« ジョー・オダネル(Joe O'Donnell)のこと | トップページ | [書評]カラマーゾフの兄弟(亀山郁夫訳) »

2007.08.22

住居は賃貸か購入かというネタからさらに与太話

 雑ネタ。というか、雑にしか書けないのだが、古典的なアポリア、つまり「住居は賃貸か購入か」という話。先日、はてなダイアリー「不動産屋のラノベ読み - 『賃貸よりも、実は買ったほうがトク!』を批判してみる」のコメント欄(参照)を見かけて読むと面白かった。いろいろなかたがいろいろ損得計算をされていた。たぶん、ネットを見渡せば、いろいろな意見があるのだろう。ということは、この問題は、ディフィニティブな結論はなく、ある状況下でそれなりの理屈が成立し、その理屈を楽しむといった類の議論だろう。おそらく誰もがベットしている点で話題にもなりやすいのだろう。ブログのネタ的じゃん。
 その議論を読んでいて、でも、私はちょっと違ったことを考えていた。実家や親戚の今の住居のことだ。簡単に言うと、子供がいなくなった「マイホーム」。
 昭和30年代から40年代、あるいは50年代もそうだろうか。男は正規雇用で働き、主婦は家と子供を守る。家計をやりくしてマイホームを持つ、そういうライフスタイルがあったのだが、いずれ子供は家を出て、あとは老夫婦がマイホームに残った。子供と暮らすには狭い家だったのだが、老夫婦には手持ち無沙汰な風情となりかつての子供部屋は顧みられることのない倉庫の一室となる。そんな家が多くなったなと、実家の街を訪れると思う。老夫婦だけだろうと思われる家を通り過ぎながら、この人達は子供が巣立ったあとの住居を考えていたのだろうかと思う。わからない。実際に中に入る機会があって見渡すと、かつて家族だった記憶のようなものがべっとりと家の臭いのように染みついて圧倒される。それが老人たちの夢でもあるような。
 子供がいなくなったら、そういうマイホームは要らないではないだろうか。そうすると、マイホームみたいな家が必要なのは長くても25年間くらいか。私の世代(昭和32年生まれ)だとモデル的には25歳で結婚。すると50歳で子供がいなくなる。というところで自分が50歳という歳であるのに気がついて唖然とし、「モデル的には」なんて言えないなと思う。現実的には、子供がいて賃貸というのは公務員宿舎みたいのでないと無理なのではないか。だからマイホームが夢というか。どうなのだろう。
 通称パラサイト(30歳過ぎて親と同居)というのがあるのも、マイホームがあるからなのではないか。父母いてマイホームがあるというお子様の状態が延々とカンファタブルに続いている。というとき、その根にあるのは、やはりマイホームという呪いか。結婚しない30代40代はマイホームに呪われている? まさかね。
 マイホームの呪いといえば、離婚した知人の苦労譚を聞いたことがある。書かない。よくある典型的な悲惨な話にしかならないからだ。が、呪いという感じはした。マイホームというのは一生の買い物というが、離婚というのはその最大の危機になるのか。いや最大は子供か。
 とたわいなく考えていて思ったのは、住居というのはライフサイクルに依存するものなのだろうが、そういうライフサイクル、若くして伴侶を見つけ子供を産んで巣立たせ年老いていく、そういう人生の規範みたいなものがなくなってしまったのだろう。そして、ライフサイクルの消失に随伴的に起きるのが、各種の社会問題なのではないか。住居は賃貸か購入かというのもそうした派生に過ぎず、金銭的な議論はたとえば離婚リスク、あるいは生涯未婚リスクでかなり確実に不確実にしか議論でないものではないか。
 話がだらけてしまうが、このところミルトン・エリクソン関係の本を読んで、特に「アンコモンセラピー―ミルトン・エリクソンのひらいた世界」(参照)に顕著なのだが、各種の心理的な問題は、ライフサイクルの危機として説明できるのかもしれない。もっとも、ミルトンの思想をそう見るべきかは異論は多そうだし、ミルトンを読み直したのはどうもNLP的なバイアスで彼を私は基本的に誤解していたなという反省があった。
 同書でもそうだが、ミルトンは人の生き様のなかに、ちょっとユング的な言い方になるが、ライフサイクルへの元型のようなものをさっと見取っていることある。ミルトンの時代と場所によるのだろうが、あの時代の米国で「結婚できない」という悩みは基本的に女性に表れるもののようで、そうした事例があるのだが、ミルトンは、なんというのか、お節介ばあさんよろしく、彼女たちが結婚するように「介入」していく。事例を読みながらこれって今のはてな世代の非モテ論の人が読んだら、論破しまくるとか、あるいはちょいフェミなお姉さんが「( ゚д゚) 、ペッ!」しまくるんじゃないかと思った。
 が、ミルトンの直感を支える何かは正しいように私には思えた。それは、ライフスタイルにはある種の規範、あるいは、心理的な問題をスタビライズする基底的な構造があるのではないか。いや、そう思う私の感性がミルトンのように古い世代なのか。
 現代の言説では、ライフサイクルというのは経済学的なモデルとしては出てくるが、個人の生き方には問われない。個人には生き方の尊重なり主体があってライフサイクルを選択することになっている。もっとも、その個人といいながら、あるいは恋愛にカモフラージュされているが他者や子供の関係というのが必然的に含まれている。でも、そこは言わないお約束。
 私のような世代はどこかにライフサイクルの規範の意識を薄ら持ちながらも、私より上の世代がマイホームの呪縛に固まったように、きれいな形で倫理的なり道徳的にはなりえないだろう。なにより、言説としてはもはやそんなものはあり得ない。生む生まないも個人の自由ですよはいはいということなり、アプリオリに議論は終わっている。
 そうそう議論は最初から終わっているのだったな。

|

« ジョー・オダネル(Joe O'Donnell)のこと | トップページ | [書評]カラマーゾフの兄弟(亀山郁夫訳) »

「雑記」カテゴリの記事

コメント

ま根無し草は賃貸の方がリスクは小さいだろうけど
その土地に根を下ろすなら購入も選択肢に入ってくるねとそういう話
根無し草が増えたのはマイホームの呪いなのかは知らん

投稿: @@@ | 2007.08.22 11:01

ブログ名称に誤字

×「動産屋のラノベ読み
○「不動産屋のラノベ読み

投稿: Blue-Period | 2007.08.22 11:59

毎度、楽しく拝見させていただいてます。

子供がいなくなりその記憶だけがべっとりと付着した「マイホーム」、そしてそれらが堆積した地域をどうするのか、建築界でも問題になっています。
http://www.japan-architect.co.jp/daiwa/index.html

finalventさんは世代を超えて持続可能な建築形態、思想だけではなく身体を伴った記憶の継承が可能な社会システムについてどのようなお考えをお持ちですか?

私は20代なのですが、他の世代との断絶をものすごく感じるんですよね。生きてみた感覚みたいなものが継承される地盤がないというか、生きる根っこの部分での師匠不在というか。

投稿: liez | 2007.08.22 16:12

liezさん、こんにちは。とても貴重なコメントを戴いたと思いました。と言いつつ、liezさんのご指摘から逸れているのかもしれないのですが、私たちは、地域、地方、コミュニティといいながら、そこで数世代にわたる生活をしていないのですよ。もちろん、それはゼロか100かということではなく、ある種の地域感覚や故郷感覚は持ちます。しかし、なにかが違ってますね。この問題は、別途、エントリをあらためて書くかもしれません。ちょっと踏み込んで言うと、老人と赤ん坊のいない地域など作ってはならないのだという思いがあります。

投稿: finalvent | 2007.08.22 17:09

おはようございます。

そうですね。私もそう思います。

私は大学では建築を専攻しておりその時の卒業制作(公共の場ー記憶の劇場みたいなことをやっていました)でその辺についていろいろ考える機会があったのですが(そしてそれはいまだに未消化なのですが、、、)その時の感触からは今の資本主義を前提として考えなくてはいけない限り人間も大地も疎外され続けるのではないか、一見無価値なものとの関係を前提とした世界を理解できない限りは(何によって自身の魂が成り立ているのか自覚できないうちは、というかそれって変に自覚しても引き込もりたくなってしまうだけですが)老人や赤ん坊は見えない影としてしか存在できないのではないか、という感じをうけます。

以下よくわからずにいうのですが、私は日本という地域はそこに生きるヒトの経験の総体によって世界を理解し、そしてそれらの塊が勝手に社会を形成しバランスする、その事に特化して形成されてきたと勝手に理解しています。そしてそれが現在(戦後)に適応するってことは、逆に世界が先にあって見たい世界を見ている者どうしが集まって社会を形成しそこにプールされた経験により世界を限定するってことなんじゃないか、誰もが何かを自分を生きる為の物語の依り代とし、そしてそれは時代に大きく影響され、それぞれを時代から、「生活」からさえ切り離してゆく。そしてその時個が世界を限定する依り代を身体に近しい場所にみつけられなければ一生孤独を背負うような構造になっている、そんな風に思います。

マクロとしては大きな「価値」のために、だがミクロでは小さく近しい「価値」を隣人と分かち合える場、それって社会主義?ですが、そのような生活を前提とした地域の成長ができる場をもてない今の状況では、根ざす大地も文化(という名の誤解さえ)もない日本がすぐそこにあるような気がしてなりません。

投稿: liez | 2007.08.23 05:08

住居は賃貸か購入かというネタは
なんとなく終身雇用か否かということと似ている
それぞれ一長一短ありましょうが
現実には制度が大きく選択をゆがめていると
もちろん制度で不利になっているのはマイナーなほう、
悪い意味で多数決原理が機能しているのかも

投稿: solidarnosc | 2007.08.26 19:04

「再帰的憧憬としてのインフラ」とでも云ったらいいのでしょうか?

先日、父が養護施設に入ってしまった隣人のお婆さんから、機械置き場として建屋とその周辺の土地を買ったのですが、
ウチの畑の際と接していたので、家の周りに生えていた10メートルほどの杉並木を切ってしまいました。
お婆さんとは小さい頃に遊んだ記憶もあり、私は中々割り切りがたい思いがしたものでしたが、父の方は割とあっけらかんとしていて、スイスイと丸鋸を入れていました。
曰く、世によく聞くような「仕方が無い」との一言でしたが、
確かに農機の旋回時の障害になっていた(収穫の面積に若干の差もある)とはいえ、その態度に、「寂しくないのだろうか?」と、正直呑み込めないものを感じました。
父も50代なのですが、この年代の郷愁はそれほど強くないものなのでしょうか? (一般化は無論のこと)「そんなことは無いだろう」と思うのですが。

投稿: 夢応の鯉魚 | 2007.08.26 20:57

「再帰的憧憬としてのインフラ」というのはなんとなくわかります。
先日実家に帰った時ものすごい違和感に襲われたんですよね。「ここはどこ?」と思ってしまうぐらいに何かが違う。で、立ち止まってよく見てみると柿の木が一本無い。祖母に聞くと猫が屋根に登ってうるさいから、と。
その時は私も正直呑み込めないものを感じました。というか怖ささえ感じました。
祖母達にとって自身を規定する、思い出を想起させる風景というものはTVの中の「いつか皆で見た夢」達の中にしかないのかもしれません。自身で造る風景にはとんと無頓着なのですから。
そして私の感じた恐怖はそれへの反動でもあるのでしょう。記憶というのは対象との関係の中にあり、絶えず自身と世界との関係を問うていく中で私を繋ぎ止めるものですが、対象である風景が絶えず変化し価値も意味も変わっていく時代の中で生きてきた私にとって共にあった風景というのは自分と繋がる為に必要不可欠な場であり、私というものはその前提なしに在れないのだという感覚があります。そしてそれは此処がある限り何処へ行っても生きていけるだろうという気にさせてくれるものでもあります。

投稿: liez | 2007.08.27 04:15

liezさん、こんにちは。
岩波書店で1996年に刊行されたアンソロジー『世界文学のフロンティア〈4〉ノスタルジア 』の序章として、四方田犬彦さんがノスタルジア(ユートピア)論を書いているんですけど、
これは文学ではありますが、結構liezさんの課題に適当な示唆が見られると思います。参考までに引用すると、liezさんも共感してくれた風景の喪失については、

「ノスタルジアに憑かれた人が欲するものは、彼の青春の場所ではなくて、青春そのものであり、彼の幼年時代なのである」

というジャン・スタロバンスキーの言葉が、

また、「TVの中の「いつか皆で見た夢」達の中にしかない」という指摘には、スーザン・スチュワートのエリザベス朝後期の英国庭園(箱庭趣味)の心理を評した以下の言葉が、その将来を暗示する興味深いものとして映ると思います。

「対象を持たぬ悲しみ、実体験に関わっていないために、必ずや真性のものとはなりえない憧れを作り出す悲しみ」

宜しければ、ご一読ください(図書館にあると思うんです、私も田舎の図書館で読んだので)。

投稿: 夢応の鯉魚 | 2007.08.27 12:30

夢応の鯉魚さん、どうも。

参考にさせていただきます。ありがとう。

しかし「ノスタルジア」に関しては幼年時代を欲する理由が青春の感覚を得る為という訳というより、感覚の自由を得る為、見定める為という感じがあります。ゲド戦記風に言うと「真の名前」を知る為とでもいいますか。そしてそれを知るにはその足場は小さすぎる。
(最近「世界系」と呼ばれる作品群がありますが、たぶん私と同じような挫折感から生まれたのでしょうね)

ずれたことを言いますが、「いつか皆で見た夢」達へのその言葉は日本人にとっての戦争そのものと感じてしまいます。その時代の記憶は、戦った記憶というより貧しさに蹂躙された記憶としてしか伝わってきません。焼夷弾での生きてきた住まいの記憶の抹消も、貧しさの記憶しか残さない為の印象操作の類いだったのかもしれません。残るのは生きる為にせざるをえなかった発展が、植え付けられた憧れにより喜びとしてあり、それが幸せであったという時代の記憶だけ。つまりその上に生きざるをえない、歴史から切り離された者が至る心理への言葉と思えるのです。

大地や記憶とどう生きるかへの答えは、たぶんもうどこにもないのでしょうね。ですが個人では何かを選ばなくてはならない。何を考えどう生きようが関係なく、ただ自身で納得できたかどうかだけを問われるのですから。故に拠り所を探してしまいます。それぞれに、他人に知られないように自分だけのそれを(それを知られる事は首根っこ捕まえられるに等しい)。それへの不安が根底にあり私にコメントを書かせたのでしょう。

偉そうなことばかり書き散らしてしまいました。すいません。

投稿: liez | 2007.08.27 19:36

liezさん、どうも。

果たして適当な指摘か自信をもてないのですが、まあ参考までに。

>しかし「ノスタルジア」に関しては幼年時代を欲する理由が青春の感覚を得る為という訳というより、感覚の自由を得る為、見定める為という感じがあります。

この感覚は正しいと思います。ここで云う「青春」は、いわゆる「再現」のことを顕しているのではないでしょう。
「真の名前」という言葉に象徴されるように、要は「違和感に対して(違和感側から)遡及される原型」ですから、概ね再現というほどの実体性は、問い掛けて常に怪しいものがありますし。

ノスタルジアは、その「違和感だけを支えとした審美的立居地が訴えるものが、果たしてアリバイでないと云えるだろうか?」という感じの捏造の魔問題を抱えていますが、そこが不安の根底なんでしょうね。
一つ共感によって試される当てが、今日日少ないもの。
何というか、距離がステータスみたいな状況は、やっぱ不幸ですよね。

投稿: 夢応の鯉魚 | 2007.08.27 22:30

夢応の鯉魚さん、どうも。

そうですね。誇張すると、「価値」の奴隷になるしかない、それがなければ自分と他人を隔てることも繋げることもできないという状況がありますね。そこには自身の一部を集合的無意識(価値の自動演算機能付き)に乗っ取られているかのような虚脱感があり、自身の生きる物語への絶え間ない懐疑、そしてそのような状態では絶対的な幸福にはきっと辿り着けないのだろうという絶望感や諦めがあるように思います。
そして、大地でさえ売り物な世の中で平等に与えられ共感を導くものってコンビニとtvと四季と祭り、後学生時代ぐらいなのかも。そしてそれらすべて既視感を伴い、「ノスタルジア」の捏造も起こりやすい。
逃げ場なし、って感じですね。

それをどう乗り越えるか、それはマルチチュードなのか、「モダン」の超克なのか私にはわかりませんが、建築を学んできたものとしては現在の都市生活空間が規定する身体感覚、そこにしみ込む記憶がどうヒトと世界を繋いでいるのかを湛然に感覚し、それを皆に伝え、場の力とそこにいる自分との関係、互いの補完への感覚からそれぞれが自覚的に場やヒトと関係を結び深め、未来への選択をしていけるようになるよう手助けできるようにならねばな、とは思います。
それって社会や文化生成のスタート地点に立つ、ってだけのことですが。

投稿: liez | 2007.08.28 09:09

liezさん、どうも。

昨年『太陽』を日本で上映したロシアの映像作家アレクセイ・ソークロフ氏の『エルミタージュ幻想』も、オススメですよ。

投稿: 夢応の鯉魚 | 2007.08.28 10:49

夢応の鯉魚さん、どうも。

良さそうですね。アマゾンの評みてみたのですがそれぞれに違う印象をもっている、というのに惹かれますね。探してみます。

投稿: liez | 2007.08.29 01:20

初めてコメントします:
小生,札幌冬季オリンピックの後の真駒内駅前の分譲団地を購入し,上の子は近くの真駒内緑小に通いました.その後,転勤があり,住宅は無事に処分できましたが,真駒内とは基本的に縁がなくなりました.転勤先で住宅を新たに求めるかどうかは大分考えましたが,結局,購入し,今は,夫婦だけで住んでいます.
ところで,持ち家制度が推進されたのは,社会政策上の要請であり,他方,良質な貸家が発達しなかったのも,借家法などに見る,これも社会政策上の理由があったからだと思います.
結果は,どうだったか.先年真駒内地区に行く機会があり,駅周辺の過疎化の進行に驚きました.小学校を含む社会的なインフラは変質しており,若い人たちは,今は奥地に住んでいますが,冬は特に大変だろうし,せっかくの地下鉄が生きているとは言えますまい.かつて子供たちを連れて,よく散歩した駅裏の桜山も荒れていました.
本当は,「良質の借家」の方が単なる「持ち家」よりも社会的には重要なのだろうと感じています.

投稿: matheux-naif | 2007.09.01 13:34

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 住居は賃貸か購入かというネタからさらに与太話:

» [経済] 子供が自立した後の持ち家をどうするか [CROOK]
子供がいなくなったら、そういうマイホームは要らないではないだろうか。そうすると、マイホームみたいな家が必要なのは長くても25年間くらいか。 極東ブログ: 住居は賃貸か購入かというネタからさらに与太話 3LDKとか4LDKとかって子供がいなくなった後では広過ぎるよね。... [続きを読む]

受信: 2007.08.22 14:21

« ジョー・オダネル(Joe O'Donnell)のこと | トップページ | [書評]カラマーゾフの兄弟(亀山郁夫訳) »