え始めるものがあり、その世界に捕らわれ、もうちょっと言えば、呪縛されてしまうところにある。フォロワーはどこかの時点で吉本を超えようとしたり、吉本加担するには世間が恐くて世間側に日和ったり、そしてみな死屍累々になっていく。自分もそのクチかなとも思うし、自然に吉本から自分なりの卒業あれかしとも思ったものだが、この対談を読んで、ダメかまだまだ先か、とにかくとんでもない思索家というのがいるもんだとあらためて思った。
 対談書なのになぜ本書が優れているのか。悪口みたいだが、私より少し年上、それでいて団塊世代から少しずりおち、さらに大学中退でまともなアカデミズムを覗いたことのない対談者グループが、赤手空拳で吉本にぶつかっているのが良かった。若い人のような感情的なぶつかりではなく、とても真摯に素直に吉本にぶつかってしまい、しかも、それをきちんと受けているがゆえに、この対談書は恐ろしく深く編集されている。表題にもなった「よせやぃ。」の口調は対談のところどころに出現するのだが、そのちょっとした軽口の意味を編集者はきちんと了解している。これが糸井重里なんかだと、彼もその軽さを天才風に受け止めて軽く風流に流してしまって、結果ダメダメになる(吉本の、言葉による思想家が消えてしまう)のだが、この対談書はそうではない。もうちょっと言えば編集者たちは吉本を理解しようとして過剰に理解していない。キーワードの構想力も人間力も、解釈の文脈ではなく、吉本の語り口調のなかにそのまま残されている、がゆえに、それを読者は深く受け止めることができる。
 手間がないので以下、はっとしたあたりをメモ書きみたいにする。
 引用中「そういうことができたら」は、とりあえずどん詰まりの世の中に自立の発言をすると理解していただきたい(実際はもっと微妙)。

 意見を聞かれれば「僕は日本の情況と世界の情況のある部分は基本的にはわからないとは思っていないからなあ」ということがあるから、自分が思っていることはしゃべりますけど、自分としては自分の固有領域でそういうことができたらいいなと思っています。
 それはとても大きな課題で、そういうことが切迫して近づいているんじゃないかと思うんですね。日本の左翼は僕の知っている範囲で言うと、みんな夢をよもう一度と考えるんですが、僕は「そんなのは過ぎたことだよ。そんなことをやってもだめなんだよ」という感じを持ちますね。
 これはどこでもそうです。共産党から社民党みたいな進歩的な政党でもそうですし、公認政党じゃないけどラジカルだと称している政治組織の人たちもそう思っています。昔僕が書いたものを出版してもいいかと言うから、「それはいいですよ。書いたんだから責任は負いますよ」と言うけど、心のなかでは「よせやい。そういうことをやってはだめなんだよ」と思っています。

 ここでさらりと吉本は過去の情況論についてだが全否定をしてしまっている。いや全否定ではないともいえる。過去の言説はその文脈では生きているし、思想の営為としては過去をその文脈で評価するということもあるだろう。だが、吉本がここで言っていることは、過去の文脈での発言を今の文脈にひっぱり出してもアクチュアルな意味はないから、今の問題を解けよ、ということだ。別の言い方をすれば、かつての左翼理念はもう終わったということだ。吉本はまだ今を生きている。
 これを現在に近い情況の文脈で見直すと、私は本書で、吉本が以前読んだものよりはるかに小泉の郵政解散を支持していることを知った。これは私には驚きだった。私が、小泉の郵政解散を支持したとき、自分はもう吉本の圏内にはいないかもしれないな、稚拙かつ夜郎自大な言い方だけどブロガーというものがあるならここで旗幟を鮮明にするところだと思った。結果、ひどい反発を受けた。あのころ、この吉本の発言を知っていたら、私は吉本を傘にしてしまったかもしれない(そうしなくてよかったが)。

 小泉は政府系の官庁を少なくして、郵便局みたいなものは人員も整理して、民営で資本家に経営させるようにする。意図は政府を縮小する、小さくするということです。郵政問題は、ほかの政党の候補は重要ではないと言っているけど、そうじゃないんです。
 国家という言い方でおわかりいただけると思うんだけど、これは「政府が」と言っているのと同じことで、要するに国家が社会の中に、つまり民衆が日常生活を営んでいる場所に張り出してきているものとして最も大きくて、最も重要なのが郵政問題です。郵便局の問題だけじゃなくて、通信、交通機関を含めて、郵政問題は国家が社会の中に張り出してきているいちばん大きな存在なんですよ。
 小泉は正当なことを言っていると僕は思っていますけど、これを民営化するかしないかは、要するに政府を小さくするか大きくするかということで、政府を小さくするのが根本であって、それは誰がどう考えてもいいことだというふうに言っていると思います。
 ほかにも社会福祉事務所とか、国家が社会に張り出してきているものはいろいろありますけど、たとえば郵便局はその中では誰が言っても愛想よく切手を売ってくれるし、金は取るけど郵便を出してくれるし、ときどき記念切手なんか出したりして、ある種の儲けもやっていて、郵政問題の中で郵便局はよくやっているじゃないかという評価も、もちろん成り立つわけです。
 そこで評価するなら、「なんで民営化するんだ。いまのままでいいじゃないか」というのが正論だいうことになる。だけど、政府を小さくするというのは、あらゆることににいいんですね。つまり誰が政権を取ろうと、どこの政党が政権を取ろうと、政府は小さくしておかなければいけないし、だんだん小さくなるのが本来的なもので、共産党だって小さくなるに反対する理由はないんです。原理原則として、理念としては、誰が考えてもいちばん妥当性があって、未来性がある問題なんですよ。だから理念から言えば「何も反対することはないんじゃないか」ということになる。つまり小泉は、そこのところだけで今度の選挙で勝負しようとしているわけです。


 政治的な問題について言えば、小泉が今度の選挙でやったこところが精一杯で、それでいいんじゃないかと思います。

 そんなことをあのとき吉本隆明は思っていたのか。知らなかったなという感慨があるし、よくこんなことを今でも言っているなとも思う。私はむしろ、あの時のバッシングでブログに少し懲りた。自由なブログとか言ってもあまりはっきり言わないほうがいいことは多いし、わかる人にはわかるようにテーマによっては韜晦に書くことにした。
 本書の対談で、発言するということに関連してか、これも意外に思えた。

 会社に行ってもそうだし、地域に行ってもそうだし、僕みたいにただ書いて、しかも文学で役にも立たないような、つまり有効性はちっともないという物書きでも肌で感じて、それを論理づけるというか、理屈づけるものは立てられるわけですね。それは機会があればいつでもおしゃべりすることはできますし、遠慮も何もない。ただ言論というのは憲法で保障されている自由なんだけど、日本のジャーナリズムは自由じゃなくてもう締め付けがすごいですね。僕がまともなことを言っても採用しないで、四国八十八ヵ所巡りの案内人になったみたいなものなら許すわけです。
 だけど大まともに僕に言わせたり、書かせたりするジャーナリズムはみんななくなったというのは、もう自明のことです。そういう状態だということは、すぐにわかってしまうんですね。おやおや、そういうことになったかと。

 この発言を最初読んだとき吉本もボケたなとちょっと思った。が、先の小泉による郵政問題の発言とか、ついぞあの頃吉本からメディアを通してダイレクトな発言を聞けなかったことや、左翼が昔の吉本の作品を復刻したがることなどを思いに入れると、ああ、吉本さん、ここでも正直に語っているんだなと思った。ちょっと泣きたくなった。
 憲法改正の自民党案を批判した文脈で、この問題をまたこうつなげている。

 だいたいそういうところまで行っているということで、僕自身の職業のことで言えば、言論の自由があるから、いくらでも何でも言ってあげるよと言ってもジャーナリズムはもうだめです。勝手に直してしまうし、朝日新聞やほかの大新聞はみんなそうなっています。
 僕は若いときなら「もうやめた」と言って、ただ「もう書いたんだから原稿料だけはくれ」という交渉をするところだけど、やはり年を取って少しだらしなくなったのか(笑)、寛容になったのか、そこまではやらないで、エーイ勝手にしろ、という感じです。あまりひどいときは「ボツにしちゃってくれ」とやりますが、このごろは「仕事はしたんだから金はくれ」とまでは言わないようになっています。

 なるほどね、そうかと思う。自分の周りのちょっとその関連の人の愚痴を聞いてもその実態はわかる。
 引用が長くなった。あと、親鸞と死のこと、自立のこと、私は、吉本隆明をかなり読み込んで理解していたかと思っていたのに、あれま全然わかってなかったということがいくつもあった。また別のエントリで書くかもしれないし、書かないかもしれない。

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コメント

吉本隆明さんが『電波少年』に出演した理由を対談者に問われたとき「自分も吉本隆明25時というイベントで、出演者のことで大変な苦労をした。自分にはTVスタッフの苦労が分かるし‥」と答えたことをなぜか思い出しました。

投稿: mb101bold | 2007.09.25 16:28

>>弁当おじちゃん

 日記で概念論熱く語らんでもウィキペディアに直接書けばいいじゃない。とか言って。頑張ってね。あとまー多分一般の日本人は深層心理でそういう思想を拒否すると思うよ。とも言って。日本人の場合、そーゆーセンスは生得としてあるや無しやの領域って言うか、多分「才能」と同質に語られると思いました。なんちゅって。

投稿: 渡辺裕 | 2007.09.25 19:46

はじめまして。結局、吉本隆明の対談者やフォロワー、読者に、その語法や方向に対して、落胆や反発したりしているのだなあという覚えが私にもあります。吉本自体は空白の中心みたいな、周回ではまさに「死屍累々」。「吉本はこう読め!」的な好解説書がほしいし、そういうところで手を打ちたい。「よせやぃ」読んでみます。ご紹介、ありがとう。

投稿: 吉本ボケ | 2007.09.26 11:54

とにかく、ああだこうだ、と言ったところで、吉本隆明はスゴい。くだらぬ事は言うな。ただ、黙ってこうべを垂れよ。
                     西村 勝。

投稿: | 2011.01.11 21:14

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受信: 2007.12.19 22:22

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