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2007.09.26

死は別物ということ

 死についてはいろいろ考え続け、そして率直に言って自分にはほとんど結論も信念もないのだが、死の恐怖が時折無意識からこみ上げてくることがあるせいか、折に触れて考え続けている。
 いくつか問題の下位の構図のようなものはあり、例えば「棺の蓋を閉じて評価が定まる」というのはどうなのだろうか。つまり死という終点が人生の意味を表現するのかということだ。もちろん私のように無名で無意味な人間にとっては、身近な人間以外に私の棺の蓋を閉じる意味もないだろうというのは当然としても。
 死のことを書き出したのは、先日のエントリ「極東ブログ: [書評]よせやぃ。(吉本隆明)」(参照)の関連だ。私はけっこう吉本隆明の本を読んできた部類に入るし、彼のアングル以外からも親鸞についてもいろいろな側面で関心を寄せてきた。吉本の親鸞論はある程度理解したという感じももっていた。が、次の発言に触れたとき、虚を突かれた感じはした。


「人間はいつ、誰が、どんなことで、どういうふうに死ぬかは全然わからない。わからないことを考えるのは無駄なことだ」というのが親鸞のはっきりした考え方ですね。もっと言えば「そんなことは問題にもならない。日本の浄土教でも源信とか法然の言い方はだめなんだ。死だけは別問題で、自分のものではないと考えたほうがいい。老人で病気になったというところまでは自分のものだけど、あとは自分のものではないという考えのほうがいいんだ」というのが親鸞の考え方です。

 言われてみると、ああ、そうだ、そんな簡単なことなんだと目から鱗が落ちる感じがした。むしろどうしてそこがすっきりと自分に理解できなかったのか、逆に反省した。救済へのこだわりのようなものが自分にあるからだろう。
 親鸞の思想に救済があるのか。私の理解では、それはない。だが、それでもどこかに死と救済の構図を読み込んでしまうからすっきりと理解できなかったのだろう。吉本のこの親鸞理解では、むしろその構図自体の無効性がはっきりと言明されている。
 私はときおり自分の死に様を思うのだが、そのなかでもとりわけ嫌なのは、脳をやられて死ぬことだ。知覚や認識に異常を来たしてしまう自分というのは恐怖でしかない。これは、「極東ブログ: [書評]私は誰になっていくの?―アルツハイマー病者からみた世界(クリスティーン ボーデン)」(参照)でも少し書いた。
 だが、死が別物なら、狂気に落ちていく私もどうすることもないという結論以外はなさそうだ。
 吉本は対談の別の部分でもこう変奏する。

年を取ったから死ぬというのじゃなくて、事故で死ぬことも、病気で死ぬこともある。だから死というのはいつ、誰が、どう死ぬか、そんなことはわからんのだと。親鸞はそれに気が付いて、そこまで認識を深めたわけです。
 死は別物だ。人間の生涯の中には入らない問題で、生きている限りは生きていて、やがては死に至るんだけど、死は人間の個々の人が関与する事柄では全然ない。どういう病気で、誰が、いつ死ぬかわからない。そんなことは考えてもしようがないから、考える必要もない。臨床的にもそうで、死は別系列だ。他人にあるか、近親の手にあるか、医者の手にあるか知らないけど、自分の手には入らない。

 そうだなと思う。どうも引用して納得してるだけなので、Tumblrにでも書けみたいなことになりそうだが。
 ただ、こうした親鸞=吉本の思想のなかで、自殺や尊厳死みたいなものはどうなのか、そこはやはりわからないといえばわからない。わからないというのは、自分の死については、それは別物だどうしようもないとしてもいいとしても、同じ共同体の中の人々が尊厳死を権利として主張するとしたらどうなのか。その人々と自分の関係はわからないなと思う。
 こうしたことを考えていくと、死刑などの問題にも関連してくることがわかる。私は、大阪教育大学付属小児童殺人事件で死刑になった詫間守が唯一のきっかけとはいうわけではないが、次第に死刑廃止論に傾いていった。理由は簡単で、自己の死を賭することで共同生への悪と交換可能にするようなありかたが疑問に思えてきたからだ。死ぬ気になったら人を殺していいという思想として現れる死刑を受け入れがたく思う。
 話がまとまらないが、そうした殺人のような悪にもまた親鸞の思想の射程にはある。その部分についてはこの対談集では吉本は語っていない。

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「雑記」カテゴリの記事

コメント

お元気ですか?
誤字が多いですよ。

投稿: 愛読者 | 2007.09.26 23:50

死ぬまでは生きているのですから、自殺や尊厳死は
最後に来る「死」自体を除けば一つの生き方と言えるのでは
ないでしょうか。関係ないことを言っていたら済みません。

投稿: 学生 | 2007.09.27 01:13

>尊厳死を権利として主張するとしたらどうなのか

「人事を尽くして待つ」という事もありますから、それが当て嵌まるなら、まず近親者で、次に公的に認めて良いんじゃないでしょうか?

>死ぬ気になったら人を殺していいという思想として現れる死刑を受け入れがたく思う

むしろ、そういう人を管理する手間で考えられてるんじゃないかと、自分は思います。
「どう考えても在野に帰す事は出来そうに無い」
「じゃ、無かった事にしようか」って感じ?

>死ぬ気になったら人を殺していいという思想

これって、公的には絶対認められないのだろうだけど、ギリギリの所で人間の尊厳と結びついてる部分だとも思うのです。
ただむしろ、そこまで自力救済に人を追い詰めない・追い込まない社会の形成と運用こそ目指すべきと思います。

投稿: トリル | 2007.09.27 04:09

死刑は戦争と同じく国家のレベルのものだから、個人のレベルであれこれ言っても届かないのではないでしょうか?「死刑制度のない国家」と同じように「永久に戦争を放棄する国家」があってもいいと思うけど。

被害者家族に「殺意」を抱かせるというだけでも、殺人は罪なんだと思う。その罪の落とし前の実行を国家に託してもいいと思う。と、個人が持ってしまった「殺意」を誰かに代行してもらっても、それは「殺人」なのだから、その個人は罪に汚れる。その罪をあがなわなければならなくなる。それも国家に託すんだろうか。

いつものピンボケですいません。

投稿: haineko2003 | 2007.09.27 08:46

自殺しようとして死に切れるわけでもないし、尊厳死がかならずしもなされるわけではない。死刑は常には確定しない。
死はやはり不確実性のなかにあります。

投稿: cyberbob:-) | 2007.09.27 09:58

釈迦と弟子との以下の問答こそ仏教の源流と考える。
弟子「人間は死んだらあの世に行くといいますが、
   あの世とはあるのでしょうか」
釈迦「死後のあの世があると思ってもいけないし
   ないと思ってもいけない。」
つまり、人間自分の死後のことなぞ考えるなということと。

本来浄土があるとか、輪廻とか、死後にまつわる思想を
起してはならないというのが釈迦の考え。
葬式仏教の日本の仏教は、釈迦仏教ではないんですよね。
じゃあなんだろう。仏教の仮面をかぶったカルト教
なのかも。

投稿: ダンカイ23 | 2007.09.27 10:04

>理由は簡単で、自己の死を賭することで共同生への悪と交換可能にするようなありかたが疑問に思えてきたからだ。死ぬ気になったら人を殺していいという思想として現れる死刑を受け入れがたく思う。

確かに宅間にしてみたら、自分の命を賭して憎悪を買うことで(死刑を望む“他者”の確定)「敵」を捏造する=彼の失望に沿って社会が最適化された、とも言えるのですね。

悪魔と指差されることは悪魔の想い……自分は間違っていなかったと確信をさせるのですから。

ある意味では、忍耐こそ被害者の刃なのでしょう。

投稿: 夢応の鯉魚 | 2007.09.27 15:29

なまくそぼうず
70-80代のいってかえってきた爺さんたちにきいてみな。

投稿: | 2007.09.27 20:24

どうもこちらでは、初めて書かせて頂きます。

コメント欄で私事になって申し訳ないのですが、自分の場合、死のあの衝撃にあった時、死は大した問題ではない、という了解をした時恐怖が消えました。

エントリ後半では、ウィトゲンシュタインの『自殺が許されるなら全てが許される』という言葉を思い出しました。

投稿: epikurosu | 2007.09.27 22:06

後段の自殺や尊厳死は殺す殺されることで死ぬとは別系列ぢあないですか。
死ぬ気を起こす心得は殺生であって仏典で禁じられた禁忌でしょう。親鸞上人とは異なことを仰っています。

>死ぬ気になったら人を殺していいという思想として現れる死刑を受け入れがたく思う。

殺生を抑えられず修羅に陥り、人間としての在り様から逸脱したのだから、人外の某として排除し人間界を守護することは必要ではないですか。
引用のそれはなんだか詫間守死刑囚が裁判官席に座っている独りの法廷が想像できるんですが…

投稿: minase | 2007.09.28 10:23

Tumblr の垢を教えてください

投稿: WING | 2007.09.28 19:12

↑自己解決
ありゃTwitter なんで止めたんすか?
あっちで答えて!!

投稿: WING | 2007.09.28 19:15

はじめまして。いつも勉強させていただいてます。

吉本さんはなんであんなに瀬戸内寂聴さんが「死は怖くない」と言っていることがシャクに触るのでしょうか?
「怖い」っていうのは我々が抱く「感情」でしょうから、「死は怖くない」って文はおかしいですよね。
「死」が主語なんですかね?
それはともかく、結局、「別系列」ってことで納得できるなら大した違いはないと思ってしまうんですけど。
吉本さんは、それでも「ときどき考えて、おもしろくない」と言ってるんですが。

支離滅裂ですいません。
面白かったので他の本も読んでみたいと思います。
失礼しました。

投稿: けん | 2007.10.02 00:37

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