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2007.09.27

吉本隆明の自立の思想の今

 吉本隆明のファンなら、あるいはかつてのファンでもそうだが、「自立の思想的拠点」(参照)を読んだことがあるだろう。全著作集の政治思想評論集にも含まれている。ここでの「自立」とは、昭和40年に「展望」に書かれたという時代背景を考えても、以下の冒頭を見ても、従来型の左翼思想からの自立を意味していたかに見える。


 わたしたちはいま、たくさんの思想的な死語にかこまれて生きている。
 〈プロレタリアート〉とか〈階級〉とかいう言葉は、すでにあまりつかわれなくなった。代りに〈社会主義体制と資本主義体制の平和的共存〉とか〈核戦争反対〉とかいう言葉が流布されている。言葉が失われてゆく痛覚もなしにたどってゆくこの推移は、思想の風流化として古くからわが国の思想的伝統につきまとっている。けっして新しい事態などというものではない。当人たちもそれをよく知っていて、階級闘争と平和共存の課題の矛盾と同一性を発見するのだというような論理のつじつまあわせに打ちこんでいる。しかし、思想の言葉は論理のくみたてでは蘇生できるものではない。いま失われてゆくものは、根深い現実的な根拠をもっているのだ。

 実際にその先を読み進めると、根幹にある問題はある種のナショナリズムと見てもよい。ナショナリズムと左翼思想のその双方からの自立というふうに捉えることもできるかもしれない。だが、もっと現実に即していえば、60年代・70年安保として語られた社会理想が、現実のなかで必然的に挫折していくとき、思索者はどのように思想的に立つのかという、差し迫った問題でもあった。別の言い方をすれば、およそ物を考えざるを得ない人間が現実にどのように対峙可能なのかということで、むしろそうした人生論的な部分に問題を還元すれば、吉本の別の言葉である「不可避の一本道」というのが、まさに人生のリアリティとなったものだった。こう生きる以外はなく、かろうじてぎりぎりでしか生きられないよ、と。
 簡単に言えば、こう生きるしか自分の現実はないというときの思惟の立脚点は自立と呼ぶしかないだろうという、ある種の追い詰められた感じを伴っていた。いや、私にはそういうふうに受け止められた。
 だが、「極東ブログ: [書評]よせやぃ。(吉本隆明)」(参照)で触れた対談集では、吉本はもっとくっきりと現在における自立というものを語っている。率直に言って、私は、半分はそのまま頷き、半分は少し驚いた。
 そのまま頷くというのは、人間力についてで、たとえば、こういう部分だ。インタビューをする塾経営者に対して吉本は、塾のありかたはどうするかという文脈で、比喩的にこう答えている。

塾なら塾で一つの連合体だと思って、どこかから資金が出るようなものをちゃんとつくるというやり方をしたら終わり……。少数派になっても、たとえば破れかぶれになってきても、アルバイトでも何でもいいから食いつないで、ちょっと我慢してほしい。

 ひどい言い方をすれば、政治党派を作らず、一人でアルバイトでも食いつなぐのが、今の状況における自立の思想の姿だよとも言える。これは、皮肉でもなんでもない。
 そして、我慢してくれ、という裏付けを彼はこう続ける。

僕の考えでは潰れるまでお宅の塾へ来る人が減ってしまうことは、まずないと思う。つまり、あなたのお人柄から見ても生徒さんがゼロになってしまうことはまずないから。

 さらに「あなたの塾の生徒が一人になってしまったというところまで守ったほうがいいですよ、それを守らなければ何をやっても同じです」とも言う。
 ちょっとすると奇妙な、老人にありがちな道徳訓を語っているかのようだが、これもべたに言えば、人柄さえあれば食いつなぐことができる、それを信じて、そこでその人柄で耐えてくれ、ということだ。人柄にそれほどの意味を持たせるているのは、この対談で吉本が強調する、まさに「人間力」に関係してくるからだ。吉本の言う人間力というのは概ね人柄と言っていいだろう。
 ただ、単純によい人柄という徳目のようなものではない。この点については、教育はどうあるべきかという文脈でこう語られる。

 僕が言いたいのは、原則は、あなたの塾の生徒さんの母親から何か相談を持ち掛けられたときにそれに対応できるということ。たとえば、ご当人が親とけんかして「家出したんだけど、行くところがないからぜひ先生のところへ泊まらせてくれ」と言ったら、「ああいいよ」と言って泊まらせてやるとか……。

 私の昨今の世相の観察からすると、そういう教育者はほとんどいないか、本当はいても見えないことになっているか。でも、見えなくてもまったくいないわけではなく、そこで本当に若い人が蘇っているのだろうと思う。
 いずれにせよ、吉本の自立はここで、一種、人柄・人情に近い人間力という極点を持つ。
 もう一つの極点は、構想力だ。こちらは、私には驚きと違和感があった。こちらも教育という枠組みで比喩的に語られる。吉本は「あなたが文科大臣になったらどうするか」ということを意識しておけとしているのだ。

 昔はデモも有効だったけど、そんなものがいま役に立つわけはないんです。時代の転換期で、そういうものが通用しにくくなってきている時代なんです。だけどあなたのような頑張り方で、ただ追い詰められているだけじゃなくて、追い詰められた分だけ俺が文科大臣になったらどうするかという、大筋だけは相当はっきりと確立しておこうと、積極的にちゃんと考える。そういう構想を持っている人が増えると、ひとりでに社会は変わっていくわけです。


 日常的には臨床的な専門の仕事をやっていればいい。その中間はいらない。追いつめられるだけじゃなくて積極性ですね。塾連合会みたいなものをつくっている連中が勢力を拡大して、補助金が募れるようになったといい気になるけど、そんなのは嘘ですから、そんなものは何の意味ないし、それより、俺が責任者になったらこうするというのを持てる人たちが少しでも多くなってくれば確実に日本は変わる。

 国家のような上からのビジョンを、もっとも下の大衆の側から描くというのが構想力として語られていると言っていいだろう。
 私は、率直に言うと、そういう構想力には違和感を持つし、吉本の思想はそんなものだったのかと訝しく思う点もある。この点については、ちょっと驚くなというのとわからないなというのがある。
 私は、そもそも教育に国家が関わるべきではないと思うし、国家の運営とは、ドブさらいと夜回りをしていればそれでいいと考えている。そうした国家観が、どうやら吉本とは違うようだなとも思う。
 そして、私は吉本より、日本と世界の行く末をとても悲観的に見ている。ネットの未来についても悲観的に見ている。どんどんダメになっていくだろうと思う。
 私ができることは、二つ、どんな悲惨になっても正確に見ていたい。正気でいたい、ということ。もう一つは、希望にかける人がいるならそれをできるだけ否定しないようにしようということ。
 私には悲観的な未来があっても、その暗い未来は私が死んでいく棺のサイズでよいのであって、多くの他者の地球ではない。私が悲観と絶望に浸っているのは私の趣味のようなものであって、私のものではない世界を暗く塗ることはどこかしら傲慢に思える。

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コメント

 死ぬのも才能ですよ。上手に生きる人は上手に死ねない。下手に生きる人は下手に死ねない。長生きしたいと思えば下手に生きればいいし、上手に生きたいと思うならさっさと死んで当たり前。
 生きるは自分の意思でも死は別物…みたいに考えることがそもそも下手な生き方では? 生きるも死ぬも、一緒ですよ。今生きてると思わず今死んでると思ってみたら、見方が変わってくるんじゃないですかね?

 とか言うと包容力の問題にもなってくるんですかね? 包容力が常軌を超えたら、死をも受け入れられる。死んでるんだけどな、と思いつつなんだか生きてる、とか。
 生きるの価値をその程度の水準まで下げれば、あまり悩まなくなると思います。悩みが無くなったら何なんだ、と言われても分かりませんけど。

 あ、スレ違いでしたね。いっこ前でしたね。すんません。

投稿: 渡辺裕 | 2007.09.27 22:06

子供作ったら?

投稿: | 2007.09.27 23:31

党派性を嫌う発言をしながら、本当に最後まで党派性を否定した行動をとってきたのは思想家では吉本だけだと思います。柄谷さんも違った。

そこは恐ろしいほど徹底していて、昔の本を今読むと、世の中は変わるけど、個を取り巻く状況は、基本構造としては何も変わっていないと思えてしまうんですよね。

世の中の変化くらいでは変わらない何かは、一般的な概念としての人柄を否定してもなお、人柄としか呼べないものに収斂してしまうものなんでしょう。

そこに吉本さんの思想的な欺瞞や弱点を見出す人もいるけれど、まあ、そういう考え方も分かった上であえて言うとすれば、結局、あのじいさんいいなあ、信じられるよなあ、ということになるのかもしれません。

結局、思想なんて人柄なんだよね、なんて、ちょっと言い過ぎかもしれませんが。

投稿: mb101bold | 2007.09.28 23:56

はじめまして。finalventの日記より飛んできました。極東ブログも読んでいて、こちらのお勧めで初めて吉本隆明を読んだ人間ですが、このエントリは見落としていました。

構想力の部分でそんなに驚かれていたのはむしろこちらのほうが驚きです。教育と文部大臣という例えを、社員と社長に直せば、一サラリーマンにはすんなり納得できる話です。

ポリシーも戦略もない経営陣の下でひいひい言って働いている社員に対して、自分なりのポリシーや戦略をひそかにもって、何かの折には周囲に(それとなく)働きかける。そういう社員が半数を超えれば会社も変わるよ、という話だと理解しました。

実際に半数を超えるかどうか、発想をまとめるだけの時間的体力的余裕が社員にあるか、そもそもそういうことを考える人はすでに構想を持っているのであたためて説明することに意味がないのではないか、というのは別の話です。が、私はこの本で語られている構想力という発想に非常に刺激を受けて、読前読後で少しだけ(本当に少しだけですけど)自分が変わった気がします。

中井健人のあとがき「"社会"を中心にして自分を生きると考えるのではなく、"社会"の中で自分自身の考えを生きることの重要さ」も好きです。

よい本を紹介していただいてありがとうございした。

投稿: 購読者 | 2007.11.16 10:37

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