[書評]人々はなぜグローバル経済の本質を見誤るのか(水野和夫)
「人々はなぜグローバル経済の本質を見誤るのか(水野和夫)」(参照)をようやく読んだ。先入観といえばそうなのだが、ウォーラーステインとかニューアカ系ゴマ臭さ満載なんじゃないかと引いていたのだが、実際読んでいたら柄谷行人の引用とかも出てきて引いたというか笑った。
人々はなぜ グローバル経済の本質を 見誤るのか 水野和夫 |
それにしてもこの一種の幻惑感はなんなのだろう。例えば、このあたりが顕著かもしれない。
先進国がすでに「新中世」に入ったとすれば、二一世紀は「帝国の時代」であることを意味する。前節の「なぜそうしないのか」との問いに日本が真っ真っ先に答えを出さなければならないのは、単独で帝国を目指すのか、EUのように共同体を目指すのかである。おそらく、後者であることは間違いないだろう。単独で「帝国」を目指せるのは、米国、中国、ロシアの三カ国くらいしかない。
日本に「帝国の時代」に備える覚悟はできているのだろうか。この五年間、とりわけ九・一一事件後、「帝国化」に向けて世界の歴史の歯車が大きく動いているにもかかわらず、日本のアジア外交は靖国問題でストップしたままだった。
私は、素直にいうけど、これ読んで、お茶吹いた。そこで靖国問題ですか、というべたなツッコミではないよ。というか、もういわゆる靖国問題の構図はお疲れさん上海閥というくらいでほぼ見えている(ほぼというのが不気味なんだが)ので、けっこうどうでもいい。おふざけじゃなくて、じゃ、というところで、水野の意見では、アジア共同体を目指せと廣松渉先生御霊言みたいなわけだが、帝国には中国が入るわけだから、当然、すると、中国抜きのアジアの共同体を日本が作れですか? 誰々、面子? インドネシア、マレーシア、フィリピン、ベトナム……ASEANのリーダーたれということ、ほいで共通通貨ですか? というあたりで、ご冗談でしょ、藁、みたいなことになる。いやすまん、おふざけになってしまったが、じゃ、どうせいと?
同じ文脈なのだが。
グローバル経済圏での基本原理は「競争」であり、「効率」である。一方、「新中世」経済圏のそれは、「安心」と「公平」である。例えば、道州制の議論においても、首都圏、近畿圏、東海圏はグローバル経済圏に最適な税制や仕組みを導入し、それ以外の圏は定常状態を維持できる仕組みを導入することが望ましい。
ここで、私は率直に、グローバル経済圏と「新中世」経済圏という理念を理解できないのだが、というのは、それと「帝国化」の関係の構造がわからないからだ。グローバル経済が帝国化だというのはわからないでもない。しかし、「新中世」というのは、先進国の現象であればその延長に出現するのではないか? この例でも、一国のなかに帝国的な圏とそうではない中世的な圏が想定されるが、実際には常に政治的に帝国側から統制されるしかないだろうし、そもそも、そうした国のタガというのをグローバル経済が否定するというのが、水野の議論の原点なのにするっとドメスティックな政治権力の有効性が出てくる。
重箱の隅つつきをしたいのではない。どうもこれは大枠の構図の問題としか思えないのだ。さらにこう続く。
グローバル経済化は不可逆的現象だろうから、近代主権国家はそれまで築いてきた均質性を取り戻すことはできないのである。技術革新が推し進めるグローバル化はとどまることはないからである。
それは私も同意する。であれば、先の、ドメスティックなスコープにおける、グローバル経済圏と「新中世」経済圏の区分けは無理だろう(むしろ文化的保護区のようにするしかない)。また、米帝国と中華帝国の狭間で軍事的な骨抜きで、中国抜きASEAN共同体みたいなのものを作れというのは、夢想でしかないのではないか。
わざとめちゃくちゃなエントリを書きたいわけではないが、この先にこうも続くのだ。
グローバル経済圏にとっての課題はドル問題、すなわち通貨制度とエネルギー問題である。
これは私は同意する。だが、
一方、「新中世」経済圏にとっては、定常状態に到達するために流通革命を起こせるかどうかが課題である。
となる、このあたりで、また遠近感が狂ってくる。この先、水野は日本の労働生産で著しく低いのは流通業だとしてそこに解決を集結させていくのだが。
がというのは、それこそがグローバル経済の最大の力ではないのか。まさに水野が強調するようにIT通信技術によって頭脳労働までも他国に流通可能になったと同じことが起きるだろうし、身近に小売りを考えてもむしろ巨大アマゾン店みたいなモデルの勝利になるだろう。
とま、ちょっと否定面が強すぎたかもしれないが、本書の話題はディテール的には多岐にわたるので、へぇこの資料は探していたのだ手間が省けたみたいなお得感はある。エネルギー問題というのをサウジ、ドルの問題を米国に置き換え、ミッシングピースに「極東ブログ: [書評]石油の隠された貌(エリック・ローラン)」(参照)を当てはめていくと、うひゃ陰謀論却下なインパクトのある世界像も描ける。
あまりベタにいうと馬鹿みたいだけど、米国はドルへの投資をまだまだ吸い続けてなくてはならないように帝国化を推進するしかないし、その帝国化のある完成時点で、水野のいう新中世宣言のようにじんわりとどかんとドル安が起きて、過去はなかったことにしようとなるのではないか。つまり、どう転んでもドル安を後にするというドライブでなにかと必死になるし、中国様がそれにどう調和するかに、日本は追従するのだろう。明日晴れるといいな、世界が平和でありますように。
| 固定リンク
「書評」カテゴリの記事
- [書評] ポリアモリー 恋愛革命(デボラ・アナポール)(2018.04.02)
- [書評] フランス人 この奇妙な人たち(ポリー・プラット)(2018.03.29)
- [書評] ストーリー式記憶法(山口真由)(2018.03.26)
- [書評] ポリアモリー 複数の愛を生きる(深海菊絵)(2018.03.28)
- [書評] 回避性愛着障害(岡田尊司)(2018.03.27)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
「帝国化出来るのは米、中(アジア・・・)、露ぐらい」「日本はアジア・・・共同体に入るしかない」
私この本読んでないけど、世界をメカニカルに捉えて、繁栄を永続化させるモデル作った人なんていないでしょ。公平性のため、通貨の競争は必要だろうし、となると安定性は難しいし。まぁずっと先の問題かな、どうだろう。でも野心的な壮大なビジョンを語る人がいても良いだろう。突っ込みをいれつつ考えてみるのも良い。私にはぴんと来ないが。バベルの塔の問題か。
投稿: itf | 2007.09.18 11:41
帝国がうんぬんというあたり、著者は、アントニオ・ネグリの「帝国」や「マルチチュード」の影響を受けてうろたえているのだろうと思います。
ネグリの「帝国」で、注意すべきは、「マルチチュード(「民衆、多数」くらいの意味)」の概念を最初に提示したのが、マキャベリで、それを拾い上げたのがスピノザで、その後、放置されていたこの概念を、再び拾い上げたのがネグリであるということ。
なぜ、マキャベリの時代にはじめて「マルチチュード」が注目されるようになったのか、そして、なぜ、マキャベリの問題意識を継承できたのがスピノザだけだったのか、そして、なぜ、現代になってネグリがこの概念をふたたび拾い上げることになったのか。これがわかれば、その人はたぶん、現代の中心課題に見通しのついている人だろうと思います。また、アントニオ・ネグリが、マキャベリやスピノザに匹敵する大政治学者であることも洞察できていると思います。
まあ、今の時代にアントニオ・ネグリがいてくれてよかった、よかった。マキャベリ、スピノザ級の大政治学者なんてものは、本当に、500年に1回現れるかどうかというところでしょう。そして、本当に、マキャベリの時代から500年を経過してアントニオ・ネグリが出現してくれた。
ついでに言えば、アントニオ・ネグリが「孟子」も読んでいてくれれば、たぶんもっとよかったと思います。
投稿: enneagram | 2010.03.02 08:51