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2007.08.23

[書評]カラマーゾフの兄弟(亀山郁夫訳)

 爽快に読める亀山郁夫新訳が全巻揃うまで読書開始は待とうと思っていたが、最終巻を期待していた春頃、なかなか出ないので、よもやまたかという懸念があったが、7月に5巻で完結した。訳者の苦労に感謝したい。そして50歳になってこの本が読めたことを深く自分の人生の喜びとしたい。
 大げさな言い方だと自嘲もするし、私など些細な存在だが、この書籍に呪われたような人生だった。私はある意味では早熟でクラソートキンの歳でこの作品に挑んだ。旺文社文庫箕浦達二訳で読み始めたのだった。ロシア語はわからないが(それでも大学で学んだっけと思い出す)良い訳だった。が、二巻までしか出版されなかった。その後旺文社文庫自体が消えた。魯迅もプラトンも鴎外も漱石も私は旺文社文庫で読み、学んだ。
 いつの日か箕浦訳が出ると確信していて3年が過ぎ、5年が過ぎ、10年が過ぎた。アリョーシャの歳にもなった。そしてその歳も過ぎた。しかたなく継ぎ接ぎのように江川訳でも読んだ。米川訳も読んだ。それはそれで良かったのだが、箕浦訳のある現代性というかロシア性というか、そこがうまく馴染めないでいた。いつか解消しよう。それに、小林秀雄がたしか、ドストエフスキーは40歳、50歳になって読み返しなさいと言っていた。30歳を過ぎて、私も自分なりの運命に翻弄されながら、「そうだな50歳になったら、カラマーゾフの兄弟を読み返そう」と思っていた。私のアリョーシャとしての人生もその頃は完全に終わっているだろうし、と。
 私は自分の予言を叶えた。
 「私のアリョーシャとしての人生」というのは言うまでもなくイカレた物言いである。そのくらいはわかっているが、私は自分の人生にアリョーシャを重ねてきた。ゾシマ長老は私の守護神でもあり呪いでもあった。世俗に生きなさい、と。キリスト教に傾倒しつつ、ゾシマの声を聞き死臭を嗅いだ。今にしてみると、それがなんであったのかはうまく言い難い。だが、何かはわかった。人生で三度目にこの本を読み終え、深い感動と狂気に浸った。
 新訳を気が狂ったように読み、率直なところ、過去の思いが去来するところもあるが(些細なところではストロベリー・リキュールとか)、初めて読むように思えるところも多かった。なぜこんなに面白く、魂をゆさぶられるのだろう、この小説は。
 アリョーシャもかつて自分に思い重ねた人とは違うようにも思えた。と同時に、もう引き返せないほど実は自分と同化している部分を確認した。私の魂のなかにはアリョーシャ・エンジンみたいなものがある。
 現実は、私もフョードルに近い歳になり、また、ドミートリーのような女狂いも理解したし(罪深い!)、そして率直に言えば彼らのカラマーゾフ的汚辱の情熱をも普通に携えているようになった。アリョーシャの中にカラマーゾフ的な力もきちんと読み込めたし、そしてそれが自分の生き方の根幹にあったなと確認した。
 理性をもって理性を吹っ飛ばす一冊(大冊)が存在することが無性に嬉しい。読み返して、感動もだが、この歳こいて文学の狂気にどっぷりと漬かれた。悪徳なのかもしれないが、幸せだ。文学というのはここまで恐ろしいものか。
 これをきちんと世界の人は読み継ぐのだ。これが人類の意識を定義している。これを読んだ人たちは私の友であり、この世界には国境を越えてもたくさんいるに違いない。なによりロシアの魂というのはこの書物のように不滅のものだ、そう気が滅入るように思った。現在ロシアはある意味でソ連回帰を始めているが、それでもあの堅固にも思えたソ連をロシアの魂はぶち破ったし、「カラマーゾフの兄弟」を今読み返せばそれが当然のように見えるし、もっと恐い未来も見えないわけでもない。
 私も歳を取り、それなりの愛欲の罪に落ち、ゆえにカテリーナもグルーシェニカのような女性たちも蠱惑的に思えるようになった。女という存在は美しい。その美と魅惑にフョードル的な救いというかフョードル的な理性というか、そういうものを自分の中に覚える。読み返して私はフョードルがとても好きになった。
 リーズには恐怖と汚辱感を覚えた。以前読んだときは、自分を若いアリョーシャに重ねていたせいか、リーズに初恋のときめきや少女らしい心の動きを読み、思慕のようなものを感じていたが、今回はつくづく、こいつは悪魔だ、女というのは悪魔でもあり得ると思った。率直に言えば、アリョーシャも幾ばくかは悪魔だ。たぶん書かれなかった物語はそこに触れていくはずだったのだろう、ちょうどこの物語において兄イワンが幾ばくか悪魔であったように。
 終わり近く、リーズが悪魔を見るあたり、自分はそういうものを幻視したことはないが、ああそうだ、そんなふうに悪魔はいるのだと思ったし、イワンと悪魔の対話は、そうそう悪魔というのはこういうふうに語る存在だと自然に思った。そいつが50歳のこざっぱりとした男して現れるあたり、神様が私の人生を見透かしてこんな冗談を残したのかという狂気にも陥りそうだった。
 もちろん悪魔なんか実体的に存在するわけはない。今回読み返して、しみじみとドストエフスキーが徹頭徹尾奇跡も信じていないこともわかった。アリョーシャもまったく奇跡を信じていない。この小説は、奇跡など信仰にとって邪悪な迷いでしかないことを告げるための、なんというのか、世界と神の感触を解き明かしている。神もまた私たちが思うようには存在していない。
 悪魔といえば、訳者の示唆を受けている部分もあるのだが、スメルジャコフの父がフョードルではないことは、自然にすんなりと確信できた。では誰か? 江川卓の推理(参照)を亀山郁夫も踏まえているし、ここはあまり踏み込んで言ってはいけない領域なのだろうが、ええい、グリゴーリーなのだろう。
 そのことは私にとってこの物語の意味を決定的に変えることにもなる。苦笑されてもいいが、そのことがグリゴーリー証言に関わってるのではないか。もちろん、グリゴーリーが嘘をついたとまでは思えない。イザヤ・ベンダサンが「日本教について」(参照)で日本人には一人のグリゴーリーもいないと言ったように。
 ではなぜグリゴーリーはドアが開いていたのを見たのか(そう証言したのか)。悪魔(スメルジャコフ)もそれを知らない。物語は一見、グリゴーリーの錯誤に帰しているのだが、そうだろうか。ドストエフスキーはそこに何か深い謎――たぶん奇跡に関係する何か――をかけているのだろう。たぶん私はこの後の人生でそこが気掛かりになり続けるだろう。
 そういえば30代のころだったか、ゾシマがドミートリーに跪く謎が忽然とわかったことがあった。もちろん今回読み直してみれば、べたにわかることでもあるが、ドミートリーが無実の罪を負うこともだが(ドミートリーはイエスである)、神の恩寵がドミートリーを父親殺しから救い出していることだ。その意味でこの小説は実は奇跡を真正面から描いてもいる。父親殺しは、イエスに命じられたレギオンのように悪魔たちが実現している。その仕立ては福音書そのままである。
 この気の振れたエントリはもう終わりにするが、文学的な趣味を少し。今回「カラマーゾフの兄弟」を読み直して、漱石が晩年これを読んだのではないかと私は思えてならない。強い確信というほどではないが、「明暗」(参照)のポリフォミックな構成と倫理的な求心力と、どうしようもない馬鹿げた事件の趣味というのは、妙に似ている。それとイワンと悪魔の対話を読みながら、これは村上春樹そのままじゃないかとも思った。「羊を巡る冒険」(参照)から「海辺のカフカ」までべたに「カラマーゾフの兄弟」の影響がある。いや、「海辺のカフカ」(参照)はかなり「カラマーゾフの兄弟」と近い位置にあり、これはむしろ日本国外の読者のほうがわかりやすいことだろう。

亀山郁夫訳「カラマーゾフの兄弟」


  1. 「カラマーゾフの兄弟1 (光文社古典新訳文庫)」
  2. 「カラマーゾフの兄弟2(光文社古典新訳文庫)」
  3. 「 カラマーゾフの兄弟3(光文社古典新訳文庫)」
  4. 「カラマーゾフの兄弟4(光文社古典新訳文庫)」
  5. 「カラマーゾフの兄弟5 エピローグ別巻(光文社古典新訳文庫)」

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コメント

光文社古典新訳文庫には、最近の酷暑の午睡の度にお世話になっていますが(もちろん眠くなるといったことではないです、頭の切り替えに丁度いいということで)、
『カラマーゾフ』は「大冊」なこともあって…購入はしていたのですが、まだ手をつけていませんでした。
もったいないですね。

今回のエントリの内容には大変興味を覚えました。
コレを機に時間を取りたいと思います(因みに最近のドストエフスキー体験(再読含む)は、さんざ世話になっているというのに同文庫の『地下室の手記』ではなく、新潮文庫の『死の家の記録』です。不義理でごめんなさいね、光文社さん。加えて告白すれば、バタイユは、その後に購入しましたけど…最初は立ち読みで全部読んじゃったし。本当に申し訳ない)。

投稿: 夢応の鯉魚 | 2007.08.23 14:43

>旺文社文庫
 全然関係ない話で恐縮ですが、私は『徒然草』の旺文社文庫を父の本棚から拝借して鞄に入れ持ち歩いていました。が、ある雨の日、どろどろになってしまいました。教科書は日に干してしなしなですが回復し以降も使えたのですが、ノートと徒然草は粉々でした。こっそり買い直そうとして旺文社文庫が本屋に皆無だったことを覚えています。

投稿: mori-tahyoue | 2007.08.23 17:39

ふ~ん、40代50代で読み直せか、読み直してみようかな。

投稿: うみおくれクラブ・ゆみ | 2007.08.23 19:06

光文社古典新訳文庫、意欲的なシリーズですね。
全くの偶然ですが、この「カラマーゾフの兄弟」昨日全巻注文したばかりです。新訳を読んでみたかった「自由論」も確認を兼ねて加えました。旧来のは人に推薦する際に気を遣う必要があるので、その付近が楽になるといいのですが。

投稿: カワセミ | 2007.08.24 02:37

いつも読ませてもらってます。
そう、私も40超えてのカラマーゾフ再読は効きましたね。
こんなにフョードルに親近感を覚えるなんて若い頃は思いもよりませんでした。登場する女性たちのうち、リーズ危なえって感じるのもおっしゃるとおり。「明暗」は小林がまさにド氏の世界の人ですね(まだこの作品は読みきった、という感じはしない)。旺文社文庫はたしか注が各頁にあってわずらわしくて避けてました。渋江抽斎なんてここにしかありませんでしたよね。

投稿: richmond | 2007.08.24 05:26

はじめまして。
「明暗」には確かにドストエフスキーを連想させる感じがありますね。前の方も仰ってますが小林の悪魔憑きのような冗舌、それから小林に限らず登場人物たちの声が膨らみ上がってせめぎ合い、小説が充実していくような構成などですね。
漱石の「思ひ出すことなど」には、修善寺で臨死の体験をした後ドストエフスキーを思い返したという文章があって、晩年の強い関心が窺えます。
「運命の擒縦を感ずる点において、ドストイェフスキーと余とは、ほとんど詩と散文ほどの相違がある。
 それにもかかわらず、余はしばしばドストイェフスキーを想像してやまなかった。そうして寒い空と、新らしい刑壇と、刑壇の上に立つ彼の姿と、襯衣一枚で顫えている彼の姿とを、根気よく描き去り描き来ってやまなかった。」
その後「明暗」を書いたとき漱石がどのくらいドストエフスキーを想像したか、これは興味の尽きない問題だと思います。

投稿: inoue | 2007.08.30 16:35

興味深いエントリーでした。ありがとうございます。
私もこの小説が大好きです。年齢を重ねるごとに理解が深まるというのは、実感がこもっていて、勉強になりました。

投稿: イタ研 | 2007.09.02 11:17

亀山訳の検索で来ました。
いま33歳ですが、カラマーゾフ、読んでみようと思います。

投稿: べる | 2007.12.07 21:25

以前、このブログを訪ね、書評を読ませていただいたことがありましたが、今日、改めて熟読し、感動し、書き込みをせざるを得なくなりました。死ぬほどの思いでがんばった翻訳でしたから、こうしてそれをしっかりと受け止めてくれる読者がいることが救いです。ありがとうございます。

投稿: ikuo kameyama | 2007.12.29 17:50

finalventさん、こんにちは。

『カラマーゾフの兄弟』読みました。
TBさせていただきます、宜しくお願い致します。

投稿: 江嵜慶 | 2008.01.15 00:44

「カラマーゾフの兄弟」夢中で読み終えました。19世紀のロシアで起こった父親を殺害する事件。21世紀の日本でも頻繁に起きている事件。世の中の大問題となっている。そして来年は裁判員制度が始まる。人を裁くとはどういうことか。そして神とは何か。本当にいろんなことを考えさせられた物語でした。亀山さん、これからいろんなこと教えてください。

投稿: 西の魔女 | 2008.06.22 21:28

新訳『カラマーゾフの兄弟』は、専門家によって膨大な誤訳を指摘され、週刊新潮08/5/22号の記事にもなっていますね。    http://www.ne.jp/asahi/dost/jds/dost125.htm
誤訳・不適切訳は、検証された第1巻だけで100ヶ所以上、全巻では数百ヶ所に上る模様。実際、これを受けて、訳者・出版社は第1巻の40ヶ所余りを増刷20・22刷で訂正しています。ただし、そのことは明記も公表もされていません。また、上記週刊新潮で訳者は、この訂正について、「ケアレスミスが10ヶ所程度、他は解釈の違い」として、大量誤訳の事実を否認しておられ、従って、第1巻の残り、そして、第2巻以降の膨大な誤訳はいまだにそのままの状態で増刷され続けています。
検証サイトを見て驚くのは、誤訳の多くが実際には「解釈」以前のレベルのものであるということです。脱落も含めて、出版前に原文ともう一度照合していれば防げたはずの初歩的誤りが余りに多いのです。事実、その大半は先行訳では正しく訳されています。つまり、先行訳との照合も行われていないということです。
「読みやすさ」を実現するために並大抵でない努力を払われたことは、間違いないでしょう。また、それによってドストエフスキーの面白さを広く世に伝えたのも訳者の功績です。しかし、裏腹に、翻訳の基礎が疎かになってしまっていたのもまた事実です。
他人の指摘で第1巻だけであれほどの訂正が生じたからには、自ら全巻を徹底的にチェックし直し、できるだけ早く全面改訂版を出されるべきではないでしょうか。残念ながら、現行版ではテクストを信頼しかねます。改訂によって、面白さに加えて、再読の際に細部の読みを深めることもできる翻訳となることを期待しています。これは古典の楽しみの一つでもあります。
以上の事柄はまだ広く知られていないようですので、考えて頂く材料になるかとも思い、当ブログのコメント欄に投稿させていただきました。

投稿: ドストファン | 2008.07.22 23:09

アリョーシャに自分を重ねてきたと言う言葉が特に目にとまりました。私自身21で初めてカラマーゾフを読みました。何を隠そうそれは今年なのですが。とにかく私もアリョーシャという登場人物が、ドストエフスキーがアリョーシャという人間を書き出したことが衝撃でした。率直に言うとアリョーシャの生き方こそが今自分の生きている上で感じている苦悩(若僧のくせに苦悩なんて生意気なのはお許しください!)を解決する唯一の道のように感ぜられ苦しくなったら未だにアリョーシャアリョーシャと一人で呟く程です。
あなたのようにこの先もカラマーゾフと言う小説のこの呪い(あなたは呪いともおっしいましたが確かにそうですね!)にかかり続けるのでしょうかね!
とここまであなたの記事の率直なカラマーゾフ熱と風邪による発熱で頭が煮え滾る中ここまで書いてしまいましたが、あ、あと一つ私は丁度漱石の明暗を今半ばまで読み進めたところです。漱石はずっと好きで、明暗だけは楽しみに読まずにとっておこうと(好きな作家の作品で読んだことのないものがないという状況は悲しいですから)決心してからはや2年ほど、ドストエフスキー熱が発生した近頃になってふと今読もうと思い立ったのでありますがなんと言う偶然か小林と言うドストエフスキー的な人物が出てくるわ、ドストエフスキー的な緊迫した心理描写(漱石のはより間接的ですが)があるではありませんか!驚きました。
ここまで数年前のこの記事に書いたこのコメントが、誰に読まれるとも思っておらず自分と神に向かって書いたようなものでネットの匿名世界で無邪気に広げたこのドストエフスキーごっこのような熱病気患者の駄文をお許しください。ここいらで眠りに着かなければ更に熱が上がってしまいそうなので!


投稿: 大学生 | 2015.06.13 05:16

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受信: 2007.10.03 01:12

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